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2007/02/27のBlog
[ 23:53 ]
[ 居酒屋たんぽぽ ]
今年2回目の「居酒屋たんぽぽ」
①4月4日(水)~10(火)午前10時~午後8時
松坂屋高槻店(4階サロンカトレア特設会場)で
「程一彦のおいしい世界展」があります。
②(社)CISV日本協会関西支部では
カナダ(トロント)7月6日~8月2日、
ドイツ(ダームシュタット)7月13日~8月9日
のサマーキャンプ参加者:11歳ビレッジ男児2名、女児4名、引率リーダー男1名、女2名の募集をしてます。引率リーダーは派遣時21歳以上です。
http://www12.ocn.ne.jp/~cisv/newnews.htm
③浜屋敷では
★3月3日(土)午前11時~午後3時
「みんなで楽しいひなまつり」をします。参加無料。申込み不要。
★3月4日(日)午後1時半~4時
「クラシックCDコンサート」をします。参加500円。申込み06-4860-9731
★3月8日(木)午後6時半~8時
「縄文の翡翠と琥珀の物語」講師:馬宇志彩奈(バウシ・イローナ)さん
参加500円。申込み06-4860-9731
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckbni208/ibento.htm
④すいた市民環境会議は「吹田操車場跡地について」提言しました。
ナショナル・トラスト方式で市民が土地を購入して森にしましょう。
http://www3.big.or.jp/~sskk/suisoato.htm
⑤浜屋敷の新機軸「吹田まち案内人」の催しがあり、本日、旧吹田村を歩いた様子(DVD)をきょうちゃんが上映してくださいました。西尾邸では館長の三浦さんがじきじきパネルの説明をなさっていました。
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckbni208/poster81.html
その他現在の医療、介護の背景・・・見えにくいところを語り合いました。
PS
3月8日の浜屋敷「縄文の翡翠と琥珀の物語」ではカンチョー乱入が期待されています。
おーぼら
①4月4日(水)~10(火)午前10時~午後8時
松坂屋高槻店(4階サロンカトレア特設会場)で
「程一彦のおいしい世界展」があります。
②(社)CISV日本協会関西支部では
カナダ(トロント)7月6日~8月2日、
ドイツ(ダームシュタット)7月13日~8月9日
のサマーキャンプ参加者:11歳ビレッジ男児2名、女児4名、引率リーダー男1名、女2名の募集をしてます。引率リーダーは派遣時21歳以上です。
http://www12.ocn.ne.jp/~cisv/newnews.htm
③浜屋敷では
★3月3日(土)午前11時~午後3時
「みんなで楽しいひなまつり」をします。参加無料。申込み不要。
★3月4日(日)午後1時半~4時
「クラシックCDコンサート」をします。参加500円。申込み06-4860-9731
★3月8日(木)午後6時半~8時
「縄文の翡翠と琥珀の物語」講師:馬宇志彩奈(バウシ・イローナ)さん
参加500円。申込み06-4860-9731
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckbni208/ibento.htm
④すいた市民環境会議は「吹田操車場跡地について」提言しました。
ナショナル・トラスト方式で市民が土地を購入して森にしましょう。
http://www3.big.or.jp/~sskk/suisoato.htm
⑤浜屋敷の新機軸「吹田まち案内人」の催しがあり、本日、旧吹田村を歩いた様子(DVD)をきょうちゃんが上映してくださいました。西尾邸では館長の三浦さんがじきじきパネルの説明をなさっていました。
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckbni208/poster81.html
その他現在の医療、介護の背景・・・見えにくいところを語り合いました。
PS
3月8日の浜屋敷「縄文の翡翠と琥珀の物語」ではカンチョー乱入が期待されています。
おーぼら
2007/02/26のBlog
[ 13:45 ]
[ 館長ノート ]
3万人の跫音で、お約束していた賞品を、飛騨高山でみつくろってきました。
●1.ズバリあたったde賞
「角正」という由緒ある料理屋さんの一位(イチイ)製の雷除箸
この箸は、「角正」で食べないと、もらえないお箸です。箸だけを買うことはできないのですが、ぼくちゃんがおかみに頼み込んで、特別にもらってきました。イチイの木の箸で食べると、雷よけ、そして健康によいという言い伝えがあるそうです。
(こぼらのつぶやき…カンチョーは「ぼくちゃんのルックスがいいからもらえた」と主張していますが、どうなんだか?)
●2.副賞
高山名菓げんこつあめ
どしどしコメントに書き込んで、ご応募ください!!
※3万人達成日の予想があたった方は、このブログで発表しますので、ご自分で直接、吹田市立博物館まで受け取りにお越しください。
※正解者多数の場合は…早い者勝ちにしよっかな?「げんこつあめ」をわけっこしてもらおっかな?
(カンチョー+こぼら、okkun)
●1.ズバリあたったde賞
「角正」という由緒ある料理屋さんの一位(イチイ)製の雷除箸
この箸は、「角正」で食べないと、もらえないお箸です。箸だけを買うことはできないのですが、ぼくちゃんがおかみに頼み込んで、特別にもらってきました。イチイの木の箸で食べると、雷よけ、そして健康によいという言い伝えがあるそうです。
(こぼらのつぶやき…カンチョーは「ぼくちゃんのルックスがいいからもらえた」と主張していますが、どうなんだか?)
●2.副賞
高山名菓げんこつあめ
どしどしコメントに書き込んで、ご応募ください!!
※3万人達成日の予想があたった方は、このブログで発表しますので、ご自分で直接、吹田市立博物館まで受け取りにお越しください。
※正解者多数の場合は…早い者勝ちにしよっかな?「げんこつあめ」をわけっこしてもらおっかな?
(カンチョー+こぼら、okkun)
[ 11:57 ]
[ 館長ノート ]
春の特展についてはこれまでゾウやワニのことばかり書いてましたが、けっしてゾウばかりではありません。他のこともやります。
金関恕先生に講演をお願いするために弥生時代研究の総本山、大阪府立弥生文化博物館へ、タカハシ君といってきました。
先生は最近、タミル語の大野晋さんと共著で『考古学・人類学・言語学との対話-日本語はどこから来たのか』というたいへん刺激的な本を出版されています。(写真右上)
弥生時代になって、水田稲作という強力な生産技術が大陸から導入され、日本各地に急速に広がります。コメは熱帯性の植物ですが、モンスーン帯にある温帯(とくに西日本)性気候にも適した作物だったようです。その結果、それ以前にはほとんど使われることのなかった湿地が水田として利用されるようになりました。取水、排水のための水路で画された水田という生産装置のちかくにヒトが集まり、定住的な村をつくります。背後の常緑の森(山)は、肥料、燃料、有用植物を利用するためにきられて、コナラやマツの二次林にかわりました。弥生時代から、人の手がよく入った風景、今の私たちの心に残るウサギおいしかの山的景観が作られ始めたのです。
金関恕先生に講演をお願いするために弥生時代研究の総本山、大阪府立弥生文化博物館へ、タカハシ君といってきました。
先生は最近、タミル語の大野晋さんと共著で『考古学・人類学・言語学との対話-日本語はどこから来たのか』というたいへん刺激的な本を出版されています。(写真右上)
弥生時代になって、水田稲作という強力な生産技術が大陸から導入され、日本各地に急速に広がります。コメは熱帯性の植物ですが、モンスーン帯にある温帯(とくに西日本)性気候にも適した作物だったようです。その結果、それ以前にはほとんど使われることのなかった湿地が水田として利用されるようになりました。取水、排水のための水路で画された水田という生産装置のちかくにヒトが集まり、定住的な村をつくります。背後の常緑の森(山)は、肥料、燃料、有用植物を利用するためにきられて、コナラやマツの二次林にかわりました。弥生時代から、人の手がよく入った風景、今の私たちの心に残るウサギおいしかの山的景観が作られ始めたのです。
村が集まって小さなクニになり、離合集散をくり返しながら統一されて、大陸と外交関係を持つ国にそだっていきました。3世紀末の日本について、魏志倭人伝は、女王が鬼道をつかって、民を惑わし、国を治めていたと書かれています。また、彼女が死んだ後、男の王を立てたら、国が乱れたので、再び女の王を立てたらようやく治まったとあります。
鬼道とは、霊や魂と交流できるシャーマンのようなものでしょう。また、女じゃなければ国が治まらなかったのもおもしろい。超自然的な力、女性による統治、コミュニケーションはどんな言葉をつかったか、女王の服装やおしゃれにいたるまで金関先生との話は尽きることがありませんでした。
ヤマタイ国は九州にあったのか、近畿なのか。
もし近畿なら、吹田はヤマタイ国のどこにあったのでしょうと聞いたら、そんな事を講演のあとのトークでみなさんとお話できると楽しいでしょうねと先生はおっしゃいました。4月22日(日)の講演会「鬼道につかえた卑弥呼」が楽しみです。
(カンチョー)
写真下は、弥生文化博物館が復原した卑弥呼
(平成10年特別展「卑弥呼の宝石箱-ちょっとオシャレな弥生人-」
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data3.htmlより)
鬼道とは、霊や魂と交流できるシャーマンのようなものでしょう。また、女じゃなければ国が治まらなかったのもおもしろい。超自然的な力、女性による統治、コミュニケーションはどんな言葉をつかったか、女王の服装やおしゃれにいたるまで金関先生との話は尽きることがありませんでした。
ヤマタイ国は九州にあったのか、近畿なのか。
もし近畿なら、吹田はヤマタイ国のどこにあったのでしょうと聞いたら、そんな事を講演のあとのトークでみなさんとお話できると楽しいでしょうねと先生はおっしゃいました。4月22日(日)の講演会「鬼道につかえた卑弥呼」が楽しみです。
(カンチョー)
写真下は、弥生文化博物館が復原した卑弥呼
(平成10年特別展「卑弥呼の宝石箱-ちょっとオシャレな弥生人-」
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data3.htmlより)
2007/02/21のBlog
[ 22:28 ]
[ 館長ノート ]
本日で28,000+のアクセス。「千里NTが・・・」のブログが3万を超えたときokkunが、ブログを入場者にカウントすべきだ、そうすると5万人。と興奮していたのを思い出します。このブログは最近は200を超える日も珍しくなくなりました。とくに、「わたしと万博」が好評のようで、取材をしていて、万博の話をしはじめると、止まらなくなる人が多い。万博はそれほどのインパクトがあったのですね。これから、もっともっとおもしろい話が集まるだろうと思います。秋の展覧会では5万の入館者も夢ではないと思うようになりました。
●そこでクイズ・・・、3万突破は○月○日でしょう?(賞品だしてもいいけど)
カンチョー
●そこでクイズ・・・、3万突破は○月○日でしょう?(賞品だしてもいいけど)
カンチョー
[ 19:10 ]
[ 館長ノート ]
1.5万年前頃の氷河期のピークのあと、地球はどんどん温暖化しました。その結果、海面がもりあがって、内陸に押し入ってきました。今わたしたちが、地球温暖化についておびえているような現象が、現実に起こったのです。その結果、日本列島はやせ細り、北で樺太とつながっていた陸橋も消えて大陸から隔絶されてしまいました。
縄文時代は1.3万年前ころ土器が発明されて始まりました。大型動物がいなくなったので(シカ、イノシシなどの中型獣はのこりましたが)、主食を肉から植物へと変えなければならなかった。
温暖化のため、森は東日本では針葉樹林から落葉樹林へとかわり、もっと暖かかった西日本では照葉樹林になりました。さいわい、ここでは食料となる植物の種類が多く、育ちやすかった(とくに落葉樹林で)。植物の毒やアクをとりのぞき、デンプンをアルファ化して、消化しやすくするには、土器で煮沸することが効果的だったのです。そして、量がおおい植物食が開発されたことによって、人口が増加していったのです。
・・・ということで縄文人は温暖化に困ることはなかった。
縄文時代は1.3万年前ころ土器が発明されて始まりました。大型動物がいなくなったので(シカ、イノシシなどの中型獣はのこりましたが)、主食を肉から植物へと変えなければならなかった。
温暖化のため、森は東日本では針葉樹林から落葉樹林へとかわり、もっと暖かかった西日本では照葉樹林になりました。さいわい、ここでは食料となる植物の種類が多く、育ちやすかった(とくに落葉樹林で)。植物の毒やアクをとりのぞき、デンプンをアルファ化して、消化しやすくするには、土器で煮沸することが効果的だったのです。そして、量がおおい植物食が開発されたことによって、人口が増加していったのです。
・・・ということで縄文人は温暖化に困ることはなかった。
気候の温暖化によって吹田付近の景色はどのように変わったのでしょう。寒い頃、川がながれ湖沼と草原が広がって、ナウマンゾウやオオツノジカが歩き回っていた瀬戸内海は海になってしまいました。森は現在とあまり変わらなかったようです。海岸は五反島遺跡の付近まで押し寄せてきていました。そこで縄文人は、貝、魚、海獣、海藻などの海資源を積極的に開発したのです。タンパク源は、前の時代より楽に手に入れられるようになったでしょう。
絵(右):画・秋元宏さん「約5000年前の吹田」
絵(右):画・秋元宏さん「約5000年前の吹田」
吹田市で、現在発見されている縄文時代の遺跡は13ケ所、千里丘陵の東麓から平野部にかけて分布しており、縄文時代のほぼ全期間にわたって、人が住んでいたようです。
吹田市では本格的な縄文時代の発掘が行われていないので、集落の遺構やまとまった遺物は発見されていません。だから、どのように村をつくり、家を建て、ものを貯蔵し、死者を埋葬し、儀式を行っていたかは、ほとんどわかっていません。
しかし、道具類を見ると、矢先につける石の鏃、槍先につかった先頭器、動物の皮を剥いだり、肉をきったスクレイパーなどが出ていることから、狩猟を行っていたことは確実です。また、人工遺物は見つかっていないのですが、五反島遺跡からは、砂浜でとれるハマグリ、マガキ、オオノガイ、やや深いところにいるアカニシなどの貝類(写真下)やウシサワラなど魚の骨が見つかっているので、漁労もやっていたことがわかります。気候の温暖化がピークに達した7000~6000年前に海面が上昇して、今の大阪市の平野部は浅い湾(古河内湾と呼ばれている)になっていたので、海資源の開発が始められたのでしょう。
近隣遺跡のありかたを参考にすると、西日本の遺跡は東日本と比べて、規模が小さく、遺物も少ないことがわかります。東日本の縄文社会が定住的でしっかりしたムラをつくったのに対し、よく移動する生活が長く続いたようです。
しかし、縄文時代が終わりに近づくにつれて、遺跡数は増えていき、本格的な稲作が導入された弥生時代以降は、人口がぐんぐん増え、日本の中核となる地域に育っていくのです。
(カンチョー)
吹田市では本格的な縄文時代の発掘が行われていないので、集落の遺構やまとまった遺物は発見されていません。だから、どのように村をつくり、家を建て、ものを貯蔵し、死者を埋葬し、儀式を行っていたかは、ほとんどわかっていません。
しかし、道具類を見ると、矢先につける石の鏃、槍先につかった先頭器、動物の皮を剥いだり、肉をきったスクレイパーなどが出ていることから、狩猟を行っていたことは確実です。また、人工遺物は見つかっていないのですが、五反島遺跡からは、砂浜でとれるハマグリ、マガキ、オオノガイ、やや深いところにいるアカニシなどの貝類(写真下)やウシサワラなど魚の骨が見つかっているので、漁労もやっていたことがわかります。気候の温暖化がピークに達した7000~6000年前に海面が上昇して、今の大阪市の平野部は浅い湾(古河内湾と呼ばれている)になっていたので、海資源の開発が始められたのでしょう。
近隣遺跡のありかたを参考にすると、西日本の遺跡は東日本と比べて、規模が小さく、遺物も少ないことがわかります。東日本の縄文社会が定住的でしっかりしたムラをつくったのに対し、よく移動する生活が長く続いたようです。
しかし、縄文時代が終わりに近づくにつれて、遺跡数は増えていき、本格的な稲作が導入された弥生時代以降は、人口がぐんぐん増え、日本の中核となる地域に育っていくのです。
(カンチョー)
2007/02/19のBlog
[ 22:48 ]
[ 館長ノート ]
吹田の酒づくり
摂津の国は江戸時代、酒の生産地として全国に名をはせていた。吹田は池田、伊丹、灘などとともに有力産地としてあげられており、寛文12年(1672)には525石、元禄からは900石を生産、江戸にも送っていた。吹田の酒づくりは明治以降もけっこうさかんで、(博物館にちかい)岸部や山田でも戦後まで記録がある。しかし、今、作り酒屋は隣接の茨木や高槻にはあるが吹田にはない(ビールはあるけど)。
山田錦とキナイオマチ
吹田の特長は酒米の生産地でもあることだ。北摂は江戸時代から良質の酒米供給地だった。それは谷あいで、昼夜の温度差が大きく、夏でも朝晩は涼しく、水が豊富で、水はけがよく粘質のある土壌で保水もよいという自然条件に恵まれていたからである。
酒米は現在、ヤマダニシキ全盛である。これは、昭和11年、明石農場試験所でつくられ登録されたものだが、これほどの銘柄になると、その由来について伝説めいた話がまつわってくる。
(その1)明治初年吉川町の田中新三郎が伊勢参りの途中、草丈が高く、穂の大きな稲を見つけて持ち帰り、酒米につくった。伊勢山田の地名にちなんで「山田穂」。
(その2)おなじころ、兵庫県多可郡中町の山田勢三郎が自田のなかから、とりだした。だから山田穂。
(その3)藍那(神戸市)の東田勘兵衛が茨木市雌垣の稲から試作。第3回内国博で日本一の称号を得る。山田村藍那の名をとって山田穂。
(その4)山田錦は『雄町系山田穂』ともいわれるが、これは三島雄町のことである。
最後の二つの話は、わが吹田にちかしいではないか。
キナイオマチは1960年ころから、子孫筋のヤマダニシキに追い落とされた状態にあるが、最近また復活のきざしもある。茨木の中尾酒造で「見山」という銘柄、寒仕込みでなので、3月には手にいるという。
*********************
摂津の国は江戸時代、酒の生産地として全国に名をはせていた。吹田は池田、伊丹、灘などとともに有力産地としてあげられており、寛文12年(1672)には525石、元禄からは900石を生産、江戸にも送っていた。吹田の酒づくりは明治以降もけっこうさかんで、(博物館にちかい)岸部や山田でも戦後まで記録がある。しかし、今、作り酒屋は隣接の茨木や高槻にはあるが吹田にはない(ビールはあるけど)。
山田錦とキナイオマチ
吹田の特長は酒米の生産地でもあることだ。北摂は江戸時代から良質の酒米供給地だった。それは谷あいで、昼夜の温度差が大きく、夏でも朝晩は涼しく、水が豊富で、水はけがよく粘質のある土壌で保水もよいという自然条件に恵まれていたからである。
酒米は現在、ヤマダニシキ全盛である。これは、昭和11年、明石農場試験所でつくられ登録されたものだが、これほどの銘柄になると、その由来について伝説めいた話がまつわってくる。
(その1)明治初年吉川町の田中新三郎が伊勢参りの途中、草丈が高く、穂の大きな稲を見つけて持ち帰り、酒米につくった。伊勢山田の地名にちなんで「山田穂」。
(その2)おなじころ、兵庫県多可郡中町の山田勢三郎が自田のなかから、とりだした。だから山田穂。
(その3)藍那(神戸市)の東田勘兵衛が茨木市雌垣の稲から試作。第3回内国博で日本一の称号を得る。山田村藍那の名をとって山田穂。
(その4)山田錦は『雄町系山田穂』ともいわれるが、これは三島雄町のことである。
最後の二つの話は、わが吹田にちかしいではないか。
キナイオマチは1960年ころから、子孫筋のヤマダニシキに追い落とされた状態にあるが、最近また復活のきざしもある。茨木の中尾酒造で「見山」という銘柄、寒仕込みでなので、3月には手にいるという。
*********************
2007/02/18のBlog
[ 23:38 ]
[ 館長ノート ]
私は通りがかっただけだったので、
講演内容はどなたかがお知らせくださるのを待っています。
おーぼら
レジュメ「博物館はどうあるべきか」
小山修三
1.イントロダクション
日本の博物館:いまそこにある危機(グラフ 写真上)
博物館の起源:
A.宝物倉-戦利品の展示、王宮の宝、
B.知の集積:アレキサンドリア博物館
2.博物館2つのタイプ :「お上」と「市民」という視座から
A.お上の博物館として東京国立博物館:
その歩み(年表 参照 東博HPより)
1)岩倉使節団(明治4~6):文明開化、富国強兵
○サンフランシスコ、開化のために最も効果的な手段
2)万国博(明治6 ウィーン万国博覧会)
○日本の国威:何が売り物か=文化。
オリエンタリズム、ジャポニズム、庭園
6000件-御物、古器旧物、剥製(自然史)など
その後の内国博覧会:
①明5 ②明14 ガス灯 ③明22 電車 ④明28 ⑤明36 大阪
3)博物館の設立と運営:ワグネルと佐野常民の提案(明治8)図書館(浅草文庫)
○上野に定まる
○博物館のフレームができる(明治20年代、休日など):集収品の利用と置き場
○京博、奈良博:正倉院(明治21)
4)東京帝室博物館(明治33)となる
○御物、美術が主となる、明治44年 自然史を分離:科博
5)破壊と更新:関東大震災
○基本的見直しと整備、刊行物の活発化(陳列案内、目録、図録、講演会、研究報告
資料集などの出版
6) 第二次大戦と復興
○外国ものの流行(モナリザ)
7)独立法人化ーオヤカタヒノマルからの脱却
○大英博、NYメトの盛況
○さまざまの経営努力
意欲的な企画展、正月オープン、企画展、ミュージアムショップ
講演内容はどなたかがお知らせくださるのを待っています。
おーぼら
レジュメ「博物館はどうあるべきか」
小山修三
1.イントロダクション
日本の博物館:いまそこにある危機(グラフ 写真上)
博物館の起源:
A.宝物倉-戦利品の展示、王宮の宝、
B.知の集積:アレキサンドリア博物館
2.博物館2つのタイプ :「お上」と「市民」という視座から
A.お上の博物館として東京国立博物館:
その歩み(年表 参照 東博HPより)
1)岩倉使節団(明治4~6):文明開化、富国強兵
○サンフランシスコ、開化のために最も効果的な手段
2)万国博(明治6 ウィーン万国博覧会)
○日本の国威:何が売り物か=文化。
オリエンタリズム、ジャポニズム、庭園
6000件-御物、古器旧物、剥製(自然史)など
その後の内国博覧会:
①明5 ②明14 ガス灯 ③明22 電車 ④明28 ⑤明36 大阪
3)博物館の設立と運営:ワグネルと佐野常民の提案(明治8)図書館(浅草文庫)
○上野に定まる
○博物館のフレームができる(明治20年代、休日など):集収品の利用と置き場
○京博、奈良博:正倉院(明治21)
4)東京帝室博物館(明治33)となる
○御物、美術が主となる、明治44年 自然史を分離:科博
5)破壊と更新:関東大震災
○基本的見直しと整備、刊行物の活発化(陳列案内、目録、図録、講演会、研究報告
資料集などの出版
6) 第二次大戦と復興
○外国ものの流行(モナリザ)
7)独立法人化ーオヤカタヒノマルからの脱却
○大英博、NYメトの盛況
○さまざまの経営努力
意欲的な企画展、正月オープン、企画展、ミュージアムショップ
B.市民の博物館ー植民地の博物館
1).ベリマ(オーストラリア、NSW)
人口879、1831にできた。農牧業地帯、鉄道、牢獄、
小さな観光地とヘリテイジ・グループ:町ぐるみ博物館
町の歴史、自然、資源(産業)、図書館
納屋~トレーラーハウス~古い郵便局の改造
1).ベリマ(オーストラリア、NSW)
人口879、1831にできた。農牧業地帯、鉄道、牢獄、
小さな観光地とヘリテイジ・グループ:町ぐるみ博物館
町の歴史、自然、資源(産業)、図書館
納屋~トレーラーハウス~古い郵便局の改造
2)シュスワップ博物館(カナダ、BC)
先住民の博物館:コミセン的活用
遺跡-パウワウの祭、旧孤児院
写真
上から3枚目:シュスワップ博物館(1994)
下:パウワウの祭にあつまった人びと(1995)
撮影 どちらも小山修三
先住民の博物館:コミセン的活用
遺跡-パウワウの祭、旧孤児院
写真
上から3枚目:シュスワップ博物館(1994)
下:パウワウの祭にあつまった人びと(1995)
撮影 どちらも小山修三
3.地域における博物館の役割:どうすれば市民が楽しめるか
博物館の品格
ボランティアの時代(予算の逼迫)
お上から市民へ (学芸員の意識改革、宝物庫の番人は要らない)
千里ニュータウン展市民委員会(市民の意識変化)
展示vsイベント(講座)の吸引力:魅力的な展示とは?
PR(パブリック・レレイション)の重要性:ポスター・チラシ・図録vsHP・ブログ・オン・デマンド出版
4.もっと市民の声を
初夢はくぶつかんのコメントから学んだこと
博物館の品格
ボランティアの時代(予算の逼迫)
お上から市民へ (学芸員の意識改革、宝物庫の番人は要らない)
千里ニュータウン展市民委員会(市民の意識変化)
展示vsイベント(講座)の吸引力:魅力的な展示とは?
PR(パブリック・レレイション)の重要性:ポスター・チラシ・図録vsHP・ブログ・オン・デマンド出版
4.もっと市民の声を
初夢はくぶつかんのコメントから学んだこと
2007/02/17のBlog
[ 10:49 ]
[ 館長ノート ]
「人はく(兵庫県立人と自然の博物館)」の三枝春生さんに講演依頼とうちあわせに行ってきました。日本にはどんな大型獣がいて、なぜ絶滅したのかを古生物学の立場からきっちりと説明してもらいたかったからです。
前にも書きましたが、わたしたち考古学者は二万数千年前までいたというナウマンゾウは、縄文人の祖先が食い尽くしたのではないかという疑問を持っているのですが、三枝さんは、そんな新しいところ?、わたしは(ゾウでも)系統的発生が専門なのですという。話を調整するため、恐竜発掘で大変いそがしいなかを無理にお願いして、タカハシ君とあわてて出かけていきました。
前にも書きましたが、わたしたち考古学者は二万数千年前までいたというナウマンゾウは、縄文人の祖先が食い尽くしたのではないかという疑問を持っているのですが、三枝さんは、そんな新しいところ?、わたしは(ゾウでも)系統的発生が専門なのですという。話を調整するため、恐竜発掘で大変いそがしいなかを無理にお願いして、タカハシ君とあわてて出かけていきました。
吹田からはゾウの骨が出るんです。
「アケボノゾウとはシガゾウとかいわれてますが。ゾウは何系統か大陸からきたようです」
「マンモスも北海道あたりでうろついていたかもしれませんね」
「サー、はっきりした化石がないとね(学者はキビしい)」
前の「景観展」では歯、牙、その根元の骨などをかざったのですが、観客から左右どっちの歯や?この骨はどの部分?、大きさは?アケボノゾウ、ナウマンゾウはどう違う?などきびしい質問がいっぱい出た。
こんどはそのあたりを明確にした展示をしたいと思っていますと言ったら、
「実際の骨を見るのが大切です。うちの博物館の顎骨をもっていきましょうか」
「子どもが喜ぶでしょうねー」
「アケボノゾウとはシガゾウとかいわれてますが。ゾウは何系統か大陸からきたようです」
「マンモスも北海道あたりでうろついていたかもしれませんね」
「サー、はっきりした化石がないとね(学者はキビしい)」
前の「景観展」では歯、牙、その根元の骨などをかざったのですが、観客から左右どっちの歯や?この骨はどの部分?、大きさは?アケボノゾウ、ナウマンゾウはどう違う?などきびしい質問がいっぱい出た。
こんどはそのあたりを明確にした展示をしたいと思っていますと言ったら、
「実際の骨を見るのが大切です。うちの博物館の顎骨をもっていきましょうか」
「子どもが喜ぶでしょうねー」
話はどうしてもキョウリュウのことになる。
「恐竜は何処に?」
「山南市の川沿の丹波層群のなか、時代は、1億4000年前(100万年などすぐズレますねー)
「吹田にそんな層があるのかなー、箕面の山からアンモナイト化石が出ていると聞いたことがあるけど、ほぼ同じ年代でしょうかねー(100万年単位で考えればね)」
「恐竜の発掘現場はみられますか」
「学術調査だし、危険だし、入れてません」
「恐竜の化石もってこられませんか(と性懲りもなく聞く)」
「そりゃムリです(あたりまえか)」
しかし、「恐竜は町おこしにもつながるので山南市の市長が熱心です。一段落したら、夏休みにでも、山南市でキョウリュウを見つけようという企画をしてツアーを組めばいかが?」
「市のトップ同士の話し合いになるでしょうね」
「よろこんで案内しますよ」
「恐竜は何処に?」
「山南市の川沿の丹波層群のなか、時代は、1億4000年前(100万年などすぐズレますねー)
「吹田にそんな層があるのかなー、箕面の山からアンモナイト化石が出ていると聞いたことがあるけど、ほぼ同じ年代でしょうかねー(100万年単位で考えればね)」
「恐竜の発掘現場はみられますか」
「学術調査だし、危険だし、入れてません」
「恐竜の化石もってこられませんか(と性懲りもなく聞く)」
「そりゃムリです(あたりまえか)」
しかし、「恐竜は町おこしにもつながるので山南市の市長が熱心です。一段落したら、夏休みにでも、山南市でキョウリュウを見つけようという企画をしてツアーを組めばいかが?」
「市のトップ同士の話し合いになるでしょうね」
「よろこんで案内しますよ」
ひとはくの前館長だった河合(雅雄)先生に「うちは研究会議をやめて、経営戦略会議にした。今からの博物館はそうやらなやってけん」ときいたことがある。さすがにその薫陶を受けて、柔らかな発想をするなーと感心した。
というわけで、
三枝さんの講演は4月29日(日)『近畿にいた絶滅動物たち』
ということになりました。
(カンチョー)
写真
上:2月15日より恐竜化石を含有する泥岩層の発掘が始まった
ひとはくHP「恐竜化石発掘最新情報」より
http://hitohaku.jp/top/kaseki_news.html
中:試掘をする三枝研究員
ひとはくHP「丹波地域で発見された恐竜化石について」より
http://hitohaku.jp/top/news.html
下:三枝春生氏
というわけで、
三枝さんの講演は4月29日(日)『近畿にいた絶滅動物たち』
ということになりました。
(カンチョー)
写真
上:2月15日より恐竜化石を含有する泥岩層の発掘が始まった
ひとはくHP「恐竜化石発掘最新情報」より
http://hitohaku.jp/top/kaseki_news.html
中:試掘をする三枝研究員
ひとはくHP「丹波地域で発見された恐竜化石について」より
http://hitohaku.jp/top/news.html
下:三枝春生氏
2007/02/16のBlog
[ 12:35 ]
[ 07EXPO70・わたしと万博 ]
私がお医者さんの学校を卒業した数日後から万博がはじまりました。
卒業後の外科研修を受けている9月のある日、先輩から「○○くん、ボク、都合が悪くなったから9日に万博の救護室の応援に行ってくれ」と言われ、チョチョマイました。
(余談ですが、「ちょちょまう」という単語も「なつかしい」と感じる「ぬかる民」も多いことでしょう)
先輩は「救護室には内科と外科があって、わからんかったら内科の先輩に相談したらエエがな」と気休めを言ってくれました。しかし、
なんぼ医師免許はあるといっても、単独で患者さんを診るなんて、大それたことはしたことがなかったし、縫合なんてやったこともない。
手術に立ち会っても先輩が縫った糸を結ぶだけ。
それも「アホッ! 風呂敷結んでるのとチャウぞッ! ナンヤその結び方は!! ボケ・カスッ!!」と罵声と言うか、激励を浴びながら結んだことがあるだけ。
(犬のおなかの縫合はしたことある・・・でも人間が来たら・・・あーコワ)など、
どんどんヘンな方向に行くイメージトレーニングで眠れない一夜を過ごしました。
その日、9月9日(・・・今は「救急の日」ってことになってますが・・・)
ほんとは午後の担当でしたが開門前に行きました。当然タダで好きなパビリオンに行くために・・・
ところが、どっこい。新学期が始まっていて、子どもの入場は少なくなっていたとはいえ万博閉幕まであと一週間のこの時期、通用門にも到達できない状態。結局、すいてるパビリオンを数件のぞいただけでした。
卒業後の外科研修を受けている9月のある日、先輩から「○○くん、ボク、都合が悪くなったから9日に万博の救護室の応援に行ってくれ」と言われ、チョチョマイました。
(余談ですが、「ちょちょまう」という単語も「なつかしい」と感じる「ぬかる民」も多いことでしょう)
先輩は「救護室には内科と外科があって、わからんかったら内科の先輩に相談したらエエがな」と気休めを言ってくれました。しかし、
なんぼ医師免許はあるといっても、単独で患者さんを診るなんて、大それたことはしたことがなかったし、縫合なんてやったこともない。
手術に立ち会っても先輩が縫った糸を結ぶだけ。
それも「アホッ! 風呂敷結んでるのとチャウぞッ! ナンヤその結び方は!! ボケ・カスッ!!」と罵声と言うか、激励を浴びながら結んだことがあるだけ。
(犬のおなかの縫合はしたことある・・・でも人間が来たら・・・あーコワ)など、
どんどんヘンな方向に行くイメージトレーニングで眠れない一夜を過ごしました。
その日、9月9日(・・・今は「救急の日」ってことになってますが・・・)
ほんとは午後の担当でしたが開門前に行きました。当然タダで好きなパビリオンに行くために・・・
ところが、どっこい。新学期が始まっていて、子どもの入場は少なくなっていたとはいえ万博閉幕まであと一週間のこの時期、通用門にも到達できない状態。結局、すいてるパビリオンを数件のぞいただけでした。
担当は午後1時から5時までの4時間、「なんとか誰も来んとって」と祈りつつ午後1時少し前に救護室に入りました。
「内科と外科の診察場は当然カーテンごしの隣どおし」と思っていたら、なんと部屋が別になってる!!・・・・「隣の部屋の先輩にどーやってソーダンすんの?」と思った矢先、頼るべき内科の大先輩がにこにこして近づいてきました。
「○○くん、ボクちょっと、場内をみてくるから、たのむワ」と言うやいなや、私の返事も待たず、そそくさと立ち去りました。
「ワッチャー!!」
「どこが、ソーダンしたらエエがな」やねん?(怒り&不安)
こーなったら、矢でも鉄砲でも・・・とあきらめ、頼るは30過ぎの先輩看護婦さん。
しかし最大の頼りは「お祈り」でした。「来るな、来るな」と念仏をとなえていました。
念仏の効果があって結局目の前に現れたのは欧州某国のパビリオンでお勤めの若き美しきホステスさん。(年令は・・・職務上知りえた秘密なので口外できないのが残念です)
当時はコンパニオンってなハイカラなネーミングは存在せず、ホステスさんでした。
訴えは「気分が悪い」・・・日本語でしゃべってくれて助かりました。
恐る恐る脈をみて「ふむー、不整はない。ちゃんと脈打っとる」と脈を数えるふりをして時間をかせぎ、
聴診器で呼吸音や心音を聞くふりをして心を落ち着け、
看護婦さんの目を見たら「点滴しといたら?」って目つきだったので、「じゃー点滴しときましょ」と処方箋を発行。
私がタッチした初の外国人女性でした。しかも肌が透きとおるようなメッチャ美人。古い表現で“銀幕から出てきたかのような”美女。
点滴してバクスイしている姿も・・・・・・・・・・これ以上の描写はひかえます。
この間にも、「この点滴でアレルギー発作が起こって呼吸が止まったらどーしよー?」
「呼吸が止まらなくても蕁麻疹が出たらどーしよー?」と悩みの集中豪雨状態が続いていました。
もちろん、お祈りは継続していました。
♪ジャジャーン!!・・・お祈りが通じました!!
1時間あまりで彼女はすっかり元気になって「メルシー」って帰っていきました。
今から思えば、彼女はたび重なる夜更かしで、単なる寝不足だったのでしょう。
結局、患者さんはこの美女一人だけ。「やったーっ」
4時半ころ戻ってきた先輩はヒッジョーにくやしがっていました。
5時からウキウキしながら人ごみの中に溶け込んでいった私でした。
(by ○○くん 聞き書き おーぼら)
※「ちょちょまう」とは、パニックになるor頭が混乱してしまうときに使う言葉。
1978年4月9日から1989年10月1日に毎週日曜日深夜(月曜未明)24:00-26:30ごろに放送された「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」(つるべ・しんのぬかるみのせかい)で新野新(しんの しん)氏がよく用いた。
→ということは万博当時ははやっていなかった言葉。○○くんは「ちょちょまった」と言ってますが当時はまだこの言葉はあまり使われていませんでした。
※「ぬかるみの世界」という番組をきいている人たちを「ぬかる民」と称していました。
※タンザニア館は現在の民族学博物館の敷地に存在しました。数ヶ国と共同の館でした。
2007/02/14のBlog
[ 07:05 ]
[ 館長ノート ]
特別展の準備を進めてているタカハシ君と話していた。
「千里丘陵にワニやゾウがいたんだなー、もし、数十万年前と気候が同じなら、ワニがそこいらをごそごそ這い回ってるわけだ」、
「ゾウは万博のとき、国道をあるいた。景観展のときの応募作品の写真がありました」
「2,3日でもいいからワニが見せられたらおもしろいでしょうねー」
「天王寺動物園の飼育カチョー知ってるから聞いてみよ」と出かけていった。
「千里丘陵にワニやゾウがいたんだなー、もし、数十万年前と気候が同じなら、ワニがそこいらをごそごそ這い回ってるわけだ」、
「ゾウは万博のとき、国道をあるいた。景観展のときの応募作品の写真がありました」
「2,3日でもいいからワニが見せられたらおもしろいでしょうねー」
「天王寺動物園の飼育カチョー知ってるから聞いてみよ」と出かけていった。
「ワニを貸していただけませんか、大きいやつ」
「無理ですねー」
「じゃー小さいのは?よくペットで飼ってたのが捨てられて下水に、なんてのがあるじゃないすか」
「そういうことをしないよう啓蒙するのがわたしたちの役目です」
「ゾウはどうです」
「ワシントン条約動物ですからね。最近は、すこし動かすのでも神経を使います。それに、費用がかかりますよ」
「うー」
というわけで、 長瀬健一郎さんには、ゾウややワニの生態と今日的な意義について、5月13日(日)の講演をお願いしてきました。森の王ともいうべきゾウと川や沼の主であるワニが、なぜ絶滅の危機に追い込まれているのかとか、マチカネワニは揚子江ワニの系統に属するものだが、天王寺がその世界的研究センターになっていることとか。
講演後、恒例の、館長乱入トークでは世界のどうぶつの話や、天王寺動物園の夜間開館についての話をする予定です。
ところで、動物園はれっきとした博物館だと日本の法律には書かれています。最近では、旭山動物園が一人勝ち、北海道観光コースを変えたし、全国博物館入場者数を押し上げているのはご存知のとおり。天王寺もそれに負けちゃいられない、追いつけ追い越せと、いろいろ知恵を絞っていることなども、うかがえるかもしれません。
(カンチョー)
「無理ですねー」
「じゃー小さいのは?よくペットで飼ってたのが捨てられて下水に、なんてのがあるじゃないすか」
「そういうことをしないよう啓蒙するのがわたしたちの役目です」
「ゾウはどうです」
「ワシントン条約動物ですからね。最近は、すこし動かすのでも神経を使います。それに、費用がかかりますよ」
「うー」
というわけで、 長瀬健一郎さんには、ゾウややワニの生態と今日的な意義について、5月13日(日)の講演をお願いしてきました。森の王ともいうべきゾウと川や沼の主であるワニが、なぜ絶滅の危機に追い込まれているのかとか、マチカネワニは揚子江ワニの系統に属するものだが、天王寺がその世界的研究センターになっていることとか。
講演後、恒例の、館長乱入トークでは世界のどうぶつの話や、天王寺動物園の夜間開館についての話をする予定です。
ところで、動物園はれっきとした博物館だと日本の法律には書かれています。最近では、旭山動物園が一人勝ち、北海道観光コースを変えたし、全国博物館入場者数を押し上げているのはご存知のとおり。天王寺もそれに負けちゃいられない、追いつけ追い越せと、いろいろ知恵を絞っていることなども、うかがえるかもしれません。
(カンチョー)
[ 04:17 ]
[ 07EXPO70・わたしと万博 ]
万博は、ちょうど私が千里ニュータウンの東町に越してきた年のことでした。ある日新聞に告知が出て、万博に出演するためタイから船積みされて神戸港に着いたゾウ21匹が、西国街道から北千里を通って会場まで行進してくるというので、当時2歳だった息子と、母と北千里まで見に行きました。
万博には国ごとに「ナショナルデー」という日が会期中に一日あって、その日はお祭り広場で特別な出し物をするのです。そのためにタイでは、はるばるお国からゾウを運んできたのでした。タイを出発したときは20頭でしたが、船の中で赤ちゃんが1頭生まれて、21頭になったということです。今なら港からトレーラーなどで運ぶのでしょうが、そのころはそんなに多くのゾウが運べるクルマもなかったのか、歩いてくることになったのです。
万博には国ごとに「ナショナルデー」という日が会期中に一日あって、その日はお祭り広場で特別な出し物をするのです。そのためにタイでは、はるばるお国からゾウを運んできたのでした。タイを出発したときは20頭でしたが、船の中で赤ちゃんが1頭生まれて、21頭になったということです。今なら港からトレーラーなどで運ぶのでしょうが、そのころはそんなに多くのゾウが運べるクルマもなかったのか、歩いてくることになったのです。
沿道は見物の人たちでにぎわっていましたが、押し合いへしあいというほどでもありません。クルマも今ほど多くなかったから、行進ができたのでしょうね。北千里から藤白台にかかる藤白橋の上のいい場所で、カメラを構えることができました。夏の天気のいい昼下がりで、女の人は日傘をさして待っていました。やがて箕面のほうから、ゾウの群れが歩いてきました。赤ちゃんゾウもしっかりと自分の足で歩いていました。私も息子を連れて、橋の上からシャッターを押しました。
(by Aさん 聞き書き okkun)
※大阪万博のタイ国のナショナルデーは、1970年8月12日(水)でした。
※ゾウは神戸港から万博会場までを1日で歩けず、武庫川の河原で一晩野宿したそうです。
※ゾウはしばらく日本にいて、会場近くの山田の一角に、やたらとたくさんゾウがいたらしいです。
※こちらのブログもご覧ください。
(by Aさん 聞き書き okkun)
※大阪万博のタイ国のナショナルデーは、1970年8月12日(水)でした。
※ゾウは神戸港から万博会場までを1日で歩けず、武庫川の河原で一晩野宿したそうです。
※ゾウはしばらく日本にいて、会場近くの山田の一角に、やたらとたくさんゾウがいたらしいです。
※こちらのブログもご覧ください。
2007/02/13のBlog
[ 17:52 ]
[ 07EXPO70・わたしと万博 ]
万博の膝元、吹田に住み44年、当年62歳。
部屋の片隅には、講談社『20世紀全記録』があります。この分厚い書籍には「待った、疲れた、見られなかった、高度成長のあかし大阪万博が開幕」と記されています・・全くの同感。
私の万博開催期間中の会場見学は1回のみです。この1回は、今は亡き、田舎の父軍団とでした。さて、どこの館を見たのか・・エキスポランドあたりをうろうろしていた様に記憶している・・「月の石」は是が非でも、見たかったがいまだ見ず・・そして、万博を基軸に、あの時、その時にタイムスリップしてみました。
●1.開催前…7年前の東京オリンピックにあこがれ、スポーツに燃える貧乏学生
千里ニュータウンのまち開きは1962年。「 キジも鳴かずば撃たれまい」は、阪急千里山線「豊津駅」の名所案内板・・田畑に稲穂たなびき、丘山は雑木鬱蒼。青春のまっただ中・・勇者を夢見て・名神高速道賂開通1963年7月開通。東京オリンピック開幕と新幹線開通1964年10月。東淀川駅で乗車誘導の朝バイト・・時給170円・珈琲170円だった。写真の最下段にそのころの一端が・・
●2.開催中…サラリーマン3年生
万博だ!万博ダ!成功してほしいの一念・・
部屋の片隅には、講談社『20世紀全記録』があります。この分厚い書籍には「待った、疲れた、見られなかった、高度成長のあかし大阪万博が開幕」と記されています・・全くの同感。
私の万博開催期間中の会場見学は1回のみです。この1回は、今は亡き、田舎の父軍団とでした。さて、どこの館を見たのか・・エキスポランドあたりをうろうろしていた様に記憶している・・「月の石」は是が非でも、見たかったがいまだ見ず・・そして、万博を基軸に、あの時、その時にタイムスリップしてみました。
●1.開催前…7年前の東京オリンピックにあこがれ、スポーツに燃える貧乏学生
千里ニュータウンのまち開きは1962年。「 キジも鳴かずば撃たれまい」は、阪急千里山線「豊津駅」の名所案内板・・田畑に稲穂たなびき、丘山は雑木鬱蒼。青春のまっただ中・・勇者を夢見て・名神高速道賂開通1963年7月開通。東京オリンピック開幕と新幹線開通1964年10月。東淀川駅で乗車誘導の朝バイト・・時給170円・珈琲170円だった。写真の最下段にそのころの一端が・・
●2.開催中…サラリーマン3年生
万博だ!万博ダ!成功してほしいの一念・・
[ 03:56 ]
[ 07EXPO70・わたしと万博 ]
7~8才 記憶としては とてもきわどい年齢です 幼少の頃の事は断片的に覚えているし 小学校3~4年頃から後は つい昨日の事の様にくっきりと覚えている okkunさん程近くに住んで居た訳ではないけど 三輪車から 初めての自転車に変わり 母親と 弟と3人で 工事中の万博会場付近まで何度か行った記憶はあります
ちょいとうるさい^_^; 市民委員さんが 今活動されている津雲公園の土手で ソ連館をバックにの写真も残ってるんで 家のすぐ近くから会場も見えてるし 身近なものだったと思います
ちょいとうるさい^_^; 市民委員さんが 今活動されている津雲公園の土手で ソ連館をバックにの写真も残ってるんで 家のすぐ近くから会場も見えてるし 身近なものだったと思います
さて 会場の想い出ですが やはり 小学校低学年のおこちゃま 住友童話館や フジパンロボット館 未来を感じた サンヨー館 わくわくした記憶が多いかなぁ~(^^ゞ
何度行ったか はっきりとした記録はないけど 貿易商をしていた父と海外からのお客さんと行ったのと ハイカラ 珍しいもの好きで いつも8ミリカメラ携えてたじいちゃんと行った時 そして 学校から 徒歩で行った遠足 あとは やっぱ安くなる夕方から何度か行ったなぁ~ ってうやむやな記憶(^_^;
やはり 親戚は来ましたさぁ 弟と使ってた2段ベッドの横に だから 上下4人で誰かと寝てたなぁ なんて事も・・・
会期が終わってからも 中学なんかなら 修学旅行の予行演習でカバンに荷物詰めて みんなで万博会場まで歩いたり 「お別れ会」「クラス会」なんかで使ったり 吹田市と大阪万博をきっかけにはじまったと思われる 福井県三方町(今が町村合併で違う名ですね?^_^;)との交換会に参加して エキスポランドや万博公園に行ったり
今じゃ ここいらでは 最大規模の フリーマーケットに出店したり 夏や クリスマスの風物詩 エキスポの花火を見に行ったり まだまだ 万博公園に行く事は 多いですよね(^_-)-☆
(by てつ)
何度行ったか はっきりとした記録はないけど 貿易商をしていた父と海外からのお客さんと行ったのと ハイカラ 珍しいもの好きで いつも8ミリカメラ携えてたじいちゃんと行った時 そして 学校から 徒歩で行った遠足 あとは やっぱ安くなる夕方から何度か行ったなぁ~ ってうやむやな記憶(^_^;
やはり 親戚は来ましたさぁ 弟と使ってた2段ベッドの横に だから 上下4人で誰かと寝てたなぁ なんて事も・・・
会期が終わってからも 中学なんかなら 修学旅行の予行演習でカバンに荷物詰めて みんなで万博会場まで歩いたり 「お別れ会」「クラス会」なんかで使ったり 吹田市と大阪万博をきっかけにはじまったと思われる 福井県三方町(今が町村合併で違う名ですね?^_^;)との交換会に参加して エキスポランドや万博公園に行ったり
今じゃ ここいらでは 最大規模の フリーマーケットに出店したり 夏や クリスマスの風物詩 エキスポの花火を見に行ったり まだまだ 万博公園に行く事は 多いですよね(^_-)-☆
(by てつ)
2007/02/12のBlog
[ 01:00 ]
[ ニュータウン ]
私のブログ「アラウンド・藤白台」に友達が古い写真を送ってくれました。現在の同じ位置を写真に撮って掲載したところ、けっこうコメントが早くつきましたのでこちらでもご紹介します。
場所は藤白台近隣センター(ゆらら藤白台)。左が2007年、右が1970年元旦(推定)。再開発で右の建物は変わり、時計塔も新調されましたが、左の街路樹や街灯はまったく同じです。
1970年の元記事はこちら。2007年の記事はこちら。写真のアングルは違いますが、2000年の記事はこちらです。
(by okkun)
場所は藤白台近隣センター(ゆらら藤白台)。左が2007年、右が1970年元旦(推定)。再開発で右の建物は変わり、時計塔も新調されましたが、左の街路樹や街灯はまったく同じです。
1970年の元記事はこちら。2007年の記事はこちら。写真のアングルは違いますが、2000年の記事はこちらです。
(by okkun)
2007/02/11のBlog
[ 23:59 ]
[ 07EXPO70・わたしと万博 ]
私は当時学生で、万博は興味の対象外だった。開催中は行かないだろうと思っていたが、アルバイトの金額が桁違いに良かったので、万博に出展していたある店のアルバイトに応募したらすんなり決まった。
バイトをしていた場所は、エキスポタワーと呼ばれた鉄骨タワーの下にあった喫茶店で、本格的な調理人は1~2人、後の3~4人はアルバイトだった。最初はご飯も満足に炊けず、べたべたのご飯だったが、カレーライスに使うとすぐに売り切れたのを思い出す。従業員のため、普通の人より1時間前には入場できたので、どの館にでも待たなくて入場できたはずなのに、全く入った記憶がない。人気のアメリカ館やソビエト館も入っていない。万博会場からすると南のはずれにあったエキスポタワー付近も入場者が多くて、この喫茶店もいつも一杯で忙しかった。
期間中、週に1~2度は、このバイトをしていたと思う。当時、長野県のスキー場で仲良くなった小学生が、万博に来て、私に会いに来たときは驚いた。本当に全国から、普通の人が大変な努力をして万博を楽しみにやってきていたのである。
エキスポタワーは、万博が終わってからも、ずっと長い間建っていたので、私の住んでいたマンションからもよく見えた。しかし、2003年には、それも撤去された。探したら、当時の従業員入場証が出てきた。
(by K.T.)
バイトをしていた場所は、エキスポタワーと呼ばれた鉄骨タワーの下にあった喫茶店で、本格的な調理人は1~2人、後の3~4人はアルバイトだった。最初はご飯も満足に炊けず、べたべたのご飯だったが、カレーライスに使うとすぐに売り切れたのを思い出す。従業員のため、普通の人より1時間前には入場できたので、どの館にでも待たなくて入場できたはずなのに、全く入った記憶がない。人気のアメリカ館やソビエト館も入っていない。万博会場からすると南のはずれにあったエキスポタワー付近も入場者が多くて、この喫茶店もいつも一杯で忙しかった。
期間中、週に1~2度は、このバイトをしていたと思う。当時、長野県のスキー場で仲良くなった小学生が、万博に来て、私に会いに来たときは驚いた。本当に全国から、普通の人が大変な努力をして万博を楽しみにやってきていたのである。
エキスポタワーは、万博が終わってからも、ずっと長い間建っていたので、私の住んでいたマンションからもよく見えた。しかし、2003年には、それも撤去された。探したら、当時の従業員入場証が出てきた。
(by K.T.)
[ 13:06 ]
[ 07EXPO70・わたしと万博 ]
子供が歩いても15分の隣の丘に、EXPO70がやってきたのは小学校五年生のときだった。日本中の親戚が泊まりに来た。廊下までフトンを敷いて寝た。案内は子供の役目だった。もちろん自分が行きたいパビリオンを優先的にコースに入れた。それまで11年の全生涯で会ったより多いガイジンに、1日で会ってしまった。田舎から出てきた親戚のおばさんをお祭り広場に連れて行ったら、ただ目を丸くして見ていた。帰ってきて父が「どうでしたか?」と聞いたら、「いや~ストリップやってましたわ~」とおばさんは言った。「ストリップでしたか~」と父もとぼけた返事をしていたが、レオタードを着てダンスしていたのが裸に見えただけだった。何もかもがチンプンカンプンなぐらい、新しかった。1970年の未来とは、そういうものだった。1ドル=360円で「一生に一度海外旅行に行けたら…」と父が言っていたような時代の話だ。子供には、大人たちの狼狽まで含めて面白かった。
吹田市立博物館で万博の展示をするならば、僕はやはり地元民だからこそ目撃したウラオモテを再現してみたい。「世界」と「未来」がいきなり徒歩15分の丘の上にやってくるって、どういうことだったのか?
地元民の心の中では、37年間万博は続いている。会場がただの抜け殻になっても、その空間はいつも隣にあった。学生時代は夜中に駐車場でクルマの練習をした。やがてそこが大きな森に育つと、鳥たちがうちの生ゴミをあさりに来た。海外旅行が珍しくなくなっても、「みんぱく」は世界への驚きを思い出させてくれる。コンサートやサッカーの日に竹林の向こうからざわめきが聞こえてくると、今でも胸がなんだか躍る。世界に憧れ、未来を夢見て、誰とでもオープンマインドに渡り合えと、太陽の搭は叱咤してくれる。
あのチンプンカンプンで、シッチャカメッチャカで、なんだか楽しくて面食らうような感覚を、博物館に再現できればと思う。それは地元民にとっては時空を超えた「自分探し」の旅になるはずだ。
※写真は万博終了後、1971年の一部公開のときのものです。
(by okkun)
吹田市立博物館で万博の展示をするならば、僕はやはり地元民だからこそ目撃したウラオモテを再現してみたい。「世界」と「未来」がいきなり徒歩15分の丘の上にやってくるって、どういうことだったのか?
地元民の心の中では、37年間万博は続いている。会場がただの抜け殻になっても、その空間はいつも隣にあった。学生時代は夜中に駐車場でクルマの練習をした。やがてそこが大きな森に育つと、鳥たちがうちの生ゴミをあさりに来た。海外旅行が珍しくなくなっても、「みんぱく」は世界への驚きを思い出させてくれる。コンサートやサッカーの日に竹林の向こうからざわめきが聞こえてくると、今でも胸がなんだか躍る。世界に憧れ、未来を夢見て、誰とでもオープンマインドに渡り合えと、太陽の搭は叱咤してくれる。
あのチンプンカンプンで、シッチャカメッチャカで、なんだか楽しくて面食らうような感覚を、博物館に再現できればと思う。それは地元民にとっては時空を超えた「自分探し」の旅になるはずだ。
※写真は万博終了後、1971年の一部公開のときのものです。
(by okkun)
2007/02/10のBlog
[ 17:29 ]
[ 07EXPO70・わたしと万博 ]