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K-SOHYA POEM BLOG
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2008/03/11のBlog
──季節の一句鑑賞──梅三題──

梅の奥に誰やら住んで幽(かす)かな灯・・・・・・・・夏目漱石

梅の花が本格的に咲き揃う時期になって来たので、今日は梅に関する「三題ばなし」を書くことにする。
掲出の句は夏目漱石の作品で、彼独特の諧謔性に満ちた句である。「誰やら住んで」というところが面白いし、「幽かな灯」というのも広い梅林を想像させて奥行がある。漱石は俳句を余技としてたくさん作っている。
漱石は英文学者として出発したが、小説家として主に朝日新聞を拠り所にして、次々と作品を発表した。当代一の文化人であったから、師弟関係にあった文学者、科学者などが多い。科学者なども──たとえば中谷宇吉郎など、いずれも文筆でも優れた文章を残している。
漱石における俳句はあくまでも「余技」であったが、伝統的な文学として、漱石は深く愛していた。

片隅で椿が梅を感じてゐる・・・・・・・・・・・・林原耒井

林原耒井(らいせい)は、明治20年福井県に生まれ、昭和50年に没した。
号の耒井は本名の耕三の「耕」の字を分解したもの。
旧制一高時代から夏目漱石の門に入り、漱石作品の校正を任されるなど愛弟子の一人であった。英文学徒として旧制松山高等学校で教えていたことがある。
俳句は臼田亞浪の「石楠」(しゃくなげ)に参加、論客として知られ、特に『俳句形式論』は重要な著作とされる。
掲出句は『蘭鋳』(昭和43年刊)から。
椿は春の花とされ、梅に引続いて咲きはじめる。時期的には咲くのが重なることもあるので、この句では、それを「片隅で椿が梅を感じてゐる」と表現する。
先に挙げた漱石の句の諧謔性に相通じるものがあるではないか。師弟の関係の妙である。
「明暗」というサイトに漱石と林原との記事があり、また「川本臥風」というサイトの<忘れ得ぬ人々・臼田亜浪>の項に林原のことが出ているのも見られるといい。

白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり・・・・・・・・・・飯田龍太

紅梅は白梅よりも少し遅れて咲きはじめることが多い。白梅の「白」のあとにグラーデーションのように「紅」色が色を増してゆく、というところが面白い。それに花の上の「空」を「深空」と表現したのも秀逸である。
飯田龍太は飯田蛇笏の子として幼少の頃から俳句に親しんできたが、父の死後、俳誌「雲母」の主宰者を継承して俳壇で重きをなしてきたが、十余年前に結社を解散した。俳誌などの世襲制に対する批判などもあるが、主宰制は、いくたの欠点もある。そういうことを自覚した上での、いさぎよい決断だ。まだまだ影響力があった全盛期での決断だった。
2008/03/10のBlog
──季節の詩鑑賞──

東岸西岸の柳 遅速同じからず

南枝北枝の梅 開落已(すで)に異なり
・・・・・・・・・・・・・・・保胤

作者は慶滋保胤(よししげのやすたね)、平安中期の著名な文人で、その作『池亭記』は鋭く社会の変貌を捉えて鴨長明の『方丈記』に影響を与えた、とされる。出典は『和漢朗詠集』巻上「早春」から。
保胤は白居易に傾倒し、この詩も白居易の詩句「北の軒 梅晩(ゆふべ)に白く 東の岸 柳先づ青みたり」や「大庾嶺上の梅 南枝落ち北枝開く」を踏まえているが、謡曲「東岸居士」その他に多く引かれ愛唱された。

同じ春とは言え、地形や場所によって季節の到来には遅速がある。
開く花あれば、散る花あり。
造化の妙は、そんな違いにも現れて、感興の源泉となる。
なお、

 二(ふた)もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

の句は、この保胤の詩句を踏んだ句と言われている。

今しも、柳の新芽が芽吹く頃である。梅も今年は開花が遅れているが、そろそろ咲き揃う頃である。
以下、柳の新芽を詠んだ句を引いて終わる。

 柳の芽雨またしろきものまじへ・・・・・・・・・・久保田万太郎

 芽柳に焦都やはらぎそめむとす・・・・・・・・・・阿波野青畝

 芽柳や成田にむかふ汽車汚れ・・・・・・・・・・石橋秀野

 芽柳の花のごとしや吾子あらず・・・・・・・・・・角川源義

 芽柳のおのれを包みはじめたる・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 風吹いてゐる綿菓子と柳の芽・・・・・・・・・・細川加賀

 芽柳を感じ深夜に米量る・・・・・・・・・・平畑静塔

 あれも駄目これも駄目な日柳の芽・・・・・・・・・・加藤覚範

 芽柳や銀座につかふ木の小匙・・・・・・・・・・伊藤敬子

 芽柳の揺るる影浴び似顔絵師・・・・・・・・・・太田嗟

 利根万里風の序曲に柳の芽・・・・・・・・・・三枝青雲

 芽柳のほか彩もなき遊行かな・・・・・・・・・・今村博子

 水色に昏るる湿原柳の芽・・・・・・・・・・神田長春
2008/03/09のBlog
──季節の一句鑑賞──

鞦韆(ふらここ)は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・・・・・・・・・・・・・・三橋鷹女

鞦韆(しゅうせん)とは「ぶらんこ」のことである。中国では、北方の蛮族のものが紀元前7世紀に輸入されたと言い、それほど古くから中国では行なわれていたという。唐の玄宗皇帝は羽化登仙の感じがあるとして「半仙戯」の名を与えている。唐詩などにもよく詠われ、それが日本にもたらされた。中国では古来、春の戯れとしたという。
和語では「ふらここ」ともいう。詩歌では、この言葉が愛用される。

掲出した写真はオーギュスト・ルノワール(1841-1919)の絵である。オルセー美術館蔵。
春になって暖かくなったので、若い女性が公園でブランコに乗っている図である。
絵をクリックすると大きく鮮明に見られる。お試しあれ。

先に書いたように「鞦韆」は漢字で書いて「しゅうせん」と音読みにする他に「ふらここ」と和語読みにすることもある。掲出の三橋の句は「ふらここ」と読ませている。
以下、ブランコを詠んだ句を引いておきたい。

 鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す・・・・・・・・高浜虚子

 鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな・・・・・・・・松瀬青々

 鞦韆や春の山彦ほしいまま・・・・・・・・水原秋桜子

 鞦韆やひとときレモンいろの空・・・・・・・・石田小坡

 鞦韆に腰かけて読む手紙かな・・・・・・・・星野立子

 鞦韆の十勝の子等に呼ばれ過ぐ・・・・・・・・加藤楸邨

 鞦韆や舞子の駅の汽車発ちぬ・・・・・・・・山口誓子

 ふらここを揺りものいはずいつてくれず・・・・・・・・中村汀女

 達治亡きあとはふらここ宙返り・・・・・・・・石原八束

 ふらここのきりこきりこときんぽうげ・・・・・・・・鈴木詮子

 鞦韆と雲一ひらと遊ぶなり・・・・・・・・加藤望子

 島の子のぶらんこ島を軋らせて・・・・・・・・谷野予志

 ブランコの子に帰らうと犬が啼く・・・・・・・・菅原独去

 鞦韆の綱垂る雨の糸に浴び・・・・・・・・堀葦男
2008/03/08のBlog
──季節の一句鑑賞──

春愁やくらりと海月(くらげ)くつがへる・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

明るく、浮き立つ春ではあるが、ふっと哀愁を覚えることがある。はっきりした「憂鬱」ではなく、あてどない物思いのような気持ちを「春愁」という。春ゆえに心をかすめる淡い、かなしい、孤独な、物思いである。

春愁を写真にしようとすると、難しい。
掲出したものは、芥川龍之介の自画像「我鬼先生」と題するものである。

俳句には「春愁」を詠んだものがたくさんある。少し引いておきたい。

 春愁のまぼろしにたつ仏かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 春愁や派手いとへども枕房・・・・・・・・飯田蛇笏

 白雲を出て春愁もなかりけり・・・・・・・・中川宋淵

 いつかまたポケットに手を春うれひ・・・・・・・・久保田万太郎

 春愁のかぎりを躑躅燃えにけり・・・・・・・・水原秋桜子

 髪ばさと垂れて春愁の額としぬ・・・・・・・・三橋鷹女

 春愁に堪ふる面輪に灯りけり・・・・・・・・日野草城

 春愁の一端に火が燃えてゐる・・・・・・・・野見山朱鳥

 春愁もなし梳く髪のみじかければ・・・・・・・・桂信子

 春愁やせんべいを歯にあててゐて・・・・・・・・大野林火

 春愁のいとまなければ無きごとし・・・・・・・・皆吉爽雨

 ハンカチに鏝(こて)あてて春愁ひかな・・・・・・・・安住敦

 山椒魚の春愁の顔見とどむる・・・・・・・・後藤秋邑

 春愁やかなめはづれし舞扇・・・・・・・・鷲谷七菜子

 春愁や夫あるうちは死ぬまじく・・・・・・・・末広千枝
2008/03/07のBlog
──季節の歌鑑賞──

わが一生(ひとよ)にいくたりの族(うから)葬りしや
 春の疾風(はやち)はすさまじく吹く
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌に詠んだように、私が物心つくようになってから何人の肉親を葬っただろうか。
はじまりは、昭和18年5月の長兄・庄助を22歳で送ったことである。
その同じ年の12月には庄助の名づけ主である祖父・木村庄之助が亡くなった。
そのお供に父の妹の婿養子・木村保次郎が亡くなった。この人は祖父と共にお茶の仕事をしていた人である。引続いて母の兄・堀井東次郎が急死した。この人は小学校の校長だった。
その翌年昭和19年2月には私の長姉・登志子が亡くなった。このことは2月19日づけのBLOGで書いておいた。
そして敗戦後の昭和20年12月には私たちの末の妹・京子が結核性髄膜炎で亡くなった。
このように親しい人々が短期間の間にバタバタと死んで、思春期の少年だった私には、この世は、一体どうなるのか、という「死」と向かい合う時期だった。
その後は少し肉親の死はなかったが、父と母を送った。父を昭和40年に送って44年。母が平成5年に死んで今年の四月は十六回忌になる。
そして妻・弥生が一昨年に死んで、この四月は三回忌になる。
春の疾風は季節の変わり目で、すさまじく吹く。普通「疾風」はハヤテと呼ばれるが、私の歌に使った呼び方「はやち」は、昔の古い呼び方なのである。

ここで春の季語「春疾風」の句を引いて終わりたい。

 春疾風すつぽん石となりにけり・・・・・・・・・・水原秋桜子

 春嵐奈翁は華奢な手なりしとか・・・・・・・・・・中村草田男

 春颷ききゐて沼へ下りゆかず・・・・・・・・・・加藤楸邨

 春疾風屍は敢て出でゆくも・・・・・・・・・・石田波郷

 春嵐鳩飛ぶ翅を張りづめに・・・・・・・・・・橋本多佳子

 春嵐足ゆびをみなひらくマリヤ・・・・・・・・・・飯島晴子

 春疾風吹つ飛んで来る一老女・・・・・・・・・・山田みづえ

 なびきつつ女あらがふ春疾風・・・・・・・・・・松尾隆信

 煮え切らぬ男撫で切る春疾風・・・・・・・・・・石田静
2008/03/06のBlog
──季節の歌鑑賞──

三毛猫の蹠(あしうら)あかく天窓の
 玻璃に五弁の花捺(お)しゆけり
・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

猫の足裏は「肉球」と呼ばれ、猫にとっては足裏の重要な感覚器官であるらしい。足形は、ちょうど五弁の梅の花のような形をしており、これは梅鉢形と似ている。
私の歌は、別にとりたてて、どうという歌ではないが、明り取りの天窓のガラスを渡って行った三毛猫の足裏を五弁の梅の花と捉えて、即興的に詠んだものである。
世の中には「猫好き」の人が多くて、ネット上でもさまざまの記事や写真が出ている。
私自身は「猫嫌い」である。というのは、私の家の庭は猫の通路になっていて、臭い臭い糞をしたり、小便をひっかけたりするので、被害甚大である。家の中だけで飼い、下のものの始末も砂箱を用意したりする心がけのよい愛猫家なら私は何も言わないが、得てして、「犬は毎日散歩させなければならないから面倒だが、猫は自分で用を足してくるから楽だ」などとほざく手合いが大半なのである。そのトバッチリが私の家に廻ってきているのだ。
農家も困っている。種などを蒔いて白い砂で表面をきれいにしてある畑を足でかき回したり、敷き藁の上に糞をしたりと、悪さをするばかりである。おまけに犬の糞は固くて、そんなに臭くはないが、猫の糞はべちゃべちゃに緩い便で、しかも限りなく臭い。
私が「猫嫌い」になった理由である。
そんな私が猫を歌に詠んだというのだから、褒めてもらいたい気分である。
今しも当地は「梅の花」の咲くシーズンである。梅の花と似た足裏を持つゆえに、先ずは許しておこう。
2008/03/05のBlog
──季節の歌鑑賞──

春雷が大地を打ちてめざめしむ
 啓蟄(けいちつ)の日よ昏(くら)き蛇穴
・・・・・・・・・・・木村草弥

今日3月5日は二十四節気の一つ「啓蟄」の日である。
啓とはひらく、蟄とは巣ごもりのこと。
つまり土中に冬眠していた爬虫類や虫が、この頃になると冬眠から覚めて、地上に姿を現すこと。
また「地虫」そのものを指すこともある。
啓蟄をさらに具体的に言った言葉に、地虫穴を出づ、蛇穴を出づ、蜥蜴穴を出づ、などがある。
今年は例年よりも寒いので彼らの動きは鈍いだろう。まだ穴を出ていないかも知れない。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この頃に鳴る雷を「虫出しの雷」などと言う。掲出の私の歌は、まさに、そういう光景を詠ったものである。
この「啓蟄」という言葉には、天地が春の躍動を示しはじめた喜びと活気を表わし、開放感がこめられていると言えよう。
掲出した写真はガマガエルである。歌に詠んだ「蛇」の適当な写真がないので、同じく、この頃に地上に出てくるガマガエルで代用する。

俳句でも古くからさまざまに詠われてきた。それを少し引いておく。

 啓蟄の蟻が早引く地虫かな・・・・・・・・高浜虚子

 啓蟄のいとし児ひとりよちよちと・・・・・・・・飯田蛇笏

 香薬師啓蟄を知らで居賜へり・・・・・・・・水原秋桜子

 啓蟄の蚯蚓の紅のすきとほる・・・・・・・・山口青邨

 啓蟄の雲の奥より仏の目・・・・・・・・加藤楸邨

 啓蟄や四十の未知のかぎりなし・・・・・・・・能村登四郎

 啓蟄や解(ほぐ)すものなく縫ふものなく・・・・・・・・石川桂郎

 水あふれゐて啓蟄の最上川・・・・・・・・森澄雄

 啓蟄の土洞然と開きけり・・・・・・・・阿波野青畝

 啓蟄を啣へて雀飛びにけり・・・・・・・・川端茅舎

この句などは、先に書いた「啓蟄=地虫」そのものを描いている。

 啓蟄の大地月下となりしかな・・・・・・・・大野林火
2008/03/04のBlog
──私の読書ノートから──(30)

 油井宏子『江戸奉公人の心得帖』 ──呉服商白木屋の日常──
 ・・・・・・・・・(新潮新書2007年12月刊)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

江戸時代の半ば寛文二年(1662年)に日本橋通三丁目に店を開いた「白木屋」日本橋店(たな)の古文書が残っていて、それらの記録を読み解きながら、奉公人たちの日常を描いたのが本書である。
元服まで無給、30歳まで禁酒、職場は全員男。出世や給料の仕組み、衣服の決まり事、細かく定められた仕事内容など、江戸時代のサラリーマンと言える白木屋で働く奉公人の姿を、約400点の古文書から描き出す。
油井宏子さんは、1953年千葉県生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。NHK学園講師。著書に「江戸が大好きになる古文書」など。
私が油井宏子先生の名前を知ったのは、京都府立山城郷土資料館での解説ボランティアを通じて、親しく付き合うようになった浅田周宏氏の家に伝わってきた「浅田家文書」による。浅田家の古文書は今、東京大学経済学部に寄託されて、さまざまの学者が研究している。浅田家は戦国時代からの大庄屋であり、苗字帯刀を許されていた。
その一族の中に「おでんちゃん」という女の子が居て、寺子屋で学ぶ記録があり、それらを研究されたのが、写真②に掲げた油井宏子さんの本(柏書房刊)なのである。(以下の文章を参照のこと)

魅力的な油井さんの古文書解読法 江戸ブームは、歴史や概説を読む時代から、自分で江戸を発見する参加型の時代に入った。幸い江戸時代の古文書が身近にたくさん残っている。しかし幕末に来日した外国人が「悪魔の文字」だと驚嘆したほど難しい。そこで古文書講座が人気だが上達に時間がかかる。油井さんは皆さんの知識を活用して即座に読めるようにしようという魅力的な解読法を開発した。

音読する。書く。じっとにらむ。上達の近道、油井宏子の古文書講座。今回DVDのために特別講座を収録。選りすぐりの古文書を教材に、油井先生の講座の魅力を凝縮しました。また、特典として、先生が語る江戸エッセイも併録。講座の理解を深めることができます。第1巻・・・おでんちゃんの寺子屋規則(浅田家文書)山城(やましろ)国(現・京都府)の西法花野(にしほうけの)村に住むおでんちゃんは10歳。おでんちゃんが使っていたテキストには、お師匠さんさんの直筆の規則が書かれていました。お師匠さんが子どもたちに守って欲しかったこととは何だったのでしょうか?(「三十六歌仙手習稽古之道可相守條々」東京大学経済学部図書館文書室蔵)
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さて、今回の「江戸奉公人の心得帖」は、江戸期から明治、大正、昭和にかけて日本橋にあった「白木屋」に勤める奉公人をめぐる「規則」や、彼らの日常の哀歓を書いたものである。
白木屋の本店は京都にあり、奉公人たちは、初代の当主・大村彦太郎可全が近江長浜の生まれであったことから、11、2歳で近江近在から口入屋の手を経て雇い入れられたもので、職場は全員男、支配人といえども退職まで独身という厳しい世界であった。暖簾わけが許されるのは支配役と年寄役だけ。若い男として性欲発散のためには遊郭遊びをし、そこで遊ぶ金ほしさに店の品物に手をつけるなどの悪事を働くようになる。大半のものが病気になったり解雇されたりして国許に帰ることになる。
江戸に「女」の数を制限するというのは、徳川幕府の一貫した政策であったから、武士も江戸では妻帯している者は少なかったが、奉公人たちは武士より厳しい生活を強いられた「江戸のサラリーマン」だった。
ここの文書の中に「明鑑録」という分厚い5冊の帳面があると言い、これは天保10年から安政6年にかけての史料で、何らかの不正を働いた者を取り調べた記録だという。
この本では「友八」の例などが事細かに出ている。
武士が嵩にきて代金を支払ってくれないので遁走した者。女に貢いで店の商品に手をつけた者。回収した売掛金を着服したまま逃げた「平七」の話。
そんな「掛売り」のリスクを避けるために店側からは「現金売り」を奨励していること、など身につまされる話が出ている。
しかし、全体としては、さほど面白い本ではない。彼らの実情を寂しい気持ちで読まされるということである。
「白木屋日本橋店」は、伊勢出身の「三越呉服店」(今の三越)と覇を競い、のちには東急百貨店日本橋店に引き継がれたが、平成11年(1999年)1月31日に閉店するまで日本橋に根を下ろしていたのである。
因みに、この「白木屋文書」も東京大学経済学部図書館に所蔵されている。
2008/03/03のBlog
──私の読書ノートから──(29)── <日本語倶楽部> 

 山口謡司『日本語の奇跡』<アイウエオ>と<いろは>の発明
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新潮新書2007年12月刊・・・・・・・・・・木村草弥

「日本語」にこだわるものとして、漢字カナまじり文という世界でも特異な表記法を築き上げた先人たちの叡智と努力を、こうして判りやすく体系的に一冊にまとめた、最近でのヒット作として、先ず喜んでおきたい。
カタカナやひらがな、漢字を巧みに組み合わせることで、素晴らしい言葉の世界を創り上げてきた日本人。先師先達のさまざまな労苦の積み重ねをわかりやすく紹介しつつ、これまでにない視野から日本語誕生の物語を描く。
著者の山口謠司は1963年長崎県生まれ。大東文化大学大学院、フランス国立高等研究院人文科学研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、大東文化大学文学部准教授。

ここでネット書店BK-1 の、この本の紹介に載る「オリオン」という人の書評を貼り付けておきたい。

 『堤中納言物語』に、ある貴人からの贈り物への返礼として、カタカナで和歌を書き送った(虫めづる)姫君の話が出てくる。
 本居宣長の門人伴信友は、この一篇に寄せて、「さて其片仮名を習ふには五十音をぞ書いたりけむ。いろは歌を片仮名に書べきにあらず」と記した(『仮名本末』)。和歌をカタカナで書いてはいけない。草仮名すなわちひらがなで書かなければならないというのだ。
 ここに、この本で書きたかったことの淵源がある。著者は、あとがきでそう述べている。
 伴信友がカタカナを五十音図に、ひらがなをいろは歌に対応させたことを敷衍して、著者は本書で、日本語を培ってきた二つの世界を腑分けしてみせた。すなわち、〈アイウエオ〉という「システム」(日本語の音韻体系)を支える世界と、〈いろは〉という「情緒」(言葉に書きあらわすことが出来ない余韻)を支える世界。
 それは同時に、日本という国家を支えてきた二つの要素に対応している。外来の普遍的な思想(たとえば儒教、仏教)や統治制度(たとえば律令制)と、「国語」としての日本語でしか伝えられない「実体」とでもいうべきもの(たとえば民族性、もののあはれ)。
 著者は「システム」と「情緒」を、空海の業績に託して、「情報」と「実」とも言いかえている。
《空海が持ち帰ってきたものは、情報より「実」とでもいうべき意識ではなかったか。言ってみれば、借り物ではない世界を実現する力である。
 むろん、それまでの日本に「実」というものがなかったわけではない。しかし、「世界」とは中国であり、「普遍の伝達」とは中国の模倣とイコールであった。「実」という意識はまだ薄かったであろう。(略)
 「実」という意識は、あるいは、芸術家が模倣を繰り返す修行時代を抜けだし独創の境地に立った地点と似ているとでも言えようか。模倣は本来、「実」を必要とはしない。模倣によってあらゆる技術を身につけようとするときの条件は、いかにして「実」を捨てられるかである。しかし、捨てようと思えば思うほど、目の前の壁となって「実」は大きく姿をあらわしてくる。そして、いかにして「実」を捨てられるかともがき続ける修行のなかで、最後の最後に幻のように残った「実」こそが、まさしく独創の足場となるのではなかろうか。
 折りしも日本では、本当の意味での独創が始まろうとしていた。日本語において、それは〈カタカナ〉と〈ひらがな〉へとつながってゆくのである。》
 こうして著者は、漢字伝来から(鳩摩羅什による仏典漢訳の方法に倣った)万葉仮名の創造を経て、漢字の簡略化によるカタカナの、また、そのデフォルメ(草書体)を利用したひらがなの発明へ、そして、十世紀前半と目されるいろは歌の誕生(作者不詳)へと説き及んでいく。
 また、空海によるサンスクリット語の伝来に端を発し、十一世紀後半を生きた天台僧明覚による(子音と母音を組み合わせた)日本語の音韻体系の解明から本居宣長へ、そして「情緒よりシステムの構築を必要とした」明治時代、大槻文彦による五十音配列の『言海』と至る五十音図誕生の物語を語っていく。
《〈いろは〉と〈アイウエオ〉の両輪によって情緒と論理の言語的バランスを取ることができるこのような仕組みの言語は、日本語以外にはないだろう。あらゆる文化を吸収して新たな世界を創成するという点で、それは曼荼羅のようなものだと言えるかもしれない。
 我々はそうした素晴らしい日本語の世界に生きているのである。》
 この末尾に記された言葉がどこまで真実のものでありうるのか。それは、千年をはるかに超える日本語探求の歴史の重みを踏まえた、これからの言語活動の質にかかっている。
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ここに紹介した「オリオン」氏の書評だけからは、少し判りにくいかも知れない。
この本の「帯」には

<日本人が創り上げた たぐい稀な言葉の世界!
 かつてない視野から描く日本語誕生の壮大な物語。>

とある。そして「帯」の裏面には

 ○淵源としてのサンスクリット語
 ○万葉仮名の独創性
 ○空海が唐で学んできたこと
 ○<いろは>の誕生
 ○妙覚、加賀で五十音図を発明す
 ○藤原定家と仮名遣い
 ○さすが、宣長!

が挙げられているが、これらは「目次」に書かれているものである。
私が部分的に知っていることが、この本によって体系的に知らせてもらって有難かった。
私たちが「表意文字」「表音文字」などと、簡単に言い過ぎてしまっていることも、この本では「表意記号」「表音記号」と書かれていて、その方が的確な言い方である。これに関連していうと、第二章「淵源としてのサンスクリット語」に、このことが書かれている。

<ひらがな><カタカナ>と我々が何げなく使っている「言い方」だが、第七章「仮名はいかにして生まれたのか」に詳しく書かれている。
なぜ「仮名」なのか。ここには、こう書かれている。

<どうして「仮」という言葉がついているのか。当時、「仮名」は別に「借字」(しゃくじ)という呼称もあったが、これは「漢字を借りる」という意味である。「仮」の意味が分かれば、「借」という字がつけられた意味も理解できるだろう。
漢字は、奈良時代以来、別名で「真名」(まな)と呼ばれていた。「真」とは「中身がいっぱいに詰まっている」という意味を本来持つ漢字であり、「仮」とは「中身のない見せかけの」の意味である。>
中国伝来の漢字を使って「日本語」の表記を、どうしてゆくか、を考えて、漢字の「音」(おん)を利用するだけではなくて、「漢字を簡略化する」「漢字の一部を利用する」などして<カタカナ>が考案され、全体をデフォルメした草書体(当時は「草仮名」と呼ばれていた)を利用して<ひらがな>が、新しい我が国独自の文字となっていったのである。因みに<ひらがな>という呼称が起こったのは江戸時代になってからである。
漢字の意味や発音を捨て去った「見せかけ」の部分を使うからこそ、我が国独自の文字は「仮名」という名称で呼ばれることになったのである。

著者も「あとがき」で<書き足りない・・・・・。稿を終えての思いはそれに尽きる。>と書くように、「新書」というページ数の制約もあるので仕方がないのだが、この本に肉付けした内容豊富な一冊を、著者には、ぜひお願いしたいものである。
日本語にこだわる人には必読の一冊である。よく売れていて12/20の初版から、すぐに1/15には2刷が出ている。私の買ったのは2刷のものである。
2008/03/02のBlog
──<非>季節の一句鑑賞──

 水滴のひとつひとつが笑っている顔だ・・・・・・・・・・住宅顕信

住宅顕信(すみたくけんしん)という自由律俳人の句である。
この句は彼の死後、1993年に岡山市内を流れる旭川のほとりに建てられた「句碑」に彫られたものである。
写真①がその句碑。
この句碑が建てられたとき、遺児である住宅春樹は僅か8歳──小学校二年生が健気にも挨拶したという。
以下にネット上に載る記事を引いておく。写真②は『ずぶぬれて犬ころ』俳句=住宅顕信、版画=松林誠(2002年中央公論新社刊)。

住宅顕信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和36年(1961年)3月21日 - 昭和62年(1987年)2月7日)は、日本の俳人。
本名・春美(はるみ)。

経歴
岡山県岡山市に生まれる。
岡山市立石井中学校卒業後、昭和51年(1976年)4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学、同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しみ始める。昭和53年(1978年)3月下田学園卒業。

昭和55年(1980年)父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され清掃の仕事に従事。仏教に傾倒し、昭和57年(1982年)9月より中央仏教学院の通信教育を受講。翌昭和58年(1983年)4月、教育課程修了。7月西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釈顕信と名告る。10月同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土教の根本経典「無量寿経」に因み無量寿庵と名付ける。

昭和59年(1984年)2月急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月長男誕生。不治の病の夫に対し妻の実家が希望し離婚する。長男は顕信が引き取り病室にて育てる。10月自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事する。この頃より自由律俳句に傾倒し句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔。

昭和60年(1985年)には句集『試作帳』を自費出版。層雲に権威主義的な疑念を感じ、層雲の元編集者藤本一幸がこの年より主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌昭和61年(1986年)「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。

昭和62年2月7日23時23分、永眠。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。

昭和63年(1988年)句友であった岡山大学教授・池畑秀一らの尽力により弥生書房より句集『未完成』出版。
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別に「顕信─魂の俳人─」というサイトもあり、彼の写真なども見られるので覗いてみられるとよい。
写真③は、彼の死後、句友であった岡山大学教授・池畑秀一の監修で発行された
『住宅顕信』全俳句集全実像(2003年小学館刊)である。
冒頭に書いた「句碑」の序幕の際に挨拶した遺児・住宅春樹が、この本に次のように書いている。

 おわりに──父のように熱く生きたい・・・・・・・・・・・・住宅春樹

父、住宅春美が亡くなったのは私が三歳になる前でした。
「お父さんのことは覚えていますか?」と、新聞記者の方などから尋ねられますが、父と過ごしたころのことは、ほとんど憶えていません。
父との思い出は、1993年に父の句碑が建てられてからできてきたように思います。小学二年生のときでしたが、除幕式では祖父母ではなく私が挨拶をしました。
2002年には、中央公論新社から句集も二冊刊行され、さらに精神科医の香山リカ先生も本を書いてくださいました。そのほか、岡山市内にある吉備路文学館で「住宅顕信展」が七月から三か月間開催され、七月七日には「住宅顕信フォーラム」も行われました。
フォーラムには池畑秀一先生、香山先生、父のファンだとおっしゃってくださるプロレスラーの新崎人生さんらが参加してくださいました。テレビでしか見たことのない有名な方々が、父の生き方、作品について熱心に語ってくださる。改めて父の凄さを実感しました。
父は私にいくつかの句を遺してくれました。
その中で特に、《バイバイは幼いボクの掌の裏表》が好きです。私は病室から帰るとき、いつも父に「バイバイ」と手を振りました。それだけははっきり憶えていて、この句を読むと、とても懐かしい気持ちになります。
《夜が淋しくて誰かが笑いはじめた》。本書のサブタイトルに入れられたこの句も好きです。
父がどんな思いで私を病室で育て、句を詠み、治療を受けたのだろうか。父はなぜ得度して、俳句の道を選んだのだろうか。言葉ではうまく表現できませんが、父が発病した年齢に自分が近づいてきて、最近、父の気持ちがなんとなくわかってきました。
自分がこれだと信じたことに一生懸命打ち込んだ父。私はこの春から情報系の大学に進む予定ですが、父のように熱く生きたいと思っています。いつか父にあったとき、「ぼくはこんな生き方をしたんだよ」と胸を張れるように。
最後になりましたが、父を支え、応援してくださった池畑先生をはじめ、多くの皆様に御礼申し上げます。
 2003年1月15日

以下、これらの本から私の目に留まった句を引く。

 降りはじめた雨が夜の心音

 雨に仕事をとられて街が朝寝している

 朝はブラインドの影にしばられていた

 月明り、青い咳する

 秋が来たことをまず聴診器の冷たさ

 またオリオンにのぞかれている冬夜

 点滴と白い月とがぶらさがっている夜

 水たまりの我顔またいで歩く

 カガミの中のむくんだ顔をなでてみる

 何もないポケットに手がある

 だんだん寒くなる夜の黒い電話機

 看護婦らの声光りあう朝の回診

 頭剃ってもらうあたたかな陽がある

 水音、冬が来ている

 冬の定石窓にオリオンが置かれた

 赤ん坊の寝顔へそっと戸をしめる

 両手に星をつかみたい子のバンザイ

 バイバイは幼いボクの掌の裏表

 かあちゃんが言えて母のない子よ

 抱きあげてやれない子の高さに坐る

 夢にさえ付添いの妹のエプロン

 初夏を大きくバツタがとんだ

 合掌するその手が蚊をうつ

 薬を生涯の友として今朝の薬

 とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる

 気の抜けたサイダーが僕の人生

 ずふぬれて犬ころ

 若さとはこんなに淋しい春なのか

 報恩の風の中に念仏

 夕陽の影が背を丸めたランドセル

 真夏の山がけずりとられた

 一つの墓を光らせ墓山夕やけ

 朝露をふんで秋風の墓がならぶ
2008/03/01のBlog
──私の読書ノートから──(28)

 「きっこの日記 R」好き?好き?嫌い?編
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・(辰巳出版2007/02/15刊)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

かねて予告中の本が出たのでネット書店から取り寄せた。
この本の帯には「愛と性、政治と国民、最愛の人・・・ついに明かされる”きっこの素顔”」というキャッチコピーが見られるが、たしかに第一章OriginalManuscripts「あたしはあたし」に「恋愛遍歴」という項目もあるが、内容は生い立ちとか、お母さんのこととかが回顧的に淡々と語られるもので、衝撃的なものはない。
「あとがき」に書かれるように、この本の出版動機というのが、持病持ちのお母さんの治療のために、今しか出来ない手術を受けさせたい、そのための費用を、この本の印税でまかないたい、ということなのである。
初版にいくら刷られたかなど判らないが、1、2、3巻と出版されたのだが、印税でまかなうのは大変だろう。
前回までは白夜書房から刊行されたが、今回は辰巳出版からの発刊ということだが、それは以前から担当していた編集者「Tさん」が移ったために、どうしてもTさんに担当してもらいたかったから、という理由が「あとがき」に書かれている。

俳句好きなきっこさんらしく、「原爆の日」2006/08/06という記事には長崎で原爆に遭って死んだ子供三人と奥さんを詠んだ「まつおあつゆき」という「自由律」俳人の作品を載せている。少し引いておく。

 わらうことをおぼえちぶさにいまわもほほえみ・・・・・・・・・・まつおあつゆき

 すべなし地に置けば子にむらがる蝿

 なにもかもなくした手に四枚の爆死証明

 夏草身をおこしては妻をやく火を継ぐ

 降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾りつ

この記事の後の方には「原爆忌」に詠まれた俳句が47点収録されている。
その一番最後に

 抱きあげて猫の肋や原爆忌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・きっこ

という自作が掲げられている。 いい作品である。
ずぶぬれて犬ころ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・住宅顕信

2006/11/07の記事には、この標題で、まつおあつゆきと同じ「自由律」俳人の住宅顕信の作品を載せてある。太字のものが「短詩」のようだが、自由律の俳句である。
私は、この人については全く何も知らなかったが、きっこさんの、この記事を見てネットから取り寄せてみたので、後日あらためて記事を書くことにする。
写真②に、その本を掲げておく。
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この本には2007年11月までのWEB版「きっこの日記」から27本と、オリジナル原稿8本、それに、児島玲子×きっこ、江川紹子×きっこ、の「対談」2本から成っている。
もっとも「対談」とは言っても、「チャット」によるコメントのやりとりを構成したものである。
「父さんのビール」という母が離婚したために生き別れになった父親のことを書いた記事。愛煙家のきっこさんらしく「自分勝手な嫌煙権」続、続々など3編の記事がある。
また「マジメな人がバカを見る美しい国」という、食品偽装の記事など、今どきの日本(きっこさん流に言うと「ニポン」となる)の良心を代表するような記事も、いかにも、きっこさんらしいものである。
この本が良く売れて、お母さんの手術がうまく行くように祈って終わりたい。
2008/02/29のBlog
二月になりました。
まだ寒いですが、「風光る」季節の到来です。
 麗しき春の七曜またはじまる・・・・・・・・・・・・・・山口誓子


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このDoblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
私は、このDoblogをWeb上のHPと連動したものとして、日々詩作品や文章を書き溜めています。
私の、このBLOGは文芸に──特に「詩歌句」に特化したものとして編集しています。体裁としては、今はもう終了したが朝日新聞の大岡信「折々のうた」、読売新聞の長谷川櫂「四季」を参照して分量としては、かなり長目の記事を書いています。自作も多目に採り上げています。
ぜひ多くの方のご訪問と閲覧をお願いします。

2008年2月19日に私のBLOGへのアクセス数が遂に600000件を超えた。59万件を超えたのが
2008年1月28日であるから何とも早い達成であり感慨ふかいものがある。
私の場合、検索サイトからの人などDoblog以外からのアクセスが多いらしい。
アクセスして下さった人たちに心から感謝します。これからもよろしく。


■─My Works─■
私のWebのHP「木村草弥の詩と旅のページ─《風景のコスモロジー》─」にアクセスして頂くと、目次が20個弱並んでいます。詩、四冊の歌集の自選歌などの短歌と批評文、連句、旅日記、エッセイなど、自作と他人の作品が収録されており、各「目次」からリンク出来ます。
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