ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | DoblogMusic | Doblogガイド | ユーザ登録 | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論入門講座
Blog
[ 総Blog数:1550件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
2008/04/17のBlog
イデア的知性とは、考えると、不思議なものに思える。まだ、完全にクリアになっていないので、さらに考察を続けたい。
 ここでは、先の考察に、ニーチェの『悲劇の誕生』の有名なディオニュソスとアポロの視点を加えて、多角的に検討したい。
 ニーチェのディオニュソスとアポロの概念は一見明快なようでいて、実は複雑であると考えられる。先にも言及したが、これは、実は、ニーチェが攻撃したイデア論に通じるものをもっていると考えられるのである。そう、だからこそ、ここで、それらの概念の視点を持ち出すのは有意義だと考えられる。
 ここで、簡単に見取り図を言えば、ディオニュソスが差異(差異共振性)であり、アポロが同一性であるという図式が考えられる。ここで、問題はなのは、アポロの意味なのである。ニーチェ自身の叙述から、アポロがソクラテスの合理主義と結びつけられて、いわば、アポロが同一性主義と一致するように述べられている点である。
 しかしながら、よく読めば、アポロはヴィジョンなのである。同一性合理主義ではないのである。それが注意する第一点である。
 次に、母権神話/父権神話の二重構造の視点から見ると、ディオニュソスが母権神話に、アポロが父権神話に属すると見ることができよう。これが第二点である。
 これらの視点をふまえて、本件のテーマに返ってみると、情動・情感・情緒等(リリシズム)を包摂・内包するイデア(理念)とは、端的に、ディオニュソス的イデアであり、同一性的イデアではないということになろう。プラトン自身の記述から、イデアは、同一性的イデアに限定される恐れがあるし、事実は、そのように、いわば、通俗的に理解されてきたと考えられる。(プラトン自身、差異と同一性の間で揺れ動いていたと考えられる。)
 このディオニュソス的イデアであるが、これは、実は、ヴィジョンとしてのアポロに通じると考えられるのである。同一性のアポロではなく、ヴィジョンとしてのアポロである。
 思うに、このディオニュソス的イデア=ヴィジョン的アポロと考えると、音楽=美術になると考えられる。ニーチェは音楽の源泉から悲劇の誕生を考えたのであるが、しかし、音楽は美術と一如になると思われるのである。
 そうすると、ヴィジョン的アポロと同一性的アポロを区別しないといけないだろう。思うに、極言すれば、ここに母権多神教と父権一神教、差異と同一性の問題の核心があるだろう。
 ヴィジョン的アポロとは言い換えれば、ディオニュソス的アポロということになるだろう。これは、母権的視覚である。それに対して、同一性的アポロが発生したのである。これが、父権的視覚であろう。同一性的視覚である。そして、この両者が古代ギリシア文化において、結合ないし融合したと考えられるのである。そして、この心的事態が、『悲劇の誕生』の中核ではないだろうか。母権文化と父権文化の結合・融合としての『悲劇の誕生』である。
 結局、その結合・融合の本質は何か、である。おそらく、即非の論理に類似するのである。矛盾論理のように思えるのである。一方では、母権=ディオニュソスであり、他方では父権=アポロなのである。しかし、ヴィジョン的アポロは、同時に、母権=ディオニュソスの側に存するのである。このような複合体であるように思えるのである。
 思うに、ギリシアの古典主義/合理主義とは、後者の父権=アポロから発生したものであろう。しかしながら、ギリシア神話は、母権=ディオニュソス文化を色濃く反映していると言えよう。また、父権=アポロであるが、それは、同一性主義と言っていいだろう。それは、ギリシア悲劇では、支配的な政治として表現されているだろう。有名なアンチゴネーであるが、それは、明らかに、母権=ディオニュソス文化を体現していると言えよう。
 では、主題のイデア的知性について考察しよう。最初に私が考えるイデア的知性について、次に、プラトンのイデア論について述べたい。
 結局、イデア的知性とは、母権的ディオニュソスを「叡知」化したものだと考えられる。端的に、母権的ディオニュソスとは、エネルゲイア、即ち、エネルギーである。動的なものである。さらに言えば、超越エネルギーである。それは、現象界を創造するエネルギーである。根源的エネルギーである。だから、これは、同一性的知性・合理性(現象界・物質界の知性)によっては、捉えることができないのである。【近代合理主義は、アイロニカルに、非合理主義・狂気にいわば復讐されるのである。それが、全体主義であり、自然・精神破壊であり、また、戦争・犯罪の蔓延である。】
 この超越エネルギーである母権的ディオニュソスを、知性において把握しようとするのが、イデア的知性である。これは、イデア界を仮構して、その理念・イデアがこの母権的ディオニュソスとなり発現すると考えるのである。現象界を超越したイデア界を仮構することで、この母権的ディオニュソスをイデア知性として把握しようとするのである。しかしながら、イデア知性は母権的ディオニュソスのエネルギーを包摂・内包しているのであるのであるから、単純な知性・合理性ではないのである。エネルギー包摂・内包的知性・合理性である。
 そして、母権的ディオニュソスとは、差異ないし差異共振性と考えられるので、イデア的知性=ディオニュソス的知性=差異的知性ということになる。ここで想起されるのは、ドゥルーズの差異論である。それは、差異的イデア論を目したものであるが、連続性の囚われていたので、差異的イデアを同一性的知性へと連続化してしまい、イデア的知性を取り逃がしてしまったと考えられるのである。
 とまれ、以上のようにイデア的知性を考えると、ニーチェのディオニュソスとは、イデアの動態であるが、ニーチェ自身は、イデア的知性までは達していなかったと言えよう。晩年の力への意志とは、思うに、基本的には、ディオニュソスの別の言い方であると見るべきだと思う。
 次に、プラトンのイデア論であるが、それは、母権的ディオニュソスを初めて、イデアとして捉えた試みであろう。そして、それは画期的であった。イデア的知性が誕生したのである。しかしながら、以上検討したように、古代ギリシアにおいて、母権的ディオニュソスがアポロ的ヴィジョンを介して、同一性的アポロと矛盾同一化していたと考えられるのである。即ち、アポロ的ヴィジョンとは、ディオニュソス的ヴィジョンであり、それは、ディオニュソスが発現させる同一性のヴィジョンであり、それは、未だ、霊的なヴィジョンである。
 そして、古代ギリシアにおいて、この霊的な同一性ヴィジョンと現象的同一性的アポロとが結合・融合していたと考えられるのである。この結合・融合は、即非的である。前者は霊的同一性であり、後者は物質的同一性である。
 そして、プラトンのイデア論は、単に、母権的ディオニュソスのイデア化だけでなく、この霊的同一性をイデア化したと考えられるのである。前者が善のイデアであり、後者が同一性のイデアであり、通俗的には、後者が中心化されたのである。
 後で整理する予定であるが、私が先に述べたイデア的知性とは、母権的ディオニュソスのイデア化であり、主に差異、差異共振性の知性を意味する。しかし、プラトンにおいては、ディオニュソスだけでなくて、ディオニュソス的アポロ(ディオニュソス的同一性)も、イデア化していると考えられるのである。
 この相違をどう見るのか、である。私は、母権文化とは、同一性が差異共振性において存しているのであり、同一性主義には至っていない、いわば、未分化の文化と言った。言い換えると、母権文化は、同一性を内包した差異共振文化である。
 そう考えると、私がいうイデア的知性はまったくプラトンのイデア的知性と一致することになると言えよう。ただ、私は、今日的に、差異・差異共振性を強調しているが、同一性は含んでいるのであるし、プラトンは、差異よりは、同一性の側面、視覚的側面を強調していると考えられるのである。強調の違いに過ぎないと考えられるのである。
 そうすると、この差異・差異共振性における同一性、ディオニュソス的アポロとは何か、ということになるだろう。同一性のイデアとは何か、である。上では、霊的同一性と言った。
 これは、端的に、プラトンのエイドスに当たると考えられるが、これは一体何なのか。まだ、完全には、現象化していないが、原現象であるような同一性である。それは、Media Pointにおける同一性志向性に当たるように思えるのである。あるいは、先の作業仮説の図式では、ハイデガーの存在に当たるかもしれない。先の図式を訂正すれば、⇒の先端が、この同一性のイデアないしはエイドスかもしれない。とまれ、原同一性と言う方が明快であろう。
 さて、直感では、この原同一性・エイドスとは、「気」になるのではないかと思われるのである。シュタイナーの霊学で言えば、エーテル体である。霊性としての「気」である。「霊気」である。
 【そして、さらに考えると、ディオニュソスとは、シュタイナーのアストラル体(情動・情感身体)に当たるのではないだろうか。そして、ディオニュソスのイデア的知性が、シュタイナーの自己に当たるのではないだろうか。これらは、まだあいまいなので、後再考したい。】
 とまれ、以上、試行錯誤の跡が見られるが、とりあえず、本件の検討をここで終える。
2008/04/13のBlog
PS理論の視点から諸哲学の秩序化を試みているが、これまでかなり混乱を起している。以下も一試論であるが、構成を整合化するためには、試行錯誤が必要である。ラディカルにチャレンジすること、リスクを冒すことである。

 差異共振理性(正確に言えば、超越的差異共振理性)であるMedia Pointを⇒で表記すれば、フッサール現象学は、この⇒で表記できるだろう。ハイデガー存在論は、作業仮説であるが、⇒の先端ではないだろうか。つまり、虚軸性(超越性)を喪失したMedia Point、換言すると、Media Point自体の終点であり、そこから同一性志向性が発生する始点である。つまり、⇒同一性志向性→+1における、⇒の先端と同一性志向性との境界ではないだろうか。図示すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→+1

の★が存在ではないだろうか。
 そして、構造主義であるが、それは、同一性志向性→☆+1の☆に当たるのではないだろうか。つまり、同一性志向性と同一性の境界としての構造である。以上の図式を整理すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

となる。⇒がフッサール現象学、★がハイデガー存在論、☆が構造主義である。
 次に、ポスト・モダン哲学を考えてみよう。デリダの脱構築主義とドゥルーズ(&ガタリ)の差異哲学で代表させよう(後期デリダやジャン=リュック・ナンシーの哲学は、トランス・モダン哲学と見るべきだと考える)。
 ポスト・モダン哲学は、明らかに、構造主義を出発点にした哲学であり、それの深化や進展と言えるだろう。だから、ポスト構造主義という用語は不正確である。
 以上の図式から、構造主義は、☆である。そして、ポスト・モダンの「差異」(ここに、差延も含める)であるが、デリダの差延は、ハイデガーの存在と構造主義の二重性のズレを意味しているのはないだろうか。★と☆のズレである。
 そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、⇒★同一性志向性→☆において、牽強付会に、知的に不誠実に、⇒★と同一性志向性を同一視したものだと思われるのである。この同一視が、いわば、連続的差異というキメイラを生んだと考えられ、ドゥルーズ哲学全体が、グロテスクに誤謬に満ち満ちたものになったと考えられるのである。
 つまり、⇒★があるから超越性や存在性をもつし、同時に、
同一性志向性→☆、即ち、同一性志向性(おそらく、カントの超越論的形式)と構造主義をもつのであり、途方途轍もない、奇妙奇天烈な哲学になったと考えられる。非常にもつれた哲学になっていると考えられる。言い換えると、フッサール現象学あり、ハイデガー存在論あり、カントの超越論哲学あり、構造主義ありで、不誠実な混淆様態なのである。(こうなった原因は、ドゥルーズ自身の知性に問題がある。一流の知性ではありえない。二流・三流である。ただし、感性はあったと言えよう。それで、文学の引用が多いと考えられる。)
 さて、以上の図式で、→の意味が抜けているので、考察しよう。同一性志向性→☆同一性において、☆が構造主義ならば、→はその力動性を意味するのではないだろか。つまり、力動的構造主義ではないだろうか。おそらく、情動的構造主義と言えるのかもしれない。以上で、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

の説明が終ったが、ここでまとめて整理すると、

1) (+i)*(-i)は差異共振性、イデア・魂・精神
2)⇒はMedia Pointないしはフッサール現象学
3)★はハイデガー存在論の存在
4)同一性志向性はカントの超越論的形式
5)→は力動的構造主義
6)☆は構造主義
7)+1は同一性(自己同一性、自我)

となり、3と6のズレがデリダの差延哲学、3~6の混淆がドゥルーズの差異哲学となる。
 さて、後、身体性の問題がある。メルロ=ポンティの身体現象学をどう考えるのか、ということになる。あるいは、-1の問題がある。
 先に、差異的身体ということを言った。つまり、Media Pointにおける身体が考えられるのである。ここは、イデア=差異共振性があるが、その魂・精神とは、差異共振的身体を形成因だと思われるのである。
 問題は、魂・精神とは何かということにもなる。有体(ありてい)に言えば、直感で言えば、魂・精神とは、また原身体なのである。物質的身体とは、現象化過程において、発生するのである。Media Pointにおいて、原身体が(物質的)身体化すると言えよう。
 だから、端的に言えば、イデア・魂・精神とは、魂的原身体、精神的原身体と言えよう。そして、Media Pointにおいて、物質化が開始されるのである。だから、Media Pointとは、イデア的身体、魂的身体、精神的身体と言えるだろう。
 そして、連続的同一性化によって、精神と身体が二元論化(心身二元論)されると言えよう。だから、メルロ=ポンティの身体現象学とは、精神的身体である Media Pointを捉えようとした試論であると思う。そして、精神と身体の両義性を把捉したと考えられるが、Media Pointのもつ即非性、差異と同一性の即非性の理解までは達しなかったと思われる。
 次に、-1の問題であるが、これは、端的に、難問である。+1は自我、自己同一性である。先に想起したことは、-[(+i)*(-i)]⇒-1という数式である。つまり、自己認識方程式における左辺、差異共振性の否定が、-1になると考えられるのであり、それは、差異共振性の否定であるから、自我中心主義、自己同一性中心主義ではないだろうか。近代合理主義/近代的自我主義は、そう考えられるのではないだろうか。
 そう作業仮説すると、近代主義の世界は、-1と+1の二重性の世界である(参照:双魚宮)。近代合理主義/近代的自我主義と差異共振的自我主義の二重性であり、この間に民主主義、自由主義が存していると言えよう。簡単に言えば、同一性主義と差異主義の二重性の世界である。
 今日、グローバル経済は、+1を否定して、-1に邁進しているのである。これは、差異主義の破壊となっているのである。もっとも、差異共振主義は、技術革新という側面では進展しているだろうが。
 端的に、-1とは、倒錯であり、精神病理である。闇・無明である。ジェンダー論的に言うと、-1は父権主義であり、Media Pointが母権主義であり、+1は、父権主義と母権主義の超克である、いわば、両権主義ないしは新母権主義ではないだろうか。
 最後に神秘主義・オカルト主義について言及しよう。今日では、スピリチュアルなものとして流行しているが、それを明確にしておく必要があるだろう。
 先には、-1が神秘主義ではないかと言ったが、それは、間違いということになっった。では、神秘主義はどこに位置しているだろうか。
 それは、霊的な融合体験を意味するだろう。霊とは、Media Pointのイデアのことである。そして、そこには、差異共振性がある。しかしながら、差異共振性は、融合ではないのである。それは、即非感覚認識である。
 端的に、神秘主義の場合は、同一性主義=自我主義が崩壊すると考えられる。つまり、±1が消滅すると考えられる。これは、思うに、一種先祖返りなのである。つまり、Media Pointへの反動的回帰なのである。これは、螺旋的回帰とは区別されなくてはならない。同一性=自我の形成以前のMedia Pointへの退行である。幼児・胎児への回帰、子宮回帰である。
 反動ではあるが、これは、-1の近代合理主義/近代的自我主義に対する反動である。(参照:懐かしい、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』)つまり、一種、同一性主義に対する、原差異の反抗・反逆と言えないことはないだろう。いったい何がここでは問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義=物質主義化に対するイデア・精神・魂・超越性の側からの無意識の、いわば、本能的な反抗・反逆である。これは、情動的である。知性的ではないのである。ここに問題がある。
 反近代主義的な芸術家の多くは、神秘主義的である。モームの『月と六ペンス』の主人公の身体的霊性もそうである。シャガールの絵画もそうである。もっとも、そこには、根源的な差異共振性があるのである。これは確認しなくてはならない。
 だから、結局、イデア論がここで登場する必要があるのである。近代主義は、精神次元を否定してきた。古代、中世、ルネサンスと精神次元を確認してきたのであるが、それが、近代主義において、否定されたのである。形而上学の否定ということに現われている(形而上学の問題は、それを経験性から独立させてしまうことだろう。本来は、形而上学とは、経験性と結びついているのである。)イデア論を仮説することで、精神の無意識な、本能的な反抗的な情動は、イデアによって、知的に包摂されることになると考えられる。
 それによって、精神は知性的となり、情動性は知的に抑制されることになるのである。そのイデア的知性であるが、知性とは本来、同一性的なものである。だから、近代主義のもつ同一性主義ではなく、近代的同一性、近代合理性、物質的合理性をも包摂したイデア知性がここに生起すると考えられるのである。これは、先にも述べたが、Media Point 知性と言えよう。
とまれ、言い換えると、神秘主義やオカルト主義は、ゼロ度のMedia Pointの様態と言えるのではないだろうか。
2008/04/12のBlog
「市場国家」とトランス・モダン自由共同体主義(民主自由主義)

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

グローバリゼーションによって、独立(sovereign)国民国家に取って代わって、「市場国家」が出現しているという考えをフィリップ・ボビット(米国英語なら、バビット)が述べているということであるが、どうだろうか。
 自由主義的発想であるが、これは、私見では、巨大資本主義的自由主義であり、大資本・中小資本は、淘汰される可能性が強いものである。私は、民主主義的自由主義ないしは共同体主義的自由主義を唱える。しかも、トランス・モダン民主主義的自由主義、トランス・モダン共同体的自由主義である。
 だいたい、イラク占領を肯定しているというのが、間違いだと思う。いかにもアメリカ主義的巨大資本主義的自由主義である。
 問題は、民主主義の理念にある。それを、近代主義のままにすると、形式主義を免れない。普通選挙を行い、代議制を敷くのである。これは、形式的な民主主義的法制を意味するのであり、民主主義の実質が巨大資本的自由主義に破壊されるのである。だから、トランス・モダン民主主義的自由主義である。
 トランス・モダン民主自由主義(共同体自由主義)とは、個・差異・特異性の立場に立って、自由な共同体を創造・構築することを目指している。だから、巨大資本的自由主義に対しては、政治的規制を設けることになるだろう。そして、自由共同体資本への転換を促すものである。だから、政治の独立機能が重視されるのである。
 このためには、哲学が必要である。近代主義を乗り越えた哲学である。それを基本にしたトランス・モダン政治が一つのセンターとなると考えられる。
 自由主義経済中心主義から、自由共同体政治経済主義へと転換するのである。簡単に言えば、経済中心主義から政治経済主義への転換である。近代経済主義からトランス・モダン政治経済への転換である。
 
War Plans

By NIALL FERGUSON
Published: April 13, 2008

・・・・・

In his last book, “The Shield of Achilles” (2002), Bobbitt advanced a bold argument about the history of international relations since the time of the Treaty of Westphalia (1648). His central argument was that, in the aftermath of the cold war, the traditional post-Westphalian ideal of the sovereign nation-state had become obsolescent. In the increasingly borderless world we associate with globalization, something new was emerging, which Bobbitt called (and continues to call) the “market-state.” This state’s relationship to its citizens resembles that between a corporation and consumers. Its counterpart and enemy is the terrorist network. The central problem raised in “The Shield of Achilles” was how far the market-state could and should go to defeat such networks, particularly when they were in some measure sponsored by traditional nation-states.
・・・・・

http://www.nytimes.com/2008/04/13/books/review/Ferguson-t.html?_r=1&8bu&emc=bua1&oref=slogin


**************************************

検討問題:諸テーマ

テーマ:検討問題

1)人法という発想:自然法に近いと思うが、単純に言えば、言葉に文法があるように、人間においても、人法があると考えられる。思うに、人法を、これまで、人類はさまざまに解釈してきたのではないだろうか。宗教であれ、神話であれ、掟であれ、哲学であれ、芸術であれ、道徳であれ、倫理であれ、叡知であれ、法典・法律であれ、科学であれ。
 問題は、カントの純粋理性と実践理性の乖離にあるだろう。PS理論の差異共振理性(差異共振合理性、差異共振知性)は、理性を統一するので、純粋理性も実践理性も、それに包摂されることになると思われる。
 思えば、カント哲学は、自我主義と自己主義に分裂しているのである。本来は、自己を基盤とする自我を構築するべきなのである。とまれ、近代主義がはっきりそこには見られると言うべきであろう。

p.s. 先ほど、人理という言葉が浮かんだ。考えたら、どうして、これまで、人法もそうだが、この言葉がなかったのか不思議である。仁義、人道、人徳、人情等では、今日では、いかにも古風である。人文科学とは、人理学ないしは人法学となるべきである。これに基づいて、諸宗教、政治理念等を批評できるようになるだろう。例えば、イラク戦争は、イラクの民主化という大義があるが、しかし、人理・人法の見地から見たら、それは、明々白々に邪道・邪悪である。
 
2)同一性の原形ないしは基盤とは何か:同一性の鏡像とは何か:競争とは何か。つまり、自己同一性主義=自我主義の同一性の基盤となる同一性構造があるが、同一性鏡像とは何か。
 
p.s. 問題は、差異を劣位を置く同一性主義の優越主義の力学を再考したい。

3)宗教と差異共振理性の関係について:「神」・「仏」とは、人法なしいは、生命法、魂法の、連続的表現に近いのではないのか。

4)Media Pointと身体との関係について

5)トランス・モダン・キャピタリズム:差異共振的資本主義とは何か。同一性金融資本と差異共振金融資本。差異共振価値のための金融資本。

6)-1の問題。

7)近代教育からトランス・モダン教育へ:同一性主義教育から差異共振教育へ:個としての魂や精神の導入

8)近代主義的細分化・専門分化とトランス・モダン的総合:前者は何がもたらしたのか。これは愚問だろう。近代主義のもつ経験現象世界のもつ客体性がもつ多様性において、知を精緻にするために、起ったと考えられる。
 ここにおいて、フッサールの『危機』が重要な論考である。つまり、連続的同一性化された対象、すなわち、同一性=物質=数量=客観性を基礎として、諸科学が構築されたのであり、差異=精神=質=主観性への探求が忘却されたと言えよう。
 ポスト・モダンは、その延長にあると言えよう。フッサール現象学であるが、以前指摘したが、二重性をもっているのである。思うに、差異共振性を直感していたが、それを同一性の概念で説明しているように思われるのである。生活世界がその直感の概念化だと思うが。
 換言すると、フッサールは、Media Pointの作用を直感していたが、それを理論的には、十全には捉えていなかったと思う。ついでに、ハイデガー哲学について言うと、存在は、メルロ=ポンティが明らかにしたように、身体存在と見るのが正しいように思える。
 どうも、-1が身体存在ではないのか、という思いつきが浮かぶ。+1が自己同一性=自我である。Media Pointが自己=個=差異=魂=精神である。だから、身体ないしは存在は、-1ではないだろうかと思えるのである。また、無意識も-1ではないだろうか。
 先に試行錯誤したように、+1が光ならば、-1は闇である。西洋哲学は、前者中心であり、19世紀後半からようやく、闇の存在を対象とするようになったのではないのか。
 しかし、-1を身体存在としたとき、物質身体との関係はどうなるのか、ということがあるだろう。しかしながら、それは同じではないだろうか。
 さて、フッサールとハイデガーに戻ると、前者は、合理性の根拠を追求したのであり、根源的合理性を超越論的主観性に求めたと言えよう。しかしながら、超越論的主観性とは、Media Pointにおける同一性志向性であり、Media Pointの超越性には達していない。しかし、微妙なことは、繰り返しになるが、フッサールの直感においては、Media Pointは開いていたと思われるのである。だから、間主観性や生活世界の発想が生まれた思われるのである。
 ハイデガーの存在論は、西洋哲学の合理主義的志向性によって看過されてきた「存在」を提唱したこととなっているが、ハイデガー哲学の暗さは、やはり、-1の闇から来ているのではないだろうか。
 そうだとしても、ハイデガーは、フッサールが直感したと思われるMedia Pointを外していると思う。そして、想像では、後期ハイデガーは、今度は、実軸を否定した虚軸だけの存在性を説いているように思えるのである。いわば、前期が水平軸のマイナスを説き、後期が水平軸を無視した垂直軸の様相を説いているのではないのか。【p.s. 思うに、後期ハイデガーは、-1の存在(身体)の闇からMedia Pointの開きを垣間みたのかもしれない。】

p.s. あるいは、-1において、神秘主義、オカルト主義のように「光」を考えているのかもしれない。闇の中の光である。それは、実は、Media Pointのことである。身体的霊性である。
 
9)死について:イデア(=「魂」)を考えると、死とは、純粋イデアないしはデュナミスとしてのイデアに復帰・回帰・再帰することと考えられる。言い換えると、生とは、イデア(=「魂」)の現象相なのであり、死とはイデア(=「魂」)の純粋相であると考えられる。プラトンが説いたように、魂は不死である。つまり、魂の純粋相(原形相)と現象相の二相の循環があり、それが螺旋的回帰していると思われるのである。そう、ニーチェの永劫回帰である。ただし、ニーチェの反復は、現象相に傾斜していると考えられる。
 イデア界=「魂」界と仮象界としての現象界の複合体としての総合界があると言えよう。
 そうならば、問題は、知や認識や感覚・知覚等のことである。知や感覚の主体とは何か。PS理論は、イデア的主客論であり、イデアには、認識作用があると考えている。原ノエシス/原ノエマである。すると、差異だけでなく、同一性の認識もイデアが行っている可能性はあるだろう。
 例えば、「わたし」の認識であるが、それは、イデアに基盤があるのではないだろうか。そうならば、現象での認識も永遠である。

10)自由主義経済とは、グローバル経済では、詰まるところ、巨大資本主義的自由主義であり、大資本、中小資本にとっては、淘汰される自由主義である。結局、資本の多寡が権力となっているのである。もっとも、単に量的なものだけでなく、巨大資本とは、質的な価値においても、大資本・中小資本を凌駕しているのである。この点をどう見るのか、である。
2008/04/11のBlog
先に次のように書いたが、まだ、十分明晰になっていないので、さらに整理したい。

【ここで否定とショート(短絡)と没入の関係を整理しておきたい。否定とは、差異共振性の否定のことであり、連続的同一性化においては、同一性主義=自我主義を形成する。
 ショートとは、差異共振理性を自我主義が否定抑圧し、自我主義が中心化されることである。
没入とは、賦活された差異共振エネルギーに対して、自我主義が反動的な態度をとり、自我主義を過剰化すること、あるいは、差異共振エネルギーを連続様態において、肯定するために、差異共振性が連続化されて全体主義になることである。】
http://ameblo.jp/renshi/entry-10087388417.html

問題点は、いわば牽強付会の点である。否定が差異共振性の否定であるというのは、はっきり言っておかしい。否定は否定であり、説明はいらないのである。これがまず一点である。
 次に、ショートと没入の区別であるが、これは、以前は、区別しないで、同じ心的事象を意味する用語として用いたのである。それで問題ないと思えるので、そうしておきたい。
 簡単に説明すると、ショート=没入とは、差異共振エネルギー(差異エネルギー)を抑圧している同一性主義=自我主義が、活性化した差異共振エネルギーを抑圧し切れずに、エネルギーが衝動化して、同一性主義=自我主義の攻撃性が暴発することであり、他方、それとは逆方向に、活性化された差異共振エネルギーが同一性主義=自我主義に規制されて、全体主義化することである。
2008/04/09のBlog
同一性について:仮象的同一性と特異的同一性:多様な現象世界とイデア論

テーマ:差異と同一性

これまで、差異と同一性の関係について検討に検討を重ねてきて、結局、同一性を包摂する差異共振性ないしは、同一性を包摂する超越的差異という考え方に達したが、果たして、同一性を同一性として固定していいのか、という問題がありうるのである。
 まず、具体的にするために、明快な例をあげよう。親指は英語では、a thumbである。そして、厳密には、a fingerではないのである。だから、片手には、普通、英語では、four fingers and a thumbがあるのであり、five fingersではないのである。
 ありていに言えば、親指は指ではないのである。日本語で親指とは、ある対象に対する同一性概念であり、指という同一性概念に入る。しかし、英語では、親指(同一性)の対象は、「指」a fingerではない。
 これは、対象としての親指の同一性は、英語と日本語では成立しないことになるだろう。親指は、「指」(同一性)ではないのである。
 そうすると、この場合、同一性とは何か、という問題が生じるだろう。親指は、同一性ではないということになるのである。同一性の破綻がここにあるだろう。
 すると、すぐ考えられるのは、親「指」とは、仮象の同一性ではないかということである。ないしは、仮構の同一性ではないかということになる。(さらに極端化すれば、幻想の同一性ではないか、となるだろう。この点はおいておく。)
 つまり、「指」という実体をもった同一性が存するのではなく、仮象・仮構として、「指」という同一性があるのではないのか、ということである。言い換えれば、バーチャルなものとして、乃至は、シミュラクラとして同一性が存するのではないのか、ということになる。
 この問題は実に伝統的な問題でもあり、たとえば、見立てということも、これに関係するだろう。いったい、見立てとは何か。やはり、仮象であるが、そのものとして、認知するということである。
 そうならば、この仮象認識とは何なのだろうか。思うに、主体・主観性において、同一性形式があるのであり、その同一性形式を対象に当てはめる認識行為のことではないのか。
 「指」の場合は、「指」という同一性形式を対象の親指に、いわば、投影すると考えられる。つまり、内的な心的な観念として、同一性形式があると言えるのではないだろうか。だから、これは、観念論の勝利である。フッサールの志向性の概念通りである。
 だから、同一性とは、仮象・仮構的同一性であるということになる。結局、同一性志向性ないしは同一性構造に基づく志向性が基盤にあるということである。つまり、超越論的主観性である。同一性主観性と言ってもいいだろう。
 しかし、これは、当然、内的な差異、外的な差異を否定・排除したものである。内的な同一性志向性に基づいて、外的な差異(特異性)を同一性化するのであり、同一性志向性は、また、内的な差異(特異性)を同一性化しているのである。
 この同一性志向性を、これまで、連続的同一性と呼んできた。これは、差異を否定しつつも、差異と連続している同一性への志向性というものである。差異を否定・抑圧・排除・隠蔽することが、差異との連続性を保持しているのである。
 主題にもどると、仮象同一性とは、観念性であるから、物質的実体性はないということになるだろう。ここで、同一性としての物質との関係が問題になる。
 古典物理学は、同一性としての物質を基礎としていた。しかし、これが、相対性理論や量子力学において、崩壊したと言えよう。前者では、観測地点によって、ある対象の速度等が異なるのであるし、後者では、位置と速度の数値が同時に決定できないことになったのである。
 だから、現代物理学においては、やはり、同一性の物質ではなくて、仮象の同一性としての物質概念が生まれたと言えよう。
 そうすると、同一性とは、少なくとも、仮象的同一性と見るのが適切であると言えよう。だから、仮象としての現象というイデア論的視点が現代的に、正当化されると言えよう。
 そうすると、同一性を包摂する差異共振性という概念はどうなるだろうか。結局、仮象である同一性現象を包摂する差異共振イデアという理論になるだろう。
 そして、これを量子論的に言えば、仮象同一性物質を包摂する差異共振イデアが量子・素粒子であるということになるだろう。
 そう、量子・素粒子とは、端的に、物質ではないのである。それはイデアなのである。あるいは、イデア的エネルギー(いわば、イデネルゲイアないしはイデネルギー)である。(後で、イデアとイデア的エネルギーの区別を明晰にしたい。)
 それでは、いったい何がそこから帰結されるのか。それは、いわゆる、現象なしいは現実とは、多様な仮象同一性現象であり、複数現象であるということではないだろうか。ありていに言えば、個Aと個Bが見る現象世界は異なるということである。個Aの現象世界Aと個Bの現象世界Bが存するということである。この二つの現象世界は、端的に、同一ではないということになろう。
 いわば、複数多数現象世界があるということになるだろう。そして、それらは、相互に不連続ではないだろうか。個Aが見る桜の花と個Bが見る桜の花は一致しないだろう。確かに、桜の花という形式においては一致するが、個における桜の花の仮象同一性は、相互に一致しないのではないだろうか。なぜなら、個においては、仮象同一性は、個独特の構成があると考えられるからである。たとえば、私が、バッハ音楽を聴くときは、私の中の経験の蓄積において、聴くのであり、その経験の多様性の構成の中におけるバッハ音楽となるのであり、それは、単純な仮象同一性バッハ音楽ではないのである。特異性における仮象同一性バッハ音楽である。
 言い換えると、仮象同一性は、特異性化されているのである。特異な仮象同一性なのである。そして、特異な仮象同一性とは、端的に、特異的個体ではないだろうか。
 そう仮定して考察を続けると、たとえば、アリストテレスの形相とはどうなるだろうか。それは、仮象同一性形式ではないだろうか。そう、アリストテレスの「形而上学」は、既に近代主義的である。そこには、特異性が抜けているのである。
 ここで、プラトンのエイドスないしはイデアとについて考えると、それは、特異的同一性形式ではないだろうか。これは、ほとんど、フッサールの超越論的主観性形式であろう。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point的同一性形式である。
 思うに、プラトンのイデアは、この面と差異共振性の両面が混淆していると思われるのである。たとえば、善のイデアは、後者であると思われる。また、花のイデアや机のイデア等は、前者だと思われる。
 いわば、超越論的構造主義者としてのプラトンと、超越的構造主義者(超越的差異主義者)としてのプラトンが存すると思える。『国家』における芸術家を追放したプラトンは、前者であり、いわば、悪しきプラトンである。
 では、最後に、ヒンズー教やインド哲学で言われるマーヤーについて考えてみたい。そこに、幻想としての同一性という主題も含めたい。
 まやかしとしての現象と