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不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論入門講座
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2008/04/09のBlog
同一性について:仮象的同一性と特異的同一性:多様な現象世界とイデア論

テーマ:差異と同一性

これまで、差異と同一性の関係について検討に検討を重ねてきて、結局、同一性を包摂する差異共振性ないしは、同一性を包摂する超越的差異という考え方に達したが、果たして、同一性を同一性として固定していいのか、という問題がありうるのである。
 まず、具体的にするために、明快な例をあげよう。親指は英語では、a thumbである。そして、厳密には、a fingerではないのである。だから、片手には、普通、英語では、four fingers and a thumbがあるのであり、five fingersではないのである。
 ありていに言えば、親指は指ではないのである。日本語で親指とは、ある対象に対する同一性概念であり、指という同一性概念に入る。しかし、英語では、親指(同一性)の対象は、「指」a fingerではない。
 これは、対象としての親指の同一性は、英語と日本語では成立しないことになるだろう。親指は、「指」(同一性)ではないのである。
 そうすると、この場合、同一性とは何か、という問題が生じるだろう。親指は、同一性ではないということになるのである。同一性の破綻がここにあるだろう。
 すると、すぐ考えられるのは、親「指」とは、仮象の同一性ではないかということである。ないしは、仮構の同一性ではないかということになる。(さらに極端化すれば、幻想の同一性ではないか、となるだろう。この点はおいておく。)
 つまり、「指」という実体をもった同一性が存するのではなく、仮象・仮構として、「指」という同一性があるのではないのか、ということである。言い換えれば、バーチャルなものとして、乃至は、シミュラクラとして同一性が存するのではないのか、ということになる。
 この問題は実に伝統的な問題でもあり、たとえば、見立てということも、これに関係するだろう。いったい、見立てとは何か。やはり、仮象であるが、そのものとして、認知するということである。
 そうならば、この仮象認識とは何なのだろうか。思うに、主体・主観性において、同一性形式があるのであり、その同一性形式を対象に当てはめる認識行為のことではないのか。
 「指」の場合は、「指」という同一性形式を対象の親指に、いわば、投影すると考えられる。つまり、内的な心的な観念として、同一性形式があると言えるのではないだろうか。だから、これは、観念論の勝利である。フッサールの志向性の概念通りである。
 だから、同一性とは、仮象・仮構的同一性であるということになる。結局、同一性志向性ないしは同一性構造に基づく志向性が基盤にあるということである。つまり、超越論的主観性である。同一性主観性と言ってもいいだろう。
 しかし、これは、当然、内的な差異、外的な差異を否定・排除したものである。内的な同一性志向性に基づいて、外的な差異(特異性)を同一性化するのであり、同一性志向性は、また、内的な差異(特異性)を同一性化しているのである。
 この同一性志向性を、これまで、連続的同一性と呼んできた。これは、差異を否定しつつも、差異と連続している同一性への志向性というものである。差異を否定・抑圧・排除・隠蔽することが、差異との連続性を保持しているのである。
 主題にもどると、仮象同一性とは、観念性であるから、物質的実体性はないということになるだろう。ここで、同一性としての物質との関係が問題になる。
 古典物理学は、同一性としての物質を基礎としていた。しかし、これが、相対性理論や量子力学において、崩壊したと言えよう。前者では、観測地点によって、ある対象の速度等が異なるのであるし、後者では、位置と速度の数値が同時に決定できないことになったのである。
 だから、現代物理学においては、やはり、同一性の物質ではなくて、仮象の同一性としての物質概念が生まれたと言えよう。
 そうすると、同一性とは、少なくとも、仮象的同一性と見るのが適切であると言えよう。だから、仮象としての現象というイデア論的視点が現代的に、正当化されると言えよう。
 そうすると、同一性を包摂する差異共振性という概念はどうなるだろうか。結局、仮象である同一性現象を包摂する差異共振イデアという理論になるだろう。
 そして、これを量子論的に言えば、仮象同一性物質を包摂する差異共振イデアが量子・素粒子であるということになるだろう。
 そう、量子・素粒子とは、端的に、物質ではないのである。それはイデアなのである。あるいは、イデア的エネルギー(いわば、イデネルゲイアないしはイデネルギー)である。(後で、イデアとイデア的エネルギーの区別を明晰にしたい。)
 それでは、いったい何がそこから帰結されるのか。それは、いわゆる、現象なしいは現実とは、多様な仮象同一性現象であり、複数現象であるということではないだろうか。ありていに言えば、個Aと個Bが見る現象世界は異なるということである。個Aの現象世界Aと個Bの現象世界Bが存するということである。この二つの現象世界は、端的に、同一ではないということになろう。
 いわば、複数多数現象世界があるということになるだろう。そして、それらは、相互に不連続ではないだろうか。個Aが見る桜の花と個Bが見る桜の花は一致しないだろう。確かに、桜の花という形式においては一致するが、個における桜の花の仮象同一性は、相互に一致しないのではないだろうか。なぜなら、個においては、仮象同一性は、個独特の構成があると考えられるからである。たとえば、私が、バッハ音楽を聴くときは、私の中の経験の蓄積において、聴くのであり、その経験の多様性の構成の中におけるバッハ音楽となるのであり、それは、単純な仮象同一性バッハ音楽ではないのである。特異性における仮象同一性バッハ音楽である。
 言い換えると、仮象同一性は、特異性化されているのである。特異な仮象同一性なのである。そして、特異な仮象同一性とは、端的に、特異的個体ではないだろうか。
 そう仮定して考察を続けると、たとえば、アリストテレスの形相とはどうなるだろうか。それは、仮象同一性形式ではないだろうか。そう、アリストテレスの「形而上学」は、既に近代主義的である。そこには、特異性が抜けているのである。
 ここで、プラトンのエイドスないしはイデアとについて考えると、それは、特異的同一性形式ではないだろうか。これは、ほとんど、フッサールの超越論的主観性形式であろう。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point的同一性形式である。
 思うに、プラトンのイデアは、この面と差異共振性の両面が混淆していると思われるのである。たとえば、善のイデアは、後者であると思われる。また、花のイデアや机のイデア等は、前者だと思われる。
 いわば、超越論的構造主義者としてのプラトンと、超越的構造主義者(超越的差異主義者)としてのプラトンが存すると思える。『国家』における芸術家を追放したプラトンは、前者であり、いわば、悪しきプラトンである。
 では、最後に、ヒンズー教やインド哲学で言われるマーヤーについて考えてみたい。そこに、幻想としての同一性という主題も含めたい。
 まやかしとしての現象という考えでもある。仮象と幻想は似たものがある。しかしんがら、たとえば、オフィスの窓外に見える桜の木であるが、これは、仮象であるが、さらには、幻想であるのだろうか。
 幻想とは、空想的であり、非現実的であろう。しかし、桜の木は仮象とは言え、現実的である。だから、幻想としての同一性ということは言えないと思われるのである。
 補足として、仮象の同一性について考えると、仮象は変動・流転・流動等するので、流動仮象とも言えるだろう。だから、仮象としての同一性は、生成流転するものとなる。だから、幻想とまでは言わないしても、幻的とは言えるだろう。そうすると、仮幻象としての同一性となるだろう。
 この意味では、仮象はマーヤーと言えようか。
チベット問題とオリンピック:真相は何か:USAの覇権的ご都合主義的外交が一番問題である

テーマ:東アジア:朝鮮半島・中国・台湾・ロシア

この問題は、さまざま説明されているが、真相がわからない。とまれ、状況・文脈を考えよう。

1)アメリカは中国と経済的友好関係を維持したい。
2)中国は、アメリカと組んで経済開発を行いたい。チベットには、地下資源がある。
3)英米中心主義は、中国を押さえたい(田中宇氏)。
4)中国はオリンピックを成功させたい。
5)欧米の民主主義イデオロギーがある。
6)欧米には、オリエンタリズム(西洋中心主義)がある。
7)チベットは、欧米の民主主義派の支援を受けている。チベットは自治を行いたい。
8)中国は、少数民族の独立を抑えたい。覇権主義。暴力で押さえつける。

ざっとあげるとこのようになる。何がわかるだろうか。一つは、中国の反民主主義的支配があり、一つは、欧米の利害関係があり、一つは、チベットの自治の動きがあるということであろう。大きな問題の一つはアメリカの二股膏薬性・二枚舌である。自己中心主義である。
 私は中国の暴力的支配に、確かに問題があり、それは、非難されるべきであると思うが、それ以前にアメリカの二股膏薬、覇権的ご都合主義が一番の問題ではないかと思う。三番目には、欧米の民主主義に基づくオリエンタリズム的イデオロギーである。もっとも、正しい面は否めないが。
 アメリカが自分の経済的都合から、中国の政治を甘やかしたのが一番問題だと思う。イラクへの民主化を言うならば、中国や北朝鮮への民主化を要求する必要があるにもかかわらず、それには蓋をして、経済的利益から友好性を結んでいることである。つまり、自国中心主義的戦略に問題がある。
 理論的には、巨大資本主義的自由主義に問題があると言えよう。つまり、経済中心的自由主義に問題がある。必ず、民主主義的自由主義を理念的にもつ必要がる。これは、政治がチェックする必要があるのである。
 ということで、現段階では、私見では、本件において、一番問題があるのは、アメリカの覇権的ご都合主義的外交であるということになる。

Proteste gegen Chinas Tibet-Politik
San Francisco wappnet sich für Fackellauf

San Francisco bereitet sich auf Massenproteste beim olympischen Fackellauf vor. Heute soll das olympische Feuer durch die Stadt getragen werden. Schon gestern protestierten dort mehrere tausend Menschen friedlich gegen Chinas Tibet-Politik.

Von Jan Tussing, HR, ARD-Hörfunkstudio Los Angeles

Über 500 Polizisten standen bereit, als die olympische Flamme in der Nacht zum Dienstag das amerikanische Festland erreichte. Es besteht höchste Sicherheitsstufe, denn der Druck auf die Stadt San Francisco wächst stündlich. Tausende von Demonstranten haben sich in San Francisco mit Protestplakaten und tibetischen Flaggen eingefunden.
Pro-Tibet Demonstranten in San Francisco (Foto: dpa) [Bildunterschrift: Auch gestern gingen im Stadtzentrum von San Francisco wieder tausende Demonstranten auf die Straße.
http://www.tagesthemen.de/ausland/olympia122.html

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「気」とは何か:超越エネルギーと精神生命とMedia Point Intelligence

テーマ:新霊性new spirituality

「気」とは何か。これは、実は、簡単に誰でも感覚することはできるのである。合掌するようにして、両手の指先を接近させて、先端を意識するのである。そうすると、磁力のようなものが感じられるだろう。これが「気」だと思われる。思うに、電磁気力である。あるいは、生命電磁気である。
 私は先に、「気」を同一性エネルギーと考えた。つまり、同一性=物質を形成するエネルギーである。しかしながら、同一性=物質は、それ自体では、生命にはならないだろう。生命体は単なる同一性=物質ではない。
 Media Pointの様相を考えよう。ここでは、垂直の超越エネルギーが水平の現象エネルギーへと変換される。いわば、質的エネルギーを量的エネルギーへと変換させる回路がそこにある。
 これは、単に物質現象の説明にしかならないだろう。生命現象を説明できないだろう。では、生命現象とは何か、である。
 作業仮説ないしは思考実験であるが、生命と物質との違いとは、差異の様態に違いにあるのでではないだろうか。即ち、物質の場合は、差異⇒同一性であり、同一性で終結するのであるが、生命の場合は、差異⇒同一性⇒差異という循環回路があるのではないだろうか。
 換言すると、物質は直線的であるが、生命は回帰的であるということである。物質の場合、差異が同一性化すると、そこでエネルギーの終焉するのであるのに対して、生命に場合は、差異が同一性化した後も、差異のエネルギーが残っていて、それが、新たに、同一性化を発現させるように思えるのである。わかりやすく、比喩的に言えば、差異が種であり、それが、同一性化するとは、生長することであるが、それがいったん終了すると、種を結実する。これが、いわば、再差異化である。そして、これが循環するのである。差異が同一性に対して過剰なのが、生命ではないだろうか。
 だから、ここで「気」について考えると、それは、過剰な差異エネルギーのことではないかと考えることが可能である。思うに、それは、物質を有機的に秩序化する情報エネルギーでもなくてはならないだろう。直感では、差異から同一性への変換のプロセスが「気」ではないだろうかと思われるのである。いわば、精神と物質との中間態が「気」のように思われるのである。即ち、「気」とは、純粋な精神でもないし、純粋な物質でもないが、精神に関係するし、物質にも関係すると考えられるのである。おそらく、量子に近いもののように思えるが、結局、両義的であり、精神の側面と物質の側面をもつということである。おそらく、造語した方がいいのかもしれない。とりあえず、メディア子(し)としよう。メディア子としての「気」である。それは、自己認識方程式では、⇒に相当するだろう。
 ということで、「気」=生命についての検討はここで終えることとして、次に、少し、広義の情について考察しよう。私が考えているのは、シュタイナーのアストラル体である。これは端的に、広義の感情である。
 直感で言えば、精神エネルギーである。すると、それは、超越エネルギーということになるだろう。そうならば、自我ないしは自己はどうなるのだろうか。
 自我とは、連続的同一性意識である。物質的意識である。それに対して、自己とは、差異共振的意識、精神的意識である。
 だから、情と自我/自己との違いは、エネルギーと意識の違いであると言えようか。言い換えると、エネルギー様態と知的様態の違いということになる。
 ならば、エネルギーと知とはどう異なるのだろうか。知ないしは合理性・理性とは、思うに、差異共振性と同一性との緊張関係にある認識であり、差異共振性を内包した同一性認識のことではないだろうか。つまり、差異共振的同一性認識が知ないしは合理性・理性のことではないだろうか。言い換えると、自己的自我認識である。
 ここには、差異共振エネルギーは包摂されているのである。つまり、情は包摂されているのである。そうすると、知・合理性・理性は、情を包摂した高次元的な認識様態と言えるのではないだろうか。
 問題は知・合理性・理性の高次元性であるが、それは、差異共振エネルギーがイデア・エネルギー、即ち、高次元エネルギーであるから、超越的なイデア界とその理念知を仮説したときに、そのエネルギー(情)が包摂可能となるだろう。
 このイデア界の理念知であるが、それは、エネルギー(情)に基づく、それに即した、仮説された高次元的知であり、この知と同一性の認識(現象認識)とが結合・融合したものになると考えられる。垂直性と水平性を結合させた知であり、端的に言えば、Media Pointの知(インテリジェンス)、Media Point Intelligence(略して、MPI)と言えるのではないだろうか。比喩的に、十字知性でもいいだろう。【ここで、バラ十字を想起した。七つの薔薇の花と黒い十字架との結合である。七次元ということだろうか。七次元とは、根源の三次元[(+i)*(-i)乃至は三柱の神]とMedia Pointの四元性(+i, -i, +1, -1)を足したものか?】そして、これが、新知(性)・新理性・新合理性であろう。
 これで、アストラル体である超越エネルギーと自己/自我知であるMedia Point Intelligenceとの違いを説明できたとこととしたい。
 最後に、まだ、不鮮明な感のある「気」の解明であるが、もう少し説明を進展させるならば、段階を設けると明快になるように思われる。即ち、生命エネルギーとしての超越エネルギーの段階と精神エネルギーの超越エネルギーの段階を分けることである。
 最初に、おそらく、生命エネルギーとしての超越エネルギー振動があり、それが、「気」となる。そして、その基盤の上に、新たに精神エネルギーとしての超越エネルギー振動が発動すると仮説すればいいと思われるのである。おそらく、両者は振動の質が異なるように思われるのである。簡単に言えば、生命エネルギーの振動がより低く、精神エネルギーの振動はより高いのでではないだろか。今はここで留めたい。

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ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』の中の情動に関する概念と、超越性との関係について

テーマ:検討問題

この主題は、つまり、ドゥルーズ&ガタリ(以下、D/G)の情動論とプラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)の超越性との比較は、ポスト・モダン(ポ・モ)の探った領域を確認することを意味するのである。
 D/Gの『哲学とは何か』は、凝縮され過ぎて、説明が不足しているような箇所が多いが、とても興味深い書である。
 とまれ、これまで、D/Gのポスト・モダンの差異を連続的差異として捉えて、自己認識方程式では、-1と先に考えたが、どうも、情動論を見ると、そこには、即非に近いものがあると思われるのである。
 たとえば、生成変化論があるが、それは、端的に、差異と差異の即非論によって明快に説明できると思われるのである。女性、子ども、動物に生成変化するというが、それは、即非論的である。
 しかしながら、根本的に、連続論であるのが欠点である。そこでは、フッサールや現象学の超越論性が批判されている。そして、内在論を説くのである。即ち、内在平面の仮説を説くのである。
 だから、PS理論の観点から見ると、D/GはMedia Pointを連続化させているように思われるのである。つまり、超越性が連続化して、内在化されていると思われるのである。
 つまり、ゼロ度である。ゼロ度のエネルギー空間として、内在平面を仮説しているように思えるのである。差異の不連続性を消去してしまった空間である。
 そうすると、これは、ほとんど、ヘーゲル哲学になるように思われるのである。差異の連続化が同一性であり、それは、ヘーゲルの観念形式となるだろう。
 それに対して、(後期)デリダの場合は、超越性は否定しつつも、ゼロ度の不連続性を説いていると思われるのである。言うならば、超越性を否定したMedia Pointである。
 だから、D/Gの超越性とデリダの不連続性を結びつけると、哲学としてのPS理論にほぼなるように思われるのである。


2008/04/08のBlog
日本の政治の様態:自由主義、民主主義、国家主義、被植民地主義:差異民主自由主義へ向けて

テーマ:自由主義・民主主義・全体主義・独裁主義

以下の大規模店の問題は、日本の政治層の構成を考えるのに役立つ。
 結局、1)財界型政治層、2)官僚主導型政治層、3)アメリカ中心的政治層、4)民主主義的政治層、他があるのだろう。
 13は亡国売国層でもある。問題は政官財+米国の複合体になっていることである。
 これらの政治層は、国家集権主義(官僚制)と大資本中心的自由主義と米国中心主義の複合体であるが、これらに共通するのは、端的に、父権的同一性合理主義ないし同一性価値中心主義(ロゴス中心主義)である。
 民主主義は従位であり、イデオロギーとして使用される。例えば、ブッシュのイラク民主化政策である。端的に、今日、政治理念では、自由主義、民主主義、国家主義の三つが主要な構成要素であるが、自由主義と国家主義が癒着していて、自由国家主義とでもいうものになっている。
 日本では、国家主義にアメリカ中心主義が結びついているのだろう。だから、日本では、自由主義、民主主義、国家主義、被植民地主義の四つが存していて、民主主義は従位的な位置に貶められている。(これには、いろいろ問題があるが、ここでは言わない。)
 結局、自由主義・国家主義・被植民地主義の複合体が政治の中心であり、それらは、父権的同一性主義である。近代合理主義と言ってもいいだろう。【ただし、自由主義の場合は、近代自由主義と言うべきである。トランス・モダン自由主義の場合は、差異共振主義になると考えられる。】
 とは言え、正確には、大資本主義的自由主義・国家集権主義・被植民地主義の複合体、いわば、三重苦である。そして、思想的には、父権的同一性中心主義(ロゴス中心主義)である。
 ここには、恐ろしいばかりに、差異がないのである。ほとんど、全体主義に近いと言えよう。その複合体には、マスメディアが入るが、それが実質的に情報コントロールしているのである。
 結局、民主主義は普通選挙や代議制という形式があるだけであり、民主主義を精神的に支える差異価値がほとんど見られないのである。
 結局、支配的な複合体は、同一性中心主義で動いているので、差異価値のことがわからないのである。だから、個民ないしは差民が覚醒して、政治を動かして、自らを救済するしかないだろう。
 差異民主主義ないしは差異自由主義を実現する政治を形成する必要があるだろう。略して、差異民主自由主義である。乃至は、差異共同体自由主義である。
 差民一人一人が政治を動かす気概をもつ必要があるのである。近代主義的同一性中心主義からトランス・モダン差異価値へと転換させることがポイントである。
 
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郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、それを中央(東京)
に持って行ってしまう。地元から、商品を仕入れるわけでもない。

2008年4月4日 金曜日
郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、
それを中央(東京)に持って行ってしまう

◆地方都市の商店街の衰退は「格差」の象徴 1月11日 高根文隆

 仕事柄、地方都市によく出かけます。そして、ほぼ例外なく、壊滅状態となった駅前の商店街を目撃します。その度に、哀しいような切ないような感覚に襲われます。
 
 私が生まれ育ったのは山口県の中堅都市で、20年ほど前までは、中心部は県内有数の賑わいでした。

 小さい頃、両親の手を握りドキドキしながら歩いた目抜き通りの賑わい、暖かい人情や独特の雰囲気を発散させていた商店街の人たち…。

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080404

株式日記と経済展望


検討問題:諸考察:1)「気」とは何か:2)心の病と国家集権主義的似非改革、等々

テーマ:検討問題

1)「エーテル体」ないしは「気」(気エネルギー)とは何か

2)心の病と国家集権主義的「新自由主義」との関係:心の病の蔓延は単に内因だけのことではないと考えられる。外因として、国家集権主義(国家統制主義=官僚制)による「新自由主義的構造改革路線」による反民主主義の実態があると考えられる。

3)太母と太父:陰陽と陽陰:これは先に述べた、まったくの思考実験であるが、父権的一神教とは母権的多神教の反転であり、基本は太母主義であり、結局、今日、太父主義が失われているのではないのか。太父主義は、陽から陰、同一性から差異へと転移する志向性である。
 先に述べたが、聖書において、ヤハウェが太母の反転であり、エローヒームが太父ではないのか。二つの原神があるのはないのか。
 精緻な検討を後で行いたい。

4)ラディカルな差異主義の可能性:私は同一性を包摂する差異(差異共振主義)を唱えているが、同一性を仮象と見る立場からすると、いわば、差異絶対主義が考えられるだろう。プラトン哲学には、この面が見られる。現象への強い懐疑である。
 結局、問題は、同一性とは何か、ということになる。有り体に言えば、果たして、同一性とは幻想ではないのか、という疑問が浮かぶということである。これは、ヒンドゥー教を含めたインド哲学や仏教の考え方に近い。
 そう、端的に言えば、現象はマーヤーであるという問題である。これは、また、「見る」とは何かという問題でもある。また、物質感覚身体の問題でもある。
 情の問題でもある。情はエネルギーの取得の欲望がある。本来的に欠落しているのである。現象化とは、エネルギーの不足の事態であり、エネルギー獲得がいわば生存の意味である。
 このエネルギー獲得の方法が人類の知を発達させたと言えよう。これは、当然、戦争の発展も意味するのである。
 内的なエネルギーの不足とは、根源的なルサンチマンを意味するだろう。とまれ、端的に、同一性とは何か、である。
2008/04/06のBlog
性格と精神感覚現象について:性格が相貌に発現するのは、どう説明できるか

テーマ:精神

http://ameblo.jp/renshi/entry-10086015761.html
で、性格と精神現象との関係について論考したが、不十分なので、ここで再検討したい。
 問題は、性格という精神性がどうやって相貌において感覚現象化するのかということである。つまり、端的に言えば、精神が視覚・可視化されるのは、どういう力学なのかということである。
 この問題は一見、超越的光が視覚されることに似ている。通常、現象光を視覚する。しかし、特異な時空間においては、現象光は超越光ともなるのである。これは、Media Pointが開かれる時空間と考えられる。Media Pointが開かれると、単に現象光があるだけでなく、超越光が直接放出されると考えることができるのである。つまり、現象光と超越光が重なるのである。
 しかし、本来、不可視の超越光がどうして、可視化されるのだろうか。思うに、精神的視覚を仮説することが必要なのかもしれない。あるいは、超越的視覚である。いわば、第六感覚である。それを仮定すれば、問題はなくなるのである。
 この視点から、性格の視覚化の問題を見ると、同様に、問題はなくなるだろう。即ち、精神的視覚によって、性格の相貌を見ていることになる。
 しかし、それでいいのだろうか。超越光の場合は、精神的視覚を考えていいように思うが、性格の相貌化の問題に関しては、違うのではないかと思われるのである。なぜなら、Media Pointにおいてではなくて、性格が直接可視化されると考えられるからである。
 問題は、性格が差異ならば、それが視覚化されるとは、どういうことなのかである。それは、同一性化なのだろうか。それは違うだろう。問題は、魂が同一性化によって視覚化=相貌化するときには、単に、同一性化だけではなくて、差異共振性をベースにした同一性化が本来的であると思われるのである。源泉の差異共振性があって同一性化するときには、相貌は善なる性格を反映したものになると思われるのである。
 しかるに、ベースの差異共振性が抑圧されて、同一性化するとき、つまり、同一性主義化するとき、相貌になんらか歪みが現われると思われるのである。
 思考実験的に考えると、魂の波動の問題があると考えられる。同一性化とは、いわば、粒子化である。しかるに、魂の波動は波動として、同一性化された粒子においても存していると考えられるのである。つまり、超越エネルギー(「電磁波」)は、粒子的には、同一性化して、物質化するが、同時に、波動は波動として同一性化すると思われるのである。つまり、エネルギーの二重の様相があると思われるのである。粒子化と波動化である。そして、性格の相貌化については、魂の波動の形態が性格相貌になるのではないだろうか。言い換えると、精神波動形態が性格相貌ということである。
 さらに言い換えると、精神波動の場合は、物質現象化されないということではないだろうか。精神波動は波動として、発現するということではないだろうか。今の段階ではそのように作業仮説しておこう。
 ところで、魂の物質化と波動化の二様を想定することになると、これは、超越光の場合にもあてはまることになるのではないだろうかと思われてくるのである。
 電磁波は端的に、粒子であり、波動でもある。そして、粒子が現象光を形成し、波動が超越光を反映するということにならないだろうか。そうならば、Media Pointを想定する必要がなくなるのである。
 しかしながら、波動感覚ないしは波動知覚があるなら、それは、Media Pointを介して、感覚知覚するということではないだろうか。例えば、性格相貌の場合、主体の開いたMedia Pointの感性として、他者の性格相貌を知覚するのではないのか。そして、陽光の場合も、同様に、主体の開いたMedia Pointの感性において、超越光を視覚するのではないのか。これまで、超越光に関しては、特異な時空間において、Media Pointが開いて、視覚すると考えてきたのである。それは客観的な事象であり、主体性・主観性ではないのである。
 そうすると、齟齬が生じている。思うに、超越光の場合、Media Pointの開きは、外界の場合、内界の場合、そして、両者の場合の三様があるのではないだろうか。そして、性格相貌ではあるが、この場合は、主体の Media Pointが中心であると思う。とりあえず、このように考えておく。
 簡単にまとめると、性格相貌とは、魂の波動形態であり、同一性化ではないということである。

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感覚現象と精神現象の関係:心と感覚身体の連続的同一性と即非性:ロゴス中心主義とルサンチマン

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

先に、性格が相貌に現われるということをいい、理論化しようとしたが、不明瞭であったので、ここで再検討したい。
 問題は、精神現象と感覚現象が即非態であることの意味を明快にすることである。
 もう一度、性格が相貌に現われるという現象、いわば、感覚精神現象を出発点にして考察しよう。性格的相貌ということであるが、それは、顔貌という感覚現象において、性格という精神ないし心的要素が現われるということである。単に、目鼻立ち云々ではなくて、顔全体において、ある相貌があるということである。これは常識的な事柄である。
 これは、表面であると同時に、深部を意味する。そう、サインやシンボルと言ってもいいだろう。私見では、心や魂という内部の力学が表面に現われているのである。つまり、心や魂がある感覚的な力ないしは身体的な力を起して、顔の表面に影響しているのである。
 そう、表情というものとつながる面があるだろう。広義の情を考えると、性格的相貌とは、正に、表情である。
 とまれ、心的力学が身体へと転換して、相貌を形成するということである。心と感覚身体との繋がりである。あるいは、精神と感覚身体とのつながりである。あるいは、魂と感覚身体(顔)とのつながりである。
 これは、プラトニック・シナジー理論から明快に説明できる。即ち、Media Pointの魂が、同一性志向性をもち、同一性感覚身体を構成・構造化すると考えられる。この同一性志向性とは連続性であり、魂と感覚身体は連続化するので、魂と感覚身体(顔)が繋がるのである。魂を精神とすれば、精神と感覚身体の繋がりである。
 結局、魂=精神のもつ連続的同一性志向性が、魂=精神と感覚身体とを結びつけているのである。【所謂、心身論であるが、心と物質的身体とのつながりは、この視点から説明できよう。すなわち、物質性は、同一性を介して、心(魂=精神)に影響を与えるのであり、また、逆も同様である。この同一性は微妙である。これについては、後で考察したい。p.s. 結局、同一性は物質であるので、ここの説明は間違っている。結局、心は同一性=物質化されるということになる。しかし、心・即非・物質ということである。】これで、性格が相貌に現われることの解明ができたと考えられる。【p.s. これは、あまりに不注意な言明であるので、訂正して、さらに考察したい。つまり、魂=精神が連続化して感覚身体になるということだが、これでは、性格が相貌に発現することを説明していないのである。それでは、単に、顔の形成にしかならない。
 問題は、当然、顔の物質的な形成だけでなく、性格という精神性が相貌に現象化することの力学の解明である。連続的同一性化は顔の物質形成を説明するが、性格の現象化はどう説明できるのか。
 思うに、身体現象化と精神現象化を分ける必要があるように思える。身体現象化とは、端的に、物質身体化である。それは、遺伝子情報で説明できるが、それは、魂の原物質的波動の現象化のように考えられないだろうか。そして、精神現象化であるが、それは、魂の精神的波動の現象化ではないだろうか。即ち、魂(心・精神)において、波動の区別を考えるのである。ある波動が精神現象となり、別の波動は身体現象となると考えるのである。そして、性格の場合であるが、それは、前者が現象化すると考えることになる。
 しかしながら、問題は、ある波動が精神感覚現象となるとき、その波動が連続化すると考えるならば、それは、物質化となり、精神ではなくなるというように考えられてしまうのではないか。しかしながら、連続化が精神性を発現すると考えることはできるのであるが、それはどういうことなのであろうか。この問題は、重要なので、別稿で論じたい。http://ameblo.jp/renshi/entry-10086132005.html 】
 ここで、精神と感覚との即非態のことを考えると、それこそ、真相・真実であると考えられる。即ち、連続的同一性によって、心=魂=精神と物質感覚身体とが繋がる(連続化する)。それは、「即」の側面である。心・即・身体である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論から見ると、連続的同一性とは半面に過ぎず、実際は、心=魂=精神と物質感覚身体とは不連続性をもっているのである。連続性であり、且つ、不連続性であるということである。これで、本テーマの解明を終えたこととしたい。

 さて、上記で残しておいた、魂と物質を仲介する同一性について、ここで検討したい。この問題は、心(魂=精神)と物質との関係の本質を問う問題であり、実に興味深い。
 問題は、同一性、乃至は、連続的同一性とは何か、である。心=魂=精神がMedia Pointから発生させる同一性であるが、それは、Media Pointにおいては、構造と言えるだろう。即ち、同一性構造である。
 しかし、これは、あくまで、心的構成であり、物質ではないと考えられる。では、この同一性構造=心的構成と物質はどう関係するのか、ということになる。
 思うに、同一性志向性とは、感覚物質(感覚器官)を形成するのではないだろうか。だから、同一性構造とは物質構造であり、ほぼカントの超越論的形式に相当するのではないだろうか。
 とまれ、端的に、同一性とは物質ないしは感覚器官のことであるということになる。だから、魂=精神は、連続的同一性志向性(構造性)によって、物質的感覚器官になるということになる。そして、同一性構造がMedia Pointにおいて、存しているのであり、それは、超越論的形式と考えることができそうである。簡潔に言えば、同一性=物質=感覚器官である。
 だから、端的に言えば、物質とは、心=魂=精神の顕現なのである。正に、イデア論である。しかしながら、物質現象は、根源の差異を抑圧否定しているのである。つまり、差異共振的心・魂・精神を抑圧しているのである。
 この問題は、多神教的魂から一神教的魂への変換にも関係することで、実に重要な問題である。思うに、多神教的魂においては、同一性は差異に包摂されていて、いわば、未分化である。しかしながら、一神教的魂は、差異を否定した、ルサンチマン的同一性である。これは、自我主義の発達と関係するのである。
 連続的同一性による物質化は、最初は、未分化的である。しかし、自我の発達においては、同一性の中心化が起り、差異を抑圧否定するのである。この同一性中心化の意味を考察しよう。
 これは、端的に、差異共振化の排除である。自我中心化・自己同一性中心化(ロゴス中心主義)である。そして、ここには、ルサンチマン(原ルサンチマン)が駆動していると考えられる。この力学を考察しよう。
 この問題も難問の一つであり、また、情の問題から見ても、重要なポイントである。端的に、何故、差異を排除するのか、である。連続的同一性志向性においては、最初は、差異を排除するというよりは、差異をおいて、同一性形成を行うというものであり、差異は否定されていない。しかし、同一性中心化においては、それは否定され排除される。
 この問題は大難問で、明快な解答が出ずに、いわば偏執的に検討を重ねてきた問題である。これまでの答えは、父権的な同一性傾斜が原因となり、差異を否定する同一性中心化が行なわれたというものである。これはこれで、実に明快であり、単純である。
 しかしながら、今は、より精神現象的に考察したいのである。ここで、情の問題で考察したい。最初の連続的同一性においては、多種多様な同一性が形成されるが、根源の多様多元的な差異は残っている。ここでは、ギリシア神話を考えるといいだろう。多様なものが混淆しているのである。それは、差異の情報性(波動・振動)で説明がつくのはないだろうか。あるいは、回転速度かもしれない。
 では、この多様多元的な差異や同一性を否定する同一性中心主義の意味は何か。これは端的に、統一性志向性ではないだろうか。では、この統一性志向性はどこから発するのだろうか。思うに、これは、完全なショート(短絡)ではないだろうか。最初の連続的同一性は、根源の差異を残していたが、統一性志向性は、差異=同一性というショートの状態を志向しているのではないのか。
 ここで思考実験すると、最初の連続的同一性状態においては、差異と同一性が未分化的に併存している。そして、魂は、差異と同一性に間をいわば揺らいでいるのではないだろうか。ある意味で中途半端である。そして、同一性/差異の魂は、現象界における苦・悲哀を経験するのである。「わたし」(自我)は、未分化的であるが、それは、同一性において存すると言えよう。
 先に述べたが、差異共振性は、歓喜であり、そこにおいては、ルサンチマンはありえない。しかしながら、連続的同一性化において、差異と同一性が並存するが、そのとき、現象界において、魂は、苦・悲哀を感受するのである。苦・悲哀とは、差異である。それに対して、同一性(自我)は、怨むのである。そう、これが原ルサンチマンではないだろうか。現象界における差異が受苦するが、それに対して、同一性(自我)は怨恨を覚えるのである。ここがポイントである。
 この怨恨(ルサンチマン)が憎悪の反動力を生むのではないだろうか。つまり、同一性のもつ反動力としての同一性中心化(自我中心化)が発生するのではないだろうか。つまり、反動的同一性力が、同一性中心化、統一性志向性の原動力ではないだろうか。
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