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プエンテの会・ベロ亭日記
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2008/11/28のBlog
[ 20:28 ] [ ベロ亭から ]
ここのところ、
娘のお別れ会に来てくれた人たちに、
ぼちぼちお礼状を書いていて、徹夜が続いている。

ヒデコはヒデコで、娘のモノが運び込まれたときに困らないように、
我が家のスペースを作るべく、
今までありとあらゆるダンボールをやきものの梱包のためにためていた部屋の、
さまざまな大きさの、とても丈夫で使いやすい箱をどんどん燃やしたり、片付けたり、
昨日は、そのために福井のある方にまで足を運んでもらった。
息子がいたときは、箱の中の子供時代の物を整理させたり。

それで、今夜は、大阪でも東京でも
娘ののえの追悼ライブだというのに、
ふらふらの私たちは、たくさんの本の詰まった幾つものダンボールを
ブックオフという古本屋に持ち込んだ。

こんなところに持ち込んでも、
ただ、見栄えがいいかだけで判断されて、
かつての児童文学の傑作もただのごみとして処理されていくのが、
なんだかむしょうに悲しかった。

何冊かの本だけは、手元に残すべく救った。
私が子供時代大事にしていたケストナー全集。
その一冊の『わたしが子どもだったころ』。
ああ、なつかしい、それにしてもなんで捨てられちゃうの??
それから、誰が集めたのか、わたしか息子か、それとものえか。
ビートルズ関連の本が十冊あまり。

でも、児童文学の質の良い本も、その見栄えの質の悪さから、
手元に残すのは控えた。控えながら、良心の呵責を覚えた。
詩人の旧友からもらった、彼女が子ども時代に大事にしていた本もある。

モノを捨てるってなんなのだろう。
モノなんて、継承してくれる人でもいない限り、
ある人にとってだけ大変な価値があっても、
他のほとんどの人にとってはゴミに過ぎない事実に呆然とする。

今日は、たった今、娘の追悼コンサートが開かれている。
大阪で、東京で、のえを思い、偲ぶ人たちが集っている。
そんな輪から遠く離れて、
かつての大切なモノをゴミにすることを終えた私たち。
追悼の集いに変えられるほど大事なことをしたと言えるのか。

ものすごくつらい。

東京行きが、今日の午後二時ころまでちらついていた。
それでも、これからの物事の段取り、
自分の心身のエネルギーのバランスを考えてあきらめた。

大阪のライブの良さが、息子から伝えられる。
実況だ。

なんだかすごくさびしい。

そんな集いからも遠く遠くへだてられて、
のえのモノを入れるスペースを作ったり、
お別れ会のお礼状をつくったり、
書いたり、包んだり。

なんだかすごく悲しくてなさけない。

追悼ライブ行きをあきらめてから、何かがストップしてしまったようだ。

のえのことを偲んだり、思ったりという作業を、
純粋にやれている人たちのことが妙にしゃくにさわる。

しゃくにさわるなんて、不謹慎なのだが、気持ちが荒れる。

2008/11/22のBlog
[ 04:26 ] [ 暮らし ]
久しぶりに、ぐるぐるまわりの精神状態で
疲れてしまった。

寒さが近づいてきたのに、冬支度ができていないこともある。
何かを、スケジュールを立ててやるのは今はきつい。

ゆっくり、自分のやれること順にやるのが、ちょうどいいはずなのに、
いつもの悪い癖で
また、てんてこ舞いをしてしまった。

いよいよ、雪用のタイヤに替えなければならないと、
外に飛び出した。
スタットレスタイヤを物置から出し
ハイエースロングの夏用タイヤを外すために
ボルトを緩めようとした。

ところが、全体重をかけて、跳ねたがボルトは緩まない。
何度も跳ねた。
ケイコも呼んできて、ボルトを緩めてみてと言ったが無理。

やっぱり、エヤーをかけてやろうということで
前々から、タイヤ交換のための工具、
インパクトを買いたいと思っていて、
大急ぎでホームセンターに向かった。

40分ぐらいして帰ってきて、しばらく、家の中に入りストーブの前で
使用説明書を読んだ。

こういう工具の使い方をマスターするのは大好きで、
どうやらできそうと、
焼き物用に使っている、エヤーコンップレッサーを車庫に運ぶ。

コンプレッサーと、エヤーインパクトをつないで
ボルトに向かう。

空気が漏れる。
販売元に電話して、漏れの原因を探る。

2度も電話して、技術屋さんに説明を聞く。
こんな風に、電動工具の使い方を知るのは楽しい。
ほんとは、もう勘弁してほしいほどしんどい作業が
結構楽しい。


だが、ボルトは抜けない。
おかしい。

他のタイヤにインパクトを仕掛けると
なんとさっと抜ける。

どうやら、最初に仕掛けたタイヤは、
去年、息子が助けてくれたタイヤ交換で
思い切り体重をかけて、
ゆるままくなったようで、
2本目のタイヤから、息子は私に気遣って、
体重をかけずにボルトを締めたのを思い出した。

3本のタイヤは、そのあと結構スムーズに交換できた。
ボルトを外し、ボルトを締める。その繰り返しは
新しい工具で結構ルンルンだ。

だが、最初の1本に戻ると、やっぱり抜けない。
4時間もかかったのだ。
午後5時すれすれで、近くの自動車やに行き
残ったタイヤを交換してもらった。
3分でできた。

冷静に、こういった作業ができなくなっている。
「のえ」の遺影をみているとどんな作業も止まる。

それからよりによって、
数日前、XPのデスクトップのパソコンが壊れた。
だから、ビスタのノートパソコンで、すべてやっている。
たくさんデータをなくした。
そこでこのノートパソコンのソフトの入れなおしなどもあり
なかなかスムーズにいかない。

のえのうたも消えた。
CDにとってあった音源を、ノートパソコンに取り入れようとすると
できない。
また、私の時間を2時間も失った。
友人の助けで、なんとかパソコンにメディアプレーヤーで曲を入れ、またCDに数まい焼いた。

どれも楽しい作業なのだが、
どうも、ぐるぐるまわりで、疲れやすい。

バッチフラワーレメディで何とかやりこなす。
明日は落ち着くだろう。
 ヒデコ


2008/11/20のBlog
昨晩は、しみじみしみるうれしさに、ゆっくりじっくり、
のえの、生きた時間が耕されて、私の中で満ちていく
そんな体験をすることになりました。

おととい、10月末に会った、のえの音楽仲間の「まちゅこけ」さんから、
11月28日の「うたうたい のえ追悼ライブ」の、
小さなフライヤーが五枚届きました。

追悼ライブが、10月5日直後も何回か、
いくつかのライブハウスで開かれていたことは、
聞き及んでいたけれど、
こうやって出演者から届く知らせは、ことのほかありがたいものでした。

そして、昨晩、最近書き込みがやや少なめになった、
のえのブログ、「うたうたい のえ 声ある限り」の掲示板に、
きしくも同日の、11月28日、
東の都、東京の高円寺でも、
のえ追悼のライブ集会が開かれるという告知が書かれていました。

西の大阪で、東の東京で、
のえを思う人の声から声がつながって、
追悼のライブが偶然同じ日にもたれることになったのです。

さっそく、のえに報告しました。
「やったね!」
のえは笑って、「知らんかったの?」
と言っているようでした。

東京にいたのは、12年ほど前まで。

たしかに、新宿東口の地下道で、歌舞伎町のコマ劇場前で、
のえが女性ストリートミュージッシャンの先駆けとして、
つくってきたつながりがあることは判っていたものの、
それがこんなふうに、
時を経ても、追悼への思いに結ばれていくことを、
現実に見るのは、
のえの生きていたそのときの存在感を思わせてくれて、
私は、ずしりとそのすごさを思わずにいられませんでした。

夜、眠りながらたくさんの夢を見たように思います。
それは、のえの生きた時間を生きて哲学するような、
不思議な夢ばかりでした。
息をのみ、涙しながら、しかし私を満たしていたのは、
悲しみばかりではありませんでした。

以下、11月28日の二つのライブの告知をそのまま掲載します。
ここでこんなふうに告知をかさねると、
二つの会場から人があふれてしまいやしないかと、
やや心配ですが、
きっとそんな機会を望んでいる方も、少なくはないのではないでしょうか。

東京
高円寺Moonstomp にて夕方から夜まで
野央追悼のライブ集会行います。1オーダーカンパ制。
いま出演決まっているのは、ミキ、カブ、ただし、クヤ、まさき、マル、マイアミ
あの頃の奴になかなか連絡とれん
東京にいた頃の野央を知っている奴全員集合
歌いたい奴も飲みたい奴もただそこでじっとしてたい奴も
野央という一本の木の下で再会しよう

フライヤーはここ。
http://f.hatena.ne.jp/mikiyamato/20081120173656


以上ミキさんより。

大阪
釜が崎(大阪西成萩野茶屋)西成警察近く、難波屋で
19時スタート、チャージ・投げ銭
出演 ルーシー & ヘンリー松山
 まちゅこけ

以上 まちゅこけ さんより。

「のえ という一本の木の下」か。

そうして、私は昨晩、そんな木の下で休んでいたのかもしれません。

ケイコ



2008/11/15のBlog
[ 02:02 ] [ 暮らし ]
今掃除が終わりました。
障子も貼りました。
9月の下旬からしてなかった掃除が、今日できました。

10月のあれから、昨日まで、大阪ののえの部屋をかたずけ続け
福井のベロ亭もたった今掃除が終わりました。

ケイコの昨日書いた文。
実は3時間ほど前に書いた文。

「ヒデコはせっせと片づけている。
昨日も今日も。」と。

昨日とは、大阪で。
今日とは、福井で。

たまりにたまったかたずけを3時間ほどやって
掃除機をかけた。

なんだか、キャラバンや個展の準備や片付けも入れると
私の人生は、ダンボールに荷造りしてばかりのような気がする。

ケイコと私の特技がとても違っているので
こんな、時間を私はまた送り続けている。

掃除が終わって、ホットカーペットも出して、
その上で、ケイコガほっこり横たわっているのを
40日ぶりに眺め、心が温まる。

ベロ亭に来ていただいても、大丈夫ですよ。
 ヒデコ




2008/11/14のBlog
[ 23:10 ] [ ベロ亭から ]
昨晩、大阪から帰ってきた。

私は途中から本格的に風邪をひきそうになって、
もともと部屋の片づけの類では、
おおざっぱに言うと役に立たないほうにしても、
それはそれなりに子育てだって、
なんだってしてきた私だから、
できることはできる、
そして、その気になればかなり力を発揮することもある、
片付け、分類などなどの作業には、
娘の部屋でほとんど、本当に役立たずに終わった。

今日でちょうど40日。

何一つ色あせず、何一つ変わらず、
記憶はたたずんで、居場所をさがしている。

福井県越前市のベロ亭では、
散らかりに散らかった部屋から部屋を、
今はヒデコがまたまた右往左往しながら、
少しずつ片づけている。

九月末、いや十月初めは、まだ暑さすら残っていたから、
散らばっているものといったら、半袖のTシャツすらある。
読まずに積み重なり、投げ出された新聞の山、新聞の端。
居間の障子は、野良猫の仕業で障子紙がごっそり破けているから、
寒くなってきた部屋でいくらストーブをたいても、
寒気はどんどん入ってくる。

私は足の踏み場のない部屋で、ストーブの前に立ち尽くす。
寒い、寒い。今日午後、近くの温泉につかり、
風邪ひきをなんとか回避するために、一週間入れなかった風呂に入り、
温まったからだを湯ざめさせないようにする。

二階に行けば、私の部屋には、ほとんど完成間際の、
キャラバンのチラシの版下が、白い紙の肌をむきだしにしている。
28年間で初めて、丸ごと、そうすべてのツアー丸ごと、
キャンセルした初めてのキャラバン。

それは、ヒデコが何人もの人に連絡に連絡を重ねて、
運転手、搬入出の助っ人、時間割やら打ち合わせ続けて、
たどりつこうとしつつあった私たちの仕事だった。

大阪行きは今回で、
今年に入って12回目に及んだということに、
今回参加した、益満友子さんを偲ぶ会で気づいた。

さかのぼれば、
正月早々の益満さんの見舞い。
二月の息子の個展。このときは娘の部屋にも寄ったっけ。
そのあとは、娘のセンター通い。
益満さんの危篤とお別れ会。
ヒデコの個展が二回。

それからそれから。

二階の私の部屋は、二人でいつか片付けようと決めたまま、
全く片づけられずに放置されている。
私が寝るだけのベッドのある部屋。

今、私の人生はどこいらへんの、どのあたりで、
立ち止まっているのだろう。
それとも、ただただ、やみくもに疾走しているのだろうか。

普段はわりに落ち着いている。
突如嵐はやってくる。

ときどき、何もかもが非現実の様相を帯びる。

今は、散らかった野原のような我らがベロ亭が、
現実というより、あたふたと駆け抜ける舞台設定のようでもあり、
ブラックな笑いをさそう、散らかり放題の人生のようでもある。

ヒデコはせっせと片づけている。
昨日も今日も。

私はこんなところで、字を書いている。
私はこんなところで、寒いと感じ、
明日からまた始まる日本語クラスのことをわずかに思っている。

放置された日常の中で、
突如としておそった一つの事実だけが、
こつぜんと物語りつづけている。

変わらない事実を。
変わらない思いを。
変わらない慟哭を。

ケイコ


2008/11/07のBlog
あれから一か月。

ベロ亭は秋がふけて、夏からもちこしの花々も少しずつ冬に向けて、自分の出番をひかえ始めたり、冬につよい植物が生き生きしてきたり。

今日は、西洋ふよう、をメモリアルツリーとして、心をこめて植えた。数日前、行きつけの園芸店で、娘の大好きな赤い花をさがしたが、この時期はあまり赤い花はなく、この低木樹についた大きな深紅の花が目を引いたのである。

こんなふうな日々にも季節はうつろい、冬が間近にあることを知らせる冷気と、それでもまだまだ暖かい秋の日差し。

ベロ亭の日々はあくまでも静かだ。この町は不思議な町で、誰ひとりとして訪れる人もいない。娘のことを知っているはずの人も、知らない人も、なににせよ訪れる人はない。そもそも私たちのことを肌で知っている人も、ものすごく限られているものな。

つながるってなんなのだろう。

20年前、末期癌で闘病中の母は、あんなに折が合わなかった父に、「手を握って」と言い続けたという。不器用で、母に言わせればでくのぼうの役立たず(父の名誉のために言っておくと母の病気に対して特にそういう側面が顕在化したんだろう)のような父は、それでもほとんど手を握ることはなかったと、母の口からも聞いた。

一か月前のその日、私は数日後に引き受けた講演の打ち合わせをすることになっていた。その講演の題目は「こころをひらく」とかなんとか、その辺りにすることになっていた。前の晩から、その題目が少しずつ私には負担に感じられるような、そんな気持ちになり始めていた。「こころをひらく」なんて、そんな。そんなさりげなくも、大変なテーマを私が語ることができるものだろうか、なんて。

その晩は、フリーマーケットに出店するパンを詰めたり、ペルーのアルパカのマフラーを揃えたりと、それなりあくせくしていた私たち。

そして日曜日、秋一番らしい日差しが、会場の蔵の辻には降り注いでいた。

それから一か月。

私たちもまた、娘が立っていたぽつねんと人々から隔てられた時間の中にいるようでもある。明日があることはある。明日程度なら。
二人でいる事実も絶対的に違う。穏やかでいようと、言い争いになりそうになったりしようと。

だが、それにしても、人はどうしてこんなにも、つながらずにいられるのだろうか、とは思う。それとも、人は、私のようには、人との隔たりをとりわけ思ったり、人とのふれあいを言葉と共に願ったりはしないとでもいうのだろうか。本当のところはわからない。

小さな会場で200人もの人が見送ってくれた娘のお別れのセレモニー。

その場は、結果的に娘の仲間たち、友人たちの、娘とのお別れをできるだけ優先させる形をとって、娘のきょうだい、友人たち、私たちの手で形作られた。

義理で来ている人は一人もいなかったでしょう!!

ある人がもらしたように、まさに、親しさと、人肌の触感のある、手作りの会であった。
その小さな会場で、料理まで作るという快挙、つまりは炊き出しだな、をしたのは、はじめてのことだったという。

しかしながら、私にとっては、かつて娘のきょうだいだった人たちと、娘とのお別れをめぐって十分に思いを交わせられなかった感覚が残った。段取り、場づくりにいそしんでいたきょうだいやそのパートナーたち。彼らも、遠方から二往復してくれたり、考えられないくらい力になってくれたのも事実だ。

お別れのセレモニーつくりというものは、こんなものなのかもしれない。それで十分。十分すぎるくらいのことなのかもしれない。

それでもなお、私の前には、こころをひらいてつながるということ、のむずかしさがたちふさがっている。もうそこには触らないほうがいい。そんな胸の奥の声もする。

私たちは、私とヒデコ、きょうだいたち、友人たち、仲間たち、とにかく娘とつながっていたことのある人たち。そんな、「わたしたち」は、この一か月をどんなふうにかみしめてきたのだろうか。

つながれない時間。つながらないきっかけ。

あさってからは、また関西へ、京都や大阪に出向く。娘の生きた大阪の地。

つながる時間はあるか。つながるきっかけはあるのか。

西へと見えないベクトル線を、うっすらと描く。
おそるおそる描く。そおっと描く。

私らしくもなく。
まるで私らしくもなく。

ケイコ

2008/11/06のBlog
仕事は手に付かないし、
キャラバンの計画も、30年間にして初めてキャンセルし、
1日に何回か、のえの前でろうそくをともし、香をたき
何度も同じことを考える。

そして、相棒のケイコを見れば、悲しみと向かいきれずに苦しむ姿もしばしば。
そして、ケイコも、園芸に身を任したりしている。
といってもケイコは、日本語教師の仕事をずいぶん早くから再開してはいる。

だから、私こそなんとかしないと思っていると
私の名刺に『家屋工事技師』というかたがきが入っていることを知っている人から
仕事の依頼が来た。
ペンキ塗りだ。
昨日は、丸1日、はしごの上にいた。
足が今日は重いが、好きな仕事の一つのペンキ塗りができて
充実していた。

天国の、マスミツも笑っていた。
そしてそのそばにのえもいて・・。
マスミツは日本で最初の女性の内装屋だからだ。

昨日は、のえの使っていた道具のうち、有料ゴミにするしかないもの
洗濯機や冷蔵庫を友人たちが回収業者に運んでくれた。
どでかい冷蔵庫を運び出すのはたいそう大変だったそうだ。

のえの持っていた、食糧でコメなど使える食料品を
扇町公園に住む野宿者にもらってもらった。
のえが一番喜ぶ行く先だろうから。

のえのCDブックの文章
(同文は記録集編集委員会刊の『それでもつながりはつづく」にもある)に捨てられた
ブルーシートを、地下鉄に乗って運んだことが書かれていた。
私はこの文の中でここが1番驚いた。
通報の可能性さえある地下鉄を、大きな袋にブルーシートを入れて運ぶのえの姿。
こんなにまでの野宿者のことを考えるのかと思ったものでした。

だから、たくさんのお米が部屋にあったのだけど・・。
実は私が欲しいくらいだったけど・・。
迷わず野宿者に食べてもらうことを選びました。

これから、のえの生きたあかしを私たちは一つ一つ追っていく。
それは、言うまでもなく私たちが、のえの友達が
生きていけるためのものにしたいものです。

私にとっては、2008年は年頭からのえに突き放され、ようやく春過ぎから
会話を回復し始めていましたが
まだ満足な関係ではありませんでした。
そういった時間で、私はいきなり10月2日の深夜、(3日になっていたが)
のえのブログに、キャラバンで歌ってくれるよねって、書き込みをしてしまった。
この11月3日に予定していたイベントは、
別にのえの親しいGさんが仕掛け人だったから、
直接は話をしていなかった。

でも私は、「親子でブログでいきなり依頼文はないよな」
と電話しない自分を問うていた。
ブログじゃない、電話しようと、
12時間ぐらいたってから,のえの3日午後携帯を鳴らす。
返事はない。
夜、私の書き込みにのえが返事をくれた。「やれることはやりますから」と。

それは、最後に会った、私の神戸の個展の時に
「大阪のキャラバンは、のえを今度こそ頼りにしてるよ」って
私が言った言葉への答えだった。

それでも、その言葉の影に「私の言い方がきつかったかな」
なんて、またいつものように心配をして、家の電話に電話をしている。

それが、のえの家の留守電に吹きこもれた、のえの家電の最後の他人の声だった。
しかし、のえの部屋でその自分の声を再生させてわかることがある。

ちっとも、語りかけていない私の声。
とにかくブログに書き込むだけではだめだ。
語りかけようとした。
のえに受け入れられていないと思う苦しさでやっとこわごわかけているみたいな情けない自分の声の再生をのえの部屋で聞いて、「何じゃらほい・・。私なの」って。
関係を作れていない証拠物件が残ったのう。


話がそれてしまった。
ゆっくり、冬支度の薪割りや
久し振りのアルバイトで、調子を整えているヒデコでした。
2008/11/05のBlog
今日という日、あるやりとりの中で、
「家族よりも友達が大事」というフレーズが、
不覚にも私の脳に「全面画面表示」になって映し出された。

家族ってなに?
友達ってなに?
ってことなしにとけないこたえ。
こたえを出す必要もないかもしれないこと。

はたして私たちはかつて「五人のこどもと二人の母親」で
家族を構成していたと言えるのだろうか。
そこに確固とした、考えとか感じ方とかがあって、
それを私たち母親が押し付けたことがあるのだろうか。

そもそも私たちは、世の中から認められた家族でありえたのだろうか。

そして、友達とは?

現在、のえの友達として登場する人たち一人一人が、
どれだけのえの側から友達として認識できる、
けっしてかすまない、
けっして霧の中に入らない人間としての存在たりえていたのか。

あまりのおぼつかなさの中で、自答すると、
地面がゆらぐ。

そもそも、発想そのものが、
出発点から違ったところで、
多くの人がものを言っているような気がする。

マイノリティの甘えと言うなかれ。

違うだろう。

現在構成している家族や、
パートナーが大事なんだろう。
友達もそうだろうけれど。

のえには、
そのどちらも
「ある」という確信がなかったってわかるのか?

そののえをめぐって、
私たちは思いを巡りにめぐらせているのではないのか。

ケイコ
2008/10/31のBlog
昨日と今日と、ただただ眠り続けている。
こんなに疲弊していたのか、と心身の許容量を
とっくに越えていたこの日々を遠ざけるように、
ただただ休んでいる。

昨日、北海道から電話があった。
のえの赤ちゃんのときからつきあいのある私の友。
北の地のキャラバンで何度も世話になっているから、
近々ベロ亭に行くわ、顔を見たい、と言ってくれ、
それから、私は泊まる「権利」があるもんね、と
冗談ぽく言ってくれる。
三日休めば行って帰れるし、とも。

今日は、別の北海道の友人が来てくれた。

こんな訪問を待っていたはずなのに、
私はかすんでしまったような現実の中にいて、
すべての生と死も遠ざかってしまったようになっていて、
なんだか、している会話も現実のように思えない。

昨日は、一日中パジャマでいた。
夜、銭湯かわりの近くの温泉に行くというので、
はじめて着替えた。

このあいだの日曜日まで大阪にいた。

まるでのえの生きた戦場をそのまま歩きたどるような、
そんな一週間が濃く、痛く、しかし新しく胸に落ちるものもあり、
過ぎに過ぎた。

合わせて七人の人と大切な言葉も交わした。

それが無駄だったとは一切思わない。
これからもそんな機会は少しずつ持てていくことだろう。

しかしだ。
しかし、この住まいに戻ってきて、
はじめて、のえのことがあって以来の疲れに身をゆだねていると、
起きたことがすべて夢うつつのようでもあり、
嘘のようでもあり、
しかし、それでも、
現実であり、ベロ亭の私たちがすでに踏んでしまった
日々であり、書き換えられない歴史であること。

だからなんなのだ。
だから。

毎日のえの写真の前で、
私はのえと語ってきた。
自然と聞こえてくるのえの声。

ただ、今は頭も心もしびれたかのようで、
現実のおもさにではなく、限りない軽さに粛然とする。

自分が生きているその日々もまた、
限りなく遠ざかり、目の前の大切な訪問者すら
いったい誰であるかわからない感覚におちいる。

ものも食らい、
睡眠もとりまくり、
そして私は現実に生きてはいる。

パジャマで毛布にくるまっている、
そうか、それはただしい。
今はそれでいいんだよ。

北海道の友の電話が、はるか向こうからつぶやく。

こぼれおちる生。

その向こうに、私が、私たちができなかった
無数の可能性が置いてきぼりになって。
のえの写真に向かって収束していく。

できなかった私。
生きている私。
生きていく私。
休んでいる私。

かすむ現実。
遠ざかる生。

ふところ深くささやく凪いだ生。

ケイコ
2008/10/28のBlog
[ 03:47 ] [ ベロ亭から ]
37歳の娘が逝ってしまいました。
私は32年間、「のえ」の母親であった。

のえ、ありがとう。たくさんのことをくれて。

この敬虔な死を前に私は佇む。
私ができなかったことと、したことの間で
めぐる過日。
のえを生んだ母親のパートナーとして、
もうひとりの母親として
のえに感じ続けた時間をかみしめる。
関われなかった時間と向き合った細微の記憶がめぐり
かみしめ続けている。
子の生と死を。

こみあげるものがある。
だが、受け止めなければならない。死者は語りかけているのだから。

のえは多分こう思っているのだろうと想像できなくてわたしはぶつかった。
私の私らしさから生まれた経験から、私もそうだからなどと思うことが少なかった。

何度も、どうしてそうしていられるのかと。
わたしはぶつけた、こうは出来ないのかと。
もちろん、親らしくもある違和感を表出し続けたのだが。

のえが小さい頃は権力をもって伝えることが、
逆説的な意味を持つと信じていたから
大声を張り上げたり、体当たりでかかわった。
3日間も部屋の掃除につきあって時に食事をおあずけで、分類の方法を伝えたりした。
私から学び私を歓迎もした。

大人になってからも親子関係は逆転することなく続いた。
最近になって、時に激しくモウヒデコチャンワー!と怒るようになっていた。

わたしは、あの子への違和感を違和感としてしか消化できなかった。
そののえへの謎をどうして昇華できなかったのか。
パートナーと、その違和感を喧嘩の種にしただけだった。

のえは、最近その秘密をケイコの力を借りて解き明かし始めていた。

70年代、脳性小児まひの活動家たちが、ビラ配りで、ビラを受け取らないで自分の姿を拒否する人々にむしろ理解の種をみいだすと言ったのを聞いた。
私はその本質的な意味を知っていたのではなかったのか。

だが私は、のえの根源的苦しみまで見てやれなかった。
わたしは、違和感を32年間、私のやりかたで、かかわれていると調子よく思っていたが、その100をもの違和感がすべて、のえ自身の根源的苦しみから来ていたと気づいてはやれなかった。
わたしの100の違和感を乗り越えて、のえとすこしづつ語り合えるのがこの10月頃だと考えていたのだ。

この数カ月、のえの苦しみは、増幅していたのだろうか。

のえに助けられたと語るのえの友にのえ亡きあと何人も出会った。
知らなかった。自分が助けられたいように人を助けていたのか。

たくさんの、のえの友だち。
お別れに来てくれた200人もに及ぶのえの友だち。
うたうたいのえ のブログに毎日訪ねてくる人たち。
のえに共感し、のえの唄に感動し、のえとぶつかった友だち。
いつも、のえを見守ってくれていた友だち。

「赤い自転車に乗って」、さまようのえを探してください。
のえの「はなうた」とハミングできる明日の街で。

ヒデコ
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