Blog
2006/08/14のBlog
[ 05:10 ]
[ ポスト占星学 ]
先に、差異共振シナジー界(メディア界)の極性エネルギーの変化による、コスモスの「歴史」ないし「進化」について示唆したが、ここで、少しそれを考えてみたい。
先に、次のように述べた。《コスモスの「歴史」ないし「進化」は、エネルギー極性力学の往復運動、そして、螺旋運動と見ることができるだろう。》http://ameblo.jp/renshi/entry-10015795855.html
結局、プラス・エネルギーとマイナス・エネルギーの交替の織り成す運動体としてのコスモス史の仮説である。以前に、イデア界史という観念を立てたが、それに類似しているとは言えるが、差異共振極性エネルギーの力学という点では、明確に異なっている。
結局、このコスモス史は構造的にきわめて単純明快である。振り子運動とらせん運動を形成するということであるからだ。だから、問題は、この構造の展開をどう形式化するかにあるだろう。
不連続的差異論のガウス平面における1/4回転が基本力学であるが、これと極性力学とをどう結びつけるかが重要である。(おそらく、インテリジェント・デザイン理論・ID理論とも、この点で関係してくるだろう。)
ここで、思考実験しよう。最初の1/4回転によって、零度差異共振性が形成される。それが、垂直に捩れるのであるが、これが、プラス・エネルギーであるとしよう。つまり、垂直の力は、プラス・エネルギーによるものとしよう。
次に、二番目の1/4回転、即ち、2/4回転が発生するとする。それは、零度差異共振性を解除するのである。これは、マイナスの不連続的差異共立のイデア界への回帰としよう。そして、これが、マイナス・エネルギーを発生させるとしよう。この考えを、同様に適用すればいいことになるのである。奇数回の1/4回転は、プラス・エネルギーを発生させ、偶数回の1/4回転は、マイナス・エネルギーを発生させるとする仮説するのである。(2n-1回が、+エネルギー、2n回が、-エネルギーである。)
問題は、エネルギーの次元と現象の次元である。ガウス平面をXY座標として、エネルギー軸をXY座標に直交するZ軸としよう。だから、奇数回の1/4回転は、Z軸のプラスの方向のエネルギーが発生することになるだろう。そして、偶数回の1/4回転は、Z軸のマイナスの方向のエネルギーが発生すると言うことになるだろう。そうならば、Z軸において、プラスとマイナスの往復運動が生起されると言えよう。このエネルギーの極性運動は、対称的である。例えば、これは、Z軸では、+、-、+、-、・・・の反復となる。だから、連続・同一性志向性は+Z軸の方向、差異・差異共振志向性は-Z軸の方向と見ることができるのではないだろうか。
とまれ、そう見るなら、エネルギー軸であるZ軸は、メディア界に存すると言えよう。より的確に言えば、メディア/現象境界に存すると言えよう。そして、ここから現象界へと展開するのであるから、ここで、現象軸として、P(PHENOMENA)軸を作業仮説しよう。+エネルギーの場合、連続・同一性志向であるから、それを+P軸とし、エネルギーの場合、差異・差異共振性志向であるから、それを-P軸としよう。思うに、現象界において、+P軸を見ているのだろう。これが、空間三次元・時空四次元なのではないだろうか。-P軸とは、-現象であり、おそらく反世界であろう。反物質の世界であろう。しかし、それは、正しくは、差異共振・共立界ではないだろうか。つまり、日常の現象界においては、+P軸を感覚しているだけで、-P軸は「不可視」・無感覚なのである。
では、コスモス史を考えるとどうなるだろうか。最初の1/4回転で、Y→Z→Pと三段階をもつ。次の1/4回転でも、符号が反対になるが、同様であろう。すると、1/4回転で3位相をもつから、ガウス平面の一回転は、3×4=12位相となる。ここで、作業仮説として、この12位相が、占星術の12星座(正しくは、12宮)に転移されたとしよう。つまり、ガウス平面的イデア論的コスモスが、天界に投影されて、占星術の12宮(黄道十二宮)を生んだとしよう。
さて、問題は、太陽とこの12位相の関係である。結局、太陽とは何なのかということになるだろう。あるいは、地球は何なのかということになるだろう。ここでも、思考実験ないし作業仮説であるが、ガウス平面の原点(0,0)を原太陽として、不連続的差異・イデアを原惑星・原地球としよう。そうすると、12の位相において、原太陽と原惑星・原地球との関係が形成されると考えられよう。
どういうことかと言えば、ガウス平面における原点と不連続的差異・イデアとの関係が、原コスモス・原宇宙関係であるということである(作業仮説)。この原点/差異という原コスモス・原宇宙関係が、12位相を形成すると言うことである。原コスモス・原宇宙を原太陽/原惑星の原太陽系とすると、それは、12位相をもつ原太陽系となるだろう。即ち、原太陽系12位相ないし12位相原太陽系である。これが、占星術の12宮あるいは黄道十二宮の原型ではないのだろうか。
さらに緻密に言えば、原太陽系を拡大して、原銀河系、原全宇宙というように展開できるだろう。つまり、原太陽系12位相は、原銀河系/原全宇宙に適用できるということになるだろう。つまり、簡単に言えば、原太陽系12位相と、原銀河系/原全宇宙とは相似形であると言えるのではないだろうか。つまり、原太陽系12位相と原銀河系/原全宇宙は照応しているということではないだろうか。これが、ミクロコスモス=マクロコスモスの観念の広い意味ではないだろうか。
もし、そうならば、原太陽系12位相は、根源的な力学構造を意味していることになるだろう。つまり、原太陽=原点は、単なる恒星ではなくて、イデア界における根源的な意味をもっているものである。おそらく、「原神」と呼んでいいものではないだろうか。そして、原惑星は、「原天使」ではないだろうか。思うに、ここには、一神-多神教ないし一元-多元性とでも言うべきこれまで、ほとんど知られていない世界があると言えよう。
さらに、思考実験すると、原太陽系12位相において、原点と不連続的差異・イデア、原太陽と原惑星は、基本的には、ペンタグラム・五芒星を形成するらしいということである。基本数5である。これを今の思考実験として、差異5=原惑星5=基本数5としたい。原点・原太陽1+差異5・原惑星5=計基本数6となる。
さらに思考実験であるが、これは、1/4回転において、YZ平面上で、零度差異共振シナジーによ手、正多角形を形成するとしよう。すると、YZ平面で正五角形、即ち、ペンタグラム・五芒星が形成されることになる。
また、さらに思考実験すると、原太陽系12位相であるから、正五角形×12位相=60準位相(差異位相)が形成されるとしよう。これが、思うに、原コスモス・原宇宙の基本単位数ではないだろうか。ホワイトヘッド的に言えば、コスモロジーないし「有機体」の基本単位数となるだろう。
後の問題は、プラトン年の数、25920(=432×60)をどう考えるかである。432=3×144=3×12^2=12×3×12=12×36である(。さらに展開すれば、3×4×3×3×4=3^3×4^2=2^4×3^3である)。だから、プラトン年25920=12×36×60である。そして、1位相は、36×60=2160である。そして、これを差異数・原惑星数5で割ると、2160÷5=432という数となる。つまり、1差異、1原惑星当たり、432という数である。そして、正五角形において、一頂点と隣り合う一頂点の作る内角は、72度であるから、432÷72度=6年/度である。だから、1位相正五角形において、1度当たり6年となる(6×360度=2160年)。
とまれ、1差異・1原惑星当たり432年とは何を意味するのだろうか。(もし、6差異で考えると、2160÷6=360である。1差異当たり、360年である。)
ここで、思考実験して、5差異・5原惑星と原太陽の関係を考えると、原太陽と一つの差異・一つの原惑星と関係すると仮定すると、1原太陽/原惑星として、432年が出てくる。(p.s. そこに姿を表すパルテノン神殿は、紀元前432年、優秀な建築家や工芸家が集められて造られたものです。http://via.z1.bbzone.net/ath.htm) これを、仮に、1原惑星原太陽年(以下、1惑星太陽年)と呼ぼう。そう、先に、準位相60を見たから。1準位相432年とも言えよう。ここで、さらに思考実験すると、432年をコスモス史の画期として、プラトン(Πλ?των (Platon), 紀元前427年 - 紀元前347年 )を紀元前432年の代表と見ると、プラトンの次は、当然、イエス・キリストである。
次の432年は、何だろうか。
431年 - エフェソス公会議でネストリウス派(のちの景教)が異端宣告される。
「西暦432年、聖パトリック氏は、アイルランドにキリスト教を広めました。『セントパトリックスディ』は、彼の追悼の日になります。この日は、世界中でパレードが行なわれます。また、アイルランドの国花が『三つ葉のクローバー』!三つ葉のクローバー』または『緑色の服』や『緑色のもの』を身に付けることで、祝う習慣があるようです。アメリカ、シカゴでは川を緑色に染めてしまう程、お祭りをお祝いします。」
http://amoretto.cocolog-nifty.com/amoretto/2006/03/index.html
「2005年03月18日
今日は St. Patrick's Day!
アイルランドの守護聖人と言われているセント・パトリックは、432年にアイルランドに伝道に赴いてキリスト教を広めた人です。それまでアイルランドは、ケルト人が古くから信じる、ドルイド教が主流だったのです。」
http://www.itoh.com/2005/03/_st_patricks_day.html
434年 - アッティラがフン族の王となる。
その次は何か? 432×2=864年である。
* 862年 - 伝説ではノルマン人ルス族のリューリクがノブゴロド公国を建国する。ロシア国家のはじまり。
* 863年 - 東ローマ帝国のメトディオス、キュリロス(コンスタンティノス)兄弟がスラヴ人に対してキリスト教伝道を開始する。
* 864年 - 富士山貞観噴火
* 864年ごろ - ブルガリア王国のボリス1世がキリスト教に改宗する。
* 866年 - 応天門の変がおこる。応天門放火の罪で大納言伴善男が流罪となる。
* 867年 - 東ローマ帝国でバシレイオス1世がクーデターで皇帝に即位。マケドニア王朝を開く。
* 867年 - イランにサッファール朝が興る
* 868年 - エジプトにトゥルーン朝が興る
ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri、1265年 1321年 9月14日)は、第三の準位相(432×3=1296年)か。
* 1295年 - マルコ・ポーロ、ヴェネツィアに帰国する。
* 1296年 - イングランド王エドワード1世、スコットランドよりスクーンの石を奪う。
* 1297年 - 鎌倉幕府が、永仁の徳政令を出す。
* 1298年 - 伏見天皇が譲位し、第92代後伏見天皇が即位。
* 1299年 - オスマン帝国成立。
* 中世
* インカ帝国の成立。
* オスマン帝国の成立。
第四の準位相は、1728年だ。イマヌエル・カント (*1724年 - 1804年 )だろうか。第五は、当然、2160年である。
* エドマンド・バーク
* イマヌエル・カント(*1724年 - 1804年)
* カール・フォン・リンネ(*1707年5月23日 +1778年1月10日)
* フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(*1743年1月25日 - +1819年3月10日)
* ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
* フリードリヒ・フォン・シラー
* コシチューシコ(コシューシコ)
* ジョージ・ワシントン
432年で、展開が止まってしまった。後で再考したい。
参考1:歳差運動
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%B7%AE%E9%81%8B%E5%8B%95
http://homepage2.nifty.com/eman/dynamics/precession.html
http://www.google.co.jp/search?q=%E6%AD%B3%E5%B7%AE%E9%81%8B%E5%8B%95&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official
参考2:432
http://www.geocities.com/jirimruzek/osirnum.htm
http://www.greatdreams.com/432.htm
http://www.halexandria.org/dward092.htm
http://www.mtvdance.com/philoscience/432page.html
http://www.trivortex.com/Key.htm
http://www.metafilter.com/mefi/26791
http://members.aol.com/johnkeely/scale.html
http://www.poee.org/living/GetPage.aspx?ID=124
http://www.google.co.jp/search?q=%EF%BC%94%EF%BC%93%EF%BC%92%E3%80%80%EF%BC%92%EF%BC%95%EF%BC%99%EF%BC%92%EF%BC%90&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&hl=ja&client=firefox&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial
先に、次のように述べた。《コスモスの「歴史」ないし「進化」は、エネルギー極性力学の往復運動、そして、螺旋運動と見ることができるだろう。》http://ameblo.jp/renshi/entry-10015795855.html
結局、プラス・エネルギーとマイナス・エネルギーの交替の織り成す運動体としてのコスモス史の仮説である。以前に、イデア界史という観念を立てたが、それに類似しているとは言えるが、差異共振極性エネルギーの力学という点では、明確に異なっている。
結局、このコスモス史は構造的にきわめて単純明快である。振り子運動とらせん運動を形成するということであるからだ。だから、問題は、この構造の展開をどう形式化するかにあるだろう。
不連続的差異論のガウス平面における1/4回転が基本力学であるが、これと極性力学とをどう結びつけるかが重要である。(おそらく、インテリジェント・デザイン理論・ID理論とも、この点で関係してくるだろう。)
ここで、思考実験しよう。最初の1/4回転によって、零度差異共振性が形成される。それが、垂直に捩れるのであるが、これが、プラス・エネルギーであるとしよう。つまり、垂直の力は、プラス・エネルギーによるものとしよう。
次に、二番目の1/4回転、即ち、2/4回転が発生するとする。それは、零度差異共振性を解除するのである。これは、マイナスの不連続的差異共立のイデア界への回帰としよう。そして、これが、マイナス・エネルギーを発生させるとしよう。この考えを、同様に適用すればいいことになるのである。奇数回の1/4回転は、プラス・エネルギーを発生させ、偶数回の1/4回転は、マイナス・エネルギーを発生させるとする仮説するのである。(2n-1回が、+エネルギー、2n回が、-エネルギーである。)
問題は、エネルギーの次元と現象の次元である。ガウス平面をXY座標として、エネルギー軸をXY座標に直交するZ軸としよう。だから、奇数回の1/4回転は、Z軸のプラスの方向のエネルギーが発生することになるだろう。そして、偶数回の1/4回転は、Z軸のマイナスの方向のエネルギーが発生すると言うことになるだろう。そうならば、Z軸において、プラスとマイナスの往復運動が生起されると言えよう。このエネルギーの極性運動は、対称的である。例えば、これは、Z軸では、+、-、+、-、・・・の反復となる。だから、連続・同一性志向性は+Z軸の方向、差異・差異共振志向性は-Z軸の方向と見ることができるのではないだろうか。
とまれ、そう見るなら、エネルギー軸であるZ軸は、メディア界に存すると言えよう。より的確に言えば、メディア/現象境界に存すると言えよう。そして、ここから現象界へと展開するのであるから、ここで、現象軸として、P(PHENOMENA)軸を作業仮説しよう。+エネルギーの場合、連続・同一性志向であるから、それを+P軸とし、エネルギーの場合、差異・差異共振性志向であるから、それを-P軸としよう。思うに、現象界において、+P軸を見ているのだろう。これが、空間三次元・時空四次元なのではないだろうか。-P軸とは、-現象であり、おそらく反世界であろう。反物質の世界であろう。しかし、それは、正しくは、差異共振・共立界ではないだろうか。つまり、日常の現象界においては、+P軸を感覚しているだけで、-P軸は「不可視」・無感覚なのである。
では、コスモス史を考えるとどうなるだろうか。最初の1/4回転で、Y→Z→Pと三段階をもつ。次の1/4回転でも、符号が反対になるが、同様であろう。すると、1/4回転で3位相をもつから、ガウス平面の一回転は、3×4=12位相となる。ここで、作業仮説として、この12位相が、占星術の12星座(正しくは、12宮)に転移されたとしよう。つまり、ガウス平面的イデア論的コスモスが、天界に投影されて、占星術の12宮(黄道十二宮)を生んだとしよう。
さて、問題は、太陽とこの12位相の関係である。結局、太陽とは何なのかということになるだろう。あるいは、地球は何なのかということになるだろう。ここでも、思考実験ないし作業仮説であるが、ガウス平面の原点(0,0)を原太陽として、不連続的差異・イデアを原惑星・原地球としよう。そうすると、12の位相において、原太陽と原惑星・原地球との関係が形成されると考えられよう。
どういうことかと言えば、ガウス平面における原点と不連続的差異・イデアとの関係が、原コスモス・原宇宙関係であるということである(作業仮説)。この原点/差異という原コスモス・原宇宙関係が、12位相を形成すると言うことである。原コスモス・原宇宙を原太陽/原惑星の原太陽系とすると、それは、12位相をもつ原太陽系となるだろう。即ち、原太陽系12位相ないし12位相原太陽系である。これが、占星術の12宮あるいは黄道十二宮の原型ではないのだろうか。
さらに緻密に言えば、原太陽系を拡大して、原銀河系、原全宇宙というように展開できるだろう。つまり、原太陽系12位相は、原銀河系/原全宇宙に適用できるということになるだろう。つまり、簡単に言えば、原太陽系12位相と、原銀河系/原全宇宙とは相似形であると言えるのではないだろうか。つまり、原太陽系12位相と原銀河系/原全宇宙は照応しているということではないだろうか。これが、ミクロコスモス=マクロコスモスの観念の広い意味ではないだろうか。
もし、そうならば、原太陽系12位相は、根源的な力学構造を意味していることになるだろう。つまり、原太陽=原点は、単なる恒星ではなくて、イデア界における根源的な意味をもっているものである。おそらく、「原神」と呼んでいいものではないだろうか。そして、原惑星は、「原天使」ではないだろうか。思うに、ここには、一神-多神教ないし一元-多元性とでも言うべきこれまで、ほとんど知られていない世界があると言えよう。
さらに、思考実験すると、原太陽系12位相において、原点と不連続的差異・イデア、原太陽と原惑星は、基本的には、ペンタグラム・五芒星を形成するらしいということである。基本数5である。これを今の思考実験として、差異5=原惑星5=基本数5としたい。原点・原太陽1+差異5・原惑星5=計基本数6となる。
さらに思考実験であるが、これは、1/4回転において、YZ平面上で、零度差異共振シナジーによ手、正多角形を形成するとしよう。すると、YZ平面で正五角形、即ち、ペンタグラム・五芒星が形成されることになる。
また、さらに思考実験すると、原太陽系12位相であるから、正五角形×12位相=60準位相(差異位相)が形成されるとしよう。これが、思うに、原コスモス・原宇宙の基本単位数ではないだろうか。ホワイトヘッド的に言えば、コスモロジーないし「有機体」の基本単位数となるだろう。
後の問題は、プラトン年の数、25920(=432×60)をどう考えるかである。432=3×144=3×12^2=12×3×12=12×36である(。さらに展開すれば、3×4×3×3×4=3^3×4^2=2^4×3^3である)。だから、プラトン年25920=12×36×60である。そして、1位相は、36×60=2160である。そして、これを差異数・原惑星数5で割ると、2160÷5=432という数となる。つまり、1差異、1原惑星当たり、432という数である。そして、正五角形において、一頂点と隣り合う一頂点の作る内角は、72度であるから、432÷72度=6年/度である。だから、1位相正五角形において、1度当たり6年となる(6×360度=2160年)。
とまれ、1差異・1原惑星当たり432年とは何を意味するのだろうか。(もし、6差異で考えると、2160÷6=360である。1差異当たり、360年である。)
ここで、思考実験して、5差異・5原惑星と原太陽の関係を考えると、原太陽と一つの差異・一つの原惑星と関係すると仮定すると、1原太陽/原惑星として、432年が出てくる。(p.s. そこに姿を表すパルテノン神殿は、紀元前432年、優秀な建築家や工芸家が集められて造られたものです。http://via.z1.bbzone.net/ath.htm) これを、仮に、1原惑星原太陽年(以下、1惑星太陽年)と呼ぼう。そう、先に、準位相60を見たから。1準位相432年とも言えよう。ここで、さらに思考実験すると、432年をコスモス史の画期として、プラトン(Πλ?των (Platon), 紀元前427年 - 紀元前347年 )を紀元前432年の代表と見ると、プラトンの次は、当然、イエス・キリストである。
次の432年は、何だろうか。
431年 - エフェソス公会議でネストリウス派(のちの景教)が異端宣告される。
「西暦432年、聖パトリック氏は、アイルランドにキリスト教を広めました。『セントパトリックスディ』は、彼の追悼の日になります。この日は、世界中でパレードが行なわれます。また、アイルランドの国花が『三つ葉のクローバー』!三つ葉のクローバー』または『緑色の服』や『緑色のもの』を身に付けることで、祝う習慣があるようです。アメリカ、シカゴでは川を緑色に染めてしまう程、お祭りをお祝いします。」
http://amoretto.cocolog-nifty.com/amoretto/2006/03/index.html
「2005年03月18日
今日は St. Patrick's Day!
アイルランドの守護聖人と言われているセント・パトリックは、432年にアイルランドに伝道に赴いてキリスト教を広めた人です。それまでアイルランドは、ケルト人が古くから信じる、ドルイド教が主流だったのです。」
http://www.itoh.com/2005/03/_st_patricks_day.html
434年 - アッティラがフン族の王となる。
その次は何か? 432×2=864年である。
* 862年 - 伝説ではノルマン人ルス族のリューリクがノブゴロド公国を建国する。ロシア国家のはじまり。
* 863年 - 東ローマ帝国のメトディオス、キュリロス(コンスタンティノス)兄弟がスラヴ人に対してキリスト教伝道を開始する。
* 864年 - 富士山貞観噴火
* 864年ごろ - ブルガリア王国のボリス1世がキリスト教に改宗する。
* 866年 - 応天門の変がおこる。応天門放火の罪で大納言伴善男が流罪となる。
* 867年 - 東ローマ帝国でバシレイオス1世がクーデターで皇帝に即位。マケドニア王朝を開く。
* 867年 - イランにサッファール朝が興る
* 868年 - エジプトにトゥルーン朝が興る
ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri、1265年 1321年 9月14日)は、第三の準位相(432×3=1296年)か。
* 1295年 - マルコ・ポーロ、ヴェネツィアに帰国する。
* 1296年 - イングランド王エドワード1世、スコットランドよりスクーンの石を奪う。
* 1297年 - 鎌倉幕府が、永仁の徳政令を出す。
* 1298年 - 伏見天皇が譲位し、第92代後伏見天皇が即位。
* 1299年 - オスマン帝国成立。
* 中世
* インカ帝国の成立。
* オスマン帝国の成立。
第四の準位相は、1728年だ。イマヌエル・カント (*1724年 - 1804年 )だろうか。第五は、当然、2160年である。
* エドマンド・バーク
* イマヌエル・カント(*1724年 - 1804年)
* カール・フォン・リンネ(*1707年5月23日 +1778年1月10日)
* フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(*1743年1月25日 - +1819年3月10日)
* ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
* フリードリヒ・フォン・シラー
* コシチューシコ(コシューシコ)
* ジョージ・ワシントン
432年で、展開が止まってしまった。後で再考したい。
参考1:歳差運動
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%B7%AE%E9%81%8B%E5%8B%95
http://homepage2.nifty.com/eman/dynamics/precession.html
http://www.google.co.jp/search?q=%E6%AD%B3%E5%B7%AE%E9%81%8B%E5%8B%95&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official
参考2:432
http://www.geocities.com/jirimruzek/osirnum.htm
http://www.greatdreams.com/432.htm
http://www.halexandria.org/dward092.htm
http://www.mtvdance.com/philoscience/432page.html
http://www.trivortex.com/Key.htm
http://www.metafilter.com/mefi/26791
http://members.aol.com/johnkeely/scale.html
http://www.poee.org/living/GetPage.aspx?ID=124
http://www.google.co.jp/search?q=%EF%BC%94%EF%BC%93%EF%BC%92%E3%80%80%EF%BC%92%EF%BC%95%EF%BC%99%EF%BC%92%EF%BC%90&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&hl=ja&client=firefox&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial
2006/08/13のBlog
[ 23:35 ]
[ ルネサンスとプロテスタンティズム ]
以下は、次の論考の後記を独立させたものです。
「同一性・イデオロギー自我の利己的欲望の構造について:同一性自我と差異自我」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10015772189.html
_________________________
補足説明をして、以上の問題を明快なものにしたい。
プラス・エネルギーが発生するときは、確かに、差異共振性が否定される連続・同一性志向性が発動し、現象自我が形成されると見ていいだろう。これの帰結が父権神話、超越一神教である。
それに対して、マイナス・エネルギーが、均衡力学的に発生すると、今度は、差異共振性へと様相が転換する。いわば、相転移となる。
だから、コスモスの「歴史」ないし「進化」は、エネルギー極性力学の往復運動、そして、螺旋運動と見ることができるだろう。そして、父権神話や聖書は、いわば、純粋なプラス・エネルギー作用の様態を表現していると考えられる。
では、プロテスタンティズムの場合はどうかと言えば、それは、純粋ではない。これは、以前から述べていることだが、ルネサンスの反動としてプロテスタンティズムがあるということである。ルネサンスが、プロトモダン、すなわち、差異・不連続的差異の発動であったとするなら、それは、マイナス・エネルギーの発動を意味する。だから、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーに対する反動なのである。即ち、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーの事象を受けているということであり、前提として、差異・不連続的差異があるのである。
ということで、近代主義、近代的自我、近代合理主義とは、差異への連続・同一性の反動と見ることが正しいのであり、以上に述べた、同一性と差異との絶対的二元論は生起していないとみるのが正しいのであるから、ここで、訂正する次第である。だから、これまで述べてきたように、差異・差異共振性に対する反動として、連続・同一性現象自我(主義)を把捉するのが正しいことになる。
だから、なぜ、連続・同一性現象自我は、差異・差異共振性(=物自体)を脅威と見て、否定・抑圧・攻撃・破壊・隠蔽等するのかという理由は、父権的連続・同一性自我が、必然的に、差異・差異共振性を否定する構造をもっているということになる。つまり、ユダヤ・キリスト教において、決定的に成立した父権的連続・同一性自我をもつ西洋文明は、新たに発生したマイナス・エネルギーによる差異・差異共振性の自我文化・社会に対して、論理的に否定的な作用をもつということなのである。換言すると、父権的連続・同一性構造を西洋文明はもっているので、イタリア・ルネサンスの差異・差異共振自我文化に否定的に反応して、反動として、宗教改革を発動させたということになるのである。
では、さらに、論を詰めると、差異主義であるルネサンスに対する、父権的連続・同一性構造の反動の様態はどのようなものであったのかという問題が生じる。ルネサンス後の反動はそれとして理解できるが、ルネサンスが発生したとき、それは、父権的連続・同一性構造にとってどういう関係にあったのかということである。結局、ルネサンスとは単にイタリアに限定された「理念」ではなくて、これは、いわば、コスモス的事件であったと考えられるのである。即ち、マイナス・エネルギーが、新たに発動して、人間の主体のエネルギー力学が変容したと考えられるのである。つまり、内在的に、即自的に、主体の変容が生じたのである。だから、この内在・即自的な、自我のマイナス・エネルギー化に対して、父権的連続・同一性自我構造は、反動化したということではないだろうか。自我主体エネルギー構造力学の問題なのである。換言すると、内在的に発生した差異・差異共振性に対して、父権的連続・同一性自我構造は、否定・抑圧・隠蔽するということなのである。そして、この歴史的結果が、プロテスタンティズムであり、近代的自我・近代合理主義であったと考えられるのである。つまり、これまで、述べてきた通り、近代的自我とは、反動であり、極言すれば、邪道・外道なのである。だから、近代科学も唯物論も、反動知性なのである。反動権力的知性なのである。
以上で、本件の補足説明としたい。
________________________
以下は、以上の内容への後記である。
p.s. 本稿に関して、より精緻に論考する必要があるが、ここでは簡単に触れると、キリスト教は、ルネサンスの発動に確かに反動的であったと、基本的には言えるが、しかし、実際は微妙である。
おそらく、ルネサンスの力動を受けたキリスト教は、思うに、それを聖霊の力動として受け取った面があると思うのである。これが、始原的なプロテスタンティズムだと思われるのである。聖霊という点で、ルネサンスの差異共振性を受容したと思うのである。この点は、反動ではなくて、能動的であると言えよう。
たとえば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、プロテスタンティズムの人間の典型像として、かつて、取り上げられたが、そこにあるのは、聖霊主義ではないかと思うのである。だから、ルネサンスとプロテスタンティズムの積極的接点として、聖霊性=差異共振性があると思うのである。
「同一性・イデオロギー自我の利己的欲望の構造について:同一性自我と差異自我」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10015772189.html
_________________________
補足説明をして、以上の問題を明快なものにしたい。
プラス・エネルギーが発生するときは、確かに、差異共振性が否定される連続・同一性志向性が発動し、現象自我が形成されると見ていいだろう。これの帰結が父権神話、超越一神教である。
それに対して、マイナス・エネルギーが、均衡力学的に発生すると、今度は、差異共振性へと様相が転換する。いわば、相転移となる。
だから、コスモスの「歴史」ないし「進化」は、エネルギー極性力学の往復運動、そして、螺旋運動と見ることができるだろう。そして、父権神話や聖書は、いわば、純粋なプラス・エネルギー作用の様態を表現していると考えられる。
では、プロテスタンティズムの場合はどうかと言えば、それは、純粋ではない。これは、以前から述べていることだが、ルネサンスの反動としてプロテスタンティズムがあるということである。ルネサンスが、プロトモダン、すなわち、差異・不連続的差異の発動であったとするなら、それは、マイナス・エネルギーの発動を意味する。だから、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーに対する反動なのである。即ち、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーの事象を受けているということであり、前提として、差異・不連続的差異があるのである。
ということで、近代主義、近代的自我、近代合理主義とは、差異への連続・同一性の反動と見ることが正しいのであり、以上に述べた、同一性と差異との絶対的二元論は生起していないとみるのが正しいのであるから、ここで、訂正する次第である。だから、これまで述べてきたように、差異・差異共振性に対する反動として、連続・同一性現象自我(主義)を把捉するのが正しいことになる。
だから、なぜ、連続・同一性現象自我は、差異・差異共振性(=物自体)を脅威と見て、否定・抑圧・攻撃・破壊・隠蔽等するのかという理由は、父権的連続・同一性自我が、必然的に、差異・差異共振性を否定する構造をもっているということになる。つまり、ユダヤ・キリスト教において、決定的に成立した父権的連続・同一性自我をもつ西洋文明は、新たに発生したマイナス・エネルギーによる差異・差異共振性の自我文化・社会に対して、論理的に否定的な作用をもつということなのである。換言すると、父権的連続・同一性構造を西洋文明はもっているので、イタリア・ルネサンスの差異・差異共振自我文化に否定的に反応して、反動として、宗教改革を発動させたということになるのである。
では、さらに、論を詰めると、差異主義であるルネサンスに対する、父権的連続・同一性構造の反動の様態はどのようなものであったのかという問題が生じる。ルネサンス後の反動はそれとして理解できるが、ルネサンスが発生したとき、それは、父権的連続・同一性構造にとってどういう関係にあったのかということである。結局、ルネサンスとは単にイタリアに限定された「理念」ではなくて、これは、いわば、コスモス的事件であったと考えられるのである。即ち、マイナス・エネルギーが、新たに発動して、人間の主体のエネルギー力学が変容したと考えられるのである。つまり、内在的に、即自的に、主体の変容が生じたのである。だから、この内在・即自的な、自我のマイナス・エネルギー化に対して、父権的連続・同一性自我構造は、反動化したということではないだろうか。自我主体エネルギー構造力学の問題なのである。換言すると、内在的に発生した差異・差異共振性に対して、父権的連続・同一性自我構造は、否定・抑圧・隠蔽するということなのである。そして、この歴史的結果が、プロテスタンティズムであり、近代的自我・近代合理主義であったと考えられるのである。つまり、これまで、述べてきた通り、近代的自我とは、反動であり、極言すれば、邪道・外道なのである。だから、近代科学も唯物論も、反動知性なのである。反動権力的知性なのである。
以上で、本件の補足説明としたい。
________________________
以下は、以上の内容への後記である。
p.s. 本稿に関して、より精緻に論考する必要があるが、ここでは簡単に触れると、キリスト教は、ルネサンスの発動に確かに反動的であったと、基本的には言えるが、しかし、実際は微妙である。
おそらく、ルネサンスの力動を受けたキリスト教は、思うに、それを聖霊の力動として受け取った面があると思うのである。これが、始原的なプロテスタンティズムだと思われるのである。聖霊という点で、ルネサンスの差異共振性を受容したと思うのである。この点は、反動ではなくて、能動的であると言えよう。
たとえば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、プロテスタンティズムの人間の典型像として、かつて、取り上げられたが、そこにあるのは、聖霊主義ではないかと思うのである。だから、ルネサンスとプロテスタンティズムの積極的接点として、聖霊性=差異共振性があると思うのである。
[ 18:38 ]
[ 平和創造論 ]
憲法九条は誰が作ったのか。
テーマ:平和経済文化論
《世界のどこにもない憲法九条を持ち、この戦乱絶えぬ地球の上で、あえて諸国民の信義をたのんで丸腰で生きるという「普通の国」ではない選択と決意をしたところにこそ、日本の真の名誉も価値もあるではないかと思います。
憲法九条は誰が作ったのか。あらゆる資料を渉猟してこの謎解きにいどんだ堤尭『昭和の三傑』(集英社インターナショナル)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4797671114/ref=sr_11_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8
は、それが巷間うわさされたようにGHQの押しつけによるものではなく、幣原喜重郎首相自身の発案によるものだった(マッカーサーはそれを聞いて驚愕した)ことを明らかにしました。
『マッカーサー回想記』の次のくだり、
「(幣原が)私の事務所を出るときには感きわまるといった風情で、顔を涙でクチャクチャにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』と言った」
・・・。》
『イラク戦争 日本の運命 小泉の運命』 立花隆著 講談社 2004年
p.353~p.354
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062111586/ref=sr_11_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8
参考1:「幣原喜重郎と憲法9条 「三高私説」編集子 」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/sakura5.html
参考2:
日本国憲法第9条
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC9%E6%9D%A1
テーマ:平和経済文化論
《世界のどこにもない憲法九条を持ち、この戦乱絶えぬ地球の上で、あえて諸国民の信義をたのんで丸腰で生きるという「普通の国」ではない選択と決意をしたところにこそ、日本の真の名誉も価値もあるではないかと思います。
憲法九条は誰が作ったのか。あらゆる資料を渉猟してこの謎解きにいどんだ堤尭『昭和の三傑』(集英社インターナショナル)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4797671114/ref=sr_11_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8
は、それが巷間うわさされたようにGHQの押しつけによるものではなく、幣原喜重郎首相自身の発案によるものだった(マッカーサーはそれを聞いて驚愕した)ことを明らかにしました。
『マッカーサー回想記』の次のくだり、
「(幣原が)私の事務所を出るときには感きわまるといった風情で、顔を涙でクチャクチャにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』と言った」
・・・。》
『イラク戦争 日本の運命 小泉の運命』 立花隆著 講談社 2004年
p.353~p.354
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062111586/ref=sr_11_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8
参考1:「幣原喜重郎と憲法9条 「三高私説」編集子 」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/sakura5.html
参考2:
日本国憲法第9条
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC9%E6%9D%A1
[ 10:55 ]
[ 同一性と差異 ]
先に、同一性志向とイデオロギーが結びつくことを明らかにした。即ち、イデオロギーと連続・同一化して、原点の零度差異共振シナジー事象を、否定・排除・隠蔽する現象自我主義が生まれるのである。これは、また、父権的自我でもある。
さて、このイデオロギー的自我とは、いったい何を求めているのだろうか。根源は、差異、差異共振性を避けたいという欲求があるのである。なぜなら、差異は、連続・同一性を脅かすからである。不思議の国のアリスのように、しょっちゅう、伸縮しているのは、連続・同一性自我にとり、脅威なのである。何か、確定した一定の見方があると安心なのである。有り体に言えば、差異、差異共振とは、厄介なのである。それに正対するには、知的・精神的エネルギーが必要なのである。つまり、エネルギー負担があるのである。
否、どうも、先の説明はおかしいようだ。つまり、私は、差異共振性という原点があるから、連続・同一性化しても、それが残るはずであり、それを否定するのは、イデオロギーに同一化することによると述べたのであるが、イデオロギーに同一化するということ自体、差異・差異共振性を否定するのだから、イデオロギー説は、否定の説明にならないのである。つまり、やはり、差異・差異共振性を否定する連続・同一性志向性という+エネルギーが発生したと見る方が整合的であると考えられる。
だから、端的に、メディア界の極性強度において、+強度・+エネルギーが発生して、差異・差異共振性を否定するということだろう。そうすると、+エネルギーの主体には、差異・差異共振性が欠落するということになるだろう。ただただ、純粋な+エネルギー=連続・同一性自我主義である。だから、これは、外部の差異・差異共振性を否定・排除・攻撃するだろう。どうも、これが、父権神話、例えば、バビロニア神話のエネルギー論的構造ではないだろうか。英雄マルドゥクが、怪物ティアマトを退治するが、後者はもともとは、女神・母神である。しかし、+エネルギーの自我にとっては、もはや、女神は、女神とは見えずに、怪物に見えるのである。これは、また、ギルガメシュ叙事詩でも、同様である。森の怪獣フンババは、本来、女神(イシュタル)であるが、英雄ギルガメシュたちには、もはや、怪獣にしか見えないのであるから、攻撃するのである。連続・同一性の盲目性と言ってもいいだろう。父権主義とは、差異・差異共振性に対して、本来的に盲目であり、理解できないと言えよう。これは、最高度に恐ろしいことである。しかし、これが、現実ではないのか。聖書のヤハウェは、正に、この典型ではないのか。帰結と言うべきだろう、おそらく。そうならば、この連続・同一性現象自我は、容赦なく、差異・差異共振性を破壊し続けることになるだろう。それが、本性であるからである。だから、ユダヤ教とキリスト教に基づく文明は、連続・同一性現象自我主義(自我構造主義)によって、差異・差異共振性を破壊せざるを得ないと言えよう。
換言すると、連続・同一性自我主義とは、自我自体を目的にする「思想」である。正に、連続・同一性自我主義が自体がイデオロギーなのである。だからこそ、傲慢で、独善的なのである。つまり、悪魔であることが、必然なのである。ここでは、自然は、利己主義であることである。そして、これが西洋文明を形成したのである。
しかし、西洋には、この連続・同一性志向とは別の、差異・差異共振性志向の系譜があるだろう。これが、母権的な系譜である。聖母マリアの系譜である。女神の系譜である。古代ギリシアは、二重性である。結局、ユダヤ・キリスト教の連続・同一性自我主義の系譜と地中海的母権的差異・差異共振性の系譜が西洋文明にはあると考えられる。(プラトン哲学とは、後者を中心にして、洗練させた哲学であろう。)この二重性は、前者は、プロテスタンティズム、後者は、イタリア・ルネサンスとなって発現したと考えられるのである。しかし、実際は複雑で、原近代とは、後者の発現であり、差異・差異共振主義志向性なのであるが、前者的反動として、プロテスタンティズムが発生したと考えられるのである。そして、ルネサンス型資本主義ではなくて、プロテスタンティズム型資本主義が進歩的と倒錯的に考えられてきたのである。しかし、何度も繰り返すが、これは、反動である。(今日、反動が進歩と取られているのだ。)
結局、以上のように考えると、差異・差異共振性の志向性の問題とは、これまでの考えよりも、複雑となるだろう。マイナス・エネルギー(マイナス強度)の発動があることは、確かである。それは、イタリア・ルネサンスから始まっていると考えられるのである。問題は、連続・同一性志向性の構造である。マイナス・エネルギーが発動しても、連続・同一性自我は、察知不可能であるだろう。なぜなら、それにとって、即自的に、差異・差異共振性は存在していないからである。そう、それが、狂気の原因である。近代主義、近代的自我、近代合理主義の狂気である。これは、先に述べた通りであるが、先の考え方よりも、明確になっているだろう。即ち、先には、連続・同一性の慣性を問題としたが、今や、連続・同一性自我構造自体が問題であるからである。これは、基本的に、無差異・無差異共振の構造であるから、差異・差異共振性というものがあることさえ理解できないのである。言わば、汎同一性論である。この点が、先よりも、理論的に進展しているのである。
だから、問題は、この無差異・無差異共振性の連続・同一性自我構造における、マイナス・エネルギーの発動の意味なのである。これは、完全なる分裂である。接点のない平行二元論である。絶対的二元論である。絶対的分裂である。二重人格と言ってもいいし、また、多重人格ともなるだろう。そして、これが、現代社会の精神病理現象であろう。これは、実に、恐ろしい事態である。コスモスのエネルギーは、現代においては、マイナス・エネルギーの様相にあると考えられるが、プラス・エネルギーの形成した連続・同一性自我は、これに盲目であるからである。これは、同一性自我自身でも、わけのわからない事態であろう。つまり、同一性自我にとって、まったくの未知であることが起こっているのであるから。そう、物自体である。物自体が、同一性自我に、迫っているのである。思うに、この内在的な物自体が、投影されて、他者攻撃となるのだろう。
結局、マイナス・エネルギーによって、不連続的差異化が生じる。それは、メディア界のイデア極への志向性である。そして、それによって、差異共振性が発生するのである。ここで、同一性自我から転換して、差異自我へ転換する必要があるのである。では、同一性自我と差異自我とは、どう関係するのだろうか。その接点は何なのか。有り体に言えば、どうやって、同一性自我から差異自我を形成できるのか。同一性自我は、無意識のうちに、発生する差異自我を否定・排除・隠蔽するだろう。これは、仏教、フッサール現象学、東洋身体論、等の問題である。同一性自我のエポケー(判断停止)が必要であろう。そして、能動的な思考(スピノザ)を形成する必要があるだろう。
私見では、この転換には、感性・身体性の変容が必要なのである。同一性自我は、心身を分化させた。精神と身体に分離した。しかし、差異自我・差異共振自我は、これの再結合である。だから、感性・身体性の変容が必要なのである。いわば、物質的身体・肉体を、心的身体、精神的身体に変容する必要があるのである。
結局、同一性自我と差異自我との接点・仲介とは、感覚身体にあると言えよう。この感覚身体において、同一性自我と差異自我とが交流するのである。(ここで、感覚身体性を感身性と略して、造語しよう。)
とまれ、近代主義の同一性自我主義は、差異自我への転換方法を知らないから、ますます、狂気的に反動化するのである。それが、アメリカの覇権主義である。結局、一神教を、聖霊教に変換する必要があるだろう。ポスト一神教である。
p.s. 補足説明をして、以上の問題を明快なものにしたい。
プラス・エネルギーが発生するときは、確かに、差異共振性が否定される連続・同一性志向性が発動し、現象自我が形成されると見ていいだろう。これの帰結が父権神話、超越一神教である。
それに対して、マイナス・エネルギーが、均衡力学的に発生すると、今度は、差異共振性へと様相が転換する。いわば、相転移となる。
だから、コスモスの「歴史」ないし「進化」は、エネルギー極性力学の往復運動、そして、螺旋運動と見ることができるだろう。そして、父権神話や聖書は、いわば、純粋なマイナス・エネルギー作用の様態を表現していると考えられる。
では、プロテスタンティズムの場合はどうかと言えば、それは、純粋ではない。これは、以前から述べていることだが、ルネサンスの反動としてプロテスタンティズムがあるということである。ルネサンスが、プロトモダン、すなわち、差異・不連続的差異の発動であったとするなら、それは、マイナス・エネルギーの発動を意味する。だから、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーに対する反動なのである。即ち、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーの事象を受けているということであり、前提として、差異・不連続的差異があるのである。
ということで、近代主義、近代的自我、近代合理主義とは、差異への連続・同一性の反動と見ることが正しいのであり、以上に述べた、同一性と差異との絶対的二元論は生起していないとみるのが正しいのであるから、ここで、訂正する次第である。だから、これまで述べてきたように、差異・差異共振性に対する反動として、連続・同一性現象自我(主義)を把捉するのが正しいことになる。
だから、なぜ、連続・同一性現象自我は、差異・差異共振性(=物自体)を脅威と見て、否定・抑圧・攻撃・破壊・隠蔽等するのかという理由は、父権的連続・同一性自我が、必然的に、差異・差異共振性を否定する構造をもっているということになる。つまり、ユダヤ・キリスト教において、決定的に成立した父権的連続・同一性自我をもつ西洋文明は、新たに発生したマイナス・エネルギーによる差異・差異共振性の自我文化・社会に対して、論理的に否定的な作用をもつということなのである。換言すると、父権的連続・同一性構造を西洋文明はもっているので、イタリア・ルネサンスの差異・差異共振自我文化に否定的に反応して、反動として、宗教改革を発動させたということになるのである。
では、さらに、論を詰めると、差異主義であるルネサンスに対する、父権的連続・同一性構造の反動の様態はどのようなものであったのかという問題が生じる。ルネサンス後の反動はそれとして理解できるが、ルネサンスが発生したとき、それは、父権的連続・同一性構造にとってどういう関係にあったのかということである。結局、ルネサンスとは単にイタリアに限定された「思想」ではなくて、これは、いわば、コスモス的事件であったと考えられるのである。即ち、マイナス・エネルギーが、新たに発動して、人間の主体のエネルギー力学が変容したと考えられるのである。つまり、内在的に、即自的に、主体の変容が生じたのである。だから、この内在・即自的な、自我のマイナス・エネルギー化に対して、父権的連続・同一性自我構造は、反動化したということではないだろうか。自我主体エネルギー構造力学の問題なのである。換言すると、内在的に発生した差異・差異共振性に対して、父権的連続・同一性自我構造は、否定・抑圧・隠蔽するということなのである。そして、この歴史的結果が、プロテスタンティズムであり、近代的自我・近代合理主義であったと考えられるのである。つまり、これまで、述べてきた通り、近代的自我とは、反動であり、極言すれば、邪道・外道なのである。だから、近代科学も唯物論も、反動知性なのである。反動権力的知性なのである。
以上で、本件の補足説明としたい。
コメント
■聖霊コスモス教を提唱する
ポスト一神教、また、これまでの宗教の超克として、聖霊コスモス教を提唱する。これは、ユダヤ・キリスト・イスラム教の超克でもある。東西の宗教を超克し包摂するものである。
これは、D.H.ロレンスの宗教哲学でもある。
さて、このイデオロギー的自我とは、いったい何を求めているのだろうか。根源は、差異、差異共振性を避けたいという欲求があるのである。なぜなら、差異は、連続・同一性を脅かすからである。不思議の国のアリスのように、しょっちゅう、伸縮しているのは、連続・同一性自我にとり、脅威なのである。何か、確定した一定の見方があると安心なのである。有り体に言えば、差異、差異共振とは、厄介なのである。それに正対するには、知的・精神的エネルギーが必要なのである。つまり、エネルギー負担があるのである。
否、どうも、先の説明はおかしいようだ。つまり、私は、差異共振性という原点があるから、連続・同一性化しても、それが残るはずであり、それを否定するのは、イデオロギーに同一化することによると述べたのであるが、イデオロギーに同一化するということ自体、差異・差異共振性を否定するのだから、イデオロギー説は、否定の説明にならないのである。つまり、やはり、差異・差異共振性を否定する連続・同一性志向性という+エネルギーが発生したと見る方が整合的であると考えられる。
だから、端的に、メディア界の極性強度において、+強度・+エネルギーが発生して、差異・差異共振性を否定するということだろう。そうすると、+エネルギーの主体には、差異・差異共振性が欠落するということになるだろう。ただただ、純粋な+エネルギー=連続・同一性自我主義である。だから、これは、外部の差異・差異共振性を否定・排除・攻撃するだろう。どうも、これが、父権神話、例えば、バビロニア神話のエネルギー論的構造ではないだろうか。英雄マルドゥクが、怪物ティアマトを退治するが、後者はもともとは、女神・母神である。しかし、+エネルギーの自我にとっては、もはや、女神は、女神とは見えずに、怪物に見えるのである。これは、また、ギルガメシュ叙事詩でも、同様である。森の怪獣フンババは、本来、女神(イシュタル)であるが、英雄ギルガメシュたちには、もはや、怪獣にしか見えないのであるから、攻撃するのである。連続・同一性の盲目性と言ってもいいだろう。父権主義とは、差異・差異共振性に対して、本来的に盲目であり、理解できないと言えよう。これは、最高度に恐ろしいことである。しかし、これが、現実ではないのか。聖書のヤハウェは、正に、この典型ではないのか。帰結と言うべきだろう、おそらく。そうならば、この連続・同一性現象自我は、容赦なく、差異・差異共振性を破壊し続けることになるだろう。それが、本性であるからである。だから、ユダヤ教とキリスト教に基づく文明は、連続・同一性現象自我主義(自我構造主義)によって、差異・差異共振性を破壊せざるを得ないと言えよう。
換言すると、連続・同一性自我主義とは、自我自体を目的にする「思想」である。正に、連続・同一性自我主義が自体がイデオロギーなのである。だからこそ、傲慢で、独善的なのである。つまり、悪魔であることが、必然なのである。ここでは、自然は、利己主義であることである。そして、これが西洋文明を形成したのである。
しかし、西洋には、この連続・同一性志向とは別の、差異・差異共振性志向の系譜があるだろう。これが、母権的な系譜である。聖母マリアの系譜である。女神の系譜である。古代ギリシアは、二重性である。結局、ユダヤ・キリスト教の連続・同一性自我主義の系譜と地中海的母権的差異・差異共振性の系譜が西洋文明にはあると考えられる。(プラトン哲学とは、後者を中心にして、洗練させた哲学であろう。)この二重性は、前者は、プロテスタンティズム、後者は、イタリア・ルネサンスとなって発現したと考えられるのである。しかし、実際は複雑で、原近代とは、後者の発現であり、差異・差異共振主義志向性なのであるが、前者的反動として、プロテスタンティズムが発生したと考えられるのである。そして、ルネサンス型資本主義ではなくて、プロテスタンティズム型資本主義が進歩的と倒錯的に考えられてきたのである。しかし、何度も繰り返すが、これは、反動である。(今日、反動が進歩と取られているのだ。)
結局、以上のように考えると、差異・差異共振性の志向性の問題とは、これまでの考えよりも、複雑となるだろう。マイナス・エネルギー(マイナス強度)の発動があることは、確かである。それは、イタリア・ルネサンスから始まっていると考えられるのである。問題は、連続・同一性志向性の構造である。マイナス・エネルギーが発動しても、連続・同一性自我は、察知不可能であるだろう。なぜなら、それにとって、即自的に、差異・差異共振性は存在していないからである。そう、それが、狂気の原因である。近代主義、近代的自我、近代合理主義の狂気である。これは、先に述べた通りであるが、先の考え方よりも、明確になっているだろう。即ち、先には、連続・同一性の慣性を問題としたが、今や、連続・同一性自我構造自体が問題であるからである。これは、基本的に、無差異・無差異共振の構造であるから、差異・差異共振性というものがあることさえ理解できないのである。言わば、汎同一性論である。この点が、先よりも、理論的に進展しているのである。
だから、問題は、この無差異・無差異共振性の連続・同一性自我構造における、マイナス・エネルギーの発動の意味なのである。これは、完全なる分裂である。接点のない平行二元論である。絶対的二元論である。絶対的分裂である。二重人格と言ってもいいし、また、多重人格ともなるだろう。そして、これが、現代社会の精神病理現象であろう。これは、実に、恐ろしい事態である。コスモスのエネルギーは、現代においては、マイナス・エネルギーの様相にあると考えられるが、プラス・エネルギーの形成した連続・同一性自我は、これに盲目であるからである。これは、同一性自我自身でも、わけのわからない事態であろう。つまり、同一性自我にとって、まったくの未知であることが起こっているのであるから。そう、物自体である。物自体が、同一性自我に、迫っているのである。思うに、この内在的な物自体が、投影されて、他者攻撃となるのだろう。
結局、マイナス・エネルギーによって、不連続的差異化が生じる。それは、メディア界のイデア極への志向性である。そして、それによって、差異共振性が発生するのである。ここで、同一性自我から転換して、差異自我へ転換する必要があるのである。では、同一性自我と差異自我とは、どう関係するのだろうか。その接点は何なのか。有り体に言えば、どうやって、同一性自我から差異自我を形成できるのか。同一性自我は、無意識のうちに、発生する差異自我を否定・排除・隠蔽するだろう。これは、仏教、フッサール現象学、東洋身体論、等の問題である。同一性自我のエポケー(判断停止)が必要であろう。そして、能動的な思考(スピノザ)を形成する必要があるだろう。
私見では、この転換には、感性・身体性の変容が必要なのである。同一性自我は、心身を分化させた。精神と身体に分離した。しかし、差異自我・差異共振自我は、これの再結合である。だから、感性・身体性の変容が必要なのである。いわば、物質的身体・肉体を、心的身体、精神的身体に変容する必要があるのである。
結局、同一性自我と差異自我との接点・仲介とは、感覚身体にあると言えよう。この感覚身体において、同一性自我と差異自我とが交流するのである。(ここで、感覚身体性を感身性と略して、造語しよう。)
とまれ、近代主義の同一性自我主義は、差異自我への転換方法を知らないから、ますます、狂気的に反動化するのである。それが、アメリカの覇権主義である。結局、一神教を、聖霊教に変換する必要があるだろう。ポスト一神教である。
p.s. 補足説明をして、以上の問題を明快なものにしたい。
プラス・エネルギーが発生するときは、確かに、差異共振性が否定される連続・同一性志向性が発動し、現象自我が形成されると見ていいだろう。これの帰結が父権神話、超越一神教である。
それに対して、マイナス・エネルギーが、均衡力学的に発生すると、今度は、差異共振性へと様相が転換する。いわば、相転移となる。
だから、コスモスの「歴史」ないし「進化」は、エネルギー極性力学の往復運動、そして、螺旋運動と見ることができるだろう。そして、父権神話や聖書は、いわば、純粋なマイナス・エネルギー作用の様態を表現していると考えられる。
では、プロテスタンティズムの場合はどうかと言えば、それは、純粋ではない。これは、以前から述べていることだが、ルネサンスの反動としてプロテスタンティズムがあるということである。ルネサンスが、プロトモダン、すなわち、差異・不連続的差異の発動であったとするなら、それは、マイナス・エネルギーの発動を意味する。だから、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーに対する反動なのである。即ち、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーの事象を受けているということであり、前提として、差異・不連続的差異があるのである。
ということで、近代主義、近代的自我、近代合理主義とは、差異への連続・同一性の反動と見ることが正しいのであり、以上に述べた、同一性と差異との絶対的二元論は生起していないとみるのが正しいのであるから、ここで、訂正する次第である。だから、これまで述べてきたように、差異・差異共振性に対する反動として、連続・同一性現象自我(主義)を把捉するのが正しいことになる。
だから、なぜ、連続・同一性現象自我は、差異・差異共振性(=物自体)を脅威と見て、否定・抑圧・攻撃・破壊・隠蔽等するのかという理由は、父権的連続・同一性自我が、必然的に、差異・差異共振性を否定する構造をもっているということになる。つまり、ユダヤ・キリスト教において、決定的に成立した父権的連続・同一性自我をもつ西洋文明は、新たに発生したマイナス・エネルギーによる差異・差異共振性の自我文化・社会に対して、論理的に否定的な作用をもつということなのである。換言すると、父権的連続・同一性構造を西洋文明はもっているので、イタリア・ルネサンスの差異・差異共振自我文化に否定的に反応して、反動として、宗教改革を発動させたということになるのである。
では、さらに、論を詰めると、差異主義であるルネサンスに対する、父権的連続・同一性構造の反動の様態はどのようなものであったのかという問題が生じる。ルネサンス後の反動はそれとして理解できるが、ルネサンスが発生したとき、それは、父権的連続・同一性構造にとってどういう関係にあったのかということである。結局、ルネサンスとは単にイタリアに限定された「思想」ではなくて、これは、いわば、コスモス的事件であったと考えられるのである。即ち、マイナス・エネルギーが、新たに発動して、人間の主体のエネルギー力学が変容したと考えられるのである。つまり、内在的に、即自的に、主体の変容が生じたのである。だから、この内在・即自的な、自我のマイナス・エネルギー化に対して、父権的連続・同一性自我構造は、反動化したということではないだろうか。自我主体エネルギー構造力学の問題なのである。換言すると、内在的に発生した差異・差異共振性に対して、父権的連続・同一性自我構造は、否定・抑圧・隠蔽するということなのである。そして、この歴史的結果が、プロテスタンティズムであり、近代的自我・近代合理主義であったと考えられるのである。つまり、これまで、述べてきた通り、近代的自我とは、反動であり、極言すれば、邪道・外道なのである。だから、近代科学も唯物論も、反動知性なのである。反動権力的知性なのである。
以上で、本件の補足説明としたい。
コメント
■聖霊コスモス教を提唱する
ポスト一神教、また、これまでの宗教の超克として、聖霊コスモス教を提唱する。これは、ユダヤ・キリスト・イスラム教の超克でもある。東西の宗教を超克し包摂するものである。
これは、D.H.ロレンスの宗教哲学でもある。
2006/08/12のBlog
[ 23:10 ]
[ ホワイトヘッド哲学 ]
今は、余裕がないので、すべてを引用できないが、この箇所は、まるで、不連続的差異論A Theory of Discontinuous Difference/プラトニック・シナジー理論New Platonic Synergy Theoryの論述を読んでいるようだ。原文では、p.39~p.42である。翻訳(みすず書房)では、第1巻p.57~p.61である。松籟社版では、第1巻p.65~p.70である。
不連続的差異論の三層構成を説明しているような箇所を引用するに留めたい。
The things which are temporal arise by their participation in the things which are eternal. The two sets are mediated by a thing which combines the actuality of what is temporal with the timelessness of what is potential. p. 40
「時間的である事物は、永遠的である事物にそれらが関与することで生じるのである。その二組のものは、時間的であるものの現実性を可能的であるものの超時間性に結合する事物によって仲介されている。」 p.58 平林康之訳 みすず書房
「時間的な事物は、永遠的な事物に関与することによって生ずる。これら二組は、時間的であるものの現実態を潜勢的であるものの無時間性と結びつけるある物によって媒介される。」 p.66 山本誠作訳 松籟社
以上の訳は、アリストテレス哲学の用語の訳が異なっている。次に仮の拙訳を記そう。
「時間的な事物は、永遠である事象に関与することによって、生起する。両者の組は、時間的であるものの実動性(エネルゲイア)と潜在的なもの(デュナミス)の無時間性(永遠性)を結びつけるものによって媒介されるのである。」
白頭庵氏が述べていたように、確かに、明晰な日本語にするのは、困難である。第一に、アリストテレス哲学の本質的な用語の訳が定まっていないことが、問題である。明らかに、ホワイトヘッドは、アリストテレスの用語を念頭に置いていると考えられるのである。
もっとも、不連続的差異論の用語で言うと、ずっと明晰になるだろう。即ち、
「現象界の事物は、イデア界への関与によって生起する。この二つの世界は、現象界の事物の差異と潜在的イデアの無時間性とを結合するメディア界によって媒介される。」
不連続的差異論の三層構成を説明しているような箇所を引用するに留めたい。
The things which are temporal arise by their participation in the things which are eternal. The two sets are mediated by a thing which combines the actuality of what is temporal with the timelessness of what is potential. p. 40
「時間的である事物は、永遠的である事物にそれらが関与することで生じるのである。その二組のものは、時間的であるものの現実性を可能的であるものの超時間性に結合する事物によって仲介されている。」 p.58 平林康之訳 みすず書房
「時間的な事物は、永遠的な事物に関与することによって生ずる。これら二組は、時間的であるものの現実態を潜勢的であるものの無時間性と結びつけるある物によって媒介される。」 p.66 山本誠作訳 松籟社
以上の訳は、アリストテレス哲学の用語の訳が異なっている。次に仮の拙訳を記そう。
「時間的な事物は、永遠である事象に関与することによって、生起する。両者の組は、時間的であるものの実動性(エネルゲイア)と潜在的なもの(デュナミス)の無時間性(永遠性)を結びつけるものによって媒介されるのである。」
白頭庵氏が述べていたように、確かに、明晰な日本語にするのは、困難である。第一に、アリストテレス哲学の本質的な用語の訳が定まっていないことが、問題である。明らかに、ホワイトヘッドは、アリストテレスの用語を念頭に置いていると考えられるのである。
もっとも、不連続的差異論の用語で言うと、ずっと明晰になるだろう。即ち、
「現象界の事物は、イデア界への関与によって生起する。この二つの世界は、現象界の事物の差異と潜在的イデアの無時間性とを結合するメディア界によって媒介される。」
