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千里ニュータウンが博物館にやってきた
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2006/02/09のBlog
[ 12:34 ] [ イベント予告 ]
椎名誠氏 トークショー 5月13日(土)予定
『わしも環境を考えるのだ -あのとき海・山・川は美しかった』



■市民委員会には有名人脈をもつ人がいた。なんと、あの全国区有名人@椎名誠氏が5月13日(土)千里ニュータウン展トークショーに来る! 呼べればという話が持ちあがった席で、館長いわく「椎名誠氏は、ギャランティー100万クラスの人。そういう人を呼ぶには2つしか方法がおません。きっちり100万出すか、タダで来てとお願いするか。他はないです。」で、椎名氏は後者で来ることに…。ウソみたい。

椎名氏は、インテリイメージと大衆性、そのギリギリのエッジみたいなところに立っている。作家で冒険家で映画作家でとにかくクリエーティブ。有名だけどキンキラしてなくてスローライフの匂いがする。地方都市だけど、日本初のニュータウン構想で作られた街を、小さな博物館で展示するにはピッタリの人じゃないかしらん。

椎名氏が来ることで展示会はどう変わるんだろ? 辛口の友だちに一言話して反応を見る。一瞬目が点になる、すぐにキラキラッと輝いて「わ~行きたい!、おもしろいコトやってるねんね~ええな(いいな)」とにかく誘導の素になると実感。

■このチャンスを使わない手はない。これをどう自分の側に引き寄せて、行って良かったといってもらえる展示会にするか。有名人を呼べるのならそのパワーを利用しないと、有名人を呼んだだけになっちゃう。リスクは呼ぶ側にあるんじゃないだろか。

「その人」を通して多くの人に自分たちのメッセージを伝えるチャンスを、意識する。千里や吹田への関わりよりも「その人」が持つイメージは、自分たちの発信したいメッセージのどこと接点があるのか、そんな視点で見たい。なぜ「その人」を呼ぶ必要があるのか? 何を伝えたくて「その人」を呼ぶのか? ここを明快にできれば、展示も催事も広報もピリッと立ってくるはず。

(広報@おかきた’まり)
2006/02/08のBlog
吹田市の市報に原稿を書けることになった。なんと自治会を通して、150,000世帯へ完全配布とのこと! こんなことって、ビジネスベースではできない。お風呂コンテンツを執筆させていただいているお客様の情報誌などは、制作は問題なくても配布に悩むのが常だから。

商品は、作る人と使う人の情報の塊のはず。なのに、ビジネスが邪魔をしてそこに流れる人の想いは伝わらない。まして、市報に商品名や企業名を掲載できるなんてめったにない。バスオール! なんて君はラッキー!!


1960年代 思い出のお風呂 バスオールがやってくる!
懐かしいバスオールを探しだしました。メーカーのエア・ウォーター・エモト社の協力により、工場に残されていたバスオール第一号がやってきます。展示のほかに市民劇団の演劇「バスオールがきた日」バスオールの体験市民と開発者を招いて館長が民族学的につっこむ「おしゃべりトークショー」聞いてびっくり日本式お風呂の入り方「足湯お風呂ゼミ」など。思い出のお風呂を、まるごとお届けします。

■バスオール
1963年、当時の北海酸素(現在:エア・ウォーター・エモト社)から発売された簡易型ユニットバス。繊維強化プラスティック製でたたみ半畳のスペースで置ける。ガス湯沸し器、排水ホース、シャワー、浴槽、ふた兼用の洗い台に、タオルハンガー、石鹸置き、鏡を備え63000円。千里ニュータウンで大ブレイクし、大都市中心にヒットし約35万台を売る。

■思い出のお風呂コメントから
なんといってもホクサンバスオール。狭い?我家にありました。銭湯はあるものの、家から遠くて、行って帰ってくると冷えてしまうのです。がんばってバスオールを導入してくれた両親に感謝でした。おとうちゃんが太っていたので、二人でぎゅうづめで入ったのも、今はいい思い出です。

■募集中!
あなたのコメントを募集中。1960年代のタオルや湯桶などのお風呂グッズも探しています。ぜひ、あなたのお宝やコメントで、千里ニュータウン展示にご参加ください!

(おかきた’まり)
2006/02/06のBlog
[ 22:51 ] [ 私達の活動とプロフィール ]
-ブログはプロパガンダメディアかさもなくば歴史そのものか-

 昨秋、千里ニュータウン展市民委員会が発足して、その活動をどのようにして外部に知らせるか、委員に活動ではなかなか見えない千里ニュータウンの色々な情報をいかに得てもらうか、委員同士の意見交換を会議以外の場で持つことはできないか、外部の人から意見や情報をもらうことはできないか。その試行の結果が、ブログでした。

 昨年10月14日このブログを立ち上げ、12月20日前に閲覧数2,000に達し、本日、ついに5,000を超えました。当初の2ヶ月は一日あたり28カウントが、館長ノートや怪獣のおかげで一日当たり60カウントになりました。ここ暫くは80カウントを超えています。このレベルで加速度的に閲覧数が増加すれば、3月21日のプレイベント前には確実に10,000を超えるでしょう。
 私達の活動に注目して毎日見てくださる方も増えてきていることでしょう。私達市民委員でインターネットを使う方は30人程度です。その人たちが、仮に毎日朝、夕2度、子のブログを見たとしても60カウントです。そうすると、ここ暫くは私達以外に20人ほどの方が毎日このブログを見ていただいているわけです。
今までは、このブログで話題提供を中心に行ってきましたが、会期中のイベントが固まってきましたので、順次その案内など私達の活動と同時進行でブログをアップしていきます。そして、現在の私達の活動自体がブログにアップされた時点で千里ニュータウンの歴史の一コマになっていくのです。

 千里ニュータウンは博物館に展示されるべき歴史を毎日刻んでいるのです。
●ロケに来た吉永小百合さん、浜田光夫さん(1965年)のほかにも、千里ニュータウンにはいろいろなお客様が来ています。

●1966年4月23日には(当時の)天皇皇后両陛下が視察に来られました。土曜日でした。私の同級生で、F台元住民のtsugioさんが同窓会サイトに書かれた思い出話を、本人の了解を得て一部ご紹介します。
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昭和天皇が来られた時に藤白台の近隣センターを通って行かれたことがありましたよね。
私は父親と二人でロータリーの内側で通られるのを待っていたと思います。
その時に父親が「天皇陛下が見えても決してバンザイと言ってはいけないよ。そう決まったんだから。」と言うのです。我が家の決めごと?と思っていると近くにいた近所のおじさんおばさんたちもそう話していました。あぁ自治会で決まったんだなぁと勝手に思っていました。当時は。(*_*;
そうこうしてるうちに、阪急の線路の方から「バンザ~イ!バンザ~イ!」の声がだんだん大きくなり、私たちのいるロータリーに車が近づくと、周りの人たちも「バンザ~イ!バンザ~イ!」の声。車が見えると、隣にいた父親もバンザ~イ!バンザ~イ!!と叫んでました。(-_-;) なんじゃらほい!と思いましたが、今ではその気持ち理解できなくはないです。
当時のことを覚えておられる方はいらっしゃいますか?バンザイと言ってはいけないエピソードは記憶の錯乱かもしれませんね。
この時の真実を聞こうと思っても、その父親は昨年73歳で亡くなりました。聞いておけばよかったなぁと思うことが他にもたくさんあったんですが、今では叶わないですよね。
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この話、「昭和の戦後」を強烈に感じさせるエピソードなのでご紹介させていただきました。この感覚、今の若い人にわかるかなぁ?時代と家族と出来事が一つになった「生きた」思い出ですね…。

当時の記事を見ると午前9時20分にロイヤルホテルを出られ、東淀川区の盲学校を視察されたあとニュータウンへ。古江台の展望台から万博会場予定地を遠望。新大阪駅で昼食を摂って午後1時半の列車で帰京された…とありますので、ニュータウンに来たのは午前中だったはずで、僕らは授業を休んで沿道に出ていたことになります。この視察に間に合わせるため、あっという間に展望台ができた、なんてこともありました。新御堂筋もなかったのに、どの道を通ってきたんだろう?

●1970年、万博の直前には、タイから神戸港に運ばれてきた象の集団が神戸から171経由でずっと歩いてきて、北千里の駅前を行進して万博会場に向かっています。北千里の駅前にも寄り道したそうですよ!旅の途中に船の中で生まれた子象も一緒に行進してきたそうです。市民委員のAさんが、このときの写真を持ってこられました。前記tsugioさんの記憶によれば、平日の午後だったそうです。

皆の記憶や記録の断片をつなぎ合わせると「あのころ」が浮かび上がってくるのも、近過去をテーマにした展示会ならではの楽しみですね。

(by okkun)
2006/02/05のBlog
今まで博物館だけあって、-展示-に力を入れてブログをアップしてきましたが、その裏では想像もつかないような巨大なイベントプロジェクトが進行していたのです。
5月20日「諸口あきら・60年代の音楽シーンを語る」で決定。
語りと歌で90分。



 我が市民委員会には秘蔵っ子のイベントプロデューサーが存在するのです。(今まで黙っててごめんなさい)

 彼いわく、


 ここまで整理してみた結果、インパクトのある催事をもっと入れないと寂しいですね。
展示も含め、もっと協賛がらみで企画調整し、資金を意識して動いて下さる方はいませんか。
 図録(パンフレット)に企業協賛枠を入れたプレゼンダミーをつくりましたので、ぜひご協力ください。
 市民パワーという意味でも、今展の命運を握っていると思うのです。
 今この面では今、私と○○さんだけで動いており、とてもフォローしきれません。もう夢の第一段階は通り過ぎ、一般の方々をいかに多く博物館に引き込めるか、ナショナル企業・地元企業にその存在や価値を知らしめることができるか、金を引っ張れるかの具体的な詰めの段階に入ったと思うのです。

 展示は触れることができて、次代を背負う子供たちにも「おもしろかった」という印象を与えるものにしたい。コンパクトでも、今のおざなりな常設展示コーナーを凌駕するものにしましょう。
 講演やシンポジュームは立ち見が出るくらい。コンサートは「さすが」というものにしませんか。平日でも最低100人は来るぐらいに。

 数日前、友人がはじめて吹田市立博物館に行った話。
 入口で係りの人から怪訝そうな顔で見られ、入らずに引き返してきたそうです。
 客商売の民間企業では考えられません。今の博物館は役所の出先機関としか思えません。ニュータウン展の間だけでも、にっこりほほえむ従業員を雇いませんか?しっかり教育されたコンパニオンと言わないまでも、現状はあまりにも冷たすぎます。建物も冷たいのに・・・。

 少し言い過ぎたかもしれません。しかし、とにかく追い込みの時期なのです。
 私ははじめから、「博物館があることを知ってもらう」ことが第一と考えて取り組んでいます。千里市民の思いをここにこめて、それぞれの担当エリアだけでなく全体を考えてみましょう。
 仕上げの時期に入りました。みなさん、がんばりましょう。
これから確定していくビックイベントをご期待ください。公立の博物館がやるようなことではなく、やれないことをやります。それが、市民パワーです。
2006/02/04のBlog
1960年代は石油化学工業の成長期で、紙や木などの天然素材に代わってプラスチックが、家庭用品や建材(バスオールの素材FRPもプラスチックの一種ですね)、おもちゃなどにどんどん使われるようになっていきました。 
 安っぽい、環境に悪いなど、マイナスイメージがついてまわる素材ですが、何といっても子どもに人気のあったのはおもちゃはプラスチック製です。その代表選手は、男の子だと乗り物や怪獣のプラモデル、そして女の子は着せかえ人形でしょう。
日本でバービー人形が売り出されたのは、アメリカ本国での発売から遅れること3年、1962年のことでした(千里ニュータウンの入居が始まった年ですね!)。そもそもバービーは、アメリカの会社が、人形本体、衣装ともに日本で製造させたもので、戦後日本の輸出産業の原点のような存在だといえるでしょう。洋服もお人形のものとあなどるなかれ、ちっちゃくても、デザイン、縫製ともにすばらしい品質のものだったのです。今、その技術が再評価され、オークション市場ではその頃の日本製のバービーが驚くような値で取引されているそうです。
 その後、日本生まれのスカーレットちゃん、リカちゃんなど、さまざまな着せかえ人形が登場し、女の子のおもちゃの定番になっていきました。(そして、製造地も日本から他のアジア諸国へと移るのです。)

 なまじプラスチックだけに、朽ちることのない着せかえ人形たち。ネット上でなつかしい顔と再会したン十年前の少女たちは、記憶を呼び覚まされ、幸せな時間を取り戻そうとするかのようにコレクションに没頭しているとか。これは、ゴジラやウルトラマンなどヒーローものにのめり込んでいるン十年前の少年たちと相通じるものなのでしょう。女の子の世界もしかとあったのです。

 60年代から70年代生まれの着せかえ人形を探しています。おうちに、一緒に遊んだバービーちゃんやリカちゃんが眠っていませんか? (京子)

★写真は、前回の飛騨高山・小林さんのコレクションにある女の子のオモチャです。
2006/02/01のBlog
[ 20:14 ] [ 館長ノート ]
60年代グッズと浮世絵
 先週末、高山に行って来ました。しんしんと冷え込む街、雪を踏みしめて飲み歩くのはとてもいい気持ちでした。酒を飲み過ぎて温泉につかれなかったのが残念。
 高山市の小林修二さんは、60年代グッズの収集家として有名な方です。訪ねてみると、マー、あるわ、あるわ、家のなかにオタカラがあふれていました。旧丹生川村の「おもちゃ館」は、小林さんのコレクションをを中心にしたものです。「モノには力がある、だから捨てない」と熱く語ってくれたのですが、わかるけど、狭いマンション暮らしのシチーボーイにゃとてもできない相談やおまへんか。
60年代グッズは今、ブームの勢いが見えます。はやりのネットオークションでは怪獣やリカちゃん人形が驚くほどの高値がついているそうです。マニアの世界から脱して、歴史の一コマとしての位置を獲得しはじめているのです。「ちょっとむかしのモノたち」という企画が人気を呼んだ博物館もあります。

 そういえば、「浮世絵」がそうでした。画といえば掛け軸や襖絵だった時代、浮世絵は週刊誌やポルノ本なみのものでした。ところが、外国人がやってきて目をつけ、大量に買い付けたことで日本を代表する芸術になりました。ゴッホやモネなど、後期印象派に大きな影響を与えたことはよく知られています。

 今回の展示で、千里ニュータウンで使われたモノを集めようと呼びかけていますが、これが成功すればすごい。それを続けていけば、60年代に始まり現在にいたる、千里NTの文化を明らかにする資料となるはずだからです。
 何を集め、どう並べるかの姿勢を定めることがまず必要なのですが、ヒントを得るために、有志の方々と飛騨へ調査に出かけるのもいいなと思っています。
(補)飛騨では、このブログで募集していた「大型の洗剤の箱」はいまでもお店で健在でした。

写真は雪の高山市・宮川沿いの風景です。
2006/01/30のBlog
[ 23:35 ] [ 私達の活動とプロフィール ]
2006年2月5日13:30~15:00
吹田市立博物館でおこなわれる小山修三館長の講演会
「住まいのうつりかわり-千里ニュータウンを考える-」のレジュメです。
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* 2006.2.5.(日)13:30~ 吹田市立博物館にて
* 「住まいの移り変わり-千里ニュータウンを考える-」 
* 小山修三
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1.ニュータウンは何故つくられたのか
1)都市化:人口集中による生活環境の劣化-とくに産業革命以後
 2)よりよい環境のなかに、便利な集合住宅をつくる、緑を取りかえす
 3)近隣住区論 1920年代のアメリカで 

2.住まいとはなにか?
 1)動物からみると
 a.ない:ウマ b.一時的:ゴリラ c.巣-トリ d.永久的構造 ヒト、ハチ
 2)考古学から見る:時代的変化
 a.洞窟:北京原人 b.最も古い住居-20万年前 c.竪穴 d.高床(日本的 な暮らし方のはじまり?
 3)民族学から見る:諸機能の取り入れと間取り
 a.安全に眠る、から食、調理、風呂、排泄、団らん、接待へ
 b.日本人の清浄の観念;水と土

3.集落から都市へ-都市化をめぐる諸問題
 1)狭くなる住居-収容人数とその性格:大家族と核家族
 2)公共施設、統合施設(政治と祭事):調理、風呂、トイレは公共か?

4.日本人の町のすまい方:庶民の生活
 1)団地の原型-長屋(室町時代の例)
 その間取り:内(土間+2つの部屋)と外(トイレ、風呂、井戸)
2)団地型集合住宅の登場:(1960年代前半の例)
その間取り;2DK(台所とトイレの取り込み)
 食寝分離をめざす;戦前までの使い方-ザコ寝、開かずの間
3)ニュータウンと団地
 その違い:規制とニュータウンの増殖

5.これからのニュータウン:経済のゆたかさと技術の発達のなかで
 1)便利さ快適さの追求
 a.プライバシー b.個人と家族 c.大家族と核家族 d.コミュニティと家族
 2)衛生:科学的合理性と美意識-日本的すまいの問題点
 a.玄関、トイレ、風呂(浴槽)
 b.接客(外在?)
 c.プライバシー(個室化) 
2006/01/26のBlog
日経千里コンシェルジュ(千里の日経読者限定サイト)に市民委員会の活動が紹介され、「自動改札機やきっぷなども実物もなるべく集めて展示する。」と書かれていますが、北千里駅に設置された初代の自動改札機は阪急電鉄にもメーカーにも残っていないことが確認されております。残念ですが、39年も前の話ですので致し方ありません。

現在、次善の展示策を考えております。切符、ポスター、模型類は展示できる見通しです。市民委員会の方にはこの件ご報告しましたが、一般市民の方に誤解が生じるといけませんので、念のため。

とは言え、千里ニュータウンの歩みが楽しくわかる展示にしたいと一同頑張っていますので、どうぞお楽しみに!

●北千里駅発着の自動改札機用「定期券」「切符」(昭和42-45年の初期のもの)、万博期間中のみ開設された「万国博西口駅」や「万国博中央口駅」の切符等をお持ちの方があれば、吹田市立博物館までご連絡ください…。

(by okkun)
[ 07:32 ] [ 館長ノート ]
団地妻・真昼の・・・

 団地妻ときくとむかしは頭がクラクラしたものだ。 日活ロマンポルノの名物シリーズで、今でもその名を冠した便乗、あるいは亜流作品が、星の数ほどつくられている。その甘美な響きや濃密な連想は、アパ-ト妻、長屋妻というのではとうてい無理だ。
 団地はトイレ、シャワー(風呂じゃだめですね)、ダイニングテーブル(ちゃぶ台か?)、ベッドルーム(布団じゃいけないなー)をコンクリートで囲いこんでいる。夫や子どもは、会社や学校へ行っていない昼間、そんな密室の中で、けだるそうにもの思う美しき・・・(と、つい芝居がかってしまう)。
 伝統的な日本の家屋は開放的で密室はなかった。しかも、大家族で住んでいたので、いゆも、まわりに誰かいた。まして若妻には鬼のような姑。団地というとヨコ文字がいっぱいでることからもわかるように、その普及によって、日本人の生活様式が西洋式へと大きくかわった、とつくづく感じる。でも、欧米のそれとくらべると、間仕切りは、障子や襖で密室とはほど遠い。それにもまして(日本人の特徴だといっていいと思うのだが)コンクリートの壁などものともしない、レントゲンのような隣人の目線がある。そんななかでの情事ですと? ロマンポルノが一世を風靡したのは七〇年代のはじめだから、それは、旧態依然とした寮や下宿に住んで、都会にあこがれていた山だしの学生の妄想だったのだと思う。
 すでに述べたように(館長ノート13)千里ニュータウンからは、スポーツ新聞に書かれる、男性の猥雑な世界は見事に消しさられている。そんな健全な社会のなかで、今日の団地妻たちは、あっけらかんとスポーツジムやイタメシ屋で健全な生活を送っているようだ。歌人、栗木京子はそんな状況を鮮やかに描き出している。 
 「天敵を持たぬ妻たち昼下がりの茶房に語る舌乾くまで」

 「性」は、日常生活にしっかり組み込まれており、決して無視できないものだ。文化人類学では重要な分野の一つであり、論客もおおい。今回の特別展で「団地妻」のビデオ上映会(ちなみに、シリーズ初代女優の白川和子さんは千里ニュータウンの住人だったと聞いた)を切り口にした講演会をと考えてはいるが、多勢に無勢、やはり無理かなとおもっている。

(季節のさし絵は原文と無関係です (お))
2006/01/22のBlog
展示アイデアとは別の話として書き込むのですが、町にはその町特有の「音風景」とでも言うべきものがありますね。千里ニュータウンの「音」と言えば、どんな音があるでしょうか。

◎竹林の葉ずれ
◎谷あいの団地にこだまする電車の走行音
◎阪急バスの行き先案内録音テープ、ドアの開閉音
◎灯油を売りに来る「たきび」のメロディ
◎自動改札の「ピ」という確認音
◎ごみ収集車の音と掛け声(アナウンスは吹田と豊中で違う?)
◎阪急の駅のアナウンス
◎北大阪急行の駅の発車メロディ
◎千里に多い鳥の声
◎千里阪急地下の食料品売り場やスーパーの呼び込み
◎団地の扉の「ガッチャーン」という開閉音
◎小学校の学校放送

…どうも乗り物関係ばかり思いついて、すみません。人工音が多いですね…。

ちなみに
◎北大阪急行の駅の発車メロディ
こちらのサイトで聞くことができます。

1990年前後から全国に普及した「駅の発車メロディ」は多種多様なものがあり、あちこちのインターネット・サイトで録音コレクションを楽しむことができますが、千里中央駅のように「四季でメロディを変えている」例は全国的にも非常に珍しいようです。(この駅だけかも?)人工音に季節感を持たせる試み、なかなか千里らしいと思うのですが。

(by okkun)
2006/01/21のBlog
[ 23:03 ] [ 自然 ]

S自然観察会のTです。
連絡が遅くなりましたが、春期展のタンポポ展示の用意をしています。
Mさんから自然系の協力を言われていますが、私はこの実物のタンポポを野外で展示し、
千里ニュータウン以前の「カンサイタンポポ」とニュータウン後に広がった「セイヨウタンポポ」の分布地図(3種類くらい)を展示すればどうかと思っています。
カンサイタンポポ(在来種)紫金山、千里南公園
セイヨウタンポポ(帰化種)某小学校校庭、亥の子谷公園
の4つを深めのプランター4つ入れて育てています。
春には花を咲かせるでしょう。




そして、雑種(カンサイタンポポ+セイヨウタンポポ)の5タイプを2株ずつ、
O大学I研究室よりもらう手はずもしました。
DNA鑑定をしたもので、種子から苗をつくったものです。
雑種にもいろんなタイプがあるものだと言うことを知らせるために、これも育てるつもりです。
ただし、これは、博物館展示の趣旨に添うものかはわかりませんので、展示しないかも知れません。
私の職場のベランダで栽培しているタンポポ写真2枚と吹田のタンポポ分布地図を送ります。

赤印がセイヨウタンポポ、緑印がカンサイタンポポの市内での分布です。
[ 00:12 ] [ 私達の活動とプロフィール ]
どなたかつぎのものをお持ちではありませんか?
お持ちの方、コメントに書いていただくか、市民委員会か博物館までご連絡ください。
 ○印はすでに入手したものです。

母・父の世界
1 洗剤の箱 ビーズ・ザブなど以前の箱は大きかった
2 歯磨き粉 平べたい缶入りで、練りでなく本当に粉入り
3 シャンプーハット シャンプーする時こどもが目を閉じなくてよい
4 ビール キリン等の60年代ラベル・ビン
5 コカコーラ 発売当時のビン
6 ラムネ  ガラス瓶でビー玉がはいったもの
7 たばこ  いこい・しんせいの箱
8 買い物籠 籐・布・麻で創った物?ビニール袋はありません
9 通勤かばん 今とデザインが違う?お弁当が入っていたかも
10 お弁当箱 アルミで平べったくて大きい?
11 髪用カール この頃、髪の毛を巻いてネットをかぶってる女性が多かった
12○ ハンドバック シンプルな感じで、小ぶりです
13○ 婦人服 ボタンやローウエスト切り替え、少しミニが特徴?
14 背広  襟が小さくて、細身が特徴?
15○ 靴・ぞうり・長靴 婦人物は先が丸かった?
16 郵便受け 各団地でポストの形も違います
17○ カメラ  父の上から覗いて映すタイプがあります
18○ タイプライター 少し新しいかも、でもあります
19 レコード ドーナツ盤。どんな音楽が流行でしたか?
こどもの世界
1 グリコのおまけ 小さなプラスチック製の可愛さに私も集めてました
2 マーブルチョコレート 鉄腕アトムのシールが入ってました
3 日の丸キャラメル 覚えてるのは私だけ?
4 紙で作った着替え人形 お洋服はのりしろのような出っ張りを折って着せました
5 中学校の制服・校章 セーラー服・ブレザーと2種類かな。
6 小学校の名札・校章 今の子は名札は学校内しか付けてません
7 給食服 真っ白で帽子付き・袋はお母さんお手製も
8 体操服 60年代はブルマ?ジャージではないですよね
9 水筒 肩からかけるアルミ製?
10 ランドセル 今ほど頑丈なものではありません

11 運動靴 キャラクターの入った薄っぺらいビニール製
12 リックサック ポケットがいっぱい付いて、キャラクター入り?
13 そろばん 学校の授業でありました
14 筆箱 プラスチック製やアルミ製?
15 勉強机 まだまだ自分の机がもらえない時代でした
16 中学生の通学かばん 肩からかけて通学してました
17 教科書 60年代の教科書使っていたのがありませんか
18 おもちゃ あなたがあのころ遊んでいた物
19 おもちゃの刀 ちゃんばらごっこをまだしてませんでしたか?
20 おままごとセット 鍋や釜のプラスチックのセット

21 三輪車 小さくシンプル?
22 乳母車 ボックス型?もう座るタイプの写真がありましたね
電気製品
1 炊飯ジャー 炊飯ジャー 1960年代はもっと蓋が薄っぺらで、軽い感じ
2 ズボンプレッサー スカートやズボンをプレスするもの
3 足温器 足やひざ周りを包んで暖める電気製品
4 古い丸型冷蔵庫 1960年代の冷蔵庫・・無理かな?
5 保温ポット 電気でなく中はガラス?蓋を取って注ぐタイプ。形も細身
6 ラジオ 1960年代はプラスチックのような外観
7 掃除機 大きくて重い?
8 畳用箒 新聞紙濡らしたり、茶殻を巻いて掃いてました
9 洗濯機 勿論2槽式。脱水機は付き始め?
10 扇風機 黒い羽の3枚羽?

11 ストーブ 電気・ガス・石油ストーブどれが使われていたか教えて。
12 コタツ 赤外線は出ていたんでしょうか?
13 髭剃り 電気髭剃りありましたか?
14 テレビ 枠の丸い、チャンネルをまわす。これさえ忘れてます
15 電話 黒が当たり前。ダイヤル回してかけるのも今の子は知りません
16 テープレコーダー テープ巻きが大きく2つ目立ってました


家具・家財
1 食卓テーブル ダイニングでイスの生活の始まり。小さくて足も細い?
2 タンス 団地サイズが出始めたかな?
3 2段ベット ひょっとしてこれは日本の団地から生まれた?
4 ソファー 布張り?3点セット?
5 車 60年代の輝くばかりの車
6○ 紙幣 1万円・5千円・千円・500円札 あります
7○ コイン 5円・50円・100円玉 あります
8○ 切手 60年代の切手は集めてました
9 自転車 タイヤも太く荷台もしっかり
10 柱時計 ボンボン柱時計?卓上のねじ巻き式でもOK
2006/01/20のBlog
[ 17:12 ] [ 暮らし ]
吹田市の学校給食 (吹田市立博物館 非常勤嘱託 香坂 康樹)

1.センター方式から自校方式へ
 私が吹田市で教職に就いたのは、昭和44年(1969)でした。このころ吹田では幸町にある給食センターで、栄養士や調理員が大量の給食を調理しトラックで各学校に運ぶ「センター方式」を採用していました。運搬ルートによれば暖かい出きたての給食が食べられる学校もあれば、焼きソバやうどんが冷えて固まっていたという悲劇の学校もありました。
 食器の回収も、早く回収ルートに当たった学校では、子どもたちをせき立てて食べさせ、遅れた子どもの食器を、校務員さんと担任が自転車の後ろに載せて給食センターまで運ぶということもありました。特に4限目に体育があたったクラスは悲惨でした。汗をふいたり、うがいをしたり着替えたり、そして給食のエプロン等を身に付け、配膳室に給食を取りに行き、急いで配膳し、急いで食べさせ、急いで食器を戻す。吹田第六小学校での私の姿です。
 ところが千里ニュータウンが開発され、学校も続々と誕生し、給食センターでは調理数が賄いきれなくなり、自分の学校で必要な給食は調理するという「自校方式」が取り入れられました。当時、センター方式の学校に勤務していた教師にとって千里ニュータウンの自校方式は羨望の的でした。

2.学校給食の現状
 現在は小学校全てこの方式で調理員が調理した出来立ての給食を子どもたちは毎日口にしています。
 吹田の校長から隣の茨木市の校長に「交流人事」を経験して始めて吹田の献立の豊富さ等、身にしみて実感しました。茨木市も「自校方式」を採用していましたが、米飯(白飯)は外部委託で、吹田のような週数回の米飯、しかも季節のたけのこご飯やたこ飯、シラスご飯、ワカメご飯、鮭チャーハン、ちらしずし、手まきずしといった豊富なご飯メニューが懐かしかったものです。3年後吹田に戻って来て、特にこの感を強く感じました。子どもも正直なもので残飯の量が比較にならない位でした。
 長年、教育委員会・校長会・教頭会・給食担当教員・栄養士・調理員・保護者代表等が組織する「学校給食会」が子どもたちにより良い給食を提供するため、月1回毎日の給食献立の作製や食材選定、子どもたちが希望するメニューを取り入れたり、アレルギー除去の献立を工夫したり、活躍しています。栄養職員も調理員も新しい献立を考案・工夫しています。このことは教育委員会、校長会で実際にこの委員会を担当してみて初めて分かることです。
 私は吹田の学校給食は日本でも素晴らしいと思っています。この春退職し、毎日変化の乏しい昼食をとっている身には本当の『思い』です。
2006/01/19のBlog
[ 22:51 ] [ 館長ノート ]
千里にゾウがいた頃

 「小さかった頃、ニュータウンで骨が見つかったという噂がひろがり、殺人事件か行き倒れかなどと考えて、とても怖かったおぼえがあります。事件はなかったようだし、あれは何だったのか、考古学から説明できるでしょうか」、こんな質問が博物館に寄せられました。文化財保護係の増田真木さんに答えてもらいました。
 それはヒトではなく、ゾウのものでしょう、年代は120万年以上前。考古学からみるとニュータウンの区画のなかには、古墳などの遺跡は今のところ見つかっていないので、ヒトの可能性は少ないと思います。
千里丘陵は、約300万年前から50万年前(鮮新世末~更新世中期)にかけて堆積した砂礫や粘土層(まとめて、大坂層群と呼んでいます)が、その後の地殻変動によって隆起して出現したものです。この長い時間のあいだに、気候は暖かくなったり寒くなったりしたので、海水面が何度も上下しています。そのため、丘陵の断面図をみると、海底で堆積した地層と、川の河口で堆積した地層が300m近くの厚さとなって重なり合っています。また、地層の間には何層もの火山灰層が挟まれており、火山活動が活発な時期があったことを物語っています。
 吹田市内では今から250万年前~120万年前にかけて生息していたと考えられるアケボノゾウの歯や牙の化石が片山町や佐竹台で見つかっています。また、豊中市待兼山ではおよそ40万年前と考えられる地層から体長8mにおよぶマチカネヤマワニの化石が見つかっています。ヒトが日本列島に現れるはるか前の吹田市には、ゾウやワニがいる風景があったのですね。

写真のキャプション
○アケボノゾウ
吹田市立博物館の常設展示場にあるアケボノゾウ化石(左牙と切歯骨の一部)
200万年~60万年前に生息していた肩高2mほどの小型のゾウで、日本特産。
○100万年前
富田林市石川化石発掘調査団『富田林の足跡化石』1994より
「扇状地の林と動物」
扇状地にはメタセコイアやハンノキが林をつくっている。
動物は前からシカマシフゾウ(大型のシカ)、アケボノゾウ、カズサジカ(小型のシカ)
2006/01/15のBlog
[ 19:46 ] [ わが町 ]
千里ニュータウンから広域千里(Greater Senri)へ 
 -梅棹忠夫先生に聞いたこと

 梅棹さんほど千里を愛し、その発展に期待をかけた人は少ないと思います。生粋の京都人で、京都に人一倍の愛着をもっているはずですが、大阪万博に深く関わり、跡地に国立民族学博物館をつくって、館長となった1975年から、職場と住居は同じ地域であるべきだという日頃の主張どおり、千里ニュータウンに本居を移したそうです。夕方、奥様と散歩しているところを見かけた人も多いと思います。

 マンション住まいは、狭いのがつらいが、まことに、便利で快適である。高層住宅が建ち並び、新幹線、国際空港、高速道路が入り組んで、日本ばなれしていると言う人もいるが、これこそ、現代日本の代表的景観である。千里は、ニュータウンと限らず、吹田、豊中、摂津、池田、茨木、伊丹、池田(市)をふくめた「広域千里」としてとらえるべきだ(こういうダイナミックな発想は今回の特別展でも基本におくべきだと思います)。
 短大以上の大学は20以上、それに加え多くの研究機関や文化施設がある。大阪、京都、神戸と肩を並べうる、国際文化都市である。知的水準の高い地域で、凡百のベッドタウンや集合住宅地ではないのだ、等々。話していて、いつも驚かされるのはそのビジョンの大きさで、しかも空論ではなく実行に移していることです。

 ちなみに、梅棹さんの関係する千里と名のつく、グループや組織、出版物を考えるといくつかの名がすぐ思い浮かびます(まだあるかもしれません)。

○『Senri Ethnological Study』,『Senri Ethnological Survey』。民博の英文刊行物:館員