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2006/02/13のBlog
[ 12:34 ]
[ 雑文 ]
冬季・夏季オリンピックにしても世界陸上にしても、
どういうわけかすっごい観てしまうUTです。
全力で観ます。
そして泣きます。
なんてことないタイミングで泣きます。
こういうイベントって、今まではなぜかはかったように、試験期間とか、受験生中とか、何かしらに追われている時にピンポイントで開催されていたけれど(それでも観てた/笑)、今回はそんなこともない感じなので良かった良かった。
でもちょっと、過剰に反応しすぎなので、スタンスを変えようかと。他がないがしろになりすぎなんで。
どういうわけかすっごい観てしまうUTです。
全力で観ます。
そして泣きます。
なんてことないタイミングで泣きます。
こういうイベントって、今まではなぜかはかったように、試験期間とか、受験生中とか、何かしらに追われている時にピンポイントで開催されていたけれど(それでも観てた/笑)、今回はそんなこともない感じなので良かった良かった。
でもちょっと、過剰に反応しすぎなので、スタンスを変えようかと。他がないがしろになりすぎなんで。
2006/02/10のBlog
[ 17:24 ]
[ 雑記 ]
その後、個展をやるギャラリーへ。
お金の一部を払いに行く。
ギャラリーの近くの道路で一服して休んでいると、ギャラリーのオーナーの方と遭遇。一緒に向かいました。
僕的に大金払ったんですが、まだ3分の1にも達しません……(涙)。オカネオカネ。
これで、ショボイ展覧会になったら悲惨すぎるので頑張ります。
改めて、若さにビックリされてしまった。
お金の一部を払いに行く。
ギャラリーの近くの道路で一服して休んでいると、ギャラリーのオーナーの方と遭遇。一緒に向かいました。
僕的に大金払ったんですが、まだ3分の1にも達しません……(涙)。オカネオカネ。
これで、ショボイ展覧会になったら悲惨すぎるので頑張ります。
改めて、若さにビックリされてしまった。
[ 17:15 ]
[ 展覧会/ART ]
今年、結構楽しみにしていた展覧会その1です。
都心へ用があったので、行ってきました。
混まないように午前中に、それに昨日始まったばっかだし、と思っていたら、かなーり人が入っていてビックリした。クレーって日本で人気あんだね。
パウル・クレー(Paul Klee)[1879-1940]は、スイス出身の画家。ドイツでも大変活躍した。ドイツに1919年にできた美術学校バウハウスでも、教授として在任しました。
クレーといえば、よく言われるのが音楽的ということじゃないかな。
実際、心躍るような華やかな色彩をよく作品に用いています。線も、踊っていると言うか、何と言うか、そんな感じ(謎)。
クレーは大変「線」を重要視した画家で、色彩と同等の重みがあると考えている。
たぶん、クレーの実物をこれだけまとめて(60点)観たのは初めてかな、僕は。
初期から晩年まで展示されていたけれど、うち何点かは、観てみてくすぐられると言うかヒントめいたものを得られて興奮しました。ふっふっふっといった具合です。
クレーの有名な言葉として、
『芸術とは目に見えるものの再現ではなく、
見えるようにすることである。』
というのがありますが、これについてちょっと触れておきたい。
というのも、僕自身、最近このことをやっと理解して核として持っているし、非常に重要だと思っているからなんだけど、…あー、なんか短く説明するのがすごく難しいですが…、つまり、見ているものをそのまま描いてもしようがないというか、うーん、何て言えばいいのかなぁ、感動とか感じたこととか思っていることとか主張したい内容とかそういったものを伝えるために描く、ということなんだけど、なかなか一言で言うのが難しいです。
ピカソにも似たような言葉があって、僕は今回観ていて、両者の言葉がすごく繋がったんだけど、
『絵画とは真実を伝えるための嘘である。』
と言っています。
これは、ピカソの絵画、というかキュビスム(ピカソ、ブラックの正統的キュビスム)を理解する上で、すっっっごい重要な言葉だと思うんだけど、それはいずれピカソとかキュビスムとかについて書くことがあったら説明するとして、クレーの言葉と非常に共鳴するものを感じて、芸術を創造する上でも鑑賞する上でも、とてもとても大切だと思います。
要は、抽象的に描いてあったり、すっごいフォルムを崩してあって「なんじゃこりゃ?」と思っても、それは画家側から言えば、”より事物の本質に迫ろうとしたが故、そうならざるを得なかった”ということです。
クレーの線へのこだわりは、外見に惑わされず、本質を描こうとしたからのようです。
来ている作品の質がどう、とかは置いといて、観て損は無いと思う展覧会でした。
[メモ]
パウル・クレー展 線と色彩
@大丸ミュージアム・東京(東京)
2月28日まで
3月5日から3月21日まで、大丸ミュージアム・梅田へ巡回
(→恵風さんの記事にTB)
都心へ用があったので、行ってきました。
混まないように午前中に、それに昨日始まったばっかだし、と思っていたら、かなーり人が入っていてビックリした。クレーって日本で人気あんだね。
パウル・クレー(Paul Klee)[1879-1940]は、スイス出身の画家。ドイツでも大変活躍した。ドイツに1919年にできた美術学校バウハウスでも、教授として在任しました。
クレーといえば、よく言われるのが音楽的ということじゃないかな。
実際、心躍るような華やかな色彩をよく作品に用いています。線も、踊っていると言うか、何と言うか、そんな感じ(謎)。
クレーは大変「線」を重要視した画家で、色彩と同等の重みがあると考えている。
たぶん、クレーの実物をこれだけまとめて(60点)観たのは初めてかな、僕は。
初期から晩年まで展示されていたけれど、うち何点かは、観てみてくすぐられると言うかヒントめいたものを得られて興奮しました。ふっふっふっといった具合です。
クレーの有名な言葉として、
『芸術とは目に見えるものの再現ではなく、
見えるようにすることである。』
というのがありますが、これについてちょっと触れておきたい。
というのも、僕自身、最近このことをやっと理解して核として持っているし、非常に重要だと思っているからなんだけど、…あー、なんか短く説明するのがすごく難しいですが…、つまり、見ているものをそのまま描いてもしようがないというか、うーん、何て言えばいいのかなぁ、感動とか感じたこととか思っていることとか主張したい内容とかそういったものを伝えるために描く、ということなんだけど、なかなか一言で言うのが難しいです。
ピカソにも似たような言葉があって、僕は今回観ていて、両者の言葉がすごく繋がったんだけど、
『絵画とは真実を伝えるための嘘である。』
と言っています。
これは、ピカソの絵画、というかキュビスム(ピカソ、ブラックの正統的キュビスム)を理解する上で、すっっっごい重要な言葉だと思うんだけど、それはいずれピカソとかキュビスムとかについて書くことがあったら説明するとして、クレーの言葉と非常に共鳴するものを感じて、芸術を創造する上でも鑑賞する上でも、とてもとても大切だと思います。
要は、抽象的に描いてあったり、すっごいフォルムを崩してあって「なんじゃこりゃ?」と思っても、それは画家側から言えば、”より事物の本質に迫ろうとしたが故、そうならざるを得なかった”ということです。
クレーの線へのこだわりは、外見に惑わされず、本質を描こうとしたからのようです。
来ている作品の質がどう、とかは置いといて、観て損は無いと思う展覧会でした。
[メモ]
パウル・クレー展 線と色彩
@大丸ミュージアム・東京(東京)
2月28日まで
3月5日から3月21日まで、大丸ミュージアム・梅田へ巡回
(→恵風さんの記事にTB)
2006/02/09のBlog
[ 13:14 ]
[ 本 ]
『郷愁(ペーター・カーメンチント)』
著:ヘルマン・ヘッセ 訳:高橋健二 (新潮文庫) 380円
----------------------------------------
ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)[1877-1962]について、中表紙の著者紹介から引用すると、
ドイツの抒情詩人・小説家。南独カルプの牧師の家庭に生れ、神学校に進むが、「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」と脱走、職を転々の後、書店員となり、1904年の『郷愁』の成功で作家生活に入る。両大戦時には、非戦論者として苦境に立ったが、スイス国籍を得、在住、人間の精神の幸福を問う作品を著し続けた。’46年ノーベル文学賞受賞。
ヘッセは大好きで、今まで『車輪の下』『デミアン』『春の嵐』『知と愛』を読んできたけど、どれも良い。
個人的に、ものすごい感情移入が発生するのですよ。
まず、美しい。圧倒的に美しい。
そして、体の内へと響いてくる。
単なる、青春小説や教訓めいた本ではないことは、疑いが無い。
人間において、普遍的とも思えるテーマが展開される。色々と気づかせてくれるヘッセ。
それは、今回の『郷愁』も一緒だった。
読んでいると、自分の汚さ、弱さ、狭さ、…などを感じ、どうにもこうにも反省と自分を見つめる、ということをしないわけにいかなかった。
あぁ、自分はなんと淀んでいるのだろう…。
なんにしても、ヘッセは若いうちに読むべき本だと思う。というか、読みましょう。
何かが拾えるのは、間違いない、と僕は思う。
『春の嵐』『知と愛』は、特に芸術に興味があったり携わっているならなおさら。
『デミアン』も非常に深い。実際、最高傑作に上げる人も多いし。
「アーティストは自分の中に、”絶対の天使”と”絶対の悪魔”の両方を飼わなければならない」、とN先生に言われたのを思い出します。
ヘッセといえば有名な『車輪の下』で、「暗いから嫌」、となって止まって欲しくない。
おすすめの1冊で、おすすめの作家。
著:ヘルマン・ヘッセ 訳:高橋健二 (新潮文庫) 380円
----------------------------------------
ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)[1877-1962]について、中表紙の著者紹介から引用すると、
ドイツの抒情詩人・小説家。南独カルプの牧師の家庭に生れ、神学校に進むが、「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」と脱走、職を転々の後、書店員となり、1904年の『郷愁』の成功で作家生活に入る。両大戦時には、非戦論者として苦境に立ったが、スイス国籍を得、在住、人間の精神の幸福を問う作品を著し続けた。’46年ノーベル文学賞受賞。
ヘッセは大好きで、今まで『車輪の下』『デミアン』『春の嵐』『知と愛』を読んできたけど、どれも良い。
個人的に、ものすごい感情移入が発生するのですよ。
まず、美しい。圧倒的に美しい。
そして、体の内へと響いてくる。
単なる、青春小説や教訓めいた本ではないことは、疑いが無い。
人間において、普遍的とも思えるテーマが展開される。色々と気づかせてくれるヘッセ。
それは、今回の『郷愁』も一緒だった。
読んでいると、自分の汚さ、弱さ、狭さ、…などを感じ、どうにもこうにも反省と自分を見つめる、ということをしないわけにいかなかった。
あぁ、自分はなんと淀んでいるのだろう…。
なんにしても、ヘッセは若いうちに読むべき本だと思う。というか、読みましょう。
何かが拾えるのは、間違いない、と僕は思う。
『春の嵐』『知と愛』は、特に芸術に興味があったり携わっているならなおさら。
『デミアン』も非常に深い。実際、最高傑作に上げる人も多いし。
「アーティストは自分の中に、”絶対の天使”と”絶対の悪魔”の両方を飼わなければならない」、とN先生に言われたのを思い出します。
ヘッセといえば有名な『車輪の下』で、「暗いから嫌」、となって止まって欲しくない。
おすすめの1冊で、おすすめの作家。
2006/02/08のBlog
[ 22:52 ]
[ 雑記 ]
はっ!!!?
へっ!!!?
でででででで、電気代がっ………
すごいことに……。
半地下で独り冬山遭難ごっこでもしろと?
身も心も、もっともっと凍えなさいと……??
あーー……。
へっ!!!?
でででででで、電気代がっ………
すごいことに……。
半地下で独り冬山遭難ごっこでもしろと?
身も心も、もっともっと凍えなさいと……??
あーー……。
[ 13:31 ]
[ こんなのも ]
ラーメンあんまり好きじゃないって言ってたのは、どこのどのUTでしょう?
町田へひょろぉーっと行ってきたので、せっかくだしついでに前回とは違うラーメン屋へ行ってみた。
なんか、町田は結構良いラーメン屋がいっぱいあるらしい。
今回は、『らーめんおやじ』ってとこ。密かに人気店らしい。
店名が店名だけに、「おやじ麺」を食す。
美味しいかったよ。
前回のショッキング過ぎた『胡心房』には(私的に)及ばないけど、美味しかったよ。(もいちど言うけれど、当方、食べ歩き超初心者ですので)
ちゃんと厨房には”おやじ”がいました(笑)。
相模原店もあるらしい。
他にもラーメン屋あるみたいだから、体調(体腸)と相談して、これからも訪ねてみます。
町田へひょろぉーっと行ってきたので、せっかくだしついでに前回とは違うラーメン屋へ行ってみた。
なんか、町田は結構良いラーメン屋がいっぱいあるらしい。
今回は、『らーめんおやじ』ってとこ。密かに人気店らしい。
店名が店名だけに、「おやじ麺」を食す。
美味しいかったよ。
前回のショッキング過ぎた『胡心房』には(私的に)及ばないけど、美味しかったよ。(もいちど言うけれど、当方、食べ歩き超初心者ですので)
ちゃんと厨房には”おやじ”がいました(笑)。
相模原店もあるらしい。
他にもラーメン屋あるみたいだから、体調(体腸)と相談して、これからも訪ねてみます。
2006/02/07のBlog
[ 23:05 ]
[ 本 ]
『制作(下)』
著:エミール・ゾラ 訳:清水正和 (岩波文庫) 735円 ※残部希少
-------------------------------------
下巻も読みました。
この記事は、印象派の話を読んでもらった後だと、より分かりやすいかも。
エミール・ゾラ(Emile zola)[1840-1902]は、19世紀フランスを代表する小説家。ゾラ、バルザック、ユゴーらは、とにかく書いて書いて書きまくった人たち。
ゾラは、フランス自然主義文学の代表です。つまち、自分たちの身の周りの現実を描こうとしたわけです。美術でいうところのレアリスム。徹底的に自然を観察します。
そして大事なのは、ここでいう「自然」とは、自分以外の全てを指すということ。感覚を通して入ってくる全てのことを示します。自然だからといって、木とか山とかのみを言っているのではないです。
上巻でも書いたけど、『制作』は『ルーゴン=マッカール叢書』全20作の第14作目。ゾラは、自分達の生きているフランスの現実を、色んな立場の人たちにスポットを当てて書こうとして、出来上がったのがこの叢書。ルーゴン家、マッカール家の人物を登場させてということで書いてはいるが、それぞれの作品はほとんど独立していて、登場人物なども含め、ほとんどつながりはない。問題は、全20作が邦訳されているわけではないということ…。残念。
この『制作』(または、『作品』と訳されます)は、1人の画家を主人公に、その画家が当時フランスにはびこっていたアカデミズムに対し、独自の絵画世界を築き上げ、世の中に発表して成功しようとするけど、なかなか世間に認められず、苦しい日々を送ります。その中での仲間たちとの交流や、制作の苦闘が書かれているわけです。
感想は、とても良かった。ゾラすごいと思ったよ。本当にね、読んで、って感じ。
モダニストとも言うべきそういった一部の若い画家たちの、一世風靡を狙う気迫や新しい時代を築き上げようとして、またそれができると信じて、辛酸なめながらも、己の才能を信じて作品を作り続ける姿とか、見事に描かれています。
そして、この小説を通じて、当時の芸術界の息吹、そして、作品(美術も文学も)想像の苦しみ、そういったものを、本当にリアルに感じられるのです。
なぜか?
もちろん、ゾラが文章上手いってのもあるんだけれど、この『制作』は、実際に芸術界に生きていたゾラがみて来た光景であり、そして主要登場人物には、モデルがいるからです。
主人公のクロードは、セザンヌ。親友のサンドーズという小説家はゾラ本人。デュビューシュという建築家志望の青年は、バスティアン・バイユという数学者。
クロード、ゾラ、デュビューシュは幼なじみという設定だけれど、実際に、セザンヌ、ゾラ、バイユの3人は中学時代からの友人。
ことに、セザンヌとゾラの友情は熱く、ともに成功しパリを征服するのだ、と意気込んでいた。
そんなわけで、このクロードやサンドーズを通して描かれている世界は、限りなくゾラの経験や想いがこもっていると僕は思っている。
実際、作品中でも何度となく芸術論が展開され、各々が苦しい胸の内を明かしたり、当時の美術界についての記述とかあるけど、どれも読むに値する文章だと思う。ゾラなど気鋭の連中が、どう考えていたかなどよくわかる。サンドーズの独白なんかは、身に迫ってくるものがある。
そんな中での人間模様とか、芸術界だとか、よく書かれていると思います。
これ読んで、芸術家の表側だけみてても分からない、生みの苦しみ、みたいなものを是非感じて欲しい。
すっごい色々言いたいことや言うべきことがあるような気がするんだけれど、できるだけ簡単に短く、説明と時代背景。
前の印象派の記事でも書いた通り、当時はル・サロンという官展が絶対的な権力を持っていて、これに入選するかしないかは、非常に大きな問題だった。
この本に出てくるクロードも入選を夢見て出品するんだけど、あまりに新しすぎるその画風(つまり印象派的ということだね)は、サロンから拒絶され、笑い者にされます。
でも、やっぱり審査とかにものすごいクレームがはいるわけです。1863年、例年になく厳しい審査に、ものすごい画家たちの不満がつのって、で、官展(つまり国が主催)にも関わらず、「落選展」ってのが開かれることになります。ル・サロンに落選した作品を一同に集めた展覧会ですね。なぜ開いたか分かるでしょうか?つまり、「ほら、こういった作品が落選したんだよ、最もでしょ?」という風に、人々を納得させようとしたわけです。大事なポイントは、もう、そうやって人々を納得させなきゃいけないくらいに、サロンの権威が失墜していた、ということです。この、1863年落選展には、マネの《草上の昼食》が出品され、大変なスキャンダルになりました。これが、作中のクロードの《外光》だと思います。
クロードもサロンに落ちまくりますが、実際のセザンヌもサロンに落ちまくります。今でこそ巨匠セザンヌですが、生涯でサロンに入選したのは1回だけです。それも、コネをつかった裏口入選でした。
人生初の個展は56歳の時です。
パリに出て来た時、エコール・デ・ボザールといういわゆる美術学校を受験しますが、不合格でした。
第1回絵画展(印象派展)に出品した時(あとは第3回に出したのみで、他の回は参加していない)に初めてセザンヌに対して展評が書かれました。
マネもモネも何度かサロンから拒否されたりしています。
新しい才能と、古い権威の中で、様々な戦いがあったということです。そんなのも、読んでいると感じられると思います。いかに、いたらしいものを打ち出すのが難しいか。
ゾラは、マネの才能を早いうちから見抜き、かなり応援した1人です。評論とかも書いてます。マネはマネで、ゾラの肖像を描いてます。この肖像画、…ま、いいや。
昔はこういった、小説家で美術評論を書く人が結構いました。
ところで、ゾラはこの『制作』の出版がきっかけで、セザンヌと絶交することになります。全く認められない不遇の果てに自殺する主人公が自分にあまりに似ていることに激怒したからです。
セザンヌが『制作』を受け取った時にゾラに送った、交流最後の手紙。
『親愛なるエミール、
ご親切にもお送りいただいた『作品』を今受け取った。『ルーゴン・マッカール』の著者にこの温かい配慮を感謝する。過ぎ去った日々の思い出に寄せて、ぼくの握手を受けてくれたまえ。
かつての親しき友、ポール・セザンヌ』
なんだか、マネもセザンヌもゾラも落選展も、色々と面白いことはあるんだけど、これは『制作』についてだし、どんどん長くなるんで、このぐらいで止めます。機会があったら、色々書いてみますので。
著:エミール・ゾラ 訳:清水正和 (岩波文庫) 735円 ※残部希少
-------------------------------------
下巻も読みました。
この記事は、印象派の話を読んでもらった後だと、より分かりやすいかも。
エミール・ゾラ(Emile zola)[1840-1902]は、19世紀フランスを代表する小説家。ゾラ、バルザック、ユゴーらは、とにかく書いて書いて書きまくった人たち。
ゾラは、フランス自然主義文学の代表です。つまち、自分たちの身の周りの現実を描こうとしたわけです。美術でいうところのレアリスム。徹底的に自然を観察します。
そして大事なのは、ここでいう「自然」とは、自分以外の全てを指すということ。感覚を通して入ってくる全てのことを示します。自然だからといって、木とか山とかのみを言っているのではないです。
上巻でも書いたけど、『制作』は『ルーゴン=マッカール叢書』全20作の第14作目。ゾラは、自分達の生きているフランスの現実を、色んな立場の人たちにスポットを当てて書こうとして、出来上がったのがこの叢書。ルーゴン家、マッカール家の人物を登場させてということで書いてはいるが、それぞれの作品はほとんど独立していて、登場人物なども含め、ほとんどつながりはない。問題は、全20作が邦訳されているわけではないということ…。残念。
この『制作』(または、『作品』と訳されます)は、1人の画家を主人公に、その画家が当時フランスにはびこっていたアカデミズムに対し、独自の絵画世界を築き上げ、世の中に発表して成功しようとするけど、なかなか世間に認められず、苦しい日々を送ります。その中での仲間たちとの交流や、制作の苦闘が書かれているわけです。
感想は、とても良かった。ゾラすごいと思ったよ。本当にね、読んで、って感じ。
モダニストとも言うべきそういった一部の若い画家たちの、一世風靡を狙う気迫や新しい時代を築き上げようとして、またそれができると信じて、辛酸なめながらも、己の才能を信じて作品を作り続ける姿とか、見事に描かれています。
そして、この小説を通じて、当時の芸術界の息吹、そして、作品(美術も文学も)想像の苦しみ、そういったものを、本当にリアルに感じられるのです。
なぜか?
もちろん、ゾラが文章上手いってのもあるんだけれど、この『制作』は、実際に芸術界に生きていたゾラがみて来た光景であり、そして主要登場人物には、モデルがいるからです。
主人公のクロードは、セザンヌ。親友のサンドーズという小説家はゾラ本人。デュビューシュという建築家志望の青年は、バスティアン・バイユという数学者。
クロード、ゾラ、デュビューシュは幼なじみという設定だけれど、実際に、セザンヌ、ゾラ、バイユの3人は中学時代からの友人。
ことに、セザンヌとゾラの友情は熱く、ともに成功しパリを征服するのだ、と意気込んでいた。
そんなわけで、このクロードやサンドーズを通して描かれている世界は、限りなくゾラの経験や想いがこもっていると僕は思っている。
実際、作品中でも何度となく芸術論が展開され、各々が苦しい胸の内を明かしたり、当時の美術界についての記述とかあるけど、どれも読むに値する文章だと思う。ゾラなど気鋭の連中が、どう考えていたかなどよくわかる。サンドーズの独白なんかは、身に迫ってくるものがある。
そんな中での人間模様とか、芸術界だとか、よく書かれていると思います。
これ読んで、芸術家の表側だけみてても分からない、生みの苦しみ、みたいなものを是非感じて欲しい。
すっごい色々言いたいことや言うべきことがあるような気がするんだけれど、できるだけ簡単に短く、説明と時代背景。
前の印象派の記事でも書いた通り、当時はル・サロンという官展が絶対的な権力を持っていて、これに入選するかしないかは、非常に大きな問題だった。
この本に出てくるクロードも入選を夢見て出品するんだけど、あまりに新しすぎるその画風(つまり印象派的ということだね)は、サロンから拒絶され、笑い者にされます。
でも、やっぱり審査とかにものすごいクレームがはいるわけです。1863年、例年になく厳しい審査に、ものすごい画家たちの不満がつのって、で、官展(つまり国が主催)にも関わらず、「落選展」ってのが開かれることになります。ル・サロンに落選した作品を一同に集めた展覧会ですね。なぜ開いたか分かるでしょうか?つまり、「ほら、こういった作品が落選したんだよ、最もでしょ?」という風に、人々を納得させようとしたわけです。大事なポイントは、もう、そうやって人々を納得させなきゃいけないくらいに、サロンの権威が失墜していた、ということです。この、1863年落選展には、マネの《草上の昼食》が出品され、大変なスキャンダルになりました。これが、作中のクロードの《外光》だと思います。
クロードもサロンに落ちまくりますが、実際のセザンヌもサロンに落ちまくります。今でこそ巨匠セザンヌですが、生涯でサロンに入選したのは1回だけです。それも、コネをつかった裏口入選でした。
人生初の個展は56歳の時です。
パリに出て来た時、エコール・デ・ボザールといういわゆる美術学校を受験しますが、不合格でした。
第1回絵画展(印象派展)に出品した時(あとは第3回に出したのみで、他の回は参加していない)に初めてセザンヌに対して展評が書かれました。
マネもモネも何度かサロンから拒否されたりしています。
新しい才能と、古い権威の中で、様々な戦いがあったということです。そんなのも、読んでいると感じられると思います。いかに、いたらしいものを打ち出すのが難しいか。
ゾラは、マネの才能を早いうちから見抜き、かなり応援した1人です。評論とかも書いてます。マネはマネで、ゾラの肖像を描いてます。この肖像画、…ま、いいや。
昔はこういった、小説家で美術評論を書く人が結構いました。
ところで、ゾラはこの『制作』の出版がきっかけで、セザンヌと絶交することになります。全く認められない不遇の果てに自殺する主人公が自分にあまりに似ていることに激怒したからです。
セザンヌが『制作』を受け取った時にゾラに送った、交流最後の手紙。
『親愛なるエミール、
ご親切にもお送りいただいた『作品』を今受け取った。『ルーゴン・マッカール』の著者にこの温かい配慮を感謝する。過ぎ去った日々の思い出に寄せて、ぼくの握手を受けてくれたまえ。
かつての親しき友、ポール・セザンヌ』
なんだか、マネもセザンヌもゾラも落選展も、色々と面白いことはあるんだけど、これは『制作』についてだし、どんどん長くなるんで、このぐらいで止めます。機会があったら、色々書いてみますので。
2006/02/06のBlog
[ 21:47 ]
[ 雑文 ]
南の風の吹くたびに、
恐ろしき物音をたて
なだれのまろび落つるは、
神のこころなるか。
ことばをかわすこともなく
人の世の国、うとましく
さすらい歩くわが定め、
神の御手のなす業か。
心せつなき苦しみに
ただようわれを、見たもうや神?
ああ、神は見まかれり!
----されどわれは生くる定めか。
(『春の嵐』高橋健二訳)
恐ろしき物音をたて
なだれのまろび落つるは、
神のこころなるか。
ことばをかわすこともなく
人の世の国、うとましく
さすらい歩くわが定め、
神の御手のなす業か。
心せつなき苦しみに
ただようわれを、見たもうや神?
ああ、神は見まかれり!
----されどわれは生くる定めか。
(『春の嵐』高橋健二訳)
2006/02/02のBlog
[ 18:16 ]
[ 雑記 ]
2006/02/01のBlog
[ 18:59 ]
[ 展覧会/ART ]
で、行ってきました。
『渋谷で出会うポーラ美術館の印象派コレクション展』。
ポーラ美術館って箱根にあって、つまりそんなに遠いわけではないんだけれど、渋谷で出会いました(笑)。
で、今回は、この展覧会がどうだこうだ、とかよりも、いい機会なので印象派について語ろうと思います。なるべく分かり易くかつ詳しく書くつもりです。興味があったら、読んでください♪
まずは、印象派の絵について。
印象派というと、やはり真っ先にモネ(Monet)やルノワール(Renoir)あたりを思い浮かべると思います。あんな感じ、みたいな。
ちゃんと、説明してみると、まず筆のタッチが細かくはっきりわかるように、見方によっては乱暴な感じに、塗られているのがよく分かると思います。筆の跡がはっきりわかるわかる。これが、大きな特徴です。これを筆触分割と言います。これは、印象派の画家たちが、自然界にあふれる光を画面上に再現しようとして、行ったものです。眩い光を描こうとしたとき、それまでのように絵具を混色して使うと、混ぜれば混ぜるほど色は鈍くなります(彩度が落ちる)。それを防ぐために、印象派の画家たちは、チューブからしぼった絵具を混色せずにそのままカンヴァスに載せました。そして、1830年代に化学者のシュヴルールという人が「視覚混合」というのを唱え、その理論を応用する形で、印象派の画家たちはチューブからしぼり立ての絵具を、細かいタッチで画面に置いていきます。すると、それぞれのタッチは青とか黄色なんだけれど、そういった様々な色の細かい色面が集合すると、人間は網膜上でそれらの色を混色します。これが視覚混合です。テレビの画面なんかも、超接近すれば赤青緑の点の集合ですが、これと同じことです。パレット上での絵具の混色はどんどん濁っていきますが、混色しないでカンヴァスに乗せているので彩度が落ちていません。こうして網膜上で混色させることによって、あの外界の明るさを画面に定着させようとしたわけです。ふんふふーん、って適当に塗ってるわけではないのです。
また、印象派の画家たちは、輪郭線を否定しました。絵を見れば一目瞭然だと思います。もう一言言えば、固有色を否定しました。どういうことか説明しましょう。
リンゴがあって、赤く見えているとします。けれど、焚き火の側でリンゴを見たらちょっとオレンジがかるでしょう。また、ロウソク一本の部屋で見たら、ほとんどどす黒い鈍い赤でしょうし、逆に真夏の燦々とした太陽の下で見たら、普段より強烈に赤く感じるかもしれないですね。つまり、色というのは光があって始めて認識できるもので、その光の状況によって認識する色も様々に変化する。固有色なんか無いんだっ!となるわけです。光の関係性の絵画のわけで、輪郭線は消滅します。
絵の技術的な面では、この2つが大きな特徴です。印象主義は、この世のものは全て動いていて、不変のものはないんだ、ということを描いたのです。
画題、描かれている内容的なことでいうと、テーマつまり主題が無い、というのが大きな特徴。どういうことかというと、それまでの絵画というのは、宗教・神話・歴史やあるいは貴族階級の肖像画がほとんどでした。しかし、印象派の絵画は、何でもない森や花畑、草原など、特にこれといったテーマの無いものを描いたのです。ということは、教養が無くてもわかる、ということになります。一般市民でもわかる。これは家のある風景だね、とか。主題がどうこうではなくて、単純に自然の美しい光をとらえ、美しい光景を描いたわけです。
ところで、ここまでの特徴でなるほど、とか、確かに、と思うかもしれません。が、それは、今生きている我々だからです。
考えてもみてください。当時にタイムスリップしたつもりで。それまで、写実的な宗教画や歴史画などが描かれていて、筆の跡なんて見えない、そんなの見えたら只のヘタクソ。そんな絵が超超当たり前のところへ、述べたような印象派の絵画が突如出てきたら、それはそれは驚くでしょう。実際、当時の驚きも相当なものでした。「印象派」なんて考えが全くない状態で、そういった絵を観たら、驚くのは当然です。
こう話してくると、日本人に印象派が人気なのも最もです。実際、今回の展覧会も、それなりに人がいました。モローとか象徴主義とかは、ガラガラだったのに。
聖書や神話に対して、ほとんど全くと言っていいほど素人で知識を持っていない我々日本人です、こういったテーマの無い、鑑賞するのに知識のいらない印象派の絵画は、とても取っ付きやすい、理解しやすいのです。だから感想も「綺麗」とか「美しいね」とかになるわけです。
また、ヨーロッパの人に比べて日本人の水晶体は暗いです。ヨーロッパの人はよくサングラスをかけてますね。ヨーロッパの照明は暗いです。明るい印象派の絵画は日本人にとって親しみやすいということになります。
さて、印象派の歴史的な部分みたいなことについて。
それまでは、「サロン」といういわゆる官展のようなものが強い権威を持っていました。このサロンに入選するかしないかは、画家にとってとても大きなことでした。が、そのころ台頭していた絵画は、前にも描いた通り、アカデミック絵画、つまり、写実的な宗教画や歴史画といった類いでした。いかに写実的に、いかにダイナミックにそういった画題を描けるかが、画家の技量と考えられていたわけです。そんな中、印象派の画家たちは、「サロン」に大いに不満を持ちます。当時からすれば、「サロン」に全く適さないような印象派の絵は、もはやギャグ、悪ふざけ、下手すぎ、やる気あんの?みたいなわけで、笑われるしけなされるし、非難轟々、理解なんかとは程遠かったのです。
そこで、印象派の画家たちは、自分たちで展覧会をすることにします。それが印象派展です。印象派展と言いましたが、本当は単なる「絵画展」という名前です。そもそも「印象派」という呼び方は、モネが第1回絵画展に出品した『印象 - 日の出』に由来しています。これをバカにして「印象派展」と呼ぶようになったのです。この「絵画展」は第1回(1874年)から第8回(1886年)まで続きます。面白いのは、第1回印象派展はナダールという写真家の写真館で開かれました。この辺は、写真のこととかとも絡めて、色々あったりするのですが、長くなるのでパス。
さて、印象派展とは言っても、いわゆる説明したようないわゆる「印象派の絵」を描いた画家は、出品作家のうちの3分の1くらいで、残りの3分の2は取るに足らない画家たちでした。つまり、印象派展と言っても、「サロン」に対して不平や不満を持ったものたちのグループ展だった、というのが実際のところです。
印象派展について書いてきましたが、思い浮かべるよなマネ(Manet)やモネ、ルノワールなどは途中で離脱します。マネなんかは、サロンに対抗してやっている印象派展なんかは、怖くなってくるわけです。画家として世間に認められたーい、という気持ちから、離脱しちゃうのでした。
第1回から第8回まできちっと全てに参加したのはピサロ(Pissarro)ですね。もうほとんどこの人のお陰で最後まで続いたと言えるようなものです。
ところで、デュラン・リュエル(Durand-Ruel)という画商がいて、印象派の画家たちを扱っていました。が、上述のように相手にされず、全く売れませんでした。ので、リュエルはアメリカ合衆国のマーケットへ作品を持っていきました。すると、花の都パリからやってきたアートだっ!とアメリカ人たちは話題にして売れたわけです。伝統も文化も無いアメリカだからこそ、こういった状況が生まれたわけです。「知識が無くても観れる絵画」というのも原因の1つでしょう。こうしてヨーロッパよりも早くアメリカでブレークすることになった印象派でした。実際、印象派のカタログはフランスではなくアメリカで最初に出ました。
あと、よく「後期印象派」という言葉を耳にしますが、あれは要注意です。そもそも、印象派に前期後期はないです。ポスト印象主義、新印象主義、と言いましょう。印象派の後の画家たち、ということです。
それから、構図やなんやらと浮世絵の影響は大きいです。実際に印象派の画家たちは、浮世絵を見て色々と考えたりしています。浮世絵は、日本から陶器などを送る時に包み紙として使っていたもので、もともとハイアートとしてヨーロッパに入ったものではないです。単なる包装紙です。それを見たヨーロッパの人たちが、中身より包装紙の浮世絵に興味を持ったわけです。そうして色々と影響を与えていくわけですが、…今日のヨーロッパの文献とかを見ても、浮世絵の影響とかは書かれてなかったり、ほとんど触れられてないらしいです。いかに日本が極東の小国、芸術においてヨーロッパからどう見られているか、という現実を考えさせられる話だと思います。
以上、本当は印象派以前のクールベとかマネとか、その後のセザンヌとか、色々あるんですが、切りがないので印象派にしぼって書いてみました。
近々、小説『制作』のことを書くのにも、これらのことを話しておいた方が書きやすいので、というのもあるんですが。
今後の絵画鑑賞に役立てば嬉しいです。
あー、長かった!!
[メモ]
渋谷で出会うポーラ美術館の印象派コレクション展
@Bunkamura ザ・ミュージアム (渋谷)
2月26日まで
『渋谷で出会うポーラ美術館の印象派コレクション展』。
ポーラ美術館って箱根にあって、つまりそんなに遠いわけではないんだけれど、渋谷で出会いました(笑)。
で、今回は、この展覧会がどうだこうだ、とかよりも、いい機会なので印象派について語ろうと思います。なるべく分かり易くかつ詳しく書くつもりです。興味があったら、読んでください♪
まずは、印象派の絵について。
印象派というと、やはり真っ先にモネ(Monet)やルノワール(Renoir)あたりを思い浮かべると思います。あんな感じ、みたいな。
ちゃんと、説明してみると、まず筆のタッチが細かくはっきりわかるように、見方によっては乱暴な感じに、塗られているのがよく分かると思います。筆の跡がはっきりわかるわかる。これが、大きな特徴です。これを筆触分割と言います。これは、印象派の画家たちが、自然界にあふれる光を画面上に再現しようとして、行ったものです。眩い光を描こうとしたとき、それまでのように絵具を混色して使うと、混ぜれば混ぜるほど色は鈍くなります(彩度が落ちる)。それを防ぐために、印象派の画家たちは、チューブからしぼった絵具を混色せずにそのままカンヴァスに載せました。そして、1830年代に化学者のシュヴルールという人が「視覚混合」というのを唱え、その理論を応用する形で、印象派の画家たちはチューブからしぼり立ての絵具を、細かいタッチで画面に置いていきます。すると、それぞれのタッチは青とか黄色なんだけれど、そういった様々な色の細かい色面が集合すると、人間は網膜上でそれらの色を混色します。これが視覚混合です。テレビの画面なんかも、超接近すれば赤青緑の点の集合ですが、これと同じことです。パレット上での絵具の混色はどんどん濁っていきますが、混色しないでカンヴァスに乗せているので彩度が落ちていません。こうして網膜上で混色させることによって、あの外界の明るさを画面に定着させようとしたわけです。ふんふふーん、って適当に塗ってるわけではないのです。
また、印象派の画家たちは、輪郭線を否定しました。絵を見れば一目瞭然だと思います。もう一言言えば、固有色を否定しました。どういうことか説明しましょう。
リンゴがあって、赤く見えているとします。けれど、焚き火の側でリンゴを見たらちょっとオレンジがかるでしょう。また、ロウソク一本の部屋で見たら、ほとんどどす黒い鈍い赤でしょうし、逆に真夏の燦々とした太陽の下で見たら、普段より強烈に赤く感じるかもしれないですね。つまり、色というのは光があって始めて認識できるもので、その光の状況によって認識する色も様々に変化する。固有色なんか無いんだっ!となるわけです。光の関係性の絵画のわけで、輪郭線は消滅します。
絵の技術的な面では、この2つが大きな特徴です。印象主義は、この世のものは全て動いていて、不変のものはないんだ、ということを描いたのです。
画題、描かれている内容的なことでいうと、テーマつまり主題が無い、というのが大きな特徴。どういうことかというと、それまでの絵画というのは、宗教・神話・歴史やあるいは貴族階級の肖像画がほとんどでした。しかし、印象派の絵画は、何でもない森や花畑、草原など、特にこれといったテーマの無いものを描いたのです。ということは、教養が無くてもわかる、ということになります。一般市民でもわかる。これは家のある風景だね、とか。主題がどうこうではなくて、単純に自然の美しい光をとらえ、美しい光景を描いたわけです。
ところで、ここまでの特徴でなるほど、とか、確かに、と思うかもしれません。が、それは、今生きている我々だからです。
考えてもみてください。当時にタイムスリップしたつもりで。それまで、写実的な宗教画や歴史画などが描かれていて、筆の跡なんて見えない、そんなの見えたら只のヘタクソ。そんな絵が超超当たり前のところへ、述べたような印象派の絵画が突如出てきたら、それはそれは驚くでしょう。実際、当時の驚きも相当なものでした。「印象派」なんて考えが全くない状態で、そういった絵を観たら、驚くのは当然です。
こう話してくると、日本人に印象派が人気なのも最もです。実際、今回の展覧会も、それなりに人がいました。モローとか象徴主義とかは、ガラガラだったのに。
聖書や神話に対して、ほとんど全くと言っていいほど素人で知識を持っていない我々日本人です、こういったテーマの無い、鑑賞するのに知識のいらない印象派の絵画は、とても取っ付きやすい、理解しやすいのです。だから感想も「綺麗」とか「美しいね」とかになるわけです。
また、ヨーロッパの人に比べて日本人の水晶体は暗いです。ヨーロッパの人はよくサングラスをかけてますね。ヨーロッパの照明は暗いです。明るい印象派の絵画は日本人にとって親しみやすいということになります。
さて、印象派の歴史的な部分みたいなことについて。
それまでは、「サロン」といういわゆる官展のようなものが強い権威を持っていました。このサロンに入選するかしないかは、画家にとってとても大きなことでした。が、そのころ台頭していた絵画は、前にも描いた通り、アカデミック絵画、つまり、写実的な宗教画や歴史画といった類いでした。いかに写実的に、いかにダイナミックにそういった画題を描けるかが、画家の技量と考えられていたわけです。そんな中、印象派の画家たちは、「サロン」に大いに不満を持ちます。当時からすれば、「サロン」に全く適さないような印象派の絵は、もはやギャグ、悪ふざけ、下手すぎ、やる気あんの?みたいなわけで、笑われるしけなされるし、非難轟々、理解なんかとは程遠かったのです。
そこで、印象派の画家たちは、自分たちで展覧会をすることにします。それが印象派展です。印象派展と言いましたが、本当は単なる「絵画展」という名前です。そもそも「印象派」という呼び方は、モネが第1回絵画展に出品した『印象 - 日の出』に由来しています。これをバカにして「印象派展」と呼ぶようになったのです。この「絵画展」は第1回(1874年)から第8回(1886年)まで続きます。面白いのは、第1回印象派展はナダールという写真家の写真館で開かれました。この辺は、写真のこととかとも絡めて、色々あったりするのですが、長くなるのでパス。
さて、印象派展とは言っても、いわゆる説明したようないわゆる「印象派の絵」を描いた画家は、出品作家のうちの3分の1くらいで、残りの3分の2は取るに足らない画家たちでした。つまり、印象派展と言っても、「サロン」に対して不平や不満を持ったものたちのグループ展だった、というのが実際のところです。
印象派展について書いてきましたが、思い浮かべるよなマネ(Manet)やモネ、ルノワールなどは途中で離脱します。マネなんかは、サロンに対抗してやっている印象派展なんかは、怖くなってくるわけです。画家として世間に認められたーい、という気持ちから、離脱しちゃうのでした。
第1回から第8回まできちっと全てに参加したのはピサロ(Pissarro)ですね。もうほとんどこの人のお陰で最後まで続いたと言えるようなものです。
ところで、デュラン・リュエル(Durand-Ruel)という画商がいて、印象派の画家たちを扱っていました。が、上述のように相手にされず、全く売れませんでした。ので、リュエルはアメリカ合衆国のマーケットへ作品を持っていきました。すると、花の都パリからやってきたアートだっ!とアメリカ人たちは話題にして売れたわけです。伝統も文化も無いアメリカだからこそ、こういった状況が生まれたわけです。「知識が無くても観れる絵画」というのも原因の1つでしょう。こうしてヨーロッパよりも早くアメリカでブレークすることになった印象派でした。実際、印象派のカタログはフランスではなくアメリカで最初に出ました。
あと、よく「後期印象派」という言葉を耳にしますが、あれは要注意です。そもそも、印象派に前期後期はないです。ポスト印象主義、新印象主義、と言いましょう。印象派の後の画家たち、ということです。
それから、構図やなんやらと浮世絵の影響は大きいです。実際に印象派の画家たちは、浮世絵を見て色々と考えたりしています。浮世絵は、日本から陶器などを送る時に包み紙として使っていたもので、もともとハイアートとしてヨーロッパに入ったものではないです。単なる包装紙です。それを見たヨーロッパの人たちが、中身より包装紙の浮世絵に興味を持ったわけです。そうして色々と影響を与えていくわけですが、…今日のヨーロッパの文献とかを見ても、浮世絵の影響とかは書かれてなかったり、ほとんど触れられてないらしいです。いかに日本が極東の小国、芸術においてヨーロッパからどう見られているか、という現実を考えさせられる話だと思います。
以上、本当は印象派以前のクールベとかマネとか、その後のセザンヌとか、色々あるんですが、切りがないので印象派にしぼって書いてみました。
近々、小説『制作』のことを書くのにも、これらのことを話しておいた方が書きやすいので、というのもあるんですが。
今後の絵画鑑賞に役立てば嬉しいです。
あー、長かった!!
[メモ]
渋谷で出会うポーラ美術館の印象派コレクション展
@Bunkamura ザ・ミュージアム (渋谷)
2月26日まで