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不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論入門講座
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2008/05/15のBlog
西洋文明と-1:同一性傾斜をもつ西洋一神教文明とMedia Pointを内包する東洋文明

テーマ:検討問題

後で検討したいが、西洋文明ないしは文化の-1=同一性の傾斜であるが、これが、現代文明・文化を行き詰まらせていると考えられる。資本主義も内的には、差異共振性をもつが、同一性価値の支配によって、非合理主義的に(悪魔的に)破壊的になっているのである。思うに、私見では、西洋言語の人称性にも問題がありそうである。
 とまれ、-1=同一性の傾斜のために、西洋文明は東洋文明・文化が本来的にもっているMedia Pointを抑圧しているのである。だから、トランス西洋文明としての新東洋文明が考えられなくてはならない。西洋文明を包摂した高次の新東洋文明である。

p.s. -1=同一性への傾斜(ユダヤ・キリスト教一神教性=ルサンチマン)があるために、たとえば、イタリア・ルネサンスで生起した差異ないしは Media Pointの活性化が、同一性主義(近代合理主義・近代的自我)に抑圧されてしまったと考えられる。既述したように、この差異と同一性の矛盾的二重性が、西欧近代文化・文明の実体であると考えられる。言い換えると、二重人格(ジキルとハイド)としての近代西欧文化・文明なのである。悪魔の様相と天使の様相をもっているのであるが、前者が後者の影に隠れて、主導的なのである。天使の仮面をつけた悪魔としての近代西洋文化・文明である。
 私見では、一人称は自我人称、即ち、同一性人称ではないだろうか。これが主導的になって、差異を否定すると思われるのである。そう、「わたし」の問題である。結局、自我・同一性の「わたし」と自己・共一性の「わたし」がある。これが、西洋言語では、連続化していると思うのである。日本語は本来、自己・共一性言語であり、「わたし」は、他者と共振しているのであり、そのために、とりわけ、「わたし」という語を使用しないと考えられるのである。
 結局、この同一性主導性が今日、非合理主義性をもたらしているのであり、差異主導性が必要とされているのである。差異主導により、同一性傾斜は制御されて、差異共振性における、ないしは、基づく、同一性となると考えられるのである。言い換えると、差異主導によって、差異と同一性とのバランスを取れるのである。しかしながら、差異と同一性の発展的な対立と言ってもいいだろう。この対立が必要である。自由主義は、この中において肯定されるべきであろう。そして、民主主義は、差異共振性となるだろう。資本主義も差異共振資本主義になるだろう。差異共振資本自由主義となるだろう。

p.p.s. 近代西洋文化の偽善性であるが、それは理論的にどう説明できるだろうか。同一性=自我はどうして、偽善的になるのか。そう、同一性=自我の優越性の発生の力学は何か。同一性価値を優位に、差異価値を劣位にする力学であるが、それは、いわば、鏡像的価値に拠ると考えられる。
 鏡像を優位とする価値観の発生が問題とされなくてはならない。ここで、作業仮説ないしは思考実験であるが、幼児の身体的脆弱性・虚弱性があり、そのため、差異における苦・悲に対して、身体的に積極的に対応することができない。つまり、身体的に劣位にあるのである。それに対して、差異共振エネルギーは過剰である。
 思うに、この過剰な差異共振エネルギーを同一性へと転換させるのが仕組みがあるのではないだろうか。精神の過剰と身体の劣弱さがあり、そこにで、後者を乗り越えるために、前者は、後者を否定して、同一性価値を仮構(虚構)するのではないだろうか。フィクションである。一種、幻想、妄想である。ファンタジーである。
 身体=差異の劣位を乗り越えるために、同一性価値の優位というフィクションを人間は形成するのではないだろうか。それが、-(-i)=i^2=-1ではないだろうか。差異=他者である-iを否定して、同一性化するのである。他者=差異の否定行為が、他者=差異の場所に鏡像を映現させて、それを代償として、自己同一性化するのではないだろうか。ここでは、共振ではなくて、否定的同一化があるのである。鏡像と同一性との融合があるのである。これは、当然、ショートである。つまり、自己同一性=自我とは、同一性のショートなのである。「自己中心主義」的な盲目である。自我狂気である。
 とまれ、この否定が自我意志となっているのである。では、この否定はどこから生まれるのだろうか。それは、差異共振性のアンバランスからではないだろうか。つまり、+iと-iがあるが、両者がアンバランスで、-iが+iより劣弱なのである。この傾斜がデュナミスではないだろうか。この本源的不均衡が、現象において、否定の力学を発生させるのではないだろうか。整理すると、確かに、差異共振性があるとは言え、不均衡性があるために、成長において、否定性が発生して、同一性に傾斜するということではないだろうか。
 そして、この否定性=暴力に対しては、根源の差異共振性を取り戻す必要があると言えよう。ここで、知恵・叡智が問題となるのである。イデア界の叡智が必要なのである。そう、思うに、本来、女性の方が、男性よりも、こちらに近づいていたと考えられる。ソフィア(叡智)は、本来、女性的である。
 だから、正確に言えば、否定性=暴力性は父権文化、父権一神教文化のものである。本来、母権文化、母権多神教文化は、この否定性=暴力性を差異共振叡智によって制御していたと考えられるのである。
 後で、もう少し丁寧に整理したい。

3p.s. まだ、同一性=自我の優越主義が十分に説明されていないので、後で再考したい。

4p.s. 同一性=自我の優越志向性は既に説明されている。精神の過剰性と身体の劣弱性との非対称性・不均衡性があり、身体の劣位を「意識」上、乗り越えて、「意識」を優位化する力学で説明できるのである。

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ゼロとは何か:+1と-1と±0:ポスト・モダンとハイデガーとトランス・モダン
テーマ:プラトニック・シナジー理論
既述であるが、ポスト・モダン哲学は、+1(共一性)という差異を追求したが、結局、-1(同一性)との連続性を立ち切ることができずに、両者の連続性ないしは混淆に留まったと考えられる。そして、+1と-1との関係を和として考えて、+1+(-1)⇒±0が帰結されて、この±0とは、構造主義を意味し、結局、構造主義から真に脱却できなかったと考えたのである。
 問題点は、果たして、実軸の計算は和でいいのか、ということと、ハイデガー哲学はポスト・モダン哲学の先駆と考えて、-1と±0との存在論的差異を説いていると見たがそれでいいのか、ということである。
 後者を再検討すると、先に述べたように、ハイデガーの本来的存在を±0(実際は単に、0として見たが、±0とした方がより的確であると思われる)と見て、頽落した現存在を-1と考えて、±0と-1が存在論的差異を形成すると見たのである。実際、ハイデガーの本来的存在はわかりにくいのである。個のようであるが、差異共振性がまったく欠落しているのである。これを±0で捉えていいのだろうか。
 0は本来、構造主義の位置である。だから、ぴったりとはあてはまらないのである。今思いついたのは、+1⇒-1ではないだろうか。これならば、差異共振性のない+1があり、それから、同一性志向性によって、-1になることを意味できるのである。
 どうもその方がよさそうである。だから、ハイデガーの本来的存在は+1であり、頽落した現存在は-1であるということになる。
 そうすると、これは、+1を共一性と言ってきたことを訂正しないといけない。+1ではなく、共一性とは、端的に、自己認識方程式である。そして、⇒+1はフッサール現象学を意味するだろう。
 とまれ、そう訂正することから、ハイデガーの存在論的差異は、+1と-1との差異であることになった。そうすると、ポスト・モダン哲学はどうなるかと言えば、端的に、ハイデガー哲学を踏襲していることになるのではないだろうか。初期デリダの場合、ほとんどそうなると思われる。ただ、ポスト・モダンの場合、構造主義の側面がかなり強いと考えられる点が異なると言えよう。
 そう、ここで第一の問題点と重なるのであるが、ハイデガー哲学の場合、+1と- 1との亀裂を説いている。つまり、ハイデガー哲学には、それなりに、不連続性があるのである。しかし、ポスト・モダンになると、+1と-1との連続性ないしは混淆性が存すると考えられるのである。+1と-1とのポスト・モダン的様態は、やはり、和でいいのではないだろうか。即ち、(+1)+(-1)⇒±0 である。重要な点は⇒にあると考えられる。±0は端的に、構造主義を意味するだろう。何故なら、±0は、ゼロ記号であるからである。そして、左辺の(+ 1)+(-1)はポスト・モダン哲学を意味するのではないだろうか。+1と-1との連続的な揺らぎがポスト・モダン哲学ではないだろうか。初期デリダの差延とは正に、そのようなものと考えられる。また、ドゥルーズの差異であるが、思うに、ゼロ記号を使って、差異を連続化しているのである。つまり、やはり、和である。即ち、(+1)+(-1)=±0(ゼロ記号)が生起して、ここで、差異と同一性が一致することになると考えられる。即ち、差異=同一性である。そして、これこそ、連続的差異=微分ではないだろうか。初期デリダの場合は、差異と同一性との混淆的揺らぎがあったが、ドゥルーズの場合は、両者が一体化されてしまい、構造主義ないしはヘーゲル哲学に退行していると思われるのである。
 結局、和とは、連続性ないしは混淆性を意味すると言えるのではないだろうか。ならば、ハイデガーの場合は、和以前の様相にある。とりあえず、それを、+1/-1と表記する。つまり、/は亀裂ないしは境界を意味することになる。とまれ、後で再考したい。

自然VS人間:パエトーンとイカルス:ポスト・ヤハウェ教文明とMP太光新地球文明
テーマ:トランス・モダン・コスモス
東京はここ数日、寒い日が続き、冬のブルゾンを着たが、こんなのは初めてである。これは妙である。なにかある。
 人間の傲りを矯めるのは、やはり、自然の力なのか。知は無力なのか。ギリシア神話に限らず、多くの神話、民話、その他の伝承は、人間の傲りを戒めてきた。しかし、それが、破られたのである。
 思うに、人類は、新たな神話時代(「大洪水神話」時代)に突入したのだろう。一番の問題はやはり、ユダヤ・キリスト教のヤハウェである。ヤハウェ教(狂)である。
 これは、⇒-1の悪霊のようなものである。悪霊を崇拝する宗教(邪宗)が人類を狂わせたことは確かである。そう、自我・物質神なのである。確かに、物質科学・技術は発達したが、精神が退化してしまった。ポスト・ヤハウェ教文明の、「黙示録」的時代になったのだろう。
 Media Pointから発する太光の叡知に基づく新地球文明を創造するときになったのだろう。

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検討問題:同一性=物質化とは何か
テーマ:検討問題
考えると、同一性=物質化とはとても不思議なものに思えるのである。先に地震の予兆になる動物の反応のことを述べたが、動物は地震に関係する電磁波=超越エネルギーを「感覚」していると考えられる。超光が動物には「視える」のだろう。
 しかしながら、そのエネルギーは確かに、物質を形成しているのである。これをどう考えたらいいのだろうか。つまり、自然のもっている同一性現象とはどういう力学から発生するのか、である。アインシュタインのエネルギー公式のPS理論版を見るとわかりやすいだろう。

E=m(+ic)(-ic)⇒mc^2

である。両辺をmで割ると、

(+ic)(-ic)⇒c^2

となる。さらにcで割ると自己認識方程式となる。
 とまれ、思うに、右辺が物質形式でもあると見るべきではないだろうか。つまり、同一性である。すると、-1=同一性と齟齬を来たすことになる。これをどう考えたらいいのか。ここには、現象の実に不思議さ、霊妙さ、玄妙さがあるのではないだろうか。
 思うに、右辺は物質形式ではなくて、エネルギー形式と見るのが適切であろう。そして、物質形式はそのマイナスではないのか。つまり、-mc^2が、物質形式ではないだろうか。
 そうならば、マイナスに大きな意味があるのである。思うに、マイナスとはネガの世界であり、プラスがポジの世界である。ネガの世界は、影の世界である。もっとも、影は現象界では光である。
 ここは実に不思議である。ここでの思考実験から考えると、物質現象とエネルギー現象の二つがあるのであり、両者はマイナスとプラスの関係である。一種鏡像関係と言えるのではないだろうか。
 とまれ、物質とは何か、である。そう、エネルギーが共振から生まれたとすると、物質は共振を否定して生まれているのではないだろうか。どういうことかと言えば、自然は、二重様相であり、一方では、エネルギー現象であり、他方では、物質現象ではないのか、ということである。
 そして、近代科学・技術は、物質現象のみを扱い、本来のエネルギー現象を捉えていなかったことになる。しかし、20世紀になり、相対性理論や量子論によって、物質現象からエネルギー現象へと対象が変換したと考えられるのである。つまり、物理学は、光科学=「精神」科学になったのである。
 思うに、19世紀末から20世紀初期ないしは前半において、哲学であれ、科学であり、芸術であれ、この変換が起こったと思われるのである。
 しかし、物質主義=唯物論に縛られているために、この変換の意味を十分に把捉していないと考えられるのである。哲学で言えば、フッサール現象学のブレークスルーを、ハイデガーは取り逃がしてしまったと思えるのである。先の考察からすれば、ハイデガーの言う本来的存在はエネルギー現象に、頽落した現存在は物質現象に相当すると考えられるのである。
 ここで、ハイデガーの本来的存在について考察すると、それは、まことに不思議である。ここの視点からは、エネルギー現象であるが、本来的存在は暗いのである。なぜなら、差異共振性がないからである。つまり、正に、右辺(mc^2)のみということになると思われるのである。
 これは、比喩的に言えば、暗い光、暗い超光ではないだろうか。(参照:D. H. ロレンスのdark sun) 本来、エネルギーは超光現象であり、「光」のはずである。しかしながら、本来的存在は暗いのである。
 この説明であるが、超光とは、思えば、差異共振の結果であり、自己と他者との一体となり、差異共振性がもはやないということを意味しているのではないだろうか。つまり、エンテレケイアである。
 だから、闇としての超光が考えられるのである。(参照:ダークエネルギー)ハイデガーの本来的存在=「光」現象とはそのような意味になると思う。すると、闇としての超光(エネルギー現象)と影としての光(物質現象)があるということになる。思うに、阿弥陀如来の無量光とは、イデア界の差異共振光=原超光を意味するだろう。
 そう、たとえば、天照大神であるが、それは、Media Pointが開いて、イデア界の原超光を得たものであろう。だから、天の岩戸とは、Media Pointではないだろうか。(また、プラトンの善のイデアは、当然、イデア界の原超光である。)だから、エネルギー現象はイデア界の原超光を反映・反照するとき、発光するということになるだろう。闇の超光と光の超光である。というか、暗い超光と明るい超光である。
 以上のように見ると、ハイデガーの本来的存在は、神秘主義の闇と通じるように思われる。黒い太陽ではないだろうか。
 しかし、これでは、まだ、奥の院には、当然、達していないのである。Media Pointが開いていないのである。(後期ハイデガーは、なんとか、Media Pointに達しようとしたのかもしれない。しかしながら、そのときは、水平性を喪失して、垂直性だけになっているように思える。)
 《光》をもたらさなくてはならないのである。物理学で言えば、相対性理論に量子論的背景を与えることを意味するのではないだろうか。つまり、量子論的相対性理論となるときに、真に《光》の理論になると思われる。
 神話で言えば、イシス・オシリス神話で言うと、オシリスだけでは、暗い太陽であろう。つまり、+1である。しかし、イシスとオシリスの極性があるときに、原超光、即ち、イデア界の《光》、《太光》になるのではないだろうか。ならば、イシスなくして、オシリスの光はないということになるのである。イエスの光は、イシスなくしてないということになるのである。ここにプロテスタンティズムの問題があるだろう。
 さらに展開すると、なぜ、太母は、月をシンボルとするのだろうか。かぐや姫は月の女神、いわば、アルテミスに当たるといえよう。これは何だろうか。
 おそらく、これは、やはり、+1ではないだろうか。ここは、処女神を意味するのではないだろうか。いわば、単性生殖(処女生殖)である。すると、+1は太陽ではなくて、月である。そして、イデア界が太陽であろう。そして、Media Pointは、穴(ブラックホール?)である。では、-1は何だろうか。物質現象とはどういうシンボルをもつのだろうか。意外に天、天空ではないだろうか。つまり、+1が月や海や大地であり、-1が天空ではないだろうか。ギリシア神話で言えば、オリュンポスの神々ではないだろうか。
 そうならば、二つの天があるだろう。イデア界の天と現象物質界の天である。(創世記の冒頭は現象物質界の天の創造を述べているのだろう。)
 途中。

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地震前兆現象と電磁波:超越エネルギーと神々
テーマ:自然災害・人災:台風・地震・津波・温暖化
以前触れたことがあるが、地震は、震源となるところが、前もって電磁波を出すので、予知は可能であると思われるのであり、それの調査研究を十分行っていないのは、問題があると思われることである。
 これは、実に科学的であり、どうして行わないのか、不思議である。また、動物の前兆行動であるが、やはり、電磁波に反応して、動物が超常的な行動をとるということは十分考えられることである。この点でも、研究が足りないと思われるのである。
 プラトニック・シナジー理論から見ると、電磁波は超越エネルギーなので、それは、Media Pointの開いていると考えられる動物はキャッチすると考えられるのである。人間は同一性-1に傾斜しているので、超越エネルギーを把握できないと思われるのである。中には、Media Pointが開いていて、敏感・過敏に感じる人がいるだろう。
 ついでに言えば、超常現象や霊的現象とは、超越エネルギー現象の視点から検証されるべきだと思われるのである。これは、当然、イデア・エネルギー、魂のエネルギーの問題でもある。私は、どうも、ある種の運命というものがあるように感じている。そう、古代人ならば、神々と表現したが、確かに、神々は存していると思うのである。
 では、神々を科学的に説明するとどうなるのだろうか。私は魂があるとほぼ確信している。それは、虚数の対極性である。陰陽が魂である。いわば、陰陽魂、陰陽イデア、陰陽イデア魂である。この陰陽イデア魂(略して、イデア魂)は、振動していると考えられる。思うに、出生するとき、陰陽イデア魂は、陰陽に分裂して、陰イデア魂と陽イデア魂に分離して、それぞれ、人格になるのではないだろうか。前者は女性魂であり、後者は男性魂である。しかしながら、これは、生物的性とは必ずしも一致しない。つまり、精神的性と肉体的性は必ずしも一致しないということである。
 とまれ、いかにも、プラトンの『饗宴』の発想であるが、陰イデア魂と陽イデア魂がイデア界ないしは、Media Pointにおいて、ひきつけあうのではないだろうか。これが、本来のエロースではないだろうか。正に、イデア界的共振性としての引力である。
 しかしながら、このイデア魂の強度が強いと、現象界よりは、直接、イデア界にひきつけられるのではないだろうか。詩人のヘルダーリンは、正に、そのような精神の持ち主であったのではないだろうか。ロマン主義や神秘主義等もそのような傾斜があると思うのである。
 ここで、暫定的に仮説すると、イデア・コスモス(イデア・コスモロジー)があり、それは、ポリフォニックな音楽宇宙であろう。そこに、現象の原型ないしはプログラムがあるのではないだろうか。イデア・プログラムである。オカルト主義が言うアカシャ年代記はそこにあるのではないだろうか。わたしは今は運命論的である。

p.s. 後半、神々から魂の話になってしまった。確かに、神々と魂は関係している。極言すれば、魂とは神々である。ならば、神々は数はどれくらいなのだろうか。問題は、イデアとMedia Pointとの関係にあると思う。イデアのMedia Point変換があるだろう。これは、個化と言っていいだろう。魂というのも、この産物かもしれない。おそらく、イデア界はシンプルだと思う。Media Point界(略して、MP界)があると思うのである。今は、思いつくまま書くだけだが、プラトンが『国家』で述べている死者の国(p.s. 彼岸であったか)のことであるが、それは、どうやら、MP界のことではないだろうか。それが、カトリックで言う煉獄ではないだろうか。地獄もそこになるのではないだろうか。ちょうど、天上界と地上界の中間界として、MP界があるのではないだろうか。シンボル的には、山頂がそれに当たるのではないだろうか。須弥山、オリュンポス山、高天原、とうとう。
 とまれ、究極的に言うと、森羅万象は、神々の仮面であろう。神々の多様体であろう。Media Pointに、個別の情報があるように思われる。つまり、イデア情報アーカイブである。イデア図書館である。遺伝子の情報もここにあるのではないだろうか。後で、精緻に検討したい。

大地震をカエルが予知?=数十万匹が大移動中国四川省
 【香港13日時事】香港紙・リンゴ日報などは13日、中国四川省で12日起きた大地震の前に、同省の綿竹市で数十万匹のヒキガエルが一斉に移動するという異常現象があったと報じた。地元住民は「何かの凶兆ではないか」と不安を感じていたという。(時事通信)

2008/05/10のBlog
先の検討から、-1がないと発展がないのがわかった。これは、悪魔的であるが、人類の発展のためには、正に必要悪なのである。
 問題は、近代合理主義・近代的自我において、同一性=-1が中心化されたことである。本来、近代は、Media Pointの発動であり、差異と同一性が発動したのである。しかし、同一性のもつ連続性によって、差異と同一性が混淆されて、同一性主義のために、差異が抑圧される結果となっているのである。(現代日本人は、これが顕著であると考える。)
 とまれ、発生論的には力学のベースは、+1が主であり、-1が従であると考えられる。ここで、差異と同一性の非対称性があると考えられる。「光学」で言えば、光が主であり、影が従である。もっとも、光とは、超現象光であり、影とは現象光である。
 この点で、言語表現上の問題がある。この点をここで検討することにする。通常見る光とは、影なのであり、本来の光は純粋には見えていないのである。また、理論的には、超越的差異共振の光も考えられるので、複雑になるのである。ここで暫定的に用語を整理すると、虚軸の差異共振の光を原超光、+1を超光、そして、-1を光(影)とする。
 そして、Media Pointにおいては、実に複雑な様相があると考えられる。即ち、ここで、原超光と超光と光(影)の三相が交叉していると考えられる。
 ここで、キリスト教から考えると、原超光がエローヒームで、超光がイエスで、光がヤハウェではないだろうか。超光であるイエスとは、大女神の息子であり、両者は共一性であると考えられる。エジプト神話で言えば、イシスとオシリスの共一性である。
 ここで、PS理論に基づくトランス・キリスト教の視点でさらに検討すると、父(ヤハウェ)とは、-1の同一性である。そして、エローヒームと母と子(聖母子)が+1の共一性である。そして、聖霊は、Media Pointにおけるイデア・エネルギー=超越エネルギー=差異共振エネルギーではないだろうか。【だから、今日は、本来的には、聖霊の時代、ヨアキム主義の時代であると考えられる。】
 だから、整理すると、Media Pointにおいて、垂直的三元性(+i)*(-i)と、水平的三元性(+1)+(-1)の二つの三元性があると考えられる。
 母権多神教においては、水平的三元性の非対称性は、+1(差異又は共一性)が主であり、-1(同一性)が従であると思われる。それに対して、父権一神教では、水平的三元性の非対称性は、逆になると考えられる。一般に、東洋文化は前者であり、西洋文化は後者であると言えよう。【もっとも、東洋文化においても、父権主義はあるのであり、これが、主導化されている。しかし、ユダヤ・キリスト教的な一神教性はない。】
 ここで、時代について整理すると、プロト・モダン(原近代)は、Media Pointの発動であり、+1と-1が喚起された。しかし、プロテスタンティズムや近代合理主義によって、-1へと傾斜した。
 それに対して、ポスト・モダンは、一種のプロト・モダン回帰であるが、賦活された+1(差異)は、-1と連続化されていたので、両者は和となり、ゼロ度の構造を形成した(構造主義)と考えられるのである。つまり、ポスト・モダンは差異という視点は前進的であったが、結局、構造主義を乗り越えられなかったと考えられる。言い換えると、構造主義の壁にぶつかったのである。【以前述べたように、ハイデガーはポスト・モダンの元祖であると考えられよう。ハイデガーの存在論的差異の思想に差異が出現しているのである。ただし、存在論的差異とは、-1とゼロ度との差異だと思われるのである。私は、ハイデガーの存在は、+1の差異ないしは共一性には達していないと考えている。フッサールは共一性に達していたと思われる。だから、正しくは、フッサールがポスト・モダンの元祖であり、ハイデガーはポスト・モダンの疑似元祖である。この点で、ポスト・モダン哲学に混乱があるように思われるのである。ハイデガーに依拠すると、ゼロ度があるので、構造主義から脱却できないと考えられるのである。フッサールから出発すれば、脱構造主義の視点が生まれると考えられるのである。整理すると、トランス・モダンとは、フッサール現象学が現代的出発点であると考えられる。また、キルケゴーやニーチェの哲学も先駆である。どうも、ポスト・モダン哲学は、ハイデガー哲学に躓いてしまったと考えられるのである。フッサールとハイデガーの絶対的な亀裂を認識する必要があるということである。両者を現象学として括るのは、重大な誤謬を生んだと考えられるのである。】
 以上、差異(共一性)と同一性について、錯綜気味ではあるが、再確認することができた。次に、PS理論、トランス・モダンが空間・時間的に意味することを理論的にさらに検討したい。(以下は思考実験である。)
 ここで、作業仮説として、脳について言うと、左脳が同一性-1、右脳が共一性+1に関係すると考えたい。そして、空間認識であるが、三次元空間認識であるが、それは、一見、同一性-1に拠ると考えられるが、差異の認識があって、三次元空間認識が生まれるのではないだろうか。つまり、共一性認識がベースにあって、同一性を形成するときに、三次元認識が発生するのではないだろうか。言い換えると、共一性認識(差異認識)は原三次元認識であり、それを同一性が三次元として明確化するのではないだろうか。ルネサンスで遠近法が発達したのは、この点から説明ができると考えられるのではないだろうか。つまり、三次元的奥行きの基盤は差異+1に存するということである。
 ここで、時間次元を入れると、四次元時空間の基盤も、この差異=共一性+1にあるということになると考えられるのである。つまり、原時間の源泉も共一性 +1に存すると思われるのである。つまり、原時間とは、エネルゲイアであり、時間も同一性エネルギーで説明がつくように思われるのである。
 空間と時間の問題を整理すると、正に、相対性理論が指摘するように、両者は不可分である。空間形成自体が時間的事象であると思われるのである。換言すると、両者、エネルギー事象であるということである。
 では、問題は、どうして、現象界は、三次元ないしは四次元になるのか、ということである。【イデア界を入れると、四次元ないし五次元となる。Media Pointを入れると、五次元ないしは六次元となる。】
 ここでは、思考実験的に、直感で言うと、Media Pointにおいて、+iと-iと+1と-1とが交差するが、太極の主導原意識は、+iと-iであり、両者が共振交差するとき、共振次元+1が発生し、それが、空間的には、三次元を形成すると思われるのである。
 言い換えると、+iと-iとは、それぞれ、平面的であると思われるのである。その平面と平面の共振によって、第三次元+1が発生すると思われるのである。
 ここで作業仮説した+iと-iとの平面とは何であろうか。単純に考えれば、+iと-iは直線、一次元である。しかしながら、Media Pointにおいて、共振するとき、同時に、それは、+1と-1を同時形成(同時生起)すると考えられるのである。つまり、Media Pointにおいて、平面化するのではないだろうか。
 もっとも、それでは、矛盾することになるので、Media Pointを考慮すべきである。ここにおいて、+1と-1が生まれるのであり、現象の直近の原点である。だから、Media Pointは、原+1であり、原-1である。言い換えると、Media Pointは、原平面であり、且つ、原立体であると言えるのではないだろうか。 思うに、原平面と原立体は同時生起であろう。原平面であることは、同時に、原立体であることになると考えられるからである。言い換えると、Media Pointにおいて、原平面と原立体が揺らぐ、いわば、不思議な空間が生起していると考えられよう。
 本来、一次元であるのに、二次元と三次元の構成要素が同時生起して、揺らいでいるのである。だから、Media Pointは原三次元ないしは原四次元と言っていいだろう。そして、共一性+1と同一性-1とが、発現して、三次元空間ないし四次元時空間が形成されると考えられる。
 もし、そうならば、イデア界という高次元はどう説明されるだろうか。それは、端的に、三次元空間/四次元時空間を超越的に包摂した四次元空間/五次元時空間となるのではないだろうか。
 では、Media Point自体を空間的には、どう把握すべきであろうか。これは、端的に、イデア界と現象界の境界である。それは、不連続的差異論的に言えば、メディア界である。あるいは、次元変換点である。だから、Media Pointは、次元に数えないことが適切なように思われる。
 最後に、宇宙物理学の問題を考えると、ビッグバンがあるならば、その特異点は、Media Pointであると言えよう。そして、どうも、直線的ではなく、螺旋的運動をするように思われる。【マヤ神話では、今の世界は第四番目の世界であり、今度、第五番目の世界になるという。】
 そして、ブラックホール等であるが、ブラックホールは、差異共振的発光を起させない現象と考えると、それは、-1のマイナスではないだろうか。ホワイトホールは、マイナスのマイナスであるプラスではないだろうか。
 また、ダークマターやダークエネルギーはこれまで述べたように、自己認識方程式自体にそれらが表現されているのではないだろうか。即ち、端的に、自己認識方程式が自体がダークエネルギーを表現していると思う。そして、そこから、仮説される物質がダークマターであろう。しかしながら、ダークネルギーは存在するが、ダークマターは存在しないのではないだろうか。
 今は、ここで留めておく。
2008/05/06のBlog
自己認識方程式の意味:イデア界は宇宙調和音楽=コズミック・ハーモニーの世界だろう:神道ルネサンス

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

注:以下の図が正しくでないので、以下を参照されたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10094007041.html

 |+i
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-1__________MP_________+1
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 |-i




図式化すると、+iと-iを陰陽とする。+1は、光=心、地=ガイア=身体、母権等であり、-1は影、同一性=物質、父権等である。また、+iは原知性、原自己であり、-iは原感性、原他者である。
 宗教・神話的には、+1がエローヒーム、光のイエス、アフラ・マズダであり、-1がヤハウェ、ゼウス、アンリ・マンユである。
 また、Media Point(MP)は、おそらく、カオスである。神話的には、宇宙卵であろうし、神道的には、天之御中主神であると考えられる。
 また、虚軸世界であるが、それは、超越的差異共振調和音楽が奏でられているのではないだろうか。古代からルネサンスへかけての伝統文化における宇宙音楽、調和音楽はここに存しているのではないだろうか。太陽と月の調和音楽。また、円空の言う「法の御音」もここから発しているだろう。英国詩人のキーツの「聴こえない音楽」もそれから発しているだろうし、モーツァルトのジュピターもここからの霊感を受けていると思う。また、シューベルトのグレートもそうであるし、バッハ音楽は言うまでもない。
 本来の美もここから発しているだろう。セザンヌの静物画のハーモニーもここから発しているだろう。「モダン・アート」と呼ばれたものも本来はここを震源としているだろうが、それを、明確に把握できずに、今、行き詰まっていると思う。つまり、原調和を、同一性に連続化してしまって、差異調和ではなく、同一性秩序化しているのである。例えば、モンドリアンの格子状の絵画である。
 東洋美術はもとより、ここに根差すだろうが、行き詰まりは同様である。もっとも、目覚めの徴候はあるが。
 つまり、差異のハーモニー(コズミック・シンフォニー)が根源にあると考えられるのである。それは、現象界においては、現象形象を借りて表現されることになるだろう。不可視の調和を可視的に表現するのである。

p.s. 神話を複雑にするのは、差異共振性が垂直から水平へと転化することにあるのではないだろうか。例えば、イシス・オシリス神話であるが、それは、共一性+1であろう。そして、ホルスは-1ではないだろうか。
 そして、共一性の根源の差異共振性は、ハトホルということになるのだろうか。とまれ、イシス・オシリスが共一性で光+1を意味するならば、それは、また、オシリスである。つまり、イシス・オシリスの共一性=光=ホルス=霊的太陽ということではないだろうか。しかし、このホルスはオシリスと同一ではないだろか。どうもそう思えるのである。
 では、セトとは何か。それは、オシリスを殺害するのであり、そのバラバラにされた遺体をイシスが集めて、復活させるのである。霊的太陽を破壊するとは、セトが-1であることだろう。そして、これは物質的太陽ということではないのか。
 そうすると、問題はオシリス=ホルス(+1=霊的太陽)とセト(-1=物質的太陽)との関係である。肉眼で見る太陽は、当然、後者である。しかしながら、古代エジプト人は、それを以外に、霊的太陽を見ていたと考えられるのである。これはどういう風に説明できるだろうか。
 それは、古代エジプト人が、霊的太陽と物質的太陽の二つの太陽を視覚していて、後者が前者を覆うが、再び、前者は復活するということを意味していたのではないだろうか。【これは、ゾロアスター教で言えば、前者がアフラマズダであり、後者がアンリマンユであろう。】
 さらに問題は王制である。ファラオー支配のことである。ファラオーは本来、オシリス=ホルスを象徴するものであったろう。一種、神人であろう。しかし、ファラオーの意味するものは、オシリス=ホルスであり、人間としてのファラオーではなかった。(これは、天皇制とも関係するだろう。)とまれ、ここには、まだ一神教は存在しない。
 一神教が発生するには、つまり、唯一神が発生するには、排他性が必要である。多神教を排除する原理が必要である。イシス・オシリス神話がある限りはそうならない。
 考えられるのは、父権神話が必要であることである。父権神話があれば、女神を否定し、父権神が発生する。バビロニア神話では、女神のティアマトを英雄マルクトが退治して、(ティアマトの?)心臓を太陽神シャマシュに捧げる。
 このマルクト/シャマシュが父権制の原点を意味しよう。これに倣えば、イシスを否定する英雄が必要である。しかし、古代エジプトではそれはなかったであろう。
 問題は、-1の父権神である。それは、物質的神となるだろう。しかし、超越性はどこから発生するのだろうか。やはり、Media Pointからではないだろうか。そこにおいて、他者=差異否定が発生して、-1となるのだろう。即ち、(+i)*-(-i)⇒-1である。この左辺が超越性であろう。考えるに、正確にヤハウェを表記すれば、⇒-1であろう。また、エローヒームは⇒+1となるだろう。
 結局、西洋文明は、⇒-1(父=ヤハウェ)の支配下の下に、⇒+1(子=イエス)を従えていると言えよう。神道は⇒+1であり、⇒-1の文明に従属していることになる。
 何が問題なのか。神道は、本質的に、⇒-1を知らないのである。一神教を知らないのである。それは他者である。問題は、やはり、明治維新の近代化にある。
 そこで、多神教としての神道は、歪んでしまったと思われるのである。何故なら、⇒+1の宗教とは、他者=差異との共一性を意味するからであり、ナショナリズムとはそぐわないからである。
 結局、神道は、一神教化してしまったと言えよう。それが、国家神道の意味であろう。変質してしまったのである。キリスト教の強みは、一神教ではあっても、⇒+1を従えていることである。つまり、イエスによって、多神教要素を内在している点である。それに対して、国家神道は、多神教の本質を喪失して、一神教となってしまったのだと思う。これが、近代日本の不幸である。
 そして、戦後、神道全体が否定されることになったのである。日本は、二度死んだのである。多神教の復活が必要である。今日に日本は、一神教である。キリスト教以下である。近代主義的一神教である。
 日本トランス・モダンが必須である。差異共振性・共一性を取り戻すことである。神道ルネサンスである。
 

参考:
ホピ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ホピ族の住居。(ステレオグラム)1900年。
ホピ族の住居。(ステレオグラム )1900年 。

ホピ族(Hopi)は、アメリカ・インディアン の部族の一。ネイティブ・アメリカン と呼ぶこともある。主にアリゾナ州 北部の6,000kmのインディアン居留区 に住んでいる。居留区はナバホ族 の居留区で周囲を囲まれている。僅かなホピ族は、アリゾナ州西部、コロラド川 沿いの居留区に生活している。同地区のホピ族は、メサ と呼ばれる3つのテーブルマウンテンに居留している。なお、小惑星(2938)のホピ は、ホピ族の名を取り命名されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%94%E6%97%8F


もしも、人類の多くが浄化されることになるであろう「大いなる清めの日」の到来が避けられないとするならば、それはマヤの長期暦の1サイクルが終わる13バクトゥンの日(13.0.0.0)、つまり西暦紀元後2012年12月23日ということになるのであろうか。マヤ文明の後を継いだアステカ文明が残した「大陽の暦石」がその日の到来を語っているのかもしれない。



 国立人類学博物館のアステカ室の正面に飾られた「大陽の暦石」。
古代アステカの人々の間で伝承されてきた物語に、「五つの大陽の伝説」がある。この伝説は、過去に4つの大陽(世界)が滅び、その後に5番目の現代の大陽の時代がやってきたことを伝えている。メキシコシティーの国立人類学博物館の代表的な展示物である、アステカのカレンダーストーン(大陽の暦石)には、4つの大陽と、中央に5番目の大陽の姿が刻まれており、「五つの大陽の伝説」を伝えている。

http://www.y-asakawa.com/message/report-mexico3.htm
ホピ族の神話

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