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不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論入門講座
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2008/05/01のBlog
本主題は、ルサンチマン=同一性主義の発生の問題と重なると考えられる。先にそれについて述べことを繰り返して考察しよう。
 差異において、苦・悲が発生すると言った。そして、それを否定・抑圧するようにして、同一性主義=自我主義が生起すると言った。差異を共一性と言い換えることができる。つまり、共一性における悲・苦を否定・抑圧・排除・隠蔽して、同一性(共一性という視点を取ると、同一性「主義」と言う必要がなくなる)を発生(放出?)するのである。
 すなわち、共一性における他者を否定して、同一性が生起するということであり、これが-1だと考えられる。この共一性(+1)⇒同一性(+1)の内的力学を考察しよう。
 自己において、他者と共振一体となっていた共一様態を否定して、同一性、端的に、自己同一性を発生させるとはどういうことなのか。共一性はいわば自己他者性であり、それが自己同一性へて転換するとはどういうことなのか。
 直感で言えば、疎外が起こるのである。内部から外部へと疎外が起こるのである。内界から外界へと疎外が起こるのである。自己認識方程式(+i)*(- i)⇒+1において、左辺が差異共振性であり、右辺が共一性であるが、共一性を否定するということは、端的に、左辺において、自己を+1、他者を-1と考えるならば、他者の否定は-(-i)=+iとなり、結局、(+i)*(+i)⇒-1ということになるだろう。これで同一性の発生の説明がついたと言えるだろう。
 そして、問題は、言語の問題であり、共一性言語と同一性言語の二種類があるが、前者から後者はどう発生するのだろうか。
 具体的に考えると、例えば、幼児において、共一性言語として、鳥があるだろう。もっとも、共一性言語としての鳥は、同一性言語としての鳥とは、外面的には同じで区別がつかない。両者、鳥で共通であるが、実質がまったく異なるということである。
 わかりやすく言えば、共一性言語としての鳥とは、詩や神話等におけるような鳥であり、人間が鳥であったりするのである。端的に、即非的な鳥である。他方、同一性言語としての鳥は当然、人間とは絶対的に区別される動物である。「わたし」とは別の、外部の存在である鳥である。
 内的他者の否定、-(-i)、これが、原同一性の発生である。ここに鏡像の原点があるのではないだろうか。即ち、-(-i)=+iが鏡像だと思われるのである。明瞭に他者(-i)を否定・抑圧・排除・隠蔽していることがわかる。そして、本来、共一性言語であったものが、鏡像反射を受けて、同一性言語になると考えられる。即ち、「わたし」と鳥は即非様態であり、鳥は共一性言語であったが、「わたし」が鳥を否定すると、鳥は同一性化して、同一性言語になると考えられるのである。言い換えると、肯定的な言語から否定的な言語になるのである。共生的言語から攻撃的言語に変換するのである。あるいは、歓喜の言語からルサンチマン(憎悪)の言語に転換するのである。
 では、空間的にはどうなるのだろうか。内部空間(Media Point Space)から外部空間(物質空間:三次元空間)が発生するように思えるが。そうだろう。自己否定=他者否定によって、同一性空間-1が発生すると考えられる。それは、物質的空間であり、近代空間である。古典物理学の空間、コペルニクスの空間である。
 整理すると、-1が現象・仮象・影像・模像(シミュラクル)であり、通常、近現代の人間はこれを見ているのである。そして、+1がイデアである。思うに、ここには、微妙な問題がある。(+i)*(-i)と+1の区別はどうなるのだろうか。+1をイデアと呼ぶなら、(+i)*(-i)は何だろうか。思うに、プラトン自身、ここで混乱しているのではないだろうか。+1はエイドスではないだろうか。そして、(+i)*(-i)が善のイデアではないだろうか。両者をプラトンはイデアと呼んでいて、後世の人間は、それがつまずきの石となったのではないだろうか。確かに、ここは実に微妙、霊妙な問題がある。私の経験から言うと、人里離れた山奥で、山容を見て、山のイデアを直覚した経験がある。三角形としての山のイデアである。これは、何だろうか。端的に、他者経験かもしれない。すると、-iが山のイデアとなるだろう。
 しかしながら、今問題となっているのは、差異共振性である。だが、やはり、差異共振性において、他者-iのイデアを認識するのではないだろうか。すると、山のイデアは差異共振性となる。果たして、それでいいのか。今は、そうと作業仮説しよう。山のイデアは差異共振性である。それに対して、共一性+1は「わたし」と山との共一性である。そのように見ると、+1はイデアではないことになる。どう考えるべきだろうか。
 そう、+1はイデアではない。それは、光であるからである。現象自体ではないだろうか。そして、-1が、いわば、影象である。両者が重なっているのである。そして、それは、不連続的に平行しているのではないだろうか。
 問題は、+1が光ならば、-1は影である。しかし、通常、日中知覚する光は何なのか、ということである。これは難問である。おそらく、古代ギリシア人を悩ました問題だと思う。
 日中の光は、+1の光でいいと思う。しかしながら、人間の視覚は、同一性視覚になっているので、それを-1を介して知覚するのではないだろうか。つまり、-1の「光」があるのではないだろうか。それが、影の光ではないだろうか。造語して、影光ないしは陰光と呼ぼう。
 この陰光を介して、光を見ているのではないだろうか。換言すると、通常、光を見ていないことになる。陰光を見ていることになるのである。
 精緻に言ってこれはどういうことなのか。光+1は現象しているが、仮象界の人間は、-1である影光(陰光)を見ているに過ぎないのであるということはどういうことなのか。思うに、光+1を屈折・反射(eliot-akira氏の指摘)させて、影光(陰光)-1に変換・転換・変質・変態させているのではないだろうか。
 おそらく、それが正しいように思える。本来は光+1であるものを、屈折・反射させて、変質変態させて、影光(陰光)-1に変容していると考えられるのである。D. H. ロレンスが我々は光の背中を見ているに過ぎないと述べていたが、それは正に正鵠を射ていると言うべきである。光の背中としての影光(陰光)である。これが、仮象界である。整理すると、イデア⇒光⇒影光(仮象)となる。これで本テーマは解明されたとする。
 次に、このことが物理学的にどういう意味をもつのか、ということが問題となる。結局、物質現象界とは、-1である。しかし、本体は、+1である。そして、さらに、元本体は(+i)*(-i)である。三重構成になっているのである。物質として現象界しか見ないというのは、端的に、+1の本体を看過することであるし、さらに、元本体であるイデアの看過である。思うに、相対性理論は、+1という光速度一定を発見したのではないか。古典物理学は、-1の同一性=物質科学であったが、相対性理論は、+1の共一性=即非科学ではないだろうか。
 そして、量子力学であるが、それは、さらに、粒子と波動との差異共振性というイデアである量子ないしは素粒子の解明するイデア科学と言えるのではないだろうか。ただし、今日、未だに、唯物論に束縛されていて、イデア科学に変換していないのと考えられるのである。結局、超越的差異共振性であるイデアを対象としているのが、量子論であると思われるのである。いわゆる、四つの力も、イデアで説明ができるように思えるのである。
 厳密に見ると、量子論の差異共振性=イデアであるが、それは、粒子と波動のそれと考えていいかは、やや疑問がある。思うに、粒子と波動との相補性とは、共一性即ち、+1のことではないだろうか。そのように訂正したい。では、超越的差異共振性としてのイデアとは、量子論的にどういうことになるだろうか。
 イデアは原光・超光である。これをどう見るのか。ここは、創造の奥の院である。(カバラ的には、アインソフであろう。)端的に、これが、真の太極ではないだろうか。原極ないしは元極と言ってもいいだろう。陽である+iと陰である-iが共立(共対)しているのである。
 これは、量子論的にはどう説明がつくのだろうか。これは、電磁気的に簡単に説明できるのではないだろうか。直感では、例えば、陽電子と電子との融合や核融合等で説明できるのではないだろうか。これはここで留めておく。
 最後に、ブラックホールやホワイトホールや、ダークマターやダークエネルギーの問題に簡単に触れると、ブラックホールやホワイトホールについては、 Kaisetsu氏が明敏に説明されているので、ここでは、ダークマターとダークエネルギーについて触れると、端的に、ダークマターは+1の光で、そして、ダークエネルギーは(+i)*(-i)のイデアで説明できないだろうか。
 少なくとも、-1の物質(影)と+1の光を比べると、光から影が生まれるのであり、その逆はないから、光の方がエネルギーは大きいと考えられよう。実軸的にも、+1の方が-1よりも大きいということではないだろうか。ということで、ダークマターは光ないしはそれと関係すると思われるのである。
 次に、ダークエネルギーであるが、これは、ダークマターで述べたことの延長で説明できるのではないだろうか。光のエネルギーないしは、根源のイデア・エネルギーは物質エネルギーよりも大きいということである。Dark Energy=m(+ic)(-ic)⇒E=mc^2でいいのではないだろうか。今はここで留める。
2008/04/29のBlog
先の検討は、影-1と光+1と原光(+i)*(-i)という三元性を説くことになったが、まだ判明ではない感じがあるので、さらに検討することにしたい。今日は、簡単に触れるだけである。
 問題は、光(+1)と構造主義を一致させることになったが、それだと、構造主義と原光が関係することになり、整合性を欠くように感じられるのである。なぜなら、前者は本来、超越性が欠けていると思われるからである。この点をどう説明するのか、である。
 おそらく、光(+1)自体は構造主義と見ていいように思う。というのは、⇒+1となって、超越性が開けると考えられるからである。
 そうならば、先にレヴィ=ストロースの構造主義の「ゼロ記号」をMedia Pointの実軸のゼロ度と見たが、それと光(+1)とはどう関係するのか、説明する必要がある。
 「ゼロ記号」とは特異点であり、余剰・過剰であった。それは確かにMedia Point的である。では、+1はどうだろうか。これは、やはり、水平的な差異共振性であり、Media Pointは欠いている。しかしながら、⇒+1とすると、⇒がMedia Pointなので、光は言わば、崇高さを帯びるのではないだろうか。とまれ、⇒の先端がおそらく、「ゼロ記号」であろう。真に虚軸には開いていないのである。
 とまれ、さらに問題は、+1が光ならば、それはどういう光なのか。私は、宗教的に、エローヒームであると考えたが、どうだろうか。それは、端的には、正しくない。エローヒームは、端的に、自己認識方程式であろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが光の神エローヒームの公式であろう。そして、この両辺を否定する自己同一性主義の公式、即ち、-[(+i)*(-i)]⇒-1、これが、影の神ヤハウェーの公式であろう。
 では、+1の光とは何か。構造主義の光とは何か、となろう。これは、なかなか、難問である。思うに、単純に日常目にする光でいいのではないだろうか。そして、-1の影とは日常目にする物である。あるいは、単純に前者は日常の自己であり、後者は日常の自我主義ではないだろうか。
 左辺が入るときに、超越性が入るのであり、天使的であったり、悪魔的であったり、狂気的であったりするのではないだろうか。だから、例えば、ネオコン/ブッシュとは、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。つまり、イラクへの差異共振性(+i)*(-i)⇒+1を否定しているのである。真の民主主義は差異共振主義にあるだろう。
 例えば、アメリカがイラクを真に他者=差異と認識するならば、差異共振性(+i)*(-i)⇒+1が成立するだろう。しかし、他者=差異を否定したので、-[(+i)*(-i)]⇒-1となったと言えよう。-1は、自己同一性主義=ロゴス中心主義(例えば、ロゴスとしての民主主義である)である。光=自己(+1)は排除されているのである。
 思うに、-1と+1はエンテレケイアと考えられいいのではないだろうか。そして、左辺はエネルゲイアでいいのではないだろうか。だから、光(+1)を構造主義と見るのは、正に、エンテレケイアとしての構造主義であり、結果としての二元的構造であろう。ここには、エネルギー作用の結果があるのみではないだろうか。
 だから、構造主義の「ゼロ記号」とは、+1とは異なるだろう。それは、デリダ的に言えば、痕跡ではないだろうか。やはり、Media Pointの実軸点であると思われるのである。
 しかしながら、「ゼロ記号」と+1は、結局は、同じことになるのではないだろうか。何故なら、構造主義(+1)の、言わば、支点が「ゼロ記号」であるからである。つまり、支点の「ゼロ記号」と+1とで均衡がとれているのである。「ゼロ記号」があることで、構造主義(+1)が成立すると考えられるのである。言い換えると、構造主義(+1)の原点・発生点・起点としての「ゼロ記号」である。
 ここでポスト・モダンについて言及すると、ドゥルーズは、「ゼロ記号」を差異としての理論化したのである。これでは、当然、差異が連続化されるだろう。何故なら、差異の対立がゼロ度で融合するのであり、正に、微分としての差異になるだろうからである。
 デリダは、先に述べたように、-1と+1の差異(ズレ)を差延と考えたように思われる。(これは、ほとんど、ハイデガー存在論を踏襲していると思われるのである。)
 今はここで留める。後で再考したい。

p.s. 以上の思考実験は、先の直感とはズレている。私は、+1を差異共振光と見たのであり、+1には差異共振性を見たのであり、構造的対立ではないのである。齟齬をどう見るのか、である。思うに、構造主義をどうみるのかが問題である。例えば、山口昌男の神話構造主義は、両義性の理論であるが、この両義性がいわば、+1の差異共振性であると考えられないだろうか。思うに、これは、また、メルロ=ポンティの両義性の身体現象学と通じると思われるのである。あるいは、初期デリダのパルマコン(ファルマコン)の考え方に通じるのではないだろうか。
 直感では、+1の差異共振性とは、一種の即非性であるが、不十分な即非性である。山口昌男の神話学では、例えば、スサノオは、光であり、且つ、闇であるという両義性を帯びる。これは、スサノオは光であるから、闇ではないが、同時に、闇であるという、即非の論理には達していないだろう。光であり、且つ、闇である、というのは、いわば、未分化の論理である。そう、だから、+1の差異共振性とは、未分化様態と言えるだろう。つまり、連続性を帯びているということである。ならば、+1の光=自己とは、未分化であり、連続性をもっているのであり、まだ、真の自己ではないと言えよう。左辺の差異共振性(+i)*(- i)を認識して、真の自己認識を形成すると考えられるのである。
 だから、+1の光とは、トワイライト(薄明)ではないだろうか。つまり、光と影、光と闇の中間的な「光」ということになるのではないだろうか。

p.p.s. 後で再考する予定であるが、ここで簡単に補足すれば、自己認識方程式において、右辺だけを取り出して、純粋に+1を見ると、それが意味するのは、Media Pointを介した虚軸性(超越性)の喪失(隠蔽)であると考えられる。あるいは、Media Pointの断絶である(参照:三島由紀夫の「断絃の時」)。
 だから、+1は、必然的に、自己同一性主義=自我主義(-1)の影響を被って、いわば、曇る、濁る、混濁すると考えられるのである。正確に言えば、混淆・混合化、そして、連続化である。
 精緻に見ると、自己認識方程式の左辺とMedia Pointが隠蔽されるとは、言い換えると、自己同一性主義(-1)が作用することである。差異共振性が否定されるときに、自己同一性主義(-1)が形成されるのであるからである。つまり、(+i)*(-i)が否定されると、当然、結果は、⇒-1となる。これは、Media Pointの否定・抑圧でもある。
 すると、-1より先行すると思われる+1はどうなるのだろうか。それは、これまで検討してきた通り、差異共振性は否定・抑圧・隠蔽されるのである。内的身体に隠蔽されるのである。正確に言えば、(+i)*(-i)⇒+1が内的身体に隠蔽されるのであるが、このとき、Media Pointを介した虚軸性=超越性が隠蔽されるのである。
 問題は、隠蔽された差異共振性が賦活されるときである。教養的形成や内省(端的にこれが哲学である)を伴う人生経験を経ることで、そのようになると考えられる。自己同一性主義=自我主義(-1)の支配にあって、その賦活された差異共振性はどういう様態をもつだろうか。
 当然ながら、活性化された差異共振性は、自己同一性主義=自我主義(-1)を否定するのである。ここに葛藤・内的闘争が生じると言えよう。(ロマン主義の問題、さらには、反近代主義等の問題はここに収斂するだろう。)即ち、

差異共振性VS自己同一性主義

である。これは、端的に、二項対立の闘争である。19世紀や20世紀初期の文化で言えば、ロマン主義(神秘主義)VS近代合理主義となろう。【ベルクソン等の、いわゆる、生の哲学は前者に入れることができるように思えるが。とまれ、構造主義は、この二項対立を乗り越えた、偉大な理論と言えよう。さらに言えば、フッサール現象学は、構造主義をも超えているだろう。ハイデガー存在論はそれを看過してしまったと私は考える。】
 この内的闘争において、問題は、差異共振性が先行してはいても、自己意識においては、自己同一性主義が支配的、優位であるので、差異共振性が従属的、劣位にあるという点である。このいわば転倒した倒錯した優劣性が支配的であることに留意しないといけない。
 言い換えると、否定性(-1)が支配的であると言えよう。だから、賦活された差異共振性は、内的身体に存しても、否定性(-1)が支配的であるために、その影響を被ると考えられる。自己同一性主義の影響を受けるのである。
 それは、端的に、反動化であろう。否定性を受けるのであろう。つまり、差異共振性は、自己同一性主義を否定して、「自己」を肯定しようとするのである。これは、-(-1)=+1 であろう。
 これは、確かに、差異共振性を意味するだろう。しかしながら、問題は、否定性の存在である。自己同一性主義=自我主義(=近代合理主義=近代自我主義)を否定しているので、物質性を否定することになると考えられるのである。極言すれば、一種、オカルト主義や神秘主義になるのである。【私はドゥルーズ哲学とシュタイナーの霊学は類似すると思っている。】
 何が問題なのか。実はこれこそ、不連続的差異論が問題にした連続性である。端的に、連続性とは、否定的連続性である。つまり、自己同一性主義という否定性が支配的であるので、賦活された差異共振性も正に反動的に否定性を帯びてしまい、連続性を帯びると考えられるのである。これは、非常に矛盾的な事態であると言えよう。
 差異共振性は本来、肯定的な事象であるが、自己同一性主義という否定性の支配下においては、否定性を帯びるのである。これは、どういうことなのか。本来の差異共振性が否定性を帯びるとはどういうことなのか。
 直感で言えば、矛盾した言い方になるが、自己同一性主義化された差異共振性であるということである。-1化された+1である。これは、何か。ここでは、推測ないしは作業仮説で言うが、和になるのではないだろうか。即ち、(-1)+(+1)⇒±0ではないだろうか。
 このゼロこそ、構造主義の「ゼロ記号」ではないだろうか。ゼロ度、ゼロ・ポイント、ゼロ場等々と言えるだろう。そして、これが、ドゥルーズの差異であると考えられる。連続化された差異=微分ということである。また、内在平面という考えも、ここから生まれるだろう。【何故、平面なのか。後で検討。】
 そのように考えると、+1が光であり、構造主義であると先に述べたことは、間違いであることになるだろう。+1が光であることは正しいのである。しかし、それは、構造主義ではないのである。構造主義は、やはり、ゼロ度に存すると考えられるのである。つまり、差異共振主義(+1)が連続的に否定されて(和算)、ゼロになると考えられるのである。
 整理すると、-1/±0/+1である。言い換えると、自己同一性主義/構造主義/差異共振主義である。これが、「内在的な」哲学の様相と考えられる。ドゥルーズ哲学は完全に構造主義の進展に過ぎないことがわかる。では、初期デリダ哲学はどうだろうか。先には、-1と+1の差異が差延であると言ったが、それも訂正されなくてはならない。
 デリダ哲学の源泉の一つであると考えられるハイデガー存在論はそれなりに複雑多様であるが、直感するに、いわゆる世界内存在とは、ゼロ・ポイントをもった自己同一性主義(近代合理主義)ではないだろうか。有体に言えば、ハイデガーの存在とは、ゼロ・ポイント(「ゼロ記号」)ではないだろうか。つまり、本来的存在がゼロ・ポイントであり、頽落した存在は、-1となるだろう。【ただし、構造主義とは異なり、自己意識がある。しかしながら、構造主義とは、差異共振性の連続化なので、そのゼロ度は、自己意識をもつと思われる。後でさらに検討したい。】
 そして、初期デリダは、これを継承して、脱構築主義理論を立てたが、その差延とは、結局、先に述べた+1と-1の差異ではなくて、-1と±0との差異であるように思えるのである。例えば、時間を例にとれば、現在は-1であるが、過去や未来が±0であるように思えるのである。そして、両者から差延が発生すると考えられるのである。
 整理すると、ポスト・モダン理論は、ハイデガー存在論と構造主義の影響下において、ドゥルーズは構造主義のゼロ度の進展として「差異」哲学、デリダはハイデガー存在論の進展としての脱構築主義を立てたと言えよう。
 最後に問題は、+1にあったと言えよう。これが、ポスト・モダン理論では把捉できなかったと考えられるのである。何度も繰り返すことになるが、フッサール現象学が、+1を現代哲学において明晰に認識したと考えられるのである。超越論的主観性とは、それだと考えられるのである。また、キルケゴールやニーチェが、特異性という視点で取り出したものは、不連続性であると思う。つまり、彼らは、不連続性という特異性を明確に指摘した大哲学者であると考えられるのである。不明確ではあれ、Media Pointを示唆した哲学者であると考えられるのである。

3p.s. 内在・即非・超越的哲学としてのPS理論を数的に図式化すれば、

 +i
 ↑
-1/-0/Media Point/+0/+1
 ↓
 -i


となるだろう。
2008/04/27のBlog
色彩と差異共振性:色彩の構造主義とトランス構造主義

テーマ:美術・アート

以下は、次の考察の最後の色彩の問題を取りあげて、考察を継続したものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10091680213.html

*******************************

色彩の問題を検討したい。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。
 差異共振「光」は対極的な「光」である。これは原型(これは、原光と呼んでいいと思う)である。しかるに、現象化するときに、-1と+1を発現する。例えば、緑は-1である。そして、思うに、緑*赤が+1ではないだろうか。それは、差異共振「光」である。しかし、虚軸では、原光であり、純粋な差異共振性である。
 つまり、問題の核心はMedia Pointの様態にあると思われる。Media Pointにおいて、虚軸の差異共振「光」、即ち、差異共振原光が発出するが、それは同時に、実軸化して、+1と-1を発生させる。+1は純粋な太陽光である。それに対して、同一性に傾斜した「光」=影が発生する。整理するため、+1を差異共振光と、-1を同一性光としよう。即ち、最初に、差異共振原光があり、次に、差異共振光と同一性光が発生するということになる。
 そして、差異共振原光とは、(+i)*(-i)であり、差異共振光とは、具体的に言えば、例えば、赤*緑のような補色的共振関係である。そして、同一性光が当然、個々の色彩である。
 ここで、本題に戻れば、緑の同一性光とは、見る人に対して、緑の視覚と同時に、残像として、赤の視覚を生む。この残像現象であるが、それは、差異共振光の原理に基づくと言えよう。即ち、赤*緑の差異共振光があり、緑の受容に対して、バランス的に、赤を発生させるということではないだろうか。
 だから、色彩論は三元構造である。差異共振原光⇒差異共振光⇒同一性光である。そして、差異共振光の項であるが、ここでは、補色の極性原理がある。これを二元論的な構造と見たのが、構造主義ではないだろうか。だから、ゲーテの色彩論は構造主義の前身であると言えるのではないだろうか。とまれ、整理すると、差異共振原光は、虚軸の垂直原理であるが、差異共振光は実軸の水平原理である。これを確認しておきたい。
 さて、ゲーテの色彩論が構造主義であるということが出たついでに、ゲーテの原植物論等の原型論を考えてみたい。これは、ルドルフ・シュタイナーの霊学(人知学)の霊の問題とも通じるのである。
 原植物とは、有体に、植物のイデアを想起する。都合もあるので、簡単に触れると、これは、色彩論と同様に、差異共振光のレベルに通じるのではないだろうか。つまり、言わば、実軸水平的差異共振原型ではないだろうか。つまり、+1の差異共振性である。言い換えると、Media Pointの実軸的な差異共振性である。そして、これが、理論的には、構造主義と捉えられてきたものと考えられる。そして、プラトンのイデアの一端もこの構造主義であると考えられるだろう。同一性としてのイデアである。
 そして、これは、同一性の構造であり、差異の構造ではないのである。差異共振性とは言え、この差異は同一性的差異に過ぎないのである。
 ここで、ポスト・モダン理論について触れると、結局、ドゥルーズは構造主義の発展に留まり、初期デリダは、思うに、構造主義内の差異に留まったのではないだろうか。おそらく、+1と-1の差異を差延として、-1の同一性主義を解体したのである。しかしながら、これでは、これでは、構造主義内のことではないだろうか。(思うに、ハイデガーもほとんど構造主義ではないだろうか。)
 結局、実軸の差異共振性=構造主義を乗り越える必要があったのである。【山口昌男の神話学も両義性の神話学ということで、結局、構造主義内部である。構造主義のもつ水平的極性を説明しただけだと思われる。】差異ないしは差異共振性の不連続化(即非化)が必要だったのである。この点は既述済みなので、これ以上言わない。
 最後に、シュタイナーの人知学であるが、これは、ほとんど哲学的である。霊的観念論である。彼の悪魔論はほぼ正確ではないかと思う。いったい何が問題なのか。それは、その二元論、霊主体従論にあるのではないだろうか。これでは、精神と身体が分裂しているのである。PS理論では、精神的身体である Media Pointを考えて、いわば、精神・即・身体である。これは、物質的身体の原型でもある。
 この精神と身体との一性(いつせい)があるのであるが、これをシュタイナーの人知学は否定していると思うのである。言い換えると、Media Pointがないのである。垂直性と水平性が分離しているのであり、垂直性が優位であり、水平性が劣位にあるのである。これでは、伝統的な二元論である。だから、それは、水平的な現実に働きかけることができないのである。いわば、逃避的なのである。これは、身体を単に物質的身体としか捉えていないことにも現われているだろう。物質的身体は精神的身体を核としているのである。
[ 18:21 ] [ プラトニック・シナジー理論 ]
+1と-1の「現象学」について:光と影の超越的現象学

テーマ:プラトニック・シナジー理論

「-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己」http://ameblo.jp/renshi/entry-10091501933.html
先の以上の論考は我ながら、思考の赴くまま実験したので、これまでの考え方とは齟齬を来してしまっているので、ここで、もう一度「冷静に」、eliot-akira氏のコメントを参考にしながら、検討したい。
 先ず、eliot-akira氏の意見を見てみよう。

『■Media point と鏡像関係?

「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」

このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。

しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。

自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。
eliot-akira 』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10091501933.html#cbox

「ゼロの両面鏡」という考え方は刺激的である。また、光と影が相互に見つめるということ、光と影の不対称性(非対称性)、そして、自己意識の「反射」と「屈折」等も同様である。
 また、『 グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10090935683.html#c10122297117
ということも、意味深長である。とりわけ、『ヤハウェによって「反射」または「屈折」され』という点が興味深い。(因みに、私はグノーシス主義はPS理論の観点から見直すべきように感じている。)
 「反射」と「屈折」、これがポイントであろう。私は先に、自己同一性の鏡像は差異のスクリーンに映出すると言った。これは、本来、+1の光を-1の映像に同化することではないだろうか。これが、同一性主義・自己同一性主義の発生ではないだろうか。
 このとき、当然、他者=差異は排除・否定されるのである。つまり、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。ここでは、明らかに、錯視があるのである。視覚の不思議である。しかし、不「思議」ではなく、明確に解明されるのである。つまり、本来、+1である光を-1の自己同一性鏡像=影として見てしまうということではないだろうか。
 これが、端的に、仮象としての現象界、ドゥルーズ的に言えば、模像(シミュラクル、シミュラークル)としての現象界である。【参考:http://matsuura05.exblog.jp/7663184/
http://www.asahi-net.or.jp/~dq3k-hrs/simulacre/simframe.htm 因みに、偽装流行であるが、偽装とは、端的に、同一性仮象である。

 この仮象的現象界は、差異共振的光+1を排除しているのであるが、しかしながら、実際は、差異共振的光+1は生起しているのである。光を発現しているが、同時に、それを影=仮象・模像(シミュラクル)として、知覚するということではないだろうか。実際は光+1は発現しているのに、それを排除して影-1 として見てしまうということだろう。【この+1と-1との関係をどう公式化すればいいのか。後で検討したい。】
 この影による自己同一性=自我形成は、正に、自己陶酔(ナルシシズム)であるが、ここには、差異(差異共振)を排除する暴力があるのである。これを父権的暴力と言っていいだろう。原罪があるとするなら、これが原罪であろう。端的に、悪魔的である。悪魔的現象界である。
 この同一性主義メカニズムが、近代的自我主義、近代合理主義、封建的官僚制にあるのである。これが、また、差別のメカニズムである。ポスト・モダンが攻撃した二項対立のメカニズムである。
 この排除のメカニズムであるが、差異共振エネルギーを排除しているので、-1のエネルギーをもつと言っていいのではないだろうか。つまり、-1が+1のエネルギー(差異共振エネルギー、光のエネルギー)を排除すると考えていいのではないだろうか。【宇宙物理学で言えば、-1がブラックホールであり、それが、+1の光を排除するということと考えていいのだろうか。後で検討。】
 問題は、影(闇)が光を排除したとき、端的に、排除された光はどこに行くのか、何処に存するのか。何処に潜在するのか、である。思うに、内的光と外的光は共振する(共一という言葉を造語したいが)。そして、影が内的光・共一・外的光を排除するのであるが、直感で言えば、排除された光は、身体に潜在すると思われるのである。ここは微妙な問題である。排除された光はMedia Pointに潜在するとも言いたい気がするが、身体とMedia Pointとの関係を考えなくてはならない。
 その前に、確認しておこう。影とは実は、光の裏面ということではないだろうか。ここで、D. H. ロレンスの「われわれは光の背中を見ているに過ぎない」という言葉を想起していいだろう。つまり、dark sun(黒い太陽ではなく、不可視の太陽であろう。いわば、霊的太陽である。)こそ、真の光であるということである。光の現象面(仮象面・模造面)としての影ということである。これは、光と影の即非関係と見るのである。プラトン哲学で言えば、分有であろう。(こう考えると、これまでの考え方と整合化する。)
 では、いわば、光の先端である影が排除する光はどこに行くことになるのかという問題に戻ろう。光の排除とは、端的に、差異共振が否定排除されることである。だから、当然、Media Pointの排除である。私は先に、Media Pointにおいて、差異共振性は精神的身体を形成すると言った。だから、光の排除は精神的身体の排除であり、それは、端的に、内的身体の排除である。だから、排除された光は内的身体に行ったと考えていいだろう。
 そして、直感で言うと、Media Pointが差異共振的精神(心)であり、+1が差異共振的身体ではないだろうか。思うに、以前、モームの『月と六ペンス』の主人公の絵画や態度に関して(画家ゴーギャンをモデルとしたストリックランド)身体的霊性ということを言ったが、排除された光は内的身体における差異共振的精神であり、この身体的霊性に関係すると思われるのである。
 端的に言えば、排除された光は内的身体に潜在するということになるだろう。これで解明できたこととしよう。
 結局、光を排除する、影を中心化する同一性主義であるが、それは光を内的身体に排除しているということになる。そして、内的身体に、人間の徳、魂、精神、霊、心、善が存しているのである。プラトンの善のイデアは正に、ここに存するのであるし、カントの実践理性もここに存するのである。【カントは同一性知性批判(純粋理性とは、純粋同一性知性だろう)を原基としたので、差異共振性を不可知にしてしまったと考えられる。また、東洋哲学は、内的身体の哲学、即ち、内的身体哲学と言えよう。西洋哲学はトランス・モダン化するためには、東洋哲学の内的身体論を取り入れる必要があると考える。単に、抽象観念的知性では、差異共振性は捉えられないからである。鈴木大拙や西田幾多郎の理論は、禅という内的身体論に基づいているのである。また、ウスペンスキーは、東洋神秘主義から内的身体論に到達しているのではないだろうか。】
 だから、近代合理主義・近代的自我主義・封建的官僚主義とは、内的身体である善性を排除しているので、当然、悪性=悪徳=悪霊なのである。善性なき近代主義(もっとも、封建的官僚制は、純粋な近代主義ではないが、日本近代化においては、存続したのである。思うに、近代合理主義・近代的自我主義も官僚主義も父権主義という点では共通である。)なのである。【問題は民主主義や自由主義であるが、それは、基本的には、ルネサンス的Media Pointのエネルギーとプロテスタンティズムの含むイエス的差異共振主義を同一性的に基礎付けたものだと思う。だから、それは、基盤は内的身体=善性であると考えられる。端的に、自由とは、本来、この内的身体の精神性に存するのである。内的自由と言う方が明快であろう。】
 以上の検討から、本稿のテーマがより明快に解明されたと言えるだろう。結局、光と影(闇というより、eliot-akira氏の指摘通りに、影が的確である)の即非様相があるということである。これは、既述済みであるが、これで、これまで、私が経験してきた。差異共振的視覚経験をより明確に説明できるだろう。即ち、「私と立山連峰の銀嶺と一体である」という一種神秘的な経験は、影である銀嶺と「わたし」が内的身体の霊を介して、差異共振して、光(+1)を放出した精神現象であると言えるだろう。【そう、神秘主義はこの視点から確認されるべきである。反近代主義の芸術家は、多くが神秘主義的であるが、それは、差異共振的精神現象である光の体験を意味しているだろう。】
 ここで、銀嶺というのがポイントであろう。端的に、光が焦点化されているだろう。雪を頂いた山嶺は強度の光を放出していると言えよう。通常の影を超えて、光を放出していると考えられよう。この放出された光を私は視覚を介して、内的身体で共鳴して、差異共振体験を起したと考えられるのである。
 この銀嶺の強度の光とはどういうことなのだろうか。おそらく、単なる白い光では強度の光にはならないだろう。蛍光灯の白光を見ても、差異共振体験は起らない。何が異なるのだろうか。【ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を想起する。】
 思うに、白ということが一つのポイントである。これは、本来、色ではないのである。無色である。ということは、根源的な光、即ち、超越光を意味しているのではないだろうか。ここは実に微妙な問題である。先に、+1が光であると言い、それを影-1として見ると言った。だから、本来、光は差異共振エネルギーの現象化である。ということは、影を仮象ならば、光が超越光ということではないのか。ここは難問である。
 整理すると、影=同一性光とするなら、光=差異共振光=超越光である。用語が混淆してしまい、紛らわしいが、言わ