Blog
前のページ
|
次のページ
2008/03/20のBlog
[ 07:39 ]
[ ギリシャ神話より ]
神話には、ときに現代も現実として起こりうる寓話が、
数多く散りばめられているような気もしている。
ギリシャ神話に登場する神々は、
きわめて人間的というか、現実的な人々、いや神々のようにも思われているらしい。
さて、ゼウス。
好色厚顔酒池肉林大好物のゼウスは、フィニキアの王女エウロペを見初める。
だからといってもゼウスも人の子、いや、恐妻家の大王であるから、
妻ヘラの手前、あからさまにアプローチというわけにもいかない。
そこでゼウスは腹心のヘルメスに計略の片棒を担がせることにする。
好色厚顔のゼウスは、マキャベリ論者でもあるかのように、
目的のためとはいえ手段を選ぶような、生半可な男、いや、神ではなかったらしい。
ゼウスは牡牛に変身し、毎日の牛追いを日課とするヘルメスに頼んで、
ヘルメスの牛たちに紛れ込んだ。
一際美しい牡牛を見つけたエウロペは、
「まあ、なんて綺麗な牛でしょう」くらいのノリで、ゼウス牛と戯れだす。
すっかり油断したエウロペが、ゼウス牛の背に跨った途端、
ゼウス牛は疾走しだすのだ。
ゼウス牛の背に乗せられたエウロペは、どうすることもできぬまま、
牛のなすママ、いや、ゼウスのなすはパパ、と、わけもわからぬ状態となる。
エウロペを乗せたゼウス牛は海に飛び込み、エーゲ海を渡りクレタ島に辿り着く。
現代であったら略取誘拐で、ゼウスも立派な犯罪者である。
ところが、被害者であるエウロペは、
エーゲ海を一望するクレタ島のゴルテュンの泉の畔で、
加害者ゼウスと結ばれてしまう。
ここに悲劇が見え隠れするような気もしている。
世の男性から見れば、実に悲しむべき現実がそこにあるのかもしれない。
牡牛のような男、いや、神であっても、
最初は、その容姿に恋心など微塵も抱かなかった男であっても、
エーゲ海、クレタ島、ゴルテュンの泉とくれば、
さすがのエウロペも、心も身体も許してしまった現実がそこにある。
世の女性すべてが、エウロペというわけでもないだろうけど、
世の男性としては、エウロペ的女性も存在するということは、
いちおう考慮に入れておかなければならない情報であることが、
悲しいといえば悲しい現実でもあるような気もしないでもないのだ。
さらに嘆かわしいのは、金と権力と策略さえ手に入れれば、
女性はどうにでもなると思い込んでいる男も存在してしまうことなのかもしれない。
ことことさように、エウロペはゼウスと結ばれてしまい、
挙句の果てに、のちにクレタの大王となるミノス王まで授かってしまう。
しかもよせばいいのに、エウロペは「ヨーロッパ」の語源ともなっているらしい。
だからというわけでもないけれど、
われわれ天照の子孫と自認する、
あげくのはてに清廉潔白純潔輸血大好物民族とも自賛してしまっている民族からすれば、
「ヨーロッパ」と聞くだけで、
なぜか「性に寛容」「性にだらしない」というイメージを持ってしまう人々も、
未だに後を絶たないのかもしれない。
ところが、このヨーロッパ。
どこをどうひっくり返したのかはわからないけど、
なぜか女性のヨーロッパ好きが多いのも不思議といえば不思議、
アタリマエといえばアタリマエの現実は、今尚、そこに存在しているらしい。
数多く散りばめられているような気もしている。
ギリシャ神話に登場する神々は、
きわめて人間的というか、現実的な人々、いや神々のようにも思われているらしい。
さて、ゼウス。
好色厚顔酒池肉林大好物のゼウスは、フィニキアの王女エウロペを見初める。
だからといってもゼウスも人の子、いや、恐妻家の大王であるから、
妻ヘラの手前、あからさまにアプローチというわけにもいかない。
そこでゼウスは腹心のヘルメスに計略の片棒を担がせることにする。
好色厚顔のゼウスは、マキャベリ論者でもあるかのように、
目的のためとはいえ手段を選ぶような、生半可な男、いや、神ではなかったらしい。
ゼウスは牡牛に変身し、毎日の牛追いを日課とするヘルメスに頼んで、
ヘルメスの牛たちに紛れ込んだ。
一際美しい牡牛を見つけたエウロペは、
「まあ、なんて綺麗な牛でしょう」くらいのノリで、ゼウス牛と戯れだす。
すっかり油断したエウロペが、ゼウス牛の背に跨った途端、
ゼウス牛は疾走しだすのだ。
ゼウス牛の背に乗せられたエウロペは、どうすることもできぬまま、
牛のなすママ、いや、ゼウスのなすはパパ、と、わけもわからぬ状態となる。
エウロペを乗せたゼウス牛は海に飛び込み、エーゲ海を渡りクレタ島に辿り着く。
現代であったら略取誘拐で、ゼウスも立派な犯罪者である。
ところが、被害者であるエウロペは、
エーゲ海を一望するクレタ島のゴルテュンの泉の畔で、
加害者ゼウスと結ばれてしまう。
ここに悲劇が見え隠れするような気もしている。
世の男性から見れば、実に悲しむべき現実がそこにあるのかもしれない。
牡牛のような男、いや、神であっても、
最初は、その容姿に恋心など微塵も抱かなかった男であっても、
エーゲ海、クレタ島、ゴルテュンの泉とくれば、
さすがのエウロペも、心も身体も許してしまった現実がそこにある。
世の女性すべてが、エウロペというわけでもないだろうけど、
世の男性としては、エウロペ的女性も存在するということは、
いちおう考慮に入れておかなければならない情報であることが、
悲しいといえば悲しい現実でもあるような気もしないでもないのだ。
さらに嘆かわしいのは、金と権力と策略さえ手に入れれば、
女性はどうにでもなると思い込んでいる男も存在してしまうことなのかもしれない。
ことことさように、エウロペはゼウスと結ばれてしまい、
挙句の果てに、のちにクレタの大王となるミノス王まで授かってしまう。
しかもよせばいいのに、エウロペは「ヨーロッパ」の語源ともなっているらしい。
だからというわけでもないけれど、
われわれ天照の子孫と自認する、
あげくのはてに清廉潔白純潔輸血大好物民族とも自賛してしまっている民族からすれば、
「ヨーロッパ」と聞くだけで、
なぜか「性に寛容」「性にだらしない」というイメージを持ってしまう人々も、
未だに後を絶たないのかもしれない。
ところが、このヨーロッパ。
どこをどうひっくり返したのかはわからないけど、
なぜか女性のヨーロッパ好きが多いのも不思議といえば不思議、
アタリマエといえばアタリマエの現実は、今尚、そこに存在しているらしい。
2008/03/17のBlog
[ 07:12 ]
[ ギリシャ神話より ]
天空の支配者・神々の王・全能の神「ゼウス」。
ゼウスはガイアの孫、レアの息子。
ガイアは夫であるウラノスに苦しめられ、
レアもまたガイアの息子である夫クロノスに苦しめられていたらしい。
[関連したBlog]
おばあちゃまもママも、夫には苦労させられたのかもしれない。
女神や女性たちばかりなら維持できた平和と安寧の幸せも、
妬み僻みが得意で無能な男たちが権力を手にした途端、崩れ去る。
男の愚行による悲劇は神話の時代から反映されていたのかもしれない。
傍若無人酒池肉林、荒唐無稽慇懃無礼満員御礼(横断歩道でも可)の
血筋を継ぐゼウスが、天空の支配者、神々の王、全能の神となってしまったわけだから、
世界に安寧とか平和が訪れることなど、はじめから有り得ないことだったのかもしれない。
古代ギリシャの人々は、「人間は二つの運命を持つ」と考えていたらしい。
一つは自身で選択可能な運命。一つは自身では選択不可能な運命。
この選択不可能な運命は、神々の気まぐれ、ゼウスのご機嫌次第ということだったらしい。
そしてなによりゼウスは神々の王であるから、
善なる神がいくら善行を施そうとしても、ゼウスのご機嫌と気まぐれで、
そんなものはすべて吹っ飛んでしまう。
挙句の果てにこのゼウスという人、ではなく神は、
ゼウスは酒池肉林傍若無人の人で、もとい神で、
理屈もへったくれも、倫理も提灯も、ましてや愛がすべったころんだなどは、
一切合財懐具合「そんなの関係ねぇ」神であったらしい。
このような人が、いや神が、全知全能の力を持ってしまったからには、
ギリシャ人としても、運命は「どうにもならない」「どうしようもない」と
なかばやけっぱちであきらめる業も身に付けておかなければ、
とても「やってられない」状態であったのかもしれない。
ゼウスという人柄、いや神柄?の人が、もとい神が、
気まぐれに投げかける災難に、いちいちまともに対応していたのでは、
古代ギリシャ人の心までが病んでしまう。
だからといって「どうにもならない」「どうしようもない」では、
あまりに悲しすぎるので、「どうにかなるさ」という考え方を編み出したのかもしれない。
「ケセラセラ」という言葉も、おまじないのように使われてきたのかもしれないけど、
個人的には「ヒディアス・キンキー♪」のほうが
しっくりくるような気もしている。
それでも神話の過酷さから逃れるためには、
運命の過酷さを受け止めるためには、「ケセラセラ」という言葉も、
対神話的だけにとどまらず、現実的にも充分な効果を期待できるのかもしれない。
ゼウスはガイアの孫、レアの息子。
ガイアは夫であるウラノスに苦しめられ、
レアもまたガイアの息子である夫クロノスに苦しめられていたらしい。
[関連したBlog]
おばあちゃまもママも、夫には苦労させられたのかもしれない。
女神や女性たちばかりなら維持できた平和と安寧の幸せも、
妬み僻みが得意で無能な男たちが権力を手にした途端、崩れ去る。
男の愚行による悲劇は神話の時代から反映されていたのかもしれない。
傍若無人酒池肉林、荒唐無稽慇懃無礼満員御礼(横断歩道でも可)の
血筋を継ぐゼウスが、天空の支配者、神々の王、全能の神となってしまったわけだから、
世界に安寧とか平和が訪れることなど、はじめから有り得ないことだったのかもしれない。
古代ギリシャの人々は、「人間は二つの運命を持つ」と考えていたらしい。
一つは自身で選択可能な運命。一つは自身では選択不可能な運命。
この選択不可能な運命は、神々の気まぐれ、ゼウスのご機嫌次第ということだったらしい。
そしてなによりゼウスは神々の王であるから、
善なる神がいくら善行を施そうとしても、ゼウスのご機嫌と気まぐれで、
そんなものはすべて吹っ飛んでしまう。
挙句の果てにこのゼウスという人、ではなく神は、
ゼウスは酒池肉林傍若無人の人で、もとい神で、
理屈もへったくれも、倫理も提灯も、ましてや愛がすべったころんだなどは、
一切合財懐具合「そんなの関係ねぇ」神であったらしい。
このような人が、いや神が、全知全能の力を持ってしまったからには、
ギリシャ人としても、運命は「どうにもならない」「どうしようもない」と
なかばやけっぱちであきらめる業も身に付けておかなければ、
とても「やってられない」状態であったのかもしれない。
ゼウスという人柄、いや神柄?の人が、もとい神が、
気まぐれに投げかける災難に、いちいちまともに対応していたのでは、
古代ギリシャ人の心までが病んでしまう。
だからといって「どうにもならない」「どうしようもない」では、
あまりに悲しすぎるので、「どうにかなるさ」という考え方を編み出したのかもしれない。
「ケセラセラ」という言葉も、おまじないのように使われてきたのかもしれないけど、
個人的には「ヒディアス・キンキー♪」のほうが
しっくりくるような気もしている。
それでも神話の過酷さから逃れるためには、
運命の過酷さを受け止めるためには、「ケセラセラ」という言葉も、
対神話的だけにとどまらず、現実的にも充分な効果を期待できるのかもしれない。
2008/03/13のBlog
[ 13:31 ]
[ ギリシャ神話より ]
ブロンズィーノの「愛のアレゴリー」
(邦題/「愛の勝利の寓意」または「ヴィーナスの勝利」)が好きです。
この絵はミステリアスな絵画として取り上げられる機会も多いようではあるが、
もしかしたら、実は単純な真理を描写して見せただけなのかもしれない。
ヒトはときに、あまりに過酷な真理を目のあたりにするとき、目を背ける代わりに
「理解不能」という結論にしがみつきたくなる場合もあるのかもしれない。
この絵はもれなくヴィーナスとその息子キューピッドの白艶なる口づけにより、
そのエロティシズムを感じさせてはくれるらしいけれど、
それは単に「愛と美の女神」ヴィーナスと「愛の神」キューピッド(エロス)の
融合を表象しているわけでもないらしい。
ここに注目すべきは、ヴィーナスの足元の「偽りの寓意」とされる二つの仮面。
これらの仮面は愛の完結に潜むとされる「偽りの寓意」を指し示しているらしい。
愛の真理には常に快楽と欲望、
それに付随する「偽りの寓意」が含まれてしまうということなのかもしれない。
閑話休題。
ブロンズィーノの「愛のアレゴリー」には、上部にクロノスが描かれている。
不安定な登場人物たちの繰り広げる官能の美は、
時の神クロノスの広げた青い真理の布の上で描かれている。
ここにこそこの絵のミステリアスな部分が表出してくるのかもしれない。
愛と美と、官能と快楽と欲望。
それらが時間という真実のもとに繰り広げられていく真理とはなんなのか。
その議論については
もはや凡人には口を挟めぬ高尚な哲学の領域に属するものが含まれていると考えられる。
クロノスはガイアの末の息子。[関連したBlog]
ガイアは我が子を自分の権力保持独占のため、
次々とタルタロス(地獄)へ追いやるウラノスに対抗するため、
クロノスに斧を与えて襲わせる。支配権はウラノスからクロノスへと移った。
ウラノスの支配から解放された兄弟たちも、
次々とタルタロス(地獄)から生還してくる。
今度はクロノスがウラノスのように、
兄弟たちを次々とタルタロス(地獄)へ閉じ込めはじめる。
クロノスは自分の姉妹である美しいレアを妻とするが、
レアは自分の息子をクロノスから守るためクレタ島へ非難する。
レアは、
自分の息子を次々と飲み込むクロノスに、息子の替わりに大きな石を飲み込ませる。
「息子をこの布に包みました」と偽り大きな石を布に包んで差し出したらしい。
こうして生き残り、後に万能の神と崇められるようになったのが、ゼウスである。
万能の神も所詮は「女神ありき」の産物でしかないのかもしれない。
クロノスは、ママであるガイアに渡された斧をもったまま「農耕の神」として、
かろうじて後世に名を留めることができた。
農耕には季節と気候、時間の経過管理が重要なことから、
クロノスはいつのまにか「時の翁」として扱われるようになった。
さて、このクロノスが広げた真理と時の青布に描かれた「愛のアレゴリー」。
この絵は多くの人々にミステリーと真実を投げかけ続けている。
そしてこの絵はこれからも
人々にミステリアスな真理を投げかけ続けるのかもしれない。
それはまるで「愛は永遠である」といわんばかりに。
(邦題/「愛の勝利の寓意」または「ヴィーナスの勝利」)が好きです。
この絵はミステリアスな絵画として取り上げられる機会も多いようではあるが、
もしかしたら、実は単純な真理を描写して見せただけなのかもしれない。
ヒトはときに、あまりに過酷な真理を目のあたりにするとき、目を背ける代わりに
「理解不能」という結論にしがみつきたくなる場合もあるのかもしれない。
この絵はもれなくヴィーナスとその息子キューピッドの白艶なる口づけにより、
そのエロティシズムを感じさせてはくれるらしいけれど、
それは単に「愛と美の女神」ヴィーナスと「愛の神」キューピッド(エロス)の
融合を表象しているわけでもないらしい。
ここに注目すべきは、ヴィーナスの足元の「偽りの寓意」とされる二つの仮面。
これらの仮面は愛の完結に潜むとされる「偽りの寓意」を指し示しているらしい。
愛の真理には常に快楽と欲望、
それに付随する「偽りの寓意」が含まれてしまうということなのかもしれない。
閑話休題。
ブロンズィーノの「愛のアレゴリー」には、上部にクロノスが描かれている。
不安定な登場人物たちの繰り広げる官能の美は、
時の神クロノスの広げた青い真理の布の上で描かれている。
ここにこそこの絵のミステリアスな部分が表出してくるのかもしれない。
愛と美と、官能と快楽と欲望。
それらが時間という真実のもとに繰り広げられていく真理とはなんなのか。
その議論については
もはや凡人には口を挟めぬ高尚な哲学の領域に属するものが含まれていると考えられる。
クロノスはガイアの末の息子。[関連したBlog]
ガイアは我が子を自分の権力保持独占のため、
次々とタルタロス(地獄)へ追いやるウラノスに対抗するため、
クロノスに斧を与えて襲わせる。支配権はウラノスからクロノスへと移った。
ウラノスの支配から解放された兄弟たちも、
次々とタルタロス(地獄)から生還してくる。
今度はクロノスがウラノスのように、
兄弟たちを次々とタルタロス(地獄)へ閉じ込めはじめる。
クロノスは自分の姉妹である美しいレアを妻とするが、
レアは自分の息子をクロノスから守るためクレタ島へ非難する。
レアは、
自分の息子を次々と飲み込むクロノスに、息子の替わりに大きな石を飲み込ませる。
「息子をこの布に包みました」と偽り大きな石を布に包んで差し出したらしい。
こうして生き残り、後に万能の神と崇められるようになったのが、ゼウスである。
万能の神も所詮は「女神ありき」の産物でしかないのかもしれない。
クロノスは、ママであるガイアに渡された斧をもったまま「農耕の神」として、
かろうじて後世に名を留めることができた。
農耕には季節と気候、時間の経過管理が重要なことから、
クロノスはいつのまにか「時の翁」として扱われるようになった。
さて、このクロノスが広げた真理と時の青布に描かれた「愛のアレゴリー」。
この絵は多くの人々にミステリーと真実を投げかけ続けている。
そしてこの絵はこれからも
人々にミステリアスな真理を投げかけ続けるのかもしれない。
それはまるで「愛は永遠である」といわんばかりに。
2008/03/10のBlog
[ 07:30 ]
[ ギリシャ神話より ]
「この世」とか「宇宙」の始まりは、
カオス(混沌)であったらしい。
そりゃそうだ。初めから整理整頓されていたのなら、
「それはその前に何かか誰かが存在していた可能性を指し示す証拠でもある」
とも言われかねないのかもしれない。
なのでとりあえず「この世」のそもそもがカオスであったことには納得。
カオスの状態に、突然発生的に生まれたのがガイア。
ガイアは母なる大地となり、アタリマエに「一番はじめの神」となった。
女性はいつも突然であり、そしていつでも生まれながらの存在感を持っているらしい。
カオス(混沌)から生まれた大地の神ガイアありきで、
のちにゼウスだとかミューズの物語へと展開していくわけだけど、
そもそものガイアが混沌から生まれ出でている以上、
その後の世界がどこかに常に混沌と矛盾を含んでいたとしても、
これはアタリマエといえばごくごくアタリマエのことなのかもしれない。
それでも大地の女神ガイアの出現により、
どうしようもないどうにもならないどうにもなる気にもならない混沌の状態に、
一縷の光がさしかかったような気もしないでもない。
女性はいつも光明であり始まりであり、未来を夢見させてくれるものなのかもしれない。
ところが、このガイア、よせばいいのに、女性の宿命なのかなんなのか、
天空ウラノスを産んでしまう。
挙句の果てにウラノスはガイアの子となり夫となってしまう。
ギリシャ人は、天と地、地上と空とが、運命を支配すると考えていたらしいから、
ガイアが息子と夫を同時に、あるいは理不尽にも、はたまた不可思議にも
生み出してしまったとしても、一概にガイアだけを責めるわけにはいかない。
さてさてここからが問題、大問題となってくるわけだけれども、
そもそもガイアだけでも充分であったのに、
息子だ夫だののウラノスの出現により、世の中は途端に醜くなっていく。
ガイアとウラノスは、花鳥木獣と巨神族を創りだすのだけれども、
こともあろうにウラノスは彼等をタルタロス(地獄)へ幽閉してしまう。
いつの時代も女性だけならなんの問題もないところへもってきて、
そこに嫉妬と妬み嫉みの得意な醜くも無能な男が加わると、
とんでもない悲劇を巻き起こしてしまう可能性が出現してくるのかもしれない。
カオス(混沌)であったらしい。
そりゃそうだ。初めから整理整頓されていたのなら、
「それはその前に何かか誰かが存在していた可能性を指し示す証拠でもある」
とも言われかねないのかもしれない。
なのでとりあえず「この世」のそもそもがカオスであったことには納得。
カオスの状態に、突然発生的に生まれたのがガイア。
ガイアは母なる大地となり、アタリマエに「一番はじめの神」となった。
女性はいつも突然であり、そしていつでも生まれながらの存在感を持っているらしい。
カオス(混沌)から生まれた大地の神ガイアありきで、
のちにゼウスだとかミューズの物語へと展開していくわけだけど、
そもそものガイアが混沌から生まれ出でている以上、
その後の世界がどこかに常に混沌と矛盾を含んでいたとしても、
これはアタリマエといえばごくごくアタリマエのことなのかもしれない。
それでも大地の女神ガイアの出現により、
どうしようもないどうにもならないどうにもなる気にもならない混沌の状態に、
一縷の光がさしかかったような気もしないでもない。
女性はいつも光明であり始まりであり、未来を夢見させてくれるものなのかもしれない。
ところが、このガイア、よせばいいのに、女性の宿命なのかなんなのか、
天空ウラノスを産んでしまう。
挙句の果てにウラノスはガイアの子となり夫となってしまう。
ギリシャ人は、天と地、地上と空とが、運命を支配すると考えていたらしいから、
ガイアが息子と夫を同時に、あるいは理不尽にも、はたまた不可思議にも
生み出してしまったとしても、一概にガイアだけを責めるわけにはいかない。
さてさてここからが問題、大問題となってくるわけだけれども、
そもそもガイアだけでも充分であったのに、
息子だ夫だののウラノスの出現により、世の中は途端に醜くなっていく。
ガイアとウラノスは、花鳥木獣と巨神族を創りだすのだけれども、
こともあろうにウラノスは彼等をタルタロス(地獄)へ幽閉してしまう。
いつの時代も女性だけならなんの問題もないところへもってきて、
そこに嫉妬と妬み嫉みの得意な醜くも無能な男が加わると、
とんでもない悲劇を巻き起こしてしまう可能性が出現してくるのかもしれない。
前のページ
|
次のページ