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2006/08/07のBlog
[ 19:55 ]
[ 航行河川・運河 ]
(『三枚洲の水路』のつづき)お久しぶりの、旧江戸川河口です。京葉線江戸川橋梁の後ろに、湾岸線舞浜大橋が平行して設けられています。
写真では、見えづらいかもしれませんが、右から2本目と、3本目の橋脚の間が航路です。誰が書いたのか、2本目の橋脚正面に、「←」が書かれているのが、座洲事故の多さを物語っているようです。広々とした水面にもかかわらず、写真左岸、東京側は浅瀬が広がっているのです。
何度も触れましたが、利根川行きに惹かれて、幾度も江戸川遡行に挑戦したころは、この橋が、冒険への入り口(笑)のように思えて、鉢巻きを締めなおし(もちろん、心の中で…)たものです。
河口からしばらく行くと、右手に見えてくるのが、見明川(みあけがわ)の入り口です。水面に影を落とす、堀江橋の平べったい形が、土手の草の青さにマッチして、夏の午後らしい、のどかな風景です。埋め立てが急速に進む、昭和40年代以前は、広大な砂洲の間に、「圦(いり)」と呼ばれる水路が縦横に流れていたそうですが、この川もかつては、そんな浅瀬の澪筋のひとつであったのでしょう。
【撮影地点のMapion地図】
やはり右岸の、さらに上流に進むと、コンクリート堤防が途切れて、結構な規模のポンドが姿をあらわします。これは、「堀江ドック」と、ちょっとハイカラな呼び方をされている舟溜りで、昭和24年、キティ台風の被害で壊れた堤防を復旧する際、あわせて建設されたものだそうです。地場の漁船専用で、外来艇の使用はできませんからご注意。
青い鋼アーチ、東西線江戸川橋梁の近くまで来ました。橋の向こう左寄りには、東京では珍しい中洲、妙見島も見えます。島の西水路は、屋形船や遊漁船の舟溜りで、やはり外来艇は立ち入り禁止です。写真右岸は、浦安市の当代島。かつては渡し舟や、東京行き通船の発着所があり、現在は東西線浦安駅にも近く、昔から浦安の中心地として、栄えている街でもあります。
東西線の橋のすぐ近く、下流側にあるのが、写真の境川西水門。以前紹介しました、境川東水門と対をなす、「浦安の母なる川」、境川を守る水門です。昭和28年、木製マイタゲートにて創設、現水門が建造されたのは、昭和40年だそうです。(木製マイタゲートの時代、見たかったなあ…)
戦前の浦安をモデルに書いた、山本周五郎の小説「青べか物語」にも登場する、通船発着所「蒸気河岸」は、この少し左、東西線橋梁の、少し上流側にありました。
【撮影地点のMapion地図】
(参考文献『浦安 文化財めぐり』浦安市教育委員会、平成13年発行)
(18年8月5日撮影)
(『旧江戸川下流部…2』につづく)
2006/08/06のBlog
[ 20:02 ]
[ 航行河川・運河 ]
昨日5日午後は、仕事を休ませてもらい、久しぶりに、新中川を散策してきました。寒がりの私にとっては、貴重な夏だというのに、先月はついに出動なし。約一月ぶりの出港です。
写真は、6月に新しく装備した、GPS魚群探知機です。魚探はその名の通り、水中にいる魚群を音波で知る装置なのですが、私は釣りには興味がないので、もっぱら浅い水路を走るときの、測深機として用いるために設けました。
GPSはカーナビでお馴染みの、衛生を利用した航法装置で、自艇の現在位置と、航跡を記録し、対地速度も表示されるなどの機能があります。私は、画面の左半分にGPS、右に魚探を表示させて、使っています。
だいぶ前に、「魚探を測深のみに使うような、蓮っ葉な使用法もいいかも…」といった意味のことを書きましたが、それがようやく実現したわけです。早速、6月24日の海老取川通過時より威力を発揮、澪筋の把握がぐっと楽になりました。
澪筋を読む緊張感も、川走りの醍醐味の一つではあるのですが、トシのせいでしょうか、緊張を持続させるのが、だんだんツラくなってきたので、恥ずかしながら機械化に踏み切った、というわけで…。まあ、だらしないお話で、自慢できることではありませんが。
猛暑のせいでしょうか、水を黄土色に濁らせた、荒川河口を左折して、葛西臨海公園前、三枚洲を横切る水路に進入。三枚洲は、江戸川と、かつての中川(現荒川河口)が、運んできた土砂が積もって形成された、東京湾奥に散在する干潟の一つです。浅瀬は、意外なほど沖合いまで伸びており、澪標も設置してあるのですが、船の乗り上げ事故が、絶えない水域でもあります。
写真右側に見える、二つの「なぎさ」は、持ち込んだ砂で造られた人工海浜で、西なぎさが、正面に見える「葛西なぎさ橋」で結ばれ、臨海公園の一部になっています。
なにしろ気温35度、マリンスポーツには最高の日よりですから、水路も混雑しているに違いありません。
【撮影地点のMapion地図】
臨海公園内にある、大観覧車が見えてきました。以前、乗ったことがあるのですが…今どき珍しいなと思ったのは、乗る前に記念写真を撮られ、下りると、写真を額装して待ち構えているという、大昔の観光地みたいなことをやっていたことです。もちろん押し売りはせず、購入は自由でしたが、今でもやっているのかしら。
話が脱線しました…。陸上も結構な人出ですが、水路内の停泊船もかなりの数です。前にも触れましたが、東京湾奥で、ヨットやモーターボートがのんびりできる泊地というと、お台場とここくらい。しかも、両方ともたてまえは、碇泊禁止水域なのですから、なんとかできないものか、と考えてしまいます。
江戸川寄りにある、東京水辺ラインの、葛西臨海公園発着所。土地柄か、待合所上屋も、桟橋もなかなか立派です。ここから、両国や浜離宮に向かう、水上バスが出ています。ここを過ぎると、江戸川河口までの水路は、浅瀬が多くなりますから、澪標に注意して進まなければなりません。
水上バス桟橋を過ぎたあたりから、ディズニーランド方を望んだところです。猛暑に微風ときて、もやが多いので、写真が平板になり、遠景が見づらくなってしまうのがなんとも。まあ、波風がないのは、木っ端ブネにとってありがたいので、ゼイタクは言えますまい。江戸川の東京寄り付近は、浅瀬が広がっているので、いきなり左折は禁物です。水路中央から、ディズニーランドの白い円錐形の建物(ええと、ビッグサンダーマウンテンだったかな?)にヨーソロして、川幅の3分の2くらい、千葉県側に寄ってから、江戸川に向かってください。
もちろん、紅緑のブイなど、航路標識は設置されていますので、よほどスピードを出していない限り、それほど危険はありませんが…。
(18年8月5日撮影)
(『旧江戸川下流部…1』につづく)
2006/08/02のBlog
[ 22:10 ]
[ つぶやき ]
ふとしたことがきっかけで、気づかされたのですが…和船、中でも、主に江戸時代の物流の中心的存在であった、大型和船について、さまざまな点で、多くの方(船を良くご存知の方でも、という意味です)が、いまだ、残念な誤解をされているなあ、と感じました。「それは間違っています」と指摘するのは、決して気持ちの良いものではなく、自分のおっちょこちょいぶりも考えると、逆に間違いを指摘されそうで、空恐ろしくもあるのですが…こと大好きな和船の不名誉となると、放置するのもいたたまれず、また、この手の話題が、あまりウェブ上でなされていないということも手伝い、覚悟を決めて、ご批判を待ちたいと思います。
なお、全ての和船について、説明するのは不可能ですので、江戸中期から急速に性能を向上させ、全国的に普及した、「弁才船(べざいせん)」という種類の、代表的大型海船についてのケースを中心に、お話させていただきます。(『弁才船』については、本項最後のリンク先、『なにわの海の時空館』『関西設計株式会社』をご覧下さい)
以下、
の文は、誤解にもとづく通説、
の文は、和船について書かれた本数冊を参考に私がまとめた、現時点で最適と思われる説です。
①四角い横帆1枚の和船は、追い風以外での帆走はできなかった。
横風、逆風いずれの帆走もできました。復元船での実験では、風上に75度、切り上がれることが確認されており、19世紀中期の航海記録を検討した結果、67.5度は切り上がれたであろう、との研究もあります。この数字は、洋式の横帆船である、バークやシップに勝るとも劣らない性能です。操帆はこれらの洋式船のように、マストに登る必要もなく、すべて甲板上で行えたので、かえって、操縦は容易な面があったと見ていいでしょう。
歴史的な資料から、確認できることもあります。17世紀初めに完成した、「日葡辞書」には、横風帆走を示す「ヒラキ」、逆風帆走を示す「マギリ」の言葉と、語釈が載っています。また、各地の神社に残されている、船絵馬の綱(シート)の取り方を見ると、追風帆走はかえって少なく、横風・逆風帆走がほとんどという、結果がでています。明治期に撮影された、逆風帆走中の弁才船の写真も残されています。
例えて言うなら、ヨットの三角帆一枚の帆装を見て、「横風でしか帆走できないに違いない!」(笑)と思い込むのと、同じくらいの誤解だと、言えるのではないでしょうか。
②和船の帆装や船型が貧弱なのは、徳川幕府が大型船を作らせないよう、厳しく制限していたから。
そのような事実はありません。江戸時代初め、幕府は500石以上の、当時の大型船の建造を禁止しましたが、これは幕府の脅威となる大型軍船を、作らせないようにするのが目的で、のちに幕府より、商船については、大きさの制限がないむねの説明がなされました。
下って幕末、来航した大型洋式船の威容にショックを受けた、一部の開国論者は、いわゆる鎖国を、幕府が完璧ならしめるために、日本型船の帆装や船型に、制限を課したに違いない、と解釈しました。
これが通説化したのか、明治になっても同じような論文が発表された上、外国人からも、和船の欠点を過大に指摘する論(もちろん、誤解に基づくものです)が出たりして、ますますこの傾向に、拍車をかけたようです。
帆柱一本に横帆一枚と、はた目には300年間、基本的な姿を変えないように見えても、その中身や航海術には、不断の進歩がありました。和船のスタイルや構造は、鎌倉時代以来の伝統と、経済性ほかの理由によって採られたもので、権力による暴圧の結果などではありません。
理解を超えた存在に、部外者が何かの陰謀を勘ぐってしまうことは、古今、よくあることではありますが…。
③和船には、洋式船の竜骨、肋骨や上甲板にあたるものがなく、壊れやすかった。
沿岸航路の船としては、充分な堅牢さがありました。まず申し上げたいのは、和船は洋式船とは、全く別の系譜に属する発達をしてきたものだということです。豊かな森林資源に恵まれたわが国では、古来、巨材から刳舟(丸木舟)を造って用いてきました。弁才船に代表される和船は、刳舟から発達した、「棚板造り」という技法で造られた構造船です。厚板で造られた、「航(かわら)」と呼ばれる船底材の前後に、「ミヨシ(船首材)」と「戸立(船尾を構成する板)」を取り付け、「棚板」と称する舷側板を数段重ね、横方向の強度は多数の梁で分担させる構造でした。
外板と梁で構成された船体は、肋材などの構造がない分、大きさの割りに積載量が多く、また、構造上、希少な曲材や巨材がなくとも造れたので、同規模の洋式船に比べて、非常に安価(半分以下)でした。
30年ほどの耐用年数を持ち、2000石を越える大船も造られた和船が、竜骨や肋骨ごときがなかったからと言って、特に強度上の不足があったとも思えません。
強いて弱点と言えば、「胴の間(船倉部)」に固定甲板がないこと、舵が巨大で、やはり固定されておらず、荒天時の弱点になったことです。これすら荷役作業性や、また逆風帆走性能の向上から採られたもので、リスクは充分承知の上でしたから、ただ欠点だとあげつらうのは、語弊があります。
また、大型和船は、沿岸航路専用船として、発達して来たものですから、本来でしたら、同クラスの洋式船と比べて、議論するべきであるにもかかわらず、航洋船と比較してしまっては、こちらが見劣りするのは、ある種当然で、優劣を判断する議論にはならない、といえます。
④和船は脆弱なため、洋式船より海難が多かった。
明治における、同規模の洋式船と和船の、海難の確率は、ほとんど変わりませんでした。安達裕之氏の研究によると、明治19年から29年までの10年間で、「日本型帆船(50石積み以上)」の就航数17,690隻のうち、海難数は495隻、海難発生率は2.8%。一方「西洋型帆船(5トン積み以上)」就航数766隻のうち、海難数30隻、海難発生率3.9%でした。(数字は全て年平均)
この数字を見ると、少なくともこの時点では、桁違いに多い就航隻数が、和船の遭難数を多くしていることは自明です。鉄道もまだ少なく、車馬の運行できる道路に至っては言わずもがな、物流のほとんどを、沿岸航路に頼っていた時代です。無慮大数の船が、現代のトラック便のように日本国中を往来していました。また、下で述べますが、政府の洋式船推奨政策にもかかわらず、明治維新以後も根強い人気を保ったのは、洋式船にはない、長所があったことを物語っています。
今一つ、わが国周辺の海象の不安定さが、原因であることも見逃せません。ボートやヨットに乗られている方なら、よくご存知でしょうが、春には突風が、夏には台風が、冬は大陸からの季節風がと、小型船舶ならずともツライ海域です。よく「3日に一度は荒れる」とまで言われる、日本近海の海況の悪さは、現在でも、海難事故の絶えない海域であることからも解ります。まして、木造船の時代においておや!
⑤和船は明治になると、洋式船に圧倒されて姿を消した。
政府の和船禁止令をかいくぐり、昭和初期まで国内海運の主役でした。②に記したような、洋式船万能、和船は時代遅れというような誤解は、明治政府にもあったのでしょう、「明治20年より、500石以上の『日本型船』の建造を禁止する」という布告を出しましたが、罰則を欠いたため実効性が薄く、さらに、布告をかいくぐるため、帆装や外観を洋式化した和船、「合いの子船」は増えはしたものの、和船自体は減る気配を見せませんでした。
③でも触れたように、同規模の洋式船に比べ、船価が半分以下と安く建造でき、乗組員も少なくて済み、積載量も多いと来れば、和船が減るいわれはありません。舵や帆装を洋式化した「合いの子船」は、内燃機関が普及し、機帆船の建造が容易となった昭和初期まで、国内物流の中核として、生き続けました。
繰り返しになりますが、江戸期の大型和船とは、極めて濃厚なコスト意識の産物でありました。
陸上交通が、ほとんど人と情報しか、流通し得なかった江戸時代、日増しに盛んになる物流を、一手に担っていた水運業者は、「速く、安く、安全に」という物流にとっての命題を、見事に達成していたのではないでしょうか。もし、沿岸型の洋式帆船が、和船に比べて決定的に優れていれば、和船は早い時期に淘汰されてしまったはずです。
大型和船は、冒険航海をするフネではありません。わが国の環境下で、安く作れて、たくさん荷物が積めて、勝手知ったる沿岸航路を速く航海でき、少ない人員で運行できれば、それで良かったのです。
最後に、参考図書と、和船の展示・研究が充実している博物館を、案内させていただきます。江戸中~末期の大型和船の一典型である、菱垣廻船(『弁才船』の一形式です)の実物を展示している、大阪は「なにわの海の時空館」。上で触れた、復元船「浪華丸」での実験航海は、和船研究史上空前の、貴重なデータをもたらしました。かつての「天下の台所」に、ふさわしい展示と言えるでしょう。(私は残念ながら、まだ拝見したことがありませんが…)「浪華丸」建造中の画像は、建造元の関西設計株式会社のサイトで、見ることができます。
東京の「船の科学館」も、和船関連の展示は大変充実しています。また、特別展など、和船関連書籍の発行点数では、国内髄一と思います。安達裕之氏著「日本の船 和船編」は、全4色刷りで図版も美しく、和船史研究の最新データが総覧できるので、関心のある向きには、特にお勧めします。今回も、引用させていただきましたが、上の④に掲げた、和船・洋式船の海難率の対比は、私にとって、特に目からウロコで、この下りはそらんじるほど、繰り返し読んだものでした。
和船史を語る際、石井謙治氏の功績は、避けて通れますまい。石井氏が、昭和32年に「日本の船」を上梓するまで、国内での和船評は、上に掲げた「通説」にほぼ等しいものでした。日本の産業史に、「和船史」というジャンルを確立したのが、石井謙治氏だと言っても、言い過ぎではないでしょう。
石井氏の和船関連の著書、監修書はいくつかありますが、近刊である、「ものと人間の文化史」シリーズのひとつ、「和船Ⅰ・Ⅱ」をお勧めします。純粋な和船だけでなく、朱印船など海外技術の流れを汲む船、幕末の洋式軍艦などについても、詳しく述べられています。
「菱垣廻船 浪華丸」(なにわの海の時空館)
「復元菱垣廻船 浪華丸」(関西設計株式会社)
「船の科学館 出版図書のご案内」(船の科学館)
「和船Ⅰ・和船Ⅱ」(e-hon)
「受賞者紹介 石井謙治」(社会貢献支援財団)(写真は本文とは関係ありません。旧中川、17年10月1日撮影・水郷与田浦、18年5月4日撮影)
2006/07/31のBlog
[ 23:59 ]
[ ご案内 ]
「水路をゆく」に、ようこそいらっしゃいました。このブログは、全長21ft(約6m)の小さなモーターボートで、東京と、その近郊の川や運河を、散策する話を中心に、管理人が興味を持つ、水門や橋などの土木構造物や、治水・海事史、船舶全般の話題について、お届けしております。
最新の記事は、このご案内の下から掲載されています。スクロールしてご覧下さい。
原則としては、管理人の艇で航行できる、東京近郊の水路は、いずれはすべてご紹介したいと思っております。管理人が航行することによって、管理人の艇と同クラスから、小さいクラスの艇のオーナーに、航路情報としても、参考になる記事を目指してゆきたいと思っております。
本ブログをご覧になり、掲載された水路を航行された方が、事故を起こされても、管理人は責任を負いかねますので、航行にあたっては、入念な下調べをされるなど、事故を起こさないように、各自の責任で安全航行をお願いいたします。
間違った記述については、コメント欄にてご遠慮なく、ご指摘、ご叱声をいただければ幸いです。本人が気づいた点は、後日「追記」として、訂正・言いわけを、各項目の末尾に書き加えております。
ジャンルは左欄にあるように、11種に大別されておりますが、例えば、「河川・運河」の項目に閘門の記事が、あるいは「その他」に文献の記事が、といったように、異なるジャンルの記事が含まれることもあります。
リンクはご自由にどうぞ。リンクされた方は、よろしければ、この「ご案内」のコメント欄にて、ご一報いただければ幸いです。こちらから新規にリンクさせていただいたサイトは、本欄で、逐次ご紹介させていただきます。
各記事と関連のないコメントは、できれば、この「ご案内」のコメント欄にお願いいたします。
管理人のメールアドレスは、この「ご案内」のコメント欄にあります。
【7月15日更新】「扇橋閘門」に間違いを発見しましたので、訂正しました。
【7月17日更新】タイトルバック画像を更新しました。レインボーブリッジ橋詰の港区側、ループ状の取付道路(含ゆりかもめ線路)です。6月24日撮影。2006/07/28のBlog
[ 22:49 ]
[ 水運趣味のおもちゃ・模型 ]
(『長瀞渓流下り…2』のつづき)岩畳で舟を下り、名物のお饅頭を食べながら、長瀞駅に至る、土産物屋街をぶらぶら散策。どの店の軒先にも、ツバメの巣があり、ヒナたちが可愛らしい顔を並べているのが印象的でした。
街外れまで来ると、小ぎれいなおもちゃ屋さんがあり、ブリキのおもちゃが並ぶ店内を拝見していると、なんと樟脳舟のセットを発見。
「長瀞みやげ」と書かれているところが、にくいじゃないですか。神社の縁日で、いなせなテキヤの兄さんが、ホーロー引きのバットに薄く水をはり、くるくると樟脳舟を動かして見せていた、子供のころが思い出されました。もちろん即決で購入。
一見、ずいぶん前の在庫のようでしたが、私の子供のころと、さほど変わらない値段で売ってくださり、かえって恐縮してしまいました。
上の写真の、左の袋の中に入っていた、樟脳舟船隊(?)です。フラッグシップたる、一番大きな屋形船(??)のボリューム感が嬉しくなるほど、小さな舟ばかりですが、和式の一枚帆あり、ジブとメインを掲げたヨットあり、さらに水鳥さん(???)まで入っているというサービスぶり。
水鳥さんの左、パイプをつぶしたような、上部構造(でもなんでもない?)のついた最小の舟は、何を表現しているのでしょう?!(ハテナが多くなってしまいましたが…)
派手なようでいて、セルロイド独特の、やわらかな色合いが目に優しく、素朴な外観と相増して、ホッとした気分にさせられました。
同じ合成樹脂でも、スチロール系などのプラとは、質感が全く異なります。
二つ折りで入っていた説明書も、簡にして要というか、あっさりしていますね。子供のころの経験では、ナフタリンでも走ったような気がするのですが。ただ、本物の樟脳と比べて、油分の拡散が弱いのか、よく走らなかったのを憶えています。
ガラスや陶器の方がよく走る、というアドバイスも的確です。塩ビやプラの容器では、製造時、金型から抜くための離型剤が残っていることが多いため、油分が水面に広がりやすいことを、指しているのでしょう。
新聞紙で水面の油分を取る、という下りも懐かしいですね。昔は、湯船の湯をそんなに換えなかったので、新聞紙を浮かせてから、そーっとはがし、水面の垢やホコリを取り除いたものでした…。
(この項おわり)
[ 19:58 ]
[ 水辺のお散歩・遊覧船 ]
(『長瀞渓流下り…1』のつづき)荒川橋梁を過ぎると、流れはにわかに速くなり、露岩が白く波を立てる、まさに渓流そのものの情景が、広がってきました。
小さな落差をひとつ越えるたび、船首が派手にしぶきを上げるので、舷側に備えられたビニールを持ち上げて、濡れるのを防ぎます。いや~、爽快爽快!
可航幅は狭く、二人の船頭さんは、忙しく棹や舵を操りながらも、ユーモアたっぷりの語り口で、沿岸の奇岩など名勝を説明してくれます。
ここはラフティングの名所なのでしょう、ヘルメットとライフベストに身を固め、カヌーやインフレータブルに乗った人が多く見られ、手を振ってくれたり、元気に挨拶を返してくれる人もいました。
いくつかの早瀬を越えると、流れは次第に緩やかになり、水深の増した川面は、美しい深緑色となってきました。長瀞の「瀞」は、流れの緩やかな澱みを指す言葉だそうですが、まさに字面そのものの、静謐で美しい風景が広がり、思わず手を水面に伸ばして、水の冷たさを確かめたりもしました。
昨年も訪れた、岩畳の船着場に到着しました。3㎞弱の行程は、本当にあっという間で、もっと乗っていたい感じがします。ここは、船着場のすぐ近くまで、旅館や土産物店が軒を連ねる、なかなか賑やかな観光拠点で、秩父鉄道の長瀞駅も近く、現代に生きる「河岸」といった雰囲気です。
船頭さんにお礼を言って、舟を降りると、係の方が出迎えてくれ、岩畳が珍しい一枚岩の露岩であること、土の下はすぐ岩なので、米が育ちにくく、最近まで饅頭(野菜煮などを入れたもの)や、うどんほか、粉製品を主食とせざるを得なかったことなど、この地の歴史について、興味深いお話をしていただきました。
興味をそそられて、船頭さんが使っていた棹の先端を、撮ってみました。棹は直径5cmほどの竹で、先端に塩ビパイプのような部品を介して、木製の部分がはめ込んでありました。
横からネジででも留めるようにしてあるのか、固定の方法がいま一つ解りませんでしたが、磨り減ったら、適宜交換できるようになっているのでしょう。
長瀞の街をぶらぶらして、お土産を物色していると、遠くから汽笛の音が聞こえてきたので、いそいそと長瀞駅へ。運の良いことに、C58型蒸気機関車の牽く列車がやってきたのです。
ロッドや車輪が、油でピカピカに拭かれた機関車を前に、踏み切りにあふれる、黒山の人だかりに混じって撮影。ちょっとトクをした気分でした。
★長瀞で、渓流下り舟を営業している会社は複数あります。詳しくは以下のサイトをご覧ください。中でも「荒川ライン下り」のサイトは、造船の模様が掲載されていて、なかなか楽しめます。
「長瀞ライン下り」(長瀞町観光協会サイト)
「長瀞ライン下り」(秩父鉄道サイト)
「荒川ライン下り」(荒川ライン下り会社サイト)(18年7月2日撮影)
(『樟脳舟』につづく)
2006/07/23のBlog
[ 16:18 ]
[ 水辺のお散歩・遊覧船 ]
『長瀞の観光船』で紹介しましたが、昨年は舟を目の前にしながら、乗れずに残念な思いをした、秩父市は長瀞にある、有名な木造和船での渓流下りに、念願かなって乗ってきました。親鼻橋上流の河原にある船着場には、すでに何艘かの舟が、舳先を連ねて待っていました。写真のように、河原の一部が掘りこまれて、舟入りが造られており、ちょっとした河港のおもむきです。
戸立て造りの頑丈そうな舟は、全て地元で建造されているそうで、写真のものは定員24名。船首に竿を持った船頭さん、船尾には長い櫂舵で、舵を取る船頭さんが乗って、2名で舟を操ります。
渓流下りは、親鼻橋の基点から、高砂橋近くの終点、約6kmの間で運航されていますが、今回は親鼻橋から、長瀞駅近くの中間点、岩畳まで約3km、時間にして20分ほどの区間を乗船しました。
筋骨隆々の、頬髯も男らしい船頭さんが、竹竿を持って乗り込むと、いよいよ出発です。船頭さんの金剛力に、太い竹竿がびゅうんと音をたててしなり、方々に顔を出す岩を、巧みに避けて舟を操る妙技に見惚れました。
出港直後、岸のそこここに立つ釣り人さんに向かって、船頭さんは一人一人「すいませーん!」「こんにちはー!」と、丁寧に声を掛けています。
私としてはピンとくるものがあり、「やっぱり(釣り人が)うるさいんですか?」と尋ねると、
「釣り糸切ったりなんかしたら、そりゃもう凄いもんだよ!この前なんか、3万円請求されちゃった。なんだか、最近のルアーやら針やらって、高いんだってね~」
「それ、会社が払ってくれたんですよね?」
「ううん、自腹」
…な、なにか納得がいかない…。あちら(釣り)は趣味、こちらは仕事、そしてこの水面は、地元の大切な観光収入源である航路、のはずですが。まあ、釣り人さんも、地元にとってはお客さんには違いないので、穏便に済ますということなのでしょうか。
舟は流れに乗って、結構な早さで進み始めました。同乗の人も口々に「意外と早いね」と驚いています。水は美しく澄んでおり、水底の岩や、泳いでいる魚が、手に取るように見えます。それだけに、ある種恐ろしくもあり、いまにもゴリゴリと、舟底が岩を噛まないかしらと心配していたら、さっそく「ガリガリッ」と鈍い音が!
船頭さんは落ち着いたもので、「水深30cmあれば大丈夫だよ、それに(船体には)グラスファイバーを塗って、丈夫に作ってあるから」と言いつつ、手を休めずに竿を右へ左へと突いていきます。
右手には、水位観測塔が見えてきました。頑丈そうなコンクリート製の外観と、異常に高い脚部分に、この流域の厳しさを、かいま見たような気がしました。
国道140号線の親鼻橋です。この橋をはさんだ上流と下流に、3つの会社が川下りの基点を持っています。【撮影地点のMapion地図】
先ほどの船頭さんの言葉が、印象的でした。「水深30cmあれば大丈夫」、つまり通船できる…。
かつての関東地方には、高崎、前橋や栃木といった、驚くほど上流部まで河岸、つまり川の港が点在していました。どんな細流でも、舟と積荷を浮かすだけの水深があれば、人馬のそれとは、比較にならない輸送力を発揮できたのです。
船頭さんの一言で、水運全盛時代を体験しているような気がして、なんだか感動してしまいました。
古風なレンガの橋脚を持つ橋は、秩父鉄道の荒川橋梁。背高のっぽの古い桁橋に、霧にけむる背後の山々がよく似合い、まさに深山幽谷のおもむき。秩父鉄道のサイトによると、長さ167m、水面からの高さ20mだそうです。華奢に見える橋脚も、近づいて見ると、水切り部に石材を使うなど、水流の激しさを物語る重厚な造りで、一瞬、船上ということを忘れて見入ってしまいました。
(18年7月2日撮影)
(『長瀞渓流下り…2』につづく)
2006/07/17のBlog
[ 19:59 ]
[ 航行河川・運河 ]
…大潮の干潮時に、海老取川を通過するハメになってしまうとは。(注・ぼやいているように読めますが、半ば楽しんでいる部分もあり)
去る6月24日、ふたたび横浜方面を訪ねたのですが、あの海老取川と、多摩川を通過する時間が、最大干潮時にドンピシャ!
写真を見ると、もう人が歩いて渡れそうな雰囲気ですが、さすがに澪筋の浚渫はきちんとしており、水路中央部は充分な水深(私の艇にとって、ですが)がありました。
過去の経験から、干潮時でも、デッドスローで気をつけながら航行すれば、まず事故には至らないという、確信はありましたが、大潮の干潮は初めてです。同乗のHさんに、私の緊張感を気取られないよう、平静を装ったつもりでしたが、それでもかなり怖い思いをさせてしまったようで、もうしわけないことをしました。
(海老取川・多摩川については、5月のエントリをご参照下さい→1・2・3)
最微速で約20分をかけて、無事多摩川を横断。多摩運河に入る直前で、「アレ?なんだか後ろに引っ張られるな?」という感じのところが一回あったので、船外機のガード先端が、ちょっと触洲していたかもしれません。とはいっても、600回転前後のデッドスロー、それに底質は砂か泥ですから、まず破損することはないでしょう。
多摩運河に入ると、ガランガシャンと耳をつんざく大音響が…。
なんと、球形ガスタンクの解体作業でした。珍しいので、物見高く撮影に及びましたが、写真で見ると、まるで、タンクが異次元に侵食されているように見えて、工事の騒々しさとはほど遠い雰囲気に撮れました。
京浜運河というと、私の中では、「外海よりマシだが、とにかく風通しがよくてガブる水路」といった印象でした。ところがこの日は、気温30度を越す夏日にくわえ、風もなく、波も実におだやか。こんなに優しい表情の京浜運河は、初めての経験です。
これも珍しいので、ついカメラを向けましたが、どこかに船積みされていくのでしょうか、東急の電車が、埠頭にズラリと並んでいるところです。
日本の中古電車は、よく整備されているので、海外でも評判が良いと聞いたことがあります。第二の人生を、どこで送るのでしょうか…。