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不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論入門講座
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2006/09/09のBlog
「初めに言葉ありき」とは、あまりに有名なヨハネの福音書の冒頭の言である。しかし、何度も既述したが、原語のギリシア語では、「初めにロゴス(ο λογος) ありき」なのである。「言葉」と「ロゴス」は、一般に、同じものを意味していると考えられている。しかし、誰が見ても、両者、異なるのである。
 英語の欽定聖書やドイツ語のルター訳聖書では、「言葉」と訳(誤訳)されているのである。近代主義とは、精神的には、ここから発したと言ってもいいくらいだと思われるのである。
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Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
English: King James Version
German: Luther (1545)
English: New Revised Standard Version


John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.


2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον

The same was in the beginning with God.

Dasselbige war im Anfang bei Gott.

He was in the beginning with God.


3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν

All things were made by him; and without him was not any thing made that was made.

Alle Dinge sind durch dasselbige gemacht, und ohne dasselbige ist nichts gemacht, was gemacht ist.

All things came into being through him, and without him not one thing came into being. What has come into being.


次は仏語版である。

Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
French: Louis Segond (1910)
French Jerusalem Bible
French: Darby


John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος

Au commencement était la Parole, et la Parole était avec Dieu, et la Parole était Dieu.

Au commencement était le Verbe et le Verbe était avec Dieu et le Verbe était Dieu.

¶ Au commencement était la Parole; et la Parole était auprès de Dieu; et la Parole était Dieu.


2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον

Elle était au commencement avec Dieu.

Il était au commencement avec Dieu.

Elle était au commencement auprès de Dieu.


3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν

Toutes choses ont été faites par elle, et rien de ce qui a été fait n'a été fait sans elle.

Tout fut par lui, et sans lui rien ne fut.

Toutes choses furent faites par elle, et sans elle pas une seule chose ne fut faite de ce qui a été fait.

The Unbound Bible
http://unbound.biola.edu/

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 問題は、連続・同一性自我と言葉・言語の関係である。これまで、既述したように、同一性と言葉・言語とが、いわば、一致・一体化するのである。つまり、同一性自我・近代的自我と言葉・言語とが、結合するのである。この結果生起する同一性言語自我・近代的言語自我(ラカンの象徴界は、言語自我界であり、ここと一致するだろう。)は、差異を否定・排除・隠蔽する様相となっているのである。ここで、差異とは、メディア界・差異共振シナジー相・心身性・精神である。 
 結局、近代合理主義・近代的自我・同一性言語自我とは、差異を排除して成立しているものである。そう、近代的自我とは、言語と結合することで、強固な内在超越論的連続・同一性構造を形成していると言えるだろう。換言すると、プラス・エネルギーと言語とが結合しているのである。この近代的同一性言語は、差別的な言語であり、主体の差異・他者と同時に、外的な差異・他者を差別・排除するのである。思うに、ナショナリズムや宗教はここと結びついているので、暴力・攻撃的に排外的なのである。(参照:石原都知事、小泉首相、等々、国粋主義的ナショナリズムの面々)
 とまれ、言語と一体化している近代的同一性自我についてであるが、それは、独断・独善的自我中心主義である。「自己中」である。自己盲目であり、妄想・妄念・妄言的である、小泉首相のように。
 そう、先に述べたように、内部環境がプラス・エネルギーの場合は、これが、能動的であったと言えようが、今日のような「ポストモダン」状況では、マイナス・エネルギーが賦活・活性化されていると考えられるので、この近代的同一性言語自我は、反動狂気様態になっているのである。
 では、言語と差異との関係を見る必要がある。明らかに、差異は、言語ではない。あえて言えば、差異とはロゴスである。「理」である。ただし、近代合理主義の「理」ではなく、メディア界・差異共振シナジー界の「理」である。これは、心身・精神的「理」である。だから、言語は、これを、直截に把捉できないのである。言語の他者としての差異なのである。だから、ヨハネの福音書の冒頭の「ロゴス」=「理」を、「言葉」・「言語」と訳すのは誤訳であることが、これで証明されたと言えよう。ロゴスと言葉は、まったく別のものであり、メディア界・メディア平面・差異共振シナジー界の「ロゴス」=「理」と、現象界の同一性形式である言語との混同が、西欧近代において形成・確立されたと言えよう。そして、極論すれば、その結果、主体意識において、内在超越意識が喪失されて、現象界中心主義(=唯物論)になったとも言えよう。(この内在超越界の取り戻しは、芸術では、ロマン主義以降の運動、そして、哲学では、スピノザ、カント、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他によって為された。また、日本では、西田幾多郎や鈴木大拙によって為されたと言えよう。私としては、在野の根井康之氏を含めたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10001141893.html
http://shop.ruralnet.or.jp/search_result.php?mode=detail&id=011706&b_no=01_454083021X

 結局、現代において、言語と差異とが矛盾する事態となっているのである。私は、以前、ポストモダンとは、言語からのズレのことを意味するのだと、戯れに、仲間に言ったものである。そう、このズレが、心身・精神性なのである。そして、これを、さらに、不連続化して、差異共振シナジー相の純粋なメディア界・メディア平面が発生しうるのである。
 問題は、どうやって、このズレを気づきさせるのか。ここに大きなポイントがあると言えよう。差異をどうやって、気づきさせるのか。これが、わかれば、精神意識革命が生起するのである。「こころ」と言われているものは、まだ、連続観念をもっているので、危険だと思う。ズレを不連続的単独化する必要があるのである。「犀の角のように唯独り歩め」。そして、このズレの心身性を、不連続化し、また、スピノザの能動的観念化する必要があると思うのである。つまり、差異・心身性という言語からのズレを不連続且つ能動的観念化すること、これで、不連続的差異論精神意識革命が発生するはずである。つまり、不連続的差異的能動的観念論である。これで、心身は、自我は、イデア界に達して、純粋メディア界・差異共振界を形成するのである。
 また、問題は、どうやって、言語とのズレ・差異を発生させるのかということがある。ここにすぐれた芸術の役割があるだろう。すぐれた芸術は、心身・精神・差異を賦活させるのである。バッハ芸術、シューベルト芸術、トルストイ芸術、芭蕉芸術、セザンヌ芸術、D.H.ロレンス芸術、等々である。また、すぐれた哲学もそうである。スピノザ哲学、ニーチェ哲学、フッサール哲学、ウスペンスキー哲学、仏教を含めた東洋哲学、他。精神的点火をもたらす芸術・哲学・思想・宗教が、すべてである。
 また、自然との単独的触れ合いが重要である。自然は、言語とのズレ・差異を、永遠に喚起するだろうから。

p.s. 私は、差異は、言語ではなく、ロゴスであると上述したが、考えると、これは、いささか大胆な、意表を突くような発言と言えよう。デリダは、ロゴス中心主義を批判する脱構築理論を唱えたのであるが、私の視点から見ると、デリダの批判するロゴスとは、まさに、言葉・言語のことであり、本来のロゴス=理ではないのである。やはり、冒頭に述べたように、西欧は、ロゴスと言語を混同しているのである。デリダは、近代西欧の言語中心主義批判を志向したと考えるべきである。そう考えれば、ポスト言語中心主義としての、ロゴスが新生するのがわかったはずであり、それが、本当の、ポスト・モダニズム、ポスト構造主義となったと考えられるのである。


画像以下から。
http://it.wikipedia.org/wiki/Immagine:Simbolo_dell%27evangelista_Giovanni.jpg
2006/09/08のBlog
森田実氏のサイトに掲載された

「徳は事業の基なり」(洪応明『菜根譚』)
http://www.pluto.dti.ne.jp/%7Emor97512/C02879.HTML

という言葉にピンと来た。

私は、差異共振シナジー経済を唱えているが、これは、結局、精神=「徳」がベースになる経済である。一見、現実離れしているようだが、これこそ、世界を平和共存の世界に創造変容させるものと考えている。

 これまで、あまりに、近代合理主義・唯物論に「洗脳・マインドコントロール」されて、真理が見えなかったのである。プラトニック・シナジー理論から見ると、精神をベースにした「物質」的交換(経済)=市場経済は可能であるし、それが、精神平和経済の世界を創造すると考えられるのである。


唯物論的資本主義


から


プラトニック・シナジー精神平和市場経済へ


参考:『菜根譚』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061587420
http://members.at.infoseek.co.jp/mangiku/index-20.html
http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/saikon/saikon_d.htm

画像以下から。
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000003953301&Action_id=121&Sza_id=B0
[ 13:54 ] [ ポスト近代的自我/ポスト唯物論 ]
近代的自我が狂気であるという命題(テーゼ)は、内在的環境が、マイナス・エネルギーになったとき、証明されると考えられるのである。つまり、これまで、何度も述べたが、プラス・エネルギーの時は、連続・同一性が形成されて、差異を否定・排除・隠蔽するように作動する。二項対立暴力である。しかし、ここには、暴力はあるが、狂気はない。攻撃はあるが、狂信性はない。これは、純粋な同一性暴力である。
 しかし、内部環境が、マイナス・エネルギーに変換すると、同一性自我は、反動化して、狂気化すると考えられるのである。この点について、ここで、明確に確認しておきたい。
 マイナス・エネルギー化とは、脱連続・同一性作用である。即ち、不連続的差異への回帰作用である。これは、当然ながら、プラス・エネルギーの作用とはまったく逆作用である。簡単に言えば、差異化である。プラス・エネルギーにおいて、差異を否定する同一性自体は、能動的であった。これは、いわば、わんぱく小僧のいたずら行為のようなものである。しかるに、マイナス・エネルギー内部環境状態では、否定・排除・隠蔽した差異が再出現するのである。それまで、同一性の「光」であった主体の内部に差異の「闇」が発現する事象になるのである。この発現した差異の「闇」に対して、同一性の「光」は、当然ながら、攻撃を加えて、以前のように、否定・排除・隠蔽しようとするのである。しかし、内部環境が一変しているのである。プラス・エネルギーの環境では、同一性が差異を否定する行為は、能動的であり、必然である。しかし、マイナス・エネルギー環境では、それは、反動であり、いわば、慣性である。つまり、差異が強化される事象となるので、差異を否定する行為は、反動で、不必要である。しかし、同一性自我(近代的自我)は、同一性という必然から、差異を、いわば、抑圧しようとするのである。ここに、病理が発生すると考えられるのである。つまり、再発生した差異に対して、同一性自我は、以前のように、否定・排除・隠蔽することは、不可能になっているのである。否定しても、否定しきれないのである。余剰が発現するのである。これが、反動エネルギーである。同一性自我による否定に対して、差異の反動エネルギーが上回るのである。これが、病理、即ち、狂気なのである。同一性により否定された差異の反動エネルギーが、狂気・傲慢・凶暴さと転化するのである。これは、精神病である。「分裂症」である。これが、現代の病理の特徴の一つであると考えられる(p.s. ラカンは、精神病の原因をファルスの排除と見ているが、ファルスではなくて、差異の排除である)。他の一つは、うつ病であり、これは、差異共振性という精神が、悲観の状態であり、能動化されていない様態と考えられるだろう。「分裂症」とことなり、差異は否定されているのではなくて、悲観化された差異のエネルギーが同一性自我にネガティブにはたらきかけて、落ち込みの状態になると考えられよう。

画像以下から。
http://en.wikipedia.org/wiki/Moon
近代主義(批判)と民主主義の関係が、本質的に重要な問題となるだろう。言い換えると、近代的自我・近代合理主義と民主主義の関係である。これは、実に根源的な問題である。つまり、有り体に言えば、前者は、エゴイズム・自己中心主義・利己主義であるのに対して、後者は、個人主義・共存主義・精神主義である。極言すれば、正反対と言っていいのである。これは、大変な問題だろう。両者は、近代主義に括られるのが、これは、理論的に支離滅裂である。民主主義の平等原理とは、個人に平等の権利を認めるということである。これは、個人主義をベースにしていると言えるだろう。しかし、問題点は、先に、民主主義批判をしたが、同一性原理にあると言えよう。平等が曲者なのである。つまり、民主主義の平等主義とは、形式的には、同一性形式であるが、内容的には、個人・差異主義であることである。つまり、民主主義は、同一性と差異との一種妥協であると言えるだろう。
 積極的に理解すれば、平等とは、個人が特異性としては、平等であると言えるだろう。Aさん、Bさん、Cさん、等々は、特異性としては、平等である。つまり、不連続的差異論/イデア・シナジー理論から見ると、イデア界的存在としては、各特異性は平等である。ただ、現象界的平等とは、同一性となり、近代的自我・近代合理主義と結合するのである。つまり、民主主義概念とは、同一性と差異との、正に、中間的概念と言えよう。そう、同一性と差異との折衷なのである。これは、換言すると、ルネサンスとプロテスタンティズムの二つの近代の問題とつながるのである。前者は、差異主義であり、後者は、その反動的同一性であるからである。民主主義は、だから、ルネサンスとプロテスタンティズムの二重性をもっているということができるのである。この二重性が、キーポイントである。これまで、民主主義は、この点を識別・弁別しないできたと言えよう。そして、近代的自我・近代合理主義の発展は、民主主義の同一性の側面を強化して、差異性を喪失してきたと言えよう。その典型が、USのイデオロギーの民主主義であろうし、日本の同一性の民主主義である。
 不連続的差異論の観点からは、当然、同一性民主主義の超克、そして、差異民主主義の提唱ということになるだろう。近代的自我・近代合理主義の狂気・傲慢とは、同一性民主主義と結びついているのである。ルサンチマンである。憎悪・侮蔑・傲慢である。

尚、以上は、以下の後記を独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016769439.html

画像は以下から。
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Sanzio_01.jpg
これまで、近代的自我批判を徹底して行い、その構造の問題点をあげて、批判解明したと考えている。
 これは、簡単に言えば、アメリカ化である。そして、世界全体がそうなっている。問題点は、近代的自我・近代的合理主義は、ほとんど唯物論であることである。いくら、なんらかの宗教や道徳を信条としても、そうなのである。これは、どういうことなのだろうか。
 これは、不連続的差異論が解明したところによれば、自我連続性によると言えるだろう。連続・同一性自我=近代的自我は、本質的に、唯物論となると言えよう。つまり、連続・同一性形式が物質形式なのであるからそうなると言えよう。ここでは、差異共振性=精神性が否定・排除されるのである。ここでは、他者の蹂躙が日常茶飯事である。他者・差異否定が恒常的なのである。ここでは、暴力が蔓延して、安らぎがないのである。ホッブズの世界である。
 この近代的自我・唯物論の世界を、いちはやく、シェイクスピアは、悲劇に描き出している。とりわけ、『リア王』である。リア王の長女・次女、そして、エドマンドが、近代的自我・唯物論者である。そして、多くの天才的作家や哲学者等が、この近代という悪魔性を問題にしたのである。しかし、結局、前者が、勝利してしまったのである。悪の勝利、これが、現代の意味である。
 これは、確かに、人類の終末というに相応しい事態であろう。人類の終焉である。
 そして、私見では、新たな進化が起こるのである。ポスト人類的存在、超人類的存在が、創造されるのである。
 問題は、どうしたら、この進化を促進・実現させていくことができるのかである。現代は、退化する人類と進化するポスト人類の戦いであるが、どうやって、後者を進展させることができるのか。天変地異? 大洪水? 地磁気の変化? その可能性はあるとは思うが、私は認識的変容の方法を考えたい。イデア・シナジー理論は、そのようなものであるが、ここでは、近代化の意味を再確認したい。
 おそらく、生の意味が根本的に変容したのである。自我の生命や存在が重要になったのである。私見では、近代以前は、メディア界的道徳性が作動していたが、これが、近代的自我主義によって、喪失したのである。近代的自我・近代合理主義革命があったのである。これは、人類史における巨大な革命であったと言えよう。それまで、自我以外のものに価値観があったが、それが無くなって、自我が価値基準となったのである。やはり、デカルト哲学の問題である。コギトの問題である。
 プラス・エネルギーが同一性・二項対立自我を生んだ。しかし、私の疑問は、そのように機械的に精神性を排除する同一性・近代的自我が形成されるものなのかということである。そう考えると、また、以前の議論に戻って、高貴な差異(微差異)と劣弱な差異(粗差異)の相違の問題となる。シェイクスピア悲劇は、前者が知的劣化して、後者の知的優勢の下に、前者が貶められることに存するのである。ここでの知性とは、当然、近代合理主義知性、唯物的知性、現象界的知性である。
 ここで、もう一度、ルネサンスを考えよう。これは、差異が根源であると私が考えている。つまり、本来、ルネサンス的「近代」とは、イデア界から発動・発現しているのである。しかし、これが、同一性的反動を受けて、近代的自我となるのである。そう、ちょうど、ヤハウェのような事態がここにはあるのである。つまり、ルネサンスからプロテスタンティズムへの反動的移行のことである。
 では、イタリア・ルネサンスの場合、どうして、反動化しなかったのか。一つ言えるのは、イタリア文化には、高貴な差異が存していたということだと思う。イデア界的発動と高貴な差異の存在、これが、イタリア・ルネサンスを生んだと考えられるのである。それに対して、劣弱な差異が存在して、プロテスタンティズム的反動同一性自我が形成されたと考えられるのである。地理・文化的には、南と北の違いである。
 ここで、想起するのは、イギリスの作家D.H.ロレンスが、イタリアを好み、イタリアの先住民であったエトルリア人の文化について書いたことである(『エトルリアの故地』)。私見では、エトルリア人は、ほとんど、東洋的精神をもった民族である。アジア的精神をもった民族である。そのようなエトルリア人を古代ローマ人は征服したのである。どうも、これが、ルネサンスとプロテスタンティズムとの関係と少し似ているように思えるのである。ジェンダー論的に言えば、母権文化と父権文化の闘争である。そして、後者が勝利してしまったのである。
 これは、イデア・シナジー論から言うと、零度共振性とプラス・エネルギーとの闘争である。そして、力学的に、後者が支配した。そして、現代に帰結したのである。しかし、先に、何度も既述したように、現代は、マイナス・エネルギーが賦活されていると考えられるのであり、それが、同一性自我・近代的自我に作用して、後者は反動狂気の様態になっていると考えられるということである。そう、私が、近代的自我の狂気を糾弾しているが、それは、実は、反動化された近代的自我、反動狂気化した近代的自我と見るべきなのである。ということは、黎明は近いのである。日本、世界は、漆黒の闇にあるが、この悲劇的闇を超えれば、光明が訪れるのである。狂気・悪魔は自滅するのである。

Darkness will turn into Light.

p.s. 近代主義(批判)と民主主義の関係が、本質的に重要な問題となるだろう。言い換えると、近代的自我・近代合理主義と民主主義の関係である。これは、実に根源的な問題である。つまり、有り体に言えば、前者は、エゴイズム・自己中心主義・利己主義であるのに対して、後者は、個人主義・共存主義・精神主義である。極言すれば、正反対と言っていいのである。これは、大変な問題だろう。両者は、近代主義に括られるのが、これは、理論的に支離滅裂である。民主主義の平等原理とは、個人に平等の権利を認めるということである。これは、個人主義をベースにしていると言えるだろう。しかし、問題点は、先に、民主主義批判をしたが、同一性原理にあると言えよう。平等が曲者なのである。つまり、民主主義の平等主義とは、形式的には、同一性形式であるが、内容的には、個人・差異主義であることである。つまり、民主主義は、同一性と差異との一種妥協であると言えるだろう。
 積極的に理解すれば、平等とは、個人が特異性としては、平等であると言えるだろう。Aさん、Bさん、Cさん、等々は、特異性としては、平等である。つまり、不連続的差異論/イデア・シナジー理論から見ると、イデア界的存在としては、各特異性は平等である。ただ、現象界的平等とは、同一性となり、近代的自我・近代合理主義と結合するのである。つまり、民主主義概念とは、同一性と差異との、正に、中間的概念と言えよう。そう、同一性と差異との折衷なのである。これは、換言すると、ルネサンスとプロテスタンティズムの二つの近代の問題とつながるのである。前者は、差異主義であり、後者は、その反動的同一性であるからである。民主主義は、だから、ルネサンスとプロテスタンティズムの二重性をもっているということができるのである。この二重性が、キーポイントである。これまで、民主主義は、この点を識別・弁別しないできたと言えよう。そして、近代的自我・近代合理主義の発展は、民主主義の同一性の側面を強化して、差異性を喪失してきたと言えよう。その典型が、USのイデオロギーの民主主義であろうし、日本の同一性の民主主義である。
 不連続的差異論の観点からは、当然、同一性民主主義の超克、そして、差異民主主義の提唱ということになるだろう。近代的自我・近代合理主義の狂気・傲慢とは、同一性民主主義と結びついているのである。ルサンチマンである。憎悪・侮蔑・傲慢である。

画像は以下から。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Image:Roi_Lear.jpg

コメント
■認識的変容方法とは。

本文の問いに明確には、答えてはいないが、示唆されてはいる。即ち、現代、賦活されているマイナス・エネルギーによる差異共振シナジー性を涵養すべきであるということになるだろう。頭ではなくて、心身にある精神性を養成するのである。精神と知性との統一の取れた主体を形成することである。このとき、スピノザの『エチカ』がキーポイントとなるだろう。能動的観念である。
 そして、さらに、不連続的差異論が、ブレークスルーを喚起するだろう。
《そもそもなぜ平成の御代に皇統断絶が懸念される事態になってしまったのか。男子の皇位継承権者が払底しているからだが、その理由は明白だ。占領時代にGHQの強圧によって十一の宮家が強制的に皇籍離脱させられたまま、こんにちに至っているためである。》『奪われる日本』関岡英之著 講談社現代新書 p.173
http://www.amazon.co.jp/%596a%308f%308c%308b%65e5%672c/dp/4061498533/sr=8-6/qid=1157642570/ref=sr_1_6/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway
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紀子さま男児出産で典範改正見送りへ

 紀子さまが出産された男子は、皇太子さま、秋篠宮さまに次ぐ皇位継承順位第3位になることから、女性、女系天皇を容認する皇室典範改正に向けた政府・与党内の議論は、一気にトーンダウンした。小泉純一郎首相(64)は6日夕、皇室典範改正について「これからの総理次第だがしばらく静かに見守った方がいい。改正を急ぐということではない」と述べた。次期首相最有力の安倍晋三官房長官(51)は改正慎重派で、この日「慎重、冷静に議論を進めていかなくてはならない。国民的な理解も必要」と強調。議論はさらに先送りされるのが確実だ。

 皇室典範改正をめぐっては、小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が昨年11月、皇位継承を安定的に維持するため、「男系男子」に限った現行の継承資格を、女性とその子どもの「女系」皇族にも拡大することなどを盛り込んだ報告書をまとめた。小泉首相は今年1月の施政方針演説で皇室典範改正案を国会に提出すると明言したが、2月に紀子さまの懐妊が判明し、見送った。

 ただ、社会全体で進む少子化と皇室も無縁ではなく、今後も「皇位継承(のため)の安定的な制度をどう考えるか」という課題は、依然残ったままだ。

 ◆皇位継承順位 現行の皇室典範は、皇位の継承資格を男系男子に限り、継承順位は、長男、長男の子孫、二男、二男の子孫、その他の息子の子孫の順とし、直系がないときは傍系に移り、天皇の兄弟、その子孫の順とし、それもないときはさらに傍系の伯父・叔父の系列に移るよう定めている。

[2006年9月7日7時17分 紙面から]

http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20060907-86435.html

画像は以下から。
http://www.amazon.co.jp/%596a%308f%308c%308b%65e5%672c/dp/4061498533/sr=8-6/qid=1157642570/ref=sr_1_6/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway
2006/09/07のBlog
以下の華厳経の説明やツィスター理論の説明は、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論(DD/PS理論、あるいは、略して、イデア・シナジー理論)にとって、興味深いものである。思うに、両者、イデア・シナジー理論に包摂できるように思うのである。
 華厳経や仏教の縁起の観念であるが、それは、イデア・シナジー理論のメディア界・零度差異共振シナジー界にほぼ相当すると考えられるのであり、不連続的差異の共立するイデア界が抜けていると考えられるのである。つまり、縁起の観念は、差異共振界の観念と思えるのである。
 また、ツィスター理論であるが、私はほとんど不明であるが、以下の説明によると、スピノールは、不連続的差異=原イデアproto-ideaの物質像ではないかと思えるのである。

参考:
http://www.okadaue.com/book/b63.htm
http://www.okadaue.com/book/b20.htm

スピノール(英語)
http://en.wikipedia.org/wiki/Spinor

量子力学
http://homepage2.nifty.com/eman/quantum/contents.html
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現記(うつつのき)

2006/8/27 井筒俊彦と華厳経

「個」に対する記述が、あるいは、「個」の存在が、その関係性の中にしか存在し得ないことを、井筒俊彦は仏教思想を用いて上図のように紹介しています。これは、華厳哲学の「縁起」を図示したものですが、図中の「A」は他のB,C,D,・・・・全ての関係性の中にのみ存在し、「AとKの関係」も他の全てのものとの関係性の中にのみ存在しています。
 (「事事無礙・理理無礙」『コスモスとアンチコスモス』(井筒俊彦)

この絵を見た時、感動しました。
この絵は秀逸です(Aとは左上の円形部分、Kとは右下の円形部分。見にくくなって恐縮です。)。

・・・


2006/8/27 ツイスター理論と華厳経 ****************************
7月2日の日記記事で、ウェイターの持つお皿に例えて「スピノール」のお話がありました。興味がありましたので色々検索しました中に、「ツィスター理論を目で見る」というのを見つけました。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1253/tuistor.html
現された「図」のほうがきれいで気をとられて、説明の方は難しくてさっぱり解りませんでしたが、何故これが宇宙すべての繋がりを表している「図」になるのでしょう。
この図一つ一つの集まりが、各々が繋がり存在している華厳経に示されているところの世界になるのでしょうか。
どの様にイメージすればよいのでしょう。
****************************
というご質問をいただきました。

ツイスター理論は、正直まだ、私自身理解が十分に及んでおりませんが、以下のようなお答えをして見ました。
****************************
ツイスター理論は、量子論と相対論をつなぐ、量子重力場理論の一つとして超ひも理論と並んで有望視されているようです。

スピノールのイメージは、ばね秤のばねや、ワインの栓抜きのイメージです。
螺旋です。
私たちを作っている電子は、このワインの栓抜き1つでできています。
そして、光子は、ワインの栓抜き2つでできているのです。
重力の元とされる重力子は、ワインの栓抜き4つでできています。

ツイスター理論を提唱したペンローズは、時間や空間もこのワインの栓抜きでできていると考えたようです。時空が究極的な根源的な存在ではなく、その時空も、さらに根源的なスピノールつまりワインの栓抜きでできていると考えたわけです。

・・・

http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page053.html



この摩天楼は幻なのか?
現代物理と仏教を考えるページ
~ファインマンの経路積分量