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2008/03/17のBlog
[ 07:12 ] [ ギリシャ神話より ]
天空の支配者・神々の王・全能の神「ゼウス」。
ゼウスはガイアの孫、レアの息子。
ガイアは夫であるウラノスに苦しめられ、
レアもまたガイアの息子である夫クロノスに苦しめられていたらしい。
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おばあちゃまもママも、夫には苦労させられたのかもしれない。

女神や女性たちばかりなら維持できた平和と安寧の幸せも、
妬み僻みが得意で無能な男たちが権力を手にした途端、崩れ去る。
男の愚行による悲劇は神話の時代から反映されていたのかもしれない。

傍若無人酒池肉林、荒唐無稽慇懃無礼満員御礼(横断歩道でも可)の
血筋を継ぐゼウスが、天空の支配者、神々の王、全能の神となってしまったわけだから、
世界に安寧とか平和が訪れることなど、はじめから有り得ないことだったのかもしれない。

古代ギリシャの人々は、「人間は二つの運命を持つ」と考えていたらしい。
一つは自身で選択可能な運命。一つは自身では選択不可能な運命。

この選択不可能な運命は、神々の気まぐれ、ゼウスのご機嫌次第ということだったらしい。
そしてなによりゼウスは神々の王であるから、
善なる神がいくら善行を施そうとしても、ゼウスのご機嫌と気まぐれで、
そんなものはすべて吹っ飛んでしまう。

挙句の果てにこのゼウスという人、ではなく神は、
ゼウスは酒池肉林傍若無人の人で、もとい神で、
理屈もへったくれも、倫理も提灯も、ましてや愛がすべったころんだなどは、
一切合財懐具合「そんなの関係ねぇ」神であったらしい。

このような人が、いや神が、全知全能の力を持ってしまったからには、
ギリシャ人としても、運命は「どうにもならない」「どうしようもない」と
なかばやけっぱちであきらめる業も身に付けておかなければ、
とても「やってられない」状態であったのかもしれない。

ゼウスという人柄、いや神柄?の人が、もとい神が、
気まぐれに投げかける災難に、いちいちまともに対応していたのでは、
古代ギリシャ人の心までが病んでしまう。

だからといって「どうにもならない」「どうしようもない」では、
あまりに悲しすぎるので、「どうにかなるさ」という考え方を編み出したのかもしれない。

「ケセラセラ」という言葉も、おまじないのように使われてきたのかもしれないけど、
個人的には「ヒディアス・キンキー♪」のほうが
しっくりくるような気もしている。

それでも神話の過酷さから逃れるためには、
運命の過酷さを受け止めるためには、「ケセラセラ」という言葉も、
対神話的だけにとどまらず、現実的にも充分な効果を期待できるのかもしれない。

2008/03/13のBlog
[ 13:31 ] [ ギリシャ神話より ]
ブロンズィーノの「愛のアレゴリー」
(邦題/「愛の勝利の寓意」または「ヴィーナスの勝利」)が好きです。

この絵はミステリアスな絵画として取り上げられる機会も多いようではあるが、
もしかしたら、実は単純な真理を描写して見せただけなのかもしれない。
ヒトはときに、あまりに過酷な真理を目のあたりにするとき、目を背ける代わりに
「理解不能」という結論にしがみつきたくなる場合もあるのかもしれない。

この絵はもれなくヴィーナスとその息子キューピッドの白艶なる口づけにより、
そのエロティシズムを感じさせてはくれるらしいけれど、
それは単に「愛と美の女神」ヴィーナスと「愛の神」キューピッド(エロス)の
融合を表象しているわけでもないらしい。

ここに注目すべきは、ヴィーナスの足元の「偽りの寓意」とされる二つの仮面。
これらの仮面は愛の完結に潜むとされる「偽りの寓意」を指し示しているらしい。
愛の真理には常に快楽と欲望、
それに付随する「偽りの寓意」が含まれてしまうということなのかもしれない。

閑話休題。
ブロンズィーノの「愛のアレゴリー」には、上部にクロノスが描かれている。
不安定な登場人物たちの繰り広げる官能の美は、
時の神クロノスの広げた青い真理の布の上で描かれている。
ここにこそこの絵のミステリアスな部分が表出してくるのかもしれない。

愛と美と、官能と快楽と欲望。
それらが時間という真実のもとに繰り広げられていく真理とはなんなのか。
その議論については
もはや凡人には口を挟めぬ高尚な哲学の領域に属するものが含まれていると考えられる。

クロノスはガイアの末の息子。[関連したBlog]
ガイアは我が子を自分の権力保持独占のため、
次々とタルタロス(地獄)へ追いやるウラノスに対抗するため、
クロノスに斧を与えて襲わせる。支配権はウラノスからクロノスへと移った。

ウラノスの支配から解放された兄弟たちも、
次々とタルタロス(地獄)から生還してくる。

今度はクロノスがウラノスのように、
兄弟たちを次々とタルタロス(地獄)へ閉じ込めはじめる。

クロノスは自分の姉妹である美しいレアを妻とするが、
レアは自分の息子をクロノスから守るためクレタ島へ非難する。
レアは、
自分の息子を次々と飲み込むクロノスに、息子の替わりに大きな石を飲み込ませる。
「息子をこの布に包みました」と偽り大きな石を布に包んで差し出したらしい。

こうして生き残り、後に万能の神と崇められるようになったのが、ゼウスである。
万能の神も所詮は「女神ありき」の産物でしかないのかもしれない。

クロノスは、ママであるガイアに渡された斧をもったまま「農耕の神」として、
かろうじて後世に名を留めることができた。

農耕には季節と気候、時間の経過管理が重要なことから、
クロノスはいつのまにか「時の翁」として扱われるようになった。

さて、このクロノスが広げた真理と時の青布に描かれた「愛のアレゴリー」。
この絵は多くの人々にミステリーと真実を投げかけ続けている。
そしてこの絵はこれからも
人々にミステリアスな真理を投げかけ続けるのかもしれない。
それはまるで「愛は永遠である」といわんばかりに。
2008/03/10のBlog
[ 07:30 ] [ ギリシャ神話より ]
「この世」とか「宇宙」の始まりは、
カオス(混沌)であったらしい。
そりゃそうだ。初めから整理整頓されていたのなら、
「それはその前に何かか誰かが存在していた可能性を指し示す証拠でもある」
とも言われかねないのかもしれない。
なのでとりあえず「この世」のそもそもがカオスであったことには納得。

カオスの状態に、突然発生的に生まれたのがガイア。
ガイアは母なる大地となり、アタリマエに「一番はじめの神」となった。
女性はいつも突然であり、そしていつでも生まれながらの存在感を持っているらしい。

カオス(混沌)から生まれた大地の神ガイアありきで、
のちにゼウスだとかミューズの物語へと展開していくわけだけど、
そもそものガイアが混沌から生まれ出でている以上、
その後の世界がどこかに常に混沌と矛盾を含んでいたとしても、
これはアタリマエといえばごくごくアタリマエのことなのかもしれない。

それでも大地の女神ガイアの出現により、
どうしようもないどうにもならないどうにもなる気にもならない混沌の状態に、
一縷の光がさしかかったような気もしないでもない。
女性はいつも光明であり始まりであり、未来を夢見させてくれるものなのかもしれない。

ところが、このガイア、よせばいいのに、女性の宿命なのかなんなのか、
天空ウラノスを産んでしまう。
挙句の果てにウラノスはガイアの子となり夫となってしまう。

ギリシャ人は、天と地、地上と空とが、運命を支配すると考えていたらしいから、
ガイアが息子と夫を同時に、あるいは理不尽にも、はたまた不可思議にも
生み出してしまったとしても、一概にガイアだけを責めるわけにはいかない。

さてさてここからが問題、大問題となってくるわけだけれども、
そもそもガイアだけでも充分であったのに、
息子だ夫だののウラノスの出現により、世の中は途端に醜くなっていく。

ガイアとウラノスは、花鳥木獣と巨神族を創りだすのだけれども、
こともあろうにウラノスは彼等をタルタロス(地獄)へ幽閉してしまう。
いつの時代も女性だけならなんの問題もないところへもってきて、
そこに嫉妬と妬み嫉みの得意な醜くも無能な男が加わると、
とんでもない悲劇を巻き起こしてしまう可能性が出現してくるのかもしれない。
2008/03/01のBlog
[ 07:38 ] [ 分類外 ]
「男のくせに睫毛の長いのも良し悪しだね」
「男でもこれだけ睫毛が長いのならビューラーの使い方も覚えておいたほうがいい」
「これだけたいへんな目に合うのなら、自分でビューラーを使えるようになったら?」
女が好き勝手なことを言っている。

男の逆さ睫毛が、男の眼球を直撃するたびに、交わされる会話。
逆さ睫毛が眼球に刺さり出血、病院に行ったこともある。
そこまで大難にならずとも、男の睫毛はちょくちょく男の目を直撃して、
男に苦痛を与えている。その度にその男の窮地を救うのが、その女の任務のようになった。
窮地を救った救世主は、その度に好き放題を言う権利を手に入れてきた。

別れては因りを戻すということを繰り返してきた男と女にとって、
逆さ睫毛の痛みに苦しみむずがる男を、点眼液とビューラーで処置する女の行為が、
二人の安寧、安定状態を象徴している場面ともなっていった。

男が久しぶりに女の部屋を訪れて「逆さ睫毛問題」が勃発したとき、
女が好き放題を言いながらもいそいそと、点眼液とビューラーを持ってくるとき、
二人の関係は回復へと向かっていると思ってもいい。

男が久しぶりに女の部屋を訪れた直後に「逆さ睫毛問題」が勃発して、
そのとき女が点眼液もビューラーもなかなかに用意する気配がないときには、
二人の関係は小康状態のままを当分保つこととなるのだ。
そしてその先にはかならず別れも待ち受けていた。

男と女は、幸か不幸か、そのシチュエーションを何度も繰り返し乗り越えてきた、
あるいは、性懲りもなくただ繰り返してきただけなのかもしれない。
それでも「継続は力」だとか「継続が真実となる」だとかの言葉を支えに、
あるいは、なんの根拠もなく、漠然と、または決然と、ただ現実がそこにある。

久しぶりに女の部屋を訪れた男に、女が珍しく愚痴るような口調で応対していた。
ネチネチとした口調は、いままでの女にはなかった兆候である。

そのとき、男の睫毛が男の眼球を直撃した。
男は「今回は我慢のとき」と直感し、素知らぬ風をよそおっていた。
男は「今度こそ、本当の別れが迫っている」と実感していた。

突然、女の愚痴が止んだ。
・・・「また刺さってるんでしょ。ホントもう、知らないからね」
男は、いよいよ別れを覚悟することにした。

女は立ち上がり、玄関の方角へと向かった。
玄関のドアを開け、「さあっ、出て行って」と言われる前に、男も立ち上がった。

そこへ女が戻ってきた。
点眼液とビューラーを手にしている。
「何してるの?・・・さっさとこっちを向いて!」
男は中腰のまま、女のほうに顔を向け、目をさしだした。

そこには情けない姿の中年オヤジと、天使のような女神、
いや、天使にもなるけど、恐ろしい女神にもなれる女が立ちはだかっていた。