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2008/09/09のBlog
[ 10:17 ]
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日本には古来、農耕を守護する水分神が籠もる聖地を崇拝する信仰があり、その山岳信仰が仏教や神道、道教などと混ざり合いながら、修験道になっていったと考えれていますが、そうだとしたら、この水分神社は吉野にとって最も古い中心地だったのかも知れません。
一行はこの後、荷物を預かってもらっていた民宿まで戻り、解散し、おのおの家路につきました。2日間ご苦労様でした。
一行はこの後、荷物を預かってもらっていた民宿まで戻り、解散し、おのおの家路につきました。2日間ご苦労様でした。
2008/09/08のBlog
[ 12:22 ]
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金峯神社を後にして、修行門を通り出たところに、修行を達成した時に建てる記念碑がいつくか見ることができます。
大きな石を運んできて建てるわけだから大変です。ここならまだ車で運べますが、なかにはもっと奥に建てる人もいるようです。
大きな石を運んできて建てるわけだから大変です。ここならまだ車で運べますが、なかにはもっと奥に建てる人もいるようです。
その後は、高城山の展望台へ。ここで昼食です。弁当屋さんに注文して、朝、民宿に届けてもらっていたお弁当を展望台で食べました。
この高城山からは吉野川が望め、吉野町の上市から下市まで見渡せます。
この吉野川には、日本における最も重要な地質構造線である中央構造線が走っています。ようするに大断層です。北側を内帯、南側を外帯と呼び、両者は地質構造、そしてその発達史も全く異なっています。現在、私たちは北に吉野川を望んでいますので、南の外帯にいることになります。この地質構造の違いで、外帯の方の山が険しくなり、したがって、この自然環境が吉野から熊野を修験道の修行の場とならしめたことになります。
この高城山からは吉野川が望め、吉野町の上市から下市まで見渡せます。
この吉野川には、日本における最も重要な地質構造線である中央構造線が走っています。ようするに大断層です。北側を内帯、南側を外帯と呼び、両者は地質構造、そしてその発達史も全く異なっています。現在、私たちは北に吉野川を望んでいますので、南の外帯にいることになります。この地質構造の違いで、外帯の方の山が険しくなり、したがって、この自然環境が吉野から熊野を修験道の修行の場とならしめたことになります。
昼食中の雨もちょうど上がった頃、再びフィールドワークに出発しました。
まず訪れたのは、重要文化財の吉野水分神社です。水分と書いて「みくまり」と読みます。水分は水配(みずくばり)の意味だと考えられています。水分神とは古代の水神の名で、この吉野水分神社は古くからあり、『続日本紀』(797年)や『延喜式』(927年)にも出てきます。
日本各地の水分神社の立地を地形的に見ると、分水嶺か水源にあることが多く、この吉野水分神社は吉野川の水源と考えられていますが、池田さんは、かつてもう少し南の分水嶺に神社があった可能性があるとおっしゃっていました。
まず訪れたのは、重要文化財の吉野水分神社です。水分と書いて「みくまり」と読みます。水分は水配(みずくばり)の意味だと考えられています。水分神とは古代の水神の名で、この吉野水分神社は古くからあり、『続日本紀』(797年)や『延喜式』(927年)にも出てきます。
日本各地の水分神社の立地を地形的に見ると、分水嶺か水源にあることが多く、この吉野水分神社は吉野川の水源と考えられていますが、池田さんは、かつてもう少し南の分水嶺に神社があった可能性があるとおっしゃっていました。
この水分神はかなり古くからの信仰と考えられ、大和に稲作が始まった頃からではないかとも考えられています。
雨乞いや、稲の豊作祈願の性格が強く、この吉野水分神社でも4月3日に御田植祭が行われます。写真はその御田植祭の祭壇です。
雨乞いや、稲の豊作祈願の性格が強く、この吉野水分神社でも4月3日に御田植祭が行われます。写真はその御田植祭の祭壇です。
2008/09/06のBlog
[ 11:24 ]
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吉野フィールドワーク第2日目は、7:30に朝食。
9:00に集合で民宿のマイクロバスとワンボックスカーの2台に分乗して、まずは奥千本口まで送ってもらい、そこからはすべて徒歩でフィールドへ出ます。
最初は義経隠れ塔を見学。源義経が弁慶らと隠れたとされる場所です。
9:00に集合で民宿のマイクロバスとワンボックスカーの2台に分乗して、まずは奥千本口まで送ってもらい、そこからはすべて徒歩でフィールドへ出ます。
最初は義経隠れ塔を見学。源義経が弁慶らと隠れたとされる場所です。
さらに険しい山道を歩いて西行庵に向かいます。ここで西行が3年間過ごしたとされていますが、歴史学の視点から見ると、史実かどうかは怪しいようです。
ただ民俗学の視点から見るのであれば、吉野の人たちが、西行がここで修行したのだ、と伝承しているのですから、なぜ彼らがそのように主張しなければならなかったのか、というその意図を探ることになります。この辺りが、同じ私たちの過去を研究する分野でも、歴史学と民俗学の違いになるわけです。歴史民俗学はそのことを踏まえた上で、私たちの過去を総合的に研究する分野です。
ただ民俗学の視点から見るのであれば、吉野の人たちが、西行がここで修行したのだ、と伝承しているのですから、なぜ彼らがそのように主張しなければならなかったのか、というその意図を探ることになります。この辺りが、同じ私たちの過去を研究する分野でも、歴史学と民俗学の違いになるわけです。歴史民俗学はそのことを踏まえた上で、私たちの過去を総合的に研究する分野です。
その後、金峯神社に向かいました。
修験道は、日本古来の山岳信仰が、神道や仏教、道教などと混合しながら発展し、平安時代後期に一つの宗教形態となりました。
ところが明治になって神仏分離令が出され、もともと神仏が習合していた神社と寺院が切り離されました。
そして、その影響を受けて廃仏毀釈運動が起こり、全国的に仏教が否定され、多くの寺院や仏像などが焼却、破壊されました。
写真は安禅寺の蔵王堂があった場所ですが、今は何もありません。
修験道は、日本古来の山岳信仰が、神道や仏教、道教などと混合しながら発展し、平安時代後期に一つの宗教形態となりました。
ところが明治になって神仏分離令が出され、もともと神仏が習合していた神社と寺院が切り離されました。
そして、その影響を受けて廃仏毀釈運動が起こり、全国的に仏教が否定され、多くの寺院や仏像などが焼却、破壊されました。
写真は安禅寺の蔵王堂があった場所ですが、今は何もありません。
2008/09/05のBlog
[ 12:28 ]
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14:00~15:00まで吉野の歴史、儀礼、修験道の講演があって、15:00~17:00まで3班に分かれて聞き取り調査をした後、一時間の準備時間をおいて、18:00から各班の聞き取りの成果の発表がありました。
まず第1班の吉野の歴史班は、聞き取りをした学生全員が前に出て、一人ずつ発表を行いました。フィールドを行った後の発表は、1回生にとってもうすでに3回目です。最初は4月の亀岡城下町フィールドワーク、2回目は7月のフィールドワーク報告会とレポート提出(これは5月~7月の間に5人の教員がそれぞれ行ったフィールドワークに、それぞれ学生が参加した成果の発表)。ずいぶんと馴れてきたように思います。
2008/09/04のBlog
[ 16:26 ]
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9月1~2日に歴史民俗学専攻1回生の吉野フィールドワークが行われました。教員は5名全員が参加。1回生は21名参加。吉野の奥駆けを卒論テーマにしている4回生が1人参加。3回生2人参加で、総勢29名で一泊二日の奈良県吉野町へフィールドワークに行きました。
吉野という場所は、歴史学にとっても民俗学にとっても大変重要な場所です。歴史学においては、日本の歴史の節目節目に、この吉野が登場します。天武天皇が壬申の乱で大友皇子を破り、飛鳥浄御原宮で即位する直前まで、吉野に隠っていたし、あの義経が頼朝に追われて隠れたのもこの吉野です。さらに、後醍醐天皇が足利尊氏と対立して南朝を置いたのもこの吉野です。また幕末にも天誅組の変が起こっています。
民俗学の視点から見ると、修験道という日本古来の山岳宗教の拠点が吉野になりますから、日本の民俗宗教を考える上で重要な場所ということになります。ということは当然の事ながら、日本人の過去の地理的行動を研究する歴史地理学や、日本の過去の、宗教をはじめとする文化を研究する歴史人類学にとっても、大変重要な場所ということになります。
吉野という場所は、歴史学にとっても民俗学にとっても大変重要な場所です。歴史学においては、日本の歴史の節目節目に、この吉野が登場します。天武天皇が壬申の乱で大友皇子を破り、飛鳥浄御原宮で即位する直前まで、吉野に隠っていたし、あの義経が頼朝に追われて隠れたのもこの吉野です。さらに、後醍醐天皇が足利尊氏と対立して南朝を置いたのもこの吉野です。また幕末にも天誅組の変が起こっています。
民俗学の視点から見ると、修験道という日本古来の山岳宗教の拠点が吉野になりますから、日本の民俗宗教を考える上で重要な場所ということになります。ということは当然の事ながら、日本人の過去の地理的行動を研究する歴史地理学や、日本の過去の、宗教をはじめとする文化を研究する歴史人類学にとっても、大変重要な場所ということになります。
私たちは、13:00に修験道の総本山である金峯山寺の蔵王堂(写真)に集合しました。そこで学生たちは各自、拝観し、14:00には本日の宿ともなる民宿に集合し、そこで三人の地元の方々に、吉野の歴史、修験道の儀礼である蓮華会、そして修験道の奥駆修行について講演して頂きました(写真)。
そして講演が終了すると、それぞれ歴史班、蓮華会班、奥駆班の三班に分かれて、聞き取り調査を行いました。
歴史班には歴史学を専門とする吉村亨先生を中心に、7名の1回生が郷土史家の桐井さんからお話を伺いました。それによると吉野は古くから様々な文献に登場することが分かります。『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『懐風藻』『万葉集』『吾妻鏡』『義経記』『太平記』『新葉和歌集』『古今和歌集』『新古今和歌集』『山家集』などなどが挙げられました。
歴史班には歴史学を専門とする吉村亨先生を中心に、7名の1回生が郷土史家の桐井さんからお話を伺いました。それによると吉野は古くから様々な文献に登場することが分かります。『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『懐風藻』『万葉集』『吾妻鏡』『義経記』『太平記』『新葉和歌集』『古今和歌集』『新古今和歌集』『山家集』などなどが挙げられました。
蓮華会班では、役行者が開基した寺、東南院の五條さんから蓮華会のDVDを見ながら解説をしていただきました。この班には民俗芸能論を専門とする青盛透先生を中心に、3回生2名、1回生5名が聞き取りを行いました。特に、この蓮華会という儀礼のなかで行われる、山伏の験競べの蛙飛修法について質問がなされました。
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