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2008/08/26のBlog
[ 00:51 ]
ブラジルの人とは夕方の早い時間からいろんな話をした。その人には子供がいて、学校の話になった。最近のブラジルの学生は、興味のあることは勉強するが、それ以外の科目には興味がないという話だった。大学でも卒業だけが目的で、勉強そのものには興味が無い者が多くなったという。全く日本と同じことがブラジルでも起こっている。
地球の反対にある国で同時に起こることは偶然ではない。大学が学問の場所ではなく、資格を取る場所になってしまったことは、世界の多くの国で同時に進行していることだと思う。世界中で教育さえも金儲けの対象となり効率のみが求められ、教育では知的好奇心を刺激する科目よりもむしろ産業に資する技術の詰め込みに重点がおかれるようになったのであろう。これまた金儲けの競争を強制するグローバリズムの結果かもしれない。
子供が社会の鏡であるというが、教育の方針を見抜き、それならば卒業証書という結果のみが重要であると理解しているのだろう。
だが、興味のないことを頭に詰め込まされることは、そのときは意味がないと感じても、後で面白いと感じ方が変わることもある。小学生のころ社会で「石垣いちご」という言葉を覚える必要があった。今と違ってネットで写真がすぐに手が入るような状況ではなかったので、石垣いちごが何であるか見当がつかなかった。ぼくにとって石垣とは、福岡城の石垣だった。なぜいちごがそのような石垣になるのか、なぜそのような場所に育てるのか不思議でしようがなかった。その疑問はかなり後で解消するのだが、意味のわからない言葉が頭に残っていたから、答えを知ることは面白い経験となった。
そのブラジル人は、息子が試験の前しか勉強しないと嘆き、だが自分の子どものころを思い出すと自分もそうだったと笑った。確かに、子どものときは、勉強よりも遊ぶことの方が楽しかった。
一方でデンマークの大学では大人たちも学んでいる。子育ても終わり時間に余裕があり、自分の中で興味を持ったテーマがある人は、大学に勉強にいく。なにしろ、デンマークでは教育は無料である。ゼロ円であるから、スマイルと同額で、当然日本のカルチャースクールよりも安い。そのような学生たちが増えることにより、大学は国民の知的好奇心を満足させる場所となっているのだろう。
地球の反対にある国で同時に起こることは偶然ではない。大学が学問の場所ではなく、資格を取る場所になってしまったことは、世界の多くの国で同時に進行していることだと思う。世界中で教育さえも金儲けの対象となり効率のみが求められ、教育では知的好奇心を刺激する科目よりもむしろ産業に資する技術の詰め込みに重点がおかれるようになったのであろう。これまた金儲けの競争を強制するグローバリズムの結果かもしれない。
子供が社会の鏡であるというが、教育の方針を見抜き、それならば卒業証書という結果のみが重要であると理解しているのだろう。
だが、興味のないことを頭に詰め込まされることは、そのときは意味がないと感じても、後で面白いと感じ方が変わることもある。小学生のころ社会で「石垣いちご」という言葉を覚える必要があった。今と違ってネットで写真がすぐに手が入るような状況ではなかったので、石垣いちごが何であるか見当がつかなかった。ぼくにとって石垣とは、福岡城の石垣だった。なぜいちごがそのような石垣になるのか、なぜそのような場所に育てるのか不思議でしようがなかった。その疑問はかなり後で解消するのだが、意味のわからない言葉が頭に残っていたから、答えを知ることは面白い経験となった。
そのブラジル人は、息子が試験の前しか勉強しないと嘆き、だが自分の子どものころを思い出すと自分もそうだったと笑った。確かに、子どものときは、勉強よりも遊ぶことの方が楽しかった。
一方でデンマークの大学では大人たちも学んでいる。子育ても終わり時間に余裕があり、自分の中で興味を持ったテーマがある人は、大学に勉強にいく。なにしろ、デンマークでは教育は無料である。ゼロ円であるから、スマイルと同額で、当然日本のカルチャースクールよりも安い。そのような学生たちが増えることにより、大学は国民の知的好奇心を満足させる場所となっているのだろう。
2008/08/24のBlog
[ 23:59 ]
行為に対して対価を取らないものをアマ、取るものをプロと呼ぶのであれば、昨日はプロダンサーにデビューした日だった。昼過ぎから立ち位置の確認、ゲネプロ(リハーサルのことをこう呼ぶと一段とプロらしい)そして本番だった。本番は笑い声も聞こえた気もするが空耳であろう。終わったあとの激しい拍手は、幻聴ではなかった。公演の後の打ち上げで、昨日はかなり飲んだ。飲んだあとで家に帰ってきて、曖昧な言葉は良くないなどと、酔っ払った頭で書いてしまい、何を言いたいのかわからない文になってしまった。
今日は、ブラジル人と他の日本人と一緒に新宿のすき焼き屋さんに行った。そのブラジル人とは、ブラジル、アメリカで会ったことがあった。そして、三度目の再会が日本だった。次回はアフリカあたりで会うのかもしれないなどと思ってしまう。
寿司、焼き鳥、すき焼きのどれが良いか聞いたらすき焼きということであったので、すき焼き屋に行った。東京は雨のせいで温度も低く、すき焼きを食べるには最悪の温度でもなかったので良かった。
ぼくの知る限りの範囲だが、すき焼きというのは外国人に評判が良い。外国人が驚くのは牛肉の霜の部分の脂肪だ。どのような日本のハイテクを用いて脂肪を肉の中に入れ込んだのかに興味を持つ。何の手品も使っていない、ただスライスしただけだ。これが日本の牛の肉であると言ってもなかなか納得しない。
運動をさせず、たくさん食べさせビールも飲ませるとこうなると説明すると半ば納得するのだが、この説明は合っているのだろうか? 食品偽装の国の人間の説明だから、この程度の説明でも良いのかもしれないのだが、神戸牛以外でもビールは飲ませているのだろうか?
今日は、ブラジル人と他の日本人と一緒に新宿のすき焼き屋さんに行った。そのブラジル人とは、ブラジル、アメリカで会ったことがあった。そして、三度目の再会が日本だった。次回はアフリカあたりで会うのかもしれないなどと思ってしまう。
寿司、焼き鳥、すき焼きのどれが良いか聞いたらすき焼きということであったので、すき焼き屋に行った。東京は雨のせいで温度も低く、すき焼きを食べるには最悪の温度でもなかったので良かった。
ぼくの知る限りの範囲だが、すき焼きというのは外国人に評判が良い。外国人が驚くのは牛肉の霜の部分の脂肪だ。どのような日本のハイテクを用いて脂肪を肉の中に入れ込んだのかに興味を持つ。何の手品も使っていない、ただスライスしただけだ。これが日本の牛の肉であると言ってもなかなか納得しない。
運動をさせず、たくさん食べさせビールも飲ませるとこうなると説明すると半ば納得するのだが、この説明は合っているのだろうか? 食品偽装の国の人間の説明だから、この程度の説明でも良いのかもしれないのだが、神戸牛以外でもビールは飲ませているのだろうか?
[ 01:37 ]
詩の言葉は読み手の解釈に余裕を与える。たぶん、相手の言葉の解釈によりいくらでも解釈できるのを良いとするのだろう。それはそれで良いのだが、詩のような文章以外で曖昧な解釈を許すような文というのは良くないのではないのかと、常日頃思っている。相手に誤解されるような文というものは、書き手の怠慢だと思う。
曖昧な言葉とか表現を使い相手が自分が思った以上のことを、想像力を働かせて思い至ったとしても、それは書き手側の自慢にはならない。別の読み手には、書き手の想像したこと以下のことしか伝わらないことが普通であろう。書き手の態度としては、自分の思いを的確に伝えることは最低限のマナーだと思う。その内容が悪ければ、書き手の心が悪いということだろうと思う。そう思いたいと思う。
かと言って己の感情や考えというものが他人に100%伝わるなどとは思えない。たとえば、真っ赤な夕陽を見たときに感動したとする。そのときの感情を間違いなく伝えることはできるのか?
赤という色の波長は決まっている。だが自分の見た赤という色を他人に伝えることは可能なのか。測定器を使い波長は何々Å(オングストローム)だったとは正確に言える。だが、赤だったと言ったところで赤の認識は個人によって違う可能性がある。たとえばある人にとって、赤とは赤とされる波長の色で、他の人にとっては最初の人にとって青とされる波長の色の可能性を排除することは不可能である。
たとえば、悲しい夕陽だ」といった発言が、夕陽を見た万人共通の感情かどうかは不明だ。赤と見える色が他の人に緑に見えていた場合、夕陽の印象は心休まる色と映るのかもしれない。そのような万が一の可能性を否定はできない。
だからといって、自分の発言が曖昧さを許すようなものであってはいけないのだと思う。ぼく自身は長いことそう思い続けてきた。そのため、これは日本の常識、グローバルスタンダードだと誤解していたのかもしえれない。
CM会社の作った意味のない聞きなれない言葉があるとする。多くの人はそれがCMに使われたとき、その言葉を使うことが最新の流行だと感じる。薄っぺらい文章に、意味も分からずその言葉を記す。
だが、ぼくはそのような書き手の態度を怠慢だと思う。卑怯だとさえ思う。イメージという捉えどころのないものを、できるかぎり再現できるような言葉で表現すべきだと思うからだ。
ぼくは、そのような自分の考えは常識だと思う。だが、常識ではないのだろう。言いたいことは、全身全霊をかけて表現すべきだと考える人といのは、世界ではおそらく少数派だ。多くの人はそのようには考えない。文字から言葉の生み出すイメージを感じた人たちは、自分が受けたイメージが、共通に受け取るイメージのはずだと何の根拠もなく思い込むのだが、そのような考え方に何の根拠もない。人の受け取るメッセージが同じであるというは幻想に過ぎない。第一赤という色は、他人にとって緑なのかもしれないし、その感覚の基準を統一することはできない。
ここに書いたようなことは、今の時代において、異常な考えに属するのだろう。そして理解不能なことを信じる人たちは、電通などのCM会社の紡ぐイメージの言葉を100%信用する人たちに多い。
曖昧な言葉とか表現を使い相手が自分が思った以上のことを、想像力を働かせて思い至ったとしても、それは書き手側の自慢にはならない。別の読み手には、書き手の想像したこと以下のことしか伝わらないことが普通であろう。書き手の態度としては、自分の思いを的確に伝えることは最低限のマナーだと思う。その内容が悪ければ、書き手の心が悪いということだろうと思う。そう思いたいと思う。
かと言って己の感情や考えというものが他人に100%伝わるなどとは思えない。たとえば、真っ赤な夕陽を見たときに感動したとする。そのときの感情を間違いなく伝えることはできるのか?
赤という色の波長は決まっている。だが自分の見た赤という色を他人に伝えることは可能なのか。測定器を使い波長は何々Å(オングストローム)だったとは正確に言える。だが、赤だったと言ったところで赤の認識は個人によって違う可能性がある。たとえばある人にとって、赤とは赤とされる波長の色で、他の人にとっては最初の人にとって青とされる波長の色の可能性を排除することは不可能である。
たとえば、悲しい夕陽だ」といった発言が、夕陽を見た万人共通の感情かどうかは不明だ。赤と見える色が他の人に緑に見えていた場合、夕陽の印象は心休まる色と映るのかもしれない。そのような万が一の可能性を否定はできない。
だからといって、自分の発言が曖昧さを許すようなものであってはいけないのだと思う。ぼく自身は長いことそう思い続けてきた。そのため、これは日本の常識、グローバルスタンダードだと誤解していたのかもしえれない。
CM会社の作った意味のない聞きなれない言葉があるとする。多くの人はそれがCMに使われたとき、その言葉を使うことが最新の流行だと感じる。薄っぺらい文章に、意味も分からずその言葉を記す。
だが、ぼくはそのような書き手の態度を怠慢だと思う。卑怯だとさえ思う。イメージという捉えどころのないものを、できるかぎり再現できるような言葉で表現すべきだと思うからだ。
ぼくは、そのような自分の考えは常識だと思う。だが、常識ではないのだろう。言いたいことは、全身全霊をかけて表現すべきだと考える人といのは、世界ではおそらく少数派だ。多くの人はそのようには考えない。文字から言葉の生み出すイメージを感じた人たちは、自分が受けたイメージが、共通に受け取るイメージのはずだと何の根拠もなく思い込むのだが、そのような考え方に何の根拠もない。人の受け取るメッセージが同じであるというは幻想に過ぎない。第一赤という色は、他人にとって緑なのかもしれないし、その感覚の基準を統一することはできない。
ここに書いたようなことは、今の時代において、異常な考えに属するのだろう。そして理解不能なことを信じる人たちは、電通などのCM会社の紡ぐイメージの言葉を100%信用する人たちに多い。
2008/08/22のBlog
[ 01:22 ]
テレビの実況は見ていなかったのだが、帰ってきてニュースでソフトボールが金を取ったことを知った。昨日上野選手が2試合投げていたことを知っていたので、今日はいくらなんでも無理ではないかと内心思っていたので、快挙だと思った。ネットの報道で上野選手の紹介があった。上野投手は九州女子高等学校の出身だという。その高校名を見て、昔の記憶が突然蘇ってきた。ひょっとしてと思いHPで場所を確認した。HPにはすでに、【 ソフトボール 「金メダル」 獲得!! 】上野選手おめでとう!!と書いてあった。母校のヒロインだから注目して見て、さっそくHPを更新したのだろう。
HPにあった地図を見たら、やっぱり思っていた高校だった。高校生のころクラブの交流とかの口実で、その九州女子高等学校を訪問したことがあった。残念ながら実力不足で成果は出なかったのだが、訪問したことを突然思い出した。遠い昔の思い出だ。
ぼくの通っていた高校は共学であったにも関わらず、半分のクラスには女子はいなかった。運が良ければ共学クラスだが、運が悪いと男子校みたいなものだった。ぼくは、運は悪い方に属した。ぼくにとって共学の最後は高校一年生のときで、7歳からではないが、それ以降は女子と席を同じくしたことがない。そのような恵まれない環境、不自然な自然界の摂理に反した環境であったため、自らの調整の努力の結果、九州女子高等学校を訪問したのだったと思う。
そのとき出会った女子高生たちのひとりひとりは覚えていないが、受けた印象はまだ覚えている。キリリとした上野選手のイメージでなくて、皆柔らかで穏やかな感じだった。ぼくらの高校の雰囲気とはぜんぜん違ったので印象深かった。そのころのぼくは、同年代の女子とは殆ど口をきいたことがなかった。なおかつ生まれつきの人見知りだ。だからガチガチに緊張していたことだろうと思う。
それでも、そのときの印象を今でも思い出すということは、普段見かけない同世代だった女子を、それなりにしっかりと観察していたのだろう。
上野選手と九州女子高等学校関係者の皆様おめでとう!!
HPにあった地図を見たら、やっぱり思っていた高校だった。高校生のころクラブの交流とかの口実で、その九州女子高等学校を訪問したことがあった。残念ながら実力不足で成果は出なかったのだが、訪問したことを突然思い出した。遠い昔の思い出だ。
ぼくの通っていた高校は共学であったにも関わらず、半分のクラスには女子はいなかった。運が良ければ共学クラスだが、運が悪いと男子校みたいなものだった。ぼくは、運は悪い方に属した。ぼくにとって共学の最後は高校一年生のときで、7歳からではないが、それ以降は女子と席を同じくしたことがない。そのような恵まれない環境、不自然な自然界の摂理に反した環境であったため、自らの調整の努力の結果、九州女子高等学校を訪問したのだったと思う。
そのとき出会った女子高生たちのひとりひとりは覚えていないが、受けた印象はまだ覚えている。キリリとした上野選手のイメージでなくて、皆柔らかで穏やかな感じだった。ぼくらの高校の雰囲気とはぜんぜん違ったので印象深かった。そのころのぼくは、同年代の女子とは殆ど口をきいたことがなかった。なおかつ生まれつきの人見知りだ。だからガチガチに緊張していたことだろうと思う。
それでも、そのときの印象を今でも思い出すということは、普段見かけない同世代だった女子を、それなりにしっかりと観察していたのだろう。
上野選手と九州女子高等学校関係者の皆様おめでとう!!
2008/08/21のBlog
[ 00:11 ]
福岡の球場というと今は福岡ドームであるが、昔は平和台球場だった。平和台球場は、福岡城址の中にあったのだが、福岡城を更に千年ほど遡る時代(7C頃)には、平和台の場所には鴻臚館があったらしく、平和台は壊されて発掘調査が進んでいる。
福岡城の周りの堀には蓮が生えている。ぼくはいつも盆の季節にそこを訪れると、いつも蓮の花が咲いている。福岡の盆の行事では、仏様にさしあげる食べ物は蓮の葉で包む。勿論、蓮の葉は花屋から買ってきて使うのであって、堀から盗んでくるのではない。盆の季節に咲く蓮の花は清らかな色をしていて、泥に咲く花とは思えない。いかにも極楽の花に相応しい美しさだ。
福岡城の周りの堀には蓮が生えている。ぼくはいつも盆の季節にそこを訪れると、いつも蓮の花が咲いている。福岡の盆の行事では、仏様にさしあげる食べ物は蓮の葉で包む。勿論、蓮の葉は花屋から買ってきて使うのであって、堀から盗んでくるのではない。盆の季節に咲く蓮の花は清らかな色をしていて、泥に咲く花とは思えない。いかにも極楽の花に相応しい美しさだ。
ぼくの思い出す限り、昔から蓮の花が咲いていた。だが、昔居なかったものが堀に住むようになっていた。鴨だ。夏に居るのだから留鳥のようだ。マガモか? 人に慣れているのか、鈍感なのか鴨に近づいても逃げる様子がなかった。まったく警戒心というものがないようだ。近くの大濠公園に居た鳩も鳩同士で喧嘩していたのをオバサンに「喧嘩しちゃだめ」と怒られて叩かれていたのに、喧嘩に夢中で、叩こうとするオバサンには感心がないようだった。福岡の人が鳥に優しいということを鳥たちも学んだに違いない。
堀の中に立て札が立っていた。「あぶないので堀の中で泳がないでください」とあった。岸で休んでいる鴨もいたが、堀の中で泳いでいる不届きな鴨もいた。文字を学んでいない鴨もいるのだろう。
堀の中に立て札が立っていた。「あぶないので堀の中で泳がないでください」とあった。岸で休んでいる鴨もいたが、堀の中で泳いでいる不届きな鴨もいた。文字を学んでいない鴨もいるのだろう。