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不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論入門講座
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2006/06/04のBlog
[ 13:16 ] [ 不連続的差異論 ]
2006-06-03 受胎告知の問題:1&2 編集

受胎告知の問題

テーマ:一神教/多神教

《#イオン 『Toxandoria様

前回はどうも「釈迦 の耳に説法」的なコメント で失礼しました。

さて今回のrenshi様のコメント に付け加えるとすれば、マリア への受胎告知はイスラーム の聖典 クルアーン (コーラン )でも記載されています。クルアーン の第19章は「マルヤム(マリア )の章」と題されています。「聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、イエス を出産 し、イエス が預言者 であると宣言するまでの物語 は同章第16節から第34節を御覧下さい。

またrenshi様の言われる「イデア 界のメディア 界化」とは難解で今ひとつ理解出来ないのですが、私なりに一言加えさせて頂きます。受胎告知をする天使 ガブリエル はイスラーム 哲学 のイブン・スィーナー(アヴィセンナ)などでは知性世界を形成する十の知性体のうちの最下位 の存在 に結びつけられることがあります。

またこの第十の知性体はアリストテレス 主義の伝統 の知性論でいう人間 の知性を現実化する能動知性と結びつけられますし、またイブン・スィーナーによればこの知性体=天使 がこの月下世界=地上世界の造物主となります。つまり知性世界(=イデア 界、叡智界)の中でも地上世界に関わりの極めて深い存在 となります。(以上H. Davidson, ”Alfarabi, Avicenna, and A verroes on Intellect” (New York /Oxford: Oxford UP, 1992), H. Corbin, ”Avicenna and Visionary Recitals,” tr. W. trask (Princeton : Bollingen Foundation, 1960)など参照)。

この天使 が地上世界のマリア に現れて受胎告知するのですから、イブン・スィーナなどの表象 を借りれば、マリア のいる風景 を一瞬だけでも叡智界=知性世界化すること、と言えないこともないでしょう。それを絵画化や物語 の中で表彰することを、叡智界=知性世界がメディア 化する、という意味 に私なりに解釈しております。どうも失礼しました。

Toxandoria様、いつもながら思索へと人を強く促す論考を有り難うございました。またrenshi様にも興味深いコメント で思索させて頂きましたこと御礼申し上げます。』

# イオン 『申し訳ありません。

文章が乱れていますので、訂正致します。

クルアーン 第19章「マルヤムの章」についてですが、「「聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、イエス を出産 し、イエス が預言者 であると宣言するまでの物語 」を

「聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、マリア がイエス を出産 し、イエス が自分が預言者 であると宣言するまでの物語 」と訂正致します。失礼しました。』》

toxandriaの日記

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060530/p1

以上のイオン氏のコメントは、とても興味深い。

「受胎告知をする天使 ガブリエル はイスラーム 哲学 のイブン・スィーナー(アヴィセンナ)などでは知性世界を形成する十の知性体のうちの最下位 の存在 に結びつけられることがあります。」

と述べられているが、これは、カバラの10のセフィロートを想起させる。最下位とは、マルクトを想起させる。また、グノーシス主義では、ソフィアである。

 さらに、能動知性と述べている。これも意味深長である。スピノザの能動的観念を想起する。

 この問題はかなり微妙であり、速断できる知識は私にはない。また、イデア界のメディア化について触れられているが、イオン氏の解釈はそれなりに正しいと思う。聖母マリアをどう解釈するかが問題だと思う。私は、解釈は、聖母マリアは、不連続的差異論のメディア界なのである。しかし、聖母マリアは地上的存在でもあるから、事情は複雑である。不連続的差異論的には、聖母マリアは、メディア界/現象界の境界のメディア面的存在ではないだろうか。そう考えると、天使ガブリエルとつながるだろう。

 今は、簡略的に答えることしかできないが、受胎告知とは、メディア界の現象界化への寸前であると思えるのである。メディア/現象境界では、近代となる。それ以前である。だから、メディア/現象教化のメディア面である。

 とまれ、十の知性体とカバラの十のセフィロートは一致するとして、それらは、どこに属するのだろうか。思うに、これは、メディア界ではないだろうか。それとも、イデア界なのだろうか。後で、さらに考察したい。

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受胎告知の問題:2

テーマ:叡智学

もう一度整理したい。私のコメントを黒字で書く。

《#イオン 『Toxandoria様

前回はどうも「釈迦 の耳に説法」的なコメント で失礼しました。

さて今回のrenshi様のコメント に付け加えるとすれば、マリア への受胎告知はイスラーム の聖典 クルアーン (コーラン )でも記載されています。クルアーン の第19章は「マルヤム(マリア )の章」と題されています。「聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、イエス を出産 し、イエス が預言者 であると宣言するまでの物語 は同章第16節から第34節を御覧下さい。

クルアーンのイエス=預言者論は、なにか、グノーシス主義のイエス(『トマスの福音書』)を想起させる。ここでは、作業仮説的に、

預言者のイエス=グノーシス主義のイエスと仮定しよう。

__________________________________



またrenshi様の言われる「イデア 界のメディア 界化」とは難解で今ひとつ理解出来ないのですが、私なりに一言加えさせて頂きます。受胎告知をする天使 ガブリエル はイスラーム 哲学 のイブン・スィーナー(アヴィセンナ)などでは知性世界を形成する十の知性体のうちの最下位 の存在 に結びつけられることがあります。

聖霊=天使ガブリエル=第十番目の、最下位の存在(イブン・スィーナー)・・・カバラの第十番目のセフィロート(マルクト)


__________________________________

またこの第十の知性体はアリストテレス 主義の伝統 の知性論でいう人間 の知性を現実化する能動知性と結びつけられますし、またイブン・スィーナーによればこの知性体=天使 がこの月下世界=地上世界の造物主となります。つまり知性世界(=イデア 界、叡智界)の中でも地上世界に関わりの極めて深い存在 となります。(以上H. Davidson, ”Alfarabi, Avicenna, and A verroes on Intellect” (New York /Oxford: Oxford UP, 1992), H. Corbin, ”Avicenna and Visionary Recitals,” tr. W. trask (Princeton : Bollingen Foundation, 1960)など参照)。

アリストテレスの能動知性とスピノザの能動的観念はほぼ一致するだろう。また、先にも述べたが、不連続的差異論から見ると、メディア/現象境界のメディア面ないし、メディア界の「最下位」に相当するだろう。

 また、イブン・スィーナーの能動知性=造物主という考えであるが、それは、デミウルゴス(プラトンの創造神)や旧約聖書の創造神を想起させる。ここは、微妙である。能動知性による創造と旧約聖書的創造は、違うと私には思えるのである。前者は、コスモス、不連続的差異論のメディア界的コスモスに基づく創造であるが、後者は、メディア/現象境界における同一性(悪魔:シュタイナーのアーリマン)による創造ではないだろうか。グノーシス主義が批判した邪悪な神(デミウルゴス)による創造ではないだろうか。

 整理すると、

1)能動知性の創造

2)同一性の創造

があり、創造神デミウルゴスとは、両方を指して、即ち、混同的に使用されているだろう。

__________________________________


この天使 が地上世界のマリア に現れて受胎告知するのですから、イブン・スィーナなどの表象 を借りれば、マリア のいる風景 を一瞬だけでも叡智界=知性世界化すること、と言えないこともないでしょう。それを絵画化や物語 の中で表彰することを、叡智界=知性世界がメディア 化する、という意味 に私なりに解釈しております。どうも失礼しました。

Toxandoria様、いつもながら思索へと人を強く促す論考を有り難うございました。またrenshi様にも興味深いコメント で思索させて頂きましたこと御礼申し上げます。』

# イオン 『申し訳ありません。

文章が乱れていますので、訂正致します。

クルアーン 第19章「マルヤムの章」についてですが、「「聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、イエス を出産 し、イエス が預言者 であると宣言するまでの物語 」を

「聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、マリア がイエス を出産 し、イエス が自分が預言者 であると宣言するまでの物語 」と訂正致します。失礼しました。』》

toxandriaの日記

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060530/p1

__________________________________

ここで、簡単にまとめると、受胎告知とは、思想・歴史的に見ると、不連続的差異論のメディア界の知性と現象界の知性の両方を意味すると考えられるのである。おそらく、両者の混同があるのではないだろうか。これは、ヨーロッパ文化を考える上で、極めて重要なポイントだろう。西欧において、ヨハネの福音書のロゴスが言葉と訳されたのである。前者のロゴスは、メディア界の知性であり、言葉とは、現象界の知性だろう。

 そして、toxandria氏が慧眼に触れている「イエズス会 派の神学者(サマランカ学派)たち」は、受胎告知をメディア界の知性ではなくて、現象界の知性=現象界の同一性(資本主義の同一性)の意味に取ったのではないだろうか。イエズス会の問題があるのである。しかし、より広く見ると、近代主義の問題である。近代主義は、差異と同一性の矛盾・混沌の運動なのである。だから、受胎告知の知性を現象界の同一性の知性と取ることは考えられるのである。不連続的差異論的に言えば、受胎告知は、メディア/現象境界の両面(メディア界と現象界)を意味することになってしまったと思われるのである。これは、イタリア・ルネサンスの問題に通じると思うのである。とりあえず、今は、ここで留めたい。

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コメント

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■アレゴリーとシンボルの問題

本件の問題で、メディア界知性(差異)と現象界知性(同一性)を区別したが、近代主義は、これを混同している、ないし、未分化であると言えるのではないだろうか。メディア界と現象界との未分化という近代主義の事態、これは、また、アイロニカルな没入に関係するし、また、ドゥルーズの差異哲学の差異=微分の問題に関係すると思われる。

 繰り返しになるが、不連続的差異論は、不連続的差異を提起したことで、この未分化的事態を、解消したと考えられるのである。

 ここでは、文学や芸術のアレゴリーとシンボルの問題に少し言及したい。ベンヤンミンの批評によって、前者が今日、評価されている傾向にある。しかし、アレゴリーとは、簡単に、観念・概念の形象化であり、シンボルのように、感性・心身性の形象化ではない。私が問題にしたいのは、観念・概念である。単に言語観念・言語概念ならば、同一性の観念・概念(知性)である。つまり、現象界的知性である。ということは、アレゴリーは、注意しないと、現象界の知性に堕すると言えるだろう。即ち、言語観念・言語概念=現象界知性によるアレゴリーとなるということである。これは、イマジネーション(メディア界)のあるアレゴリーではない。つまり、視覚的イマジネーションの死がここに生起するのである。換言すると、現象界がメディア界を滅ぼすのである。どうも、アレゴリーの評価は、このような近代主義と平行しているのではないだろうか。

renshi (2006-06-04 11:45:58)
2006/06/02のBlog
[ 00:14 ] [ 不連続的差異論とヌース理論 ]
半田広宣氏の「三つの無意識機械(1)」に関して

半田氏の言葉を《 》で括る。

《ドゥルーズも言ってましたが、無意識の構造は地層を持ち、多層化しているように思います。一神教の発明が「オイディプス化」の意ですが、おそらく近代自我の形成はこのオイディプス化におけるヌーメン(神霊)の力が、さらなる下部に独自の生殖領域を作り出すことによって出現してくる第三の無意識回路の生産物ではないかと考えています。ドゥルーズの言葉で言えば、末端性器、つまり資本主義機械ですね。》

この言葉は、暗示的である。「独自の生殖領域」・・・「第三の無意識回路」=「資本主義機械」。
 一神教の形成、これは、旧約聖書のモーゼと神との関係を、不連続的差異論の図式に置くと、メディア/現象境界(MP境界)になると考えられる。「ヌーメン(神霊)の力」とは、この境界におけるメディア界の力であろう。即ち、母権・女神神話の力である。(だから、旧約聖書の神は、ヤハウェとエローヒーム【神々】なのだろう。つまり、メディア界の力がエローヒームであり、現象的同一性がヤハウェなのだろう。)
 「独自の生殖領域」とは何だろうか。本来の生殖領域は、メディア界の差異共振性にあると思う。母権的なものである。イシス・オシリス的な共振結合である。(因みに、まったく誤解されたD.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の性交とは、このメディア界的共振結合を表現しているのである。ロレンスは、真正なメディア界的生殖関係を表現しているのである。『死んだ男』の暗い宇宙の薔薇とは、このメディア界宇宙・コスモスの表現と考えられる。)これが、近代自我の形成において、変質すると考えられる。「独自の生殖領域」とは、メディア/現象境界におけるメディア界と現象界との接点ではないだろうか。即ち、差異と同一性との接点ないし接合点である。共振差異「性交」が、同一性的二項対立的「性交」(暴力的な性交:例えば、バタイユの冒瀆としての性交)に転換した事態を意味しているのではないだろうか。同一性(父権制)が、差異(母権制)を支配する領域が、「独自の生殖領域」だろう。共振差異を否定する暴力的同一性の生殖である。火星(マルス、軍神)ないし白羊宮的と言えるのではないだろうか。【イエス・キリストは、双魚宮である。「愛」とは、差異の共振性、即ち、ゼロ度の差異共感性のことだろう。イエス・キリストは、正に、中間なのだ。父権制と母権制の中間である。現象界からメディア界回帰(一つの永遠回帰、聖霊主義)への過程であろう。そう、ロレンスは、「愛」という言葉を避けて、「やさしさ」と表現したのである。】
 もう少し、精緻に見ると、差異共振性という母権的性交に対して、同一性が否定・暴力的に介入する。差異共振性への同一性暴力、即ち、「サディズム」生殖領域がここに発生しているだろう。(因みに、「マゾヒズム」とは、同一性暴力を受ける差異共振性の側、母権制の側であろう。ここで、ドゥルーズが「サディズム」に対して、「マゾヒズム」を肯定評価していたことを想起する。)この「サディズム」生殖領域=「独自の生殖領域」を、近代自我はもつのである。そして、これが、「末端性器」=「資本主義機械」ということになる。つまり、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械である。これが、半田氏の叙述の説明になるだろう。
 また、ここで、toxandria氏が「ヴァルカノス」=小泉政権論を説いていることを想起する。小泉「ファシズム」政権は、正に、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械(=「新自由主義」)的であると考えられる。私は、先に、小泉政治を弁証法構造主義として、メディア/現象境界に位置づけていたが、以上の論考から、小泉政治=弁証法構造主義は、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械と一致するのである。

_________________________________

半田氏の「三つの無意識機械(2)」に関して

《■三つの無意識機械(2)

今のところ、次のような方向性で考えています。

第一機械/原始土地機械………C^2(前後に虚軸/前後のみ二本)
第二機械/専制君主機械………C^3(左右に虚軸)
第三機械/資本主義機械………C^4(上下に虚軸)

 これはゲージ対称性の拡張にともなう次元進展に同じですが、ヌース理論では虚軸が持った直交性とは「観察」と考えます。イデアは複素n次元多様体の中でこうした直交変換を重ねていくことによって、無意識の観察の進展を推し量っているのではないかと思います。ペンローズも指摘していたように、おそらく、無意識構造は極めてアルゴリズム的なんですね。骨格は極めてシンプルなものではないでしょうか。》

ここの記述から、半田氏が、何故、この論考をODA ウォッチャーズ氏に差し向けているかがわかるだろう。思うに、虚軸の問題なのである。ODA ウォッチャーズ氏は、虚軸として、i,j,kを提示しているのである。つまり、実軸とijkによるメディア界四次元を提示しているのである。半田氏は、これに沿って、この論考を展開していると思うのである。これは、直観的にとても明快な記述である。物理学や数学の素人である私にも、きわめてわかりやすいのである。そう、半田氏が述べているように、シンプルな内容なのである。これは、すばらしい記述だと思う。

《C^3の虚軸(視線)は左右から介入してきますが、C^4の虚軸は上下に貫かれるように降りてくることになります。発生論的に言えば、人間にとっての絶対的上下とは、宇宙空間と地球内部の方向に当たりますから、この無意識の視線によって、初めて地球が球体として対象化されることになります。これが近代パラダイムの骨格である地動説を誘因してきたのかもしれません。フーコーのパノプティコンを例に出すまでもなく、近代コギトの中に潜むこの高見の塔に住まう巨人の目は常に、この上空からの視線を所持しています。》

ここの記述も実に興味深いものである。第二機械/専制君主機械ならば、常識的には、上下と思うかもしれないが、左右と半田氏は述べているのである。
 とまれ、ここは微妙な事柄である。直観的には、第二機械は、上下であり、第三機械は、左右である。しかし、確かに、「近代コギト」は、「上空からの視線を所持」していると考えられる。不連続的差異論から見ると、近代的自我の二項対立は、正に、上下観念である。だから、半田氏の説明と一致するだろう。では、第二機械/専制君主機械をどう考えるべきか。半田氏の記述に即せば、Z軸が左右になることになる。そして、第四の軸(仮に、F軸としよう。the Fourth軸である)が上下となる。
 ここで歴史的に考えてみると、封建制とは、上下ヒエラルキーではないだろう。西欧では、領主が群雄割拠したのであるし、日本でも、同様だろう。江戸時代は、徳川幕府が中心とは言え、分割統治であった。つまり、多元性である。横並びである。これを取りたい。半田氏の記述を肯定しよう。第二機械/専制君主は、左右の軸である。そして、近代が、上下を形成したのである。絶対主義は、近代の始まりと言える。これは、正に、上下ヒエラルキーである。日本においては、当然、明治天皇制近代である。


《しかし、この「帝国」的視線はC^5の登場によってまもなく勢力を無くしていくことになるのではないでしょうか。C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。》

まったく同感である。C^5は、メディア界回帰=ポスト・キリスト教=聖霊主義である。確かに、ニーチェである。ニーチェ/ロレンスである。「始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まる」とは、正に、メディア界回帰である。聖霊発出である。日本で言えば、縄文回帰である。多神教への回帰である。母権神話への回帰である。イシス-オシリス、キュベレー-アッティス、ヴィーナス-アドニース、イザナミ-イザナギの回帰である。簡単に言えば、自然回帰である。自然が、都市を包摂するのである。スピノザの時代でもあろう。
 ただし、偶然と必然の問題がある。これが今や大問題である。これは、また、ホワイトヘッドの「有機体」哲学の問題に関係するだろう。思うに、これは、イデア界の展開の問題であろう。イデア界の展開は、必然であろう。そして、メディア界は、極性の世界であり、差異の偶然の領域ではないだろうか。そして、現象界は、同一性の必然性の領域ではないだろうか。コップはコップである。しかしながら、現象界の同一性的必然性に対して、メディア界の差異偶然性が存するだろう。換言すると、必然性に偶然性が内在しているだろう。スピノザ哲学は、必然性の哲学と言われているが、それは、誤謬ではないだろうか。スピノザ哲学は、メディア界の哲学であるから、偶然性の哲学のはずである。心身平行論や能動的観念とは、必然性の思想ではなく、偶然性の思想と考えることができるだろう。つまり、スピノザ哲学は、偶然性→必然性の哲学と呼ぶべきだろう。

___________________________________

半田氏の「三つの無意識機械(3,4)」について

>C^2=メディア界の複素平面から現象空間に転化するときに、虚軸(虚軸と実軸の対極性)が、無限から有限になり、単なる前後になると見ていいのでしょうか。

《対峙し合う自他の関係性が、○(視野空間)と・(他者の目)の双対(○・○・)から、○○(二つの視野空間の同一化)と・・(二組の目の同一化)へと乖離してしまうということだと思います。このへんは初期ラカンが用いたシェーマLの図式と同じです。象徴的同一化と想像的同一化の作用と解釈することができると思います。C^2で顕在化していた純粋強度の場としてのメディア界(これが不連続的差異の場だと思っているのですが……)は、これら両者の間に沈み込み、文字通り、メディア界として無意識の欲望回路となるのだと思います。対象aのことだと思います。黄金比的運動が起こっているところですね。》

ここの半田氏の応答も、明快であり、深い。象徴的同一化と想像的同一化とは、不連続的差異論では、メディア/現象境界に相当する。ラカンで言えば、現実界が、象徴界と想像界の分離するのである。おそらく、象徴界/想像界というペアで考えるべきなのだろう。現実界は、半田氏がいみじくも述べていたように、メディア界である。
 ところで、半田氏が、メディア界が不連続的差異の場ではないかと述べているが、その考えは、ODA ウォッチャーズ氏の考えと共通のものと思える。私自身は、不連続的差異の領域は、原理的には、イデア界と考えているのである。しかし、実質的には、不連続的差異の領域は、メディア界なのである。つまり、イデア界=デュナミスの発露としてのメディア界=エネルゲイアということなのである。だから、ODA ウォッチャーズ氏・半田氏の考えは実に慧眼なのである。思うに、イデア/メディア界と見るべきなのである。これが、プラトンのイデア界の考え方と一致すると思うのである。プラトンのイデア界やコーラとは、イデア/メディア界を指していると考えられる。
 また、半田氏が以前述べていた、潜在的差異と顕在的差異のことであるが、私は、初め勘違いしていたが、今やはっきりと了解できるのである。半田氏の言う潜在的差異とはイデア界のことであり、顕在的差異とはメディア界のことなのである。
 
《上に挙げた群SU(2)はパウリ行列で表現することができますが、4次元空間を虚時間と見て、虚時間を実時間に符号を換えると、SU(2)はローレンツ変換群にかわります。時間t→虚時間itはウィック変換と呼ばれていますが、おもしろいことに、あのホーキングが「無境界仮説」の中で、特異点を解消するために使用したトリッキーな数学的技法です。宇宙の始まりの前には虚時間宇宙があった。。これが実は原始土地機械なんでしょう。》

この箇所は、少々難解であるが、虚時間→実時間は、メディア/現象境界の領域の事象と見ることができると思う。正に、ローレンツ変換であろう。

「三つの無意識機械(2)」で、次のように半田氏は述べている。

《C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。》

ヌース理論と不連続的差異論は、私が最初思っていた以上に、同一の理論なのである。ヌース理論の方が、不連続的差異論よりは、成立は早いが、しかし、両者、相互補完的に見た方が、建設的だろう。つまり、ヌース理論は、不連続的差異論のメディア界の「物理学」を独創先端的に展開しているのに対して、不連続的差異論は、哲学・数学的に、ヌース理論を包摂するようにして、全体理論を表現しているのである。以前にも述べたが、不連続的差異論的ヌース理論、あるいは、不連続的差異論/ヌース理論が考えられるのである。
2006/05/29のBlog
作業仮説として、メディア差異(ゼロ度共振差異)を、三次元時空体としよう。あるいは、n次元時空体としよう。この時空体とは、時間と空間が未分化一体となっているということである。E=mc^2である(とりあえず)。この差異時空体が、メディア/現象境界領域において、同一性化されるわけであるが、この同一性化によって現象化が為されるのである(半田氏は、オイディプス化と呼んでいる)。このとき、思惟と延長が分化するのである。主客二元論化するのである(近代西欧化)。この同一性化による延長の発生が、半田氏の言う奥行きに相当するのではないだろうか。
 ガウス平面=イデア界での、1/4回転によって差異が虚軸化する。そして、それが、垂直に展開して、Z軸化するとしよう。このZ軸が、メディア/現象境界ではないだろうか。そして、ここにおいて、現象化に際して、延長が発生するのではないだろうか。Z軸と延長方向が重なることになる。このようなことは、以前考えたことがある。とまれ、Z軸を前後方向としよう。すると、ガウス平面=イデア界とは、Z軸=現象界と直交している関係にある。これは、ヌース理論が表現している世界観と重なるだろう。
 問題は、この現象界とメディア界の「空間」関係である。Z軸が前後方向あるいは時間軸方向ならば、左右方向、上下方向はどうなるだろうか。それらは、互換できるものになるだろう。つまり、X軸が上下方向に、Y軸が左右方向になったり、Y軸が上下方向に、X軸が左右方向になったりするだろう。しかし、根本的には、無数の上下左右方向が可能になるということである。つまり、上下左右は回転するからだ。しかし、前後方向/時間軸は一つしかないだろう。これが、半田氏が奥行きという言葉で表現したものに通じるのかもしれない。
 とまれ、ここでは、作業仮説として、Z軸が前後方向・時間軸であり、ここで、延長空間=現象化が発生するのであり、この一次元に対して、ガウス平面=イデア界の二次元が加わって三次元空間=4次元時空間が発生すると言えないだろうか。それは、1/4回転による捩れによって、ガウス平面=イデア界に垂直に差異(ゼロ度差異=共振差異)が「発出」するという事象で説明できるだろう。つまり、Z軸の発生によって、差異は、三次元化しているのである。そして、これが、同一性化によって時空4次元化すると言えるだろう。考えれば、確かに、左右上下は、多様性であるが、前後も多様である。この点を説明しなくてはならない。
 これは、感覚の中でも、視覚に関係する。正面や背後の問題である。直観的に、正面は枢要なものである。同時に、背後の意識も喚起される。正面と背後・背面の体極性があるだろう。視線が基礎であり、ここから、前後方向が規定されて、左右上下が決定されるだろう。視線ないし視点の問題である。そして、これは、同一性化の問題である。光の同一性の問題である。光の同一性が、視線・視点を形成するのであり、これが、延長空間・前後方向・現象化を発生させると考えられる。ということで、前後方向の問題は、光の同一性⇒視線・視点による正面・背面で説明できるだろう。即ち、前後方向(=奥行き)とは、光の同一性=視線・視点によって一義的に決定されるということである。
 ここで、時間軸が光軸であるということになるだろう。相対性理論は、ここを理論化しているのだろう。つまり、Z軸理論である。ついでに、量子論は何かと言えば、それは、メディア三次元体の理論ではないだろうか。ただし、ガウス平面=イデア界を外しているように思えるのである。差異が現象化する以前のXYZ三次元事象が真の量子空間ではないだろうか。つまり、絶対エネルギーの空間(ガウス平面=イデア界)を入れて、完全な量子空間となるのではないだろうか。つまり、現在の量子論は、ゼロ度共振差異=量子のみを扱っているのであるが、その原初に、絶対的差異の回転エネルギーがあるのであり、この回転エネルギー=絶対(絶対値)的エネルギー(=デュナミス)を計算する必要があるのではないだろうか。この点は後で検討したい。
 ここで、最後に、メディア界の空間・幾何学の形態について触れると、それは、二重らせん形状、あるいは、円柱、あるいは、球体等になるのではないだろうか。ここに形態の原型があるのだろう。そして、プラトンは、ここを、イデア界、コーラと呼んだのだろう。そして、ここは、D.H.ロレンスの『死んだ男』の暗いコスモスの薔薇に相当するだろう。多重多層な時空間多様体である。また、善のイデアであるが、それも、メディア界を指していると見ることができるように思われる。しかし、なにか、イデア界自体の示唆も感じるのである。また、大乗仏教であるが、《空》とはメディア界を指しているだろう。また、キリスト教は、同一性の極致を意味しよう。Z軸=ヤハウェからの同一性の展開としてのイエス・キリストだろう。そして、ここは、極点であるから、反転して、メディア界へと回帰するだろう。これが、聖霊教を意味しよう。そして、私の直観では、これが、宝瓶宮(水瓶座アイオーン)の意味するものである。水瓶の水は、聖霊であると考えられるのである。っ伝統的には、ミューズ(ムーサイ・詩神たち)である。また、天使や精霊である。霊感である。そして、メディア界は、確かに、差異調和の世界である。コスモス的ハーモニーCOSMIC HARMONYの世界である。ロレンスが、『馬で去った女』で表現した宇宙、月と太陽の調和の世界である。華厳経宇宙である。モーツァルトの音楽の世界である。また、円空の言う「法の御音」の世界である。高天原である。常世である。新エデンの園である。新八百万の神々の世界である。新多神教である。
2006/05/24のBlog
啓蒙主義/ロマン主義(・象徴主義)の問題、即ち、理性と感性の対立の問題であるが、これは、英米文学モダニズムにおいては、古典主義的回帰で、反動化して、問題から逸れてしまったと思う。
 この啓蒙主義/ロマン主義問題は、知性とイマジネーションとの結婚ということで解決できると思うのである。これを、不連続的差異論が可能にすると考えられる。なぜなら、近代ないしポスト近代の《精神》とは、差異と同一性の分裂、即ち、差異の心身性(感性、イマジネーション、ヴィジョン等)と同一性の言語知性との分裂があり、これを、不連続的差異であるイデア界を仮説することで、統一できると考えられるからである。つまり、不連続的差異の仮説によって、差異を現象界の同一性(同一性自我)から切断して、差異を差異として、同一性から独立させることができるのであり、このとき、不連続的差異に対応した不連続的差異的知性が生起するのである。言い換えると、それまでは、差異は、知性というよりは、心身性、感性、「身体」であった。即ち、「非合理」なもの(ロマン主義・神秘主義・象徴主義)であったのである。そして、その「非合理」な差異と同一性の近代科学(唯物論的科学知性)の知性とが分裂・矛盾していたのである(これは、おなじみの図式であるが)。また、フランス・ポスト・モダンにおいては、差異の理論化への明確な知的営為があった。(これは、フランス・ポスト・モダンの偉大な功績である。)しかし、それは、絶対的差異である不連続的差異と連続的差異とを理論的に峻別しなかったので、ブレークスルーまでには達しなかったと考えられるのである。即ち、差異が、同一性から完全に脱却できなかったのである。これは、ドゥルーズの差異哲学にはっきりと確認できることである。差異=微分の積分として、現象界(連続・同一性)を把捉したことに見られるのである。
 といういうことで、フランス・ポスト・モダンは、近代主義の矛盾から差異の理論への不十分な出発であったのである。
 結局、不連続的差異論によって、不連続的差異の知性が形成されたのであり、これにより、感性・心身(差異)と言語知性が統一されたと考えられるのである。即ち、イマジネーションと知性が結合・「結婚」したと考えられるのである。
 さて、問題は、この統一において、同一性はどうなったのかということである。先に三つの理性ということを言ったが、差異と知性の統一とは、現象界的同一性を包摂していると言えるだろう。確かに、知覚できる物は物であり、同一性である。もっとも、三重の知覚がここにはあるだろう。不連続的差異としての対象、対極的な対象、そして、現象界的な対象への知覚である。ということで、同一性は、差異に包摂されたのである。超越論的高次元の差異に、現象界の同一性は包摂されたのである。ここで、ウィリアム・ブレイクの箴言を想起する。即ち、身体は、魂の一部であり、五感によって知覚されているものであるという内容のものである。即ち、身体を現象界の同一性とすれば、それは、超越論的高次元的差異の一部分であるということになるだろう。私たちが見ている、知覚しているこの世界・現象界は、超越論的高次元的差異の世界の一部に過ぎないということである。この光の世界は、真実在のほんの一部に過ぎないということである。真実在の先端の光の相(phenomena)を見ているに過ぎないのである。真実在の高次元多重多層界を喪失している「無明」にあるのである。
2006/05/23のBlog
[ 23:10 ] [ ポスト・キリスト教 ]
私は、昔、キリスト教が一番の問題であると考えていた。ダ・ヴィンチ・コードで、問題が復活しているようだ。
 私の立場は、脱キリスト教であるが、この場合のキリスト教とは何か。キリスト教会で行われた葬儀の真面目さには感銘を受けた。葬式仏教のずさんさは、何をか言わん。そう、キリスト教を問題にするとき、個別の人は度外視して、考えたい。つまり、個々の信仰は、基本的には肯定する立場である。
 不連続的差異論から見ると、イエス・キリストとは、現象化の極限の面をもつと思われるのである。ヤハウェは、弁証法構造であるが、そこから、同一性化が徹底されたのが、イエス・キリストと見ることができるように思うのである。思うに、イエス・キリストは、現象化の極限であるから、同時に、転換点である。自我中心主義の極点であり、同時に、ポスト自我中心主義の始点ではないだろうか。ここで、聖霊の問題があるのである。つまり、絶対的自我に達したイエス・キリスト(神人)は、傲慢の極致にあり、そこからは、脱現象化作用としての聖霊が意味をもつと考えられるのである。つまり、キリスト教は、終焉するのが正しいのであり、聖霊教ないし、聖霊叡知となるべきなのである。グノーシス的イエス主義とも言えよう。かつて、この問題にずいぶん拘った。聖霊教が生まれるだろう。
 では、罪の赦しはどうなるのだろうか。ここに一つのポイントがあるだろう。やはり、罪の赦しは、一種同一性であり、差異ではないと思うのである。例えば、私に害を与えた人間に私は、復讐心をもつと同時に、また、同時に、赦しているかもしれない。復讐と赦しが併存していると思うのである。だから、罪の赦しという教義は、立派であるが、やはり、同一性の教義だと思われるのである。聖霊は、メディア界の事象であるから、矛盾が対極的に共立するのであるから、罪の赦しと復讐が共立するというのは正しいと思うのである。やはり、ポストキリスト教としての聖霊教ではないだろうか。D.H.ロレンス的宇宙教と言ってもいいだろう。この点では、ロレンスは、誰よりも、ラディカルであると思うのである。
2006/05/22のBlog
[ 00:49 ] [ 不連続的差異論 ]
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