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半地下の手記
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2008/07/12のBlog
熱気。暑い暑い。何度あったのだろう?
そんな中、本当に久しぶりに多摩センターへ。懐かしい場所です。
多摩美術大学美術館へ行き、『絵画のコスモロジー』展を観、そして13時から開始されたシンポジウムを拝聴した。

この展覧会。企画がN先生である。
N先生の信頼する作家3人による展覧会。
出品作家は、橋本倫黒須信雄小山利枝子
3人とも、画家です。僕は全員と以前から面識があったので、そういう意味でも作品を観れる嬉しい機会だった。
シンポジウムは先生を入れた4人によるトークという形式。

展示もシンポジウムも非常に楽しめました。
作品は強いオリジナリティを持つ、三者三様の絵画論に支えられたもの。
作品に対峙すると、絵画の成立や自分の認識について考えを巡らさせられるような、そういった絵画であって、それぞれに深い。知らない、別な世界へ目を向けることを必要とするような…。そういった作用を持つ絵画というものもあるのかと驚く。

何度かこのブログでも言及しているように、皆さん知性に溢れまくっているので、それはそれはシンポジウムは大変でした。
それぞれの話が深く、大変興味深い上、なんと3時間を超える超大作なシンポジウムだったので、その内容をここに記すのは難しい。シンポジウムを聞いた人の財産。
でも、1つ分かったのは、皆さん本当に絵画について考えていて、“真剣に”制作しているということ。その度合いが半端じゃない。大変絵画に向き合っている。

制作の動機や考えなど、沢山の興味深い話に溢れていた3時間。いつものように僕はメモにメモにメモメモメモ(笑)。面白いなぁ。また興味分野が増えた。

ただ自分が信じたものを描き続ける。
このシンプルさと難しさが分かるかどうかというのは、大きなポイントだろう。
それを続ける人達が、絵画への愛を見せた瞬間。

そして、信じた作家を信じる、本当の評論家。

色んな面で、芸術を信じたくなる、そういう空間となった。



終了後、飲み会へ。
空腹に食べ物がたたったか、胃が苦しくなって、途中で僕は仮眠(苦笑)。
久々の酒の席な気がしたけれど、素敵な方々と良い時間を過ごせて良かったです。
非常に帰宅が面倒な場所故、早目にお開きにする。僕は京王線にまず乗ったが、人身事故のアナウンスがあったので、小田急に乗り換えたりしていたら、終電に間に合わなくなる。あぁ、埼京線の早さよ…。なんとか西川口まで行き、タクシーで帰宅。2時間30分かかった…。



[メモ]
絵画のコスモロジー
多摩美術大学美術館 (多摩センター)
7月20日まで

2008/07/10のBlog
先週は、日本画教室が休みだったので、2週間ぶりの講座。
かなり、作品に手が入ってきた。そろそろ描画も進み、色々と技術的なアドバイスも増える。僕が普段まったく行わないような「日本画っぽい」技法が多く必要とされるので、実演する側としては新鮮だ。

終了後、公民館の方と昼食をとりつつ打ち合わせ。実は秋にとあることが…、おっと(笑)。
その後、上野へ向かう。始まったばかりの展覧会へ。
会場に着くと、内容が内容だけに、既に結構人が入っていた。
観たのは『対決 巨匠たちの日本美術』という展覧会。

この展覧会は、直接影響のあるライバル同士や、同時代に活躍した者同士などを、2人ずつ並べて比較できるように展示するという面白い企画。なので、両者の差異や或いは呼応が、非常に観易い形になっている。
このように、企画自体が面白いのだが、さらにそれを後押ししているのは、ビッグネームがずらりっ!というところである。彼らの作品をこのような構成で見られるのは、なかなかないチャンスであろう。
実際、こうして2人の作品を対で展示してもらうと、両者の関係を改めて理解できるし、非常に良いアイディアだと思った。

ラインナップは、
運慶vs快慶
雪舟vs雪村
永徳vs等伯
長次郎vs光悦
宗達vs光琳
仁清vs乾山
円空vs木喰
大雅vs蕪村
若冲vs簫白
応挙vs芦雪
歌麿vs写楽
鉄斎vs大観

うーん、彼らの作品が見られるだけでも、いいじゃないですか。
vsってあたりはナンセンスですが、目を瞑りましょう。

運慶と快慶はやはり素晴らしい。度々言うように仏像に目覚めている僕なので、見入っちゃいました。仏像の周りに漂う空気。周囲の空間までも彫刻されている感じ。柔らかくて柔らかくて…。
長谷川等伯は今なら《松林図屏風》が展示されている。追求する者が行き着いてしまう風景というのだろうか。気づいたらそこにいて、何かへ向けてまだ彷徨い歩かなければならない。眼前に見えている、何にも頼れない風景。孤高の精神。《萩芒図屏風》も良かった。やっぱ僕は等伯好きだ。
曾我蕭白は異常(笑)。《群仙図屏風》なんか、もう全てがあるというかなんというか。一体お前は何なんだ、というくらい描けている。
長次郎や本阿弥光悦の茶碗も素晴らしい。
俵屋宗達の《蔦の細道図屏風》なんかは、この時代にこういう絵を描いていたのか、と驚かされる。何ともシンプルで、大胆な色面。

…とまぁ、面白いです。
この辺の日本美術は本当にすごい。ちょっとキツい言い方ですが、現代の日本画家のを観に行く暇があるなら、絶対こっちを観た方がいいでしょう。勝負になってないというか。

余白の美、構図、装飾性、この辺は当然語れる内容であり色々とあるのだけれど、なんかそれだけじゃないな、という感じを今書いてて受けます。遊び心、や、仙人みたいな感覚。
日本美術には日本美術の見るべき作品があって、そこにはぶれてない何かがある。そういったものに、出会える展覧会じゃないかな、と思います。

結局、入館が遅かったので閉館までいたのだけれど、ラスト20分くらいは独占でした!運慶や等伯の作品やを1人で見る贅沢…。ラッキーだった。

会期は短いです。そして、展示替えも複雑です。きっとこの後混みます。
でも、おススメです。



[メモ]
対決 巨匠たちの日本美術
東京国立博物館 平成館 (上野)
8月17日まで

2008/07/07のBlog
[ 23:59 ] [ 雑記 ]
間が空いてしまった。
なんというか、毎日何かしら書こうとは思っているのだけれど、暑さにかまけてというか、気絶にかまけてというか、ウィンブルドンというか(笑)。

最近は、フランス、ロシア、アメリカ合衆国を旅してます。ええ、文学で。時代は一昔以上前ですが。
本も書く記事が溜まる一方だなぁ。もはや記憶が…。
「写真について」も2・3回で止まってしまっていますね。
書くよ書くよ!

小品展の作品。
小さいから楽勝か、というとそうはいかない。
絵画の「強度」に気づいてしまった最近であるが故に、ズバッと突き抜けたイメージを見ないとなかなか進まないのです。
センス抜群と思う友人のメール抜粋
「なんだか根なし草の帰る場所を失った僕が、どこか懐かしい、でも、二度と戻ることができない家が、そこには確かにあって、悲しくて泣いてしまうよ。」
ここまで感じてくれると感無量で、本当に嬉しい。
時間の同時性を作品に宿すことに成功していて、そしてそれを感じ取ってもらえたからこそ出てくる言葉だとおもう。過去・現在・未来が1枚の中にあるからこそ、時間や記憶の切なさが現在へとダイレクトに響いてくると思う。
ということで、だいじょうぶだ!今一度、今までの思考と、吸収したものたちを見直そう。
すすっと、続々と、作品が生まれそうな気がします。

くだらない、どうでもいいことを断ち切って、価値あることに時間を費やそうという意識を最近よく持つようになった。そういうことを身近にすればする程、生が充実してくるはずだ。

2008/07/01のBlog
[ 21:39 ] [ 雑記 ]
先日、注文していたパネルが届いた。
なんとか、玄関を通過。
……でかい。
開封だけで重労働。特にスペースが狭い我が家では尚更。頭脳プレーだ。
(あれ?既に1枚反ってるぞオイ…)

縦横を回転させる。当然この時の一瞬のナナメの状態が最長の高さになる。
天井すれすれ。どうやら、我が家で描ける最大サイズのようだ。

それにしても、本当に描けるだろうか、と若干不安になってしまう。
設定してしまったハードル。
でも、次の個展は、これをやらねばならないという気持ちを持っている。勝負の時だと感じているので、やるしかない。


完成したばかりの新作をポートフォリオにするため、無くなっていたプリンタ用紙を購入しに池袋へ。
明日、銀座へ行って画商さんへ届けようかと思う。

それはそうと、夜、地元の駅の本屋をチラッと徘徊していたら、新潮文庫の表紙に激変が。
我が敬愛する太宰の『人間失格』が、牡丹色(?)一色に!
少し前、集英社が同じく人間失格の表紙を、アホ丸出しセンス無しで、罵詈雑言すら浮かばないというかゲンナリしてそんな気力すら出てこないような表紙へモデルチェンジした時は、ダメだ、と思いましたが、今回の新潮文庫の変化なら良いのではないかと思います。多分、時期限定でしょう。新潮社のホームページでも見つからない。
『こころ』と『銀河鉄道の夜』と『絵のない絵本』も同じ現象が起きていた。


窓を開けて網戸にして、今夜も描いたり読んだり、まったりとしよう。
新月が近い。

2008/06/30のBlog
[ 23:59 ] [ 掲示板 ]
先月はほとんど更新せずに終わってしまいました。いかんいかん。
梅雨入りもしたようで、今年も6月に入りまして。
色々と、精神的には忙しくしているのですが、なかなか行動が伴わず、今月こそはといつものごとく気合いを入れようかと。

先月は観たい展覧会が少な過ぎたけれど、今月はどうかなー。
ぽつぽつ観ていきたいです。



[画像]
《見えざるもののために》
2008/01/20
岩絵具、板
22.0×33.3cm
《For an Invisible》
Powdered mineral pigments on wood
※画像の無断転載・転用は禁止です

2008/06/25のBlog
[ 23:59 ] [ 雑記 ]
個展へ向けた作品が、形になって出現し始めた。
前回個展終了時以来、新たな段階を模索しつつ、展覧会を巡って吸収して、色々掴めてきた、とたまにここでも書いてきたけれど、ようやくそれが僕の身体を通して作品に現れる。

良いです。
相当に、Breakthrough していると思う。
それは取りも直さず、破壊できたということだ。
今までの安定や安心を壊して、脱することをしないと、大きな変化や進展は手にすることができない。
自分でも個展が楽しみだ。

意気込んで、個展用のパネルを大量注文。
想像以上の経済的困窮…。
そして、描かなきゃならない作品の多さ。また、新たにかなり手強いハードルを設定して、自らを追い込む。


雨が降らないだろう休日。
アクティヴにしようと思い、銀座で画廊を巡ることにする。
突然連絡し、大学時代の数少ない友人、砂川くんと待ち合わせ。
正午、銀座着。
銀座から日本橋にかけ、かなりな数のギャラリーへ。20軒近くくらい行っただろうか。一度にこんなに行ったのは久しぶり。

本当に星の数程、アーティスト志望者や作家はいる。
突出しなければ。
流行に乗ること無く、時代に消費されることなく、淡々と自分でいること。ただし、作品は間違いなく良いものであること。

2008/06/19のBlog
[ 23:57 ] [ 展覧会/ART ]
日本画教室2回目。
デッサンを転写して、下塗りに入れる人は入った。
なかなか良いペースで順調順調。岩絵具の扱いの未知数っぷりに驚いていたようですが、思ったように扱えないのが岩絵具。そう簡単にはいきません。
戸惑いながらも、ぬりぬりぬりぬり。楽しんで欲しいです。

終了後は、有楽町へ。出光美術館。
以前は汐留でルオーを観た。今回は、出光美術館のコレクションから。

ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)[1871-1958]は、フランスの画家。
1871年5月27日、パリ・コミューン(革命政府)の崩壊前日、砲撃のさなか地下室で生まれる。ルオーの家は、音楽に溢れた家で、幼い頃から音楽を身近に感じながら育つ。14歳で、ステンドグラス職人のもとへ奉公にでる。
90年に画家になる決意をして、国立美術学校へ入学。92年からはギュスターヴ・モローが就任し、マティスらとともに指導を受けた。以後、モローを厚く信奉。95年にはローマ賞に応募するが落選。この結果に師であるモローは不満を抱き、退学を勧め、ルオーは退学した。98年にモロー死去。これには非常に深いショックを受け、生活の困窮も重なり、以後数年間体調を崩し、転地療養を重ねた。モローの自宅はモロー美術館となるが、遺言により、ルオーが初代館長を務めた。2人の親密さが伺われるだろう。
後には、画商アンブロワーズ・ヴォラールが以後の全作品の購入を申し出て(1913年)、専属契約を結び(17年)、一緒に仕事をしていくことになる。相当多忙になるが、これによって代表作となる版画集等を作る機会を得た。
87歳で死去(Wikiの享年は間違いのはず)。

今回の展覧会は、質量ともに世界最大規模のルオーコレクションである出光コレクションによる展示。《受難(パッション)》や《ミセレーレ》などを一気に観ることが出来る。メインはそれらの連作になるが、初期と晩年の作品も展示。
初期、連作、晩年ともにそれぞれがそれぞれの魅力を持ち、ルオーへの評価が自分の中で改まる。良かったのだ。

敬虔なカトリック信者であるルオーは、その作風からも宗教画として語られることが多いようだが、その色が濃くなるのは連作に取り組みだしてからのようで、初期の作品は人間の生活に視線が注がれる。僕はこの段階が結構好きだ。サーカスの道化などはルオーの好んだモチーフだ。作品に描かれるのはサーカスの舞台にいる姿ではなく、ステージから降りた1人の人間としての道化である。ルオー独特のタッチと色彩で描かれる姿からは、生活の苦しさや疲れが滲み出る。

キリストの物語を描く作品に関しては、もはやそれ自体が神々しい。
版画の深い黒。あるいは油彩のレリーフかと思うくらいの厚い厚い盛り上がったマチエール。それらはさながら祈りを塗り固めているようだ。写実的に描かれた宗教画とはまた違う、独特の慈しみの深さがあるように思った。

全体を一貫する大きくて大胆な筆遣いと、その暗い色彩には、雄弁な沈黙がある。
力強い筆触と、塗っては削りまた塗り重ねられてきた画面に、深い精神が積み重なっているように思った。

静寂の絵画。祈りの絵画。

聞こえない声に耳を澄ますと、色々と聞こえてきた。




[メモ]
没後50年 ルオー大回顧展
出光美術館 (丸の内)
8月17日まで

2008/06/16のBlog
[ 23:58 ] [ 展覧会/ART ]
日曜日。上野へ。リンタロさんと会い、国立西洋美術館へ。
まだ、開催2日目の展示を観る。


カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot)[1796-1875]は、フランスの画家。ジャン=
フランソワ・ミレー
などとともに、バルビゾン派を代表する画家として人気が高い。
ブルジョワジーの家に生まれ、絵筆を取った後はイタリアへ留学もした。

このように、コローといえば巨匠であり、バルビゾン派と言えば真っ先に名前が浮かぶ1人であるが、ミレー等の影に隠れてしまうためか、その作品の質とは裏腹に、なかなかコロー単独で語られる機会は目にしない。プラスα的な感じでサラッと流されてしまう立場と言えなくもない。
なので、今回コロー展という形で展覧会が開催されるのは、実はなかなか貴重な気もする。

実際、会場へ行って作品リストを観てみると、ほとんどがコローの作品で構成されていることを知る。同時大の画家の絵をこれでもかと展示して埋め合わせているのでは、という懸念は払拭される。

そのため、コローらしい風景画が会場を埋め尽くすわけなので、展示を観ていってもなかなか変化や新鮮味を感じることはできない。同じ質感の絵がずらーっと続く。
普通なら、かなりダルくなると思う。ただ、コローの作品の場合、それがなかったのだ。コローに関しては、作品1点だけを観るというより、こうして大量の作品を一連の作品と言うか、展示室という空間の中に身を漂わせるといった感覚で鑑賞するのが良い。次々と並んでいる詩情あふれる穏やかな風景画をリズム良く鑑賞していくというのが、心地よいのだろうと思った。

描かれている風景というのは、都市部の喧噪ではなく、森の中や湖畔、村など、静かな自然の息吹きが感じられる景色である。
物静かであり、空気に満ちている。
風や光が、画面から溢れてきそうな、柔らかい表現。
感動する対象が、身近な自然である時、その筆触は湿度と空気を生むのだと知った。

肖像画を集めた部屋もあった。
展示では、コローに影響を受けた画家たちの作品がぽつぽつと散見されるのだが、関連が分からない。とりあえず的で、余計な気がする。
変化に富む画家ではないので、単調と思ってしまうと単調だが、コローの作品を一堂に観る機会ではある。作品自体は素敵なので、チャンスと思って観てみるのも良いと思います。



--preludioさんの記事にTB--



[メモ]
コロー 光と追憶の変奏曲
国立西洋美術館 (上野)
8月31日まで

2008/06/12のBlog
12時。講座が終わり、満足感を得ながら外へ出ると、雨は小降りになっていた。
六本木へ行く。


エミリー・カーメ・ウングワレー(Emily Kame Kngwarreye)[1910頃-1996]は、オーストラリアのアボリジニの画家。
1977年からろうけつ染めというものの制作を開始。その後、1988年くらいから、キャンバスにアクリル絵具で絵を描くようになる。その後、亡くなるまでの8年間で、3000点以上の作品を描いた。
オーストラリアのユートピアという一帯で生涯を送り、ユートピアに隣接するアルハルクラという地域を故郷とした。作品は、アボリジニ独特の民族的な絵柄で、世界中で個展が開かれ、97年にはヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア代表に選ばれた。

今回の展覧会は、エミリーの作品を初めて日本で紹介したものである。
作品は年代順かつ画風ごとに並べられ、エミリーの作品の全体を観ることができる。

作品は、線や点が集積して画面を埋め尽くしたものがほとんどで、抽象画のようだ。
エミリー自身はイーゼルに立てかけたりせず、キャンバスを地面において周囲から描いていくという手法をとったらしい。よって、作品には天地が存在せず、図版や会場の展示のされ方は、必ずしも一致しない。そのへんは、美術館側のセンスに一任されるらしい。縦構図か横構図かすらも、決まっていないのだ。

展示室へ入ると、最初は初期の作品を見ることになる。
この時期の作品には、色濃く民族的風合いが見て取れる。
もともとエミリーは、部族の儀礼などのため、ボディ・ペインティングや砂絵を生活の一環として描いてきた。それが、キャンバスに描く機会を得た時に、そのまま画面に表れたといった感じである。
アボリジニだよな、と思わざるを得ない図柄が画面いっぱいに広がる。
祭りや土俗的なものを感じさせる作品たち。
それが、画家としてのスタートだったようだ。

その後、作風が変わり始める。
点描がメインのもの。非常にカラフルなもの。直線的な線のみで構成されたもの。編み目のように入り組んだ線で構成されたもの。そして、最晩年の、刷毛でささっと塗ったようなもの。
特に、点描がメインの作品と、カラフルな色が埋め尽くす作品が、とても良かった。それまでの民族的な匂いの強い作品とは違い、美術として素晴らしいと思ったのだ。
しかも、とても大きい作品が多く、相当な迫力がある。

彼女は、美術教育は全く受けていない。世間のアートシーンもほとんど知らなかったようだ。
恐らく、自作についても僕らの言う「美術」「芸術」という概念は無かったのではないかと思う。
そんなエミリーが描いた作品に芸術的価値を観る我々文明人。この辺は、アートの持つ面白さの1つだろう。

作品全体は、ぶれること無く1つの方向を向いている。
とことん自分のコミュニティや文化、土地を讃美する精神に貫かれている。展示を観ていると、このことを本当に強烈に感じる。
画風が変わろうと、描かれているものはユートピアであり、どんなに自然を敬っていることか。
出自、が持つ影響は本当に大きいと、感じざるを得ない。

季節ごとに移ろう自然の色。
ヤムイモが地中に張る根。畑の土のひび割れ。
全てはモチーフとなって、作品に表れてくる。

絵画や芸術の持つ、根源的な強さ。
文脈や技術が不要になる瞬間。
言語化できない感覚。
色んなものが体感できるでしょう。

展示構成も非常に観易く、ゆったりとしたものだったので良かった。
こういった作品に触れるのも良いと思います。興味があれば是非観てみてください。


帰りは、最初こそ小雨だったが、途中、雨は上がった。
雨上がりの午後特有のキラキラとした光が、車窓から射し込んだ。それだけで、満足感は何割増かになる。
そうだ、ここにはここの自然がある。



[メモ]
エミリー・ウングワレー展 アボリジニが生んだ天才画家
国立新美術館 (六本木)
7月28日まで

[ 21:09 ] [ 雑記 ]
ついにこの日を迎え、UT画伯による日本画教室が開講しました。

前日、N先生に先達としての助言を求めたところ、
緊張は全くいらないけれど、適度な高揚感が必要。天才は常に自然体で臨むものです。
との言葉をいただく。

あいにくの雨。
僕は武蔵浦和駅から徒歩で公民館へ向かうのだが、途中お腹が痛くて(苦笑)。
それでも、初日だから1時間前の9時に到着。画材や今日の流れを確認する。

12名。今後、1人増える可能性があるらしい。
こんな若者が講師でビックリしたでしょうが、始まってみると、非常に和やかに進み、心配していた今日の予定をこなせた。
とても好印象を持ってもらえたようで、ほっと一息。
良いスタートが切れた。


終了後は、そのまま六本木へ向かい、国立新美術館での展示を観る。