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2007/06/18のBlog
[ 20:02 ]
[ ◆健康・ガン友 ]
ここ1,2日はがん友がいろいろなマスメディアに取り上げられる毎日でした。
まず最初は、もうこの業界では有名なメッセンジャー、そう、TAKA変酋長が発信している『命はしぶといマガジン』
その表紙は、第1回のRFLの司会をしてくださったミーミさん。ヲォ、どこのアイドルが人力車に乗っているのかと思いましたよ!!
人力車を引っ張っているのは息子の虎太郎くん。こんどCDデビューだそうで、きっと第2回RFLで販売されると思います。
このあとには第2回RFLの総合コーディネーター、おーちゃんが語る第2回RFLの記事もあります。
さぁ、書店へ急げ!書店で見つからない場合は、出版社に直接問い合わせてGet!!しましょう。
http://www.taka-messenger.comです。
まず最初は、もうこの業界では有名なメッセンジャー、そう、TAKA変酋長が発信している『命はしぶといマガジン』
その表紙は、第1回のRFLの司会をしてくださったミーミさん。ヲォ、どこのアイドルが人力車に乗っているのかと思いましたよ!!
人力車を引っ張っているのは息子の虎太郎くん。こんどCDデビューだそうで、きっと第2回RFLで販売されると思います。
このあとには第2回RFLの総合コーディネーター、おーちゃんが語る第2回RFLの記事もあります。
さぁ、書店へ急げ!書店で見つからない場合は、出版社に直接問い合わせてGet!!しましょう。
http://www.taka-messenger.comです。
続いては郷土のヒロイン、ひみ子さん。
NHKのクローズアップ現代『時代を励ました歌 ~ZARD 坂井泉水さんが遺したもの~』に、文字通り(クローズ)アップの顔がド~ン!!
坂井さんの人生を通じて、勇気をもらった一人として撮影されていました。
いろいろと裏話はあったようですが、それは直接ひみ子さんにお聞きになってください(笑)
でも、坂井さん(秦野市)渋沢育ちなんですね。彼女が中学生や高校生の頃じゃあ、まだ秦野もそんなに発展していなかったから、小田原のデパートの中なんかですれ違っていたのかも知れないね。そんなエピソードを知ったら、ますます身近になりました。
番組の中で語られた『ハートに火をつけて』 彼女なりの落ち込みと発奮、事故さえなければもっともっとやさしく強い歌が聴けたんだろうな。
さて、ごめんなさい、は多似夢さん。クローズアップ現代と同じ時間の12ch、大腸がんの特集のアンケートに答えていたのですが、NHK選んじゃいました^^;
うん、みんなの顔を見ていたら元気が出たぞ!
今週もがんばんべぇ~
NHKのクローズアップ現代『時代を励ました歌 ~ZARD 坂井泉水さんが遺したもの~』に、文字通り(クローズ)アップの顔がド~ン!!
坂井さんの人生を通じて、勇気をもらった一人として撮影されていました。
いろいろと裏話はあったようですが、それは直接ひみ子さんにお聞きになってください(笑)
でも、坂井さん(秦野市)渋沢育ちなんですね。彼女が中学生や高校生の頃じゃあ、まだ秦野もそんなに発展していなかったから、小田原のデパートの中なんかですれ違っていたのかも知れないね。そんなエピソードを知ったら、ますます身近になりました。
番組の中で語られた『ハートに火をつけて』 彼女なりの落ち込みと発奮、事故さえなければもっともっとやさしく強い歌が聴けたんだろうな。
さて、ごめんなさい、は多似夢さん。クローズアップ現代と同じ時間の12ch、大腸がんの特集のアンケートに答えていたのですが、NHK選んじゃいました^^;
うん、みんなの顔を見ていたら元気が出たぞ!
今週もがんばんべぇ~
[ 14:25 ]
[ ▼雑記 ]
2007/06/17のBlog
[ 22:41 ]
[ |- ■モーターモーム ]
今週末は、連れ合いが同窓会。しかも場所は我が家・・・。
安い、長居が出来る、騒いでも問題ない・・・、確かに・・・。つまりは夜を徹して同窓会をしたいわけね。それに去年もやったじゃない・・・。
と言うことで、またまたF母娘をお誘いして、蛍狩りを計画しましたがNG。
一人旅なら、わざわざ土曜日に休暇を出すのももったいないと、急遽計画を変更し、土曜の夜からのひなびた温泉行きに致しました。
さて、ここで問題です。僕、Takeはどこに行くのでしょうか?
ヒント1.小田原から200km~250kmの間です。
ヒント2.ひなびてはいないようです。超人気みたいです。
ヒント3.1983年
簡単すぎたかな???
安い、長居が出来る、騒いでも問題ない・・・、確かに・・・。つまりは夜を徹して同窓会をしたいわけね。それに去年もやったじゃない・・・。
と言うことで、またまたF母娘をお誘いして、蛍狩りを計画しましたがNG。
一人旅なら、わざわざ土曜日に休暇を出すのももったいないと、急遽計画を変更し、土曜の夜からのひなびた温泉行きに致しました。
さて、ここで問題です。僕、Takeはどこに行くのでしょうか?
ヒント1.小田原から200km~250kmの間です。
ヒント2.ひなびてはいないようです。超人気みたいです。
ヒント3.1983年
簡単すぎたかな???
[ 21:15 ]
[ |- ★礼拝説教を聴いて ]
6月17日、小田原教会に与えられた聖書の箇所は旧約聖書の出エジプト記3章13節-14節。高橋敬基牧師より『主なる神』と題して説教を受けました。
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
C.へストン、ユル・ブリンナーが共演した『十戒』でもおなじみの箇所で、クリスチャン以外の方でもご存知の方の多い箇所です。重労で困窮をしたイスラエルの民を連れ出すように神から言われたモーセ。でも、自分はそんなこと出来ないと、何度も神に他の人にその役を担わせてくれ、とお願いします。その中の一説で、そもそも「(神といっても)名前が分からないとみんなが納得しない」と言う反論部分です。
こういう反論をしていること・・・・、つまりは『神』と言う言葉は『普通名詞』なのでしょうか『固有名詞』なのでしょうか?そんな問いかけから、この日の説教が始まりました。
この事は神を解釈する上で、僕自身何度も悩んだり考えたりする部分でした。
「全知全能の神」が固有名詞、つまりは人格を持つとしたら、世の無心論者の方などノン・クリスチャンの方のよく言う「理不尽な悲しみ」が理解しにくいところが生まれ、また「運命は自分自身では変えられない」ことに近くなります。
しかし、「祈りは聞き遂げられる」と言う箇所を考えれば、神は全知全能なれどこちらのパワーに呼応してくれるし、その姿は『人格的に固有名詞』ではなく『エネルギー的な』固有名詞なのかもしれません。『固有名詞』であっても人格としての存在ではなく、宇宙のエネルギー的な姿かたちのない『固有名詞』なのではないでしょうか?
故・遠藤周作氏は作品中何度も「神と言う言葉が理解しにくければ、たまねぎと言う言葉に置き換えても言い」と言う旨を書いていますが、それは神がたまねぎであるわけでなく、「神」と言う『固有名詞』を僕ら人間が理解するのはとても難しいことだ、と言うことを言いたかったのではないかと僕は思っています。
漠然とした『神』を信仰するのではなく『ヤーウェ(神の名とされています)』を信ずる、と言う確たる信仰を神は求め、モーセはそれによって安心感を持ちたいのでしょう。それが上記の会話になったのではないでしょうか?
牧師は、この訳は日本語になっていないと言います。確かにそうだと僕も思います。「わたしはある」・・・少なくとも「私は」に対応する言葉は「いる」であり「ある」はおかしいと思います。
この言葉を紐解くと、たとえば英語の“Here We are.”と言う言葉にあるといいます。直訳すれば、私たちはここにありますになります。が、この言葉は(タクシーなどが目的地に着いたとき)「着きました」という言い回しです。つまり神は英語で言えば、“That's I am.”といったと言うことなんです。それは、そこに私はいる=一緒にいうるから心配するな、と神は言ってくれたのです。
公式な神による救済の歴史は、この出エジプト記が初めてです。救済と言うのが、歴史上大きな出来事のように聞こえますが、私たち一人一人も、人生を悩みながら生きていく、神による救済を必要としているものたちです。その神が、そばについていてくれる。
神と自分との「関係」こそが信仰だと思います。
「足あと」 マーガレット・パワーズ
ある夜、わたしは夢をみた
わたしは、主とともになぎさを歩いていた
暗い夜空に
これまでの人生がつぎつぎ映し出された
どの光景にも
二組の足あとが浜辺にくっきりときざまれていた
一つはわたし自身の足あと
もう一つは、主の足あとだった
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき
わたしは砂に残っている足あとを顧みた
そうして、気付いたのは
人生のいくつかの場所に、足あとが一組しかないことだった
それは、わたしの人生のなかでもっともつらく、悲しいときだった
これをみて、わたしは心惑わせ、主にたずねた
「主よ
私があなたについて行くと決めたとき
あなたは、いつもわたしと語り合い
ともに歩んであげようと言われました
それなのに、わたしがもっとも辛くさびしかったときには
一組の足あとしかなかったのです
いちばんあなたを必要としていたとき
あなたはどうして私を一人ぼっちになさったのですか
私にはわかりません」
それにたいして、主はささやかれた
「わたしの大事な子よ
わたしは、おまえを愛している
そして決して、一人にはしない
おまえが試練に遭い、苦しんでいたとき
一人分の足あとしか見えなかったという、そんなとき
わたしが、おまえを背負っていた
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
C.へストン、ユル・ブリンナーが共演した『十戒』でもおなじみの箇所で、クリスチャン以外の方でもご存知の方の多い箇所です。重労で困窮をしたイスラエルの民を連れ出すように神から言われたモーセ。でも、自分はそんなこと出来ないと、何度も神に他の人にその役を担わせてくれ、とお願いします。その中の一説で、そもそも「(神といっても)名前が分からないとみんなが納得しない」と言う反論部分です。
こういう反論をしていること・・・・、つまりは『神』と言う言葉は『普通名詞』なのでしょうか『固有名詞』なのでしょうか?そんな問いかけから、この日の説教が始まりました。
この事は神を解釈する上で、僕自身何度も悩んだり考えたりする部分でした。
「全知全能の神」が固有名詞、つまりは人格を持つとしたら、世の無心論者の方などノン・クリスチャンの方のよく言う「理不尽な悲しみ」が理解しにくいところが生まれ、また「運命は自分自身では変えられない」ことに近くなります。
しかし、「祈りは聞き遂げられる」と言う箇所を考えれば、神は全知全能なれどこちらのパワーに呼応してくれるし、その姿は『人格的に固有名詞』ではなく『エネルギー的な』固有名詞なのかもしれません。『固有名詞』であっても人格としての存在ではなく、宇宙のエネルギー的な姿かたちのない『固有名詞』なのではないでしょうか?
故・遠藤周作氏は作品中何度も「神と言う言葉が理解しにくければ、たまねぎと言う言葉に置き換えても言い」と言う旨を書いていますが、それは神がたまねぎであるわけでなく、「神」と言う『固有名詞』を僕ら人間が理解するのはとても難しいことだ、と言うことを言いたかったのではないかと僕は思っています。
漠然とした『神』を信仰するのではなく『ヤーウェ(神の名とされています)』を信ずる、と言う確たる信仰を神は求め、モーセはそれによって安心感を持ちたいのでしょう。それが上記の会話になったのではないでしょうか?
牧師は、この訳は日本語になっていないと言います。確かにそうだと僕も思います。「わたしはある」・・・少なくとも「私は」に対応する言葉は「いる」であり「ある」はおかしいと思います。
この言葉を紐解くと、たとえば英語の“Here We are.”と言う言葉にあるといいます。直訳すれば、私たちはここにありますになります。が、この言葉は(タクシーなどが目的地に着いたとき)「着きました」という言い回しです。つまり神は英語で言えば、“That's I am.”といったと言うことなんです。それは、そこに私はいる=一緒にいうるから心配するな、と神は言ってくれたのです。
公式な神による救済の歴史は、この出エジプト記が初めてです。救済と言うのが、歴史上大きな出来事のように聞こえますが、私たち一人一人も、人生を悩みながら生きていく、神による救済を必要としているものたちです。その神が、そばについていてくれる。
神と自分との「関係」こそが信仰だと思います。
「足あと」 マーガレット・パワーズ
ある夜、わたしは夢をみた
わたしは、主とともになぎさを歩いていた
暗い夜空に
これまでの人生がつぎつぎ映し出された
どの光景にも
二組の足あとが浜辺にくっきりときざまれていた
一つはわたし自身の足あと
もう一つは、主の足あとだった
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき
わたしは砂に残っている足あとを顧みた
そうして、気付いたのは
人生のいくつかの場所に、足あとが一組しかないことだった
それは、わたしの人生のなかでもっともつらく、悲しいときだった
これをみて、わたしは心惑わせ、主にたずねた
「主よ
私があなたについて行くと決めたとき
あなたは、いつもわたしと語り合い
ともに歩んであげようと言われました
それなのに、わたしがもっとも辛くさびしかったときには
一組の足あとしかなかったのです
いちばんあなたを必要としていたとき
あなたはどうして私を一人ぼっちになさったのですか
私にはわかりません」
それにたいして、主はささやかれた
「わたしの大事な子よ
わたしは、おまえを愛している
そして決して、一人にはしない
おまえが試練に遭い、苦しんでいたとき
一人分の足あとしか見えなかったという、そんなとき
わたしが、おまえを背負っていた
2007/06/16のBlog
[ 17:45 ]
[ ▼雑記 ]
昨日の朝、道に落ちていたカラス・・・。ナンデダ・・・?
とりあえず、連れ合いがかわいそうとアスファルトの道路の上から土の家の庭に移動したところ、番(つがい)の片割れが心配そうにそばに付き添っていました。
怪我?なのか歩くのもままならないので、お米と水をあげています。
猫に襲われないのは、番の片割れがそばで警戒してくれているからでしょう。
とりあえず、連れ合いがかわいそうとアスファルトの道路の上から土の家の庭に移動したところ、番(つがい)の片割れが心配そうにそばに付き添っていました。
怪我?なのか歩くのもままならないので、お米と水をあげています。
猫に襲われないのは、番の片割れがそばで警戒してくれているからでしょう。
[ 12:55 ]
[ ◆健康・ガン友 ]
もうそろそろ仲間が三浦に集結し始めたころでしょうか?
ポッコさん、MOMOさん、偲ぶ会にいけなくてごめんなさい。
せっかくそんな日ですから、僕もすこしRFLに関わった一日にしようと、mixiのコミュ『癌でもいいじゃん♪』にRFL芦屋のイヴェント開催を載せらせてもらいました。
24時間と言う昨年よりパワーアップした内容ですので、昨年参加できなかった人もイッパイお誘いして、みんなで歩ききりたいですね。
mixiに入られている方で、ご興味お持ちの方は是非行ってみて下さい。
http://mixi.jp/view_event.pl?id=19658225&comment_count=0&comm_id=18065
ポッコさん、MOMOさん、偲ぶ会にいけなくてごめんなさい。
せっかくそんな日ですから、僕もすこしRFLに関わった一日にしようと、mixiのコミュ『癌でもいいじゃん♪』にRFL芦屋のイヴェント開催を載せらせてもらいました。
24時間と言う昨年よりパワーアップした内容ですので、昨年参加できなかった人もイッパイお誘いして、みんなで歩ききりたいですね。
mixiに入られている方で、ご興味お持ちの方は是非行ってみて下さい。
http://mixi.jp/view_event.pl?id=19658225&comment_count=0&comm_id=18065
2007/06/15のBlog
[ 19:37 ]
[ ◆健康・ガン友 ]
RFL芦屋のキャラクターは、コロナちゃんとホッシー君。
なになに・・・ホッシー君??? なんといいお名前(笑)
そんな訳で最近流行のコラボレーション。名づけて『ホッシーコラボ』
久々のベイスターズAクラス入りとRFLの成功を祈って、著作権・肖像権無視で作ってしまいました。
上記権利でNGならすぐ削除します。
RFL当日は、ホッシー君(どっちの?)のような格好で参加しようかな(笑)
なになに・・・ホッシー君??? なんといいお名前(笑)
そんな訳で最近流行のコラボレーション。名づけて『ホッシーコラボ』
久々のベイスターズAクラス入りとRFLの成功を祈って、著作権・肖像権無視で作ってしまいました。
上記権利でNGならすぐ削除します。
RFL当日は、ホッシー君(どっちの?)のような格好で参加しようかな(笑)
[ 11:23 ]
[ ●社会問題 ]
♪奈良の春日野青芝に~腰をおろせば鹿のふん~♪
ふんふんふん 黒豆よ~♪
鹿の話題といえば、奈良や宮島といった観光地、丹沢や日本アルプスといった野生ジカの話題が多いです。街場を歩く鹿の話題なんぞ、余り耳にしません。
しかし、小田原市酒匂という相模湾に接した街場を通る国道1号線
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.11.11.667N35.15.41.812 には、山岳の高速道路でよく見る『鹿に注意』の看板。
ネタ?? ジョーク?? と思っていたらこんなニュース。
西湘バイパス料金所近くにシカ、1頭を射殺/小田原
十二日午前十時半ごろ、小田原市の西湘バイパス国府津料金所近くの森戸川河口にシカが現れ、二時間十五分後、要請を受けた県猟友会小田原支部会員により射殺された。
ドライバーから目撃情報が寄せられ、県、市職員、小田原署員らが料金所脇でシカを確認した。バイパスへのシカ進入による事故の危険があるため、鳥獣保護法の有害鳥獣捕獲を適用した。
シカは体長一・四五メートル、体重六十キロの雄で、二歳前後と推定される。付近では二月七日に河口付近の酒匂川を渡るシカ四頭が確認され、海岸でも目撃情報が相次いでいた。市環境保護課では、二月に確認された四頭のうちの一頭と推測している。
カナロコ(神奈川新聞)社会 2007/06/12
山の住処すら追われ、こんな街中まで来ざるを得なかったシカたち・・・。いかに野生動物が住みにくい世の中になったものなのか・・・。
ふんふんふん 黒豆よ~♪
鹿の話題といえば、奈良や宮島といった観光地、丹沢や日本アルプスといった野生ジカの話題が多いです。街場を歩く鹿の話題なんぞ、余り耳にしません。
しかし、小田原市酒匂という相模湾に接した街場を通る国道1号線
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.11.11.667N35.15.41.812 には、山岳の高速道路でよく見る『鹿に注意』の看板。
ネタ?? ジョーク?? と思っていたらこんなニュース。
西湘バイパス料金所近くにシカ、1頭を射殺/小田原
十二日午前十時半ごろ、小田原市の西湘バイパス国府津料金所近くの森戸川河口にシカが現れ、二時間十五分後、要請を受けた県猟友会小田原支部会員により射殺された。
ドライバーから目撃情報が寄せられ、県、市職員、小田原署員らが料金所脇でシカを確認した。バイパスへのシカ進入による事故の危険があるため、鳥獣保護法の有害鳥獣捕獲を適用した。
シカは体長一・四五メートル、体重六十キロの雄で、二歳前後と推定される。付近では二月七日に河口付近の酒匂川を渡るシカ四頭が確認され、海岸でも目撃情報が相次いでいた。市環境保護課では、二月に確認された四頭のうちの一頭と推測している。
カナロコ(神奈川新聞)社会 2007/06/12
山の住処すら追われ、こんな街中まで来ざるを得なかったシカたち・・・。いかに野生動物が住みにくい世の中になったものなのか・・・。
2007/06/14のBlog
[ 18:53 ]
[ ◆健康・ガン友 ]
ヒデさんから葬儀のお返しが届きました。七七日の法要が終わったとのことです。
そしてあさって16日は、三浦でポッコさんとMOMOさんを偲ぶ会が催されます。
時間が経つのが早いです。ついこの前、葬式に参列させて頂いたのに、もう2ヵ月以上なんですね。RFLがあっという間です。
既に早い方はチーム作りに入っています。
第1回大会は筑波と言うこともあって、参加者の多くは東日本の方でした。我が『癌でもいいじゃん♪』も数名を除いて東日本でしたが、今回第2回大会は兵庫の芦屋です。さて、前回のメンバーが全員参加できるかといえば厳しいものがあるかと思います。その上、今回は24時間!前回以上のメンバーが集まらないと、リレーが途切れてしまいます。
第1回目の大会に多くのメンバーが『癌でもいいじゃん♪』チームに集まったのは、一重にポッコさんという広報部長のスキルの高さがあったからだと思います。mixiにイベントを立ち上げ、病院の中でまでRFLの素晴らしさを時、多くの方をチームに誘ってくれました。そして当日、誰もが目を見張った黄色い大きなフラッグ・・・。
しかし、ポッコさんはすでに天国と言う本社勤務に変わってしまいました。さて、地球支社に残された僕らは、スキルの高い広報部長がいなくなったからといって、リレーを切らすわけには行きません。
何よりも、この大会の趣旨を認識し、成功に大きな期待を掛けていたポッコさんの意思を汲み取って、今年も『癌でもいいじゃん♪』チームを作りましょう。
写真は、NHKの放送のDVDを送ってくれたポッコさんの手紙です。16日の偲ぶ会には出席できないので、もう一度あの感動を自宅で感じて、そしてそのとき誰もイヴェント申請をされなければ16日にmixiのコミュ「癌でもいいじゃん♪」に第2回RFLのチーム結成を呼びかけたいと思います。
そしてあさって16日は、三浦でポッコさんとMOMOさんを偲ぶ会が催されます。
時間が経つのが早いです。ついこの前、葬式に参列させて頂いたのに、もう2ヵ月以上なんですね。RFLがあっという間です。
既に早い方はチーム作りに入っています。
第1回大会は筑波と言うこともあって、参加者の多くは東日本の方でした。我が『癌でもいいじゃん♪』も数名を除いて東日本でしたが、今回第2回大会は兵庫の芦屋です。さて、前回のメンバーが全員参加できるかといえば厳しいものがあるかと思います。その上、今回は24時間!前回以上のメンバーが集まらないと、リレーが途切れてしまいます。
第1回目の大会に多くのメンバーが『癌でもいいじゃん♪』チームに集まったのは、一重にポッコさんという広報部長のスキルの高さがあったからだと思います。mixiにイベントを立ち上げ、病院の中でまでRFLの素晴らしさを時、多くの方をチームに誘ってくれました。そして当日、誰もが目を見張った黄色い大きなフラッグ・・・。
しかし、ポッコさんはすでに天国と言う本社勤務に変わってしまいました。さて、地球支社に残された僕らは、スキルの高い広報部長がいなくなったからといって、リレーを切らすわけには行きません。
何よりも、この大会の趣旨を認識し、成功に大きな期待を掛けていたポッコさんの意思を汲み取って、今年も『癌でもいいじゃん♪』チームを作りましょう。
写真は、NHKの放送のDVDを送ってくれたポッコさんの手紙です。16日の偲ぶ会には出席できないので、もう一度あの感動を自宅で感じて、そしてそのとき誰もイヴェント申請をされなければ16日にmixiのコミュ「癌でもいいじゃん♪」に第2回RFLのチーム結成を呼びかけたいと思います。
2007/06/13のBlog
[ 21:47 ]
[ |- ■BayStars ]
強いチーム状態はこういうときなんでしょうね。
投:寺原投手
打:種田選手
守:金城選手
みんな凄かったもん、負ける気しなかったよ。9回の裏を除いては・・・^^;
交流戦直前からのチームの低迷、やっとそこから抜け出した感じがします。
交流戦5割以上を目指して頑張りましょ!!
PS
石井選手2000試合出場おめでとう。
投:寺原投手
打:種田選手
守:金城選手
みんな凄かったもん、負ける気しなかったよ。9回の裏を除いては・・・^^;
交流戦直前からのチームの低迷、やっとそこから抜け出した感じがします。
交流戦5割以上を目指して頑張りましょ!!
PS
石井選手2000試合出場おめでとう。
[ 19:56 ]
[ ◆健康・ガン友 ]
ポッコさんのお連れ合いのヒデさんから教えてもらった一つの詩。
その素晴らしい詩を転記しただけでは物足りず、昨日のかえるノートと一緒に2冊著書を買い求めました。
ヒデさんもご自身のBlogでかかれているように著者はカトリック高円寺教会の神父さんでした。
お父様を21歳のときに肝臓がんで亡くし、ご自身も大腿部の腫瘍で入院しているときに作られた詩だそうです。
お父様の末期、「悔しい」と嗚咽されたことが、詩のベースにあり、しかし、病気はただ辛いだけではないし無意味でもない。それは出産が苦しさを乗り越えた上の尊いことであるのと同じだ、と書かれています。
なぜ、尊いかは、ご自身が病になった方、またご家族やご友人が病になった方は分かるかもしれません。
聖書の中に『神は愛である』という言葉があります。『愛が神である』ではなく『神は愛を持っている』でもありません。『神』=『愛』なんです。そして、人は神に似せられて作られたのです。
『愛』を一番身近に感じることは、弱者であるときではないでしょうか? そしてそれだからこそ、尊く意味を持った人生となるのでしょう。
その素晴らしい詩を転記しただけでは物足りず、昨日のかえるノートと一緒に2冊著書を買い求めました。
ヒデさんもご自身のBlogでかかれているように著者はカトリック高円寺教会の神父さんでした。
お父様を21歳のときに肝臓がんで亡くし、ご自身も大腿部の腫瘍で入院しているときに作られた詩だそうです。
お父様の末期、「悔しい」と嗚咽されたことが、詩のベースにあり、しかし、病気はただ辛いだけではないし無意味でもない。それは出産が苦しさを乗り越えた上の尊いことであるのと同じだ、と書かれています。
なぜ、尊いかは、ご自身が病になった方、またご家族やご友人が病になった方は分かるかもしれません。
聖書の中に『神は愛である』という言葉があります。『愛が神である』ではなく『神は愛を持っている』でもありません。『神』=『愛』なんです。そして、人は神に似せられて作られたのです。
『愛』を一番身近に感じることは、弱者であるときではないでしょうか? そしてそれだからこそ、尊く意味を持った人生となるのでしょう。
[ 00:30 ]
[ ◆健康・ガン友 ]
乳がん仲間の方の本をBlogで見て、アマゾンで予約したのが入荷しました。
かえるノートです。著者はかえるさんです。
届いたら読もうと思っていたら、そのまま連れ合いに取られて、昨晩は熱心に一気に読んでいました。「私に似ている(性格)」とは連れ合いの読後の第一声。
さて、今晩からゆっくり読んでいこうかな・・・。
かえるノートです。著者はかえるさんです。
届いたら読もうと思っていたら、そのまま連れ合いに取られて、昨晩は熱心に一気に読んでいました。「私に似ている(性格)」とは連れ合いの読後の第一声。
さて、今晩からゆっくり読んでいこうかな・・・。
さて、ここからは『続編』です。上記記事と、時間のずれがあります。
読み終わりました。
構成は、きれい・可愛い・・・やっぱりデザイン関係の方なんですね。もちろん、構成製作は、ご本人ではないのでしょうけれど、類は友を呼ぶっていうじゃないですか・・・。
内容は厚さの割りに読み応えあり。特に、告知に対しての時代背景・・・、IFは言ってはいけないのかもしれないけれど、やっぱり初めて出会う先生は大切ですね。そこから、彼女のボタンの賭け違いが始まったのかもしれません。でも、それを恨むことなく前向き前向きに生きていく・・・、すごいなぁ。
時たま、抗がん剤など薬は嫌だけど再建の手術は積極的、などという僕ら男性には理解できない摩訶不思議なことも書いてあるけれど、まぁそれは人それぞれ、大切なことは違うんですよね。
人生をエンジョイし切った生き方、太く短くだけど楽しそうでうらやましい一面を持った生き方は読んでいて心が優しくなれました。
『私の生き方どうだった?』って聞いている気がした。
『うん・・・・・・・・よかったよ。すごい。・・・・・・・・やったね。』
本の最後の方に書いてあったけれど、花ちゃん(お連れ合いさん)、天国で会った時に絶対聞かれるよ。そうしたら、面と向かってもう一度その答えを答えて上げてね。
読み終わりました。
構成は、きれい・可愛い・・・やっぱりデザイン関係の方なんですね。もちろん、構成製作は、ご本人ではないのでしょうけれど、類は友を呼ぶっていうじゃないですか・・・。
内容は厚さの割りに読み応えあり。特に、告知に対しての時代背景・・・、IFは言ってはいけないのかもしれないけれど、やっぱり初めて出会う先生は大切ですね。そこから、彼女のボタンの賭け違いが始まったのかもしれません。でも、それを恨むことなく前向き前向きに生きていく・・・、すごいなぁ。
時たま、抗がん剤など薬は嫌だけど再建の手術は積極的、などという僕ら男性には理解できない摩訶不思議なことも書いてあるけれど、まぁそれは人それぞれ、大切なことは違うんですよね。
人生をエンジョイし切った生き方、太く短くだけど楽しそうでうらやましい一面を持った生き方は読んでいて心が優しくなれました。
『私の生き方どうだった?』って聞いている気がした。
『うん・・・・・・・・よかったよ。すごい。・・・・・・・・やったね。』
本の最後の方に書いてあったけれど、花ちゃん(お連れ合いさん)、天国で会った時に絶対聞かれるよ。そうしたら、面と向かってもう一度その答えを答えて上げてね。
2007/06/12のBlog
[ 22:28 ]
[ |- ■カメラ ]
ライトアップされた白いあじさいは、宝石のように輝いていたのですが、なんとしてもきれいに、その美しさが撮れない・・・。
あーじゃない、こーじゃない、とやっているうちに21時。突然ぱっと灯りが消えてしまい、あっけなくTheEND (笑)
レタッチソフトの性能を体感したい人はどうぞ!
来年まで少し勉強をしておきますね。
あーじゃない、こーじゃない、とやっているうちに21時。突然ぱっと灯りが消えてしまい、あっけなくTheEND (笑)
レタッチソフトの性能を体感したい人はどうぞ!
来年まで少し勉強をしておきますね。
2007/06/11のBlog
[ 00:37 ]
[ |- ★礼拝説教を聴いて ]
6月10日に小田原教会に与えられた聖書の箇所は「ルカによる福音書14章15節~24節」。東のぞみ伝道師より「誰と食すのか」と題したメッセージを受けました。
食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」
このたとえ話は、主人=神、僕=イエス=キリスト、招かれ人=人間、と読み替えることが出来ます。そして、教会に集っている人、よく祈る人・・・等々でも、招きに応じない人は宴会会場に入れない。逆に、罪びと、けがれ人、異邦人でも、招きに応じる気があれば宴会会場に簡単に入れることを意味していると思います。
東先生は「最近よく教団新報などの記事でも『正しい聖餐式』『正しい按手』『正しい礼拝』など『正しい』という言葉が多い。」はたして『正しい』ものとは何か?と語られます。
上記のたとえ話も、当時のユダヤ教の社会では、断る必然性のある内容として認められているものばかりです。畑、牛などのためなら断るのは当然と律法(?)でも定められていました。
しかし、イエスのたとえでは、それでは宴会に出られません、と言われるのです。
聖書の内容は律法の書のように正しさを測る道具ではないのではないでしょうか?正しい人だけが出てくるわけでもなく、その歴史の狭間でもがき苦しみ、時には神をも裏切り、神に怒られ罰を下され・・・、そんなことがたくさん書かれています。でも、神はそのつど愛してくださっています。聖書の読み方は、人それぞれです。『じゃあ、あなたはこの箇所をどう読むのか?』がいつも問われるわけだと、解き明かされます。
アメリカのブッシュ氏のように、僕らの目には正しい解釈と思えない読み方をし、平気で戦争を続けるクリスチャンもいます。
すべての人は、正しくないのでいくら頑張っても100%正しい聖書の読み方は不可能なのかもしれません。教団新報に投稿した人はそうした意味では、スタンダードな形式を作りたいが故に、『正しい』を連発したのでしょうけれど、そこには『正しさ』は存在しないと思います。
この話を聞きながらよくクリスチャンの枕詞に『敬虔な』と言われ、また『私は敬虔なクリスチャンではありません。』と自らを否定する人も多いことを思い起こしました。この『敬虔な』、はどういう意味なのでしょうか?
僕は、礼拝に出ることもなく遊びに行く、聖書も読む機会は少なく、祈ることも朝夕と食事時くらいです。よっぽどでなければ誰かを教会に誘うこともありません。でも『敬虔である』のかもしれません。
それは『苦しいときの神頼み』をするからです。最後の最後には『神に頼らなければならない弱さ』を持っています。そして神は執念深く、僕らが「うざい」と言おうが言うまいが、僕らを愛し続けてくれることを知っています。
『恐れるな』。遊びに行こうが、ちゃらんぽらんであろうが、『恐れるな』。神学を知らなくても、デボーションをしなくても、『恐れるな』です。
赤ん坊が育つのは、その赤ん坊がいつもニコニコしているからだけではありません。グズろうが、夜泣きをしようが、迷惑掛け続けても、なにしても親が執念深く愛し続けてくれるから育つように、神に愛されていることを覚え、そしてその愛されているうちの少しだけでも隣人を愛せれば『敬虔』じゃあないでしょうか?日本語として定着した『敬虔』が、神の言われる『敬虔』ではないのではないでしょうか?僕の言う『敬虔』は『正しい』のでしょうか?違うのでしょうか?
それすら解釈者の判断で、神の判断ではありません。
そんな自己流の読み方でも『まだ席はありから、無理を承知でもつれてきなさい。』と言ってくれる神に信頼を置いて生きたいものです。
食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」
このたとえ話は、主人=神、僕=イエス=キリスト、招かれ人=人間、と読み替えることが出来ます。そして、教会に集っている人、よく祈る人・・・等々でも、招きに応じない人は宴会会場に入れない。逆に、罪びと、けがれ人、異邦人でも、招きに応じる気があれば宴会会場に簡単に入れることを意味していると思います。
東先生は「最近よく教団新報などの記事でも『正しい聖餐式』『正しい按手』『正しい礼拝』など『正しい』という言葉が多い。」はたして『正しい』ものとは何か?と語られます。
上記のたとえ話も、当時のユダヤ教の社会では、断る必然性のある内容として認められているものばかりです。畑、牛などのためなら断るのは当然と律法(?)でも定められていました。
しかし、イエスのたとえでは、それでは宴会に出られません、と言われるのです。
聖書の内容は律法の書のように正しさを測る道具ではないのではないでしょうか?正しい人だけが出てくるわけでもなく、その歴史の狭間でもがき苦しみ、時には神をも裏切り、神に怒られ罰を下され・・・、そんなことがたくさん書かれています。でも、神はそのつど愛してくださっています。聖書の読み方は、人それぞれです。『じゃあ、あなたはこの箇所をどう読むのか?』がいつも問われるわけだと、解き明かされます。
アメリカのブッシュ氏のように、僕らの目には正しい解釈と思えない読み方をし、平気で戦争を続けるクリスチャンもいます。
すべての人は、正しくないのでいくら頑張っても100%正しい聖書の読み方は不可能なのかもしれません。教団新報に投稿した人はそうした意味では、スタンダードな形式を作りたいが故に、『正しい』を連発したのでしょうけれど、そこには『正しさ』は存在しないと思います。
この話を聞きながらよくクリスチャンの枕詞に『敬虔な』と言われ、また『私は敬虔なクリスチャンではありません。』と自らを否定する人も多いことを思い起こしました。この『敬虔な』、はどういう意味なのでしょうか?
僕は、礼拝に出ることもなく遊びに行く、聖書も読む機会は少なく、祈ることも朝夕と食事時くらいです。よっぽどでなければ誰かを教会に誘うこともありません。でも『敬虔である』のかもしれません。
それは『苦しいときの神頼み』をするからです。最後の最後には『神に頼らなければならない弱さ』を持っています。そして神は執念深く、僕らが「うざい」と言おうが言うまいが、僕らを愛し続けてくれることを知っています。
『恐れるな』。遊びに行こうが、ちゃらんぽらんであろうが、『恐れるな』。神学を知らなくても、デボーションをしなくても、『恐れるな』です。
赤ん坊が育つのは、その赤ん坊がいつもニコニコしているからだけではありません。グズろうが、夜泣きをしようが、迷惑掛け続けても、なにしても親が執念深く愛し続けてくれるから育つように、神に愛されていることを覚え、そしてその愛されているうちの少しだけでも隣人を愛せれば『敬虔』じゃあないでしょうか?日本語として定着した『敬虔』が、神の言われる『敬虔』ではないのではないでしょうか?僕の言う『敬虔』は『正しい』のでしょうか?違うのでしょうか?
それすら解釈者の判断で、神の判断ではありません。
そんな自己流の読み方でも『まだ席はありから、無理を承知でもつれてきなさい。』と言ってくれる神に信頼を置いて生きたいものです。
思い悩むな!さんのBlogにTBさせてもらいました
2007/06/10のBlog
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