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2005/01/29のBlog
[ 11:19 ]
[ 農地 ]
農家の生まれでない人が農業を始めるときの関門の一つに農地の取得がある。宅地などの土地は価格さえ折り合えば、借り入れることも購入することもできるが、農地は、価格面で合意しただけでは、借り入れも取得もできない。これは、農地は農地法という法律により農地の取得などが規制されているためだ。
農地とは、水田,普通畑,樹園地,桑畑など、耕作を目的とした土地で、農業を営むための土地をさす。そして、農地を取得し利用できるのは耕作者と農業を営む法人となっている。
農地法による農地の貸借は、まず本人と農地の所有者が貸し借りの契約を結ぶ。次に各市町村にある農業委員会※に許可申請書を提出し、農業委員会は内容を審査して、適正であれば許可され、初めて農地を使うことができる。許可をされるためには、農地を耕作して栽培管理ができる、農作業に常時従事できる、市町村が定めた面積(原則50アール)以上である、耕作地までの距離が適正であるなどの条件を満たす必要がある。
戦前の日本の農地は、地主から農地を借りて農業を営む小作農が多かったが、GHQ体制のもと、国が193万ヘクタールの農地を地主から買い上げ、420万戸の小作農に安く売り渡すことにより、自作農の育成を図った。私有財産が認められていながら、このように大規模で、無血革命ともいえる農地改革は世界でも例のない事例として高く評価されている。
農地改革の成果を今後も維持すべく昭和27年に制定された農地法は、耕作者の地位の安定と、農業生産力の増進を目的として、達成するためには耕作者自らが農地を所有することが最も望ましいという自作農主義をうたっている。このような歴史的経過から、新たに農地を借りる、あるいは購入しようとすると、前述したように様々な手続きを踏むことになる。
信州東部の山の上にある 『ヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリー』の農園主で、エッセイストの玉村豊男氏は「田園の快楽それから」(世界文化社 9905)で「以前は広い土地を見るとテニスコートにでもしたいと思ったものだが農業をやるようになって考え方が変わった。暮らしは土から生まれるもの、という意識が強くなってきたからである。」と述べている。
農地は単なる土地ではなく意味のある土地であり、経済的な物差しとしての土地ではなく、農作物を育み食料を生み出す土としてとらえるべきものである。いうまでもなく、農地は農作物が栽培されて始めてその役割を果たすことになる。農地の転用や耕作放棄地の増加が続く時代、その意味からも農地改革の意義を改めて確認することが必要である。
※農業委員会は、農業生産力の発展および農業経営の合理化を図り,農民の地位の向上に寄与するため、農地移動に関する許認可行政,農地の利用や農業振興の推進や指導などを行う機関である。委員の大部分は農業者による選挙を通じて選ばれ、農地の売買などに関して法律に基づく許認可・執行権限をもっている。府県レベルの組織として都道府県農業会議、全国レベルの組織として全国農業会議所がある。
農地とは、水田,普通畑,樹園地,桑畑など、耕作を目的とした土地で、農業を営むための土地をさす。そして、農地を取得し利用できるのは耕作者と農業を営む法人となっている。
農地法による農地の貸借は、まず本人と農地の所有者が貸し借りの契約を結ぶ。次に各市町村にある農業委員会※に許可申請書を提出し、農業委員会は内容を審査して、適正であれば許可され、初めて農地を使うことができる。許可をされるためには、農地を耕作して栽培管理ができる、農作業に常時従事できる、市町村が定めた面積(原則50アール)以上である、耕作地までの距離が適正であるなどの条件を満たす必要がある。
戦前の日本の農地は、地主から農地を借りて農業を営む小作農が多かったが、GHQ体制のもと、国が193万ヘクタールの農地を地主から買い上げ、420万戸の小作農に安く売り渡すことにより、自作農の育成を図った。私有財産が認められていながら、このように大規模で、無血革命ともいえる農地改革は世界でも例のない事例として高く評価されている。
農地改革の成果を今後も維持すべく昭和27年に制定された農地法は、耕作者の地位の安定と、農業生産力の増進を目的として、達成するためには耕作者自らが農地を所有することが最も望ましいという自作農主義をうたっている。このような歴史的経過から、新たに農地を借りる、あるいは購入しようとすると、前述したように様々な手続きを踏むことになる。
信州東部の山の上にある 『ヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリー』の農園主で、エッセイストの玉村豊男氏は「田園の快楽それから」(世界文化社 9905)で「以前は広い土地を見るとテニスコートにでもしたいと思ったものだが農業をやるようになって考え方が変わった。暮らしは土から生まれるもの、という意識が強くなってきたからである。」と述べている。
農地は単なる土地ではなく意味のある土地であり、経済的な物差しとしての土地ではなく、農作物を育み食料を生み出す土としてとらえるべきものである。いうまでもなく、農地は農作物が栽培されて始めてその役割を果たすことになる。農地の転用や耕作放棄地の増加が続く時代、その意味からも農地改革の意義を改めて確認することが必要である。
※農業委員会は、農業生産力の発展および農業経営の合理化を図り,農民の地位の向上に寄与するため、農地移動に関する許認可行政,農地の利用や農業振興の推進や指導などを行う機関である。委員の大部分は農業者による選挙を通じて選ばれ、農地の売買などに関して法律に基づく許認可・執行権限をもっている。府県レベルの組織として都道府県農業会議、全国レベルの組織として全国農業会議所がある。
2005/01/22のBlog
[ 08:43 ]
[ 多様な担い手 ]
自然と係わりながら生産活動を行う農業への関心が高っている。新たに農業に就く人も増え、平成14年には8万人となり平成2年以降増加傾向にある。新規就農者の中には農家の生まれでなく農業を始めた人(新規参入者)もおり、平成13年は530人となっている。(平成15年度農業白書)
新規参入者の中には、産業としての農業ではなく生き方の手段として農業をとらえ、農的な暮らしを実現するために農業を始めるという、今までの後継者とは一線を画する人がいる。
1月8日の「野菜価格の成り立ちの不思議さ」にトラックバックを張った『鯵!』氏は、自身のブログ「野菜の価格設定」の記述で「農業というのはやはり、元々は生きるために絶対不可欠な活動なのであって、それが産業として鉱工業やサービス業と同列に並べられて比べるのはどうか、と思います。
ビル・ゲイツもエライですが、近所の農家さんの方がもっとエライと思うのです。
やはり、農業は「農的暮らし」と呼ぶ方が本来的だと思うのですが」と農業に対する想いを述べている。※1
生産者の中にも、同じような考え方をする人がいる。九州の農民作家の山下氏は、カネにならない部分、作って食べて生きるのが「農」、売って何ぼが「農業」と定義し、自分たちは「農」と「農業」の二足のわらじで暮らしていると言う。さらに、「農」の豊かさを肝心な農家が分かっていない。生きていくための「農」は、仕事と一味違う魅力に満ちたものになる。そして、小さい規模で食っていけることを誇りにしなければいけない。規模を大きくしなくていいと説いている。さらに、住む家があって食べ物を作っているのは、鬼に金棒のはず。それが不安におびえるのは業に振り回されているからだと、農的な暮らしが農業本来のものであるとして、経済効率一辺倒の農政に対して警告を発している。(全国農業新聞 050114ほか)
また、農業生産法人(有)船方総合農場の坂本氏は以前、農家でない人達や兼業農家が取り組む「趣味の自給農業」により農地が守られると考え、国民自由参加の自給農業を提言している。(Villag 92 vol 5)
しかし、農的な暮らしを始めようとしても、簡単ではない。農的な暮らしをする人は、農業の担い手でなく農業振興の対象にならない、これが今までの行政の考え方だった。就農相談に応じている機関も、農業の担い手になる人を相手にしており、農的な暮らしを志す人は農地の確保も難しく、希望が叶わない場合もある。
農業には産業としての役割と、農業が営まれることにより農村の環境が農維持されている役割があることが認識されつつある。農業の多面的機能を十分に発揮するためには、意欲ある農家に絞り施策を展開するだけでは目的を達成できない。農的な暮らしを志向する人や、女性や高齢者など様々人たちの働きによりはじめて多面的機能が発揮できる。彼等は業の担い手ではないが、農村における環境の担い手である。
さらに、農村では様々な農家が存在し集落を形成しており、多様な農家の共存は集落本来の姿である。その意味においても、農的な暮らしを実践する人も立派な後継者である。新規就農者への支援は大切であるが、同時に農的な暮らしを志向する彼らを認知し受け入れることが行政や農業団体に求められている。
※1
http://www.editide.com/joker/archives/003308.html
新規参入者の中には、産業としての農業ではなく生き方の手段として農業をとらえ、農的な暮らしを実現するために農業を始めるという、今までの後継者とは一線を画する人がいる。
1月8日の「野菜価格の成り立ちの不思議さ」にトラックバックを張った『鯵!』氏は、自身のブログ「野菜の価格設定」の記述で「農業というのはやはり、元々は生きるために絶対不可欠な活動なのであって、それが産業として鉱工業やサービス業と同列に並べられて比べるのはどうか、と思います。
ビル・ゲイツもエライですが、近所の農家さんの方がもっとエライと思うのです。
やはり、農業は「農的暮らし」と呼ぶ方が本来的だと思うのですが」と農業に対する想いを述べている。※1
生産者の中にも、同じような考え方をする人がいる。九州の農民作家の山下氏は、カネにならない部分、作って食べて生きるのが「農」、売って何ぼが「農業」と定義し、自分たちは「農」と「農業」の二足のわらじで暮らしていると言う。さらに、「農」の豊かさを肝心な農家が分かっていない。生きていくための「農」は、仕事と一味違う魅力に満ちたものになる。そして、小さい規模で食っていけることを誇りにしなければいけない。規模を大きくしなくていいと説いている。さらに、住む家があって食べ物を作っているのは、鬼に金棒のはず。それが不安におびえるのは業に振り回されているからだと、農的な暮らしが農業本来のものであるとして、経済効率一辺倒の農政に対して警告を発している。(全国農業新聞 050114ほか)
また、農業生産法人(有)船方総合農場の坂本氏は以前、農家でない人達や兼業農家が取り組む「趣味の自給農業」により農地が守られると考え、国民自由参加の自給農業を提言している。(Villag 92 vol 5)
しかし、農的な暮らしを始めようとしても、簡単ではない。農的な暮らしをする人は、農業の担い手でなく農業振興の対象にならない、これが今までの行政の考え方だった。就農相談に応じている機関も、農業の担い手になる人を相手にしており、農的な暮らしを志す人は農地の確保も難しく、希望が叶わない場合もある。
農業には産業としての役割と、農業が営まれることにより農村の環境が農維持されている役割があることが認識されつつある。農業の多面的機能を十分に発揮するためには、意欲ある農家に絞り施策を展開するだけでは目的を達成できない。農的な暮らしを志向する人や、女性や高齢者など様々人たちの働きによりはじめて多面的機能が発揮できる。彼等は業の担い手ではないが、農村における環境の担い手である。
さらに、農村では様々な農家が存在し集落を形成しており、多様な農家の共存は集落本来の姿である。その意味においても、農的な暮らしを実践する人も立派な後継者である。新規就農者への支援は大切であるが、同時に農的な暮らしを志向する彼らを認知し受け入れることが行政や農業団体に求められている。
※1
http://www.editide.com/joker/archives/003308.html
2005/01/15のBlog
[ 09:31 ]
[ 食の安全 ]
食の安全確保のために、トレーサビリティの導入が盛んになっている。すでにスーパーは、イトーヨーカドーが「顔が見える野菜」、イオンが「グリーンアイ」など独自のシステムを作り上げ、他の農産物と差別化したプライベートブランド(PB=自社開発商品)に位置づけている。
トレーサビリティは安全を担保する仕組みとして、農協などの出荷団体も導入に前向きであり、農産物の生産に関する標準システムになりつつあるが、いくつかの課題も生じている。
記録する項目は何か、データの入力方法をどのようにするのか、掛かった経費を誰が負担するのか、信頼性をどのように担保するのかなど、解決すべき点が多々ある。記録する項目では出荷先ごとに異なると作業が煩雑になるため項目の統一が必要である。データの入力については、携帯電話を利用する、あるいはバーコードを用いるなど様々な試みがなされているが、いずれにしても生産者に負担のないような方策の確立が望まれる。経費の負担も、生産に伴う当然の行為であり当事者負担と考えがちだが収益の少ない農産物だけに生産者への負担増が気になる。またシステム全体の信頼性の担保は第三者機関が考えられるが、最初だけでなく継続したチェックが必要でありどのような仕組みなのか、さらに経費負担の問題も生じる。
トレーサビリティが当然の流れで産地において導入せざるを得ないなら、受身でなく積極的に利用する姿勢が必要である。面倒なことをやらされているのではなく、自ら農作業の記録をつける姿勢があれば、農薬や肥料の使用回数などを記入することにより病害虫が発生した時の原因解明に使えるなど、蓄積された農作業の記録は大きな財産になる。
しかしこのように考えてみても、すべての農家がトレーサビリティを導入しなければならないわけではない。業としての経営に必要であっても、高齢者や女性が直売所で販売する野菜にまで、この制度を導入する必要はない。
もともと自分の栽培した農産物に対する想いを消費者に伝えることが少なく、生産者や産地からのメッセージがほとんどないのが農業の特徴だ。その意味から、トレーサビリティは生産者がその農産物をどのような想いで作ったのかを的確に伝える仕組みとして活用すべきである。自分の作った野菜を食べてくれる人に思いをはせた安全に配慮する意識など、農業に対する生産者や産地の姿勢が大切である。トレーサビリティで伝えるのは使用した農薬の種類や回数でなく、おいしい野菜を作りたいという気持ち、こんな野菜を作りたいという考えである。それは、命の糧である食料を供給する責任と誇りをいかに消費者に伝えるかであり、そのことが何にも増して安全の証明であり信頼の確立となる。そして、トレーサビリティはそれを表現する一つの方式である。
消費者がこの人なら、この産地なら信頼できると判断し、国産品を愛用使用しよう、日本の農業を育てようと考えるようになって、初めてトレーサビリティの目的が達成される。
トレーサビリティは安全を担保する仕組みとして、農協などの出荷団体も導入に前向きであり、農産物の生産に関する標準システムになりつつあるが、いくつかの課題も生じている。
記録する項目は何か、データの入力方法をどのようにするのか、掛かった経費を誰が負担するのか、信頼性をどのように担保するのかなど、解決すべき点が多々ある。記録する項目では出荷先ごとに異なると作業が煩雑になるため項目の統一が必要である。データの入力については、携帯電話を利用する、あるいはバーコードを用いるなど様々な試みがなされているが、いずれにしても生産者に負担のないような方策の確立が望まれる。経費の負担も、生産に伴う当然の行為であり当事者負担と考えがちだが収益の少ない農産物だけに生産者への負担増が気になる。またシステム全体の信頼性の担保は第三者機関が考えられるが、最初だけでなく継続したチェックが必要でありどのような仕組みなのか、さらに経費負担の問題も生じる。
トレーサビリティが当然の流れで産地において導入せざるを得ないなら、受身でなく積極的に利用する姿勢が必要である。面倒なことをやらされているのではなく、自ら農作業の記録をつける姿勢があれば、農薬や肥料の使用回数などを記入することにより病害虫が発生した時の原因解明に使えるなど、蓄積された農作業の記録は大きな財産になる。
しかしこのように考えてみても、すべての農家がトレーサビリティを導入しなければならないわけではない。業としての経営に必要であっても、高齢者や女性が直売所で販売する野菜にまで、この制度を導入する必要はない。
もともと自分の栽培した農産物に対する想いを消費者に伝えることが少なく、生産者や産地からのメッセージがほとんどないのが農業の特徴だ。その意味から、トレーサビリティは生産者がその農産物をどのような想いで作ったのかを的確に伝える仕組みとして活用すべきである。自分の作った野菜を食べてくれる人に思いをはせた安全に配慮する意識など、農業に対する生産者や産地の姿勢が大切である。トレーサビリティで伝えるのは使用した農薬の種類や回数でなく、おいしい野菜を作りたいという気持ち、こんな野菜を作りたいという考えである。それは、命の糧である食料を供給する責任と誇りをいかに消費者に伝えるかであり、そのことが何にも増して安全の証明であり信頼の確立となる。そして、トレーサビリティはそれを表現する一つの方式である。
消費者がこの人なら、この産地なら信頼できると判断し、国産品を愛用使用しよう、日本の農業を育てようと考えるようになって、初めてトレーサビリティの目的が達成される。
2005/01/08のBlog
[ 09:04 ]
[ 地産地消 ]
多くの野菜は露地で栽培されているので、気象の影響を受けると、昨年の秋のような品不足が起こりやすく価格の高騰を招く。野菜は日常生活における必需品だけに、価格が高騰するとマスコミが取り上げるなと話題になる。しかし、野菜価格が関心をもたれるのはもっぱら高値のときだけで、価格が安定しているときは消費者もあまり関心を持たない。
農業は過保護とされ、競争原理を導入し価格形成も市場に任せるべきだとの意見は多い。野菜は従来から価格形成を市場に委ねているのだが、工業製品などに比べてさまざまな課題を抱えている。テレビなどの工業製品は、メーカーからコスト計算に基づく一定の価格が提示され、これに量販店などの流通経費が加算され、いわゆる小売価格が形成される。これに対して、野菜の価格はコストに関係なく、買い手に対して供給側の量が多いか少ないかで決まる。豊作であればコスト割れすることもあり、出荷しないで畑に鋤きこむなど廃棄をすることになる。廃棄をする判断基準は、収穫するまでにかかった経費でなく、収穫し出荷する場合に要する経費である。つまり、すでに投資した経費でなく、今後掛かる経費が市場価格を下回ると思われれば、生産者は出荷をしない。
もちろん昨年の秋のような高値のときに儲かる産地もあるが、多くの産地の犠牲の上に成り立つものであり、運のよい一部の産地に限られる。
また、市場を通さなければ、市場の経費がかからないのでその分価格が安くなると言う意見がある。市場価格に手数料が上乗せされているなら、この主張は正しいが、市場の経費は競り落とされた価格から引かれるので、価格の引き下げにつながらない。さらに、需要者が大量に買い付けると、工業製品は値引きされる場合もあるが、野菜では逆に価格が高くなってしまうことがある。
このように、野菜の価格形成には独特のものがあるが、なんと言っても生産者が自分で価格を決めることが出来ないことが問題である。いかに努力し、コストを削減しても、価格形成には反映されないのはなんとも不合理である。
産地直売は生産者が自分で値を決めることができるが、あくまでも市場価格の枠の中でのこと。まったく自由に販売価格を決められるわけではない。
コストを計算して、自分で栽培した野菜の価格設定ができることが野菜農家の願望である。当然ともいえるこのしくみが実現されて、初めて本当の意味での市場原理が働ことになる。市場原理の導入以前の環境整備こそ重要であり、これは野菜に限らず多くの農産物共通の課題である。
農業は過保護とされ、競争原理を導入し価格形成も市場に任せるべきだとの意見は多い。野菜は従来から価格形成を市場に委ねているのだが、工業製品などに比べてさまざまな課題を抱えている。テレビなどの工業製品は、メーカーからコスト計算に基づく一定の価格が提示され、これに量販店などの流通経費が加算され、いわゆる小売価格が形成される。これに対して、野菜の価格はコストに関係なく、買い手に対して供給側の量が多いか少ないかで決まる。豊作であればコスト割れすることもあり、出荷しないで畑に鋤きこむなど廃棄をすることになる。廃棄をする判断基準は、収穫するまでにかかった経費でなく、収穫し出荷する場合に要する経費である。つまり、すでに投資した経費でなく、今後掛かる経費が市場価格を下回ると思われれば、生産者は出荷をしない。
もちろん昨年の秋のような高値のときに儲かる産地もあるが、多くの産地の犠牲の上に成り立つものであり、運のよい一部の産地に限られる。
また、市場を通さなければ、市場の経費がかからないのでその分価格が安くなると言う意見がある。市場価格に手数料が上乗せされているなら、この主張は正しいが、市場の経費は競り落とされた価格から引かれるので、価格の引き下げにつながらない。さらに、需要者が大量に買い付けると、工業製品は値引きされる場合もあるが、野菜では逆に価格が高くなってしまうことがある。
このように、野菜の価格形成には独特のものがあるが、なんと言っても生産者が自分で価格を決めることが出来ないことが問題である。いかに努力し、コストを削減しても、価格形成には反映されないのはなんとも不合理である。
産地直売は生産者が自分で値を決めることができるが、あくまでも市場価格の枠の中でのこと。まったく自由に販売価格を決められるわけではない。
コストを計算して、自分で栽培した野菜の価格設定ができることが野菜農家の願望である。当然ともいえるこのしくみが実現されて、初めて本当の意味での市場原理が働ことになる。市場原理の導入以前の環境整備こそ重要であり、これは野菜に限らず多くの農産物共通の課題である。
2005/01/01のBlog
[ 09:55 ]
あけましておめでとうございます。
年の初めに、先人たちの農業に対する考えを通し、これからの農業の姿を考えてみませんか。材料は、宮沢賢治、スラウェシ島の人たち、江戸時代「農業全書」を著した宮崎安貞、民俗学者ではなく農学者としての柳田国男、そして現代の農民作家山下惣一さんたちの農業に対する姿勢です。
詩人,童話作家,宗教思想家とさまざまな分野で活躍をした宮沢賢治ですが、盛岡高等農林学校農学科に入学したときから東北砕石工場の技師まで、通算12年5ヶ月、生涯のほぼ1/3は農業と深く関わっていました。
その宮沢賢治の童話の一つに「狼森と笊森、盗森」という作品があります。四人の男とその家族が新たに畑を切り拓き農業を始める物語です。四人の男は大声で「こゝへ畑起こしていゝかあ」と森に呼びかけます。すると森は「いゝどお」と答えます。さらに家を建てること、火を使うこと、少し木を貰うことの許可をもらいます。
森を拓き、農業が軌道に乗り生活も安定していきますが、子供がいなくなったり、道具がなくなったり、粟がなくなったりの事件が起こります。これらはすべて、森に棲む狼や山男、あるいは真っ黒な手の長い大きな大きな男の仕業で、彼らは人間と遊びたくてそのようないたずらをしたことが分かります。
この話は、人が自然を敬い、自然との係わり合いの中で農業を営なんできたことを教えてくれます。そして、狼や山男、大きな男は自然や災害の象徴でもあります。もちろん、自然災害はそんな生易しいものではありませんが、賢治の手にかかるとすべてがやさしくなってしまいます。
ボルネオ島の東にあるスラウェシ島では焼畑の稲作があるそうです。人々は新しく拓く森のめぼしをつけると鳥の鳴き声で吉凶を判断し、吉と出たら小さな木を引き抜き、数メートル四方を伐開し斎囲を設け、様々な供物をささげた後に森を拓きます。森にはオポオポという守護神が棲んでいて、種を蒔くときから、収穫までの間畑を守ってくれると人々は考えています。稲はオポオポが守ってくれて初めて作ることが出来るのです、そのために、農作業にも自然を敬うさまざまな取り決めがあるそうです。このように、童話の世界だけでなく、人は自然の力添えがあって農業が成り立つものと考え実践していました。※1
江戸時代の農書の一つ「農業全書」を著した宮崎安貞は農業の基本を、「種を生ずるものは天なり。是を養うものは地なり。人は中にいて天の気により土地の宜しきに順ひ、時をもって耕作をつとむ。」と教えています。やはりここでも、農業において主たるものは自然で人は従でした。
これに対し、農学者としての柳田国男は、農業を「農トハ人ガ動植ヲ育成シテ其ノ結果ヲ取得スル行為ナリ、生物ヲ化育スル原動力ハ勿論天然ニ在ルモ之ヲ導クハ人間ナリ」と考え、農業は人間の主体性により成り立つことを強く打ち出しています。
このあたりから、いわゆる近代化の考えが生まれていたのでしょう。しかしこの考えが生産者一人一人に行き渡ったのはずっと後のことです。
農民作家の山下惣一さんは農政ジャーナリストの大野和興さんとの対談の中で、農業とは、自然の力に恵まれた結果、「よくできた」あるいは「よくとれた」わけで、主人公はあくまでも自然だと考えていたと話しています。
その山下さんが、昭和30年代に農業改良普及員から徹底的に言われたことは、「よくできた」、「よくとれた」とはいうな、「よくつくった」といえと指導されたと話しています。農業改良普及員の指導の下、生産者個々の農業の近代化が具体的になってきたのです。※2
賢治の童話だけでなく、昔から人々は自然の容量の範囲内で、自然との適切な係わり合いを保ちながら農業を営んできました。いわばこれが農業の原点です。それが、戦後になり近代化の掛け声の下、経済優先の農業が展開されてきたわけです。経済性も大切ですが、あらゆる産業が環境との係わり合いを問われている今、環境と調和した産業として、農業が他の産業のお手本となるためにも、年の初めに農業の原点にたちかえってみることが大切です。
※1「コメをどう捉えるのか」高谷好一、NHKブックス
※2「百姓が時代を創る」 山下惣一、大野和興 七つ森書館
今年もまた、農業に関連した情報発信を続けますので宜しくお願いいたします。
平成17年1月1日 ヤシャブシ
年の初めに、先人たちの農業に対する考えを通し、これからの農業の姿を考えてみませんか。材料は、宮沢賢治、スラウェシ島の人たち、江戸時代「農業全書」を著した宮崎安貞、民俗学者ではなく農学者としての柳田国男、そして現代の農民作家山下惣一さんたちの農業に対する姿勢です。
詩人,童話作家,宗教思想家とさまざまな分野で活躍をした宮沢賢治ですが、盛岡高等農林学校農学科に入学したときから東北砕石工場の技師まで、通算12年5ヶ月、生涯のほぼ1/3は農業と深く関わっていました。
その宮沢賢治の童話の一つに「狼森と笊森、盗森」という作品があります。四人の男とその家族が新たに畑を切り拓き農業を始める物語です。四人の男は大声で「こゝへ畑起こしていゝかあ」と森に呼びかけます。すると森は「いゝどお」と答えます。さらに家を建てること、火を使うこと、少し木を貰うことの許可をもらいます。
森を拓き、農業が軌道に乗り生活も安定していきますが、子供がいなくなったり、道具がなくなったり、粟がなくなったりの事件が起こります。これらはすべて、森に棲む狼や山男、あるいは真っ黒な手の長い大きな大きな男の仕業で、彼らは人間と遊びたくてそのようないたずらをしたことが分かります。
この話は、人が自然を敬い、自然との係わり合いの中で農業を営なんできたことを教えてくれます。そして、狼や山男、大きな男は自然や災害の象徴でもあります。もちろん、自然災害はそんな生易しいものではありませんが、賢治の手にかかるとすべてがやさしくなってしまいます。
ボルネオ島の東にあるスラウェシ島では焼畑の稲作があるそうです。人々は新しく拓く森のめぼしをつけると鳥の鳴き声で吉凶を判断し、吉と出たら小さな木を引き抜き、数メートル四方を伐開し斎囲を設け、様々な供物をささげた後に森を拓きます。森にはオポオポという守護神が棲んでいて、種を蒔くときから、収穫までの間畑を守ってくれると人々は考えています。稲はオポオポが守ってくれて初めて作ることが出来るのです、そのために、農作業にも自然を敬うさまざまな取り決めがあるそうです。このように、童話の世界だけでなく、人は自然の力添えがあって農業が成り立つものと考え実践していました。※1
江戸時代の農書の一つ「農業全書」を著した宮崎安貞は農業の基本を、「種を生ずるものは天なり。是を養うものは地なり。人は中にいて天の気により土地の宜しきに順ひ、時をもって耕作をつとむ。」と教えています。やはりここでも、農業において主たるものは自然で人は従でした。
これに対し、農学者としての柳田国男は、農業を「農トハ人ガ動植ヲ育成シテ其ノ結果ヲ取得スル行為ナリ、生物ヲ化育スル原動力ハ勿論天然ニ在ルモ之ヲ導クハ人間ナリ」と考え、農業は人間の主体性により成り立つことを強く打ち出しています。
このあたりから、いわゆる近代化の考えが生まれていたのでしょう。しかしこの考えが生産者一人一人に行き渡ったのはずっと後のことです。
農民作家の山下惣一さんは農政ジャーナリストの大野和興さんとの対談の中で、農業とは、自然の力に恵まれた結果、「よくできた」あるいは「よくとれた」わけで、主人公はあくまでも自然だと考えていたと話しています。
その山下さんが、昭和30年代に農業改良普及員から徹底的に言われたことは、「よくできた」、「よくとれた」とはいうな、「よくつくった」といえと指導されたと話しています。農業改良普及員の指導の下、生産者個々の農業の近代化が具体的になってきたのです。※2
賢治の童話だけでなく、昔から人々は自然の容量の範囲内で、自然との適切な係わり合いを保ちながら農業を営んできました。いわばこれが農業の原点です。それが、戦後になり近代化の掛け声の下、経済優先の農業が展開されてきたわけです。経済性も大切ですが、あらゆる産業が環境との係わり合いを問われている今、環境と調和した産業として、農業が他の産業のお手本となるためにも、年の初めに農業の原点にたちかえってみることが大切です。
※1「コメをどう捉えるのか」高谷好一、NHKブックス
※2「百姓が時代を創る」 山下惣一、大野和興 七つ森書館
今年もまた、農業に関連した情報発信を続けますので宜しくお願いいたします。
平成17年1月1日 ヤシャブシ
