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2006/04/18のBlog
[ 09:11 ]
[ 館長ノート ]
モノに宿る魂ー展示品を集めてアニミズムの世界を見た
「できるだけ、千里ニュータウンでモノを集めて展示する」ことを本展の基本コンセプトにした。そうすることで、20~50年前にわたる、この地域における「民俗資料」の収集につながり、博物館の収蔵品を豊かにするだろう。(50年とは、今の子どもにとって、はるか昔のもの。かつて、文化財は50年より古いものをメドとする、という行政指導があったが、千里ニュータウンもあと数年でそうなる)。
実際に、モノを集めはじめると、集まりやすいモノと集まりにくいモノの差があった。はじめに気がついたのはおもちゃ。女の子はバービー、タミー、リカちゃんなどなど、髪を刈られたり、顔に墨を塗られたりしたものから、美術展示になるものまでけっこうたくさんあった。遊びとしては紙の着せ替え人形、飾りとしてはお雛さまの伝統を脈々とひきついでいる。「展示が終わったらかえしてください」というコメントが多かった。
これに対し、男の子もゴジラ、ウルトラマン、ガンダムなどの人形で遊んだはずだが、ふしぎと集まらない。「なぜなんだ?」、Fさんが「人形は捨てられないけど、怪獣ならいいんじゃないかしら」とさらりといった。「ひとがた」に「たましい」の存在を感じやすいことは経験的によくわかる。
予想外に苦戦をしたのが家電具だった。食器や調理具などの小型のモノは集まるが、冷蔵庫、クーラーなど大型のモノが出てこない。理由を簡単にいえば、ニュータウンの家が狭いので、大きいものはさっさと捨てるからだろう。冷蔵庫については、木のモノならありますよといわれた時、そうか、スチールやプラスチックという素材は、まだ日本人の精神世界に食い込むほどの歴史はもっていないのではないかとおもった(ソフビの怪獣にも通じる)と思った。
「できるだけ、千里ニュータウンでモノを集めて展示する」ことを本展の基本コンセプトにした。そうすることで、20~50年前にわたる、この地域における「民俗資料」の収集につながり、博物館の収蔵品を豊かにするだろう。(50年とは、今の子どもにとって、はるか昔のもの。かつて、文化財は50年より古いものをメドとする、という行政指導があったが、千里ニュータウンもあと数年でそうなる)。
実際に、モノを集めはじめると、集まりやすいモノと集まりにくいモノの差があった。はじめに気がついたのはおもちゃ。女の子はバービー、タミー、リカちゃんなどなど、髪を刈られたり、顔に墨を塗られたりしたものから、美術展示になるものまでけっこうたくさんあった。遊びとしては紙の着せ替え人形、飾りとしてはお雛さまの伝統を脈々とひきついでいる。「展示が終わったらかえしてください」というコメントが多かった。
これに対し、男の子もゴジラ、ウルトラマン、ガンダムなどの人形で遊んだはずだが、ふしぎと集まらない。「なぜなんだ?」、Fさんが「人形は捨てられないけど、怪獣ならいいんじゃないかしら」とさらりといった。「ひとがた」に「たましい」の存在を感じやすいことは経験的によくわかる。
予想外に苦戦をしたのが家電具だった。食器や調理具などの小型のモノは集まるが、冷蔵庫、クーラーなど大型のモノが出てこない。理由を簡単にいえば、ニュータウンの家が狭いので、大きいものはさっさと捨てるからだろう。冷蔵庫については、木のモノならありますよといわれた時、そうか、スチールやプラスチックという素材は、まだ日本人の精神世界に食い込むほどの歴史はもっていないのではないかとおもった(ソフビの怪獣にも通じる)と思った。
東北地方はイタコやオシラサマなど、土俗的な精神文化が色濃く残っている。民俗資料館にいって家具展示の場に入ることを拒否した(インテリの)人がいた。「なぜ」、「髪を引っ張られる・・」。彼女は箪笥や桶などにも「たましい」のあることを感じるのだという。もっともこれは、イノシシやクマなどの動物ばかりか針、包丁、眼鏡の塚をつくったり、着物やはきものを寺や神社に託して供養する行為としてのこっている。
魂は人だけでなくすべてのモノにやどるという思想はアニミズムとよばれ、(一神教以外の)世界の民族にひろくみられる。科学の時代に踏入って、日本人のあたらしい生活様式をひらいたと言われる千里ニュータウンでも、その影がかいまみえるのである。
絵は、安芸早穂子・画『縄文時空』(NHKブックス『縄文学への道』表紙より)。
2006/04/16のBlog
[ 17:45 ]
[ 館長ノート ]
観蝶日記-ナガサキアゲハと地球温暖化-
ナガサキアゲハに憧れていた。山地で時どき見かけるのだが、高く、早く、かっこよく、飛び去るのを見上げるだけで、文字どおり手がとどかなかった。昆虫少年の友だちがようやく手に入れ、「シコクナガサキアゲハって言うんぞなもし」と見せびらかされた。先日、その話を専門家にしたら、「聞いたことないなー」とニベにべもなかったが、あれは幻だったのかしら。
いま気候の温暖化がさかんに議論されている。化石燃料のたきすぎによる、炭酸ガス放出量が、悪役とされるが(それは認めるにしても)、問題はそれほど単純ではないとおもう。地球は何億年もまえから、温暖と寒冷を周期的に繰り返してきた。それについては、太陽の黒点活動とか、自転軸の変化とか、さまざまな説があるが、明確なものはない。手近なところを、大づかみにいえば、最終氷期が終わったのが一万数千年前、その後急速な温暖化があって約六〇〇〇年まえにピークをむかえる、そして、その後また寒冷化している(その意味では、いまは間氷期である)。
私の研究分野である縄文時代はこの温暖化のなかで生まれ育った。とくに六〇〇〇年前ころから、東日本では遺跡の数が突然急増えはじめ、規模も大きくなる。温暖化のため、植物相が豊になったことと海水面が上昇して内陸に深く入り込み海の食資源が利用しやすくなったことが文化興隆の要因だと考えられる。縄文の温暖化について小松左京さんと話していたら「縄文人は石油をつかいすぎたんやろ、自動車はまだ発掘できてないの?」、なにゆうてはる。
ナガサキアゲハに憧れていた。山地で時どき見かけるのだが、高く、早く、かっこよく、飛び去るのを見上げるだけで、文字どおり手がとどかなかった。昆虫少年の友だちがようやく手に入れ、「シコクナガサキアゲハって言うんぞなもし」と見せびらかされた。先日、その話を専門家にしたら、「聞いたことないなー」とニベにべもなかったが、あれは幻だったのかしら。
いま気候の温暖化がさかんに議論されている。化石燃料のたきすぎによる、炭酸ガス放出量が、悪役とされるが(それは認めるにしても)、問題はそれほど単純ではないとおもう。地球は何億年もまえから、温暖と寒冷を周期的に繰り返してきた。それについては、太陽の黒点活動とか、自転軸の変化とか、さまざまな説があるが、明確なものはない。手近なところを、大づかみにいえば、最終氷期が終わったのが一万数千年前、その後急速な温暖化があって約六〇〇〇年まえにピークをむかえる、そして、その後また寒冷化している(その意味では、いまは間氷期である)。
私の研究分野である縄文時代はこの温暖化のなかで生まれ育った。とくに六〇〇〇年前ころから、東日本では遺跡の数が突然急増えはじめ、規模も大きくなる。温暖化のため、植物相が豊になったことと海水面が上昇して内陸に深く入り込み海の食資源が利用しやすくなったことが文化興隆の要因だと考えられる。縄文の温暖化について小松左京さんと話していたら「縄文人は石油をつかいすぎたんやろ、自動車はまだ発掘できてないの?」、なにゆうてはる。
蝶を展示に使いたいとSさんに相談したら、コレクションをみせてくれた。「ナガサキアゲハ?いるんですか」、「普通に見かけるものですよ」。「たしか、分布の北限は四国だと」、「温暖化で、北へのびてるんです」。そういえば、三内丸山遺跡の気候変化を述べようと、チョウの分布を調べていたら、かつては秋田県が北限とされていたクロアゲハが、現在は青森県深浦あたりでも見かけるようになったことがわかった。チョウは気候と植生の変化に敏感に反応する。滅びるものもあるが、適応力の強いものはしぶとく生息域を拡大しているのだ。そうか、少年の頃の私の夢は、千里ニュータウンの草むらにもぐっていたのか。ガッカリしたような、うれしいような複雑な気もちです。
蝶の写真は、http://www.iip.co.jp/zukan/ から。
2006/04/15のBlog
[ 17:13 ]
[ 暮らし ]
学校給食の牛乳が、脱脂粉乳からビン入りに変わってから、子どもたちのあいだで牛乳瓶のふたをつかった遊びがさかんになりました。今回の展覧会に展示したくて、その頃あつめた牛乳瓶のふたがないか探し回ったのですが、なかなか実物は出てきませんでした。
しかし、思い出はたくさんあって、聞くと地域や学年によって、さまざまな遊び方があったことがわかります。豊中市北丘小学校を1989年に卒業した(い)さんが、「ぱっぱ」という遊び方を書いて送ってくださったので、ご紹介します。
『ぱっぱ』
牛乳瓶のふたは、よく洗って乾かす。なるだけ形を崩さないようにする。キャップの端は折れ曲がったままがよい。
☆遊び方
①枚数(『ダ』と言う)を決め、同じ数枚ずつキャップを出し合う。
②キャップを机の上に重ならないように並べる。並べ方は好きに並べてよい(枚数によってさまざまなバリエーションがある)。メジャーな並べ方は、逆三角形、菱形など(図 参照)。
③インジャン(じゃんけん)し、先攻(勝った方)、後攻(負けた方)を決める。
④先攻からキャップを息で吹きひっくり返す(裏返す)。②図の↑の方向に息を吹く。『ぱっっっ』と息吐くので、ゲームの名称を『ぱっぱ』というのだと思う。ただし、ゲーム時は、息を吐くのは『ぱっ』の一回のみ!!二回はダメ。ちなみに声に出す『ぱっ』音より、声にならない『ぱっっ』音での息吐き方の方が上手くひっくり返せる。
⑤ひっくり返ったキャップを貰う。裏返ったキャップのみ取る。裏返っていないキャップは動かしてはいけない。
↓
(全て裏返せばその時点で終了)
↓
⑥ひっくり返らず残ったキャップがあれば、そのままの状態で後攻の人が息でひっくり返す。前者の息で動かしたまま(ひっくりかえしたキャップは取り除かれている)なのでキャップが重なったりしていたらとってもラッキー。
⑦ひっくり返したキャップを後攻の人が貰う。
⑧キャップがなくなるまで交互に行う。
<余談>☆イレギュラーな遊び方
キャップを重ねて何枚裏返せるか?をしていたようです。(むろん、息でひっくり返します)
牛乳瓶のふたは、よく洗って乾かす。なるだけ形を崩さないようにする。キャップの端は折れ曲がったままがよい。
☆遊び方
①枚数(『ダ』と言う)を決め、同じ数枚ずつキャップを出し合う。
②キャップを机の上に重ならないように並べる。並べ方は好きに並べてよい(枚数によってさまざまなバリエーションがある)。メジャーな並べ方は、逆三角形、菱形など(図 参照)。
③インジャン(じゃんけん)し、先攻(勝った方)、後攻(負けた方)を決める。
④先攻からキャップを息で吹きひっくり返す(裏返す)。②図の↑の方向に息を吹く。『ぱっっっ』と息吐くので、ゲームの名称を『ぱっぱ』というのだと思う。ただし、ゲーム時は、息を吐くのは『ぱっ』の一回のみ!!二回はダメ。ちなみに声に出す『ぱっ』音より、声にならない『ぱっっ』音での息吐き方の方が上手くひっくり返せる。
⑤ひっくり返ったキャップを貰う。裏返ったキャップのみ取る。裏返っていないキャップは動かしてはいけない。
↓
(全て裏返せばその時点で終了)
↓
⑥ひっくり返らず残ったキャップがあれば、そのままの状態で後攻の人が息でひっくり返す。前者の息で動かしたまま(ひっくりかえしたキャップは取り除かれている)なのでキャップが重なったりしていたらとってもラッキー。
⑦ひっくり返したキャップを後攻の人が貰う。
⑧キャップがなくなるまで交互に行う。
<余談>☆イレギュラーな遊び方
キャップを重ねて何枚裏返せるか?をしていたようです。(むろん、息でひっくり返します)
2006/04/14のBlog
[ 06:30 ]
[ イベント予告 ]
程さんのお店へ、委員会スタッフとお料理を食べに行きました! お店は、大阪梅田の阪急DDハウスのちょっと向こう、瀟洒でアットホームな新台湾料理「龍潭:リュータン」。
程さんに講演していただくトークショーの打合せをかねてだったのですが、われら市民委員会スタッフは上品な味わいのお料理に食い気のほうが走り・・・【^^;】・・・エネルギッシュな程さんが、しっかりと話をすすめてくださいました。
おすすめの餃子とドレッシング、紹興酒を片手に程さんといっしょに記念写真→このドレッシングも販売しますので、お楽しみに!
●程一彦トークショー「60年代と今の食文化-食の養生訓」
●5月6日(土)14:00~15:30
●吹田市立博物館:講座室
★程さんのスープ餃子もご用意します♪ (イートイン&テイクアウト)
【後日の追伸】
頭とお腹に栄養を詰めこんでくださいね。この餃子のつくり方は、5月2日に程さん出演のNHK「きょうの料理」で、家族で楽しむ小麦粉料理として紹介されました。
(広報@おかきた’まり)
程さんに講演していただくトークショーの打合せをかねてだったのですが、われら市民委員会スタッフは上品な味わいのお料理に食い気のほうが走り・・・【^^;】・・・エネルギッシュな程さんが、しっかりと話をすすめてくださいました。
おすすめの餃子とドレッシング、紹興酒を片手に程さんといっしょに記念写真→このドレッシングも販売しますので、お楽しみに!
●程一彦トークショー「60年代と今の食文化-食の養生訓」
●5月6日(土)14:00~15:30
●吹田市立博物館:講座室
★程さんのスープ餃子もご用意します♪ (イートイン&テイクアウト)
【後日の追伸】
頭とお腹に栄養を詰めこんでくださいね。この餃子のつくり方は、5月2日に程さん出演のNHK「きょうの料理」で、家族で楽しむ小麦粉料理として紹介されました。
(広報@おかきた’まり)
2006/04/13のBlog
[ 19:13 ]
[ 館長ノート ]
観蝶日記-ギフチョウ-
ギフチョウは春の女神。オオムラサキが雑木林のキングとすれば、クイーンの名にふさわしい。この二つを対に目玉として展示したい、と語るSさんには、いまだに戦前の昆虫少年のあつい血が流れているようだ。
問題はこの2つのチョウについて、千里ニュータウン内での捕獲記録がないことだという。あまり厳密な実証にはしると、分布図がかけず、まして、近代以前に特定のチョウはいなかったことになりますよと牽制球を投げたら、それでは、昔々、紫金山で難波宮の瓦を焼いていた頃、カタクリやスミレ、サクラの蜜を求めてやってきていたという、「童話」にしましょうという答えが返ってきた。すばらしい、文化展示はイメージが第一なのです。
ギフチョウは九州?、四国はいない、本州特産で、北限が秋田県あたり、その北は北海道、樺太にまでのびるヒメギフチョウの領域、食草であるカンアオイと密接に関係して特殊な分布を示す。
縄文都市とまでいわれた三内丸山遺跡は、約6000年まえにはじまった気候の温暖化の周期のなかで花ひらいた。その頃の青森の気候は今の仙台くらいだったという。そこに目を付けて、縄文人はギフチョウを見たかというコラムを「東奥日報」紙に書こうとしたことがある。ところが青森の採集家がギフチョウは豪雪地帯にしかいないといいはった。
素人のわたしには論戦もしんどいので、その場はクロアゲハにかえて逃げた。その後、あきらめきれずに聞き回っていると、岐阜県では里山で普通にいますよと言うし、北摂の山地にも60年代までは、捕獲の記録がけっこうあって、豪雪とは関係ないようだ、地域によって想入れがつよいものだ、むしろ問題は縄文人がギフチョウとヒメギフチョウを見分けられたかどうかですなー。
ギフチョウは春の女神。オオムラサキが雑木林のキングとすれば、クイーンの名にふさわしい。この二つを対に目玉として展示したい、と語るSさんには、いまだに戦前の昆虫少年のあつい血が流れているようだ。
問題はこの2つのチョウについて、千里ニュータウン内での捕獲記録がないことだという。あまり厳密な実証にはしると、分布図がかけず、まして、近代以前に特定のチョウはいなかったことになりますよと牽制球を投げたら、それでは、昔々、紫金山で難波宮の瓦を焼いていた頃、カタクリやスミレ、サクラの蜜を求めてやってきていたという、「童話」にしましょうという答えが返ってきた。すばらしい、文化展示はイメージが第一なのです。
ギフチョウは九州?、四国はいない、本州特産で、北限が秋田県あたり、その北は北海道、樺太にまでのびるヒメギフチョウの領域、食草であるカンアオイと密接に関係して特殊な分布を示す。
縄文都市とまでいわれた三内丸山遺跡は、約6000年まえにはじまった気候の温暖化の周期のなかで花ひらいた。その頃の青森の気候は今の仙台くらいだったという。そこに目を付けて、縄文人はギフチョウを見たかというコラムを「東奥日報」紙に書こうとしたことがある。ところが青森の採集家がギフチョウは豪雪地帯にしかいないといいはった。
素人のわたしには論戦もしんどいので、その場はクロアゲハにかえて逃げた。その後、あきらめきれずに聞き回っていると、岐阜県では里山で普通にいますよと言うし、北摂の山地にも60年代までは、捕獲の記録がけっこうあって、豪雪とは関係ないようだ、地域によって想入れがつよいものだ、むしろ問題は縄文人がギフチョウとヒメギフチョウを見分けられたかどうかですなー。
オオムラサキとギフチョウが絶滅に瀕していることは紛れもない事実である。しかし、さすがにこの二つのチョウのスターは、いま飼育・増殖の努力がおこなわれている。
いちどは姿を消したホタルがいま各地でよみがえったことをおもいだす。エノキやカンアオイを植え、カタクリやスミレをふやし、雑木林をまもって放蝶されたあともチョウが生き続けることのできる、大きな生態系をつくりだす。それができるかどうか、今、声高に叫ばれている環境保護には、そういった細かな配慮を必要とする時代になっているのだと思う。
伊丹市昆虫館からオオムラサキとギフチョウの標本をお借りします。
チョウの写真は、http://www.iip.co.jp/zukan/ からとらせていただきました。
2006/04/12のBlog
[ 00:20 ]
[ 暮らし ]
1955年ころ以降にお生まれの方、ということは50歳以下の方はご存じないでしょうが・・・
昭和33~35年(1958年~60年)の日曜夜6時半から7時まで
朝日放送テレビで放映された「やりくりアパート」
番組の始まりは大村崑、佐々十郎、茶川一郎が歌います。
♪おまたせしました こんばんわ
♪ダイハ~ツ コメディ~ぃ はじま~るよッ
昭和33~35年(1958年~60年)の日曜夜6時半から7時まで
朝日放送テレビで放映された「やりくりアパート」
番組の始まりは大村崑、佐々十郎、茶川一郎が歌います。
♪おまたせしました こんばんわ
♪ダイハ~ツ コメディ~ぃ はじま~るよッ
2006/04/09のBlog
[ 23:36 ]
[ 自然 ]
みなさん、お花見はどこか行かれましたか?有名なところは混んでて場所取りも大変で…しずしずと桜が舞うのを鑑賞する気分になれないナー…とおっしゃる方は、ぜひ千里ニュータウンにお越しください。ニュータウンは町じゅうが桜・桜・桜…。なんでもない住宅街の道をお散歩するだけで、「自分だけの」スペシャルなお花見ができてしまいます。
街路樹が桜並木の道も…公園のそこかしこにも…団地や個人のお宅の庭にも…。(あ、もちろん住民の方のご迷惑にならないように…)
千里ニュータウンは、もともと緑地公園率が20%以上もあって、ゆったりした町のつくりが今、緑を大きく育てています。まちびらきから44年、初期に植えられた木々は、当時樹齢5年の苗木を植えたとすると今は樹齢50年前後…。立派な古木になっています。開発当時には里山を一度ほとんど更地にしたのですが、その後「人が作った自然」がここまで育っていることにまた感慨を覚えます。
千里線で、南千里・山田・北千里のどの駅からでも気が向くままに歩き始めてください。(ニュータウン手前の千里山駅のホームの桜も素晴らしいですよ!)静かに町を歩くだけのお花見。お隣の万博記念公園は新聞の「桜だより」に出る名所で、こちらではビッグな規模のお花見が楽しめます。
(by okkun)
街路樹が桜並木の道も…公園のそこかしこにも…団地や個人のお宅の庭にも…。(あ、もちろん住民の方のご迷惑にならないように…)
千里ニュータウンは、もともと緑地公園率が20%以上もあって、ゆったりした町のつくりが今、緑を大きく育てています。まちびらきから44年、初期に植えられた木々は、当時樹齢5年の苗木を植えたとすると今は樹齢50年前後…。立派な古木になっています。開発当時には里山を一度ほとんど更地にしたのですが、その後「人が作った自然」がここまで育っていることにまた感慨を覚えます。
千里線で、南千里・山田・北千里のどの駅からでも気が向くままに歩き始めてください。(ニュータウン手前の千里山駅のホームの桜も素晴らしいですよ!)静かに町を歩くだけのお花見。お隣の万博記念公園は新聞の「桜だより」に出る名所で、こちらではビッグな規模のお花見が楽しめます。
(by okkun)
2006/04/07のBlog
[ 21:48 ]
[ 館長ノート ]
観蝶日記 -オオムラサキ-
4月3日、晴れて日ざしが暖かい。博物館の広場のアラカシのまわりをアゲハチョウがとんでいた。ぼんやり見ていると、「今年はずいぶん早いですなー」と散歩の人に話しかけられた。
今回の展示で、ニュータウンの建設が自然にどんなインパクトを与えたかをみせようということになった。それだけで、一つ特展ができるほどのトピックなのだが、陳列ケース3メートルという割り当て空間内でどう表現するのか。自然部会での討議の結果、建設前と後の緑の地図を作って、まわりに動植物の写真をちりばめる、実物は蝶を中心にかざることにした。資料が多いし、あつかいやすく、場所をとらない、それにきれいだ。
4月3日、晴れて日ざしが暖かい。博物館の広場のアラカシのまわりをアゲハチョウがとんでいた。ぼんやり見ていると、「今年はずいぶん早いですなー」と散歩の人に話しかけられた。
今回の展示で、ニュータウンの建設が自然にどんなインパクトを与えたかをみせようということになった。それだけで、一つ特展ができるほどのトピックなのだが、陳列ケース3メートルという割り当て空間内でどう表現するのか。自然部会での討議の結果、建設前と後の緑の地図を作って、まわりに動植物の写真をちりばめる、実物は蝶を中心にかざることにした。資料が多いし、あつかいやすく、場所をとらない、それにきれいだ。
里山だった千里丘陵は、ブルドーザーで更地にされてビルや住宅が建ちならぶ都市になった。都市は砂漠に似ていて、生き物の数がすくない(人とそれに頼っているペットや害虫などをのぞけば)。
しかし、千里ニュータウンは、公園、街路樹、庭木、鉢植え、それに部分的ではあるが、保護運動によって守られた里山や池が残り、外来種がふえて、あたらしい生態系をもつ緑の町になった(広場には、在来-帰化、植物の相克を示すためにセイヨウタンポポとカンサイタンポポの鉢を置くことにした)。
チョウをケースに並べるとき(1)消えた、(2)少なくなった、(3)増えたの三群に分けるのはどうだろう、いや(2)は消える運命にあるのだから、思い切って(1)と(3)にしよう、それなら、(1)にオオムラサキが入るだろうと提案した。ところがSさんがそれはしのびない、最近も見た(コムラサキだったかも知れないがという注つき)という。
オオムラサキは国蝶で、高く、はやく飛ぶ。最近の『文芸春秋』で、昭和天皇が生物学への目を開いたのは、少年の頃、苦労してとったオオムラサキだったとあったのを見て、むべなるかなとおもった。
そういえば、梅棹忠夫さんや河合雅雄さんなど、戦前の昆虫少年と話をしていると必ず、この美しいチョウの話がでる、Sさんもおなじである。幼時の刷り込みのはげしさ、かつての日本の自然がやさしくゆたかだったことをうらやましくおもう。
まだいるのか、絶滅したかの議論は別にして、昆虫少年の憧れの的、オオムラサキは展示の目玉として、はずすわけにはいかないだろう。もしそうならば、もう一つ、ギフチョウがある。 (このはなし続く)
しかし、千里ニュータウンは、公園、街路樹、庭木、鉢植え、それに部分的ではあるが、保護運動によって守られた里山や池が残り、外来種がふえて、あたらしい生態系をもつ緑の町になった(広場には、在来-帰化、植物の相克を示すためにセイヨウタンポポとカンサイタンポポの鉢を置くことにした)。
チョウをケースに並べるとき(1)消えた、(2)少なくなった、(3)増えたの三群に分けるのはどうだろう、いや(2)は消える運命にあるのだから、思い切って(1)と(3)にしよう、それなら、(1)にオオムラサキが入るだろうと提案した。ところがSさんがそれはしのびない、最近も見た(コムラサキだったかも知れないがという注つき)という。
オオムラサキは国蝶で、高く、はやく飛ぶ。最近の『文芸春秋』で、昭和天皇が生物学への目を開いたのは、少年の頃、苦労してとったオオムラサキだったとあったのを見て、むべなるかなとおもった。
そういえば、梅棹忠夫さんや河合雅雄さんなど、戦前の昆虫少年と話をしていると必ず、この美しいチョウの話がでる、Sさんもおなじである。幼時の刷り込みのはげしさ、かつての日本の自然がやさしくゆたかだったことをうらやましくおもう。
まだいるのか、絶滅したかの議論は別にして、昆虫少年の憧れの的、オオムラサキは展示の目玉として、はずすわけにはいかないだろう。もしそうならば、もう一つ、ギフチョウがある。 (このはなし続く)
2006/04/03のBlog
[ 14:02 ]
[ 館長ノート ]
グローバルとローカル---NT展の「生活」展示
今回の展示を討議していて、いつも出てくるのは、とくに身のまわりにある候補品について、これは千里ニュータウンだけのものだろうか、おなじものは全国どこに行ってもあるよ、という問題です。ここでは、この展示を生活を再現する民俗学的なものと仮定して考えてみたいとおもいます。
いま、全国津々浦々に郷土資料館と銘打ったものがあります。そこに置かれているのは、いわば民俗学の守備範囲のもの、とにかく、ふるーい感じのものばかりです。日本は明治時代まで、行政は藩が単位でした。それが基本的には閉鎖的だったので、藩内では自給自足にちかい生活と生産が行われていました。したがって民具、日常品、生産品は、たとえ名前や用途がおなじであっても、それぞれの地にみあった独自の工夫が施された地域性のつよいものでした。地域差を見ることが、民俗資料館を訪れる目的や楽しみの一つだといえるでしょう。
ところが、第二次大戦後、工業化が進むにしたがってモノのあり方に大きな変化が起こりはじめました。多くの品物がもっとも効率のよいもの、価格の安いものを目指して作られるようになったからです。だから、必然的に一局化し、大量生産の方向へと動くことになりました。それをマスコミが助長した、文部省がつよく指導した義務教育もその一翼を担ったとおもいます。たとえば車や電気製品は、一般的であればあるほど、せいぜい数社の製品しかない状態からそれがわかります。
今回の展示を討議していて、いつも出てくるのは、とくに身のまわりにある候補品について、これは千里ニュータウンだけのものだろうか、おなじものは全国どこに行ってもあるよ、という問題です。ここでは、この展示を生活を再現する民俗学的なものと仮定して考えてみたいとおもいます。
いま、全国津々浦々に郷土資料館と銘打ったものがあります。そこに置かれているのは、いわば民俗学の守備範囲のもの、とにかく、ふるーい感じのものばかりです。日本は明治時代まで、行政は藩が単位でした。それが基本的には閉鎖的だったので、藩内では自給自足にちかい生活と生産が行われていました。したがって民具、日常品、生産品は、たとえ名前や用途がおなじであっても、それぞれの地にみあった独自の工夫が施された地域性のつよいものでした。地域差を見ることが、民俗資料館を訪れる目的や楽しみの一つだといえるでしょう。
ところが、第二次大戦後、工業化が進むにしたがってモノのあり方に大きな変化が起こりはじめました。多くの品物がもっとも効率のよいもの、価格の安いものを目指して作られるようになったからです。だから、必然的に一局化し、大量生産の方向へと動くことになりました。それをマスコミが助長した、文部省がつよく指導した義務教育もその一翼を担ったとおもいます。たとえば車や電気製品は、一般的であればあるほど、せいぜい数社の製品しかない状態からそれがわかります。
1962年から入居がはじまった千里ニュータウンは、すでに述べたように、消費社会であり、情報社会でした。生産ー消費システムが大きく舵を切り替えた新時代の先端を進んでいたのです。製品名よりブランド名、そして、コマーシャルソングや人口に膾炙(かいしゃ※1)したコピーがまず浮かんでくるのはそのせいでしょう。
個々のモノに重点を置く従来の民俗学的手法はもう通用しない、それでは展示は不可能か?そうではないと思います。大量にあふれる品々のなかから、何を選んだのか、どう使ったのか、つまり、組み合わせと配置が千里NTの性格を浮かび上がらせるはずです。大変難しい作業になりますが、成功すれば、将来の博物館展示のあり方に大きな刺激を与えることになるでしょう。
※1膾炙(かいしゃ):人々の評判になって知れ渡ること
2006/04/02のBlog
[ 00:34 ]
[ わが町 ]
千里ニュータウンの大阪弁は他の大阪の町と違う…とはよく聞いたものですが、どうなんでしょうか?「千里弁」の特徴を一言で言うと「薄い関西弁」。NT住民はいろいろな地方から来た人の「寄せ集め」ですから、いろいろな方言の特徴がミックスされて、いわゆる標準語に近くなるのは、自然な成り行きとも言えそうです。
1966年当時の調査によれば、NT住民の前住地は9割が近畿6府県。トップは大阪(次いで、兵庫、京都、奈良…)。近畿以外で多いのは、東京、愛知、福岡、岡山の順。山形県を除く45都道府県(当時はまだ沖縄は統計に入っていません)からの転入があり、「全国出身地」の町だと書かれています。
いわば地方から大阪へ来た人たちの受け皿だったわけですが、実際には地方から千里へ直接来る前に、どこか大阪近辺の他の町に出てきて、生活が落ち着いてから家を探して千里に来た…人も多いはずですから、近畿以外出身者の比率は、この統計よりもっと高かったと思います。学校の友達のご両親の出身を聞いても、四国とか九州とか、すごく多かったような気がします。(特に西日本)
もう一つの要素は、東京(首都圏)との転勤族の行き来です。新大阪にも大阪空港にも近い千里は、東京にも近い町です。時間も速く行けるし、土俗性を感じないフラットな町の雰囲気は、転勤で大阪に来た人にも溶け込みやすかったんじゃないでしょうか。千里ニュータウンの大先輩である千里山住宅地も、関東大震災の直後に分譲され、東京から震災を逃れて関西に移り住んだ人が多く入ったため「東京弁の町」と言われたそうです。
高度成長期の都市への人口移動と、NTはサラリーマンの町であり、サラリーマンは転勤するものである…ということが、NTの言葉の特徴を作っているのでしょうね。
じゃあ東京弁なのか?と言うと、やっぱり関西弁ではあるわけで、でも「薄い関西弁」。方言学では「全国共通語」と「方言」の間に「地方共通語」というものがある…と考えるようですが、まさに大阪弁を土台に関西一円、西日本一円の言葉を混ぜて、東京の影響を混ぜて、薄く共通化させたような「関西共通語」が「千里弁」と言えるかもしれません。
「関西弁!」と言うと、すぐコテコテのくど~い、熱~い言葉を期待する人が(特に東京に)いるので困ってしまいますが、千里弁はもっとハイブリッドなのです。最近は千里でなくても関西弁が薄くなってきているような気がしますが…関西全般が「千里化」してきたのかな?
(by okkun)
1966年当時の調査によれば、NT住民の前住地は9割が近畿6府県。トップは大阪(次いで、兵庫、京都、奈良…)。近畿以外で多いのは、東京、愛知、福岡、岡山の順。山形県を除く45都道府県(当時はまだ沖縄は統計に入っていません)からの転入があり、「全国出身地」の町だと書かれています。
いわば地方から大阪へ来た人たちの受け皿だったわけですが、実際には地方から千里へ直接来る前に、どこか大阪近辺の他の町に出てきて、生活が落ち着いてから家を探して千里に来た…人も多いはずですから、近畿以外出身者の比率は、この統計よりもっと高かったと思います。学校の友達のご両親の出身を聞いても、四国とか九州とか、すごく多かったような気がします。(特に西日本)
もう一つの要素は、東京(首都圏)との転勤族の行き来です。新大阪にも大阪空港にも近い千里は、東京にも近い町です。時間も速く行けるし、土俗性を感じないフラットな町の雰囲気は、転勤で大阪に来た人にも溶け込みやすかったんじゃないでしょうか。千里ニュータウンの大先輩である千里山住宅地も、関東大震災の直後に分譲され、東京から震災を逃れて関西に移り住んだ人が多く入ったため「東京弁の町」と言われたそうです。
高度成長期の都市への人口移動と、NTはサラリーマンの町であり、サラリーマンは転勤するものである…ということが、NTの言葉の特徴を作っているのでしょうね。
じゃあ東京弁なのか?と言うと、やっぱり関西弁ではあるわけで、でも「薄い関西弁」。方言学では「全国共通語」と「方言」の間に「地方共通語」というものがある…と考えるようですが、まさに大阪弁を土台に関西一円、西日本一円の言葉を混ぜて、東京の影響を混ぜて、薄く共通化させたような「関西共通語」が「千里弁」と言えるかもしれません。
「関西弁!」と言うと、すぐコテコテのくど~い、熱~い言葉を期待する人が(特に東京に)いるので困ってしまいますが、千里弁はもっとハイブリッドなのです。最近は千里でなくても関西弁が薄くなってきているような気がしますが…関西全般が「千里化」してきたのかな?
(by okkun)
2006/04/01のBlog
[ 02:44 ]
[ 暮らし ]
当時私は中学生でしたが、わが家であの騒動を一番克明に記憶していたのは、母でした。「忘れもしない、1973年の11月1日だった。」と母は言っていました。木曜日です。当時母は古江台のYWCAで英語を教えており、その曜日はクラスがあったこと、111というキリのいい日であったことではっきり月日を断言できたのだと思います。(前日の夕刊にトイレットペーパーを買いだめしている家の写真が出たことも、母は覚えていました。つい最近、当時の新聞を見ることが出来、10月31日の夕刊にたしかにその記事が出ていたことは確認しました。)その日母は昼間ずっとYWCAにいたのですが、仲間の奥さんから「大変よ、スーパーでトイレットペーパーがすっからかんよ」と昼頃に聞いたらしいのです。ところがまだクラスがあったため抜けるわけにもいかず…夕方ようやく解放されて北千里に行ったら紙製品の棚はすべてモヌケのカラ。出遅れた母は、かろうじてそれだけ残っていたリードペーパータオルを買ってとぼとぼ帰ってきた…という結末部分は僕の記憶です。
わが家ではその少し前にトイレットペーパーは買っていたので困りはしなかったのですが、当時、ペーパータオルはまだ売り出されたばかりで、それを使って調理をする…というモダンなライフスタイルを、まだわが家では採用していませんでした。いつまでも使わないままのペーパータオルが台所に残っていたことを覚えています。(他の紙製品が払底していたのに、ペーパータオルだけが残っていたことからも、まだ生活に定着していなかったことが伺えます。)トイレットペーパーの代わりに使うわけにもいかないし…。今はわが家もペーパータオルを使う生活に進化しましたが、リードペーパータオルを見るたび、1973年11月1日のトイレットペーパー騒動を思い出してしまいます。
その年の冬は石油も販売制限があって、暮れには今の医療ビルの場所にあったガソリンスタンドまで石油のポリタンクを持って買いに行かされました。近所のおじさんにも持っていただいて、坂道をエッチラオッチラ上ってきたものでした。
(by okkun)
わが家ではその少し前にトイレットペーパーは買っていたので困りはしなかったのですが、当時、ペーパータオルはまだ売り出されたばかりで、それを使って調理をする…というモダンなライフスタイルを、まだわが家では採用していませんでした。いつまでも使わないままのペーパータオルが台所に残っていたことを覚えています。(他の紙製品が払底していたのに、ペーパータオルだけが残っていたことからも、まだ生活に定着していなかったことが伺えます。)トイレットペーパーの代わりに使うわけにもいかないし…。今はわが家もペーパータオルを使う生活に進化しましたが、リードペーパータオルを見るたび、1973年11月1日のトイレットペーパー騒動を思い出してしまいます。
その年の冬は石油も販売制限があって、暮れには今の医療ビルの場所にあったガソリンスタンドまで石油のポリタンクを持って買いに行かされました。近所のおじさんにも持っていただいて、坂道をエッチラオッチラ上ってきたものでした。
(by okkun)
2006/03/30のBlog
[ 20:03 ]
[ 暮らし ]
今晩、NHK総合では、1973年に「千里NTから日本中に広がった」と言われている「トイレットペーパー買いだめ騒動」を取り上げた番組を放映します。この内容を私はまだ知りません。
この「騒動」は、千里NTの生活史を語るうえで欠かせない…と私は考えていましたが、「千里ニュータウン展」で取り上げる予定は、今のところありません。と言うのは、この騒動は「パニック」とも呼ばれており、千里住民のふるまいから日本全国にパニックが広がった…のかも…?という記憶は、あんまり栄誉じゃない記憶でもあるからで、どうも気分が乗らない市民も多くいるようだからです。
ただ、ニュータウン展より少し早いタイミングでNHKが番組にするのであれば、当時を覚えている地元住民の目から、きっちり記録しておくことも意義があるのではないか?と考えました。
当時私は中学生でしたが、この「騒動」は、本当に千里NTから全国に広がったのだろうか?記憶の裏づけと検証のため、私は、1973年11月1日前後各1ヵ月の朝日新聞大阪版の記事を調べてみました。
●その結果、10月後半から、京阪神全般の出来事として、「灯油暴騰」「紙不足・テストでけへん・広報どうしよう」などの記事が断続的に出ており、紙不足への不安はじりじり高まっていた…ことが伺えます。
●10.31の夕刊には写真入りの記事がありました。「大阪市内のスーパーのトイレットペーパー売り場。開店と同時に主婦たちの行列ができ…」と、すでに紙不足が起きていたことが書かれています。ただしそれは大阪市内。
●11.1の朝刊一面には「石油消費を10%以上削減・通産省が第一次試案・電力など供給量規制・マイカー高速道乗り入れ禁止・一般向け灯油は確保」という大きな記事があります。
●11.1の夕刊には特に記事はありませんが、明けて11.2(金)の朝刊には「千里タウンから消えたけど…トイレ紙不足本当なの?調べたら生産増・在庫もたっぷり」とあり、はっきり「千里」と出てきます。
●このあと数日間、「トイレ紙緊急輸送・買いだめやめて」「あすから18店で販売・京阪神緊急輸送のトイレ紙」「お待たせトイレ紙行列すぐ解消・のこり山なす」「トイレットペーパー・投機防止法の対象に」といった事態沈静の記事が矢継ぎ早に出て、一週間を過ぎると紙騒ぎの記事はなくなってしまいます。
緊急輸送の18店には、千里NTのスーパーも入っています。当時、他の重大記事は金大中拉致事件。やたらとマンションの広告が多く(しかも今と比べてもそんなに安くなく)地価狂乱が始まっていたようです。
これらの報道から考えるに
■10月中旬から、オイルショックに続く社会の不安感は十分醸成されていた。
■紙の品薄・買占めは、散発的には千里以外の京阪神全般で10月下旬から始まっていた。
■ただ、一番わっと「現象化」したのは、11.1、千里NTでだった。
■その騒ぎ(報道)は約一週間で沈静化した(少なくとも京阪神では)。…ようです。
●しかし「なぜ千里NTで一番現象化したか?」という謎は、やはり残ります。
◎これを「新しい町でコミュニティ力が弱かったから」と考える方もおられるようですが、騒動のさなかに暮らしていて、今度の博物館の活動で町の勉強もしてみると、私が考える大きな理由は、次の2つです。
1.千里NTでは、同じ世代の住民ばかりを集中的に入れた結果(メインの主婦は1973年当時30代中心)、口コミ情報が回りやすく、かつお母さんはまだ若くて行動力もあった。
つまりコミュニティ力はむしろ非常に強かったから、「奥さん、大変よ!」と話が広がったのではないか?それは多少軽率だったかもしれませんが、コミュニティを一所懸命作ろうとしていた住民感情、団結心の現れだったんじゃないか?しかも当時の子供は10歳前後が中心。NTに子供の数が一番多い時代でした。NTの人口がピークに達したのは1975年で、この騒動のわずか2年後でした。
2.カンチョーさんほかも指摘されていましたが、「千里NTは当時珍しい下水道100%完備の町だった」。
新聞紙じゃ代用が利かない。ないと一日でも困る。(特に団地では)詰まらせたら同じ棟の人にすごく迷惑。大変ダー、という心理になった…かもしれません。
社会史的に面白いのは、高度成長の申し子とも言える千里NTから、高度成長のつまづきを告げる事件が広がった…ということなのですが。
それにマイカーの普及率も今ほどではなかった時代、主婦にできたのはせいぜい「両手にいっぱい」買うぐらいだったと思います。
結論:千里住民の当時の行動は、なんら恥じることはない。条件が揃いすぎていたのです。さて、NHKがどんな検証をしてくれるのか?
(by okkun)
この「騒動」は、千里NTの生活史を語るうえで欠かせない…と私は考えていましたが、「千里ニュータウン展」で取り上げる予定は、今のところありません。と言うのは、この騒動は「パニック」とも呼ばれており、千里住民のふるまいから日本全国にパニックが広がった…のかも…?という記憶は、あんまり栄誉じゃない記憶でもあるからで、どうも気分が乗らない市民も多くいるようだからです。
ただ、ニュータウン展より少し早いタイミングでNHKが番組にするのであれば、当時を覚えている地元住民の目から、きっちり記録しておくことも意義があるのではないか?と考えました。
当時私は中学生でしたが、この「騒動」は、本当に千里NTから全国に広がったのだろうか?記憶の裏づけと検証のため、私は、1973年11月1日前後各1ヵ月の朝日新聞大阪版の記事を調べてみました。
●その結果、10月後半から、京阪神全般の出来事として、「灯油暴騰」「紙不足・テストでけへん・広報どうしよう」などの記事が断続的に出ており、紙不足への不安はじりじり高まっていた…ことが伺えます。
●10.31の夕刊には写真入りの記事がありました。「大阪市内のスーパーのトイレットペーパー売り場。開店と同時に主婦たちの行列ができ…」と、すでに紙不足が起きていたことが書かれています。ただしそれは大阪市内。
●11.1の朝刊一面には「石油消費を10%以上削減・通産省が第一次試案・電力など供給量規制・マイカー高速道乗り入れ禁止・一般向け灯油は確保」という大きな記事があります。
●11.1の夕刊には特に記事はありませんが、明けて11.2(金)の朝刊には「千里タウンから消えたけど…トイレ紙不足本当なの?調べたら生産増・在庫もたっぷり」とあり、はっきり「千里」と出てきます。
●このあと数日間、「トイレ紙緊急輸送・買いだめやめて」「あすから18店で販売・京阪神緊急輸送のトイレ紙」「お待たせトイレ紙行列すぐ解消・のこり山なす」「トイレットペーパー・投機防止法の対象に」といった事態沈静の記事が矢継ぎ早に出て、一週間を過ぎると紙騒ぎの記事はなくなってしまいます。
緊急輸送の18店には、千里NTのスーパーも入っています。当時、他の重大記事は金大中拉致事件。やたらとマンションの広告が多く(しかも今と比べてもそんなに安くなく)地価狂乱が始まっていたようです。
これらの報道から考えるに
■10月中旬から、オイルショックに続く社会の不安感は十分醸成されていた。
■紙の品薄・買占めは、散発的には千里以外の京阪神全般で10月下旬から始まっていた。
■ただ、一番わっと「現象化」したのは、11.1、千里NTでだった。
■その騒ぎ(報道)は約一週間で沈静化した(少なくとも京阪神では)。…ようです。
●しかし「なぜ千里NTで一番現象化したか?」という謎は、やはり残ります。
◎これを「新しい町でコミュニティ力が弱かったから」と考える方もおられるようですが、騒動のさなかに暮らしていて、今度の博物館の活動で町の勉強もしてみると、私が考える大きな理由は、次の2つです。
1.千里NTでは、同じ世代の住民ばかりを集中的に入れた結果(メインの主婦は1973年当時30代中心)、口コミ情報が回りやすく、かつお母さんはまだ若くて行動力もあった。
つまりコミュニティ力はむしろ非常に強かったから、「奥さん、大変よ!」と話が広がったのではないか?それは多少軽率だったかもしれませんが、コミュニティを一所懸命作ろうとしていた住民感情、団結心の現れだったんじゃないか?しかも当時の子供は10歳前後が中心。NTに子供の数が一番多い時代でした。NTの人口がピークに達したのは1975年で、この騒動のわずか2年後でした。
2.カンチョーさんほかも指摘されていましたが、「千里NTは当時珍しい下水道100%完備の町だった」。
新聞紙じゃ代用が利かない。ないと一日でも困る。(特に団地では)詰まらせたら同じ棟の人にすごく迷惑。大変ダー、という心理になった…かもしれません。
社会史的に面白いのは、高度成長の申し子とも言える千里NTから、高度成長のつまづきを告げる事件が広がった…ということなのですが。
それにマイカーの普及率も今ほどではなかった時代、主婦にできたのはせいぜい「両手にいっぱい」買うぐらいだったと思います。
結論:千里住民の当時の行動は、なんら恥じることはない。条件が揃いすぎていたのです。さて、NHKがどんな検証をしてくれるのか?
(by okkun)
2006/03/26のBlog
[ 23:53 ]
[ 私達の活動とプロフィール ]
昨日、今日と風邪を引いて寝込んでいる間に10000カウント突破。5000カウントを超えた時には3月21日のプレイベトまでには10000カウント突破と予想していたのですが、若干遅れてつい先程突破しました(私が開いたときには1001カウントでした)。
ということで、記念の記事を用意しているでもなく慌ててこの記事を書く始末。市民の手で企画・運営する特別展の手の内をお見せしたようで(それは私だけのことです。誤解のないように)。
『千里ニュータウン展』のオープンまで1ヶ月を切り、展示の関係者は具体的なイメージ作りに頭を悩ませています。それでもそろそろ具体的なレイアウトが決まろうとしています。近々このブログでもお知らせできるでしょう。
そして、よりたくさんの方に『千里ニュータウン展』を知っていただくために数日中に別のブログ(ブログdeバーチャル駅長)も立ち上がります。こちらは千里ニュータウンのど真ん中を突き切り、千里ニュータウンの生命線でもある阪急電鉄さんにご協力いただきました。記事はこちらのブログと重複することもありますが、是非ご覧ください。
ということで、記念の記事を用意しているでもなく慌ててこの記事を書く始末。市民の手で企画・運営する特別展の手の内をお見せしたようで(それは私だけのことです。誤解のないように)。
『千里ニュータウン展』のオープンまで1ヶ月を切り、展示の関係者は具体的なイメージ作りに頭を悩ませています。それでもそろそろ具体的なレイアウトが決まろうとしています。近々このブログでもお知らせできるでしょう。
そして、よりたくさんの方に『千里ニュータウン展』を知っていただくために数日中に別のブログ(ブログdeバーチャル駅長)も立ち上がります。こちらは千里ニュータウンのど真ん中を突き切り、千里ニュータウンの生命線でもある阪急電鉄さんにご協力いただきました。記事はこちらのブログと重複することもありますが、是非ご覧ください。
2006/03/25のBlog
[ 23:34 ]
[ わが町 ]
千里ニュータウンの新開発と共に輪作りの提案
良き友と語り伝え合う 都市と博物館
吹田市 豊中市の 発展を祈り 私の提言とします(片山浩子)
良き友と語り伝え合う 都市と博物館
吹田市 豊中市の 発展を祈り 私の提言とします(片山浩子)
詩
千里ニュータウンと共に
千里ニュータウンが開発されて 以来 住みつづけた 33年
やっと 10才になった長男を育てながら・・・
千里西丘小学校に転校してきた 1974年から
歩み現在に至る
人は出会い 別離 再会を繰り返しながら・・・
私の人生も大きく変化した 多くの出会いを 辿り
家族 友人の死と向き合った時の悲しみは格別の思いが残る
「残像」
過去 振り返ることは 我を振り返る時
しかし 前向きに 生きようと考える程
つらい日々になるのでは・・・
縦 横の接点は私にとって最大のテーマ生きる道
人の心 優しさ 正直な気持ち
時には自分に厳しい存在であること
そこには ミュージック 唄 光 ファッション 花
自然 愛 ロマンスは 心を癒す 心にやすらぎを
おぼえる場所のような気がする
これからも生きつづける為に
守らなければならない 「生と死」
千里ニュータウンと共に
千里ニュータウンが開発されて 以来 住みつづけた 33年
やっと 10才になった長男を育てながら・・・
千里西丘小学校に転校してきた 1974年から
歩み現在に至る
人は出会い 別離 再会を繰り返しながら・・・
私の人生も大きく変化した 多くの出会いを 辿り
家族 友人の死と向き合った時の悲しみは格別の思いが残る
「残像」
過去 振り返ることは 我を振り返る時
しかし 前向きに 生きようと考える程
つらい日々になるのでは・・・
縦 横の接点は私にとって最大のテーマ生きる道
人の心 優しさ 正直な気持ち
時には自分に厳しい存在であること
そこには ミュージック 唄 光 ファッション 花
自然 愛 ロマンスは 心を癒す 心にやすらぎを
おぼえる場所のような気がする
これからも生きつづける為に
守らなければならない 「生と死」
2006/03/23のBlog
[ 13:26 ]
[ イベント報告 ]
阪口善雄吹田市長のあいさつ
吹田市立博物館のこの場所で、このようなファッションショーが開かれるなんて私は夢にも思っていませんでした。
これまでは地味な博物館でございまして、「来る人は来て下さい」といった感じの博物館でございましたが、民族学博物館にいらした小山修三先生に(館長として)来ていただきまして、それから大きく様変わりをしてまいりました。
市民サポーターの方々もどんどんご参加いただきまして、博物館の枠内から外へ、地域へ、まち全体に出てくるといった社会全体の問題意識にアプローチするような取り組みがなされています。
今日のファッションショーも、「まさか・・ここであるのですか」といった感じでありました。
私は高校生から大学へ行くころでしたけれども、1960年代は猛烈の時代でした。
70年代は「猛烈からビューティフル」の時代。80年代はバブルの時代で崩壊への道を進んでいました。そのような30年の過去を振り返りながらこのファッションショー見させてもらいました。
このようにすばらしいイベントを行っていただきました実行委員会の皆様方に、特に感謝を申し上げます。これからもよろしくお願いいたします。今日はありがとうございました。
吹田市立博物館のこの場所で、このようなファッションショーが開かれるなんて私は夢にも思っていませんでした。
これまでは地味な博物館でございまして、「来る人は来て下さい」といった感じの博物館でございましたが、民族学博物館にいらした小山修三先生に(館長として)来ていただきまして、それから大きく様変わりをしてまいりました。
市民サポーターの方々もどんどんご参加いただきまして、博物館の枠内から外へ、地域へ、まち全体に出てくるといった社会全体の問題意識にアプローチするような取り組みがなされています。
今日のファッションショーも、「まさか・・ここであるのですか」といった感じでありました。
私は高校生から大学へ行くころでしたけれども、1960年代は猛烈の時代でした。
70年代は「猛烈からビューティフル」の時代。80年代はバブルの時代で崩壊への道を進んでいました。そのような30年の過去を振り返りながらこのファッションショー見させてもらいました。
このようにすばらしいイベントを行っていただきました実行委員会の皆様方に、特に感謝を申し上げます。これからもよろしくお願いいたします。今日はありがとうございました。
田原万智ことまッちィのインタビュー
司会)田原万智こと まッちィのプロフィールをご紹介します。
まッちィは今16歳。大阪府出身で趣味は野球観戦、音楽鑑賞、華道、茶道、ダンスも得意ということで今、モデルさんとして活躍なさっています。
司会)60年代のファッションショーに出てみた感想をお聞かせください。
・こんにちわ。田原万智です。屋外でのファッションショーは初めてなので、とても見晴らしがよくて、空気がよくて、歩いているときも風が来て涼しくて気持ちよくファッションショーができました。楽しかったです。(拍手)
司会)吹田には来たことがありますか。
・はい。友達とよく来ました。
司会)吹田は緑が多くて空気もきれいですのでどんどんと遊びに来て下さい。60年代は勿論まッちィはまだ生まれていませんし、ご両親もまだ結婚していない時代です。その時代のファッションを実際に見た感想は?
・60年代はむかしとは思えません。今、60年代のファッションが再び流行ってきているのでまッちィもカチューシャ(※)を付けたりしています。
司会)今、60年代のファッションがまた見直され、注目され、若い人がどんどん取り入れていますのでまッちィをはじめ若いヒトにもこの60年代のヨキ時代のファッションを取り入れて、広めていただきたいと思います。
まッちィはビートルズ、ベンチャーズ、プレスリーの音楽は知っていますか?
・ビートルズだけ知っています。
司会)まッちィの将来のこと、目指していることをお話いただけますか。
・まッちィは今、16歳になったばかりで、まだ長く芸能生活ができると思っていますので、最後まで生きれるような女優になっていきたいと思います。今、勉強しています。よろしくお願いします。
司会)これから素敵な女優さんを目指して頑張っていくということですね。今日、ここに来ていただいた皆さんはご縁ということでまッちィこと田原万智のお名前と顔をよーく覚えていただきまして、これからテレビで見かけたときには「あー、あのときのモデルさん」ということで田原万智さんを応援していただきたいと思います。今後の情報などはブログでご覧下さい。今日はありがとうございました。
【田原万智のブログ】
≪おじさんたちの語学教室≫
(※)カチューシャ
弧の形で、前方から両耳までの髪をおさえるヘア-バンドの一種。
布をかぶせたものやプラスチック製のものがある。
名称は、大正初期に松井須磨子が演じたトルストイの小説「復活」の女主人公に由来。 (広報・お)
司会)田原万智こと まッちィのプロフィールをご紹介します。
まッちィは今16歳。大阪府出身で趣味は野球観戦、音楽鑑賞、華道、茶道、ダンスも得意ということで今、モデルさんとして活躍なさっています。
司会)60年代のファッションショーに出てみた感想をお聞かせください。
・こんにちわ。田原万智です。屋外でのファッションショーは初めてなので、とても見晴らしがよくて、空気がよくて、歩いているときも風が来て涼しくて気持ちよくファッションショーができました。楽しかったです。(拍手)
司会)吹田には来たことがありますか。
・はい。友達とよく来ました。
司会)吹田は緑が多くて空気もきれいですのでどんどんと遊びに来て下さい。60年代は勿論まッちィはまだ生まれていませんし、ご両親もまだ結婚していない時代です。その時代のファッションを実際に見た感想は?
・60年代はむかしとは思えません。今、60年代のファッションが再び流行ってきているのでまッちィもカチューシャ(※)を付けたりしています。
司会)今、60年代のファッションがまた見直され、注目され、若い人がどんどん取り入れていますのでまッちィをはじめ若いヒトにもこの60年代のヨキ時代のファッションを取り入れて、広めていただきたいと思います。
まッちィはビートルズ、ベンチャーズ、プレスリーの音楽は知っていますか?
・ビートルズだけ知っています。
司会)まッちィの将来のこと、目指していることをお話いただけますか。
・まッちィは今、16歳になったばかりで、まだ長く芸能生活ができると思っていますので、最後まで生きれるような女優になっていきたいと思います。今、勉強しています。よろしくお願いします。
司会)これから素敵な女優さんを目指して頑張っていくということですね。今日、ここに来ていただいた皆さんはご縁ということでまッちィこと田原万智のお名前と顔をよーく覚えていただきまして、これからテレビで見かけたときには「あー、あのときのモデルさん」ということで田原万智さんを応援していただきたいと思います。今後の情報などはブログでご覧下さい。今日はありがとうございました。
【田原万智のブログ】
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(※)カチューシャ
弧の形で、前方から両耳までの髪をおさえるヘア-バンドの一種。
布をかぶせたものやプラスチック製のものがある。
名称は、大正初期に松井須磨子が演じたトルストイの小説「復活」の女主人公に由来。 (広報・お)
[ 01:46 ]
[ バスオール ]
バスオールを使った当時の生活雑貨を探して、お問合せしていたライオン株式会社さんから、うれしいお返事が・・・[関連したBlog]
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残っているかどうかを探していて、お返事が遅くなりました。液体のものは残っていないのですが、エメロン粉シャンプーは残っていました。タバコライオンも残っていましたので、貸し出しできますよ。
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残っているかどうかを探していて、お返事が遅くなりました。液体のものは残っていないのですが、エメロン粉シャンプーは残っていました。タバコライオンも残っていましたので、貸し出しできますよ。
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