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千里ニュータウンが博物館にやってきた
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2005/12/22のBlog
私は小学生の頃、藤白台のセンターで絵を習っていましたが、団地のスケッチをしていると、先生が「団地の窓はぜんぶ違うで!あいてる窓もあればしまってる窓もあるで!カーテンの色もいろいろあるで!一個一個よく見て描きや!」と教えてくれたものでした。

 たしかに多くの家で「ほくさんバスオール」が大人気になったり、一戸建てだって友達の家に行ったら中の間取りがまったく同じだった(プレハブメーカーはせいぜい10社で、デザインもワングレードしかなかったですから…)なんてこともありましたし、そういう均質性ゆえに1973年11月1日のトイレットペーパー騒ぎもあっという間に広まったのかもしれませんけれど。

 絵の先生、お元気かなあ。千里センターにお勤めだったのですが。

 ちなみにB(府営)の団地では、単調さをすくうために最初は一棟一棟微妙に違う色に塗り分けられていたのですよ。「カラーコントロール」という手法だとどこかで読みました。(目印にするには微妙すぎるほどのパステルな色分けでしたが…)たぶん建て増しした時に、どの棟も同じ色になってしまいました。青山台のC(公団)の団地でも、何棟かに一棟、チョコレート色の棟があって、アクセントになっていましたね。(by okkun)
私は20年ほど前の記憶も怪しいので、昨晩、千里NTで生まれ育ち、ずっと住み続けている純正培養のT君(24)に会って、昔話をしました。

 いくつかヒントをもらったり、記憶が甦ることもありましたので、いくつか書かせていただきます。


 千里NTに限らないことでしょうが、ファミコンの出現は、遊びに変化を与えたと思います。

 私も彼も、ファミコンを買ってもらえなかったので、友人の家に行って、遊んでいたという話をしました。

 彼の小学校時代(15年ほど前)の遊びと言えば・・・
 ・少年野球チーム
 ・ファミコン
 ・筋肉マン消しゴム
 ・めんこ
 ・ミニ四駆
 ・駄菓子屋
 ・高野台の市民プール
 ・小学校の裏山でクワガタ採り
などだったそうです。

彼は佐竹台在住ですが、
高野台の市民プールに行った帰りに高野台近隣センターの駄菓子屋に寄ったり、理由はわからないが、竹見台の近隣センターによく行っていたそうです。
私は千里で生まれ、3歳から11歳ぐらいまで千里を離れるものの、小学5年から30歳になる今まで、ずっと千里に住んでいます。

 展示班から、千里で生まれ育ったという視点で展示を考えてほしいという話がありましたので、まずは、自分の子ども時代を思い返してみました。正直、3歳までの記憶は皆無です。すみません。

 約20年前。小学校は、藤白台小学校。小学校5年時、1学年4クラスありました。

 放課後は・・・
 ・塾に行くか、
 ・同級生と府公社住宅の間の遊園で遊ぶか、
 ・人数が集まれば、保育園横の空き地で野球をするか、(ただ、試合ができるほど
 の人数は集まりません。せいぜい5人ぐらいでした。)
 ・時々、友人の家で「ファミコン」をするか、それぐらいの記憶しかありません。

 塾に行く以外は、日常的に藤白台から出ることはなかったと思います。子どものうちは、近隣住区理論にはまっていたということでしょうか。

 買物は、家の位置からも近隣センターに行くことはほとんどなく、北千里に出かけていました。近隣センターに行くときは、学校指定の体操服や名札を買いに行くときだけでした。

 小学校では、竹クラブの部長でした。たいしたことはしていませんが。今思うと、「千里の竹」を意識して作られたクラブだったのでしょうか。


 中学、高校時代。

 藤白台小学校は1年半でしたし、私立の金蘭千里に進んだので、地元の友人とは疎遠になってしまいました。しかも、近所に住む友人がおらず、基本的に1人で遊んでいたように思います。比較的近い、箕面の粟生間谷の友人とはよく遊んでいました。

 中学時代は、自転車にも乗り、行動範囲も広がりました。千里NT内で遊んだと言えば・・・
 ・千里中央のセルシー。
 ゲームセンターやボーリングで遊んでいました。
 ・北千里の専門店街にあった、ゲームセンター。

 ゲームセンターは「不良の遊び」という感覚があって、みんなで、こっそり遊びに行くという感覚でした。(いまもそうでしょうか?)

 その他は、
 ・千里北公園で自転車を乗り回したり・・・
 千里NTの中で遊ぶと言えば、それぐらいです。

 地元との関わりはまったくありませんでした。時々、生協の共同購入で、親の代わりに荷物を取りに行き、ほんの少し近所のおばさんたちと会話をするという程度でした。

 ただ、公園を自転車で走り回っていることや、よく家の前でラジコンを走らせていたことは、近所では有名だったようです。人通りは少なくても、意外と見られているんだなと思った記憶があります。


 子ども時代を思い返してみても(特に遊びについて)、あまり記憶がはっきりせず、これは特殊な例なのかなという思いを持っています。


 既に書きましたとおり、他の住区に足を運ぶことはまずなく、大学生になってから初めて、同じような「住区」が12箇所もあることを知りました。

 また、ずっと住んでいると、この町が「普通」に思うわけで、
「どの道も、どの家も同じように見えるから、今どこにいるかわからなくなる。」
「均質、画一的な町で、気持ちが悪い。」
「何もない。」
「緑が多い。」
そういった千里NTに対する意見はすべて新鮮かつ意外でした。

 「普通だ」と思っているからこそ、この千里NTに対して関心を持たず、友人を求めて外に出て行ったのかなとも思います。
2005/12/19のBlog
[ 09:07 ] [ 暮らし ]
1967年3月、北千里延伸と同時に、日本初の自動改札機が北千里駅に導入されました。メーカーはオムロン(当時は立石電機)です。 初代の改札機は、「切符用」と「定期券用」が別の機械でした。券幅が違う両者を揃えてまっすぐに送り出す技術がなかったためです。 切符は当初から現在と同じく磁気を塗った券でしたが、定期券はパンチ穴の開き方で区間や有効期限を読み取る方式でした。すごく分厚い、固い定期券でした。

 この初代の改札機は、「切符用」と「定期券用」が別々だったため、入口は「切符入場」と「定期入場」と(回数券や他社連絡切符などの)「非自動化券入場」(つまり係員がいる)の3つに分かれていました。出口も、「定期出場」(これは機械)と「切符出場」(…これは係員がいた)に分かれていました。切符出場が自動化されていなかったのは、つまり他の駅で売られた切符は全部昔ながらの機械非対応の切符だったため、人が集めるしかなかったからです。「日本初の全自動化駅」と言っても、実際には人手で補っている部分がかなりありました。それでも定期の客を改札機でさばけるだけでも、鉄道会社としては大いに省力化になると考えたようです。

あまり覚えている方は少ないかもしれませんが、このうち「切符入場」用の改札機は、最初1週間ほどは(遊園地にあるような)ターンバーを自分の手で押して前に進む方式でした。切符を入れて→ターンバーを押して前進して→切符を取る、という方式。手がふさがるし不評だったのか、わずかな期間でバーが自動的に開く方式に改造されました。(定期券用は最初から入出場とも自動でした。…複数の方式を比較実験していたのかもしれません。)

 そういう試行錯誤があっても「日本で初めての」自動改札機のある駅は、住民の大きな誇りでした。電車の線路が来ただけでもうれしいのに、日本のどこにもない「未来の」駅だったんですから!

 当時私は小学校一年生でしたが、北千里駅ができた最初の日、担任の先生がうれしそうにパンチ穴の開いた定期券を皆に見せて「みなさん!きょうは何の日だか知ってますか?そうですね、電車の駅がこの近くにもできました!」と言ったのを覚えてます。そのあと皆で駅まで見学に行きました。

 自動改札機は二代目から切符と定期券を同じ機械で扱えるようになりました。この二代目までが、バーが上に開く方式でした。1973年に導入した三代目から、バーが水平に向こうに開く方式になり、阪急の他の駅にも普及していきました。

 記憶がアイマイですが…四代目は三代目とあまり変わらず、五代目からラガールカード対応になり、今普及中のピタパ対応機は六代目でしょうか…?(もっと変わってるような気もする)いずれにせよ初期は試行錯誤もあったため、短い年数の間に機械がいろいろ変わったようです。メーカーも初期は立石だけでしたが、その後、高見澤や東芝など、複数のメーカーが参入しました。

(by okkun)

**************************
【カンチョのコメント】オムロンの自動改札機のことが、PHP研究所発行の雑誌『THE21』2005年5月号pp.56~57(マンガ:添付ファイル参照)に出ています。北千里駅に最初に導入されたというコメントとともに描かれている機械は、初代のものと考えていいでしょうか?
2005/12/17のBlog
[ 21:59 ] [ わが町 ]
ちかくにできたニュータウン

 千里ニュータウンができたのは、わたしが小学校に入る頃でした。岸部に住んでいて、まだ小さかったので、行動範囲は、今の博物館のあたりまでで、ニュータウンの領域には入りませんでした。
 そうそう、オジが津雲台で分譲の家を買ったので、親戚があつまってトラックの荷台に乗って訪ねたことがありました。ガタガタの泥道で、西部劇の荒野に行ったような気がしました。小学校5年の頃だったか、一大決心をして南千里まで自転車で行ったときは、すごく高いビルが建ち並び都会に来たとびっくりしました。
 千里ニュータウンは日本一や、泉北ニュータウンより早いんだ、と学校で教えられました。吹田市にはもともと東洋一の大操車場、そして日本一のニュータウン、そして世界とむすぶ万博、と三つも自慢できるものがあるので、大きな誇りをもっていました。(こ)
2005/12/16のBlog
[ 21:40 ] [ 館長ノート ]
内なる目と外の目
 NT展のモノ集めや展示をするにあたって「市民委員会」はどんな視点にたてばいいのでしょうか、ただ漫然と集まったものだけ並べるというわけにはいかないでしょう。
 文化人類学者は(特定の)社会へフィールド調査にでかけるとき、二つの異なる視点をもつよう教えられます。他者としてみる外からの目(eticエティック)、と内部からの目(emicエミック)です。外からみる目の、もっとも極端な例は、サル社会を望遠鏡で見るというケースでしょう。遠くから彼らの行動を観察して、ボスはどれか、順位はどうなっているか、餌さがしや子育ての役割などを読み取る方法です(サルに聞くわけにはいきませんから)。
 これに対して、内なる目とは、自分で自分のムラを記述する場合でしょうか。たとえば、私の故郷では、神社から火伏せのお守りをもらってきて、台所の柱にさかさに貼りつけるのですが、どうしてさかさに貼るのか、それがなぜ火災予防になるのか、説明しろと言われると(当然だとしてやっていることなのに)、どうもうまく説明できない。なんだかんだと理由は述べ立てるのですがね。しかし、そんなディテールが地域や家族によって異なるところが、文化の多様さをしめすことになるのです。
 簡単にいえば、前者は客観的データをあつめて、文化を比較し、通文化的法則をみつけだす、これに対し後者は、主観的データの集積によって文化の多様さ、深さを知るのに適しているといえるでしょう。
市民委員会が千里NTにかぎってモノを集めるるならば、ひじょうにemicなものになる、見にくる人も、ほとんどがそうでしょう。しかし、一方で、60年代中頃から後半という時代区分をもうけ、食事、服装、教育などのテーマをたてれば、他の地方との文化比較が可能になるので、日本のなかでの位置づけが明確になるでしょう。emic的であればあるほど普遍性を持つ(館長ノート8参照)ということはそういうことなのです。




館長ノートがNo.11になりました。No.10までのタイトルをご紹介します。

【館長ノートもくじ】
 1 ニュータウン思想の背景
 2 千里ニュータウンの構想
 3 設計の基準寸法
 4 奈良の町で考えたこと
 5 ホクサンバスオールがおこした革命
 6 自然環境へのインパクト
 7 癒しの場
 (ピンチヒッター編) ふるさと意識と神社仏閣
 8 おしゃべりなモノたちー「歴史」になっていく「現在」
 9 阪急と千里ニュータウン
10 時代区分について
[ 02:04 ] [ 私達の活動とプロフィール ]
館長からの依頼で、ここまでの市民委員会の会議の開催記録をアップします。

 よくもまあこんなにたくさんの会議を開いたこと!
 それで、千里ニュータウン展の企画は出来上がったの?と地獄の声が聞こえてきます。
2005/12/14のBlog
[ 22:33 ] [ バスオール ]
お風呂展示について、私なりにまとめてみました。
but
お風呂以外も繋がってしまいました。。。

叩き台になればと思いとりあえず添付します。(ま)
└─クリックしてください。
2005/12/13のBlog
[ 23:26 ] [ 館長ノート ]
時代区分について 
 「ニュータウンが博物館にやってくる」という今回の展示では、この巨大なるものを狭い場所に、どの時点で、どう切りとってみせればよいのか、頭が痛いところです。
 年代を羅列した客観的な表、クロニクルをつくることは比較的容易な作業ですが、それをいくつかの塊に切り分ける「時代区分」は、往々にして時間の境界線が曖昧で、見方によって線引きがかわります。
 たとえば、日本史の時代区分は、現在は鎌倉時代から室町時代へと直接続いていますが、戦前は、南北朝時代が大きな場所を与えられていたことをみればそれがわかります。結局主観的なものなのですが、それが歴史家の腕のふるい所だともいえるのです。

 千里ニュータウン史には、大きく明確な筋目が見えます。まずは、1961年、その以前・以後に大きな変化のおこる線です。しかし、これは住民としての見方で、行政や建築史家からみれば1954年(鳩山内閣の住建10ヶ年計画)とか55年(日本住宅公団の設立)あるいは61年(千里ニュータウン建設の決定)にもなるのです。ムラとそれをかこむ里山という日本の伝統的な景観が壊され、巨大な装置系である人の集住するニュータウンの開発がはじまり、その後、時計の針の逆回りの方向に、すごいスピードで建設が進みました。

 次は1970年の大阪万博です。万博の開催は、交通、公共施設や建物をはじめとしてさまざまな面でニュータウンに大きな影響を与えたことは衆知の事実です。だから、万博以前・以後という区分線をおくことは妥当だと思います。

その後はちょっとややこしい。一案として、人口の変化に着目するのはどうかと考えています。人口は1965年には4.2万となり、日本一のニュータウンと呼ばれました。その後も増え続け、69年には10万をこえ、75年にピークを迎え12.9万まで右肩上がりに増加しています。(私が民博に就職したのは76年でしたが、青山台あたりのマンションに住めれば、職場に近いし、環境もいいんだけど。しかし、駆け出し助教授くらいでは不動産屋が相手にしてくれんと、同僚と嘆きあったおぼえがあります。また、82年におこなわれた20周年式典も勢いの感じられる盛大なものでした)。

 ところが、1980年代に入ると人口は減少しがじめ、最近の統計は10万をきってしまいました。高齢化、少子化という日本全体の人口動態にそった流れではあるのですが、NT内に限ると、間取りが少なく、狭すぎたこと、建物の老朽化、バブルとその崩壊などの理由が考えられます。しかし、立地がいいNTでは人口が周辺に滲み出してグレーター・ニュータウンというべき現在の構造が出来上がったのです。

 今回の展示(とくに陳列するモノ類)は、60年代の中頃から後半、つまりニュータウンの発足から万博までを中心にすればいいと思います。来年度は「大阪万博と吹田市」を予定していますし、常設展示の組換えも検討中ですので、NT以前のことも環境を含め手考えていけばもっと充実してくると思います。今は準備作業にに大わらわですが、この展覧会が低迷を続けていた博物館を活性化させ、それが地域の文化力をたかめるだろう、そんな手ごたえを感じるようになりました。


【PS】カンチョーノートにふさわしいとは思えないのですが、発掘品の写真を添付します。わたしが小学生時代に使っていた文房具の残骸。30円の三角定規は、実はまだ時々使っております。鉛筆ケースは、中身の鉛筆はありません。(ふ)
2005/12/12のBlog
[ 09:11 ] [ わが町 ]
わたしたちが鍵っ子になったわけ-行動する母親たち-

 ニュータウンの小学校にあがってまもなくの昭和41年の頃でした。急に「ママが忙しくなり、家に帰っても留守だ」という子が増えました。
 小学校低学年だから、まだカギを持たせてもらえなくて、家の中に入れません。それで、放課後おそくまで学校に残ったり、庭で犬と遊びながら待っていました。友だちと話していると、木製の窓枠のすきまから定規を突っ込んで、ネジ式のカギをゴチョゴチョ動かしていたら、ついにゆるんで、家の中に入れたことがあったとか、あまりにママの帰りが遅いのでお腹がすいて、近くのお店で出前を頼んで犬と一杯のうどんを分けあって食べていたとか、いろいろなエピソードが出て盛りあがります。

 そんな状態になったのは、焼却場問題が持ち上がったからです。住宅分譲時のパンフレットに「緑地」と表記されていた場所に焼却場が建設されることがわかり、母親たちは反対運動をはじめたのです。予定地は、竹藪がひろがる場所で、田んぼに咲くレンゲを摘んだり、悪ガキたちはタケノコを失敬したり、かっこうの遊び場でした。犬の散歩コースにしていた人も多かったと思います。

 この問題はすぐには解決せず、学年が上がると次々とカギっ子になりました。運動が成功した後も母親たちの活動は終わらず、緑地の保存運動へと続いていきました。その結果、ヒメボタルの生息地として知られている高町池周辺の緑地が残されました。子どもの頃は夜遅く出かけたことがないので、残念ながらホタルの記憶はありません。ぜひ一度ホタルの時期に里帰りして、若かったママたちの情熱の日々に思いをはせながら眺めてみたいものです。(き)
[ 02:11 ] [ 私達の活動とプロフィール ]
千里ニュータウン展市民委員会では『千里ニュータウン展』での展示物を募集しています。

 ほんの40数年前なのに、放課後の公園で友達と夢中になった「べったん」や「メンコ」。お母さんにおねだりして買ってもらったグリコのおまけ。
 何百年、何千年も昔のものならば、私達が今生きている時代とはっきり区別し文化財として大事に保存されるのでしょうが、今でも使っているけれど、チョットだけデザインや色や素材が違うだけのものは簡単に捨てられてしまいます。

 でも、そのチョットした違いにその頃のことを思い出してしますのです。
 家の片隅や納屋の奥に何気なく置かれているであろうものを探しています。お持ちの方、是非

 吹田市立博物館 『千里ニュータウン展市民委員会』
 Email:hakubutsukan@suita.ed.jp


までご連絡ください。
ものリスト
 銭湯に持っていった洗面器や石鹸ケース、シャンプーハット、シャンプー
 銭湯の「のれん」
 ほくさんバスオールの見えるバルコニーの写真
 大阪府に対する保育園などの公共施設の設置に関する要望書や陳情書
 近隣センターの入居当時の写真や買い物かご
 米屋の「はかり」
 入居当時の「おもちゃ」
 仮面ライダータオル
 当時の子ども達の作文
 小学校の授業で作った地域の絵地図
 昔の教科書

 展示部会(代理片岡)
2005/12/11のBlog
[ 09:40 ] [ 館長ノート ]
阪急と千里ニュータウン 
 千里NTは日本最初の本格的なNTであり、世界からも注目を集めていることは大学の地理の教科書にかかれています(小林 1972)。ほかにも、最初とか「一番」があるでしょうか。
 北千里線の「自動改札機」、これは、日本一早かったようです。自動改札機は南千里駅にあったのですが、いまのところ本体がみつかっていません。しかし、それ用の切符や、おしらせポスター、チラシなどの関連品は残っているかもしれない。写真はあるらしいので、いろいろ組合わせればおもしろい展示になるでしょう(機械の部分を復元するという手もありますね)。資料はどこにある?池田市の「財団法人阪急学園 池田文庫」におさまっている可能性が強いとおもっています。

 千里ニュータウンと阪急という会社は切っても切り離せない関係にあります。まず、阪急による北摂の地域開発が千里ニュータウンのさきがけとなったようですし、千里山線が南千里駅(当時は新千里線)までのびたことでニュータウンが機能しはじめたことは明らかです。これによって人々は職場や学校に通うだけでなく、梅田や神戸にでかけ、沿線にあるデパート、宝塚歌劇、阪急ブレ-ブス、遊園地などの娯楽、レジャー、そして文化的施設があったので、それを楽しみ、懐かしく想いだすNTの住民もおおいはずです。

 すると、阪急はこの展覧会の要素として、欠かせないものになるとおもうのですが。いちど有志があつまって池田文庫に出かけ、館長さんと談判しましょうか?

 ***** ***** ****** ******* ***** **** ****
「新千里山」という表記のある定期券を見つけました。
 新千里山駅が南千里駅に改称されたのはS42.3.1。
 購入日が2.25なのでぎりぎり「新千里山駅」名で発行されたもののようです。(ふ)
2005/12/09のBlog
[ 13:00 ] [ わが町 ]
千里オヤジの日々(Oさんに聞きました)

 千里ニュータウンに引っ越したのは1966年だった、うちは南千里のすぐ近く。梅田にある会社には、毎朝8時半の電車にのれば開始の9時には着く、始発だしラクだった。会社は駅の上あったので、雨の日は傘をささなくてもぬれずに行けた。帰りは地下街のヤキトリ屋とかおでん屋、手軽に一杯ひっかけたもんだ。でも、9時過ぎにはもう家にいた。日曜日は川西にゴルフ、近いし、安いし。まあ、真面目な、ふつうのサラリーマンだったといえるでしょうなー。そんな人がここには、けっこう多かった。 

 定年になる数年前から、会社で、定年後の生き方という、講習会や勉強会があった。そこで、ボランティアの意義とか、方法論などを習って、やってみようとおもった。いま、7つ、8つやっているので結構忙しい。おもしろいですよ、人間、孤立したらあかん、館長もがんばりなはれ。
2005/12/08のBlog
[ 23:24 ] [ 暮らし ]
館長より住宅の建て増しに関する質問が投稿されていましたので、私の修士論文での調査より分かったことをご紹介します。

1999年に行ったアンケート調査によると、戸建住宅の増築は入居時や築後1~4年で行われた方もいますが、ピークは築後5~9年のようです。また、まちびらきから約10年経過した1974年から1997年までの間に提出された確認申請の数を調べたところ、千里NTの戸建住宅の36.9%の建て替わっていることが分かりました。戸建住宅にお住まいの方のご苦労が感じられます。(に)

地区別取り壊し状況 (まちびらきから約10年経過した1974年から1997年までの間に提出された確認申請の数)
年度ごとの建て替え


 三つの図をまとめて見る→→→
現役で使われている浴槽と洗い場があるタイプ
車検も受けていて動きます。







以上、H女史の提供をここにまとめました。
2005/12/07のBlog
[ 01:11 ] [ バスオール ]
中本@広報部会です。みなさま今日はお疲れさまでした。
せっかくIDをいただいているので、初投稿です。

ずっと話題のホクサンバスオール、気になっていたんですが、なんとなく言えずにいました。
実は、今日の実行委員会で昔のチラシを見て確信したのですが、私、小さい頃バスオール風呂に入ってました。生まれが万博の2年前1968年、すんでいたのは吹田市のお隣の大阪市東淀川区。当時は長屋住まいで、今思えば3畳くらいの台所にバスオールがおいてあり、ふたの上で洗って、下の湯船につかっていた記憶があります。
ふたが赤かったような?
2~3さい頃の記憶だと思うので、ほんとにおぼろげに覚えている程度です。

当時、夏は2槽式の洗濯機(洗うほう)に入れられて行水した記憶もありますよ。これは、いつか電気が間違って入って、洗濯機がぐるぐるまわって、怪我をするんじゃないかと、ヒヤヒヤもので入っていました。早く出たくて仕方なかった。
今でも、そんなことする母親がいるのかな?

お風呂の話の続きですが、バスオールはその後格上げして、湯船と洗い場が別になったものを裏庭(といっても、隣とツーツーの通路)において使っていました。
うちの裏には大きなお屋敷があって、そこから見えないようにって、手作りの踊り場を作って、カーテンを引いて着替えていました。でも、はっきり言って裏のお屋敷からは丸見えだったんじゃないかな?

そういえば、お風呂ネタで、昔2歳か3歳くらいの頃、母が銭湯に連れて行ったらしいのですが、私を湯船につけておいて、自分が体を洗っていて振り向いたら、私がおらず、あわてて湯船に近づいたら底に沈んでたという話も聞いたことがあります。おいおい。
ほんと、信じられない母です。
2005/12/06のBlog
[ 23:29 ] [ バスオール ]
12月6日の委員会で

「ほくさん」って北海酸素・・・知ってましたかぁ?。

画面をクリックしてごらんください。(お)
2005/12/05のBlog
[ 23:37 ] [ 館長ノート ]
おしゃべりなモノたちー「歴史」になっていく「現在」
 今回の展示の主役はモノになるのではないでしょうか。
 過ぎし日のモノたち-ベビー用品、おもちゃ、学習具、本、服やアクセサリー、台所道具などなど-私たちを取り巻いていたモノたちは、なつかしく、さまざまな連想をさそいます。このあいだ、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」をみてきました。1950年代のモノ集めに大変苦労したという話を聞いて、千里NT展の参考になるかと思ったからです。オロナミンの看板やミゼット、氷屋さんの冷蔵庫などなつかしく、効果的に使われていました。
 60年代グッズはいま一種のブーム状態にあり、各地のコレクションや展示が報じられています。しかし、この展覧会では、この地で集めるのが望ましい。うまくいけば、あつまったモノがかもしだす雰囲気が、鈴木さんが言う「千里スタイル」を示すことになるし、なによりも、コレクション自体が吹田市立博物館の貴重な宝となるでしょう(今の小学生にとって40年前はもう昔のはずです)。しかし、これはなかなか難しい作業になるでしょう。それは私たちが、「現在」とはあたりまえのもので、別に博物館に飾るような特別なものではないと思って捨ててしまうからです。(家も狭いし)。

 ここで歴史とはなにかを考えてみましょう。それは決して崇高なガクモンなどではなく、私たちみんながが日々紡ぎだしているもの、別の言葉でいえば、毎日は「歴史」へとどんどん変わっていっているのです。もちろん、一人一人の記録やモノをすべて保存する