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不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論入門講座
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2006/05/18のBlog

『toxandriaの日記』の以下の論考への私のコメントを掲載する。
『[暴政 ]「愛国心 」の説教 よりも先ず「国民 愛」を宣ったらどうだ、小泉首相 ?』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060517/p1

_______________________________
renshi 『toxandriaさま
私は、うつ病の老母の介護を足掛け8年間をやってきて、介護保険を利用して、なんとか、老母の世話をやってもらっていますので、負担割合の増加は、身に応えます。
 私は、福祉に関して、手厚い制度を確立するか、現代姨捨山を復活するか、のどちらかだと、周囲の人に言ってきました。しかし、負担増加は、実質、現代姨捨山路線ですね。私が考えていたのは、違うものですが。
 とまれ、教育に関しても、なんて言うのか、反動的な「空気」が支配していて、これが、実に厄介だと思っています。私もそうなりがちですが、支配的な空気の気圧されて、無言のままになってしまうことです。無言を強いる権力があるのです。
 また、マスコミは、今や、完全に大衆操作の機関ですね。視覚の問題がありましたが、テレビは、いちばんの曲者です。見ることは信じることです。見るだけで、洗脳されるのです。人間の脳が、おそらく、視覚に同一化するように反応するのではないかと思われます。不連続的差異論から言うと、正に、メディア界が、視覚に同化されて、共振・共感して、批判機能が麻痺するのだと思います。
 例えば、小泉首相を例に出しましょう。私は、彼の話し方を聴いて、すぐ、パフォーマンスと直観できます。なぜ、こんな簡単なことを見抜けない国民が多くいるのでしょうか。それは、視覚・聴覚に知性が同化しているからでしょう。では、どうして、私は、そうならないのかといいますと、視覚・聴覚に同化していないからです。これは、知的認識の問題だと思います。この知は、超越論的知だと思います。また、丁寧に言いますと、私の共感性と知性との相互作用から、小泉氏の発言は、ゴマカシであると気がつきます。この共感性と知性との連関が批評のポイントではないかと思います。これは、対極性なのかもしれません。騙される国民は、対極性がなくて、連続・同一性の自我しかないのではないかと思われます。
 対極的認識をつけるには、真の教育が必要です。私は、ポスト教育として、導学を考えたりします。個において、感じ、考えなくては、真実の感覚・知性になりません。これを導く導者が必要だと思っています。』

renshi(補足) 『toxandriaさま

私が、テレビに映り語る小泉首相を、観察するとき、当然、視覚と聴覚を働かせます。視覚的には、にこやかな顔をしています。そして、マイクのあるデスクに両手をついて、小泉氏が話します。先には、小泉氏の話し方からわかると言いましたが、正確に言いますと、話すポーズと話し方の両者の関係の観察から、胡散臭さを直観していると思います。
 視覚と聴覚は、メディア界に属しているでしょう。しかし、同一性自我=近代的自我《日本人が近代的自我を真にもっているのかは、問題ではありますが)は、この視覚・聴覚に対して、当然、連続・同一化します。これは、批判力の麻痺です。
 差異の欠落、これが、狂気暴政を生んでいると、哲学的には考えられます。
 日本人の自我の問題ですが、正確に言いますならば、近代的自我というよりは、主客未分化的自我ではないかと思われます。ですから、同一性自我とこれとが結びついて、実に集団主義・全体主義・ファシズムになりやすいのだと思われます。』
トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060517

* 教育問題の基本は、教育の場を家庭に戻すことと、国の関与の限定で...
* 医療制度「改革」法案が強行採決で、やっと報道
* 国際条約を盲目的に締結することが国際化ではない。
* 共謀罪の問題は、ポイントを犯罪の具体的構成要件と相互主義の問題...
* 強行採決
* 小泉首相の役割は

ゾロアスター教と一神教:光と闇とは何か:二つの一神教、二つの理性


キリスト教は、ヨハネの黙示録において、ゾロアスター教の影響を受けていると考えられている。後者は、光・《善》であるアフラ・マズダと闇・《悪》であるアンリ・マンユとの闘争史を予言的に説くのである。そして、これが、前者の最後の審判のヴィジョンの基盤となっているということである。
 先に、『光の彼方へ:・・・』(以下、『光の彼方へ』)
http://ameblo.jp/renshi/entry-10012425552.html
の論考において、同一性の光と差異の闇というレベルの違いを明確に提示した。西洋文明は、前者をいわば「理性」にしてきたのであり、後者を「非合理」として、否定・排除してきたのである。いわゆるロゴス中心主義である「理性」の問題は少し複雑であるが、同一性の光を、とりわけ、近代的合理主義(近代科学・近代的自我)では、「理性」としたと言えよう。後で、「理性」の問題を詳しく考察する予定であるので、ここでは、同一性の光が「理性」とされたとして、論考を進めよう。
 不連続的差異論から見ると、キリスト教のヤハウェは、同一性の光の神である。あるいは、メディア/現象境界の弁証法構造の神である。これは、プラトンのデミウルゴス(創造神)にほぼ相当すると考えられるのである。そして、グノーシス主義は、これを邪悪な創造神と考えたのである。
 とまれ、ゾロアスター教に戻ると、ここでの光と闇が、そのまま、キリスト教や西洋文明の同一性の光と差異の闇となったと見ていいのだろうか。私は、以前から、そうではないと直感してきたし、そのように論じてきた。即ち、ゾロアスター教の光・善は、差異の闇であり、その闇・悪は同一性の光だと思われるのである。私の直観はそのように告げるのである。何故だろう。それは、その光・善が火・火焔だからではないだろうか。つまり、根源的エネルギーを感じさせるからである。拝火教とも呼ばれたのであり、火を聖なるものと見たのである。火と光では、ニュアンスが異なるのである。火は古いものを焼尽するものであり、新たなものを産む契機となる。不死鳥・フェニックスの神話に通じるだろう。しかし、光は、白光は、それとは異なり、視覚的な輪郭・線の形成を感じさせるのである。極言すれば、両者、まったく別個のものである。
 ということから、ゾロアスター教の善・光・火とは、不連続的差異論のメディア界のエネルギーであり、悪・闇とは、同一性の光だと思うのである。即ち、ゾロアスター教とキリスト教(ユダヤ教も含めて)は、価値観が逆転しているということである。ならば、ゾロアスター教の一神教性はどう説明するのかということになるが、それは、思うに、メディア界⇒メディア/現象境界の⇒の領域において、ゾロアスター教が発生して、差異が同一性の様相を得たために、一神教となったと考えられるのである。それに対して、ユダヤ・キリスト教は、メディア/現象界⇒現象界の⇒が一神教となったと思われるのである。(また、これまで述べたことから考えると、イスラーム教の一神教もゾロアスター教と同類ではないかと思われるのである。しかし、前者は、メディア/現象界⇒メディア界の⇒ではないだろうか。だから、タウヒード【一性の思想】は、個体性・差異の原理を含むと考えられよう。また、今村仁司氏は、イスラーム教とスピノザ哲学の類似性を指摘していたが、スピノザ哲学は、メディア界の哲学と考えられるので、それは、考えられることである。不連続的差異論を導入すれば、イスラーム教は、不連続的イスラーム教となり、真にイデア界のイスラーム教となるだろう。)

 さて、ここで、「理性」の問題を考えよう。西洋は、同一性の光を「理性」としてきたと上述したが、正確に言えば、二つの理性があるのである。そして、近代において、これが混同されて、同一性の光だけが、理性とされたのである。啓蒙主義/ロマン主義の問題でもあるのだが。中世において、いわゆる、信仰と理性の調和が問題とされた。トマス・アクゥイナスが、代表である。そして、ギリシアの教父たちは、イエス・キリストをロゴスの受肉と考えたのである。そう、当然ながら、ヨハネの福音書は、「初めにロゴスありき」と冒頭にあるのである。このロゴスが問題なのである。このロゴスが、理性と同一視されたわけである。つまり、西洋において、伝統的には、形而上学的な理性(ロゴス)と地上的な理性(同一性の光)とがあったのであるが、これが、近代革命によって、自我の理性に収斂したのである。つまり、形而上学的理性は、同一性の理性に吸収されたのである。ロゴスは、言葉となったのである。言葉こそ、同一性の媒体(メディア)である。即ち、欽定聖書やルター訳聖書では、ヨハネの福音書は、「初めに、言葉ありき」と訳されたのであり、ロゴスが言葉に還元されたのである。近代主義が、理性を同一性の光に限定したと言えるのである。しかし、先に論述したように、デカルトのコギト主義は、それとは異なるのである。コギトの理性は、ロゴスと同一性言語が重なっているのである。それは、イデアと同一性理性が重なっているとほぼ言えるだろう。
 カントは、メディア/現象境界の弁証法構造から、純粋理性批判を行い、ロゴス/イデアと同一性を混同したという大錯誤を犯した。それに対して、ニーチェは、同一性を、自身の単独的存在性から、すべて破壊したのである。そして、フッサール現象学は、カントによって奪われたロゴス/イデアの探究を行い、志向性・ノエシス/ノエマの大発見を行ったのである。そして、相対性理論は、同一性の光を基礎として、時空の相対性を発見した。それは、同一性の観点からのメディア界の取り込みであると考えられる。さらに量子力学は、メディア界の事象を対象として、相補性という概念を発見したのである。しかし、現象界の同一性の概念をまだへその緒のようにもっているのが限界であると考えられる。
 そして、フランス・ポスト・モダン運動が起こる。これは、同一性の理性に対する批判、即ち、メディア界による同一性の理性への批判であると言えるだろう。これは、文化史的に見ると、ロマン主義や象徴主義を哲学的に展開したもののように思えて、理論的には、独創性は乏しいと思われるのである。それは、ニーチェ/フッサールの真の独創性とメディア界の論理を整合化することができなかったのであり、それが、欠陥であった。そして、不連続的差異論がこれを実現したと考えられるのである。それは、三つの理性を提示したことになるだろう。イデア界の理性/メディア界の理性/現象界の理性である。簡単に、イデア理性/メディア理性/現象理性と呼べよう。あるいは、イデア知性/メディア知性/現象知性としてもいい。特異性/対極性/同一性と見ることもできるだろう。あるいは、不連続性/不連続・連続性/同一性と見ることができよう。
 世界は、グローバリゼーションにおいて、現象理性資本主義であったが、今や、多極化において、イデア理性のエポックになったと言えるだろう。ポスト・モダンはメディア理性であったが、それは、現象理性と完全には、切断されてはいなかった。そのため、大澤真幸氏のアイロニカルな没入が発生したと言えるだろう。市場はメディア界と考えられるから、新自由主義は、メディア/現象境界に属すだろう。そう、多極化とは、差異の共立であり、メディア界的である。しかし、このためには、イデア理性に達する必要があるのである。それは、現象学的還元である。判断のエポケー(停止)である。不連続的差異=イデアへと根源回帰する必要があるのである。これによって、現象理性との癒着から切断されるのである。多様な、多元的な不連続的差異を思考し、共立させる発想が現代・未来的なのである。
2006/05/13のBlog
光の彼方へ:同一性の光と差異の闇:光の西洋文明の終焉と新コスモスの地平


「 同様にクアトロチェントを代表するレオナルド・ダ・ヴィンチはチェンニーノの影響を受けて著書『絵画論』を著しました。その著書でレオナルドは“物体と物体を区切る線は想像上のもので実在しない”という謎めいた言葉を残しています。レオナルドが言いたかったのは“私たちが現実空間の中で物体の形を認識できるのは、個々の物体の間に色彩や明るさの違いがあるからで、現実を冷静に観察すれば明瞭な輪郭線などは存在していない”ということです。しかし、こう理解したとしても、一方では“そこに線があるように見える”ということも事実です。なぜ、このような矛盾した現実認識が存在し得るのでしょうか?実は、私たちの視覚的な認知メカニズムの中では、周辺の環境情報を簡略化することによって認知速度を速めるという驚くべき機能が作用しているのです。
 私たちは、無意識のうちに、光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすることで各グループの間に恰も明瞭な<線>が存在するかのように見なし、脳内処理としての認知速度を上げているのです。無論、私たちが少しでも目の位置をズラせば、これらグループ間の関係は瞬時に変わってしまいます。従って、どのようにリアルに描かれたとしても、絵画上のリアリティは様々な人々が動きながら個々に認識している現実とは異なることになるのです。このような考え方は、近年、再評価されつつある20世紀前半のアメリカの認知心理学者ジェームズ・ギブソンのアフォーダンス理論に近いものがあります。」
『2006-05-10 イタリアにおける「大ラファエロ展」、その現代的意味を考える』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060510/p1
toxandriaの日記



「私たちは、無意識のうちに、光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすることで各グループの間に恰も明瞭な<線>が存在するかのように見なし、脳内処理としての認知速度を上げているのです。」とtoxandria氏は述べている。この「線」とは、何だろうか。つまり、不連続的差異論から、理論的に分析したら、何であろうかということである。
 ここで、メディア界を考えてみると、それは、差異と差異とが、共振して連結して、量子・素粒子が形成されている場である。その共振は、不連続な、多重・多層の共振である。この多重共振事象が、現象の、いわば、内在的裏面である。そして、これに対して、同一性の知覚(自我)が、「線」や「輪郭」を与えているのではないだろうか。「光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすること」ということであるが、「一くくりにグルーピングすること」が、同一性の知覚に当たるだろう。同一性が「線」や「輪郭」であろう。
 では、メディア界的極性的多重多層の差異(=量子)を、個別の同一性=「線」・「輪郭」にする「力」は何であろうか。メディア界の共振する差異の多層多相(模様)性を、ある「線」、ある「輪郭」に変換する「力」とは何か。これは、また、実に、量子力学の問題である。非局所性の問題である。
 ここで、私は、ウィリアム・ブレイクの箴言を想起するのである。即ち、理性とはエネルギーの周囲(円周)circumferenceであるという箴言である。エネルギーは、メディア界の共振差異と見ることができる。エネルギーの周囲(円周)とは、エネルギーの末端と考えることができるから、これを、境界無である現象界ないし現象界の「線」・「輪郭」と考えることができるのではないだろうか。そうならば、同一性である「線」・「輪郭」とは、メディア界の共振差異=エネルギーの振動的形態ではないだろうか。それは、光の形態ということではないだろうか。ここでは、作業仮説とするが、同一性とは光のことではないだろうか。メディア界に多重・多層な共振差異=量子・素粒子があるが、これが、同一性化されるとき、光を発生させる現象体となるのではないか。これが、E=mc^2のことではないのか。同一性とは光なのではないか。光が、いわば、闇である差異、共振差異を有形化(線化・輪郭化)するのではないのか。また、アインシュタインの光速度一定も、同一性ということだろう。
 もし、そうならば、光速度一定とは、現象界にのみ当てはまることであり、メディア界には当てはまらないだろう。そこは、時間・空間不可分・未分化一体の超時空間であるからだ。速度という概念が当てはまらなくなる。強いて言えば、無限速度である。超光速である。現象界を光の世界、メディア界を闇の世界とすれば、光の世界とは、闇の世界の同一性化である「周囲」・「円周」であるが、問題はエネルギーである。メディア界の共振差異は、確かに、エネルギーであるが、それは、E=mc^2でのみ考えられるべきものなのだろうか。これは、いわば、同一性・現象化されたエネルギーではないのか。同一性=光化されたエネルギーではないのか。その背後・裏面には、暗いエネルギーがあるのではないのか。つまり、メディア界の原エネルギーである。こういうことではないだろうか。メディア界の量子・素粒子の原エネルギーがあるが、それが同一性=光化されて現象界の「物質」を形成する。即ち、同一性=光化された現象を、人間は知覚認識して、自然科学を構築しているのであるが、しかし、それは、原エネルギーをもつメディア界の同一性=光化の面に過ぎないと考えられよう。つまり、原エネルギーの光面=一面しか観察・観測していないと考えられるのである。謂わば、光エネルギーだけであり、闇のエネルギーを看過しているのである。これが、ダークエネルギーの問題ではないだろうか。また、標準理論が破綻したことに関係するのではないだろうか。現代物理学、量子力学は、量子・素粒子の世界であるメディア界を、同一性=光化の現象界の視点から把捉しようとしているのであるから、壁にぶつかっているのではないだろうか。不連続的差異論から言うと、メディア/現象境界即ち、弁証法構造から、メディア界を見ていると考えられるのである。即ち、カント的なのである。
 そうならば、E=mc^2は、書き直されなくてはならないのではないだろうか。それは、現象界の公式であるから。今は、疑問の提起に留めることにして、本稿では、メディア・エネルギー(原エネルギー)の「周囲」(「円周」)として、現象界の「線」・「輪郭」を考えたこととしよう。また、D.H.ロレンスの言を想起すれば、黒い太陽とは、メディア界であり、また、太陽はわれわれに背中を向けているという言の太陽も、黒い太陽であり、メディア界の原エネルギーであると言えるだろう。また、『死んだ男』の闇の宇宙の薔薇も、メディア界を指しているということになる。そして、当然、ロレンスの言うコスモスもメディア界である。また、ここで、プラトンに言及すれば、洞窟の外の太陽(善のイデア)も、メディア界であり、また、コーラもメディア界であろう。デミウルゴス(創造神)とは、弁証法構造であろう。光の文明である西洋文明の限界が今や露呈されたと言えよう。新しい闇の「文明」が始まるのだろう。それは、新コスモス文明である。そう、文化である。新コスモス文化である。
 とまれ、量子力学を考えると、どうなるのだろうか。それは、相対性理論的量子力学から脱して、メディア界的量子力学となるだろう。ポスト・モダン量子力学となるだろう。つまり、不連続的差異論的量子力学、不連続的《差異イデア》論的量子力学である。そう、真の宇宙は、共振差異螺旋的玄宇宙=玄牝だろう。この宇宙・母宇宙が、神話では、イシス/オシリス神話等として、表現されたのだろう。イシスは、メディア界であり、オシリスは太陽である。そして、このオシリス=太陽が独立したのが、父権制の太陽である。つまり、英雄である男性の太陽神である。父権神話の太陽である。『ギルガメシュ叙事詩』のシャマシュであり、その他である。そして、キリストは、この面をもっているのである。そう、イエス・キリストの二面性があるのである。一つは、オシリスであり、一つは、父権制の太陽神である。
 さて、不連続的差異論が創造発見されるまで、認識は、メディア界(心身不可分性)と現象界(心身二元性)に分裂していたと言える。しかし、不連続的差異の存するイデア界を明確に提起したことにより、現象界からメディア界へと進展する地平が出現したと言えるのである。
自我における差異と同一性の関係について:デカルト的自我と近代的自我の区別


先に、デカルトのコギトは、特異性的同一性自我であると言った。そして、近代的自我も同様であることを言った。しかし、それでは、混同で誤りである。両者の違いを明快にしないといけない。
 ここでも、直観から論考しよう。特異性とは、どこから発するのか。それは、心身からである。単に、知性からではないし、また、身体からでもない。ならば、それは、メディア界からである。そして、メディア界は、イデア界に接しているから、特異性は、心身=メディア界(→イデア界)に根差している。すると、デカルトのコギト(我思う)は、メディア界(→イデア界)と同一性自我との結合に存していることになる。しかし、デカルト自身は、ゆらぎを排除しているので、メディア界が否定されるようにして、イデア界と接しているのである。いわば、絶対的自我がここに誕生したと言えるだろう。
 では、近代的自我はどうなのか。近代的自我は、メディア/現象境界における弁証法構造において、成立するだろう。即ち、差異1・同一性・差異2(差異1=同一性=差異2)の力学構造があり、差異を否定・排除するようにして、同一性自我=近代的自我は成立する。しかし、意識は、本来、差異の志向性にあるのである。即ち、差異→の→が意識である。しかし、メディア/現象境界における弁証法において、同一性が支配するが、このとき、差異意識はどうなるのか。あるいは、同一性意識はどう形成されるのか。メディア界においては、意識は、対極性意識(「即非」意識)である。それが、弁証法構造においては、対極的共立性が否定されて、二項対立・二律背反的意識に転ずる。差異は、同一性化されて、いわば、同一性差異となるのである。これが、近代的自我である。
 さて、この同一性差異である近代的自我とデカルトのコギトとの比較考量である。一見似ているが、似て非なるものである。つまり、前者は、同一性となった差異としての自我であり、後者は、特異性を保持しての、同一性自我であるからである。前者は、メディア界的意識を否定排除する、反動的自我であるが、後者は、メディア界的意識をもちつつも、それを懐疑主義で、いわば、保留するように制御して、根源のイデア界性=特異性を保持した上で、形成される同一性自我である。
 デカルトは、厳密には、メディア界を排除せず、メディア界懐疑的保留を行い、イデア界的特異性を保持した同一性自我である近代主客二元論を形成したのである。デカルト合理主義であり、これを近代的合理主義と考えるのは誤りである。
 思うに、デカルトが、松果体に精神と身体との結節点を見ようとしたのは、デカルト自身に、メディア界の心身対極性が存していたからだと推測できるのである。デカルト哲学は、いわば、メディア界とイデア界・現象界の独特の捩れ的接合をもったものであり、単純な近代主義ではありえないのである。
 因みに、スピノザは、このデカルト哲学の潜在性を汲み取って、心身平行論の哲学を立てたと言えよう。つまり、先にも述べたが、メディア界の哲学を構築したのである。
2006/05/11のBlog
たとえば、「わたし(自我)」とは、どこから発生するのか。この問題は、デカルトのコギトがやはり、近代における原点であるが、差異と同一性の弁証法構造であるメディア/現象境界を中心にして、考察しよう。
 何度も言及したように、そこは、差異1・同一性・差異2ないし差異1=差異2という構造をもっている。本来、差異は、他者への志向性であり、差異1→差異2の→の志向性をもち、これが、いわば、知即存在の様相をもつのである。認識と存在の不可分一体性である。フッサールのノエシス→ノエマである。この様相が、メディア界にあるが、それが、ゼロ→無のMP境界力学において、どうなるのだろうか。
 わかりやすく考えると、「わたし」は、差異と同一性の二項対立構造において、どのように発生するのかである。本来、「自我」あるいは、根源的自我は、差異に存している。差異の志向性(ノエシス/ノエマ)にある。それが、MP境界では、同一性によって否定・抑圧・排除・隠蔽されるのである。つまり、「自我」は、差異否定の同一性自我となるのである。そして、他者である差異にも同一性自我を押しつけるのである。同一性自我暴力である。仮想敵国に通じる見方である。
 結局、+エネルギーの力学によって、同一性が差異を否定するように作用するのであり、それが、同一性自我=近代的自我の形成である。しかし、デカルトのコギトは、単純に同一性自我ではない。デカルトはコギトに特異性を見ている。つまり、デカルトのコギトは、基本的に不連続的差異である。イデア界的である。しかし、デカルトの懐疑主義は、メディア界的ゆらぎを否定して、特異性と同一性とを結合したコギト即スムの哲学を導いたのである。これは、主客二元論的である。奇妙な言い方になるが、特異性的同一性自我によって、主客分離しているのである。以前、ヌース理論の半田広宣氏が触れたと思うが、この同一性から他者の差異に対して、延長(質料)が発生している。また、差異における同一性において、思惟(知覚・認識)が発生している。つまり、差異即同一性の弁証法構造(差異と同一性の二項対立:カント哲学)によって、近代的自我、近代的合理主義、主客二元論、観念論/唯物論、近代主義が発生したのである。
 ということで、主体と客体の近代的二元論において、主体=自我は、差異1→同一性であり、客体=他者は、差異2→同一性である。しかし、注意すべきは、この同一性自我は、差異=潜在意識を内在させていることである。つまり、差異1⇔→同一性←⇔差異2という構造がここにあり、差異1⇔→同一性が自我であり、同一性←⇔差異2が他者である。⇔が、潜在性を意味するのである。
 とまれ、差異1⇔→同一性である自我主体があり、同一性←⇔差異2の他者客体があるのであり、これが、近代的主客二元論である。デカルト主義である。ただし、何度も言うと、デカルトのコギトには、特異性がはっきりと刻印されていることである。つまり、差異性が基盤にあるのである。デカルトのルネサンス性である。
 ここで、主体自我と客体他者との区別が明確に説明できたので、西欧語について考えよう。これは、明確に、主体(主語)→客体(目的語)の言語である。因みに、この言語構造が、思うに、西欧で近代主義が発生したことの要因の一つと思われるのである。とまれ、主体自我から客体他者(対象)への関係作用が→であるが、これは、西欧近代主義において、同一性作用・力学である。即ち、主体自我・同一性(=→)・客体対象である。主体と客体との同一性関係が、西欧近代主義なのである。そして、同一性関係が、述語ないし述語動詞である。例えば、英語で言えば、I look at the tree. の場合、look at が、同一性関係作用である。同一性主体自我であるIが、他者であるthe treeの差異を否定して、他者を同一性化しているのである。つまり、メディア界においては、差異1の自我と差異2の他者が、共振して即非関係にあるのである。つまり、「わたし」と「その木」との共振していて、分離しつつ共振・共感しているのである。アニミズムの状態にあるのである。しかし、同一性関係作用であるlook atは、その共振差異、メディア界の差異を否定して、差異2に同一性を適用して、差異2を客体対象化するのである。延長的客体対象であるthe treeが発生するのである。換言すると、同一性化された差異である自我が、同一性の視点で、他者の差異を観察するのであり、差異空間、差異時空間を延長空間に変換させているのである。即ち、同一性主体である I は、見る look at という同一性関係行為によって、他者である差異 the tree を差異時空間から延長という同一性空間に置いているのである。
 さて、問題は、時間である。時間はどこから発生しているのか。メディア界のエネルギーが不可分の時空間であると考えられるから、同一性によって、差異共振時空間を否定して、他者客体において、延長空間を形成したならば、メディア界のエネルギーによる生成変容・変化が、延長空間にも、発現するはずであり、延長空間における他者客体の変化が、時間の根源現象であると考えられるのである。メディア界のエネルギー変化が時間の原因であるということになる。差異対極エネルギーが、いわば、運動力になるだろう。差異対極エネルギー的螺旋的変容が、延長空間における運動となるのである。例えば、ケヤキの木の生長が、運動である。ここに時間が発生していると考えられる。つまり、延長と時間は同時発生であろう。あるいは、延長の変化を、同一性の思惟が観測する単位が時間ではないだろうか。即ち、延長という同一性の空間単位が発生し、この空間単位に基づく、延長空間の変化の単位が時間単位ではないだろうか。だから、空間時間である。空時である。そして、この「時空間」、4次元「時空間」とは、メディア界の発現であるから、ゼロ度共振エネルギーである量子の強度を内在しているのである。相対性理論は、量子力学へと導くだろう。E=mc^2=hν である。そして、メディア界は、粒子「即非」波動の世界なので、現象界の粒子観は成立しないのである。非局所性の考え方は、一種カントの純粋理性に似て、カテゴリー・エラーだと思われるのである。メディア界においては、局所性/非局所性の二元論が成立しないからである。すると、ポスト量子力学の新しい知・科学が考えられるだろう。それが、不連続的差異論的科学、ヌース理論的科学である。ポスト・モダン・サイエンスである。
 思うに、メディア界は、差異対極性エネルギーの螺旋的立体空間ではないだろうか。ここで、螺旋という根源現象が発生していると考えられるのである。D.H.ロレンスが、『死んだ男』で表現した宇宙の暗い薔薇とは、メディア界宇宙の表現であろう。そこでは、差異と差異とが即非の関係で捩れて、共立しているのである。思うに、原点(0,0,0)が、太陽系の原点、宇宙の原点であろう。太陽や恒星とは、思うに、メディア界、否、イデア/メディア境界の発現ではないだろうか。虚軸として、太陽や恒星が発現しているのではないだろうか。差異のゼロ度共振波動の点的表現が太陽や恒星ではないだろうか。この点は、後で、検討したい。
2006/05/08のBlog
問題は、メディア/現象境界の弁証法構造において、どうして、父権主義・同一性主義と母権主義・差異主義の違いが発生したのか。
 以前は、劣弱な差異と高貴な差異とに分けて考えたが、より整合的な理論はないのか。確かに、同一性へと最初の1/4回転は進むが、二回目の1/4回転は、同一性を解消すると考えられるから、同一性から差異へと回帰するのである。しかし、父権主義・一神教は、そうならないのである。ウィリアム・ブレイク、ニーチェ、ロレンスが、確認した二種類の人間の問題でもある。精神的賎民か精神的貴族かの問題でもある。
 思うに、仮定であるが、男性の遺伝子は、+エネルギーに限定されて、エネルギーが欠落するのではないだろうか。それに対して、女性の遺伝子は、±エネルギーを兼備するのではないか。一種、スイッチの問題である。男性の遺伝子のスイッチは、+エネルギーの展開までを意味して、エネルギーへと展開しないのであり、それに対して、女性の遺伝子のスイッチは、+エネルギーの展開の後に、エネルギーへと転化することを意味するのではないだろうか。つまり、男性遺伝子の場合は、エネルギーに対するブラインド、盲目性があるのではないだろか。差異盲目である。ならば、男性の遺伝子は、精神病理的である。生命として、欠陥のある遺伝子である。つまり、ヒト・オスの問題としてである。ヒト・オスの遺伝子は、基本的に、差異に盲目なのではないか。同一性の展開でストップするのではないか。そう考えると、男性の攻撃性がよく説明できるだろう。
 思うに、±エネルギーの遺伝子があるのだ。換言すれば、陰陽遺伝子である。ヒト・メスは、これをもっているが、ヒト・オスは、+エネルギー・陽遺伝子・同一性遺伝子しかないのではないだろうか、一般に。しかし、遺伝子の対極性を仮定すれば、中間様相が考えられる。即ち、一般に、女性遺伝子は、対極的、つまり、メディア界的であるが、男性遺伝子は、同一性的、現象界的であるが、この区別は絶対的ではなくて、いわば、相対的ではないだろうか。つまり、こう考えたらどうだろうか。女性遺伝子にも、男性遺伝子も、本来、対極的であるが、傾向がことなり、いわば、偏差があるのではないかと。即ち、対極性において、 極・差異極と+極・同一性極があるが、女性の場合は、前者への偏差があり、男性の場合は、後者への偏差があるということではないだろうか。そして、これは、個人差がある。極端の場合、片方が、ゼロに近いだろう。また、こう考えれば、性同一性障碍も説明できるだろう。つまり、精神・心性の対極性遺伝子の問題である。また、こう考えると、女性と男性との間の相互誤解も説明できるだろう。つまり、視点が根本に違うのである。
 結局、女性は差異に傾き、男性は同一性に傾くということである。こう考えると、高貴な差異と劣弱な差異の二元論が克服できるだろう。つまり、対極論である。そう、男性は、差異がありつつも、それを同一性傾向が否定してしまうし、女性は、同一性がありながらも、それを差異傾向が否定してしまうのだろう。
 このように考えると、父権制とは、男性遺伝子が中心になった社会と言えるだろう。これは、どういうことなのか。本来、女性遺伝子と男性遺伝子が均衡しているはずであるのに。男性遺伝子に傾く時代があったことになる。これは、+エネルギーが強化される時代があったということだろう。占星術からいうと、白羊宮(牡羊座)時代だろう。そして、その後の双魚宮(魚座)時代は、二項対立となる。そして、今や近づいたと考えられる宝瓶宮(水瓶座)時代は、統一・調和の時代である。対立が共振する時代である。これは、仮説では、イデア界の回転の問題である。奇数1/4回転は、+エネルギーであり、偶数1/4回転は、エネルギーと考えられるのである。しかし、思うに、1/4回転を細分化して、1/12回転を考えていいのではないだろうか。1/12,2/12,3/12回転で、ゼロ度となる。後は同様である。
 ここで、空想すると、1/4回転が、牡羊座であり、2/4回転が、蟹座であり、3/