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2008/08/18のBlog
[ 05:10 ]
[ 札幌の歴史 ]
札幌圏の屯田兵の歴史は明治7年(1874年)で、[琴似屯田兵]の入村から始まりました。この制度は明治32年(1899年)まで続けられ、北海道開拓に大きな貢献を果たしています。札幌にも全国各地から屯田兵が入植し、兵村を作りました。写真の①は[琴似兵村] ②は[山鼻兵村] ③は[新琴似兵村] ④は[篠路兵村]です。これらの兵村は現在の札幌発展の基盤を作り大きな発展を遂げています。
[琴似兵村]は、明治8年(1875年)5月に208戸が入植しました。現在の琴似地区ですが、琴似地区は、地下鉄東西線とJR函館本線が走り、札幌の副都心的な街として大きく発展しています。写真は昭和47年に復元された兵屋です。現在史跡として保存されていますが、当時は150坪に区画割りがされ、一戸は東西10間、南北15間の17.5坪の住まいだつた様です。
[山鼻屯田兵村]は、明治9年[琴似]に次ぐ二番目の兵村として誕生しました。この兵村は現在の中央区山鼻地区にあり開拓使の札幌本府とも近かったため、本来の軍務、開拓という業務の他に[憲兵]としての機能も持たされていたようです。兵村は、現在の西12丁目(通称石山通)を南北に一直線を基点として、その中に約130万坪の用地を用意して、屯田兵の様々な機関が設置されていました。屯田兵顕彰碑がこの石山通に向かって建立されています。山鼻地区の随所に今だ屯田兵の面影が偲ばれる場所があります。
[新琴似屯田兵]が入村した[新琴似]地区は、札幌市の北区にあり現在はJR学園都市線も走り、札幌市のベトタウンとして大きく発展しています。ここに屯田兵が入村したのは、琴似、山鼻からかなり遅れて明治20年です。開拓使制度が廃止された後です。この村には九州、四国地方からの出身者が多く220名が入村しています。写真は復元された[中隊本部]で、新琴似神社の敷地内にあります。屯田兵は、開拓が遅れていた札幌市北部の開拓に大きな貢献を果たしてきました。
2008/08/16のBlog
[ 05:53 ]
[ 札幌の歴史 ]
標石に並んで、史跡の由来を記した案内があります。ここには大凡次の様に記されています。[開拓使は明治5年(1872年)9月開拓使本庁が出来、現在の西4丁目通から西8丁目通までと、北1条通から北6条通までを敷地として、明治6年(1873年)本庁舎が完成した。この庁舎も明治12年(1879年)1月17日の火災で焼失した。
開拓使は明治15年(1882年)2月8日に廃止され、三県一局時代を経て、明治19年(1886年)1月26日、北海道庁が設置された。北海道庁舎は明治21年(1888年)12月14日竣工したが、明治42年(1909年)1月11日の火災のため内部と屋根を焼失した。明治44年(1911年)11月15日、もとの姿に近い形で修復を終え[赤レンガ]の名前で親しまれてきた。昭和43年(1968年)、北海道百年を記念してもとの姿に復元された。]
開拓使は明治15年(1882年)2月8日に廃止され、三県一局時代を経て、明治19年(1886年)1月26日、北海道庁が設置された。北海道庁舎は明治21年(1888年)12月14日竣工したが、明治42年(1909年)1月11日の火災のため内部と屋根を焼失した。明治44年(1911年)11月15日、もとの姿に近い形で修復を終え[赤レンガ]の名前で親しまれてきた。昭和43年(1968年)、北海道百年を記念してもとの姿に復元された。]
2008/08/14のBlog
[ 05:26 ]
[ 札幌の歴史 ]
島義勇は明治2年(1869年)、札幌の街造りに着手しました。現在南1条西1丁目と西側道路を挟んだ一角に[札幌建設の地]碑があります。写真の中央の像の台座には次の様に記されています。[この地は銭函から千歳に抜ける道と藻岩山麓を廻り篠路に行く道路の交差点に当たり、明治2年11月10日開拓判官島義勇、石狩大府の建設をこの地から始めた。現在の札幌はこの付近を基点として発達したものである。]この写真の右は[創成橋]の親柱石です。
これは[大友堀]の大通付近の様子です。現在、札幌の中央部を南北に流れている[創成川]は、慶応2年(1866年)大友亀太郎によつて開削された堀割り(大友堀)を明治になり北6条付近から篠路方面まで通じた運河です。この大友堀のお陰で石狩からの水運が可能となり、島義勇が取り組んだ[札幌本府]の建設に大きく貢献しています。明治2年にはこの大友堀の脇に開拓使の官舎が建設されましたが、これに伴い新しい橋が架けられ[創成橋]と名付けられました。
[大友堀]の上に架けられたのが[創成橋]です。当初の橋は丸太を並べ板を敷いただけの橋でした。背後に見える建物は、[陣屋(宿泊所)]です。現在の橋は明治43年に建設されたものですが、下部の構造はモダンなアーチ型で上部は純日本風の美しいデザインが施され、両側の高欄には[擬宝珠]が取り付けられています。この擬宝珠は江戸時代は藩主のみが橋に付ける事を許されていたと言う格式の高いものだそうです。現在のものは昭和53年に復元されたものです。
この写真は、札幌市役所ロビーにある島義勇の像の側に展示されている案内板です。
島義勇の札幌街作りは、南北の基線として[大友堀]を、東北の基線として[銭函道(現在の南1条通]を設定し、これの交差する橋である[創成橋]を本府の中心にしています。この本府を中心に南北を北6条から南7条、東西は東3丁目から西9丁目までとして、60間毎に巾11間の道路を造っています。このことで札幌の街は碁盤目の整然とした町並みとなつています。このような島義勇の構想は、写真の案内板にある[他日五州第一の都]と謳っているように、[やがて世界一の都になるだろうと]と言う大きな夢に包まれたものでした。
島義勇の札幌街作りは、南北の基線として[大友堀]を、東北の基線として[銭函道(現在の南1条通]を設定し、これの交差する橋である[創成橋]を本府の中心にしています。この本府を中心に南北を北6条から南7条、東西は東3丁目から西9丁目までとして、60間毎に巾11間の道路を造っています。このことで札幌の街は碁盤目の整然とした町並みとなつています。このような島義勇の構想は、写真の案内板にある[他日五州第一の都]と謳っているように、[やがて世界一の都になるだろうと]と言う大きな夢に包まれたものでした。
2008/08/12のBlog
[ 05:18 ]
[ 札幌の歴史 ]
この画像は、札幌市役所ロビーの[島義勇]の像です。島義勇は佐賀藩士、島市郎右衛門・つねの長男として、文政5年(1822年)9月12日佐賀城下の精小路に生まれました。
明治2年(1869年)10月、極寒と積雪に苦しみながらも札幌市街の区画割りを決め、開拓本府の建設に取りかかりました。又、島義勇は当時、北海道の守護神として[大国魂神][大国主命][少彦名神]を祀る事となり、船で函館に着いた祭神を担いで函館から銭函まで運び、その後札幌に移しました。この神を祀つたのが札幌神社で現在の北海道神宮です。そんな縁で、北海道神宮の境内に島義勇の像が建立されているのです。
明治2年(1869年)10月、極寒と積雪に苦しみながらも札幌市街の区画割りを決め、開拓本府の建設に取りかかりました。又、島義勇は当時、北海道の守護神として[大国魂神][大国主命][少彦名神]を祀る事となり、船で函館に着いた祭神を担いで函館から銭函まで運び、その後札幌に移しました。この神を祀つたのが札幌神社で現在の北海道神宮です。そんな縁で、北海道神宮の境内に島義勇の像が建立されているのです。
島義勇が札幌の街作りを進めるため登った円山です。札幌市の西端にあり標高225メートルの低い山です。この山は最初は[モイワ]と呼ばれていましたが、開拓使が山麓に[円山村]を作つたことから村の名がそのまま山の名前になつています。札幌の中心からも望む事の出来る山で、藻岩山と並んで札幌の象徴的な山です。
これは、北海道庁赤レンガ庁舎に掲げられている絵画です。[岩舟修三]の[札幌本府の建設]と言う画題が付けられています。説明文には次のように書かれています。[開拓使は北海道の道都(本府)を札幌の地に建設する事とした。内陸開拓を進めるため、行政の中心を函館から道央に移す必要があったからである。使命を担った開拓判官島義勇は、明治2年(1869年)11月札幌に入った。[円山]の上に登った島判官らは無人の荒野を大都市に変えようと雄大な構想を練った。]
2008/08/10のBlog
[ 05:12 ]
[ 札幌の歴史 ]
北方開拓のため[開拓使]が設置されたのは明治2年(1869年)ですが、この年に[蝦夷地]から[北海道]に改称され、札幌での本府建設が始まりましたが、東京には[開拓使東京出張所]が、芝の増上寺に設けられました。ここにはこのあと紹介する[札幌農学校]の前身である[開拓使仮学校]も併設されていました。開拓使が置かれる前の北海道は[箱館府]が行政を執り行っていました。
開拓使制度は、明治2年(1869年)から明治15年(1882年)まで続けられ、開拓使制度が廃止された後は、[札幌県][函館県][根室県]の3県が設立されています。
開拓使の初代長官は、[鍋島直正]が就任しましたが、就任後1ヶ月余で実務に取りかかる前に辞任しています。高齢病弱のため、現地に赴くことが出来ないことが辞任の理由です。
開拓使の初代長官は、[鍋島直正]が就任しましたが、就任後1ヶ月余で実務に取りかかる前に辞任しています。高齢病弱のため、現地に赴くことが出来ないことが辞任の理由です。
[鍋島直正]の後を継いで2代目の長官に就任したのは[東久世通禧]です。東久世長官は明治2年9月に北海道に移りました。その際部下の判官も多く同行しましたが、その内の一人[島義勇]が[札幌本府]の建設と、札幌市街の設計に取りかかりましたが、予算を急激に使った為、長官と対立して罷免され1年で建設は中断しました。替わって赴いた[岩村通俊判官]によって建設が再開され、明治4年(1871年)5月、開拓使庁が札幌に移りました。東久世長官時代に、[函館][根室][宗谷]に出張所、石狩は[銭函]に仮役所が設けられ、北海道全域の開発が本格的に進められる体制が作られました。
[黒田清隆]は、3代目の長官です。2代目の東久世長官が明治4年(1871年)10月に辞任しましたが、その後を継いだのが黒田長官です。黒田清隆が長官になつたのは明治7年(1874年)ですが、それまでは次官のまま東京にあって開拓使の長を勤めていました。黒田長官は退任する明治15年(1882年)2月まで北海道開発の為に尽力され、在任中にはアメリカから[ホーレス・ケプロン]等顧問団を招聘してそののアドバイスに基づき、道路、鉄道の開通、屯田兵制度による移住、官営工場の設立など多角的な開発政策を推進しています。現在札幌大通公園内には[黒田清隆]と[ホーレス・ケプロン]の像が並んで建立されています。
2008/08/08のBlog
[ 05:25 ]
[ 札幌の歴史 ]
現在の札幌市豊平区は、かつての平岸村、月寒村、豊平村を基盤として出来たエリアです。明治4年には現在の岩手県から移住者が平岸、月寒に移住して開拓が進められました。両村は明治5年の開村ですが、遅れて明治7年に豊平村が開村しました。その後明治35年にはこの3村が合併して豊平村となり、豊平村→豊平町→札幌市豊平区へと変遷を重ねながら現在は住宅地としても大きく発展を遂げています。特に平岸地区は地下鉄南北線の沿線として、地下鉄駅も中の島、平岸、南平岸などがあります。写真は平岸街道です。リンゴ並木としても有名な場所です。
この写真は明治4年頃の平岸街道の写真です。当時の道路作りについてパネルには次のように書かれています。[始めは開拓使が家を建てるために笹をかった程度の小道を作ってくれたが、後は村人が力を合わせて大木を切り倒し、木の根を掘り起こし、くま笹を刈って幅広い道路を作った]。
平岸地区の一角に[天神山緑地]がありますが、この庭園に[平岸開基120年記念碑]が建立されています。平岸はアイヌ語で[ビラ・ケシ・イ](崖の尻のところ)という意味だそうです。この緑地にはリンゴについての記念像などがいくつか見られます。
開墾事業に努力する入植者の姿です。この写真は平岸郷土資料館のパネルですが、当時は月寒、豊平などもほぼこれと同じような条件で、開拓に携わった先駆者達は想像を絶する困難と闘いながら開拓に死力を尽くされたのです。
2008/08/06のBlog
[ 05:36 ]
[ 札幌の歴史 ]
現在札幌の円山地区は、円山の麓に広がる高級住宅ゾーンとして、また、観光・スポーツの施設にも恵まれている自然豊かな街です。この[円山]もかつては、円山村として開拓が進められ、後に札幌市に編入されたものです。この地区の歴史は明治3年に酒田県(現在の山形県)からの入植者30戸90人が移り住んだ事から始まりました。この記念碑が[円山開村記念碑]です。明治23年5月に建立され、当時[円山公会堂]があった現在地に昭和3年に移設されたものです。
この碑の裏面には開村の由来なとが刻まれています。これによると現在の円山は最初の入植の年が[庚牛]であったことから[庚牛三の村]と呼ばれていましたが明治4年に当時の判官岩村俊通が[円山]と命名したものです。
この円山の開拓には、南部藩(現在の岩手県)から移住してきた上田万平、善七兄弟の多大の功績がありました。当時の円山は開拓使札幌本府の建設に当たっての食料を供給する衛星村落としてその役割を果たしていました。円山開村記念碑と並んで弟の善七さんの顕彰碑が建立されています。
2008/08/04のBlog
[ 05:37 ]
[ 札幌の歴史 ]
札幌開拓の先駆者の一人として挙げられるのが[大友亀太郎]です。前回紹介した[志村鉄一・吉田茂八]が札幌に移住したのが1857年、ついで1860年に[荒井金助]が[荒井村]を開村しましたが、遅れること6年、大友亀太郎が現在の東区に[御手作場(箱館奉行所直営農場)]を開き、[大友堀]を開削して、本格的な農業の基礎を築きました。
写真は、現在札幌市東区にある[札幌村郷土記念館]前庭に建立されている[大友亀太郎像]です。大友亀太郎によって基盤が作られた札幌村の農業は、雑穀から果樹栽培を経て、玉ネギ栽培へと移行して、我が国の玉ネギ栽培の先進地として発展を遂げています。今日の発展の基礎を作ったのは大友亀太郎であり、札幌開拓の先駆者としてその業績の数々がこの記念館に展示されています。大友亀太郎が最初に入植したのは[元村]ですが、明治4年に[苗穂村][丘珠村][札幌新村]が元村が合併して[札幌村]となりました。
写真は、現在札幌市東区にある[札幌村郷土記念館]前庭に建立されている[大友亀太郎像]です。大友亀太郎によって基盤が作られた札幌村の農業は、雑穀から果樹栽培を経て、玉ネギ栽培へと移行して、我が国の玉ネギ栽培の先進地として発展を遂げています。今日の発展の基礎を作ったのは大友亀太郎であり、札幌開拓の先駆者としてその業績の数々がこの記念館に展示されています。大友亀太郎が最初に入植したのは[元村]ですが、明治4年に[苗穂村][丘珠村][札幌新村]が元村が合併して[札幌村]となりました。
これは[札幌村郷土記念館]です。ここには、大友亀太郎が関係する歴史資料や史跡などが数多く展示され、パネルで入植当時の様子なども見ることが出来ます。前庭の[大友亀太郎像]も、これまで都心の創成川河畔に建立されていましたが、2005年に創成川の大改修のため、縁の地に引っ越してきたものです。
記念館の前庭に[札幌タマネギ記念碑]があります。碑には[我が国の玉葱栽培はこの地に始まる]と刻まれており、台座の説明文には次のように記されています[日本の玉葱は明治4年開拓使が米国から種子を輸入して札幌官園で試作した後多くの苦心が重ねられた。明治30年代には札幌村に始まった玉葱は次第に近村に広がり篠路、白石村を含めた大産地となる。札幌特産として全国に出荷されるばかりでなく、広く外国にも輸出されてその名声が一段と高まった]。
[大友亀太郎]は、元保5年(1834年)現在の神奈川県小田原市で生まれました。二宮尊徳の門に学び[人の一生は金銀財宝に富めるにあらず、積善の道に如かず]を信念としていました。安政5年(1858年)には、石狩地方開拓の命を受けて札幌市東区(旧元村)に土地を選んで開墾、札幌市の街作りの発端を作りました。明治3年(1870年)に札幌を去り、明治30年(1897年)12月14日、63才で死去されました。
2008/08/02のBlog
[ 05:23 ]
[ 札幌の歴史 ]
1922年(大正11年)8月1日は、札幌に市政がひかれ札幌区が札幌市に変わった記念日です。開拓史によつて札幌府の建設が始められてから多くの先人達によつて築かれた札幌は、未来にむかつて更に飛躍しようとしています。今日の記念日を皮切りに永い札幌発展の歩みを回顧したいと思います。
札幌は、豊平川の扇状地の上に発展してきた街です。まさに豊平川は札幌市民にとって[母なる川]と呼ばれる所以です。札幌の歴史はこの豊平川から始まつたと言つても過言ではありません。写真は現在の[豊平橋]です。この橋は、札幌市内を縦断する国道36号線の上に架かつていて千歳、苫小牧方面に通ずる大動脈としての役割を果たしています。この豊平橋の東・西の河畔に、札幌開拓の先駆者である[志村鉄一]と[吉田茂八]の像が建立されています。
札幌は、豊平川の扇状地の上に発展してきた街です。まさに豊平川は札幌市民にとって[母なる川]と呼ばれる所以です。札幌の歴史はこの豊平川から始まつたと言つても過言ではありません。写真は現在の[豊平橋]です。この橋は、札幌市内を縦断する国道36号線の上に架かつていて千歳、苫小牧方面に通ずる大動脈としての役割を果たしています。この豊平橋の東・西の河畔に、札幌開拓の先駆者である[志村鉄一]と[吉田茂八]の像が建立されています。
安政2年(1855年)、幕府は蝦夷地を直轄地として[箱館]に奉行所を置き、石狩に[調役]を設けました。三代目の調役の荒井金助氏は、豊平川の東岸に[志村鉄一]西岸に[吉田茂八]両氏を渡し守として住ませました。両氏は葡萄蔓を川に張りそれをたぐりながら船を渡したと、言われています。
この写真は、豊平橋の東岸の小公園に建立されている[志村鉄一碑]です。
碑文には[志村鉄一は、信州出身の剣客で石狩調役荒井金助の召に応じ安政4年に移住す。幕命により豊平川の渡し守となる]と、書かれています。
この写真は、豊平橋の東岸の小公園に建立されている[志村鉄一碑]です。
碑文には[志村鉄一は、信州出身の剣客で石狩調役荒井金助の召に応じ安政4年に移住す。幕命により豊平川の渡し守となる]と、書かれています。
志村鉄一の碑とは対照的に、豊平橋の西岸の小公園に建立されている、[吉田茂八碑]です。碑文によると[吉田茂八氏は、南部に生まれ、安政2年渡道し同4年、志村鉄一氏の話し相手として西岸の渡し守となった。資質温厚にして剛胆、狩猟を得意としていたが、後年には創成川の南3条から南6条の堀割工事を請け負つている。このためこの堀割を[吉田堀]とも呼ばれていた]。
現在、豊平川には上・中・下流に48の橋が架けられていますが、最初の橋が架けられたのは明治4年(1871年)です。最初の橋は、丸太を並べた極めて粗末なもので相次ぐ風水害で幾度となく流失を余儀なくされました。この橋も完成後3ヶ月で流されています。このため此の後何度となく架け替え工事が行われています。
2008/07/31のBlog
[ 05:04 ]
[ 札幌の自然(1) 川・山・緑地 ]
交通量の激しい国道12号線を離れて[野津幌川]沿いを歩くと広々とした野津幌川緑地です。JR千歳線を夾んで[青葉町]と[もみじ台]の大きな住宅ゾーンが広がります。この中央を流れる川にはいくつもの橋が架けられ両地区の架け橋となつています。
2008/07/30のBlog
[ 05:55 ]
[ 町並みウオッチング ]
やがて開拓記念館に出ますが、ここからは[野幌森林公園]の静かな山間が続きます。ここから[開拓の村]へは、[百年橋][開拓大橋]を渡りますが、左手は森林、右手眼下には札幌厚別地区の町なみが眺望できます。
2008/07/28のBlog
[ 05:41 ]
[ 町並みウオッチング ]
厚別駅前から信濃神社を経由して12号線に出ます。ここから西が札幌方面、東に進むと江別、岩見沢方面です。[森林公園]とかかれた大きな標識が目に入ります。左に折れると厚別駅の隣駅[森林公園駅]です。右に折れると百年塔、開拓の村に向かいます。大変交通が激しい場所の一つです。
もみじ台通と交差する手前の小高い場所に[小野幌神社]があります。国道12号線は江別から岩見沢・旭川に通ずる幹線で交通量も多い場所です。この地区は、明治22年山口県から入植した秋本槌五郎さん一家が開拓の鍬をおろしたのが始まりで原始の森を現在の農業地帯に開拓し大きな発展を遂げるに至りました。
この神社は、当初[小野幌八幡神社]と呼ばれていました。明治38年9月20日、小野幌24番地に社殿が建立されましたが、地域の中心が国道12号線付近に変わったのを機に昭和9年11月現在地に移転し、社殿を新築しました。昭和18年には[大沢神社(小野幌伏見神社)]を合祀しています。ご祭神は、誉田別命、稲荷大神です。
2008/07/26のBlog
[ 06:05 ]
[ 町並みウオッチング ]
暫く時間をかけて札幌の地下鉄沿線主要駅周辺のウオツチングを行ってきましたが、ひとまず終えて、今回はJR函館本線[厚別駅]周辺のウオッチングです。[厚別駅]は、札幌市東部の厚別区厚別中央5条4丁目に位置し、函館本線(小樽-旭川)間で札幌市内でも最東の部に入る駅です。厚別地区の開拓は古く、明治15年に札幌と幌内炭坑(現在の三笠市)間に鉄道が敷設され厚別も通過点となりました。この駅周辺の開発は明治16年で長野県からの移住者が多く当時は[信州信濃]と呼んでいたので長い間[信州開拓地]と呼ばれていました。現在では町並みも整備され駅前通りなどにも店舗やビルが建ち並ぶ町並みと大きく変わっています。
2008/07/24のBlog
[ 05:21 ]
[ 町並みウオッチング ]
東豊線[東区役所]ですが、このあたりにくるとこれまでの郊外といったイメージが薄れ都市的なイメージが強まってきます。地上に昇ると道路を夾んで、区役所、区民センターなどの公共施設と、市営の高層住宅が向かい合っています。ここを走っている道路はこれまで紹介してきた東15丁目・屯田通です。
連なる市営の高層住宅です。これまでの市営住宅は通常4-5階程度ですが、この地区は早くから[光星団地]と呼ばれ市の再開発事業として高層の市営住宅が建てられ評判を呼んでいた処です。現在では地下鉄駅前の好環境に恵まれた素晴らしい住環境となつています。
区民センターです。周りの植え込みには[ラベンダー]が今を盛りに咲き誇り街の景観に一役かつています。区役所前庭には本田明二さん制作の彫像も設置され和らいだ地域のコミュニティセンターとして存在感を増しているようです。
2008/07/22のBlog