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2008/02/04のBlog
[ 21:46 ]
アクセスいただきありがとうございます。ハルビンに滞在中、1年半近く、一応、毎日、記事を書いております。過去の記事・写真などにもおつき合い頂ければ幸甚です。
2007/03/18のBlog
[ 01:45 ]
2007/03/15のBlog
[ 00:35 ]
[ ハルビン生活 ]
ハルビンレポート、リンクしました。
こちらのレポート、中国に派遣されていた方のレポートです。
ハルビン市での体験談にもとづき、くわしくレポートされています。
レポートの内容のいくつかは私も経験したことが書かれたりしております。
ハルビンに興味のある方はぜひご覧ください。
こちらのレポート、中国に派遣されていた方のレポートです。
ハルビン市での体験談にもとづき、くわしくレポートされています。
レポートの内容のいくつかは私も経験したことが書かれたりしております。
ハルビンに興味のある方はぜひご覧ください。
2007/03/08のBlog
[ 00:22 ]
おかげさまで無事日本に戻っております。
今回のハルビンでの1年半の生活は、ほんとうにあっという間でした。
ハルビンで過ごしたことは、昔、見た夢の中での出来事ではなかったのかと思ったりすることもあるのですが、久しぶりに口にする「北海道牛乳」「札幌ラーメン」に感動したり、商店などの店員さんの接客態度に感心したり、110円が普通だった自動販売機のジュースの値段が120円になっていることや物価の高さにいちいち驚いたり、人民元ではいくらかと計算してみたり・・・
日本での生活をとおして、ハルビンにいたことは紛れもない事実なんだと改めて感じております。
もう少し落ち着きましたら、過去の日記も書きたいと思っておりますので、今後ともよろしくお願いします。
今回のハルビンでの1年半の生活は、ほんとうにあっという間でした。
ハルビンで過ごしたことは、昔、見た夢の中での出来事ではなかったのかと思ったりすることもあるのですが、久しぶりに口にする「北海道牛乳」「札幌ラーメン」に感動したり、商店などの店員さんの接客態度に感心したり、110円が普通だった自動販売機のジュースの値段が120円になっていることや物価の高さにいちいち驚いたり、人民元ではいくらかと計算してみたり・・・
日本での生活をとおして、ハルビンにいたことは紛れもない事実なんだと改めて感じております。
もう少し落ち着きましたら、過去の日記も書きたいと思っておりますので、今後ともよろしくお願いします。
2007/03/07のBlog
[ 06:21 ]
2007/03/06のBlog
[ 00:00 ]
[ ハルビン生活 ]
朝から最後の荷物の整理。何人かの知人が宿舎(ホテル)までお別れの挨拶に来てくれた。昼食は、お世話になった宿舎の担当者と。部屋代の最終的な精算をし、デポジットを現金で返してもらった。そして、最寄の国際便を扱う郵便局にて荷物の郵送。「残留孤児」2世の知人がマイカーで送ってくれた。
夕食は、R先生ご夫妻と食べた。R先生は私が17年前、ハルビン市内にある大学で日本語教師をしていた時、その大学の日本語科の主任をされていた。以前の記事(←ココ)にも書いたとおり、R先生に親切にしてもらわなければ、私が今ここにたかとどうかは分からない。
大学時代、卒業後は「国語教師」になろうか「日本語教師」になろうか迷っていた時期があった。「日本語教育」は、どちらかというと英語を母語とする人に日本語を教えることに興味を持って始めた。しかし、その頃、たまたま大学の近くに住んでいた外国人の日本語学習をボランティアでお手伝いする機会があり、その時、初めて日本語を教えた外国人がハルビンの人だった。以来、ハルビン出身の方との交流が広がり、中国に興味・関心をもつようになった。
一方、日本の学校現場でも中国を初めとする帰国生徒や渡日生徒の日本語教育について問題になっていることを知り、中学か高校の「国語」の教員になるにしても、日本語教師の経験は役に立つと思うようになった。
そして、そのようなことを考えながら、「国語」の教員になることを決めたのだが、外国人の日本語学習のお手伝いを続けているうちに、大学卒業後、ハルビンの大学で日本語教師をしてみないかというお話をいただいた。「国語教師」になるなら、当時の日本の教員採用試験の倍率は、さほど高くなく、少子化の影響で採用試験の倍率が年々高くなるのは目に見えていたので、「日本語教師」をせずに、「国語科」教員の採用試験を受験することを勧める教授もいた。しかし、日本の「国語教育」に対して漠然と感じていた閉塞感を打破するためにも、海外での「日本語教師」の経験は何かの役に立つのではないかなどと思い、ハルビンに行くことを決心した。
そのようなことで、将来の夢と期待と不安を抱きながら、ハルビンでの第一回目の日本教師生活が始まった。知らないことに気づき、無知だということを痛感させられた。中国についても日本、日本語についても。中国語のほとんどできない中、「老師」「老師」と慕ってくれる学生に助けてもらいながらの生活。授業の準備に終われ、ゆとりや余裕はなかったが、日々の生活は新鮮で、自分が無知な分だけ何かを発見する毎日だった。
(つづく)
夢から醒めた夢
夕食は、R先生ご夫妻と食べた。R先生は私が17年前、ハルビン市内にある大学で日本語教師をしていた時、その大学の日本語科の主任をされていた。以前の記事(←ココ)にも書いたとおり、R先生に親切にしてもらわなければ、私が今ここにたかとどうかは分からない。
大学時代、卒業後は「国語教師」になろうか「日本語教師」になろうか迷っていた時期があった。「日本語教育」は、どちらかというと英語を母語とする人に日本語を教えることに興味を持って始めた。しかし、その頃、たまたま大学の近くに住んでいた外国人の日本語学習をボランティアでお手伝いする機会があり、その時、初めて日本語を教えた外国人がハルビンの人だった。以来、ハルビン出身の方との交流が広がり、中国に興味・関心をもつようになった。
一方、日本の学校現場でも中国を初めとする帰国生徒や渡日生徒の日本語教育について問題になっていることを知り、中学か高校の「国語」の教員になるにしても、日本語教師の経験は役に立つと思うようになった。
そして、そのようなことを考えながら、「国語」の教員になることを決めたのだが、外国人の日本語学習のお手伝いを続けているうちに、大学卒業後、ハルビンの大学で日本語教師をしてみないかというお話をいただいた。「国語教師」になるなら、当時の日本の教員採用試験の倍率は、さほど高くなく、少子化の影響で採用試験の倍率が年々高くなるのは目に見えていたので、「日本語教師」をせずに、「国語科」教員の採用試験を受験することを勧める教授もいた。しかし、日本の「国語教育」に対して漠然と感じていた閉塞感を打破するためにも、海外での「日本語教師」の経験は何かの役に立つのではないかなどと思い、ハルビンに行くことを決心した。
そのようなことで、将来の夢と期待と不安を抱きながら、ハルビンでの第一回目の日本教師生活が始まった。知らないことに気づき、無知だということを痛感させられた。中国についても日本、日本語についても。中国語のほとんどできない中、「老師」「老師」と慕ってくれる学生に助けてもらいながらの生活。授業の準備に終われ、ゆとりや余裕はなかったが、日々の生活は新鮮で、自分が無知な分だけ何かを発見する毎日だった。
(つづく)
夢から醒めた夢
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