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2006/09/08のBlog
[ 00:31 ]
[ ポスト・日本/太陽国ルネサンス ]
《そもそもなぜ平成の御代に皇統断絶が懸念される事態になってしまったのか。男子の皇位継承権者が払底しているからだが、その理由は明白だ。占領時代にGHQの強圧によって十一の宮家が強制的に皇籍離脱させられたまま、こんにちに至っているためである。》『奪われる日本』関岡英之著 講談社現代新書 p.173
http://www.amazon.co.jp/%596a%308f%308c%308b%65e5%672c/dp/4061498533/sr=8-6/qid=1157642570/ref=sr_1_6/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway
_______________________________
紀子さま男児出産で典範改正見送りへ
紀子さまが出産された男子は、皇太子さま、秋篠宮さまに次ぐ皇位継承順位第3位になることから、女性、女系天皇を容認する皇室典範改正に向けた政府・与党内の議論は、一気にトーンダウンした。小泉純一郎首相(64)は6日夕、皇室典範改正について「これからの総理次第だがしばらく静かに見守った方がいい。改正を急ぐということではない」と述べた。次期首相最有力の安倍晋三官房長官(51)は改正慎重派で、この日「慎重、冷静に議論を進めていかなくてはならない。国民的な理解も必要」と強調。議論はさらに先送りされるのが確実だ。
皇室典範改正をめぐっては、小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が昨年11月、皇位継承を安定的に維持するため、「男系男子」に限った現行の継承資格を、女性とその子どもの「女系」皇族にも拡大することなどを盛り込んだ報告書をまとめた。小泉首相は今年1月の施政方針演説で皇室典範改正案を国会に提出すると明言したが、2月に紀子さまの懐妊が判明し、見送った。
ただ、社会全体で進む少子化と皇室も無縁ではなく、今後も「皇位継承(のため)の安定的な制度をどう考えるか」という課題は、依然残ったままだ。
◆皇位継承順位 現行の皇室典範は、皇位の継承資格を男系男子に限り、継承順位は、長男、長男の子孫、二男、二男の子孫、その他の息子の子孫の順とし、直系がないときは傍系に移り、天皇の兄弟、その子孫の順とし、それもないときはさらに傍系の伯父・叔父の系列に移るよう定めている。
[2006年9月7日7時17分 紙面から]
http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20060907-86435.html
画像は以下から。
http://www.amazon.co.jp/%596a%308f%308c%308b%65e5%672c/dp/4061498533/sr=8-6/qid=1157642570/ref=sr_1_6/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway
http://www.amazon.co.jp/%596a%308f%308c%308b%65e5%672c/dp/4061498533/sr=8-6/qid=1157642570/ref=sr_1_6/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway
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紀子さま男児出産で典範改正見送りへ
紀子さまが出産された男子は、皇太子さま、秋篠宮さまに次ぐ皇位継承順位第3位になることから、女性、女系天皇を容認する皇室典範改正に向けた政府・与党内の議論は、一気にトーンダウンした。小泉純一郎首相(64)は6日夕、皇室典範改正について「これからの総理次第だがしばらく静かに見守った方がいい。改正を急ぐということではない」と述べた。次期首相最有力の安倍晋三官房長官(51)は改正慎重派で、この日「慎重、冷静に議論を進めていかなくてはならない。国民的な理解も必要」と強調。議論はさらに先送りされるのが確実だ。
皇室典範改正をめぐっては、小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が昨年11月、皇位継承を安定的に維持するため、「男系男子」に限った現行の継承資格を、女性とその子どもの「女系」皇族にも拡大することなどを盛り込んだ報告書をまとめた。小泉首相は今年1月の施政方針演説で皇室典範改正案を国会に提出すると明言したが、2月に紀子さまの懐妊が判明し、見送った。
ただ、社会全体で進む少子化と皇室も無縁ではなく、今後も「皇位継承(のため)の安定的な制度をどう考えるか」という課題は、依然残ったままだ。
◆皇位継承順位 現行の皇室典範は、皇位の継承資格を男系男子に限り、継承順位は、長男、長男の子孫、二男、二男の子孫、その他の息子の子孫の順とし、直系がないときは傍系に移り、天皇の兄弟、その子孫の順とし、それもないときはさらに傍系の伯父・叔父の系列に移るよう定めている。
[2006年9月7日7時17分 紙面から]
http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20060907-86435.html
画像は以下から。
http://www.amazon.co.jp/%596a%308f%308c%308b%65e5%672c/dp/4061498533/sr=8-6/qid=1157642570/ref=sr_1_6/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway
2006/09/07のBlog
[ 09:06 ]
[ PLATONIC SYNERGY ]
以下の華厳経の説明やツィスター理論の説明は、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論(DD/PS理論、あるいは、略して、イデア・シナジー理論)にとって、興味深いものである。思うに、両者、イデア・シナジー理論に包摂できるように思うのである。
華厳経や仏教の縁起の観念であるが、それは、イデア・シナジー理論のメディア界・零度差異共振シナジー界にほぼ相当すると考えられるのであり、不連続的差異の共立するイデア界が抜けていると考えられるのである。つまり、縁起の観念は、差異共振界の観念と思えるのである。
また、ツィスター理論であるが、私はほとんど不明であるが、以下の説明によると、スピノールは、不連続的差異=原イデアproto-ideaの物質像ではないかと思えるのである。
参考:
http://www.okadaue.com/book/b63.htm
http://www.okadaue.com/book/b20.htm
スピノール(英語)
http://en.wikipedia.org/wiki/Spinor
量子力学
http://homepage2.nifty.com/eman/quantum/contents.html
____________________________________
現記(うつつのき)
2006/8/27 井筒俊彦と華厳経
「個」に対する記述が、あるいは、「個」の存在が、その関係性の中にしか存在し得ないことを、井筒俊彦は仏教思想を用いて上図のように紹介しています。これは、華厳哲学の「縁起」を図示したものですが、図中の「A」は他のB,C,D,・・・・全ての関係性の中にのみ存在し、「AとKの関係」も他の全てのものとの関係性の中にのみ存在しています。
(「事事無礙・理理無礙」『コスモスとアンチコスモス』(井筒俊彦)
この絵を見た時、感動しました。
この絵は秀逸です(Aとは左上の円形部分、Kとは右下の円形部分。見にくくなって恐縮です。)。
・・・
2006/8/27 ツイスター理論と華厳経 ****************************
7月2日の日記記事で、ウェイターの持つお皿に例えて「スピノール」のお話がありました。興味がありましたので色々検索しました中に、「ツィスター理論を目で見る」というのを見つけました。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1253/tuistor.html
現された「図」のほうがきれいで気をとられて、説明の方は難しくてさっぱり解りませんでしたが、何故これが宇宙すべての繋がりを表している「図」になるのでしょう。
この図一つ一つの集まりが、各々が繋がり存在している華厳経に示されているところの世界になるのでしょうか。
どの様にイメージすればよいのでしょう。
****************************
というご質問をいただきました。
ツイスター理論は、正直まだ、私自身理解が十分に及んでおりませんが、以下のようなお答えをして見ました。
****************************
ツイスター理論は、量子論と相対論をつなぐ、量子重力場理論の一つとして超ひも理論と並んで有望視されているようです。
スピノールのイメージは、ばね秤のばねや、ワインの栓抜きのイメージです。
螺旋です。
私たちを作っている電子は、このワインの栓抜き1つでできています。
そして、光子は、ワインの栓抜き2つでできているのです。
重力の元とされる重力子は、ワインの栓抜き4つでできています。
ツイスター理論を提唱したペンローズは、時間や空間もこのワインの栓抜きでできていると考えたようです。時空が究極的な根源的な存在ではなく、その時空も、さらに根源的なスピノールつまりワインの栓抜きでできていると考えたわけです。
・・・
http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page053.html
この摩天楼は幻なのか?
現代物理と仏教を考えるページ
~ファインマンの経路積分量子化と華厳経を中心に~
「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である。」
アルバート・アインシュタイン
http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/index.html
画像以下から。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:TodaijiDaibutsu0224.jpg
華厳経や仏教の縁起の観念であるが、それは、イデア・シナジー理論のメディア界・零度差異共振シナジー界にほぼ相当すると考えられるのであり、不連続的差異の共立するイデア界が抜けていると考えられるのである。つまり、縁起の観念は、差異共振界の観念と思えるのである。
また、ツィスター理論であるが、私はほとんど不明であるが、以下の説明によると、スピノールは、不連続的差異=原イデアproto-ideaの物質像ではないかと思えるのである。
参考:
http://www.okadaue.com/book/b63.htm
http://www.okadaue.com/book/b20.htm
スピノール(英語)
http://en.wikipedia.org/wiki/Spinor
量子力学
http://homepage2.nifty.com/eman/quantum/contents.html
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現記(うつつのき)
2006/8/27 井筒俊彦と華厳経
「個」に対する記述が、あるいは、「個」の存在が、その関係性の中にしか存在し得ないことを、井筒俊彦は仏教思想を用いて上図のように紹介しています。これは、華厳哲学の「縁起」を図示したものですが、図中の「A」は他のB,C,D,・・・・全ての関係性の中にのみ存在し、「AとKの関係」も他の全てのものとの関係性の中にのみ存在しています。
(「事事無礙・理理無礙」『コスモスとアンチコスモス』(井筒俊彦)
この絵を見た時、感動しました。
この絵は秀逸です(Aとは左上の円形部分、Kとは右下の円形部分。見にくくなって恐縮です。)。
・・・
2006/8/27 ツイスター理論と華厳経 ****************************
7月2日の日記記事で、ウェイターの持つお皿に例えて「スピノール」のお話がありました。興味がありましたので色々検索しました中に、「ツィスター理論を目で見る」というのを見つけました。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1253/tuistor.html
現された「図」のほうがきれいで気をとられて、説明の方は難しくてさっぱり解りませんでしたが、何故これが宇宙すべての繋がりを表している「図」になるのでしょう。
この図一つ一つの集まりが、各々が繋がり存在している華厳経に示されているところの世界になるのでしょうか。
どの様にイメージすればよいのでしょう。
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というご質問をいただきました。
ツイスター理論は、正直まだ、私自身理解が十分に及んでおりませんが、以下のようなお答えをして見ました。
****************************
ツイスター理論は、量子論と相対論をつなぐ、量子重力場理論の一つとして超ひも理論と並んで有望視されているようです。
スピノールのイメージは、ばね秤のばねや、ワインの栓抜きのイメージです。
螺旋です。
私たちを作っている電子は、このワインの栓抜き1つでできています。
そして、光子は、ワインの栓抜き2つでできているのです。
重力の元とされる重力子は、ワインの栓抜き4つでできています。
ツイスター理論を提唱したペンローズは、時間や空間もこのワインの栓抜きでできていると考えたようです。時空が究極的な根源的な存在ではなく、その時空も、さらに根源的なスピノールつまりワインの栓抜きでできていると考えたわけです。
・・・
http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page053.html
この摩天楼は幻なのか?
現代物理と仏教を考えるページ
~ファインマンの経路積分量子化と華厳経を中心に~
「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である。」
アルバート・アインシュタイン
http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/index.html
画像以下から。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:TodaijiDaibutsu0224.jpg
2006/09/06のBlog
[ 20:53 ]
[ 哲学 ]
今は、簡単に要点だけ述べるが、私が考えている「間(ま)」(以下、「間」)とは、イデア界と現象界との「間」、ないし、イデア界、メディア界、現象界、三者の「間」である。
なぜ、このようなことを言うのかと言えば、実際、生活している人間は、当然ながら、純粋に、イデア界ないしメディア界だけで、生きるわけにはいかないからである。理論的には、差異共振シナジーを中心にすべきであるが、実際生活する人間としては、現象界という環境に生きざるを得ないからである。だから、イデア界ないしメディア界のリアリティと同時に、現象界のリアリティの両面をもつことになるのである。この二つないし三つのリアリティが交差したところに、「間」が発生すると思うのである。
今、ふと考えたのであるが、「間」とは、メディア界の様相ではないだろうかということである。イデア界の「わたし」と現象界の「わたし」が存する。しかし、前者だけでは、生活できない。他者がいるからである。他者との共存を考えなくてならない。そうすると、「わたし」を差異共振的にしなくてはならない。ここにおいて、イデア界の「わたし」と現象界の「わたし」が「調和」することになると思うのである。この差異共振シナジー・調和が、「間」ではないかと思ったのである。
とまれ、要点は、2つの世界を同時に生きるという「実存」性をもつ人間存在は、イデア界極と現象界極という2つの極の間・中間を生きることになるのである。この間・中間が「間」である。イデア界と現象界との「間」に生きる存在としての人間である。そして、この「間」は、差異共振シナジー相になると思われるのである。
グローバル資本主義は、現象界経済であり、イデア界的根源を忘却していると思う。イデア界的根源を視野・地平に入れた時、「間」=差異共振シナジーの経済が考えられてくるだろう。「間」的経済である。これは、私がこれまで、何度か言及してきたルネサンス型資本主義に通じるものである。これは、現代で言えば、ポスト資本主義になるだろう。
では、「間」とは「資本」としては、どういうものだろうか。これは、いわば、マイナス資本ではないだろうか。では、それは、贈与なのだろうか。私の直観では、贈与は、「間」資本ではない。それは、プラス資本の一部である。思うに、「間」経済とは、精神経済である。精神の富を創造する経済であり、現象界経済とは異なるのである。現代の資本主義が、現象界経済ならば、「間」経済とは、イデア界から発する差異共振シナジー経済である。それは、精神経済である。精神資本経済である。
後で、再考したい。
p.s. 精神資本とは、いわば、不可視の資本である。計算できない資本である。つまり、精神という富の資本なのである。これは、いわば、高次の資本である。そう、高次資本であり、高次資本経済と言えよう。
p.p.s. 本文は、不整合な点がある。即ち、冒頭では、差異共振シナジーが理想であると言い、その後、それが、「間」であると述べているからだ。後で整理したい。
また、私の最初の直観・ヴィジョンを、直截に表現していないうらみがあるのであるから、再考したい。
3p.s. 私が最初に考えたのは、同一性自我=近代的自我の二項対立性的0か1の論理を、相対化するものとしての「間」である。そう、例えば、二項対立論理では、Aは、海であり、Bは山である。A≠Bである。だから、排中律で、AとBの間には、中間がない。Aは海であり、海以外のものではないのである。Aか又は、~A(非A)かのどちらかである。
しかし、「間」の哲学・論理では、Aと非Aの間にXがあるのである。わかりやすくするために、Aを「わたし」としよう。「わたし」と非「わたし」が現象界に存する。これは、正に、アイデンティティIDである。「わたし」は、Aであり、非Aではない。一義的に「わたし」が決まる。
しかし、「間」の哲学論理では、「わたし」はイデア界の「わたし」、特異性の「わたし」、絶対的差異としての「わたし」としても存するのであり、単に、現象界の「わたし」=Aではないのである。即ち、言わば、原「わたし」・原A(protoA)も存するのである。だから、結局、Aと非A以外に、原Aがあるということになり、二項対立論理が崩壊するのである。ということで、「間」とは、原AとA・非Aとの間(あいだ)にあるのだから、上述したように、イデア界と現象界のあいだにある。
では、問題は、この「間」とメディア界の関係である。これは、微妙である。思うに、前者は、デリダの脱構築理論に似たようなものだろう。極性の揺れ動きであるからだ。イデア界と現象界の極性間のゆらぎである。そう、私が最初の直観したのは、現象界の二項対立の論理に対する相対性としての「間」である。確かに、スタンスは、デリダの脱構築理論と似ている。しかし、相違を言えば、「間」の哲学は、イデア界と現象界との「間」の説くのであるが、デリダ哲学は、メディア界と現象界の「間」を説いていると考えられるのである。というのは、脱構築理論とは、差延の論理に基づくと考えられるが、それは、現象界の同一性論理に対するメディア界の対極性の論理による相対化を意味すると考えられるからである。換言すると、メディア/現象境界で思考しているということである。
さて、「間」とメディア界ないし差異共振シナジー相との関係である。これは、同じではない。というのは、後者は、即非の論理、「ターシャム・オルガヌム」になるからである。即ち、Aは、Aであり、且つ非Aであるという論理である。それに対して、「間」の論理は、原AとA≠非Aの間の論理である。とりあえず、間論理と呼んでおこう。同一性論理、即非論理とは異なる論理である。即非論理ならば、間論理とはなるが、その逆は成立しないだろう。
4p.s. 考えると、デリダ哲学は、禅や大乗仏教の論理に近いと言えよう。同一性論理を解体する差延の論理は、それ自身の同一性論理によって解体するというのは、真理は、言葉=同一性論理では、語れないということを意味するからである。とまれ、デリダ哲学は、「間」の論理の非実際的な極論として位置づけられるのではないだろうか。
さて、まとめると、結局、イデア界とメディア界と現象界の三者の間(あいだ)の「間」の論理があるということになるのではないだろうか。換言すると、原差異と共振差異と同一性の三つの相(様相)があり、この間(あいだ)に、流動的な論理、即ち、「間」の論理が生起していると言えるのだろう。だから、三相間論理と呼べるだろう。つまり、イデア界とメディア界と現象界とが、常に、合流している論理世界である。三つ巴の紋(ないし三輪)やボロメオの輪や三位一体を想起する。
画像以下から。
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Tomoe.jpg
参照:
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016731773.html
参考:
狂った資本主義の示す「寛大さ」
H18/08/17
欧州委員会は二〇〇四年三月に裁定を下した競争法違反に関する決定に従わなかったとして、マイクロソフトに制裁金を追徴すると発表した。これはマイクロソフトがパソコンの基本ソフトが独占に近い状態にあることを利用して技術を非公開で基本ソフトに機能を加え、ユーザーを自社製品に囲い込むというビジネスモデルが、ヨーロッパにおいてあらためて否定されたということだ。これに対して同社は欧州裁判所に提訴するという。
慈善活動に専念
マイクロソフトといえば会長のビル・ゲイツ氏が二〇〇八年には第一線から外れ、六年前に立ち上げた慈善団体の活動に専念すると発表している。フォーブス誌の二〇〇六年世界長者番付によるとゲイツ氏の個人資産は約五百億ドル(約五兆九千億円)、十二年連続世界一の富豪にランクされている。ゲイツ氏の次に金持ちで投資会社を経営するウォーレン・バフェット氏も、三百億ドル以上に相当する所有株式をゲイツ氏の慈善団体に寄付すると発表した。
ゲイツ氏の財団はこれまで発展途上国の子供たちにワクチン接種を支援するといった健康を目指す団体に三十二億ドル以上、米国の低所得地域の公立図書館にコンピューター、インターネットの接続、技術トレーニングを提供するといった教育や技術の事業に二十億ドル以上を寄付している。米国ではもっぱら美談として取り上げられているゲイツ氏の活動やバフェット氏の巨額の寄付が日本でどのように報道されているか分からない。しかし私から言わせてもらえばこれらは経営破綻した米エネルギー大手エンロンの創業者でケネス・レイ氏(不正会計行為で有罪判決を受け、量刑が言い渡されるのを待ちつつ心臓発作で先ごろ亡くなった)の行為と同じく、今の米国の象徴的な出来事にほかならないと思う。
5兆円の富築く
もちろん、ゲイツ氏らの富はエンロンと比べけた違いに大きく、欧州連合独禁法は別として、米国の法律を犯しているわけでもない。日本は死者にむち打つ文化ではないということで、すでに亡くなったエンロンのレイ氏をいまさら引き合いに出すのもはばかれるが、しかし彼のやり方は嘘をつき続けて赤字会社を米国七番目の大規模企業に見せかけ、財政基盤は安定していると信じ込ませて社員に退職金や年金を投じさせる一方で、自分は株を高値で売り抜け巨額の富を手にするという、最低の人間だった。
しかし同時に、ゲイツ氏やバフェット氏を尊敬すべき立派な経営者だと賞賛する気にはとてもなれない。違法行為はしていないというが、クリントン政権時代にはマイクロソフトは米司法省から独禁法違反で訴えられている(ブッシュ政権になって和解)。彼らがどんなに能力があり、長時間働いたとか、創造性があったと言っても、一人の人間が一生のうちに五兆円を稼ぎ出すことは不可能だ。少なくとも、正直でまっとうなことをしていたら。言い換えると、それが文字通り血のにじむ努力を払ったものであっても、その対価が五兆円になるべきではないと私は思う。
コンピューター・ソフトウエア業界の経営者として、また利用者として言えば、ゲイツ氏が五兆円もの富を築いたのは、すぐに陳腐化するバグのある製品を消費者に高い値で提供したか、社員に十分な給料を払わなかったからである。十二年間、世界の富豪としてランクされる間に、製品価格を大幅に下げるか、社員を昇給するという経営判断もできたはずだし、インドから開発拠点を米国に戻すことで米国人の雇用を増やす決断もできたはずであろう。
一般国民は貧困化
バフェット氏も同様である。彼が株式を所有する企業ではバフェット氏のような「株主」の圧力によって企業がリストラを押し進め、何千人もの社員が職を失い、その過程で多くの中流米国人が生活を維持できずに貧困化した。これは米国の『株主至上主義』の記録をみれば明らかである。
ゲイツ財団が米国の低所得地域の公立図書館にコンピューターを寄付しなければならないのは、本来税金によって国が行うべきこのプロジェクトが、富裕者層に大幅減税をしたために税収が不足して予算が大幅に削減されたためなのだ。そして富の大部分がゲイツ氏やバフェット氏といった、ごく少数の人々の手に独占されることなく、多くの勤労者が公正な所得を得ていれば、米国の教育予算がここまで削減されることもなかったのである。
フォーブス誌によると、米国人金持ちの上位四百人の所得は過去二十年間で三・五倍増え、八億ドルから二十八億ドルになったという。米国の一般国民はどうかといえば、真の所得はその間全く増加してはいない。バフェット氏ら富裕層の示す「寛大さ」は、美談ではなく米国の狂った資本主義から目をそらさせる事象の一つにすぎないと私は思う。
(アシスト代表取締役)
http://www.nnn.co.jp/dainichi/column/tisin/tisin0608.html#17
【 ビル・トッテン 】
日本初のパッケージ・ソフトウエア販売会社「アシスト」代表取締役。1941年米国カリフォルニア州ロングビーチ生まれ。69年、SDC社員として日本の市場調査のため初来日。同社退社後の72年に再来日、資本金100万円、社員7人でアシスト社設立、現在に至る。『アングロサクソンは人間を不幸にする』(PHP研究所)など著書多数。テレビ出演や講演なども精力的にこなす。60歳。
なぜ、このようなことを言うのかと言えば、実際、生活している人間は、当然ながら、純粋に、イデア界ないしメディア界だけで、生きるわけにはいかないからである。理論的には、差異共振シナジーを中心にすべきであるが、実際生活する人間としては、現象界という環境に生きざるを得ないからである。だから、イデア界ないしメディア界のリアリティと同時に、現象界のリアリティの両面をもつことになるのである。この二つないし三つのリアリティが交差したところに、「間」が発生すると思うのである。
今、ふと考えたのであるが、「間」とは、メディア界の様相ではないだろうかということである。イデア界の「わたし」と現象界の「わたし」が存する。しかし、前者だけでは、生活できない。他者がいるからである。他者との共存を考えなくてならない。そうすると、「わたし」を差異共振的にしなくてはならない。ここにおいて、イデア界の「わたし」と現象界の「わたし」が「調和」することになると思うのである。この差異共振シナジー・調和が、「間」ではないかと思ったのである。
とまれ、要点は、2つの世界を同時に生きるという「実存」性をもつ人間存在は、イデア界極と現象界極という2つの極の間・中間を生きることになるのである。この間・中間が「間」である。イデア界と現象界との「間」に生きる存在としての人間である。そして、この「間」は、差異共振シナジー相になると思われるのである。
グローバル資本主義は、現象界経済であり、イデア界的根源を忘却していると思う。イデア界的根源を視野・地平に入れた時、「間」=差異共振シナジーの経済が考えられてくるだろう。「間」的経済である。これは、私がこれまで、何度か言及してきたルネサンス型資本主義に通じるものである。これは、現代で言えば、ポスト資本主義になるだろう。
では、「間」とは「資本」としては、どういうものだろうか。これは、いわば、マイナス資本ではないだろうか。では、それは、贈与なのだろうか。私の直観では、贈与は、「間」資本ではない。それは、プラス資本の一部である。思うに、「間」経済とは、精神経済である。精神の富を創造する経済であり、現象界経済とは異なるのである。現代の資本主義が、現象界経済ならば、「間」経済とは、イデア界から発する差異共振シナジー経済である。それは、精神経済である。精神資本経済である。
後で、再考したい。
p.s. 精神資本とは、いわば、不可視の資本である。計算できない資本である。つまり、精神という富の資本なのである。これは、いわば、高次の資本である。そう、高次資本であり、高次資本経済と言えよう。
p.p.s. 本文は、不整合な点がある。即ち、冒頭では、差異共振シナジーが理想であると言い、その後、それが、「間」であると述べているからだ。後で整理したい。
また、私の最初の直観・ヴィジョンを、直截に表現していないうらみがあるのであるから、再考したい。
3p.s. 私が最初に考えたのは、同一性自我=近代的自我の二項対立性的0か1の論理を、相対化するものとしての「間」である。そう、例えば、二項対立論理では、Aは、海であり、Bは山である。A≠Bである。だから、排中律で、AとBの間には、中間がない。Aは海であり、海以外のものではないのである。Aか又は、~A(非A)かのどちらかである。
しかし、「間」の哲学・論理では、Aと非Aの間にXがあるのである。わかりやすくするために、Aを「わたし」としよう。「わたし」と非「わたし」が現象界に存する。これは、正に、アイデンティティIDである。「わたし」は、Aであり、非Aではない。一義的に「わたし」が決まる。
しかし、「間」の哲学論理では、「わたし」はイデア界の「わたし」、特異性の「わたし」、絶対的差異としての「わたし」としても存するのであり、単に、現象界の「わたし」=Aではないのである。即ち、言わば、原「わたし」・原A(protoA)も存するのである。だから、結局、Aと非A以外に、原Aがあるということになり、二項対立論理が崩壊するのである。ということで、「間」とは、原AとA・非Aとの間(あいだ)にあるのだから、上述したように、イデア界と現象界のあいだにある。
では、問題は、この「間」とメディア界の関係である。これは、微妙である。思うに、前者は、デリダの脱構築理論に似たようなものだろう。極性の揺れ動きであるからだ。イデア界と現象界の極性間のゆらぎである。そう、私が最初の直観したのは、現象界の二項対立の論理に対する相対性としての「間」である。確かに、スタンスは、デリダの脱構築理論と似ている。しかし、相違を言えば、「間」の哲学は、イデア界と現象界との「間」の説くのであるが、デリダ哲学は、メディア界と現象界の「間」を説いていると考えられるのである。というのは、脱構築理論とは、差延の論理に基づくと考えられるが、それは、現象界の同一性論理に対するメディア界の対極性の論理による相対化を意味すると考えられるからである。換言すると、メディア/現象境界で思考しているということである。
さて、「間」とメディア界ないし差異共振シナジー相との関係である。これは、同じではない。というのは、後者は、即非の論理、「ターシャム・オルガヌム」になるからである。即ち、Aは、Aであり、且つ非Aであるという論理である。それに対して、「間」の論理は、原AとA≠非Aの間の論理である。とりあえず、間論理と呼んでおこう。同一性論理、即非論理とは異なる論理である。即非論理ならば、間論理とはなるが、その逆は成立しないだろう。
4p.s. 考えると、デリダ哲学は、禅や大乗仏教の論理に近いと言えよう。同一性論理を解体する差延の論理は、それ自身の同一性論理によって解体するというのは、真理は、言葉=同一性論理では、語れないということを意味するからである。とまれ、デリダ哲学は、「間」の論理の非実際的な極論として位置づけられるのではないだろうか。
さて、まとめると、結局、イデア界とメディア界と現象界の三者の間(あいだ)の「間」の論理があるということになるのではないだろうか。換言すると、原差異と共振差異と同一性の三つの相(様相)があり、この間(あいだ)に、流動的な論理、即ち、「間」の論理が生起していると言えるのだろう。だから、三相間論理と呼べるだろう。つまり、イデア界とメディア界と現象界とが、常に、合流している論理世界である。三つ巴の紋(ないし三輪)やボロメオの輪や三位一体を想起する。
画像以下から。
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Tomoe.jpg
参照:
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016731773.html
参考:
狂った資本主義の示す「寛大さ」
H18/08/17
欧州委員会は二〇〇四年三月に裁定を下した競争法違反に関する決定に従わなかったとして、マイクロソフトに制裁金を追徴すると発表した。これはマイクロソフトがパソコンの基本ソフトが独占に近い状態にあることを利用して技術を非公開で基本ソフトに機能を加え、ユーザーを自社製品に囲い込むというビジネスモデルが、ヨーロッパにおいてあらためて否定されたということだ。これに対して同社は欧州裁判所に提訴するという。
慈善活動に専念
マイクロソフトといえば会長のビル・ゲイツ氏が二〇〇八年には第一線から外れ、六年前に立ち上げた慈善団体の活動に専念すると発表している。フォーブス誌の二〇〇六年世界長者番付によるとゲイツ氏の個人資産は約五百億ドル(約五兆九千億円)、十二年連続世界一の富豪にランクされている。ゲイツ氏の次に金持ちで投資会社を経営するウォーレン・バフェット氏も、三百億ドル以上に相当する所有株式をゲイツ氏の慈善団体に寄付すると発表した。
ゲイツ氏の財団はこれまで発展途上国の子供たちにワクチン接種を支援するといった健康を目指す団体に三十二億ドル以上、米国の低所得地域の公立図書館にコンピューター、インターネットの接続、技術トレーニングを提供するといった教育や技術の事業に二十億ドル以上を寄付している。米国ではもっぱら美談として取り上げられているゲイツ氏の活動やバフェット氏の巨額の寄付が日本でどのように報道されているか分からない。しかし私から言わせてもらえばこれらは経営破綻した米エネルギー大手エンロンの創業者でケネス・レイ氏(不正会計行為で有罪判決を受け、量刑が言い渡されるのを待ちつつ心臓発作で先ごろ亡くなった)の行為と同じく、今の米国の象徴的な出来事にほかならないと思う。
5兆円の富築く
もちろん、ゲイツ氏らの富はエンロンと比べけた違いに大きく、欧州連合独禁法は別として、米国の法律を犯しているわけでもない。日本は死者にむち打つ文化ではないということで、すでに亡くなったエンロンのレイ氏をいまさら引き合いに出すのもはばかれるが、しかし彼のやり方は嘘をつき続けて赤字会社を米国七番目の大規模企業に見せかけ、財政基盤は安定していると信じ込ませて社員に退職金や年金を投じさせる一方で、自分は株を高値で売り抜け巨額の富を手にするという、最低の人間だった。
しかし同時に、ゲイツ氏やバフェット氏を尊敬すべき立派な経営者だと賞賛する気にはとてもなれない。違法行為はしていないというが、クリントン政権時代にはマイクロソフトは米司法省から独禁法違反で訴えられている(ブッシュ政権になって和解)。彼らがどんなに能力があり、長時間働いたとか、創造性があったと言っても、一人の人間が一生のうちに五兆円を稼ぎ出すことは不可能だ。少なくとも、正直でまっとうなことをしていたら。言い換えると、それが文字通り血のにじむ努力を払ったものであっても、その対価が五兆円になるべきではないと私は思う。
コンピューター・ソフトウエア業界の経営者として、また利用者として言えば、ゲイツ氏が五兆円もの富を築いたのは、すぐに陳腐化するバグのある製品を消費者に高い値で提供したか、社員に十分な給料を払わなかったからである。十二年間、世界の富豪としてランクされる間に、製品価格を大幅に下げるか、社員を昇給するという経営判断もできたはずだし、インドから開発拠点を米国に戻すことで米国人の雇用を増やす決断もできたはずであろう。
一般国民は貧困化
バフェット氏も同様である。彼が株式を所有する企業ではバフェット氏のような「株主」の圧力によって企業がリストラを押し進め、何千人もの社員が職を失い、その過程で多くの中流米国人が生活を維持できずに貧困化した。これは米国の『株主至上主義』の記録をみれば明らかである。
ゲイツ財団が米国の低所得地域の公立図書館にコンピューターを寄付しなければならないのは、本来税金によって国が行うべきこのプロジェクトが、富裕者層に大幅減税をしたために税収が不足して予算が大幅に削減されたためなのだ。そして富の大部分がゲイツ氏やバフェット氏といった、ごく少数の人々の手に独占されることなく、多くの勤労者が公正な所得を得ていれば、米国の教育予算がここまで削減されることもなかったのである。
フォーブス誌によると、米国人金持ちの上位四百人の所得は過去二十年間で三・五倍増え、八億ドルから二十八億ドルになったという。米国の一般国民はどうかといえば、真の所得はその間全く増加してはいない。バフェット氏ら富裕層の示す「寛大さ」は、美談ではなく米国の狂った資本主義から目をそらさせる事象の一つにすぎないと私は思う。
(アシスト代表取締役)
http://www.nnn.co.jp/dainichi/column/tisin/tisin0608.html#17
【 ビル・トッテン 】
日本初のパッケージ・ソフトウエア販売会社「アシスト」代表取締役。1941年米国カリフォルニア州ロングビーチ生まれ。69年、SDC社員として日本の市場調査のため初来日。同社退社後の72年に再来日、資本金100万円、社員7人でアシスト社設立、現在に至る。『アングロサクソンは人間を不幸にする』(PHP研究所)など著書多数。テレビ出演や講演なども精力的にこなす。60歳。
[ 02:03 ]
[ 検討問題 ]
フロイトの「死の欲動」という概念は、晩年立てた仮説であり、それ以前の精神分析理論を解体するものであった。エロスより、タナトス(死の欲動)が、人間心身の基盤の欲動とされたのである。
今は、余裕がないので、簡単に考察すると、「死の欲動」とは、ほぼプラス・エネルギーと言っていいのではないだろうか。つまり、連続・同一性・二項対立自我志向性自体が、破壊的であるからである。もっとも、微妙な点がある。おそらく、プラス・エネルギーが主体であるが、それに対して、マイナス・エネルギーが賦活されるが、そのときに、反動態としてのプラス・エネルギーも死の欲動と呼ばれるように思われる。
考えると、マイナス・エネルギーとは、単独自我のエネルギーであり、同一性自我を解体するのである。この解体エネルギーは、自他破壊になるように思えるのである。
結局、フロイトの精神分析仮説は、不整合である。エロスとタナトスは、プラス・エネルギーという点で、同一なのである。
ここで、戦争について言えば、それは、プラス・エネルギーによるものであるが、今日のUSを見ていると、マイナス・エネルギーが入っているように思える。自他破壊的であるからである。
画像以下から。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Thanatos
参考:
2006.9.5(その1)
森田実の言わねばならぬ[320]
渡邉良明(政治学博士)さんの著書『J.F.ケネディvs二つの操り人形 小泉純一郎と中曽根康弘』は、抜群にすぐれた政治指導者論であり、全国民に読んでほしい魂のこもった著書である〈その1〉
「能ある鷹は爪を隠す」(日本の諺)
熊本市在住の政治学者・渡邉良明さんの新著『J.F.ケネディvs二つの操り人形』は、政治家に関するすぐれた研究書である。すごい本である。私は興奮しながら一気に読んだ。読了して浮かんだ言葉が、上記の諺である。渡邉氏は「能ある鷹」であると思った。
本書の最終頁にある[著者紹介]によると、渡邉さんは1949年熊本生まれ、熊本高校卒、学習院大学政治学科卒、東海大学大学院政治学研究科博士課程単位取得、アメリカ・ハワイ州立大学客員研究員(199395年)。長い間、東京都立高校、東海大学政経学部にて教鞭を執る。政治学博士(学習院大学大学院)。父の死後、母の介護のため帰郷。目下、研究および著作活動に専念。著書に『ゴルバチョフとケネディ』(創流出版、1999年)、『マハトマ・ガンディーの政治思想』(熊本出版文化会館、2002年)。論文に『「ナショナリズム」ならびに「非暴力主義」』(英文)に関する論文数篇あり。「今後は、近・現代の日本、および日本人研究を、より深化させていきたい」としている。
私は、かつて、学習院大学法学部政治学科で教鞭を執ったことがある。敗戦直後に清水幾太郎教授が始め、香山健一教授が継いだ「現代社会思想」の講義を担当した。私が教えた学習院大学政治学科の学生の先輩に、渡邉さんのような優秀な人がいたことは、驚きであり喜びである。清水幾太郎先生の最後の教え子だそうだが、1950年代から晩年にかけて、清水先生と親しくさせていただいたものとして、明るい気分になる。
第一章は〈私にとっての、理想的政治指導者たち〉。この中で、著者は“本物”と“贋物”の違いは、“不羈独立の精神”の持ち主か、それとも“操り人形”かにあるとしている(不羈〈ふき〉とは「束縛されない」の意)。
渡邉さんは、不羈独立の精神をもった理想の政治家としてゴルバチョフとケネディをあげる。これを超える政治指導者がマハートマー・ガンディーである。「日本の歴史上のガンディーに匹敵するほどの人は、多分、聖徳太子ぐらいのものであろう。むしろ“聖徳太子の精神の復活”こそ、現代日本の政治に求められるものかも知れない。それほどに、現代日本の政治は危機的状況にある」と述べている。鋭い指摘である。
“操り人形”政治家が、わが国の小泉純一郎首相と中曽根康弘元首相である。
この視点に立って、第二章〈世界を救ったJ.F.ケネディ〉、第三章〈ケネディを殺した、アメリカの中の「アメリカ」〉、第四章〈「日本空爆」の計画・実行者に、なぜ日本国の最高勲章を?〉、第五章〈操り人形(1)…小泉純一郎〉、第六章〈操り人形(2)…中曽根康弘〉、第七章〈中曽根を支えた人物たち(児玉誉士夫、瀬島龍三、正力松太郎、四元義隆)〉、第八章〈“本物”の政治指導者、石橋湛山〉、第九章〈吉田松陰の「祖国愛」〉、第十章〈「日本よ、核兵器を持つなかれ!」〉、むずびにかえて〈私にも、夢があります〉これが、本書の構成である。繰り返すが、すごい本である。
明快かつ大胆な、正義感あふれる政治家の人物論である。渡邉さんはきわめて優秀な洞察力の持ち主である。
著者によると、不羈独立の人であるケネディは、アメリカ軍部の世界戦争への野望を阻止し、平和を守るために努力し、世界を核戦争の危機から救ったが、しかしそれ故に「アメリカの中のアメリカ」によって殺されたのである。「アメリカの中のアメリカ」とは、アメリカのパワー・エリート、軍産複合体、寡頭勢力、ユダヤ、闇の世界権力、アメリカの「奥の院」、エスタブリッシュメントなどの呼び方で表されている。
著者は述べる。
《ケネディの死によって、アメリカ国民がなくしたものは、単に彼の肉体ではなく、むしろ「平和」という理想と人間的勇気、そして真の“政治哲学”だったのではなかろうか。》
著者はさらに、ケネディ暗殺後のアメリカの政治は、ケネディ暗殺の背後で動いた者たちによって支配されたこと、さらに、アメリカの本質が絶えず戦争を繰り返す「戦争中毒国」であることが明らかにしている。傾聴すべきアメリカ論である。
第四章〈「日本空爆」の計画・実行者に、なぜ日本国の最高勲章を?〉この人物は、ケネディと敵対して世界戦争を行おうとしたアメリカ空軍の将軍ルメイである。このルメイは、一夜にして10万人の無辜の東京市民が犠牲になった東京大空襲を計画・実行したアメリカ空軍の指導者だった。この人物に、日本政府は、1964年に勲一等旭日大授章を授けた。時の総理大臣は佐藤栄作。彼にルメイを推薦したのが源田実 (当時、参議院議員)と「安保男」との異名をとった時の防衛庁長官、小泉純也(小泉純一郎の父)である。
《彼らは、アメリカへの追随こそが「日本の進むべき道」だと考えた。…しかし、これを、「国辱(あるいは、国家の恥)」と言わずして、一体何と言おうか!》と著者は述べている。まことに著者の言うとおりである。【つづく】 http://www.pluto.dti.ne.jp/%7Emor97512/C02871.HTML
今は、余裕がないので、簡単に考察すると、「死の欲動」とは、ほぼプラス・エネルギーと言っていいのではないだろうか。つまり、連続・同一性・二項対立自我志向性自体が、破壊的であるからである。もっとも、微妙な点がある。おそらく、プラス・エネルギーが主体であるが、それに対して、マイナス・エネルギーが賦活されるが、そのときに、反動態としてのプラス・エネルギーも死の欲動と呼ばれるように思われる。
考えると、マイナス・エネルギーとは、単独自我のエネルギーであり、同一性自我を解体するのである。この解体エネルギーは、自他破壊になるように思えるのである。
結局、フロイトの精神分析仮説は、不整合である。エロスとタナトスは、プラス・エネルギーという点で、同一なのである。
ここで、戦争について言えば、それは、プラス・エネルギーによるものであるが、今日のUSを見ていると、マイナス・エネルギーが入っているように思える。自他破壊的であるからである。
画像以下から。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Thanatos
参考:
2006.9.5(その1)
森田実の言わねばならぬ[320]
渡邉良明(政治学博士)さんの著書『J.F.ケネディvs二つの操り人形 小泉純一郎と中曽根康弘』は、抜群にすぐれた政治指導者論であり、全国民に読んでほしい魂のこもった著書である〈その1〉
「能ある鷹は爪を隠す」(日本の諺)
熊本市在住の政治学者・渡邉良明さんの新著『J.F.ケネディvs二つの操り人形』は、政治家に関するすぐれた研究書である。すごい本である。私は興奮しながら一気に読んだ。読了して浮かんだ言葉が、上記の諺である。渡邉氏は「能ある鷹」であると思った。
本書の最終頁にある[著者紹介]によると、渡邉さんは1949年熊本生まれ、熊本高校卒、学習院大学政治学科卒、東海大学大学院政治学研究科博士課程単位取得、アメリカ・ハワイ州立大学客員研究員(199395年)。長い間、東京都立高校、東海大学政経学部にて教鞭を執る。政治学博士(学習院大学大学院)。父の死後、母の介護のため帰郷。目下、研究および著作活動に専念。著書に『ゴルバチョフとケネディ』(創流出版、1999年)、『マハトマ・ガンディーの政治思想』(熊本出版文化会館、2002年)。論文に『「ナショナリズム」ならびに「非暴力主義」』(英文)に関する論文数篇あり。「今後は、近・現代の日本、および日本人研究を、より深化させていきたい」としている。
私は、かつて、学習院大学法学部政治学科で教鞭を執ったことがある。敗戦直後に清水幾太郎教授が始め、香山健一教授が継いだ「現代社会思想」の講義を担当した。私が教えた学習院大学政治学科の学生の先輩に、渡邉さんのような優秀な人がいたことは、驚きであり喜びである。清水幾太郎先生の最後の教え子だそうだが、1950年代から晩年にかけて、清水先生と親しくさせていただいたものとして、明るい気分になる。
第一章は〈私にとっての、理想的政治指導者たち〉。この中で、著者は“本物”と“贋物”の違いは、“不羈独立の精神”の持ち主か、それとも“操り人形”かにあるとしている(不羈〈ふき〉とは「束縛されない」の意)。
渡邉さんは、不羈独立の精神をもった理想の政治家としてゴルバチョフとケネディをあげる。これを超える政治指導者がマハートマー・ガンディーである。「日本の歴史上のガンディーに匹敵するほどの人は、多分、聖徳太子ぐらいのものであろう。むしろ“聖徳太子の精神の復活”こそ、現代日本の政治に求められるものかも知れない。それほどに、現代日本の政治は危機的状況にある」と述べている。鋭い指摘である。
“操り人形”政治家が、わが国の小泉純一郎首相と中曽根康弘元首相である。
この視点に立って、第二章〈世界を救ったJ.F.ケネディ〉、第三章〈ケネディを殺した、アメリカの中の「アメリカ」〉、第四章〈「日本空爆」の計画・実行者に、なぜ日本国の最高勲章を?〉、第五章〈操り人形(1)…小泉純一郎〉、第六章〈操り人形(2)…中曽根康弘〉、第七章〈中曽根を支えた人物たち(児玉誉士夫、瀬島龍三、正力松太郎、四元義隆)〉、第八章〈“本物”の政治指導者、石橋湛山〉、第九章〈吉田松陰の「祖国愛」〉、第十章〈「日本よ、核兵器を持つなかれ!」〉、むずびにかえて〈私にも、夢があります〉これが、本書の構成である。繰り返すが、すごい本である。
明快かつ大胆な、正義感あふれる政治家の人物論である。渡邉さんはきわめて優秀な洞察力の持ち主である。
著者によると、不羈独立の人であるケネディは、アメリカ軍部の世界戦争への野望を阻止し、平和を守るために努力し、世界を核戦争の危機から救ったが、しかしそれ故に「アメリカの中のアメリカ」によって殺されたのである。「アメリカの中のアメリカ」とは、アメリカのパワー・エリート、軍産複合体、寡頭勢力、ユダヤ、闇の世界権力、アメリカの「奥の院」、エスタブリッシュメントなどの呼び方で表されている。
著者は述べる。
《ケネディの死によって、アメリカ国民がなくしたものは、単に彼の肉体ではなく、むしろ「平和」という理想と人間的勇気、そして真の“政治哲学”だったのではなかろうか。》
著者はさらに、ケネディ暗殺後のアメリカの政治は、ケネディ暗殺の背後で動いた者たちによって支配されたこと、さらに、アメリカの本質が絶えず戦争を繰り返す「戦争中毒国」であることが明らかにしている。傾聴すべきアメリカ論である。
第四章〈「日本空爆」の計画・実行者に、なぜ日本国の最高勲章を?〉この人物は、ケネディと敵対して世界戦争を行おうとしたアメリカ空軍の将軍ルメイである。このルメイは、一夜にして10万人の無辜の東京市民が犠牲になった東京大空襲を計画・実行したアメリカ空軍の指導者だった。この人物に、日本政府は、1964年に勲一等旭日大授章を授けた。時の総理大臣は佐藤栄作。彼にルメイを推薦したのが源田実 (当時、参議院議員)と「安保男」との異名をとった時の防衛庁長官、小泉純也(小泉純一郎の父)である。
《彼らは、アメリカへの追随こそが「日本の進むべき道」だと考えた。…しかし、これを、「国辱(あるいは、国家の恥)」と言わずして、一体何と言おうか!》と著者は述べている。まことに著者の言うとおりである。【つづく】 http://www.pluto.dti.ne.jp/%7Emor97512/C02871.HTML
2006/09/05のBlog
[ 15:27 ]
[ 検討問題 ]
後で検討したいが、現代は、コギトを隠蔽して、同一性自我で生きようとしている。問題は、資本主義と主体との関係である。
資本主義は、コギトと結びつく場合と、同一性自我と結びつく場合がある。前者が、ルネサンス型資本主義で、後者がプロテスタンティズム型資本主義ではないだろうか。
グローバリゼーションは、後者である。そして、今日、前者へと傾斜しているだろう。
資本主義は、コギトと結びつく場合と、同一性自我と結びつく場合がある。前者が、ルネサンス型資本主義で、後者がプロテスタンティズム型資本主義ではないだろうか。
グローバリゼーションは、後者である。そして、今日、前者へと傾斜しているだろう。
[ 08:02 ]
[ ポスト・ユダヤ/キリスト教文明 ]
これまでの議論から、プラス・エネルギーが、同一性=二項対立暴力自我を形成するということになった。これは、悪であるから、自然(=神)が悪の原因であることになる。思えば、グノーシス主義は、この宇宙は、邪悪な創造神デミウルゴスが創造したと考えているが、それは、限定的には、正しいだろう。そう、さらに、想起すると、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』で、善悪両面をもつアブラクサスという神(これも、グノーシス主義の考え方)が唱えられていた。
確かに、アブラクサスという両義神という考え方は、これまでの検討から見ると、的確、適切な考え方のように思える。しかし、私は、さらに、何故、「悪」を生む必要があるのかということを問題にしたい。確かに、プラス・エネルギーの必然によるが、その意味があるはずである。
この問題は、古代父権神話を哲学することから、解明されるだろう。父権神話以前に、母権・女神神話が、普遍的であった。母権・女神神話とは、プラトニック・シナジー理論(以下、イデア・シナジー論)から見ると、それは、零度差異共振シナジー界=メディア界(・メディア空間・メディア平面)に相当すると考えられる(現在の仮説であるが)。
しかし、自然=神(これは、メディア平面の神である。イデア界の神、言わば、元神、プロトゴッドは、どうなのだろうか。)は、その極性から、プラス・エネルギーを発現し、この母権・女神の世界を破壊したのである。もし、共振シナジー界が継続すれば、人間は、調和に満ちた平和の世界に生き続けたことだろう。思うに、聖書で説かれているエデンの園とは、この差異共振シナジー界の世界を指しているのだろうし、有り体に言えば、地上楽園は、存在していたのである。
本稿の問題に答える前に、この「エデンの園」の精神・社会様態を推察してみよう。考古学・人類学・美術史からわかるように、これは、文字以前の時代である。通常、文字の獲得を人間の知の発達のメルクマールとしているが、必ずしもそうではないだろう。確かに、文字言語によって、人間のある種の知性・知識は発達したことは確かであるが。文字以前の社会とは、イメージ・ヴィジョン・イマジネーションの精神社会世界だと推察される。そこでは、今日の現象界とはまったく質的に異なっていたと考えられるのである。簡単に言えば、万民芸術家の精神社会世界である。D.H.ロレンスが、古代イタリアのエトルリアの墓地の壁画にヴィジョン洞察したものが、そのようなものであろう。平和共存の世界である。絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったり、また、愉しい経済生活をしていただろう。これが、イデア・シナジーの「エデンの園」の世界である。
しかし、自然=神の必然から、野蛮な父権の社会が襲来する。インド・ヨーロッパ語族・アーリア民族が世界を侵略・蹂躙する、現代、USがアフガン、イラクに襲来したように。
もし、野蛮な戦争を生み出しただけなら、自然=神は断罪に値し、グノーシス主義は、まったく正しい教義となる。(p.s. 『カラマーゾフの兄弟』のイワンのアリョーシャへの言葉:なんの罪のない子どもの犠牲と神への懐疑:ドストエフスキーの宗教とは何であったのか。明らかに、グノーシス主義的な志向がある。しかし、また、微妙に、キリスト教、ロシア正教を信仰している。両極で、揺れ動いていると言えるだろう。思うに、プラトニック・シナジー理論から見ると、ドストエフスキーの宗教心は、差異共振シナジーを志向していると言えるだろう。つまり、ポスト・キリスト教である聖霊教を志向していたと言えるように思えるのである。参考:
http://www.geocities.co.jp/AnimalPark/2935/sonota/karamazof.html )
では、このおぞましい犠牲によって、どんなポジティブなことがもたらされたのか。ひとことで言えば、自我であろう。それも、同一性自我である。そして、これは、実は、悪魔なのである。つまり、人類は、人間は、悪魔になったのである。人間・人類の悪魔化、これが、生じたのである。ホモ・サピエンスのサピエンスとは、悪魔の知intellegentia diabolicaであったのである。だから、核爆弾を造ったのである。父権主義化とは、悪魔化であるとはっきり言えるのである。だから、現代、世界は、凄惨陰惨、おぞましく、悲劇的なのである。これを見据えなくてはならない。虚偽・欺瞞的なヒューマニズムや性善説は否定されなくてはならない。悪魔としての人間である。
とまれ、プラス・エネルギーによって、同一性・二項対立暴力自我が誕生したのである。これは、人類史において、まったく、新しい事態であったと言えよう。(そう、人類史が、連続史であるのかどうか疑問である。複数の不連続史であったと見た方が正しいように思うのである。)この同一性自我化とは、現象界的自我の誕生である。それまでは、メディア界的自我をもっていたのである。換言すると、コスモス的自我をもっていたのであるが、それが、衰退して、現象界的自我となったのである。おそらく、これは、一挙に生起した事態ではなくて、徐々に生起したことと考えられる。つまり、メディア界と現象界が平行して存在し、後者が前者を徐々に凌駕する世界を迎えたということである。そして、この決定的ポイントが、西洋における近代科学の誕生である。コペルニクス/ガリレオによる近代自然科学の誕生である。これで、メディア界=コスモスは完全に崩壊し、消失したのである。そして、それが、今日まで続くのである。
さて、この同一性自我・現象界自我のことであるが、そのポジティブな意味は、結局、物質主義、物質的知性・技術を生んだこと、これに尽きるだろう。Material Worldである。換言すると、メディア界・コスモスを否定した物質現象界の自我知性である。
では、なぜ、これが発生する必要があったのかである。これは、深遠な意味があるだろうが、思えば、これは、イデア界の絶対的差異のもつ絶対的自我と関係があるように思えるのである。フッサール現象学のノエシス/ノエマの純粋意識ないし原意識の問題である。思うに、この絶対的自我意識・純粋意識・原意識が、同一性自我の形成の基盤にあるように思えるのである。同一性自我は、デカルト哲学のコギト・エルゴ・スムと深く関係
確かに、アブラクサスという両義神という考え方は、これまでの検討から見ると、的確、適切な考え方のように思える。しかし、私は、さらに、何故、「悪」を生む必要があるのかということを問題にしたい。確かに、プラス・エネルギーの必然によるが、その意味があるはずである。
この問題は、古代父権神話を哲学することから、解明されるだろう。父権神話以前に、母権・女神神話が、普遍的であった。母権・女神神話とは、プラトニック・シナジー理論(以下、イデア・シナジー論)から見ると、それは、零度差異共振シナジー界=メディア界(・メディア空間・メディア平面)に相当すると考えられる(現在の仮説であるが)。
しかし、自然=神(これは、メディア平面の神である。イデア界の神、言わば、元神、プロトゴッドは、どうなのだろうか。)は、その極性から、プラス・エネルギーを発現し、この母権・女神の世界を破壊したのである。もし、共振シナジー界が継続すれば、人間は、調和に満ちた平和の世界に生き続けたことだろう。思うに、聖書で説かれているエデンの園とは、この差異共振シナジー界の世界を指しているのだろうし、有り体に言えば、地上楽園は、存在していたのである。
本稿の問題に答える前に、この「エデンの園」の精神・社会様態を推察してみよう。考古学・人類学・美術史からわかるように、これは、文字以前の時代である。通常、文字の獲得を人間の知の発達のメルクマールとしているが、必ずしもそうではないだろう。確かに、文字言語によって、人間のある種の知性・知識は発達したことは確かであるが。文字以前の社会とは、イメージ・ヴィジョン・イマジネーションの精神社会世界だと推察される。そこでは、今日の現象界とはまったく質的に異なっていたと考えられるのである。簡単に言えば、万民芸術家の精神社会世界である。D.H.ロレンスが、古代イタリアのエトルリアの墓地の壁画にヴィジョン洞察したものが、そのようなものであろう。平和共存の世界である。絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったり、また、愉しい経済生活をしていただろう。これが、イデア・シナジーの「エデンの園」の世界である。
しかし、自然=神の必然から、野蛮な父権の社会が襲来する。インド・ヨーロッパ語族・アーリア民族が世界を侵略・蹂躙する、現代、USがアフガン、イラクに襲来したように。
もし、野蛮な戦争を生み出しただけなら、自然=神は断罪に値し、グノーシス主義は、まったく正しい教義となる。(p.s. 『カラマーゾフの兄弟』のイワンのアリョーシャへの言葉:なんの罪のない子どもの犠牲と神への懐疑:ドストエフスキーの宗教とは何であったのか。明らかに、グノーシス主義的な志向がある。しかし、また、微妙に、キリスト教、ロシア正教を信仰している。両極で、揺れ動いていると言えるだろう。思うに、プラトニック・シナジー理論から見ると、ドストエフスキーの宗教心は、差異共振シナジーを志向していると言えるだろう。つまり、ポスト・キリスト教である聖霊教を志向していたと言えるように思えるのである。参考:
http://www.geocities.co.jp/AnimalPark/2935/sonota/karamazof.html )
では、このおぞましい犠牲によって、どんなポジティブなことがもたらされたのか。ひとことで言えば、自我であろう。それも、同一性自我である。そして、これは、実は、悪魔なのである。つまり、人類は、人間は、悪魔になったのである。人間・人類の悪魔化、これが、生じたのである。ホモ・サピエンスのサピエンスとは、悪魔の知intellegentia diabolicaであったのである。だから、核爆弾を造ったのである。父権主義化とは、悪魔化であるとはっきり言えるのである。だから、現代、世界は、凄惨陰惨、おぞましく、悲劇的なのである。これを見据えなくてはならない。虚偽・欺瞞的なヒューマニズムや性善説は否定されなくてはならない。悪魔としての人間である。
とまれ、プラス・エネルギーによって、同一性・二項対立暴力自我が誕生したのである。これは、人類史において、まったく、新しい事態であったと言えよう。(そう、人類史が、連続史であるのかどうか疑問である。複数の不連続史であったと見た方が正しいように思うのである。)この同一性自我化とは、現象界的自我の誕生である。それまでは、メディア界的自我をもっていたのである。換言すると、コスモス的自我をもっていたのであるが、それが、衰退して、現象界的自我となったのである。おそらく、これは、一挙に生起した事態ではなくて、徐々に生起したことと考えられる。つまり、メディア界と現象界が平行して存在し、後者が前者を徐々に凌駕する世界を迎えたということである。そして、この決定的ポイントが、西洋における近代科学の誕生である。コペルニクス/ガリレオによる近代自然科学の誕生である。これで、メディア界=コスモスは完全に崩壊し、消失したのである。そして、それが、今日まで続くのである。
さて、この同一性自我・現象界自我のことであるが、そのポジティブな意味は、結局、物質主義、物質的知性・技術を生んだこと、これに尽きるだろう。Material Worldである。換言すると、メディア界・コスモスを否定した物質現象界の自我知性である。
では、なぜ、これが発生する必要があったのかである。これは、深遠な意味があるだろうが、思えば、これは、イデア界の絶対的差異のもつ絶対的自我と関係があるように思えるのである。フッサール現象学のノエシス/ノエマの純粋意識ないし原意識の問題である。思うに、この絶対的自我意識・純粋意識・原意識が、同一性自我の形成の基盤にあるように思えるのである。同一性自我は、デカルト哲学のコギト・エルゴ・スムと深く関係
