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2005/12/27のBlog
[ 10:57 ]
[ 水運趣味の本など ]
年末の雑事にかまけて、出航はおろか、艇の整備にも行ってやれない、陸船長の罪滅ぼし(?)として、すでにお持ちの方も多いとは思いますが、2冊の河川水路誌をご紹介します。
この2冊は、航路情報だけではなく、標識の意味や規制、関連する条例や処罰についても明記してあり、江東区内の水路や、荒川を航行する方は、目を通しておいて損はないものです。
略同の内容が、下掲の各サイトにも掲載されていますから、プリントアウトして携行しても良いのですが、やはり、冊子にされたものを眺める方が、航行計画を立てるのも、ゆっくり落ちついてでき、また読んでいるだけでも楽しいものです。
いずれも無料で配布されているものですから、お近くの方はマリーナや、都河川局または、国交省の関連施設(例えば荒川知水資料館)で入手できます。詳しくは、下記のサイトを通じて、発行元へおたずね下さい。
この類の水路誌は、恐らくわが国で初めて発行されるものですので、初モノゆえの、不慣れさが目に付くのは致し方ありません。
あまり、ぜいたくを言ってはいけないと思うのですが、あえて欲を言わせていただければ…特に「江東内部河川…」については、水深・可航幅の情報、これは船舶の安全に関わりますから、ぜひ記載していただきたかったと思います。橋桁下高さがすべて明記されているのですから、このくらいは不可能ではないでしょう。
また将来は、管轄の枠を越えて(これが難しいのでしょうが)、せめて江戸川から多摩川まで、東京全域の可航水路は、一冊の水路誌にまとめて、発行していただくのが理想的ですね。
さらに、無料配布物のかたちを採ると、遠方の人が入手しにくいことや、水路誌は定期的に更新する必要があることを考えると、やはり専門の団体(財団法人・日本水路協会)にまかせた方が、万事効率が良くなるような気がするのですが…。
もちろん、現状では、海洋・港湾と河川は、はっきりと区別されており、水路協会は、海洋の図誌を管理販売する会社ですので、実現したとしても、調整が難しそうではありますが…。
「荒川通航ガイド」
A4判 中綴じ 40ページ
発行:国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所・荒川下流河川事務所
平成17年10月発行
(『ARA』の『荒川における船舶の通航方法のあらまし』でも、ほぼ同じ内容が閲覧できます。)
こちらはマリーナで配布されていたのを貰いました。発行年月より、だいぶ早く出ていたような気がします。
「江東内部河川通航ガイド」
A4判 中綴じ 32ページ
発行:東京都建設局河川部 指導調整課・計画課
平成17年10月発行
(『東京都建設局・河川部』の『江東内部河川における船舶の通航方法』でも、ほぼ同じ内容が閲覧できます。)
すでに、こちらでも触れましたが、荒川閘門の記念式典会場、都建設局のブースで配布されていました。
この2冊は、航路情報だけではなく、標識の意味や規制、関連する条例や処罰についても明記してあり、江東区内の水路や、荒川を航行する方は、目を通しておいて損はないものです。
略同の内容が、下掲の各サイトにも掲載されていますから、プリントアウトして携行しても良いのですが、やはり、冊子にされたものを眺める方が、航行計画を立てるのも、ゆっくり落ちついてでき、また読んでいるだけでも楽しいものです。
いずれも無料で配布されているものですから、お近くの方はマリーナや、都河川局または、国交省の関連施設(例えば荒川知水資料館)で入手できます。詳しくは、下記のサイトを通じて、発行元へおたずね下さい。
この類の水路誌は、恐らくわが国で初めて発行されるものですので、初モノゆえの、不慣れさが目に付くのは致し方ありません。
あまり、ぜいたくを言ってはいけないと思うのですが、あえて欲を言わせていただければ…特に「江東内部河川…」については、水深・可航幅の情報、これは船舶の安全に関わりますから、ぜひ記載していただきたかったと思います。橋桁下高さがすべて明記されているのですから、このくらいは不可能ではないでしょう。
また将来は、管轄の枠を越えて(これが難しいのでしょうが)、せめて江戸川から多摩川まで、東京全域の可航水路は、一冊の水路誌にまとめて、発行していただくのが理想的ですね。
さらに、無料配布物のかたちを採ると、遠方の人が入手しにくいことや、水路誌は定期的に更新する必要があることを考えると、やはり専門の団体(財団法人・日本水路協会)にまかせた方が、万事効率が良くなるような気がするのですが…。
もちろん、現状では、海洋・港湾と河川は、はっきりと区別されており、水路協会は、海洋の図誌を管理販売する会社ですので、実現したとしても、調整が難しそうではありますが…。
「荒川通航ガイド」
A4判 中綴じ 40ページ
発行:国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所・荒川下流河川事務所
平成17年10月発行
(『ARA』の『荒川における船舶の通航方法のあらまし』でも、ほぼ同じ内容が閲覧できます。)
こちらはマリーナで配布されていたのを貰いました。発行年月より、だいぶ早く出ていたような気がします。
「江東内部河川通航ガイド」
A4判 中綴じ 32ページ
発行:東京都建設局河川部 指導調整課・計画課
平成17年10月発行
(『東京都建設局・河川部』の『江東内部河川における船舶の通航方法』でも、ほぼ同じ内容が閲覧できます。)
すでに、こちらでも触れましたが、荒川閘門の記念式典会場、都建設局のブースで配布されていました。
2005/12/26のBlog
[ 21:13 ]
[ その他 ]
だいぶ前の話で恐縮ですが、水上バス(東京都観光汽船)の、日の出桟橋で購入した、下敷き・鉛筆・消しゴムのセットをご覧に入れます。
昭和20~30年代でしょうか、いにしえの隅田川の風景や、水上バス船隊の船影をコラージュ風にあしらったもので、雰囲気に惹かれたというよりは、登場するフネブネのディテールに吸い寄せられ、もう横っ飛びに購入(笑)。
裏側は、隅田川の橋梁群の略図と、来歴をまとめた、言わばミニ図鑑になっています。
他のオリジナルグッズは、こちら(東京都観光汽船HP)をご覧下さい。
この日、8月23日は、普段は横目で見つつ通り過ぎているばかりの、身近なフネどもに乗ってやろうと、午後の短い時間で、3隻をハシゴという船バカっぷり…。
お台場のゴーイングメリー号、お台場~日の出桟橋を水上バス「道灌」、日の出桟橋~浅草を水上バス「ヒミコ」…連れとともに、堪能はしたのですが、空模様はよろしくなく、断続的な豪雨に見舞われるありさまでした。
やはり、似合わないことはするな、という天の教えなのでしょうか。
昭和20~30年代でしょうか、いにしえの隅田川の風景や、水上バス船隊の船影をコラージュ風にあしらったもので、雰囲気に惹かれたというよりは、登場するフネブネのディテールに吸い寄せられ、もう横っ飛びに購入(笑)。
裏側は、隅田川の橋梁群の略図と、来歴をまとめた、言わばミニ図鑑になっています。
他のオリジナルグッズは、こちら(東京都観光汽船HP)をご覧下さい。
この日、8月23日は、普段は横目で見つつ通り過ぎているばかりの、身近なフネどもに乗ってやろうと、午後の短い時間で、3隻をハシゴという船バカっぷり…。
お台場のゴーイングメリー号、お台場~日の出桟橋を水上バス「道灌」、日の出桟橋~浅草を水上バス「ヒミコ」…連れとともに、堪能はしたのですが、空模様はよろしくなく、断続的な豪雨に見舞われるありさまでした。
やはり、似合わないことはするな、という天の教えなのでしょうか。
2005/12/24のBlog
[ 19:10 ]
[ 水運趣味の本など ]
世間一般では、モーターボートに乗っている人というと、まず、釣りを目的としている、と思うらしく、実際ボートでの釣り人口は多いのですが、私はなぜか、釣りにはトンと興味が沸きませんでした。
子供のころから、海が好きでしたので、磯での魚採りや、岸壁で手釣りをするといった遊びは一通りしましたが、それもボートに乗るようになると、まったくやらなくなってしまいました。
おかげで、魚の判別は、食卓に出されるもの以外、見当もつきません。とんだ「海の男」(でもなんでもないですね…)?もあったものですね。
そんな私が、書店に入って、たまに釣りの本のコーナーをのぞくようになったのは、釣り雑誌などのガイドが、時に河川の航路情報として、使える部分(ごく一部ですが)があることに気付いてからです。
以前ご紹介した、第三海堡の項でも書きましたが、釣り人さんの執着心というのはある種見上げたもので、普通の人が、絶対に足を踏み入れない危険な場所でも、釣れるとあらば、万難を排して赴くファイトには、いつも感心していました。
今回ご紹介する「海釣りドライブマップ② 東京湾ベイエリア」は、そこまでコアではないにせよ、沿岸や沖合いの防波堤、釣り舟などで、海釣りをする人のためのガイドマップとして、作られたものです。
内容ですが、東京湾沿岸を、久里浜港から上総湊まで、29のエリアに分けて見開きの地図とし、釣れる魚の種類はもちろん、クルマで入れる岸壁か、立入禁止か否かなど、情報をこと細かに掲載しています。
本書をボート乗り諸兄にお勧めする理由は、そんなオカの情報はさて置き、沿岸の状態や、航路情報が濃厚な点です。
「×m掘り下げ済み」と、航路の水深や、沿岸に近い浅瀬の水深と名称、岸の状態(岸壁、法面、テトラポッドなど)が、詳細に掲載されているのを見て驚き、改めて、釣り人にとっては、水深の把握が重要なことがわかりました。
東京湾奥部の水路探索は、特に東部水域に浅瀬が多く、小河川に進入する際、地元の人しか知らないような澪標を探し当て、恐る恐る入らなければならないなど、初めてですと緊張させられるものです。(それがまた、楽しみでもあるのですが…。)
船舶のための図ではありませんから、澪標や、ブイまでは記載されていませんが、沿岸航行に、充分役に立つレベルの情報が書かれています。既存の海図・参考図と併せて、使われるとよろしいでしょう。
一つ難を言えば、地図の天地が方角を基調(北が上、南が下)にしておらず、岸から海を見る形で描かれているため、エリアによって方角が変わるので、慣れないと使いづらい点でしょうか。
ともあれ、私のように、GPSチャートを塔載されていない方、またミニボートオーナーの方に、特にお勧めの一冊です。
海釣りドライブマップ② 東京湾ベイエリア
B4判 中綴じ
14年5月初版(写真は17年9月5刷) 定価税込¥1,575-
発行:つり人社
子供のころから、海が好きでしたので、磯での魚採りや、岸壁で手釣りをするといった遊びは一通りしましたが、それもボートに乗るようになると、まったくやらなくなってしまいました。
おかげで、魚の判別は、食卓に出されるもの以外、見当もつきません。とんだ「海の男」(でもなんでもないですね…)?もあったものですね。
そんな私が、書店に入って、たまに釣りの本のコーナーをのぞくようになったのは、釣り雑誌などのガイドが、時に河川の航路情報として、使える部分(ごく一部ですが)があることに気付いてからです。
以前ご紹介した、第三海堡の項でも書きましたが、釣り人さんの執着心というのはある種見上げたもので、普通の人が、絶対に足を踏み入れない危険な場所でも、釣れるとあらば、万難を排して赴くファイトには、いつも感心していました。
今回ご紹介する「海釣りドライブマップ② 東京湾ベイエリア」は、そこまでコアではないにせよ、沿岸や沖合いの防波堤、釣り舟などで、海釣りをする人のためのガイドマップとして、作られたものです。
内容ですが、東京湾沿岸を、久里浜港から上総湊まで、29のエリアに分けて見開きの地図とし、釣れる魚の種類はもちろん、クルマで入れる岸壁か、立入禁止か否かなど、情報をこと細かに掲載しています。
本書をボート乗り諸兄にお勧めする理由は、そんなオカの情報はさて置き、沿岸の状態や、航路情報が濃厚な点です。
「×m掘り下げ済み」と、航路の水深や、沿岸に近い浅瀬の水深と名称、岸の状態(岸壁、法面、テトラポッドなど)が、詳細に掲載されているのを見て驚き、改めて、釣り人にとっては、水深の把握が重要なことがわかりました。
東京湾奥部の水路探索は、特に東部水域に浅瀬が多く、小河川に進入する際、地元の人しか知らないような澪標を探し当て、恐る恐る入らなければならないなど、初めてですと緊張させられるものです。(それがまた、楽しみでもあるのですが…。)
船舶のための図ではありませんから、澪標や、ブイまでは記載されていませんが、沿岸航行に、充分役に立つレベルの情報が書かれています。既存の海図・参考図と併せて、使われるとよろしいでしょう。
一つ難を言えば、地図の天地が方角を基調(北が上、南が下)にしておらず、岸から海を見る形で描かれているため、エリアによって方角が変わるので、慣れないと使いづらい点でしょうか。
ともあれ、私のように、GPSチャートを塔載されていない方、またミニボートオーナーの方に、特にお勧めの一冊です。
海釣りドライブマップ② 東京湾ベイエリア
B4判 中綴じ
14年5月初版(写真は17年9月5刷) 定価税込¥1,575-
発行:つり人社
2005/12/23のBlog
[ 22:19 ]
[ つぶやき ]
(『閘門の話…1』のつづき)
ご退屈とは思いますが、引き続き閘門についてのあれこれを…。
当初の予定より、引用させていただいた書籍が2点増えました。最初に「土木史」の書影(表紙にタイトルがないので、扉ページを写しました)を掲げ、次に追加2点の書影を掲載します。
また、前回予告した通り、各書についての詳細は、本欄文末に紹介します。
■わが国最初の閘門について
11月11日の記事と重複しますが、改めて。
前回の「閘門とは…」でも触れましたが、「工学」によりますと、「吉井水閘門は倉田新田の灌漑用水確保と高瀬舟通船用運河として(中略)1679年(延宝7)竣工したわが国最古の閘門」と、図版もなく、簡単ではありますが項目の冒頭に記され、次に見沼通船堀が1731年(享保16)に完成したことが、こちらは若干のディテールを交えて語られています。
一方、「土木史」では、見沼通船堀の創設を、「日本最初の閘門」と一項を設けて特筆、縦断面図・平面図まで掲載され、その成り立ちや関わった人物、消長までもが仔細に解説されて、かなり大きな扱いとなっています。見沼のことは、他の章でも再三に渡り紹介されていますが、吉井水門には触れられていません。
「土木史」は、記事の多くが戦前に書かれ、原稿の一部を戦災で焼失し、戦後改めて編纂、昭和31年に至りようやく出版にこぎつけたような本で、わが国の土木の発達を通覧するには、二つとない好著ですが、構造だけ見ても見沼のそれより、閘門としてはるかに完成度の高かった吉井水門が、なぜ中央の学会に認識されなかったのでしょうか。
確かに見沼通船堀は、江戸に近く、また江戸と密接な関係のある航路上にあり、かつ大正時代まで実稼動(幕府から管理を任されていた高田家が、明治に入って払い下げを受け、『見沼通船会社』を設立・運営していました)していたため、知名度の高さは吉井水門の比ではなかったでしょう。
何より、見沼通船堀は幕府直々のお墨付きをもらった、ある種公開された施設でしたが、吉井水門は公的施設とは言え、岡山藩池田家の命により建造された、他国人が関わることのできないものであったことも、災いしたのでしょう。
江戸時代のパターンとして、技術的な伝承にはきわめて用心深く、多くは一子相伝のかたちを採って門外不出が原則でした。沿海航路を行き来する船舶のように、現物が諸国を移動しているものは、他地方の職人も模倣が可能でしたので、一子相伝が自然に崩れてゆく例もありましたが、土木構造物は、現地を訪ねなければ目にすることはできませんから、技術が進歩している国と、そうでない国の格差を縮めることは、難しかったに違いありません。
技術の移植が困難であった時代の、好例を掲載しているサイトがありました。しかも吉井水門に、関わりの深い話です。
北九州・堀川の開削と、水門の建造をやさしく解説したサイト(『堀川の歴史と文化』堀川くるくる隊より)がありますが、ここでは、堀川の水門「中間の唐戸」を建造するに当たり、藩の命を受けた一田久作なる人物が、巡礼に扮装して、治水技術が進んでいると評判の岡山に潜入、吉井水門の構造をメモして持ち帰る話が紹介されています。
一田が、諜報のにおいすらする、このような行動をとったのも、治水技術が国の根幹として、厳重に秘匿されていたからに他なりません。
こうして見ると、吉井水門が、最近まで知られることがなかったのは、藩政時代の秘匿の徹底と、中央からの距離、ということになりましょうか。また、自治体が文化財の保存・宣伝まで手が回らず、長らく放置されていた、ということも原因として考えられます。見沼通船堀は、最近復元されるまで、荒れ放題でしたが、恐らく吉井水門も、それに近い状態だったのではないでしょうか。
上記二つの閘門は、構造の違いや竣工年度の隔たりからも、それぞれ独自に、のちの世でいう閘門に、極めて近い発想を得た、と考えて差し支えないと思われます。
明代の図説百科全書「天工開物」には、角落とし式の水門の図が載っている、ということもありますから、大陸の書物からある程度の着想を得た可能性も、否定できません。
しかし、この時代の他の技術分野、例えば船舶(大型和船)の構造や、航海術の進歩ぶりなどを併せ考えますと、より完全な物流に対する世の中の欲求が、与って力あり、関係者に知恵を絞らせたとみて良いでしょう。
「京都 高瀬川 ―角倉了以・素庵の遺産―」では、高瀬船の名称を持つ川舟は、水運の盛んな各地にあるが、岡山のそれが最も早く現れた(出現年代は確証なしとの、注釈つきながら)ことに触れ、角倉了以がそれを見て影響され、京都の高瀬川建設を思い立った記録を紹介しています。
吉井水門の堅実かつ先進的な設計は、河川舟運や治水土木技術で、全国に先んじていた土地ならではのものなのかもしれません。
脱線しますが、見沼代用水は、通船堀の他にも、他の水路にはない施設を持っていました。「土木史」にも紹介されていますが、瓦葺掛渡樋(享保13年完成、長さ24間・幅4間・高さ6尺)がそれです。国内では数少ない、通船可能な水路橋で、綾瀬川との交差に設けられていました。
また、これも「土木史」からですが、江戸時代の閘門に関して今ひとつ、紹介したい水路があります。
茨城県の涸沼より巴川に連絡、北浦につないで、那珂湊から江戸までの、内陸通船路を実現させるべく計画された「勘十郎堀」は、宝永5年(1708)に一旦完成しましたが放置され、のち宝暦5年(1755)に再興したものの、やはり短期間で廃止された運河です。ここでは、閘門や滑走台(スロープ)を備えた、画期的な運河とされています。
この閘門式は、見沼のような完全なものではなかったようで、具合が悪かったらしく、のちに改造されました。
「国土づくりの礎・川が語る日本の歴史」によると、勘十郎堀では、標高的に水を自然流下させることは不可能だったので、「二里(約四キロメートル)の間、運河の中に堤防と木柵による締切り十ヶ所を造り、締切り箇所で積荷を人力で降ろして次の船に乗せ水路を行く、次の締切りでまた人力によって次の水路の船に移動させる」、というディテールが語られています。
勘十郎堀の計画から、放棄に至るまでのストーリーは、「荒野の回廊」という小説にも描かれています。
吉井水門を初めとする、これら3つの計画を見ると、立案・竣工は、ほぼ同時代で、全国規模の流通が活発化した江戸時代中期、より安全・確実に、かつ安価に物流をなしたいとする商工界の要望が、これらの水路を求めたといっても、言い過ぎではないように思えます。
ご退屈とは思いますが、引き続き閘門についてのあれこれを…。
当初の予定より、引用させていただいた書籍が2点増えました。最初に「土木史」の書影(表紙にタイトルがないので、扉ページを写しました)を掲げ、次に追加2点の書影を掲載します。
また、前回予告した通り、各書についての詳細は、本欄文末に紹介します。
■わが国最初の閘門について
11月11日の記事と重複しますが、改めて。
前回の「閘門とは…」でも触れましたが、「工学」によりますと、「吉井水閘門は倉田新田の灌漑用水確保と高瀬舟通船用運河として(中略)1679年(延宝7)竣工したわが国最古の閘門」と、図版もなく、簡単ではありますが項目の冒頭に記され、次に見沼通船堀が1731年(享保16)に完成したことが、こちらは若干のディテールを交えて語られています。
一方、「土木史」では、見沼通船堀の創設を、「日本最初の閘門」と一項を設けて特筆、縦断面図・平面図まで掲載され、その成り立ちや関わった人物、消長までもが仔細に解説されて、かなり大きな扱いとなっています。見沼のことは、他の章でも再三に渡り紹介されていますが、吉井水門には触れられていません。
「土木史」は、記事の多くが戦前に書かれ、原稿の一部を戦災で焼失し、戦後改めて編纂、昭和31年に至りようやく出版にこぎつけたような本で、わが国の土木の発達を通覧するには、二つとない好著ですが、構造だけ見ても見沼のそれより、閘門としてはるかに完成度の高かった吉井水門が、なぜ中央の学会に認識されなかったのでしょうか。
確かに見沼通船堀は、江戸に近く、また江戸と密接な関係のある航路上にあり、かつ大正時代まで実稼動(幕府から管理を任されていた高田家が、明治に入って払い下げを受け、『見沼通船会社』を設立・運営していました)していたため、知名度の高さは吉井水門の比ではなかったでしょう。
何より、見沼通船堀は幕府直々のお墨付きをもらった、ある種公開された施設でしたが、吉井水門は公的施設とは言え、岡山藩池田家の命により建造された、他国人が関わることのできないものであったことも、災いしたのでしょう。
江戸時代のパターンとして、技術的な伝承にはきわめて用心深く、多くは一子相伝のかたちを採って門外不出が原則でした。沿海航路を行き来する船舶のように、現物が諸国を移動しているものは、他地方の職人も模倣が可能でしたので、一子相伝が自然に崩れてゆく例もありましたが、土木構造物は、現地を訪ねなければ目にすることはできませんから、技術が進歩している国と、そうでない国の格差を縮めることは、難しかったに違いありません。
技術の移植が困難であった時代の、好例を掲載しているサイトがありました。しかも吉井水門に、関わりの深い話です。
北九州・堀川の開削と、水門の建造をやさしく解説したサイト(『堀川の歴史と文化』堀川くるくる隊より)がありますが、ここでは、堀川の水門「中間の唐戸」を建造するに当たり、藩の命を受けた一田久作なる人物が、巡礼に扮装して、治水技術が進んでいると評判の岡山に潜入、吉井水門の構造をメモして持ち帰る話が紹介されています。
一田が、諜報のにおいすらする、このような行動をとったのも、治水技術が国の根幹として、厳重に秘匿されていたからに他なりません。
こうして見ると、吉井水門が、最近まで知られることがなかったのは、藩政時代の秘匿の徹底と、中央からの距離、ということになりましょうか。また、自治体が文化財の保存・宣伝まで手が回らず、長らく放置されていた、ということも原因として考えられます。見沼通船堀は、最近復元されるまで、荒れ放題でしたが、恐らく吉井水門も、それに近い状態だったのではないでしょうか。
上記二つの閘門は、構造の違いや竣工年度の隔たりからも、それぞれ独自に、のちの世でいう閘門に、極めて近い発想を得た、と考えて差し支えないと思われます。
明代の図説百科全書「天工開物」には、角落とし式の水門の図が載っている、ということもありますから、大陸の書物からある程度の着想を得た可能性も、否定できません。
しかし、この時代の他の技術分野、例えば船舶(大型和船)の構造や、航海術の進歩ぶりなどを併せ考えますと、より完全な物流に対する世の中の欲求が、与って力あり、関係者に知恵を絞らせたとみて良いでしょう。
「京都 高瀬川 ―角倉了以・素庵の遺産―」では、高瀬船の名称を持つ川舟は、水運の盛んな各地にあるが、岡山のそれが最も早く現れた(出現年代は確証なしとの、注釈つきながら)ことに触れ、角倉了以がそれを見て影響され、京都の高瀬川建設を思い立った記録を紹介しています。
吉井水門の堅実かつ先進的な設計は、河川舟運や治水土木技術で、全国に先んじていた土地ならではのものなのかもしれません。
脱線しますが、見沼代用水は、通船堀の他にも、他の水路にはない施設を持っていました。「土木史」にも紹介されていますが、瓦葺掛渡樋(享保13年完成、長さ24間・幅4間・高さ6尺)がそれです。国内では数少ない、通船可能な水路橋で、綾瀬川との交差に設けられていました。
また、これも「土木史」からですが、江戸時代の閘門に関して今ひとつ、紹介したい水路があります。
茨城県の涸沼より巴川に連絡、北浦につないで、那珂湊から江戸までの、内陸通船路を実現させるべく計画された「勘十郎堀」は、宝永5年(1708)に一旦完成しましたが放置され、のち宝暦5年(1755)に再興したものの、やはり短期間で廃止された運河です。ここでは、閘門や滑走台(スロープ)を備えた、画期的な運河とされています。
この閘門式は、見沼のような完全なものではなかったようで、具合が悪かったらしく、のちに改造されました。
「国土づくりの礎・川が語る日本の歴史」によると、勘十郎堀では、標高的に水を自然流下させることは不可能だったので、「二里(約四キロメートル)の間、運河の中に堤防と木柵による締切り十ヶ所を造り、締切り箇所で積荷を人力で降ろして次の船に乗せ水路を行く、次の締切りでまた人力によって次の水路の船に移動させる」、というディテールが語られています。
勘十郎堀の計画から、放棄に至るまでのストーリーは、「荒野の回廊」という小説にも描かれています。
吉井水門を初めとする、これら3つの計画を見ると、立案・竣工は、ほぼ同時代で、全国規模の流通が活発化した江戸時代中期、より安全・確実に、かつ安価に物流をなしたいとする商工界の要望が、これらの水路を求めたといっても、言い過ぎではないように思えます。
■世界最初の閘門は?
長くなりましたので、恐縮ですが駆け足で…。
「工学」によりますと、漢代(西暦50年ごろ)の開封運河には、4.8km間隔に、角落とし式水門を設け、水位差のある水路の通船を行っていたとあります。
後年の閘門に近い形態は、宋代(西暦983年)、准河(わいが)で、「壩」(『ハ』、斜路に巻上げ装置を備え、船舶を上げ下ろしする、現代のインクラインのようなもの)の代用として、二門一組の水門を設け、閘門の作用をさせたのが始まりとのことです。
注水設備つきの閘門は、1413年、オランダのStevinが「斜接門扉と側渠により給水するタイプの閘門を考案」したとあります。これは建造されたというより、考案のみとのニュアンスでした。
近接させた2つの水門で、木製の箱型水閘を形成し、欧州において初めて水位差を克服することができたのは、ドイツのSteknitz運河とのことです。1495年ごろに描かれた、レオナルド=ダ=ヴィンチの、注排水口付きマイタゲートのスケッチ(挿画あり)は、1497年、ミラノ・マルテキナ運河のサンマルコ閘門で実現されたとあり、どうもこれが確認できる最初の近代的閘門のようです。
「土木史」では、元代(西暦1264年)のものが嚆矢、欧州は西暦1253年、オランダのSpaardamm閘門が初めてとなっていますが、後者については、記録が曖昧であると疑念を呈しています。欧州はやはり、ダ=ヴィンチのスケッチ以降であろうとの論旨です。
また、唐代(西暦825年)、「李渤が広西霊渠に、18個所の水門を築造して閘門の働きをさせた」ともありますが、ディテールについて、詳しい解説はなされていません。
■さて…
手元の資料が限られていますので、ハッキリしたことは、解らないのがもどかしいのですが…今のところ言えるのは、「近代的閘門」はともかく、閘門は、どこの誰兵衛が最初に考えたなどと、言い切れる性質のモノではないということです。
現代に比べて、情報の流通が極めて限られていた時代、高瀬川開削のように、たまたま角倉了以という、舟運・土木工事に一家言ある人物が、たまたま河川舟運の先進地である、岡山の状況を実見して発想を得た、というのは、実にまれな例にすぎません。(この逸話にしても、伝説的なものなのかも知れませんが…。)
ほとんどの場合は、ある程度の土木技術を手中にしていた地方の人々が、必要に迫られて、それぞれ独自に編み出した工夫の結果が、偶然似たような構造のモノであった、ということなのでしょう。
もちろん、それを「ただ、それだけのことだ」と軽んじるつもりは、毛ほどもありません。水害と戦いつつ、水運路を切り開こうと、長い間努力を重ねてきた人々だけが勝ち取ることのできた、「二水面の間に船舶を安全自由に通航させる」技術は、本当に尊いものです。何を差し置いても、守り伝えるべきと思います。
しかし、それ以上でも、それ以下でもない、とも言えるのではないでしょうか。
「わが国が最初」「我が県のモノがハシリ」と主張するのは、大変結構なことですし、むしろそのくらいの愛国心、郷土愛はあってしかるべきとは考えていますが、自治体のサイトや印刷物になると、ことは軽々しく断言できるレベルの問題ではないのですから、ざっとした調査を行ってからでも、遅くはないのではありますまいか…。
吉井水門の一件を見ていると、探せばまだどこかに、もっと昔に造られた『日本最初の閘門』があるような、気がしてしまいます…。本当にそうなったら、それはそれで、とても興味深くはありますが。
今回、こうしてまとめてみて、自分の妄想アタマも少し整理でき、前にも増して、運河や閘門に対する興味も湧いてきましたので、機会があったらまた、ご報告できればと思っております。
長々とお付き合いくださり、ありがとうございました。
(この項終わり)
【註】欧州の名称を表記する際、カナで記されているものと、アルファベットで記されているものがありますが、音の解らないものがあるので、基本的に引用元に従いました。
〔写真の本のご紹介〕
★は現在でも入手可、☆は古書のみ。「荒野の回廊」については、引用元ではないため、書影は掲載していません。
★「水門工学」(技報堂出版発行、平成16年)
★「運河 再興の計画 房総・水の回廊構想」(三浦裕二・高橋裕・伊澤岬 編著、彰国社発行、平成8年)
☆「明治前 日本土木史」(日本学士院 編著、日本学術振興会発行、昭和31年)
★「京都 高瀬川 ―角倉了以・素庵の遺産―」(石田孝喜著、思文閣出版、平成17年)
☆「国土づくりの礎・川が語る日本の歴史」(松浦茂樹著、鹿島出版会、平成9年)
★「荒野の回廊」(高崎哲郎著、鹿島出版会、平成14年)
長くなりましたので、恐縮ですが駆け足で…。
「工学」によりますと、漢代(西暦50年ごろ)の開封運河には、4.8km間隔に、角落とし式水門を設け、水位差のある水路の通船を行っていたとあります。
後年の閘門に近い形態は、宋代(西暦983年)、准河(わいが)で、「壩」(『ハ』、斜路に巻上げ装置を備え、船舶を上げ下ろしする、現代のインクラインのようなもの)の代用として、二門一組の水門を設け、閘門の作用をさせたのが始まりとのことです。
注水設備つきの閘門は、1413年、オランダのStevinが「斜接門扉と側渠により給水するタイプの閘門を考案」したとあります。これは建造されたというより、考案のみとのニュアンスでした。
近接させた2つの水門で、木製の箱型水閘を形成し、欧州において初めて水位差を克服することができたのは、ドイツのSteknitz運河とのことです。1495年ごろに描かれた、レオナルド=ダ=ヴィンチの、注排水口付きマイタゲートのスケッチ(挿画あり)は、1497年、ミラノ・マルテキナ運河のサンマルコ閘門で実現されたとあり、どうもこれが確認できる最初の近代的閘門のようです。
「土木史」では、元代(西暦1264年)のものが嚆矢、欧州は西暦1253年、オランダのSpaardamm閘門が初めてとなっていますが、後者については、記録が曖昧であると疑念を呈しています。欧州はやはり、ダ=ヴィンチのスケッチ以降であろうとの論旨です。
また、唐代(西暦825年)、「李渤が広西霊渠に、18個所の水門を築造して閘門の働きをさせた」ともありますが、ディテールについて、詳しい解説はなされていません。
■さて…
手元の資料が限られていますので、ハッキリしたことは、解らないのがもどかしいのですが…今のところ言えるのは、「近代的閘門」はともかく、閘門は、どこの誰兵衛が最初に考えたなどと、言い切れる性質のモノではないということです。
現代に比べて、情報の流通が極めて限られていた時代、高瀬川開削のように、たまたま角倉了以という、舟運・土木工事に一家言ある人物が、たまたま河川舟運の先進地である、岡山の状況を実見して発想を得た、というのは、実にまれな例にすぎません。(この逸話にしても、伝説的なものなのかも知れませんが…。)
ほとんどの場合は、ある程度の土木技術を手中にしていた地方の人々が、必要に迫られて、それぞれ独自に編み出した工夫の結果が、偶然似たような構造のモノであった、ということなのでしょう。
もちろん、それを「ただ、それだけのことだ」と軽んじるつもりは、毛ほどもありません。水害と戦いつつ、水運路を切り開こうと、長い間努力を重ねてきた人々だけが勝ち取ることのできた、「二水面の間に船舶を安全自由に通航させる」技術は、本当に尊いものです。何を差し置いても、守り伝えるべきと思います。
しかし、それ以上でも、それ以下でもない、とも言えるのではないでしょうか。
「わが国が最初」「我が県のモノがハシリ」と主張するのは、大変結構なことですし、むしろそのくらいの愛国心、郷土愛はあってしかるべきとは考えていますが、自治体のサイトや印刷物になると、ことは軽々しく断言できるレベルの問題ではないのですから、ざっとした調査を行ってからでも、遅くはないのではありますまいか…。
吉井水門の一件を見ていると、探せばまだどこかに、もっと昔に造られた『日本最初の閘門』があるような、気がしてしまいます…。本当にそうなったら、それはそれで、とても興味深くはありますが。
今回、こうしてまとめてみて、自分の妄想アタマも少し整理でき、前にも増して、運河や閘門に対する興味も湧いてきましたので、機会があったらまた、ご報告できればと思っております。
長々とお付き合いくださり、ありがとうございました。
(この項終わり)
【註】欧州の名称を表記する際、カナで記されているものと、アルファベットで記されているものがありますが、音の解らないものがあるので、基本的に引用元に従いました。
〔写真の本のご紹介〕
★は現在でも入手可、☆は古書のみ。「荒野の回廊」については、引用元ではないため、書影は掲載していません。
★「水門工学」(技報堂出版発行、平成16年)
★「運河 再興の計画 房総・水の回廊構想」(三浦裕二・高橋裕・伊澤岬 編著、彰国社発行、平成8年)
☆「明治前 日本土木史」(日本学士院 編著、日本学術振興会発行、昭和31年)
★「京都 高瀬川 ―角倉了以・素庵の遺産―」(石田孝喜著、思文閣出版、平成17年)
☆「国土づくりの礎・川が語る日本の歴史」(松浦茂樹著、鹿島出版会、平成9年)
★「荒野の回廊」(高崎哲郎著、鹿島出版会、平成14年)
2005/12/17のBlog
[ 23:41 ]
[ つぶやき ]
先日、いつもお世話になっている、河川研究家・飯泉純さんのブログ「飯泉 純の川歩き日記」(サイトのトップはこちらです)に掲載された、「見沼通船堀再訪」という記事にて、わが国初、また世界初の閘門についての話題が出て、私もコメント欄に、書き込みをさせていただきました。
結果、いいずみさんにはお手数をおかけしてしまい、恐縮の至りですが、今回の件であらためて、閘門について感心が沸いてきましたので、手持ちの本を何冊かあたってみたりして、閘門の歴史や、考え方を、自分なりに、まとめてみたくなりました。
もともと、水運の歴史に興味を抱いて、始めた川走りでしたので、疑問や知りたいことは山ほどあり、調べ回った結果、近年、何冊かの良い本にも出会うことができましたので、ここでは書影をご紹介しがてら、いつもの妄想も交えて、私の備忘録も兼ねた、閘門のについてのお話を、させていただきたいと思います。
ここでは、書影をかかげた3冊の書籍から、主に引用しますので、以下に書名の略称を決めておきます。なお、版元など詳しいデータは、『閘門の話…2』の文末に掲載します。
「水門工学」…「工学」(写真左)
「運河 再興の計画 房総・水の回廊構想」…「房総」(写真右)
「明治前 日本土木史」…「土木史」(こちらは次回に書影を掲載します)
■閘門とは…
閘門の定義、と言うと大げさですが、要は、現在の、少なくとも日本国内で、「閘門」という言葉がどういったモノを指すか、ということです。
「土木史」によると、閘門とは、「高低二水面の間に船舶を安全自由に通航させるへく構造せる水門」と、簡潔かつ明快に定義されています。
これに「近代的閘門とは」という意味で、私から補足をしますと、「扉体の開閉が容易で、かつ、注排水設備を別途備えたもの」ということになりましょうか。
身近な例で説明しますと、江戸時代に国内で作られた閘門は、注排水設備は持っていませんでした。見沼通船堀(見沼代用水土地改良区サイトより)は、角落とし(角材や短冊状の板を、溝にはめて積み重ねる方式の水門)の扉体を越流させて、注排水しており、そこには当然強い流れが生じますので、舟の閘室進入には曳船人夫の助けを借り、また角落としの着脱にも、多くの人手が必要でした。
倉安川の吉井水門(『おかやまの埋もれた歴史再発見』より)では、上屋に轆轤(ロクロ、巻上げ装置)を備え、板状の扉体を上下していましたので、水門の開閉は見沼のそれより、はるかに容易だったでしょう。注排水は、扉を僅かに開いて行ったに違いありません。
いずれにせよ、水門から直接注排水をおこなう方式では、激しい水流によって、扉体や閘室が痛むのは避けられませんし、船舶も「安全自由な通航」というには少し語弊がある状態で、通船しなければなりません。
また、水門の開閉に、多くの人手や時間が必要な構造ですと、一日の通船量には、おのずと限度ができてしまいます。
閘室への静かな注排水を実現するには、ゲートやバルブのついた暗渠(扉体に注排水口を備えることもある)が必要でしたし、小人数での、確実な開閉操作ができる水門は、マイタゲート(合掌式の斜接門扉)の登場を、待たなければなりませんでした。近代的閘門は、これらを完備して、初めて実現されたのです。
(マイタゲートの例→関宿閘門の写真です)
■「閘門」を名乗りながら、実は水門というモノがあるが?
これは、「閘」という漢字の持つもともとの意味が、上記の定義にある、「閘門」とは違っていることから来たものでしょう。
「閘」とう字は、水門の扉体、または水門そのものを指すもので、明治に入り、英語圏で言うロックを「閘門」と呼ぶようになってからも、灌漑用水門や防潮水門に、閘門の名を冠してしまう例が、いくつか見うけられました。
今でも残るものとしては、弐郷半領猿又閘門(埼玉県)がそのひとつです。(フカダソフト『きまぐれ旅写真館・埼玉県の煉瓦水門』閘門橋に詳しく掲載されています。)
「土木史」でも、「往事本邦に於いては閘門の名を濫用し、水門にも圦樋にも其の名を与え、また支那に於いても其の弊があつた。」と指摘されており、名称の不統一から混乱が生じ、困っていたことを伺わせます。
検索エンジンで、「閘門」と入れて、あちらのサイトを拾ってみると、なるほど、現在の北京語圏でも、「閘門」の指す意味は幅広く、水門はもとより、建物の防水扉にも使われているようです。
このことから考えてみると、確かに、「閘門」の字面から、水位差や通船を連想することは、難しそうです。閘門のことを知らない人に、この二文字を見せたら、おそらく、武家屋敷のいかめしい門などを、思い起こすのではないでしょうか。
幕末以来、ご先祖さまたちは、どっと流れ込んできた欧米の言葉を、豊かな漢学の知識を生かして、さまざまな熟語を造語の上、翻訳し、技術や思想の吸収を見事に果たしました。
そうして造られた「和製漢語」の一部が、今なお北京語圏でも使われているのは、ご存知の通りですが、こと「閘門」に関して言えば、どうもいまひとつだったと言わざるを得ません。コウモンという音の、力強い?感触は嫌いではありませんが…。
もしかしたら、既に大陸にあった言葉を、そのまま当てはめたのでしょうか。それゆえの違和感なのかも知れません。
「房総」では、巻頭第一章で、花見川開削の歴史を述べており、その一つして、明治初期、印旛沼から東京湾に至る、運河建設の計画を解説した「印旛沼経緯記(外編)」の一部を紹介しています。著者は、幕末に高杉晋作らとも交流のあった、当時内務官僚の織田完之。
「印旛沼経緯記」の、引用された文を読んでいたら、閘門のことを「階閘」と表現しており、アッと思いました。階段のように、舟を上げ下げする水門…そんなイメージが、はっきりと浮かんできたからです。
織田は、他にも、運河のことを「漕渠」と表現しています。「舟で漕ぎ渡れる渠(みぞ)」…こちらも、すぐに絵が思い描ける言葉です。なかなかの漢字巧者だったのでしょうね。
次回は、日本及び世界初の閘門について、お話したいと思います。
(『閘門の話…2』につづく)
【追記】コメント欄にて、ナローボートさんよりご指摘の件、ほか本文若干訂正いたしました。
【追記】マイタゲートの例として、文中に関宿閘門の写真へのリンクを追加しました。
結果、いいずみさんにはお手数をおかけしてしまい、恐縮の至りですが、今回の件であらためて、閘門について感心が沸いてきましたので、手持ちの本を何冊かあたってみたりして、閘門の歴史や、考え方を、自分なりに、まとめてみたくなりました。
もともと、水運の歴史に興味を抱いて、始めた川走りでしたので、疑問や知りたいことは山ほどあり、調べ回った結果、近年、何冊かの良い本にも出会うことができましたので、ここでは書影をご紹介しがてら、いつもの妄想も交えて、私の備忘録も兼ねた、閘門のについてのお話を、させていただきたいと思います。
ここでは、書影をかかげた3冊の書籍から、主に引用しますので、以下に書名の略称を決めておきます。なお、版元など詳しいデータは、『閘門の話…2』の文末に掲載します。
「水門工学」…「工学」(写真左)
「運河 再興の計画 房総・水の回廊構想」…「房総」(写真右)
「明治前 日本土木史」…「土木史」(こちらは次回に書影を掲載します)
■閘門とは…
閘門の定義、と言うと大げさですが、要は、現在の、少なくとも日本国内で、「閘門」という言葉がどういったモノを指すか、ということです。
「土木史」によると、閘門とは、「高低二水面の間に船舶を安全自由に通航させるへく構造せる水門」と、簡潔かつ明快に定義されています。
これに「近代的閘門とは」という意味で、私から補足をしますと、「扉体の開閉が容易で、かつ、注排水設備を別途備えたもの」ということになりましょうか。
身近な例で説明しますと、江戸時代に国内で作られた閘門は、注排水設備は持っていませんでした。見沼通船堀(見沼代用水土地改良区サイトより)は、角落とし(角材や短冊状の板を、溝にはめて積み重ねる方式の水門)の扉体を越流させて、注排水しており、そこには当然強い流れが生じますので、舟の閘室進入には曳船人夫の助けを借り、また角落としの着脱にも、多くの人手が必要でした。
倉安川の吉井水門(『おかやまの埋もれた歴史再発見』より)では、上屋に轆轤(ロクロ、巻上げ装置)を備え、板状の扉体を上下していましたので、水門の開閉は見沼のそれより、はるかに容易だったでしょう。注排水は、扉を僅かに開いて行ったに違いありません。
いずれにせよ、水門から直接注排水をおこなう方式では、激しい水流によって、扉体や閘室が痛むのは避けられませんし、船舶も「安全自由な通航」というには少し語弊がある状態で、通船しなければなりません。
また、水門の開閉に、多くの人手や時間が必要な構造ですと、一日の通船量には、おのずと限度ができてしまいます。
閘室への静かな注排水を実現するには、ゲートやバルブのついた暗渠(扉体に注排水口を備えることもある)が必要でしたし、小人数での、確実な開閉操作ができる水門は、マイタゲート(合掌式の斜接門扉)の登場を、待たなければなりませんでした。近代的閘門は、これらを完備して、初めて実現されたのです。
(マイタゲートの例→関宿閘門の写真です)
■「閘門」を名乗りながら、実は水門というモノがあるが?
これは、「閘」という漢字の持つもともとの意味が、上記の定義にある、「閘門」とは違っていることから来たものでしょう。
「閘」とう字は、水門の扉体、または水門そのものを指すもので、明治に入り、英語圏で言うロックを「閘門」と呼ぶようになってからも、灌漑用水門や防潮水門に、閘門の名を冠してしまう例が、いくつか見うけられました。
今でも残るものとしては、弐郷半領猿又閘門(埼玉県)がそのひとつです。(フカダソフト『きまぐれ旅写真館・埼玉県の煉瓦水門』閘門橋に詳しく掲載されています。)
「土木史」でも、「往事本邦に於いては閘門の名を濫用し、水門にも圦樋にも其の名を与え、また支那に於いても其の弊があつた。」と指摘されており、名称の不統一から混乱が生じ、困っていたことを伺わせます。
検索エンジンで、「閘門」と入れて、あちらのサイトを拾ってみると、なるほど、現在の北京語圏でも、「閘門」の指す意味は幅広く、水門はもとより、建物の防水扉にも使われているようです。
このことから考えてみると、確かに、「閘門」の字面から、水位差や通船を連想することは、難しそうです。閘門のことを知らない人に、この二文字を見せたら、おそらく、武家屋敷のいかめしい門などを、思い起こすのではないでしょうか。
幕末以来、ご先祖さまたちは、どっと流れ込んできた欧米の言葉を、豊かな漢学の知識を生かして、さまざまな熟語を造語の上、翻訳し、技術や思想の吸収を見事に果たしました。
そうして造られた「和製漢語」の一部が、今なお北京語圏でも使われているのは、ご存知の通りですが、こと「閘門」に関して言えば、どうもいまひとつだったと言わざるを得ません。コウモンという音の、力強い?感触は嫌いではありませんが…。
もしかしたら、既に大陸にあった言葉を、そのまま当てはめたのでしょうか。それゆえの違和感なのかも知れません。
「房総」では、巻頭第一章で、花見川開削の歴史を述べており、その一つして、明治初期、印旛沼から東京湾に至る、運河建設の計画を解説した「印旛沼経緯記(外編)」の一部を紹介しています。著者は、幕末に高杉晋作らとも交流のあった、当時内務官僚の織田完之。
「印旛沼経緯記」の、引用された文を読んでいたら、閘門のことを「階閘」と表現しており、アッと思いました。階段のように、舟を上げ下げする水門…そんなイメージが、はっきりと浮かんできたからです。
織田は、他にも、運河のことを「漕渠」と表現しています。「舟で漕ぎ渡れる渠(みぞ)」…こちらも、すぐに絵が思い描ける言葉です。なかなかの漢字巧者だったのでしょうね。
次回は、日本及び世界初の閘門について、お話したいと思います。
(『閘門の話…2』につづく)
【追記】コメント欄にて、ナローボートさんよりご指摘の件、ほか本文若干訂正いたしました。
【追記】マイタゲートの例として、文中に関宿閘門の写真へのリンクを追加しました。
2005/12/11のBlog
[ 01:18 ]
[ 水運趣味の本など ]
私が時々のぞく大型書店にある、地図のフロア入り口の壁に貼られた、東京の鳥瞰図の素晴らしさが、以前から気にかかっており、前を通るたび、数分間は見惚れていました。
少なくとも、すぐに必要なものではありませんでしたので、「欲しいけど、貼る場所が思いつかないなあ…。」と、あきらめる日々が続きましたが、昨年、現在の場所に引っ越してから、玄関にちょうどよいスペースができ、また、連れが気に入ってくれたのも手伝い、購入することにしました。
自宅で、改めてしげしげと眺めてみると、書店で立ち見をしていたとき以上に、ディテールの細かさ、美しさが目に沁みるようで、鼻っ先を近づけて、つい時の経つのを忘れてしまうほどです。
ここでご紹介したからには、お気づきとは思いますが、東京とその近郊の水路を、地勢や目標となる建物も含めて、一覧できるという意味でも、水路航行や、川歩きがお好きな皆さんに、ひろくお奨めできる絵図と言えるでしょう。
この鳥瞰図を購入して、一年くらいになると思いますが、過去に巡った水路での出来事を反芻したり、次に行ってみたい水路の様子をあれこれ想像したりと、イマジネーションはふくらんで、飽きることがありません。
絵図の範囲が、江戸川から横浜港まで、我が艇の主な行動範囲と、ほぼ一致するという点も気に入っています。日本規模、世界規模で考えれば、それはささやかな行動範囲に過ぎないのでしょうが…。
朝な夕なに、この鳥瞰図を眺めるにつけ、毎回思うのは、東京は、水路の面積が決して少なくない、いやむしろ多い街だなあ、ということです。
全国を見渡してみても、こんなにたくさんの可航水路に囲まれた都市が、ほかにあるでしょうか。子供っぽく、威張ってみたくなるような、そんな気持ちにさせてくれるのです。
私にとって、水路の都・東京は、充分過ぎるくらい素敵な街なのです。
この鳥瞰図の版元、GEO(ジェオ)のサイトはこちらです。通信販売も受け付けてもらえます。鳥瞰図の作者である、黒澤達矢氏の他の鳥瞰図もあります。
少なくとも、すぐに必要なものではありませんでしたので、「欲しいけど、貼る場所が思いつかないなあ…。」と、あきらめる日々が続きましたが、昨年、現在の場所に引っ越してから、玄関にちょうどよいスペースができ、また、連れが気に入ってくれたのも手伝い、購入することにしました。
自宅で、改めてしげしげと眺めてみると、書店で立ち見をしていたとき以上に、ディテールの細かさ、美しさが目に沁みるようで、鼻っ先を近づけて、つい時の経つのを忘れてしまうほどです。
ここでご紹介したからには、お気づきとは思いますが、東京とその近郊の水路を、地勢や目標となる建物も含めて、一覧できるという意味でも、水路航行や、川歩きがお好きな皆さんに、ひろくお奨めできる絵図と言えるでしょう。
この鳥瞰図を購入して、一年くらいになると思いますが、過去に巡った水路での出来事を反芻したり、次に行ってみたい水路の様子をあれこれ想像したりと、イマジネーションはふくらんで、飽きることがありません。
絵図の範囲が、江戸川から横浜港まで、我が艇の主な行動範囲と、ほぼ一致するという点も気に入っています。日本規模、世界規模で考えれば、それはささやかな行動範囲に過ぎないのでしょうが…。
朝な夕なに、この鳥瞰図を眺めるにつけ、毎回思うのは、東京は、水路の面積が決して少なくない、いやむしろ多い街だなあ、ということです。
全国を見渡してみても、こんなにたくさんの可航水路に囲まれた都市が、ほかにあるでしょうか。子供っぽく、威張ってみたくなるような、そんな気持ちにさせてくれるのです。
私にとって、水路の都・東京は、充分過ぎるくらい素敵な街なのです。
この鳥瞰図の版元、GEO(ジェオ)のサイトはこちらです。通信販売も受け付けてもらえます。鳥瞰図の作者である、黒澤達矢氏の他の鳥瞰図もあります。
2005/12/07のBlog
[ 22:35 ]
[ 航行河川・運河 ]
(『平成7年8月・江戸川…1』のつづき)
慣れない夜走りをして数時間、ようやく江戸川閘門に到着しました。
閘門の通航時間は午前6時から、午後6時まで(江戸川にはマリーナがあり、日曜も通船があるので、休日はありません。)ですので、当然ながら、定宿にしていた東京湾岸のマリーナまでは、帰港することができません。結局、閘門前の水面で投錨し、夜を明かすことになりました。
マリーナに帰れないことが解っていながら、危険な夜間航行をしてまで、江戸川を下ってくるメリットがあったのか…当時の自分の精神状態を、説明するのに苦しみますが、流れのない、静かな水面が黒々と広がるのを見て、妙な安堵感があったのだけは、今でもはっきりと思い出すことができます。
ハッチに蚊帳をかけてランプを灯し、食事の準備をしていると、「ボツッ」と、スピーカーに電源の入る音がしました。オヤ?と顔を上げる間もなく、静寂を破る音量で、こうがなり立てられたのには驚きました。
「そこのボート、閘門の運転は、午後6時で終了しました。明朝午前6時までは通れません。繰り返します。閘門の運転は終了しました。明朝6時までは通れません」
いや~、お知らせ下さって恐縮です。承知しておりますよ! 監視カメラがあると思われる方向に、手を振って了解の意を示すと、気持ちが伝わったのかどうか、スピーカーは沈黙しました。
しばらく、碇泊灯の薄明かりの下で、レトルトご飯を温めていると、「おーい、おーい!」と、今度は岸から人の呼ぶ声が…。見ると、閘門の左の土手で、手招きしている人がいました。
あわててコンロの火を落とし、アンカーをたぐって、艇を岸に回してみると、その人はこう話しかけてきました。
「河口の方に行くのかね?」どうやら、閘門の職員さんのようです。
「ええ、そうですが…今日は遅いので、ここで泊まります」
「(閘門を)開けてやろうか?」これには驚き、かつ職員さんの心遣いが嬉しくもありましたが、いまから川を下っても、入港できるマリーナがありません。むしろ、ここで碇泊した方がいいだろう、と判断しました。
「ありがとうございます。折角ですが結構です。今晩は泊まって、明朝下ります。」
「そうかね、じゃ、明日の朝は6時に開けるからね。」
職員さんは、宿直の当番なのでしょう。土手を登って、管理棟に帰ってゆきました。
写真は、碇泊地から、見当をつけてバルブ撮影した、夜の江戸川閘門です。
当時のことですから銀塩のカメラで、デッキの上にカメラを置いて、あてずっぽうで何枚か撮ったところ、なんとかこの一枚だけ、あまりブレずに、見られる出来になっていました。
【撮影地点のYahoo地図】
慣れない夜走りをして数時間、ようやく江戸川閘門に到着しました。
閘門の通航時間は午前6時から、午後6時まで(江戸川にはマリーナがあり、日曜も通船があるので、休日はありません。)ですので、当然ながら、定宿にしていた東京湾岸のマリーナまでは、帰港することができません。結局、閘門前の水面で投錨し、夜を明かすことになりました。
マリーナに帰れないことが解っていながら、危険な夜間航行をしてまで、江戸川を下ってくるメリットがあったのか…当時の自分の精神状態を、説明するのに苦しみますが、流れのない、静かな水面が黒々と広がるのを見て、妙な安堵感があったのだけは、今でもはっきりと思い出すことができます。
ハッチに蚊帳をかけてランプを灯し、食事の準備をしていると、「ボツッ」と、スピーカーに電源の入る音がしました。オヤ?と顔を上げる間もなく、静寂を破る音量で、こうがなり立てられたのには驚きました。
「そこのボート、閘門の運転は、午後6時で終了しました。明朝午前6時までは通れません。繰り返します。閘門の運転は終了しました。明朝6時までは通れません」
いや~、お知らせ下さって恐縮です。承知しておりますよ! 監視カメラがあると思われる方向に、手を振って了解の意を示すと、気持ちが伝わったのかどうか、スピーカーは沈黙しました。
しばらく、碇泊灯の薄明かりの下で、レトルトご飯を温めていると、「おーい、おーい!」と、今度は岸から人の呼ぶ声が…。見ると、閘門の左の土手で、手招きしている人がいました。
あわててコンロの火を落とし、アンカーをたぐって、艇を岸に回してみると、その人はこう話しかけてきました。
「河口の方に行くのかね?」どうやら、閘門の職員さんのようです。
「ええ、そうですが…今日は遅いので、ここで泊まります」
「(閘門を)開けてやろうか?」これには驚き、かつ職員さんの心遣いが嬉しくもありましたが、いまから川を下っても、入港できるマリーナがありません。むしろ、ここで碇泊した方がいいだろう、と判断しました。
「ありがとうございます。折角ですが結構です。今晩は泊まって、明朝下ります。」
「そうかね、じゃ、明日の朝は6時に開けるからね。」
職員さんは、宿直の当番なのでしょう。土手を登って、管理棟に帰ってゆきました。
写真は、碇泊地から、見当をつけてバルブ撮影した、夜の江戸川閘門です。
当時のことですから銀塩のカメラで、デッキの上にカメラを置いて、あてずっぽうで何枚か撮ったところ、なんとかこの一枚だけ、あまりブレずに、見られる出来になっていました。
【撮影地点のYahoo地図】
夜が明けた直後の、江戸川水門(閘門の左に隣接)を撮ったものです。
普段の朝寝坊はどこへやら、目覚ましもないのに5時ごろに目覚め、ハッチから身体を引きずり出すと、川面のさわやかな空気を深呼吸しました。
実は、夜もなにごともなく過ぎたわけではなく、食事を済ませて、ラジオを聴きつつ夜景を楽しんでいたら、電池を換えたばかりのラジオが突然沈黙、成仏(笑)したことが判明したり、就寝してから、激しい流水音が聞こえ、艇が動いているのを感じて飛び起きたら、走錨して水門近くまで流されており、慌ててエンジンをかけて水門から遠ざかったり、といったことがありました。
水門が、一定の水位になると自動的に下端が開いて放流を初め、アンカーが水底近くの流圧に流されて動いたのか、それとも、単に水位が上がってオーバーフローが始まり、艇の方が流されたのかは不明ですが、とにかく肝を冷やしました…。
普段の朝寝坊はどこへやら、目覚ましもないのに5時ごろに目覚め、ハッチから身体を引きずり出すと、川面のさわやかな空気を深呼吸しました。
実は、夜もなにごともなく過ぎたわけではなく、食事を済ませて、ラジオを聴きつつ夜景を楽しんでいたら、電池を換えたばかりのラジオが突然沈黙、成仏(笑)したことが判明したり、就寝してから、激しい流水音が聞こえ、艇が動いているのを感じて飛び起きたら、走錨して水門近くまで流されており、慌ててエンジンをかけて水門から遠ざかったり、といったことがありました。
水門が、一定の水位になると自動的に下端が開いて放流を初め、アンカーが水底近くの流圧に流されて動いたのか、それとも、単に水位が上がってオーバーフローが始まり、艇の方が流されたのかは不明ですが、とにかく肝を冷やしました…。
こちらは朝の閘門です。
早朝にもかかわらず、夏の強烈な日差しが、建物の壁を染めはじめ、静かだった川面が、次第にセミの鳴き声で、おおわれていったのを覚えています。
私は子供のころから、夏の朝が大好きでしたが、こんなに素晴らしい夜明けを迎えたのは、かつてありませんでした。
急いで朝食を済ませると、時計の針はすでに6時。閘門のサイレンが、朝もやの空に清々しく鳴り響き、私はアンカーを引き上げて、勇躍、艇を回しました。
利根運河すら見ることがでず、プロペラも曲げてしまったのは、正直、残念でしたが、それを補って余りある、素晴らしい「閘門の朝」(?)に、私はすっかり満足しました。
満足したせいか、単に私が淡白なせいか、これを最後に、私の「利根川行き」への執着は、無くなったのではないにせよ(最近は、インフレータブルでの攻略に、食指が動いておりマス!)、急速に薄れてゆきました。
こうして実際走ってみたり、この後文献を漁ってみたりして思ったことは、やはり通船が途絶して、半世紀近く経た江戸川は、例え無理をして走破したにせよ、決して「航路」と呼べるシロモノではない川に変貌して久しい、ということです。
興味が薄れたのは、これが身に染みて、理解できたからかもしれません。いずれ、世の趨勢が変わって、この川が曲がりなりにも、航路を意識した整備を施されるまで、待った方がよさそうだ、と。
私にとって、日本最大の内陸航路の復活は、妄想するだに楽しいことです。
もちろん、航路として整備されることが、沿岸の住民や、水道水利にとって、ベストであるとはとても思えないので、むやみに水運の活性化ばかりを叫ぶのは、厳に慎みたいと、考えているのですが…。
(この項終わり)
早朝にもかかわらず、夏の強烈な日差しが、建物の壁を染めはじめ、静かだった川面が、次第にセミの鳴き声で、おおわれていったのを覚えています。
私は子供のころから、夏の朝が大好きでしたが、こんなに素晴らしい夜明けを迎えたのは、かつてありませんでした。
急いで朝食を済ませると、時計の針はすでに6時。閘門のサイレンが、朝もやの空に清々しく鳴り響き、私はアンカーを引き上げて、勇躍、艇を回しました。
利根運河すら見ることがでず、プロペラも曲げてしまったのは、正直、残念でしたが、それを補って余りある、素晴らしい「閘門の朝」(?)に、私はすっかり満足しました。
満足したせいか、単に私が淡白なせいか、これを最後に、私の「利根川行き」への執着は、無くなったのではないにせよ(最近は、インフレータブルでの攻略に、食指が動いておりマス!)、急速に薄れてゆきました。
こうして実際走ってみたり、この後文献を漁ってみたりして思ったことは、やはり通船が途絶して、半世紀近く経た江戸川は、例え無理をして走破したにせよ、決して「航路」と呼べるシロモノではない川に変貌して久しい、ということです。
興味が薄れたのは、これが身に染みて、理解できたからかもしれません。いずれ、世の趨勢が変わって、この川が曲がりなりにも、航路を意識した整備を施されるまで、待った方がよさそうだ、と。
私にとって、日本最大の内陸航路の復活は、妄想するだに楽しいことです。
もちろん、航路として整備されることが、沿岸の住民や、水道水利にとって、ベストであるとはとても思えないので、むやみに水運の活性化ばかりを叫ぶのは、厳に慎みたいと、考えているのですが…。
(この項終わり)
2005/12/06のBlog
[ 17:29 ]
[ 航行河川・運河 ]
私が、三浦半島のマリーナを母港にしていた平成5年夏、通運丸に代表される、かつての利根川航路に魅せられて、江戸川遡行に挑戦し、あえなく敗退したことは、過去の記事(このへん→1・2・3・4・5・6・7・8)で、すでにお話ししました。
今回はその後、平成7年8月に再挑戦して、前回よりは上流まで行けたものの、やはり尻尾を巻いて逃げ帰ってきた、その一部、最終到達点付近の写真を、恥ずかしながら、何点かご覧に入れます。
最初の写真は、武蔵野線の江戸川橋梁を、上流側より撮影したものです。
アルバムには、「8月2日~6日」とありますので、2日朝に三浦を出発、デッドスローで、慎重に澪筋を確かめながら江戸川を遡り、この時点ではもう、午後遅かったはずです。
河口から30km余り、頭の皮が張るほど緊張の連続で、ようやくたどりついた未踏破の水面でした。
この日は、利根運河江戸川口で碇泊し、夜を明かすつもりでしたので、目的地まではあと一息でした。
【撮影地点のYahoo地図】
今回はその後、平成7年8月に再挑戦して、前回よりは上流まで行けたものの、やはり尻尾を巻いて逃げ帰ってきた、その一部、最終到達点付近の写真を、恥ずかしながら、何点かご覧に入れます。
最初の写真は、武蔵野線の江戸川橋梁を、上流側より撮影したものです。
アルバムには、「8月2日~6日」とありますので、2日朝に三浦を出発、デッドスローで、慎重に澪筋を確かめながら江戸川を遡り、この時点ではもう、午後遅かったはずです。
河口から30km余り、頭の皮が張るほど緊張の連続で、ようやくたどりついた未踏破の水面でした。
この日は、利根運河江戸川口で碇泊し、夜を明かすつもりでしたので、目的地まではあと一息でした。
【撮影地点のYahoo地図】
武蔵野線橋梁、流山橋をくぐってしばらく行くと、水面から橋脚だけがぽつぽつと顔を出した、橋の遺構が見えてきました。橋脚の短さから、潜水橋(増水時は水没する構造の橋)であったことは、想像がつきました。
岸から見れば、遺構として興味深いものですが、当時10ン年落ちのポンコツ艇に乗る身としては、不気味きわまりない存在です。
「落下した橋桁が、沈んでたりしていないかしら…?」と、スロットルをますますしぼり、エンジンのチルトはさらにアップにして、こわごわ橋脚の間を抜け、何事もなく通過した時は、ホーッと息を吐いたものでした。
この橋脚群、まさかウェブ上の地図には、掲載されていないだろう、と見てみたら、意外や、きちんと表示されていて、驚きました。
【橋脚までちゃんと記入してあるYahoo地図!】
岸から見れば、遺構として興味深いものですが、当時10ン年落ちのポンコツ艇に乗る身としては、不気味きわまりない存在です。
「落下した橋桁が、沈んでたりしていないかしら…?」と、スロットルをますますしぼり、エンジンのチルトはさらにアップにして、こわごわ橋脚の間を抜け、何事もなく通過した時は、ホーッと息を吐いたものでした。
この橋脚群、まさかウェブ上の地図には、掲載されていないだろう、と見てみたら、意外や、きちんと表示されていて、驚きました。
【橋脚までちゃんと記入してあるYahoo地図!】
この写真は、どういうつもりで撮ったのか不明ですが、画面右下、わずかにハルの一部が見えることから、上流に向かって、左舷側を撮影したことが解ります。おそらく、潜水橋の橋脚を、過ぎた直後の風景でしょう。
下に述べた引き返し地点も、この写真のような、潅木や草むらが岸まで迫り、なにか渓谷のようなおもむきだったのを、今でもハッキリ思い出します。
確かこの近くだったと思いますが、中学生くらいの男の子数人が、岸で水遊びをしており、私の艇を見つけると、喚声を上げてしばらく追って来た、なんてこともありましたっけ…。(もう遠い目)
下に述べた引き返し地点も、この写真のような、潅木や草むらが岸まで迫り、なにか渓谷のようなおもむきだったのを、今でもハッキリ思い出します。
確かこの近くだったと思いますが、中学生くらいの男の子数人が、岸で水遊びをしており、私の艇を見つけると、喚声を上げてしばらく追って来た、なんてこともありましたっけ…。(もう遠い目)
高速道路が見えてきました。常磐自動車道の流山IC付近で、上流側よりの撮影です。
残念ながらこの写真が、実質、もっとも上流で撮った写真になりました。
この少し上流が、引き返し地点なのですが、アワを喰っていて、写真を撮るどころの状態ではありませんでしたから…。
【撮影地点のYahoo地図】
両岸に草むらが迫る、川幅の少し狭まった、流れの早いところにさしかかったとき…
「ごぉいぃん」
と、えらい音がして、たまげました。まあ、一生忘れられない音です。
エンジンは、プロペラが水面上に出るか出ないか、のギリギリまでチルトアップし、舵利きを維持できる最微速で、しかも前方のさざ波一つにも、細心の注意をしていたにもかかわらず、暗岩かなにかに、ペラが直撃してしまったのでしょう。
不運としか、言いようがありません。
エンジンは停止し、艇は流れに回され始めました。あたふたとバウに走り、アンカーを放り投げて、錨掻きを確認すると、エンジンを一杯に上げて、ペラの状態を確認。3翼あるペラのうち、一枚の先端が、数cmに渡って醜く曲がり、最初にぶつかったと思われる部分は、欠けてしまったようでした。
恐る恐る、エンジンを元に戻し、キーをひねると、なんとか始動! レバーを倒すと、前後進とも異常なく回転し、軸はやられていないと、安堵しました。しかし、ペラの曲がり方はひどく、高速回転はどう見ても無理です。
今考えれば、低回転でしたら、問題なく航行できるのですから、せめて目前に迫った利根運河を見てから帰れば、よさそうなものですが、アワを喰っていた当時の精神状態では、「突破するより引き返せ!」なることわざ(?)を脳裏に描くのが精一杯…。あっさりと回頭して、引き返してしまったのです。
おかげで、利根運河を目指すより、危ない目にあうことになりました。
【引き返し地点はこのへんと思うYahoo地図】
残念ながらこの写真が、実質、もっとも上流で撮った写真になりました。
この少し上流が、引き返し地点なのですが、アワを喰っていて、写真を撮るどころの状態ではありませんでしたから…。
【撮影地点のYahoo地図】
両岸に草むらが迫る、川幅の少し狭まった、流れの早いところにさしかかったとき…
「ごぉいぃん」
と、えらい音がして、たまげました。まあ、一生忘れられない音です。
エンジンは、プロペラが水面上に出るか出ないか、のギリギリまでチルトアップし、舵利きを維持できる最微速で、しかも前方のさざ波一つにも、細心の注意をしていたにもかかわらず、暗岩かなにかに、ペラが直撃してしまったのでしょう。
不運としか、言いようがありません。
エンジンは停止し、艇は流れに回され始めました。あたふたとバウに走り、アンカーを放り投げて、錨掻きを確認すると、エンジンを一杯に上げて、ペラの状態を確認。3翼あるペラのうち、一枚の先端が、数cmに渡って醜く曲がり、最初にぶつかったと思われる部分は、欠けてしまったようでした。
恐る恐る、エンジンを元に戻し、キーをひねると、なんとか始動! レバーを倒すと、前後進とも異常なく回転し、軸はやられていないと、安堵しました。しかし、ペラの曲がり方はひどく、高速回転はどう見ても無理です。
今考えれば、低回転でしたら、問題なく航行できるのですから、せめて目前に迫った利根運河を見てから帰れば、よさそうなものですが、アワを喰っていた当時の精神状態では、「突破するより引き返せ!」なることわざ(?)を脳裏に描くのが精一杯…。あっさりと回頭して、引き返してしまったのです。
おかげで、利根運河を目指すより、危ない目にあうことになりました。
【引き返し地点はこのへんと思うYahoo地図】
流山を過ぎたあたりで、もう夕方といってもよい時刻でしたので、デッドスローで河口近くまで帰るとなれば、当然ながら、途中で日が暮れ始め、行程の半分は、夜間航行となってしまいました。
両舷灯、マスト灯を点灯し、頭を振り絞って澪筋を思い出しつつ、抜き足差し足の、まさに手探りです。
こんなに長い時間、夜間航行をしたのは初めてだったので、新鮮ではありましたが、今振り返れば、なんでこんな危険なことをしたのか、さっぱり説明できません。どこか適当なところで、停泊して夜を明かしたほうが、よほど安全であることは、言うまでもないからです。
まあ、浅瀬の多い水路を、夜間航行できたという意味では、いい経験にはなりましたが…。
写真は、これも場所は不明ですが、帰途に撮影した唯一のものです。
この夕焼けを見て、里心がついたのかもしれませんね。
(『平成7年8月・江戸川…2』につづく)
両舷灯、マスト灯を点灯し、頭を振り絞って澪筋を思い出しつつ、抜き足差し足の、まさに手探りです。
こんなに長い時間、夜間航行をしたのは初めてだったので、新鮮ではありましたが、今振り返れば、なんでこんな危険なことをしたのか、さっぱり説明できません。どこか適当なところで、停泊して夜を明かしたほうが、よほど安全であることは、言うまでもないからです。
まあ、浅瀬の多い水路を、夜間航行できたという意味では、いい経験にはなりましたが…。
写真は、これも場所は不明ですが、帰途に撮影した唯一のものです。
この夕焼けを見て、里心がついたのかもしれませんね。
(『平成7年8月・江戸川…2』につづく)