Blog
2006/09/09のBlog
[ 04:55 ]
[ ポスト・キリスト教 ]
『ヨハネの福音書』の冒頭はきわめて興味深い。「初めにロゴスありき」として、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論ddps理論から見ると、「ロゴス」は、メディア界・差異共振シナジー相である。そして、これが、「光」である。しかし、この「光」は、イデア・シナジーである。だから、不可視の「光」である。「闇」である「光」である。現象界の「光」ではないのである。つまり、浄土教の阿弥陀如来の「光」と等価と見ていいだろう。原光・プロトライトである。そして、この「光」が肉体化したのが、「イエス・キリスト」であるが、しかし、これは、おかしいと思うのである。すべては、「光」から生成したのであるから、誰でも、「光」を体現しているはずである。「イエス・キリスト」だけに限定されるものではないのである。凡人や悪人にさえ、「光」は潜在しているのである。そう、悪魔にさえ、「光」は潜在しているだろう。思うに、「光」の顕在をなんらかの精神修練によって実現した人物が「イエス・キリスト」であったろう。これは、「イエス・キリスト」が唯独りということはありえないのである。これは、また、D.H.ロレンスの懐疑であったのであるが。「光」の顕在的体現は、多くの、いわゆる、神秘家に生起したと考えられるのである。やはり、この点が、ドグマティックに考えられるのである。「光」の独占である。これは、不合理である。ここには、「光」の連続・同一性自我化があると思うのである。デカルトのコギトに近いと思う。そう、キリスト教は、「光」、「ロゴス」、コスモスの理(「ダルマ」)を、連続・同一性自我化していると思う。だから、やはり、ポスト・キリスト教として、キリスト教の脱連続・同一性化=不連続的差異化が必要である。
また、ヨハネの福音書は、父とロゴスとを混同している向きがあると思う。だから、父とは、イデア界である。そして、ロゴスはメディア界である。そして、子(複数)とは、現象界である。そして、聖霊もメディア界である。聖母マリア、聖母子も、メディア界である。これらが、非常に、混乱しているように思えるのである。カオス状態にあるように思えるのである。古代の叡智が、キリスト教によって、カオス状態にされてしまったように思えるのである。狂乱のキリスト教ではないだろうか。狂気の、精神異常の、精神分裂症のキリスト教ではないだろうか。
聖書は、文学、フィクション、物語として見るといいと思う。しかし、これは、古代の叡智の破壊ではないか。ポスト・キリスト教である。
p.s. ロゴスの問題がある。以上では、ロゴスをメディア界・メディア平面・差異共振シナジー界と考えたが、しかし、イデア界の「ロゴス」が考えられないだろうか。しかし、ロゴスは、メディア界の「理性」と取るのが最も適切であろう。
そうではあるが、イデア界の「ロゴス」があるように思えるのである。イデア界には、不連続的差異、絶対的差異としての、言わば、原イデア・祖イデア・プロトイデアが存しているのである。しかし、このデュナミスである原イデアであるが、1/4回転するのであるから、単にデュナミスとは言えないだろう。そう、やはり、虚力と呼ぶのが相応しい《力》をもっているだろう。何故なら、1/4回転は、虚数iをかけるからである。それを、虚エネルギーと呼んでもいいだろう。もし、メディア界をロゴスの場とするならば、イデア界は、いわば、虚ロゴスの場となるのではないだろうか。少なくとも、前ロゴスないし原ロゴスの場ではある。
私は、以前、原イデアにおける即自的力として、垂直/水平力を考えたことがある。そう、これが、Kaisetsu氏の言うベクトル、方向性としてのイデアである。これは、回転力と考えていい。ここで、イデアの虚エネルギーをXとしよう。すると、
X×i=E=mc^2
X=E/i=mc^2/i
である。X=mc^2/i が、虚エネルギーとなるだろう。
そして、これが、原イデアのもつ垂直/水平力である。そして、これが、いわば、イデア・デュナミスである。そして、これが、原ロゴス、即ち、イデア・ロゴス、デュナミス・ロゴスであると思うのである。先に述べたメディア界のロゴスは、メディア・ロゴス、エネルゲイア・ロゴス、シナジー・ロゴスと呼べるだろう。
イデア・ロゴスとメディア・ロゴスの二つがあるのであるが、これに、現象界のロゴス、同一性ロゴス=言語、エンテレケイア・ロロゴスを入れれば、三つのロゴスとなる。ここで、先に、三相間哲学を述べたことを想起する。三つ巴間哲学、三輪哲学である。だから、三種ロゴスと三相間哲学を合わせると、三相間ロゴス哲学となるだろう。あるいは、三つ巴ロゴス哲学である。
この点から見ると、「初めにロゴスありき」は正鵠を射ていると言える。「初めに言葉ありき」では、まったく意味をなさず、また、宇宙の論理(ダルマ)を破壊する虚言であると言えよう。
p.p.s. フッサールの間主観性の哲学であるが、これは、間(相互)・超越論的主観性ということであるが、これは、ほぼ、p.s.で述べた三相間ロゴス哲学と等しくなるのではないだろうか。つまり、主観性を、単にイデア界の超越論的主観性だけでなく、メディア界の主観性、現象界の主観性を含むものにすれば、そうなるということである。ならば、三相間ロゴス主観哲学、三相間ロゴス意識理論となるだろう。
_____________________________________
English: New American Standard Bible Japanese: JKUG
John 1 [Commentary]
1. In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2. He was in the beginning with God. この言は初めに神と共にあった。
3. All things came into being through Him, and apart from Him nothing came into being that has come into being. すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4. In Him was life, and the life was the Light of men. この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5. The Light shines in the darkness, and the darkness did not comprehend it. 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
6. There came a man sent from God, whose name was John. ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
7. He came as a witness, to testify about the Light, so that all might believe through him. この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
8. He was not the Light, but he came to testify about the Light. 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
9. There was the true Light which, coming into the world, enlightens every man. すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10. He was in the world, and the world was made through Him, and the world did not know Him. 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11. He came to His own, and those who were His own did not receive Him. 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12. But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, even to those who believe in His name, しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13. who were born, not of blood nor of the will of the flesh nor of the will of man, but of God. それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
14. And the Word became flesh, and dwelt among us, and we saw His glory, glory as of the only begotten from the Father, full of grace and truth. そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
15. John *testified about Him and cried out, saying, "This was He of whom I said, `He who comes after me has a higher rank than I, for He existed before me.' " ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
16. For of His fullness we have all received, and grace upon grace. わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
17. For the Law was given through Moses; grace and truth were realized through Jesus Christ. 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
18. No one has seen God at any time; the only begotten God who is in the bosom of the Father, He has explained Him. 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
19. This is the testimony of John, when the Jews sent to him priests and Levites from Jerusalem to ask him, "Who are you?" さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
20. And he confessed and did not deny, but confessed, "I am not the Christ." すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
21. They asked him, "What then? Are you Elijah?" And he *said, "I am not." "Are you the Prophet?" And he answered, "No." そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
22. Then they said to him, "Who are you, so that we may give an answer to those who sent us? What do you say about yourself?" そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。
23. He said, "I am A VOICE OF ONE CRYING IN THE WILDERNESS, `MAKE STRAIGHT THE WAY OF THE LORD,' as Isaiah the prophet said." 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
24. Now they had been sent from the Pharisees. つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
25. They asked him, and said to him, "Why then are you baptizing, if you are not the Christ, nor Elijah, nor the Prophet?" 彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
26. John answered them saying, "I baptize in water, but among you stands One whom you do not know. ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
27. "It is He who comes after me, the thong of whose sandal I am not worthy to untie." それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
28. These things took place in Bethany beyond the Jordan, where John was baptizing. これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。
29. The next day he *saw Jesus coming to him and *said, "Behold, the Lamb of God who takes away the sin of the world! その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
http://unbound.biola.edu/index.cfm?method=unbound.welcome
から
画像以下から。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/0141007311/sr=8-7/qid=1157750601/ref=sr_1_7/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway
また、ヨハネの福音書は、父とロゴスとを混同している向きがあると思う。だから、父とは、イデア界である。そして、ロゴスはメディア界である。そして、子(複数)とは、現象界である。そして、聖霊もメディア界である。聖母マリア、聖母子も、メディア界である。これらが、非常に、混乱しているように思えるのである。カオス状態にあるように思えるのである。古代の叡智が、キリスト教によって、カオス状態にされてしまったように思えるのである。狂乱のキリスト教ではないだろうか。狂気の、精神異常の、精神分裂症のキリスト教ではないだろうか。
聖書は、文学、フィクション、物語として見るといいと思う。しかし、これは、古代の叡智の破壊ではないか。ポスト・キリスト教である。
p.s. ロゴスの問題がある。以上では、ロゴスをメディア界・メディア平面・差異共振シナジー界と考えたが、しかし、イデア界の「ロゴス」が考えられないだろうか。しかし、ロゴスは、メディア界の「理性」と取るのが最も適切であろう。
そうではあるが、イデア界の「ロゴス」があるように思えるのである。イデア界には、不連続的差異、絶対的差異としての、言わば、原イデア・祖イデア・プロトイデアが存しているのである。しかし、このデュナミスである原イデアであるが、1/4回転するのであるから、単にデュナミスとは言えないだろう。そう、やはり、虚力と呼ぶのが相応しい《力》をもっているだろう。何故なら、1/4回転は、虚数iをかけるからである。それを、虚エネルギーと呼んでもいいだろう。もし、メディア界をロゴスの場とするならば、イデア界は、いわば、虚ロゴスの場となるのではないだろうか。少なくとも、前ロゴスないし原ロゴスの場ではある。
私は、以前、原イデアにおける即自的力として、垂直/水平力を考えたことがある。そう、これが、Kaisetsu氏の言うベクトル、方向性としてのイデアである。これは、回転力と考えていい。ここで、イデアの虚エネルギーをXとしよう。すると、
X×i=E=mc^2
X=E/i=mc^2/i
である。X=mc^2/i が、虚エネルギーとなるだろう。
そして、これが、原イデアのもつ垂直/水平力である。そして、これが、いわば、イデア・デュナミスである。そして、これが、原ロゴス、即ち、イデア・ロゴス、デュナミス・ロゴスであると思うのである。先に述べたメディア界のロゴスは、メディア・ロゴス、エネルゲイア・ロゴス、シナジー・ロゴスと呼べるだろう。
イデア・ロゴスとメディア・ロゴスの二つがあるのであるが、これに、現象界のロゴス、同一性ロゴス=言語、エンテレケイア・ロロゴスを入れれば、三つのロゴスとなる。ここで、先に、三相間哲学を述べたことを想起する。三つ巴間哲学、三輪哲学である。だから、三種ロゴスと三相間哲学を合わせると、三相間ロゴス哲学となるだろう。あるいは、三つ巴ロゴス哲学である。
この点から見ると、「初めにロゴスありき」は正鵠を射ていると言える。「初めに言葉ありき」では、まったく意味をなさず、また、宇宙の論理(ダルマ)を破壊する虚言であると言えよう。
p.p.s. フッサールの間主観性の哲学であるが、これは、間(相互)・超越論的主観性ということであるが、これは、ほぼ、p.s.で述べた三相間ロゴス哲学と等しくなるのではないだろうか。つまり、主観性を、単にイデア界の超越論的主観性だけでなく、メディア界の主観性、現象界の主観性を含むものにすれば、そうなるということである。ならば、三相間ロゴス主観哲学、三相間ロゴス意識理論となるだろう。
_____________________________________
English: New American Standard Bible Japanese: JKUG
John 1 [Commentary]
1. In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2. He was in the beginning with God. この言は初めに神と共にあった。
3. All things came into being through Him, and apart from Him nothing came into being that has come into being. すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4. In Him was life, and the life was the Light of men. この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5. The Light shines in the darkness, and the darkness did not comprehend it. 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
6. There came a man sent from God, whose name was John. ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
7. He came as a witness, to testify about the Light, so that all might believe through him. この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
8. He was not the Light, but he came to testify about the Light. 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
9. There was the true Light which, coming into the world, enlightens every man. すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10. He was in the world, and the world was made through Him, and the world did not know Him. 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11. He came to His own, and those who were His own did not receive Him. 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12. But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, even to those who believe in His name, しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13. who were born, not of blood nor of the will of the flesh nor of the will of man, but of God. それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
14. And the Word became flesh, and dwelt among us, and we saw His glory, glory as of the only begotten from the Father, full of grace and truth. そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
15. John *testified about Him and cried out, saying, "This was He of whom I said, `He who comes after me has a higher rank than I, for He existed before me.' " ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
16. For of His fullness we have all received, and grace upon grace. わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
17. For the Law was given through Moses; grace and truth were realized through Jesus Christ. 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
18. No one has seen God at any time; the only begotten God who is in the bosom of the Father, He has explained Him. 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
19. This is the testimony of John, when the Jews sent to him priests and Levites from Jerusalem to ask him, "Who are you?" さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
20. And he confessed and did not deny, but confessed, "I am not the Christ." すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
21. They asked him, "What then? Are you Elijah?" And he *said, "I am not." "Are you the Prophet?" And he answered, "No." そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
22. Then they said to him, "Who are you, so that we may give an answer to those who sent us? What do you say about yourself?" そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。
23. He said, "I am A VOICE OF ONE CRYING IN THE WILDERNESS, `MAKE STRAIGHT THE WAY OF THE LORD,' as Isaiah the prophet said." 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
24. Now they had been sent from the Pharisees. つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
25. They asked him, and said to him, "Why then are you baptizing, if you are not the Christ, nor Elijah, nor the Prophet?" 彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
26. John answered them saying, "I baptize in water, but among you stands One whom you do not know. ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
27. "It is He who comes after me, the thong of whose sandal I am not worthy to untie." それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
28. These things took place in Bethany beyond the Jordan, where John was baptizing. これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。
29. The next day he *saw Jesus coming to him and *said, "Behold, the Lamb of God who takes away the sin of the world! その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
http://unbound.biola.edu/index.cfm?method=unbound.welcome
から
画像以下から。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/0141007311/sr=8-7/qid=1157750601/ref=sr_1_7/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway
[ 03:18 ]
[ 言語と差異 ]
「初めに言葉ありき」とは、あまりに有名なヨハネの福音書の冒頭の言である。しかし、何度も既述したが、原語のギリシア語では、「初めにロゴス(ο λογος) ありき」なのである。「言葉」と「ロゴス」は、一般に、同じものを意味していると考えられている。しかし、誰が見ても、両者、異なるのである。
英語の欽定聖書やドイツ語のルター訳聖書では、「言葉」と訳(誤訳)されているのである。近代主義とは、精神的には、ここから発したと言ってもいいくらいだと思われるのである。
_______________________________
Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
English: King James Version
German: Luther (1545)
English: New Revised Standard Version
John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον
The same was in the beginning with God.
Dasselbige war im Anfang bei Gott.
He was in the beginning with God.
3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν
All things were made by him; and without him was not any thing made that was made.
Alle Dinge sind durch dasselbige gemacht, und ohne dasselbige ist nichts gemacht, was gemacht ist.
All things came into being through him, and without him not one thing came into being. What has come into being.
次は仏語版である。
Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
French: Louis Segond (1910)
French Jerusalem Bible
French: Darby
John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος
Au commencement était la Parole, et la Parole était avec Dieu, et la Parole était Dieu.
Au commencement était le Verbe et le Verbe était avec Dieu et le Verbe était Dieu.
¶ Au commencement était la Parole; et la Parole était auprès de Dieu; et la Parole était Dieu.
2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον
Elle était au commencement avec Dieu.
Il était au commencement avec Dieu.
Elle était au commencement auprès de Dieu.
3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν
Toutes choses ont été faites par elle, et rien de ce qui a été fait n'a été fait sans elle.
Tout fut par lui, et sans lui rien ne fut.
Toutes choses furent faites par elle, et sans elle pas une seule chose ne fut faite de ce qui a été fait.
The Unbound Bible
http://unbound.biola.edu/
_______________________________
問題は、連続・同一性自我と言葉・言語の関係である。これまで、既述したように、同一性と言葉・言語とが、いわば、一致・一体化するのである。つまり、同一性自我・近代的自我と言葉・言語とが、結合するのである。この結果生起する同一性言語自我・近代的言語自我(ラカンの象徴界は、言語自我界であり、ここと一致するだろう。)は、差異を否定・排除・隠蔽する様相となっているのである。ここで、差異とは、メディア界・差異共振シナジー相・心身性・精神である。
結局、近代合理主義・近代的自我・同一性言語自我とは、差異を排除して成立しているものである。そう、近代的自我とは、言語と結合することで、強固な内在超越論的連続・同一性構造を形成していると言えるだろう。換言すると、プラス・エネルギーと言語とが結合しているのである。この近代的同一性言語は、差別的な言語であり、主体の差異・他者と同時に、外的な差異・他者を差別・排除するのである。思うに、ナショナリズムや宗教はここと結びついているので、暴力・攻撃的に排外的なのである。(参照:石原都知事、小泉首相、等々、国粋主義的ナショナリズムの面々)
とまれ、言語と一体化している近代的同一性自我についてであるが、それは、独断・独善的自我中心主義である。「自己中」である。自己盲目であり、妄想・妄念・妄言的である、小泉首相のように。
そう、先に述べたように、内部環境がプラス・エネルギーの場合は、これが、能動的であったと言えようが、今日のような「ポストモダン」状況では、マイナス・エネルギーが賦活・活性化されていると考えられるので、この近代的同一性言語自我は、反動狂気様態になっているのである。
では、言語と差異との関係を見る必要がある。明らかに、差異は、言語ではない。あえて言えば、差異とはロゴスである。「理」である。ただし、近代合理主義の「理」ではなく、メディア界・差異共振シナジー界の「理」である。これは、心身・精神的「理」である。だから、言語は、これを、直截に把捉できないのである。言語の他者としての差異なのである。だから、ヨハネの福音書の冒頭の「ロゴス」=「理」を、「言葉」・「言語」と訳すのは誤訳であることが、これで証明されたと言えよう。ロゴスと言葉は、まったく別のものであり、メディア界・メディア平面・差異共振シナジー界の「ロゴス」=「理」と、現象界の同一性形式である言語との混同が、西欧近代において形成・確立されたと言えよう。そして、極論すれば、その結果、主体意識において、内在超越意識が喪失されて、現象界中心主義(=唯物論)になったとも言えよう。(この内在超越界の取り戻しは、芸術では、ロマン主義以降の運動、そして、哲学では、スピノザ、カント、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他によって為された。また、日本では、西田幾多郎や鈴木大拙によって為されたと言えよう。私としては、在野の根井康之氏を含めたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10001141893.html
http://shop.ruralnet.or.jp/search_result.php?mode=detail&id=011706&b_no=01_454083021X
)
結局、現代において、言語と差異とが矛盾する事態となっているのである。私は、以前、ポストモダンとは、言語からのズレのことを意味するのだと、戯れに、仲間に言ったものである。そう、このズレが、心身・精神性なのである。そして、これを、さらに、不連続化して、差異共振シナジー相の純粋なメディア界・メディア平面が発生しうるのである。
問題は、どうやって、このズレを気づきさせるのか。ここに大きなポイントがあると言えよう。差異をどうやって、気づきさせるのか。これが、わかれば、精神意識革命が生起するのである。「こころ」と言われているものは、まだ、連続観念をもっているので、危険だと思う。ズレを不連続的単独化する必要があるのである。「犀の角のように唯独り歩め」。そして、このズレの心身性を、不連続化し、また、スピノザの能動的観念化する必要があると思うのである。つまり、差異・心身性という言語からのズレを不連続且つ能動的観念化すること、これで、不連続的差異論精神意識革命が発生するはずである。つまり、不連続的差異的能動的観念論である。これで、心身は、自我は、イデア界に達して、純粋メディア界・差異共振界を形成するのである。
また、問題は、どうやって、言語とのズレ・差異を発生させるのかということがある。ここにすぐれた芸術の役割があるだろう。すぐれた芸術は、心身・精神・差異を賦活させるのである。バッハ芸術、シューベルト芸術、トルストイ芸術、芭蕉芸術、セザンヌ芸術、D.H.ロレンス芸術、等々である。また、すぐれた哲学もそうである。スピノザ哲学、ニーチェ哲学、フッサール哲学、ウスペンスキー哲学、仏教を含めた東洋哲学、他。精神的点火をもたらす芸術・哲学・思想・宗教が、すべてである。
また、自然との単独的触れ合いが重要である。自然は、言語とのズレ・差異を、永遠に喚起するだろうから。
p.s. 私は、差異は、言語ではなく、ロゴスであると上述したが、考えると、これは、いささか大胆な、意表を突くような発言と言えよう。デリダは、ロゴス中心主義を批判する脱構築理論を唱えたのであるが、私の視点から見ると、デリダの批判するロゴスとは、まさに、言葉・言語のことであり、本来のロゴス=理ではないのである。やはり、冒頭に述べたように、西欧は、ロゴスと言語を混同しているのである。デリダは、近代西欧の言語中心主義批判を志向したと考えるべきである。そう考えれば、ポスト言語中心主義としての、ロゴスが新生するのがわかったはずであり、それが、本当の、ポスト・モダニズム、ポスト構造主義となったと考えられるのである。
画像以下から。
http://it.wikipedia.org/wiki/Immagine:Simbolo_dell%27evangelista_Giovanni.jpg
英語の欽定聖書やドイツ語のルター訳聖書では、「言葉」と訳(誤訳)されているのである。近代主義とは、精神的には、ここから発したと言ってもいいくらいだと思われるのである。
_______________________________
Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
English: King James Version
German: Luther (1545)
English: New Revised Standard Version
John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον
The same was in the beginning with God.
Dasselbige war im Anfang bei Gott.
He was in the beginning with God.
3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν
All things were made by him; and without him was not any thing made that was made.
Alle Dinge sind durch dasselbige gemacht, und ohne dasselbige ist nichts gemacht, was gemacht ist.
All things came into being through him, and without him not one thing came into being. What has come into being.
次は仏語版である。
Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
French: Louis Segond (1910)
French Jerusalem Bible
French: Darby
John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος
Au commencement était la Parole, et la Parole était avec Dieu, et la Parole était Dieu.
Au commencement était le Verbe et le Verbe était avec Dieu et le Verbe était Dieu.
¶ Au commencement était la Parole; et la Parole était auprès de Dieu; et la Parole était Dieu.
2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον
Elle était au commencement avec Dieu.
Il était au commencement avec Dieu.
Elle était au commencement auprès de Dieu.
3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν
Toutes choses ont été faites par elle, et rien de ce qui a été fait n'a été fait sans elle.
Tout fut par lui, et sans lui rien ne fut.
Toutes choses furent faites par elle, et sans elle pas une seule chose ne fut faite de ce qui a été fait.
The Unbound Bible
http://unbound.biola.edu/
_______________________________
問題は、連続・同一性自我と言葉・言語の関係である。これまで、既述したように、同一性と言葉・言語とが、いわば、一致・一体化するのである。つまり、同一性自我・近代的自我と言葉・言語とが、結合するのである。この結果生起する同一性言語自我・近代的言語自我(ラカンの象徴界は、言語自我界であり、ここと一致するだろう。)は、差異を否定・排除・隠蔽する様相となっているのである。ここで、差異とは、メディア界・差異共振シナジー相・心身性・精神である。
結局、近代合理主義・近代的自我・同一性言語自我とは、差異を排除して成立しているものである。そう、近代的自我とは、言語と結合することで、強固な内在超越論的連続・同一性構造を形成していると言えるだろう。換言すると、プラス・エネルギーと言語とが結合しているのである。この近代的同一性言語は、差別的な言語であり、主体の差異・他者と同時に、外的な差異・他者を差別・排除するのである。思うに、ナショナリズムや宗教はここと結びついているので、暴力・攻撃的に排外的なのである。(参照:石原都知事、小泉首相、等々、国粋主義的ナショナリズムの面々)
とまれ、言語と一体化している近代的同一性自我についてであるが、それは、独断・独善的自我中心主義である。「自己中」である。自己盲目であり、妄想・妄念・妄言的である、小泉首相のように。
そう、先に述べたように、内部環境がプラス・エネルギーの場合は、これが、能動的であったと言えようが、今日のような「ポストモダン」状況では、マイナス・エネルギーが賦活・活性化されていると考えられるので、この近代的同一性言語自我は、反動狂気様態になっているのである。
では、言語と差異との関係を見る必要がある。明らかに、差異は、言語ではない。あえて言えば、差異とはロゴスである。「理」である。ただし、近代合理主義の「理」ではなく、メディア界・差異共振シナジー界の「理」である。これは、心身・精神的「理」である。だから、言語は、これを、直截に把捉できないのである。言語の他者としての差異なのである。だから、ヨハネの福音書の冒頭の「ロゴス」=「理」を、「言葉」・「言語」と訳すのは誤訳であることが、これで証明されたと言えよう。ロゴスと言葉は、まったく別のものであり、メディア界・メディア平面・差異共振シナジー界の「ロゴス」=「理」と、現象界の同一性形式である言語との混同が、西欧近代において形成・確立されたと言えよう。そして、極論すれば、その結果、主体意識において、内在超越意識が喪失されて、現象界中心主義(=唯物論)になったとも言えよう。(この内在超越界の取り戻しは、芸術では、ロマン主義以降の運動、そして、哲学では、スピノザ、カント、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他によって為された。また、日本では、西田幾多郎や鈴木大拙によって為されたと言えよう。私としては、在野の根井康之氏を含めたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10001141893.html
http://shop.ruralnet.or.jp/search_result.php?mode=detail&id=011706&b_no=01_454083021X
)
結局、現代において、言語と差異とが矛盾する事態となっているのである。私は、以前、ポストモダンとは、言語からのズレのことを意味するのだと、戯れに、仲間に言ったものである。そう、このズレが、心身・精神性なのである。そして、これを、さらに、不連続化して、差異共振シナジー相の純粋なメディア界・メディア平面が発生しうるのである。
問題は、どうやって、このズレを気づきさせるのか。ここに大きなポイントがあると言えよう。差異をどうやって、気づきさせるのか。これが、わかれば、精神意識革命が生起するのである。「こころ」と言われているものは、まだ、連続観念をもっているので、危険だと思う。ズレを不連続的単独化する必要があるのである。「犀の角のように唯独り歩め」。そして、このズレの心身性を、不連続化し、また、スピノザの能動的観念化する必要があると思うのである。つまり、差異・心身性という言語からのズレを不連続且つ能動的観念化すること、これで、不連続的差異論精神意識革命が発生するはずである。つまり、不連続的差異的能動的観念論である。これで、心身は、自我は、イデア界に達して、純粋メディア界・差異共振界を形成するのである。
また、問題は、どうやって、言語とのズレ・差異を発生させるのかということがある。ここにすぐれた芸術の役割があるだろう。すぐれた芸術は、心身・精神・差異を賦活させるのである。バッハ芸術、シューベルト芸術、トルストイ芸術、芭蕉芸術、セザンヌ芸術、D.H.ロレンス芸術、等々である。また、すぐれた哲学もそうである。スピノザ哲学、ニーチェ哲学、フッサール哲学、ウスペンスキー哲学、仏教を含めた東洋哲学、他。精神的点火をもたらす芸術・哲学・思想・宗教が、すべてである。
また、自然との単独的触れ合いが重要である。自然は、言語とのズレ・差異を、永遠に喚起するだろうから。
p.s. 私は、差異は、言語ではなく、ロゴスであると上述したが、考えると、これは、いささか大胆な、意表を突くような発言と言えよう。デリダは、ロゴス中心主義を批判する脱構築理論を唱えたのであるが、私の視点から見ると、デリダの批判するロゴスとは、まさに、言葉・言語のことであり、本来のロゴス=理ではないのである。やはり、冒頭に述べたように、西欧は、ロゴスと言語を混同しているのである。デリダは、近代西欧の言語中心主義批判を志向したと考えるべきである。そう考えれば、ポスト言語中心主義としての、ロゴスが新生するのがわかったはずであり、それが、本当の、ポスト・モダニズム、ポスト構造主義となったと考えられるのである。
画像以下から。
http://it.wikipedia.org/wiki/Immagine:Simbolo_dell%27evangelista_Giovanni.jpg
2006/09/08のBlog
[ 23:24 ]
[ ポスト唯物論・精神平和市場経済 ]
森田実氏のサイトに掲載された
「徳は事業の基なり」(洪応明『菜根譚』)
http://www.pluto.dti.ne.jp/%7Emor97512/C02879.HTML
という言葉にピンと来た。
私は、差異共振シナジー経済を唱えているが、これは、結局、精神=「徳」がベースになる経済である。一見、現実離れしているようだが、これこそ、世界を平和共存の世界に創造変容させるものと考えている。
これまで、あまりに、近代合理主義・唯物論に「洗脳・マインドコントロール」されて、真理が見えなかったのである。プラトニック・シナジー理論から見ると、精神をベースにした「物質」的交換(経済)=市場経済は可能であるし、それが、精神平和経済の世界を創造すると考えられるのである。
唯物論的資本主義
から
プラトニック・シナジー精神平和市場経済へ
参考:『菜根譚』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061587420
http://members.at.infoseek.co.jp/mangiku/index-20.html
http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/saikon/saikon_d.htm
画像以下から。
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000003953301&Action_id=121&Sza_id=B0
「徳は事業の基なり」(洪応明『菜根譚』)
http://www.pluto.dti.ne.jp/%7Emor97512/C02879.HTML
という言葉にピンと来た。
私は、差異共振シナジー経済を唱えているが、これは、結局、精神=「徳」がベースになる経済である。一見、現実離れしているようだが、これこそ、世界を平和共存の世界に創造変容させるものと考えている。
これまで、あまりに、近代合理主義・唯物論に「洗脳・マインドコントロール」されて、真理が見えなかったのである。プラトニック・シナジー理論から見ると、精神をベースにした「物質」的交換(経済)=市場経済は可能であるし、それが、精神平和経済の世界を創造すると考えられるのである。
唯物論的資本主義
から
プラトニック・シナジー精神平和市場経済へ
参考:『菜根譚』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061587420
http://members.at.infoseek.co.jp/mangiku/index-20.html
http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/saikon/saikon_d.htm
画像以下から。
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000003953301&Action_id=121&Sza_id=B0
[ 13:54 ]
[ ポスト近代的自我/ポスト唯物論 ]
近代的自我が狂気であるという命題(テーゼ)は、内在的環境が、マイナス・エネルギーになったとき、証明されると考えられるのである。つまり、これまで、何度も述べたが、プラス・エネルギーの時は、連続・同一性が形成されて、差異を否定・排除・隠蔽するように作動する。二項対立暴力である。しかし、ここには、暴力はあるが、狂気はない。攻撃はあるが、狂信性はない。これは、純粋な同一性暴力である。
しかし、内部環境が、マイナス・エネルギーに変換すると、同一性自我は、反動化して、狂気化すると考えられるのである。この点について、ここで、明確に確認しておきたい。
マイナス・エネルギー化とは、脱連続・同一性作用である。即ち、不連続的差異への回帰作用である。これは、当然ながら、プラス・エネルギーの作用とはまったく逆作用である。簡単に言えば、差異化である。プラス・エネルギーにおいて、差異を否定する同一性自体は、能動的であった。これは、いわば、わんぱく小僧のいたずら行為のようなものである。しかるに、マイナス・エネルギー内部環境状態では、否定・排除・隠蔽した差異が再出現するのである。それまで、同一性の「光」であった主体の内部に差異の「闇」が発現する事象になるのである。この発現した差異の「闇」に対して、同一性の「光」は、当然ながら、攻撃を加えて、以前のように、否定・排除・隠蔽しようとするのである。しかし、内部環境が一変しているのである。プラス・エネルギーの環境では、同一性が差異を否定する行為は、能動的であり、必然である。しかし、マイナス・エネルギー環境では、それは、反動であり、いわば、慣性である。つまり、差異が強化される事象となるので、差異を否定する行為は、反動で、不必要である。しかし、同一性自我(近代的自我)は、同一性という必然から、差異を、いわば、抑圧しようとするのである。ここに、病理が発生すると考えられるのである。つまり、再発生した差異に対して、同一性自我は、以前のように、否定・排除・隠蔽することは、不可能になっているのである。否定しても、否定しきれないのである。余剰が発現するのである。これが、反動エネルギーである。同一性自我による否定に対して、差異の反動エネルギーが上回るのである。これが、病理、即ち、狂気なのである。同一性により否定された差異の反動エネルギーが、狂気・傲慢・凶暴さと転化するのである。これは、精神病である。「分裂症」である。これが、現代の病理の特徴の一つであると考えられる(p.s. ラカンは、精神病の原因をファルスの排除と見ているが、ファルスではなくて、差異の排除である)。他の一つは、うつ病であり、これは、差異共振性という精神が、悲観の状態であり、能動化されていない様態と考えられるだろう。「分裂症」とことなり、差異は否定されているのではなくて、悲観化された差異のエネルギーが同一性自我にネガティブにはたらきかけて、落ち込みの状態になると考えられよう。
画像以下から。
http://en.wikipedia.org/wiki/Moon
しかし、内部環境が、マイナス・エネルギーに変換すると、同一性自我は、反動化して、狂気化すると考えられるのである。この点について、ここで、明確に確認しておきたい。
マイナス・エネルギー化とは、脱連続・同一性作用である。即ち、不連続的差異への回帰作用である。これは、当然ながら、プラス・エネルギーの作用とはまったく逆作用である。簡単に言えば、差異化である。プラス・エネルギーにおいて、差異を否定する同一性自体は、能動的であった。これは、いわば、わんぱく小僧のいたずら行為のようなものである。しかるに、マイナス・エネルギー内部環境状態では、否定・排除・隠蔽した差異が再出現するのである。それまで、同一性の「光」であった主体の内部に差異の「闇」が発現する事象になるのである。この発現した差異の「闇」に対して、同一性の「光」は、当然ながら、攻撃を加えて、以前のように、否定・排除・隠蔽しようとするのである。しかし、内部環境が一変しているのである。プラス・エネルギーの環境では、同一性が差異を否定する行為は、能動的であり、必然である。しかし、マイナス・エネルギー環境では、それは、反動であり、いわば、慣性である。つまり、差異が強化される事象となるので、差異を否定する行為は、反動で、不必要である。しかし、同一性自我(近代的自我)は、同一性という必然から、差異を、いわば、抑圧しようとするのである。ここに、病理が発生すると考えられるのである。つまり、再発生した差異に対して、同一性自我は、以前のように、否定・排除・隠蔽することは、不可能になっているのである。否定しても、否定しきれないのである。余剰が発現するのである。これが、反動エネルギーである。同一性自我による否定に対して、差異の反動エネルギーが上回るのである。これが、病理、即ち、狂気なのである。同一性により否定された差異の反動エネルギーが、狂気・傲慢・凶暴さと転化するのである。これは、精神病である。「分裂症」である。これが、現代の病理の特徴の一つであると考えられる(p.s. ラカンは、精神病の原因をファルスの排除と見ているが、ファルスではなくて、差異の排除である)。他の一つは、うつ病であり、これは、差異共振性という精神が、悲観の状態であり、能動化されていない様態と考えられるだろう。「分裂症」とことなり、差異は否定されているのではなくて、悲観化された差異のエネルギーが同一性自我にネガティブにはたらきかけて、落ち込みの状態になると考えられよう。
画像以下から。
http://en.wikipedia.org/wiki/Moon
[ 03:53 ]
[ 差異共立共生民主主義 ]
近代主義(批判)と民主主義の関係が、本質的に重要な問題となるだろう。言い換えると、近代的自我・近代合理主義と民主主義の関係である。これは、実に根源的な問題である。つまり、有り体に言えば、前者は、エゴイズム・自己中心主義・利己主義であるのに対して、後者は、個人主義・共存主義・精神主義である。極言すれば、正反対と言っていいのである。これは、大変な問題だろう。両者は、近代主義に括られるのが、これは、理論的に支離滅裂である。民主主義の平等原理とは、個人に平等の権利を認めるということである。これは、個人主義をベースにしていると言えるだろう。しかし、問題点は、先に、民主主義批判をしたが、同一性原理にあると言えよう。平等が曲者なのである。つまり、民主主義の平等主義とは、形式的には、同一性形式であるが、内容的には、個人・差異主義であることである。つまり、民主主義は、同一性と差異との一種妥協であると言えるだろう。
積極的に理解すれば、平等とは、個人が特異性としては、平等であると言えるだろう。Aさん、Bさん、Cさん、等々は、特異性としては、平等である。つまり、不連続的差異論/イデア・シナジー理論から見ると、イデア界的存在としては、各特異性は平等である。ただ、現象界的平等とは、同一性となり、近代的自我・近代合理主義と結合するのである。つまり、民主主義概念とは、同一性と差異との、正に、中間的概念と言えよう。そう、同一性と差異との折衷なのである。これは、換言すると、ルネサンスとプロテスタンティズムの二つの近代の問題とつながるのである。前者は、差異主義であり、後者は、その反動的同一性であるからである。民主主義は、だから、ルネサンスとプロテスタンティズムの二重性をもっているということができるのである。この二重性が、キーポイントである。これまで、民主主義は、この点を識別・弁別しないできたと言えよう。そして、近代的自我・近代合理主義の発展は、民主主義の同一性の側面を強化して、差異性を喪失してきたと言えよう。その典型が、USのイデオロギーの民主主義であろうし、日本の同一性の民主主義である。
不連続的差異論の観点からは、当然、同一性民主主義の超克、そして、差異民主主義の提唱ということになるだろう。近代的自我・近代合理主義の狂気・傲慢とは、同一性民主主義と結びついているのである。ルサンチマンである。憎悪・侮蔑・傲慢である。
尚、以上は、以下の後記を独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016769439.html
画像は以下から。
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Sanzio_01.jpg
積極的に理解すれば、平等とは、個人が特異性としては、平等であると言えるだろう。Aさん、Bさん、Cさん、等々は、特異性としては、平等である。つまり、不連続的差異論/イデア・シナジー理論から見ると、イデア界的存在としては、各特異性は平等である。ただ、現象界的平等とは、同一性となり、近代的自我・近代合理主義と結合するのである。つまり、民主主義概念とは、同一性と差異との、正に、中間的概念と言えよう。そう、同一性と差異との折衷なのである。これは、換言すると、ルネサンスとプロテスタンティズムの二つの近代の問題とつながるのである。前者は、差異主義であり、後者は、その反動的同一性であるからである。民主主義は、だから、ルネサンスとプロテスタンティズムの二重性をもっているということができるのである。この二重性が、キーポイントである。これまで、民主主義は、この点を識別・弁別しないできたと言えよう。そして、近代的自我・近代合理主義の発展は、民主主義の同一性の側面を強化して、差異性を喪失してきたと言えよう。その典型が、USのイデオロギーの民主主義であろうし、日本の同一性の民主主義である。
不連続的差異論の観点からは、当然、同一性民主主義の超克、そして、差異民主主義の提唱ということになるだろう。近代的自我・近代合理主義の狂気・傲慢とは、同一性民主主義と結びついているのである。ルサンチマンである。憎悪・侮蔑・傲慢である。
尚、以上は、以下の後記を独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016769439.html
画像は以下から。
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Sanzio_01.jpg
[ 02:16 ]
[ ポスト近代的自我/ポスト唯物論 ]
これまで、近代的自我批判を徹底して行い、その構造の問題点をあげて、批判解明したと考えている。
これは、簡単に言えば、アメリカ化である。そして、世界全体がそうなっている。問題点は、近代的自我・近代的合理主義は、ほとんど唯物論であることである。いくら、なんらかの宗教や道徳を信条としても、そうなのである。これは、どういうことなのだろうか。
これは、不連続的差異論が解明したところによれば、自我連続性によると言えるだろう。連続・同一性自我=近代的自我は、本質的に、唯物論となると言えよう。つまり、連続・同一性形式が物質形式なのであるからそうなると言えよう。ここでは、差異共振性=精神性が否定・排除されるのである。ここでは、他者の蹂躙が日常茶飯事である。他者・差異否定が恒常的なのである。ここでは、暴力が蔓延して、安らぎがないのである。ホッブズの世界である。
この近代的自我・唯物論の世界を、いちはやく、シェイクスピアは、悲劇に描き出している。とりわけ、『リア王』である。リア王の長女・次女、そして、エドマンドが、近代的自我・唯物論者である。そして、多くの天才的作家や哲学者等が、この近代という悪魔性を問題にしたのである。しかし、結局、前者が、勝利してしまったのである。悪の勝利、これが、現代の意味である。
これは、確かに、人類の終末というに相応しい事態であろう。人類の終焉である。
そして、私見では、新たな進化が起こるのである。ポスト人類的存在、超人類的存在が、創造されるのである。
問題は、どうしたら、この進化を促進・実現させていくことができるのかである。現代は、退化する人類と進化するポスト人類の戦いであるが、どうやって、後者を進展させることができるのか。天変地異? 大洪水? 地磁気の変化? その可能性はあるとは思うが、私は認識的変容の方法を考えたい。イデア・シナジー理論は、そのようなものであるが、ここでは、近代化の意味を再確認したい。
おそらく、生の意味が根本的に変容したのである。自我の生命や存在が重要になったのである。私見では、近代以前は、メディア界的道徳性が作動していたが、これが、近代的自我主義によって、喪失したのである。近代的自我・近代合理主義革命があったのである。これは、人類史における巨大な革命であったと言えよう。それまで、自我以外のものに価値観があったが、それが無くなって、自我が価値基準となったのである。やはり、デカルト哲学の問題である。コギトの問題である。
プラス・エネルギーが同一性・二項対立自我を生んだ。しかし、私の疑問は、そのように機械的に精神性を排除する同一性・近代的自我が形成されるものなのかということである。そう考えると、また、以前の議論に戻って、高貴な差異(微差異)と劣弱な差異(粗差異)の相違の問題となる。シェイクスピア悲劇は、前者が知的劣化して、後者の知的優勢の下に、前者が貶められることに存するのである。ここでの知性とは、当然、近代合理主義知性、唯物的知性、現象界的知性である。
ここで、もう一度、ルネサンスを考えよう。これは、差異が根源であると私が考えている。つまり、本来、ルネサンス的「近代」とは、イデア界から発動・発現しているのである。しかし、これが、同一性的反動を受けて、近代的自我となるのである。そう、ちょうど、ヤハウェのような事態がここにはあるのである。つまり、ルネサンスからプロテスタンティズムへの反動的移行のことである。
では、イタリア・ルネサンスの場合、どうして、反動化しなかったのか。一つ言えるのは、イタリア文化には、高貴な差異が存していたということだと思う。イデア界的発動と高貴な差異の存在、これが、イタリア・ルネサンスを生んだと考えられるのである。それに対して、劣弱な差異が存在して、プロテスタンティズム的反動同一性自我が形成されたと考えられるのである。地理・文化的には、南と北の違いである。
ここで、想起するのは、イギリスの作家D.H.ロレンスが、イタリアを好み、イタリアの先住民であったエトルリア人の文化について書いたことである(『エトルリアの故地』)。私見では、エトルリア人は、ほとんど、東洋的精神をもった民族である。アジア的精神をもった民族である。そのようなエトルリア人を古代ローマ人は征服したのである。どうも、これが、ルネサンスとプロテスタンティズムとの関係と少し似ているように思えるのである。ジェンダー論的に言えば、母権文化と父権文化の闘争である。そして、後者が勝利してしまったのである。
これは、イデア・シナジー論から言うと、零度共振性とプラス・エネルギーとの闘争である。そして、力学的に、後者が支配した。そして、現代に帰結したのである。しかし、先に、何度も既述したように、現代は、マイナス・エネルギーが賦活されていると考えられるのであり、それが、同一性自我・近代的自我に作用して、後者は反動狂気の様態になっていると考えられる
これは、簡単に言えば、アメリカ化である。そして、世界全体がそうなっている。問題点は、近代的自我・近代的合理主義は、ほとんど唯物論であることである。いくら、なんらかの宗教や道徳を信条としても、そうなのである。これは、どういうことなのだろうか。
これは、不連続的差異論が解明したところによれば、自我連続性によると言えるだろう。連続・同一性自我=近代的自我は、本質的に、唯物論となると言えよう。つまり、連続・同一性形式が物質形式なのであるからそうなると言えよう。ここでは、差異共振性=精神性が否定・排除されるのである。ここでは、他者の蹂躙が日常茶飯事である。他者・差異否定が恒常的なのである。ここでは、暴力が蔓延して、安らぎがないのである。ホッブズの世界である。
この近代的自我・唯物論の世界を、いちはやく、シェイクスピアは、悲劇に描き出している。とりわけ、『リア王』である。リア王の長女・次女、そして、エドマンドが、近代的自我・唯物論者である。そして、多くの天才的作家や哲学者等が、この近代という悪魔性を問題にしたのである。しかし、結局、前者が、勝利してしまったのである。悪の勝利、これが、現代の意味である。
これは、確かに、人類の終末というに相応しい事態であろう。人類の終焉である。
そして、私見では、新たな進化が起こるのである。ポスト人類的存在、超人類的存在が、創造されるのである。
問題は、どうしたら、この進化を促進・実現させていくことができるのかである。現代は、退化する人類と進化するポスト人類の戦いであるが、どうやって、後者を進展させることができるのか。天変地異? 大洪水? 地磁気の変化? その可能性はあるとは思うが、私は認識的変容の方法を考えたい。イデア・シナジー理論は、そのようなものであるが、ここでは、近代化の意味を再確認したい。
おそらく、生の意味が根本的に変容したのである。自我の生命や存在が重要になったのである。私見では、近代以前は、メディア界的道徳性が作動していたが、これが、近代的自我主義によって、喪失したのである。近代的自我・近代合理主義革命があったのである。これは、人類史における巨大な革命であったと言えよう。それまで、自我以外のものに価値観があったが、それが無くなって、自我が価値基準となったのである。やはり、デカルト哲学の問題である。コギトの問題である。
プラス・エネルギーが同一性・二項対立自我を生んだ。しかし、私の疑問は、そのように機械的に精神性を排除する同一性・近代的自我が形成されるものなのかということである。そう考えると、また、以前の議論に戻って、高貴な差異(微差異)と劣弱な差異(粗差異)の相違の問題となる。シェイクスピア悲劇は、前者が知的劣化して、後者の知的優勢の下に、前者が貶められることに存するのである。ここでの知性とは、当然、近代合理主義知性、唯物的知性、現象界的知性である。
ここで、もう一度、ルネサンスを考えよう。これは、差異が根源であると私が考えている。つまり、本来、ルネサンス的「近代」とは、イデア界から発動・発現しているのである。しかし、これが、同一性的反動を受けて、近代的自我となるのである。そう、ちょうど、ヤハウェのような事態がここにはあるのである。つまり、ルネサンスからプロテスタンティズムへの反動的移行のことである。
では、イタリア・ルネサンスの場合、どうして、反動化しなかったのか。一つ言えるのは、イタリア文化には、高貴な差異が存していたということだと思う。イデア界的発動と高貴な差異の存在、これが、イタリア・ルネサンスを生んだと考えられるのである。それに対して、劣弱な差異が存在して、プロテスタンティズム的反動同一性自我が形成されたと考えられるのである。地理・文化的には、南と北の違いである。
ここで、想起するのは、イギリスの作家D.H.ロレンスが、イタリアを好み、イタリアの先住民であったエトルリア人の文化について書いたことである(『エトルリアの故地』)。私見では、エトルリア人は、ほとんど、東洋的精神をもった民族である。アジア的精神をもった民族である。そのようなエトルリア人を古代ローマ人は征服したのである。どうも、これが、ルネサンスとプロテスタンティズムとの関係と少し似ているように思えるのである。ジェンダー論的に言えば、母権文化と父権文化の闘争である。そして、後者が勝利してしまったのである。
これは、イデア・シナジー論から言うと、零度共振性とプラス・エネルギーとの闘争である。そして、力学的に、後者が支配した。そして、現代に帰結したのである。しかし、先に、何度も既述したように、現代は、マイナス・エネルギーが賦活されていると考えられるのであり、それが、同一性自我・近代的自我に作用して、後者は反動狂気の様態になっていると考えられる
