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2008/08/31のBlog
[ 13:47 ]
元民放営業人として活躍されていた曽我部晃昭さんの[晃昭水墨画展]が26日から札幌資料館ギヤラリーで始まりました。曽我部さんは、放送業界をリタイアされた後一念発起して水墨画に取り組まれ今日まで15年間ひたむきな努力を続けてこられました。この間各団体やサークルに所属して創作活動に努め、個展を始め数多くの作品の展示を生まれ故郷の徳島を始め東京、名古屋、大阪などで行ってきました。水墨画を初めて15年目を記念して今回、かつて勤務していた札幌において個展を開催する事となりました。8月の31日まで開催されますが、会場には、北海道を回想して[美瑛][支笏湖][函館]などの画も展示されています。
会場の長机に広げられた[国宝雪舟山水長巻(模写)]が目を惹きます。この長巻きは、山口県毛利博物館の所蔵品で、これを模写したものです。
説明文によると[この長巻は雪舟67才余の作品で、早春の山路を歩む一人の老人の姿から始まっています。路は木立や岩陰に見え隠れしながら断続的に登つていく雪舟67才余の生涯を歩んできた長い半生を描いたものと言われています。老士は雪舟自身の姿です]。模写した曽我部さんは、この長巻の中に描かれている旅人、舟人、農夫、商人など一人一人と語らっている雪舟の思いを感じとっていただければ幸いです。と述べられています。
説明文によると[この長巻は雪舟67才余の作品で、早春の山路を歩む一人の老人の姿から始まっています。路は木立や岩陰に見え隠れしながら断続的に登つていく雪舟67才余の生涯を歩んできた長い半生を描いたものと言われています。老士は雪舟自身の姿です]。模写した曽我部さんは、この長巻の中に描かれている旅人、舟人、農夫、商人など一人一人と語らっている雪舟の思いを感じとっていただければ幸いです。と述べられています。
2008/08/30のBlog
[ 05:36 ]
[ 札幌の歴史 ]
東京で開校した[開拓使仮学校]は、1875年(明治8年)に[札幌学校]と改称されて札幌に移りました。開校式は1875年9月7日で、校舎は現在の時計台の側にあった外国人の寄宿舎を改築して使用していたようです。[札幌学校]も、翌年の1976年には[札幌農学校]として開校しています。
2008/08/28のBlog
[ 05:30 ]
[ 札幌の歴史 ]
開拓使は、1872年(明治5年)北海道開拓に携わる有能な人材を育成するため、開拓使と同じ増上寺の境内に[開拓使仮学校]を併設しました。生徒の定数は、官費生50名、私費生50名、合計100名で卒業後は官費生は10年、私費生は5年、北海道の開拓に従事することが義務づけられていました。
2008/08/26のBlog
[ 05:37 ]
[ 札幌の歴史 ]
[篠路屯田兵]は、札幌では最後の屯田兵で明治22年7月15日に220家族1056人が入植したのが最初です。篠路屯田兵村は、現在の札幌市北区屯田地区です。現在の屯田地区は、札幌の北に拓けた住宅地として大きく発展しています。この屯田地区のなかにある[屯田開拓顕彰広場]には、屯田兵の往事を偲ばせる数々の碑が建てられています。この写真もその顕彰碑の一つです。
この碑は[移住記念碑]で、入植後7年経つた明治29年に建立されましたが、この碑によると、入村者は徳島県29戸、和歌山県37戸、山口県49戸、福岡県13戸、熊本県45戸、福井県20戸、石川県32戸、これら合計220戸が入村しています。
2008/08/24のBlog
[ 05:27 ]
[ 札幌の歴史 ]
[新琴似屯田兵]、[篠路屯田兵]は、開拓使制度が終わった後出来た[屯田兵村]ですが、開拓使の屯田兵制度の流をくんでいますので、[開拓使時代]のなかで取り上げています。
[新琴似]は、札幌市の北区にあり、現在はJR学園線も走り札幌のベツトタウンとして大きく発展を続けている街です。このJR学園線の[新琴似駅]を降りると直ぐ近くに[新琴似神社]があります。ここの境内に[屯田兵の中隊本部]が復元されて保存されています。中隊本部はかつてはこの場所にあつたものです。[新琴似]の屯田兵村の開村は遅く、明治20年です。
[新琴似]は、札幌市の北区にあり、現在はJR学園線も走り札幌のベツトタウンとして大きく発展を続けている街です。このJR学園線の[新琴似駅]を降りると直ぐ近くに[新琴似神社]があります。ここの境内に[屯田兵の中隊本部]が復元されて保存されています。中隊本部はかつてはこの場所にあつたものです。[新琴似]の屯田兵村の開村は遅く、明治20年です。
[新琴似神社]の境内の入り口に[新琴似屯田兵中隊本部]の標柱があります。この神社の境内は広く、この中に本部がありました。新琴似は第一大隊第三中隊に所属していましたが、ここには[九州]や[四国]地方からの移住者が多く、220名が入村しています。
中隊本部は、琴似、山鼻の時代は[週番所]と呼ばれていましたが、新琴似からは[中隊本部]と称せられ、隊員は毎日朝6時にはこの広場に集合して訓練や開拓の1日が始まりました。
中隊本部は、琴似、山鼻の時代は[週番所]と呼ばれていましたが、新琴似からは[中隊本部]と称せられ、隊員は毎日朝6時にはこの広場に集合して訓練や開拓の1日が始まりました。
この画像は[もやい井戸]の展示品です。[もやい]とは、共同という意味で、村内には4戸毎に井戸が掘られ、この脇には風呂も有ったようです。この井戸は直径約90㌢、高さは約70センチの桶を地中半分までに埋め、桶の底から水源までは竹筒が使われていました。
2008/08/22のBlog
[ 05:43 ]
[ 札幌の歴史 ]
これは[山鼻公園]に建立されている[山鼻兵村開設碑]です。山鼻公園は、札幌市の西11丁目通に面しており、通称[石山通]と呼ばれています。この先には[札幌軟石]で有名な[石山]があり、そこから[石山通]と呼ばれています。山鼻の屯田兵は、琴似に次いで札幌では二番目の屯田兵として、明治9年4月開村しました。この山鼻公園が当時の屯田兵村の中心でした。今もこの公園には大木が並び、屯田兵時代の面影を遺しています。この公園のすぐ前には[山鼻記念館]があり、屯田兵に因んだ資料などが多数展示されています。
山鼻兵村には、旧仙台藩、津軽藩など東北からの移住者が多く、明治9年に旧士族の240戸、男女1,114人がこの地に移住しました。この写真は明治の後期小樽港に着いた移民の姿です。現在の山鼻地区は、札幌の中心部に近く藻岩山麓に広がる住宅地として大きく発展を遂げましたが、その陰には原始林であった原野を開拓した苦労は大変だつたろうと思います。かつて[山鼻]は[ユクニクリ(鹿林)無と呼ばれ鹿が走り回っていたと言われています。
2008/08/20のBlog
[ 06:24 ]
[ 札幌の歴史 ]
2008/08/18のBlog
[ 05:10 ]
[ 札幌の歴史 ]
札幌圏の屯田兵の歴史は明治7年(1874年)で、[琴似屯田兵]の入村から始まりました。この制度は明治32年(1899年)まで続けられ、北海道開拓に大きな貢献を果たしています。札幌にも全国各地から屯田兵が入植し、兵村を作りました。写真の①は[琴似兵村] ②は[山鼻兵村] ③は[新琴似兵村] ④は[篠路兵村]です。これらの兵村は現在の札幌発展の基盤を作り大きな発展を遂げています。
[琴似兵村]は、明治8年(1875年)5月に208戸が入植しました。現在の琴似地区ですが、琴似地区は、地下鉄東西線とJR函館本線が走り、札幌の副都心的な街として大きく発展しています。写真は昭和47年に復元された兵屋です。現在史跡として保存されていますが、当時は150坪に区画割りがされ、一戸は東西10間、南北15間の17.5坪の住まいだつた様です。
[山鼻屯田兵村]は、明治9年[琴似]に次ぐ二番目の兵村として誕生しました。この兵村は現在の中央区山鼻地区にあり開拓使の札幌本府とも近かったため、本来の軍務、開拓という業務の他に[憲兵]としての機能も持たされていたようです。兵村は、現在の西12丁目(通称石山通)を南北に一直線を基点として、その中に約130万坪の用地を用意して、屯田兵の様々な機関が設置されていました。屯田兵顕彰碑がこの石山通に向かって建立されています。山鼻地区の随所に今だ屯田兵の面影が偲ばれる場所があります。
[新琴似屯田兵]が入村した[新琴似]地区は、札幌市の北区にあり現在はJR学園都市線も走り、札幌市のベトタウンとして大きく発展しています。ここに屯田兵が入村したのは、琴似、山鼻からかなり遅れて明治20年です。開拓使制度が廃止された後です。この村には九州、四国地方からの出身者が多く220名が入村しています。写真は復元された[中隊本部]で、新琴似神社の敷地内にあります。屯田兵は、開拓が遅れていた札幌市北部の開拓に大きな貢献を果たしてきました。
2008/08/16のBlog
[ 05:53 ]
[ 札幌の歴史 ]
標石に並んで、史跡の由来を記した案内があります。ここには大凡次の様に記されています。[開拓使は明治5年(1872年)9月開拓使本庁が出来、現在の西4丁目通から西8丁目通までと、北1条通から北6条通までを敷地として、明治6年(1873年)本庁舎が完成した。この庁舎も明治12年(1879年)1月17日の火災で焼失した。
開拓使は明治15年(1882年)2月8日に廃止され、三県一局時代を経て、明治19年(1886年)1月26日、北海道庁が設置された。北海道庁舎は明治21年(1888年)12月14日竣工したが、明治42年(1909年)1月11日の火災のため内部と屋根を焼失した。明治44年(1911年)11月15日、もとの姿に近い形で修復を終え[赤レンガ]の名前で親しまれてきた。昭和43年(1968年)、北海道百年を記念してもとの姿に復元された。]
開拓使は明治15年(1882年)2月8日に廃止され、三県一局時代を経て、明治19年(1886年)1月26日、北海道庁が設置された。北海道庁舎は明治21年(1888年)12月14日竣工したが、明治42年(1909年)1月11日の火災のため内部と屋根を焼失した。明治44年(1911年)11月15日、もとの姿に近い形で修復を終え[赤レンガ]の名前で親しまれてきた。昭和43年(1968年)、北海道百年を記念してもとの姿に復元された。]
2008/08/14のBlog
[ 05:26 ]
[ 札幌の歴史 ]
島義勇は明治2年(1869年)、札幌の街造りに着手しました。現在南1条西1丁目と西側道路を挟んだ一角に[札幌建設の地]碑があります。写真の中央の像の台座には次の様に記されています。[この地は銭函から千歳に抜ける道と藻岩山麓を廻り篠路に行く道路の交差点に当たり、明治2年11月10日開拓判官島義勇、石狩大府の建設をこの地から始めた。現在の札幌はこの付近を基点として発達したものである。]この写真の右は[創成橋]の親柱石です。
これは[大友堀]の大通付近の様子です。現在、札幌の中央部を南北に流れている[創成川]は、慶応2年(1866年)大友亀太郎によつて開削された堀割り(大友堀)を明治になり北6条付近から篠路方面まで通じた運河です。この大友堀のお陰で石狩からの水運が可能となり、島義勇が取り組んだ[札幌本府]の建設に大きく貢献しています。明治2年にはこの大友堀の脇に開拓使の官舎が建設されましたが、これに伴い新しい橋が架けられ[創成橋]と名付けられました。
[大友堀]の上に架けられたのが[創成橋]です。当初の橋は丸太を並べ板を敷いただけの橋でした。背後に見える建物は、[陣屋(宿泊所)]です。現在の橋は明治43年に建設されたものですが、下部の構造はモダンなアーチ型で上部は純日本風の美しいデザインが施され、両側の高欄には[擬宝珠]が取り付けられています。この擬宝珠は江戸時代は藩主のみが橋に付ける事を許されていたと言う格式の高いものだそうです。現在のものは昭和53年に復元されたものです。
この写真は、札幌市役所ロビーにある島義勇の像の側に展示されている案内板です。
島義勇の札幌街作りは、南北の基線として[大友堀]を、東北の基線として[銭函道(現在の南1条通]を設定し、これの交差する橋である[創成橋]を本府の中心にしています。この本府を中心に南北を北6条から南7条、東西は東3丁目から西9丁目までとして、60間毎に巾11間の道路を造っています。このことで札幌の街は碁盤目の整然とした町並みとなつています。このような島義勇の構想は、写真の案内板にある[他日五州第一の都]と謳っているように、[やがて世界一の都になるだろうと]と言う大きな夢に包まれたものでした。
島義勇の札幌街作りは、南北の基線として[大友堀]を、東北の基線として[銭函道(現在の南1条通]を設定し、これの交差する橋である[創成橋]を本府の中心にしています。この本府を中心に南北を北6条から南7条、東西は東3丁目から西9丁目までとして、60間毎に巾11間の道路を造っています。このことで札幌の街は碁盤目の整然とした町並みとなつています。このような島義勇の構想は、写真の案内板にある[他日五州第一の都]と謳っているように、[やがて世界一の都になるだろうと]と言う大きな夢に包まれたものでした。
2008/08/12のBlog
[ 05:18 ]
[ 札幌の歴史 ]
この画像は、札幌市役所ロビーの[島義勇]の像です。島義勇は佐賀藩士、島市郎右衛門・つねの長男として、文政5年(1822年)9月12日佐賀城下の精小路に生まれました。
明治2年(1869年)10月、極寒と積雪に苦しみながらも札幌市街の区画割りを決め、開拓本府の建設に取りかかりました。又、島義勇は当時、北海道の守護神として[大国魂神][大国主命][少彦名神]を祀る事となり、船で函館に着いた祭神を担いで函館から銭函まで運び、その後札幌に移しました。この神を祀つたのが札幌神社で現在の北海道神宮です。そんな縁で、北海道神宮の境内に島義勇の像が建立されているのです。
明治2年(1869年)10月、極寒と積雪に苦しみながらも札幌市街の区画割りを決め、開拓本府の建設に取りかかりました。又、島義勇は当時、北海道の守護神として[大国魂神][大国主命][少彦名神]を祀る事となり、船で函館に着いた祭神を担いで函館から銭函まで運び、その後札幌に移しました。この神を祀つたのが札幌神社で現在の北海道神宮です。そんな縁で、北海道神宮の境内に島義勇の像が建立されているのです。
島義勇が札幌の街作りを進めるため登った円山です。札幌市の西端にあり標高225メートルの低い山です。この山は最初は[モイワ]と呼ばれていましたが、開拓使が山麓に[円山村]を作つたことから村の名がそのまま山の名前になつています。札幌の中心からも望む事の出来る山で、藻岩山と並んで札幌の象徴的な山です。
これは、北海道庁赤レンガ庁舎に掲げられている絵画です。[岩舟修三]の[札幌本府の建設]と言う画題が付けられています。説明文には次のように書かれています。[開拓使は北海道の道都(本府)を札幌の地に建設する事とした。内陸開拓を進めるため、行政の中心を函館から道央に移す必要があったからである。使命を担った開拓判官島義勇は、明治2年(1869年)11月札幌に入った。[円山]の上に登った島判官らは無人の荒野を大都市に変えようと雄大な構想を練った。]
2008/08/10のBlog
[ 05:12 ]
[ 札幌の歴史 ]
北方開拓のため[開拓使]が設置されたのは明治2年(1869年)ですが、この年に[蝦夷地]から[北海道]に改称され、札幌での本府建設が始まりましたが、東京には[開拓使東京出張所]が、芝の増上寺に設けられました。ここにはこのあと紹介する[札幌農学校]の前身である[開拓使仮学校]も併設されていました。開拓使が置かれる前の北海道は[箱館府]が行政を執り行っていました。
開拓使制度は、明治2年(1869年)から明治15年(1882年)まで続けられ、開拓使制度が廃止された後は、[札幌県][函館県][根室県]の3県が設立されています。
開拓使の初代長官は、[鍋島直正]が就任しましたが、就任後1ヶ月余で実務に取りかかる前に辞任しています。高齢病弱のため、現地に赴くことが出来ないことが辞任の理由です。
開拓使の初代長官は、[鍋島直正]が就任しましたが、就任後1ヶ月余で実務に取りかかる前に辞任しています。高齢病弱のため、現地に赴くことが出来ないことが辞任の理由です。
[鍋島直正]の後を継いで2代目の長官に就任したのは[東久世通禧]です。東久世長官は明治2年9月に北海道に移りました。その際部下の判官も多く同行しましたが、その内の一人[島義勇]が[札幌本府]の建設と、札幌市街の設計に取りかかりましたが、予算を急激に使った為、長官と対立して罷免され1年で建設は中断しました。替わって赴いた[岩村通俊判官]によって建設が再開され、明治4年(1871年)5月、開拓使庁が札幌に移りました。東久世長官時代に、[函館][根室][宗谷]に出張所、石狩は[銭函]に仮役所が設けられ、北海道全域の開発が本格的に進められる体制が作られました。
[黒田清隆]は、3代目の長官です。2代目の東久世長官が明治4年(1871年)10月に辞任しましたが、その後を継いだのが黒田長官です。黒田清隆が長官になつたのは明治7年(1874年)ですが、それまでは次官のまま東京にあって開拓使の長を勤めていました。黒田長官は退任する明治15年(1882年)2月まで北海道開発の為に尽力され、在任中にはアメリカから[ホーレス・ケプロン]等顧問団を招聘してそののアドバイスに基づき、道路、鉄道の開通、屯田兵制度による移住、官営工場の設立など多角的な開発政策を推進しています。現在札幌大通公園内には[黒田清隆]と[ホーレス・ケプロン]の像が並んで建立されています。
2008/08/08のBlog
[ 05:25 ]
[ 札幌の歴史 ]
現在の札幌市豊平区は、かつての平岸村、月寒村、豊平村を基盤として出来たエリアです。明治4年には現在の岩手県から移住者が平岸、月寒に移住して開拓が進められました。両村は明治5年の開村ですが、遅れて明治7年に豊平村が開村しました。その後明治35年にはこの3村が合併して豊平村となり、豊平村→豊平町→札幌市豊平区へと変遷を重ねながら現在は住宅地としても大きく発展を遂げています。特に平岸地区は地下鉄南北線の沿線として、地下鉄駅も中の島、平岸、南平岸などがあります。写真は平岸街道です。リンゴ並木としても有名な場所です。
この写真は明治4年頃の平岸街道の写真です。当時の道路作りについてパネルには次のように書かれています。[始めは開拓使が家を建てるために笹をかった程度の小道を作ってくれたが、後は村人が力を合わせて大木を切り倒し、木の根を掘り起こし、くま笹を刈って幅広い道路を作った]。
平岸地区の一角に[天神山緑地]がありますが、この庭園に[平岸開基120年記念碑]が建立されています。平岸はアイヌ語で[ビラ・ケシ・イ](崖の尻のところ)という意味だそうです。この緑地にはリンゴについての記念像などがいくつか見られます。
開墾事業に努力する入植者の姿です。この写真は平岸郷土資料館のパネルですが、当時は月寒、豊平などもほぼこれと同じような条件で、開拓に携わった先駆者達は想像を絶する困難と闘いながら開拓に死力を尽くされたのです。
2008/08/06のBlog
[ 05:36 ]
[ 札幌の歴史 ]
現在札幌の円山地区は、円山の麓に広がる高級住宅ゾーンとして、また、観光・スポーツの施設にも恵まれている自然豊かな街です。この[円山]もかつては、円山村として開拓が進められ、後に札幌市に編入されたものです。この地区の歴史は明治3年に酒田県(現在の山形県)からの入植者30戸90人が移り住んだ事から始まりました。この記念碑が[円山開村記念碑]です。明治23年5月に建立され、当時[円山公会堂]があった現在地に昭和3年に移設されたものです。
この碑の裏面には開村の由来なとが刻まれています。これによると現在の円山は最初の入植の年が[庚牛]であったことから[庚牛三の村]と呼ばれていましたが明治4年に当時の判官岩村俊通が[円山]と命名したものです。
この円山の開拓には、南部藩(現在の岩手県)から移住してきた上田万平、善七兄弟の多大の功績がありました。当時の円山は開拓使札幌本府の建設に当たっての食料を供給する衛星村落としてその役割を果たしていました。円山開村記念碑と並んで弟の善七さんの顕彰碑が建立されています。