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千里ニュータウン展&万博展をした吹田市立博物館を小山修三館長と盛り上げるブログ
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2008/04/27のBlog
[ 21:51 ] [ 07EXPO70・その後 ]
万博が大好きな皆さん!
すいはくで昨秋大好評を博した「07EXPO70-わたしと万博」展でも大活躍された万博ミュージアムの白井さんが、念願かなって大阪は天満橋に「EXPO CAFE」を開店されました。さっそく開店の日に行ってきました。

●こちら開店のチラシ。

「未来」「夢」「宇宙」…「1970年らしさ」にこだわる白井さんのセンスがすみずみに。(閉店時刻はその後30分繰り上がって「22時ラストオーダー、22時30分閉店」に変わりました。)
●オシャレなお店の外観。

天満橋の交差点から南西に2ブロックほど入った静かな一画、北大江公園を少し西に行ったあたりにあります。赤いロケットの看板が目印。扉はウルグアイ館で実際に使われていたものです。
●これが禁断のメニュー「EXPO天国」。

クッキーはまぎれもなく「太陽の塔」のシルエットです! 1970年のあま~い夢がいっぱい!そのほかのメニューもなかなか凝ってます。食事もできますよ。
●店内では万博グッズや1970年グッズがいっぱい。

(販売品ではありません。)オレンジのアクセントにエア・ドームのような陳列ケース…70年代風に再現したインテリアもナイス・テイスト!さすが白井さんの監修だけに「時代の空気」をきちんと出してます。オリジナル・グッズも準備中のようでした。

●あのころの未来へ、しゅっぱ~つ!

飛び立っていくのはサンダーバード…。

「こだわり」と「夢」がぎゅっとつまった「EXPO CAFE」。万博オタクだけじゃなくって、誰が行っても楽しい気分になれますよ!夢多きあのころの時代をよみがえらせたいという白井さんの夢が、入れ子になったような空間でした。店員さんのコスチュームがまた、イイのです。見たい人は実際に行ってみてくださいね。

(by okkun)
[ 19:40 ] [ イベント報告【終了】 ]
音楽が大好きなみなさん!
4月27日(日)午後2時から、愛宕念仏寺住職の西村公栄氏によるシンセサイザー演奏会「祈りの調べ」がありました。

すいはくでは、一昨年(H17)の秋期特別展「祈りの造形」の時に、講座室でされたそうです。今回は 3階 ロビーにて・・・

3階ロビーといえば、昨年のゴールデンウイーク、段ボールのワニ作りとてつのファルトカヌー、そして万博展での ヘルマンハープの演奏以来?特にヘルマンハープの時、とってもいい音響だったので、シンセサイザーにとっては絶好の環境だと思いました(^^)
用意された席は ほぼいっぱい 立ち見まで出ていました ひぃふぅ
ざっと 130人 こんだけ すいはくで人を見たのは 万博展以来だった♪

今回のためにつくられた演奏曲
「うみくも」
海は何故青いのか 空が青いからなのか
空は何故青いのか 海が青いからなのか
海が青くなくなれば 空も青くなくなるが故に
空が青くなくなれば 海も青くなくなるが如く
波のほとけよ 空の青きをまもりたまえ
雲のほとけよ 海の青きをまもりたまえ
今回3階ロビーには 公朝作品が2点 展示されています。
向かって左が「海のほとけ」(写真上)
右が「空のほとけ」(写真下)
音と彫刻 素晴らしい調和でした。

(てつ)
追伸
カラオケに行き 長渕剛の 「金色に輝け50年 」 って曲を入れると
映像に 西村公朝さんが出るそうです♪

2008/04/26のBlog
公朝さんが大好きなみなさん!
今日4月26日(土)から平成20年度春季特別展 「西村公朝-たどり来し道-」 がはじまりました。

朝10時半からオープニングの式典があり、関係者をふくめ50名ちかくの出席がありました。カンチョー、来賓のあいさつのあと、市の花サツキがそえられたケーキとコーヒーでしばし歓談。
その後、担当の滝沢幸恵学芸員の案内で、展示場をみてまわり、公朝さんの業績とともにその生涯をたどり、みほとけのこころにふれることのできるひとときをすごしました。(写真右 てつ撮影)
こちらは、この一冊に公朝さんのエッセンスがつまったぎゅっとつまった図録。公朝さんに対する敬愛の念が感じられ、公朝作品にまけないできばえです。
上にのっているのは、公朝さんの仏さんの絵のついている(たまご)せんべいで、式典出席者に配られました。

考えてみると、すいはくで特別展オープニングの式典をはじめるようになったのは、千里ニュータウン展が最初では?いや、それだけじゃなくて、今回の特別展の展示が、常設展示場にもひろがっていること、馬さんにしばしお休みいただいて台上には仏さんが鎮座していらっしゃること・・・・これも、やはりNT展がつくりだした新たな伝統?かな~と思いながら拝観しました。

6月22日(日)まで
明日27日と、5月18日は無料観覧日です。
(ちなみに、今日も無料観覧日でした)

(こぼら)
27日午後2時から
次男で お寺を継がれた公栄(こうえい)さんのシンセサイザーの演奏があります。昔 一度聴いた事があります とてもすごい。ぜひ みなさん いつもの講座室にお越しください♪

(てつ)
このブログやすいはくで、みなさんに投票をお願いしていた「みんぱくのインパクトわたしのイチ押し」の投票結果を報告します。
4月22日午前11時より「開館30周年記念企画展『みんぱくのインパクト』最終日の記念式において発表された人気上位6作品です。民博教員&関係者からのメッセージもあわせてご紹介。

<堂々の1位は2作品ありました>
7番 李容学(リヨンハク)さん制作 (写真上:左)
「見えないモノを見よう」といいうコピーが民族学の本質をついています。一つは作者のいうように、異文化を鏡として、見えていない自文化に気づくという意味です。 もう一つは展示物の背後にある意味や制度を読み取ろうという意味で。デザインも重厚でインパクト大!
32番 岡本あずささん制作 (写真上:右)
展示企画の趣旨をよくくんだフレーズです。全体の色も文字も印象的で楽しいポスターです。
<3位は3作品>
16番 富士美奈子さん制作(写真中:左)
開館以来、世界一周の旅を楽しんできました。疲れますが。
22番 小山晶子さん制作(写真中:右)
闇の奥から浮かび上がる不気味な仮面たち。夜ライトを落とした後の展示場はこうなります。収蔵庫はもっと怖い。
26番 吉田早織さん制作(写真下:左)
この資料は僕も好きな資料です。日本人の感性ではあまり、このようなものは作れません。みんぱくらしさのでているポスターだと思います。

<6位>
6番 尾崎麻由さん制作(写真下:右)
えっ~!別々に見ていたものをこんなふうに関係づけるんだ!すばらしい!
この記事は、4月25日、みんぱく担当教授からすいはくへ協力のお礼のメッセージとともに送付されてきた資料をもとにしました。(画像がぼけてるとお思いでしょうが、頂いた資料の画像が・・・というわけで、ご了承下さい。)
本当にご協力ありがとうございました!

(勝手にサテライト)
2008/04/25のBlog
[ 07:48 ] [ 竹をたずねて ]
台中から一時間ほど電車で行ったところに集集という町があります。ここで35年前に2夏、発掘をやりました。
町をうろついていたら八百屋の前にたけのこが山とおいてありました。
皮をとり、大きな鍋で煮ています。そのまま買って行く人もいます。皮が破れやすいのでモーソー竹でしょうか?
根元の方はあおくて固そうなのに炒めたり豚肉と煮るととても柔らかくておいしかったことを思い出しました。

ところが町の建物や景色については全く記憶がないのです。何が変わったって?それは私自身だろうなと、感慨にふけりました。

(カンチョー 携帯メールfrom台湾、協力:親指姫)
2008/04/24のBlog
[ 11:15 ] [ イベント予告 ]
5月5日(月・祝) 午後2~3時30分
すいはく講座室で
♪歌声喫茶♪をひらきます。
伴奏はアコーディオン奏者 藤沢善康さん
♪♪♪♪♪多数のご参加をお待ちしています♪♪♪♪♪
■参加費■
大人 200円(コーヒー付)
小学生100円(飲み物付)

お問い合わせは吹田市立博物館へ
2008/04/23のBlog
4月13日のブログ(「日本史を動かしたタケ-弓について考えたこと」)で、カンチョーが「竹が移入された植物で、奈良時代には、貴族階級にしか知られていない高貴な植物だった」と書いています。そこで、奈良時代に成立した『万葉集』には、竹や笹が出てくるのか、あるとすれば、どのように歌に詠まれているのかを、調べてみました(*1)。

まず、「竹」がでてくるのは、21首。このうち半数(11)が枕詞として出てきます。
もっとも多かったのが「さす竹」の8首。「大宮」「大宮人」「皇子」「舎人」などにかかる枕詞。勢いよく生長することから長寿繁栄を願うほめことばとしてつかわれたそうです(*2)。なるほど高貴なイメージ。
つぎに「なよ竹の、なゆ竹の」が2首。竹のしなやかさから。かかる言葉は「とをよる」(=たおやか)。で、その先が、「子」とか「皇子」とつづきます・・・あら、やっぱり高貴なイメージがでてきますね。
1つしか出ないのですが「さき竹の」(=割りさいた竹)は「背向(そが)ひ」(=背中合わせ)にかかります。「吾背子をいづく行かめとさき竹の背向に宿(ね)しく今し悔しも」(*3)。ああ、人は千年ぐらいじゃ進歩しないのだなー。

植物の竹そのものを詠っているのが10首ありますが、そのうち植わっている竹が5首、竹製品が5首で、半々でした。
竹製品は、なんと4首までが「竹玉・竹珠(たかたま)」。これは神事に用いられたらしく、歌をみると齋部・齋瓮(いはひべ)という神にそなえる酒をいれるものにかざりつけられたようです。やはり高貴というべきでしょうか、清新なイメージです。あと1首は「竹垣」でした。
植わっているタケは、「竹の林」が2首、あとは「群竹」「植竹」「竹葉」。
おもしろかったのは「竹の林」で鶯が鳴いていること。(一方の歌は「梅の花散らまく惜しみ」ではじまり、散ってしまってはいるものの、いちおう梅もでてくるのですが、)竹に雀、がまだ定着していないのですね(そもそも万葉に「雀」が出てきません)。

竹は、上記21首以外に、詞書き部分に「(漁夫の)竹竿」と「竹取の翁」が出てきます。「竹取の翁」は、『竹取物語』に先立って出てくる最初の用例なのだそうですが、それはさておき、この2ヶ所の「竹」は人が利用する竹です。

「しの(篠、小竹)」という言葉も竹に関連する言葉です。細い小さい竹の総称、メダケ・ヤダケなどをさします。これが8首あります。刈るとか、矢につくるとか、おしなべ、など、人の利用をおもわせる語句と結びつくものが4首、竹よりも身近な存在である感じがします。他は、風景である「しの原」が2首、枝先で鳥が鳴いているのが2首あります(うち1首はやはり鶯なのだ!)。

一方、「笹」は5ヶ所で、すべて植物の笹を詠っています。笹の葉が風でさやいだり、露や霜がおりたり、雪が降り積もったり・・・身近な自然の風景が目に浮かぶ歌です。

*1 中西進編『万葉集事典』(講談社文庫)1985
*2 大野晋ほか編『岩波古語辞典』(岩波書店)1974
*3 佐々木信綱編『万葉集 上巻』(岩波文庫)1927

(こぼら)
2008/04/22のBlog
[ 07:27 ] [ 居酒屋たんぽぽ ]
この写真は、カンチョーが昨日昼間、カフェたんぽぽをたずねているところ。
スタッフの熱意と愛情にささえられて、すてきな空間になったと感心していました。
今日から台湾なので行けなかったのですが、昨夜の居酒屋のようすはこちら。(留守番こぼら)
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昨夜は女将が市役所でなんちゃら審議会(※)に出席していたため長時間空席。審議会が終わって、審議委員の一人と同伴出勤しました。(さすが、オカミ)
(※)なんちゃら審議会:自治基本条例がらみの審議会らしいです。詳しくは女将がコメントに書いてくださるでしょう。

はじめての月曜日開催とあって、集まりはかんばしくなかったようです。


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集まった人に、すいた市民環境会議がこの4月上旬に発行した「すいたの古木大木マップ」がプレゼントされました。このマップをみて、たくさんの質問・回答のやりとりがありました。(この膨大な数の調査をするのに、どのようにして調査の順路を決めたの?・・・などなど)
調査の逐次報告ここにあります。


そのほか
この4月の市役所の人事異動をめぐって話は盛り上がりました。
みんなの素朴な疑問は「○○ってなにする人なの?」でした。


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【追伸】このブログ、きのうは27位だった。

(おーぼら)
2008/04/21のBlog
4月20日(日)の博物館トーク、藤井裕之さんの「民具の機能と心象世界-箕を中心に-」を聴講しました。

トークの内容は、藤井さんの専門である民具研究は、これまでモノの機能、形態に重点をおいて研究が進められてきたが、実用的機能の他に信仰に関わる側面があり、それを体系的にとらえ把握したいという視点から、箕は弥生時代からあり、唐古遺跡(奈良県田原本町)から竹で編んだ箕が出土。『日本書紀』にもでる。

機能は穀類の粒と塵、糠などを選り分ける風選と運搬。素材は、竹、藤、樹皮など身の回りにあるもの。形状は、片口と円形で、奄美大島から沖縄、中国南部東南アジア インド アフリカにまで分布。

心象世界にかかわるものは
1)神饌の容器、 収穫後に稲と鎌を入れる、 正月(ミタマノメシ)や十五夜に箕の中に供物を入れる、ほかに盆棚、歳神や田の神(アエノコト)にも。
2)人の生死に関する呪法
a. 厄年に生まれた子や体が弱い子を箕の中に入れて四つ辻などに捨てるまねをする。
b. 病人を扇いで治癒を祈る。
c.死亡した時、失神した時には屋根の上で箕を扇ぐ( 死ぬことを箕をかぶったという)。
d.出産直後に箕を的にして夫または舅が弓を射る。「イリコヤス」や「弓通し」といわれる。
e.誕生の餅
f.1歳の誕生日に一升餅を背負わせ、箕の中で立たせる。箕の中に餅を置き、その上を踏ませる。「シイナは舞っていけ、実は残れ」 と唱え振る
g.疱瘡、麻疹などの予防、治療の呪い:箕の中に桟俵を置いて子どもをすわらせ、頭に鍋蓋をのせてスイカズラの煎汁をかける。
h.箕をかぶる・入る 箕の中に入ると小さくなる: 同齢者が死亡したのを聞くと竹箕、篩などをかぶる。あるいは頭に笠をかぶって四つ辻まで行く。(耳塞ぎ) 盆の十三日の
丑三つ時に母屋の本戸口の脇で箕をかぶってしゃがんでいると すべての先祖の姿が全部見える。平素は箕をかぶってはいけない。
i.修験道と胞衣:胞衣は母親の胎内にある胎児の頭頂にあって、子どもを覆い守り育てるもの山伏が頭につける斑蓋や仏界荘厳である天蓋は、胞衣を示す。

など豊富な民俗事例をまじえ、収蔵品の実物3点を、見せながら、わかり易く、親切に説明をして頂きました。
(きょうちゃん)
2008/04/20のBlog
広重の東海道五十三次のなかに「庄野・白雨」という有名な作品があります(庄野は、現在の三重県鈴鹿市にあった宿場)。この背景に浮かんでいるシルエットの竹藪のタケ、種は何でしょうか?

わたしは、「先がたれているから孟宗竹じゃないか、時代的にもモウソウが入ってきているし、筍とるためにわんさか育てて立派な竹林が続いている感じがする」といったら、カンチョーは、「いや、マダケだ、枝先がツンツンしている。下に垂れているのは、風雨になびいているからだ!」と主張して譲りません・・・みなさんの判定やいかに?(こぼら)
2008/04/19のBlog
[ 19:49 ] [ イベント予告 ]
GWの最終の二日間、紫金山の緑と子供たちのために、市民が主体となった企画、博物館まつりをひらきます。
岡本太郎作のリオちゃんが、07EXPO70 わたしと万博展でカーニバルプラザから招聘され、博物館前に設置されたこと、ボランティア喫茶ミリカの開店が100回に達したことを記念するものです。ミリカは2日とも開店します。

プログラム

5月5日(月・こどもの日)
14:00~
歌声喫茶
昼から:竹のおもちゃと遊びー千里竹の会のみなさま

5月6日(火・振替休日)14:00~
「博物館を語る市民フォーラム」
1.報告
藤井裕之「地域と博物館ー文化庁美術館等運営協議研究会における吹田市立博物館の活動報告を巡って」
高橋真希「展示と集客戦略ー九州国立博物館視察報告」
2.討論 明日の博物館をかたる 
コーディネーター小山修三
昼から:リオちゃん、コタローとあそぼう(アート教室)

まだ調整中で変更があるかもしれませんが、だいたいこんなスケジュールでおこないます。
2008/04/17のBlog
Ⅲ 千里ニュータウン展はなにをもたらしたか

 全国初の試みだった、「市民が企画運営する」特別展はなにをもたらしたのだろうか。
第一に、最大の成果は、来館者の数が大幅に増えたことであった。博物館と市民の距離が近くなり、その後の来館者数がふえた。
 第二は広報が強化されたこと。博物館経営への市民参加が、マスコミの注目を集め、吹田市立博物館の名を全国に知らしめた。研究者や学生の調査にかかわる聞き合わせが多くなり、館員が博物館と地域おこしを論ずるシンポジウムにまねかれることがあった。市民が独自に立ち上げたブログは、現在もその原型が残されて全国発信を続けている。最近はアクセス数が1,000を越える日もあるほどの人気がある。
 第三はイベントの数がふえたことと内容の多様化。講演会やシンポジウムなど学術的なものばかりでなく、市民のコーラスや実験展示の申し込みもある。おでかけイベント、サテライトなどの卓抜なアイデアは、地域のオリエンテーションセンターとして博物館が将来大きな役割を果たすことを予感させる。
 第四は運営の合理化。限られた予算のために行ったさまざまの工夫、たとえば、展示費用の削減、図録、ポスターなどのスリム化、メールやHPなどの電子情報手段の採用は従来おこなわれていた方法の見直しと改善を迫っている。

 手元に、「千里ニュータウン展に参加して」というパンフレットがある。44名の市民委員が、「なぜ参加したか」、「参加して感じたこと」、「博物館や委員会の今後のあり方」についてのアンケートに答えたものだ。手きびしい批判や注文が多いが、熱中して働いた充実感と喜びが感じられる。その経験と人的ネットワークは他の分野の活動にも生かされているようだ。
 「博物館員はもっと笑顔をというコメント」があった。博物館員が専門に閉じこもることなくよりよいコーディネーターとしての役割を期待されているのだと思う。これからの文化事業は「官」に頼るのではなく、市民が支えなくてはならないことは、世界の趨勢を見れば明らかである。最近、大阪府が、財政立て直しのために、府立博物館の特別展費用の全面カットというおどろくべき発表をした。文化へのカネをまず切り捨てるのは行政の常套手段である。廃館の瀬戸際に立たされた旭山動物園を救ったのは市民だった(動物園も博物館である)。そんな危機がきたとき、市民が立ち上がり守ってくれる博物館になってもらいたいと思う。

参考文献
小菅正夫・岩野俊郎(著), 島泰三(編)
2006 『戦う動物園:旭山動物園と到津の森公園の物語』, 中央公論新社。

小山修三
2001 「特集 博物館の集客努力 国立民族学博物館の試み」『全科協ニュース』31(5):1-3, 全国科学博物館協議会。
2004 「市民に開かれた博物館」『博物館だより』23:1, 吹田市立博物館。

坂口佳代
2008 「(橋下ウォッチ)府立博物館 特別展すべて中止」『毎日新聞』2008年2月10日夕刊。

吹田市民委員会(明石尚武・奥居武)(編)
2006 『千里ニュータウン展:夢をくれたまち。ひと・まち・くらし』, 吹田市立博物館。

藤井裕之
2007 「いきいきミュージアム 美術館・博物館事業レポート(68) 吹田市立博物館(大阪府) 市民が盛り上げた特別展」『文化庁月報』470:22, ぎょうせい。

Howard, Ebenezer
1998[1898] Tomorrow : a peaceful path to real reform. (Early urban planning, 1870-1940 / edited by Richard LeGates and Frederic Stout, v. 2). London : Routledge/Thoemmes Press.

Perry, Clarence
1998[1929] The neighbourhood unit : from the Regional survey of New York and its environs, volume VII, Neighbourhood and community planning. (Early urban planning, 1870-1940 / edited by Richard LeGates and Frederic Stout, v. 7). London : Routledge/Thoemmes Press.


■『館報』は無償配布しています。ご希望の方は、吹田市立博物館に直接お問い合わせください。
●千里ニュータウン展のブログはこちら
Ⅱ 千里ニュータウン展市民委員会の活動

停滞の打開へ
 学芸員は考古、歴史(古代・中世史、近世・近代史)、美術工芸、民俗の6名、年2回の展示を1人が責任を持って行うことになっていた。つまり、2年に1回は特別展を立案して実行するという過酷ともいうべき任務のためか、発想が狭くなり、運営法が硬直化して、次第に効果があがらなくなっていた。この状況を打破するためにはどうすればいいのか?
 2006年度の特別展の計画案として千里ニュータウン展があった。日本で最初につくられたニュータウンという市民の誇りがある一方、老齢化にともなう衰微に対する悩みをかかえ、再生を模索しながら働く人たちがいる。それを展示できないかという考えである。
 博物館では市民参画を企画し、「千里まちづくりネット」、「千里市民フォーラム」など活発な活動を行っている市民グループに協力を打診した。その結果、この際、特別展の運営を市民の手でやるのがよいという声が出た。市民が企画・運営する企画については、予算執行をはじめとする多くの問題があるのだが、行政の勇気ある決断によって、実行に踏み切ったのである。
 まず『市報』を通じて千里ニュータウン展の委員募集をおこなった。「盛り上げ会」メンバーによる口コミやリクルートもあり、2005年9月4日にひらいた最初の会合に35名が参加、博物館に対する市民の期待の大きさを実感した。

市民委員会の発足
 応募者は吹田市だけでなく、隣接する豊中市をはじめ他地域からもきていたが、全員を委員として委嘱することにした(市からの委嘱状をだした)。そこで、委員は無償(交通費もない)であることを説明し、了承を得たあと直ちに活動に移った。マスコミからの取材申し込みがあったが、それも妨げないオープンなシステムにすることが決められた。
 委員会組織は、まず委員長、副委員長を選出。展示、催事、広報・物販の三部会をつくり、それぞれに世話役をおいた。会議は原則として月2回おこなうこと、若手(現役の勤め人)もいるので、平日は19:00から約2時間とした(越えることが多かった)。
 会議の進行は、まず部会討論を行い、そのあとまとめの全体討論を行う。議事進行を円滑にするため、部会に先だって世話人会議を開くようになったが、それでも時間不足で、世話人会議を別途に開催するようになった。
 博物館と会員間の連絡はメールで行うことがきめられ、メーリングリストが組まれた。通信費がかからず、迅速に情報が伝わった。メールを使わない人はファックスとしたが、その数は5分の1程度にとどまり、新しい情報の時代になったことを痛感した。
広報のちから
 この展覧会が多数の観客を動員した大きな要因の一つはマスコミ効果だった。それまで、広報はポスター、チラシといういわば古典的な手法とホームページ、市報にとどまり、積極的にマスコミに近づくことはしなかった、あるいは注目されなかったのだろう。そのため新聞やテレビに取り上げられた記録はほとんどない。広報とはPR、つまりpublic relation、市民とのかかわりあい方を意味するものだが、PRに後ろ向きなのはお役所の特徴、この博物館がその弊に陥っていたことを示している。
 市民委員は、「この博物館のあることさえ知らない人が多い、これでは、(私たちが)考えていること、やっていることが伝わらない」と人的関係をつかってさまざまなメディアに働きかけていった。その結果、表(千里ニュータウン展報道状況)に示すような、華やかな展開となったのである。
(新聞) 結果を改めて分析してみると、まず新聞では、早い段階(2005年12月7日)で委員会の意義(博物館再生へ市民企画)、開幕が近づくと、ねらいと活動(60年代音楽とファッションショーなど)、開幕時には目玉展示物(お帰りミゼット)、なつかしい歴史(千里にも3丁目の夕日が)、ゴールデンウィークにはイベント活動(トンネル壁画、バスオール劇上演、サテライト)が、そして一万人突破(2006年5月13日)などの節目が、効果的なキャッチフレーズとともに報道された。
(電子メディア) ウェッブやメールなどの電子メディアが情報界に大きな力を持ち始めていることもつよく感じた。新聞記事の多くは各社のホームページに転載されるし、地方に限定して内容を特化したものも登場している。とくに日経新聞が「千里コンシエルジュ」で委員会に密着して発信を続けたことは、大きな効果を生んだようだ。かたちが多岐にわたり、内容が瞬間的に代わるような、電子情報は現在のところ把握が難しく、正確な記録がない。
(テレビ・ラジオ) テレビとラジオの効果も大きかったが、実況生中継であるABCラジオの「全力投球!妹尾を和夫です!(5月12日)、NHKラジオ第一「ここはふるさと旅するラジオはちまるちゃん」では、来館者や市民委員が登場し、放送のあと目立って来館者数が増えた。
(ローカルメディア) ミニコミ誌やケーブルテレビは、口コミに似て、地域社会での広報に貢献する。ニュースのほかに、市民が登場することのほかに、講演会やイベントの内容をくわしく放映するので貴重な記録となった。
 マスコミによる情報発信の範囲は、吹田、北摂地域から、関西へ、さらに全国に着実にひろがっていった。各社の競合がおこったことで、相乗効果がでたようだ。

ブログについて
 この企画を特徴づけたものとしてブログの採用を上げておきたい。ブログは普通、個人的なものとされているが、ここでは4,5人の委員が編集者となり、投稿を編集・掲載するという形になった。自然にそのように落ち着いたのである。その結果、とぎれなく情報を発信することができた。
 ブログは、公式ホームページと比べると、有志が無料サービスをもちいて立ち上げたものなので、何ら制約をうけずに自由に意見を述べることができる。また、双方向性であるため情報交換がさかんになる。具体的には、ニュータウン展直前に全国放映されたNHK「あの日を抱きしめて-昭和48年」の制作部から、ブログを見た、当時を知るインフォーマントはいないかとの問い合わせがあり、紹介したという例がある。また、展示の方向性の確認、アイデア提出や検討、展示品さがし、講演、フォーラム、イベント予告および報告など、準備から展覧会オープンにいたるまでの委員会の活動プロセスをいきいきと詳細に記録するという予想外の効果も上げた。
 ブログ「千里ニュータウンが博物館にやってきた」は2005年10月14日に立ち上げ、2006年6月12日にうちきった。掲載記事の総数は276、アクセス数は35,000を越えた。委員会のなかからは、この数も観客者数に入れるべきではないかという意見が出たほどである。
イベントの多様化
 催事部会はイベントをふやし、多様化させることでこの展覧会をいちじるしく活性化した。
 これまでの特別展や企画展では、多くとも3回の学術的な講演会を行うのが普通で、予算もそのように計上されていた。しかし、統計をみると、観覧者(展示場を見た人)と講座等受講者(無料で受講できる)の比率は1992~97年までは10%以下だったが、98年度から10%をこえ、その後急速に増え続けて、2005年には58%、本年2006年は69%という高率になり、それに応じて来館者数も増加している。これは、常設展が力を失っていることと、陳列品や特展のテーマについての説明や解釈を加える講演、それにもまして子ども向けもふくめたエンターテインメント性のある催しが必要であることを示している。
 チラシに書かれたイベントスケジュールを見るとイベントによって博物館を楽しくし、できるだけ多くの観客を誘致しようとする意図をよみとることができる。
 上段の「魅力的なイベントが盛りだくさん」として、目玉となる有名な人をならべて観客吸引をめざしたものである。
 その横に、「千里を学び、千里を考える」シリーズとして、アカデミックな講演、シンポジウム、それを平易にしたかたちでのトーク、市民が参加するフォーラムが12回にわたって組まれている。
 下段には「おでかけイベント・千里再発見」、「足湯イベント」、「まるごと体験・サテライト」など博物館を飛び出した催し。「音楽などお楽しみイベント」は市民の歌、踊り、演劇。「ゴールデンウィークの参加イベント」は子ども。そして「食」イベントと並び、盛りだくさんである。
 食(酒類も含め)は博物館としては問題が多いのだが、これから真剣に取り組んでいかねばならないものだ。この委員会から生まれた「喫茶ミリカ」は飲食設備や休憩の場がないこの博物館の設備のあり方に一石を投じたと思う。
 多様なイベントの展開は、市民の経験と社会的ネットワークが生かされて始めて可能になったもので、従来の博物館の企画ではとうてい不可能なものだった。観客が博物館に求めているのは学術的なものだけではない、楽しさや遊びの要素も必要であるというメッセージが伝わってくる。
展示に関する諸問題
(千里ニュータウンの思想と開発) 千里ニュータウンは1958年に開発が決定、60年にマスタープラン完成、61年に起工式、62年に入居を開始した、日本最初のニュータウンである。当時は時代の先端をゆき、現在は緑の多い瀟洒な町として住民の誇りは高く、現在進行形の町であるために、etic(客観的な外からの視点)と、emic(主観的な内側からの目)が詰まっている。それをどう切り取って見せるかが展示部会の仕事であった。
 千里ニュータウンは、ペリーの「近隣住区論」(1929年)の理論を取り入れ、それに日本独自の研究を加え、当時の社会的制約のなかでつくりあげられたまちであった。緑ゆたかな町という点ではハワードの田園都市論(1989年)に基づいて1903年から建設がはじまったレッチワースの町が具体例として参考にされた。展示にはその思想と実行のプロセスを示さねばならない。開発前と後の環境変化も重要であると考えた。
(生活をモノであらわす) しかし、もっとも重要なのは、ニュータウンで始まった生活様式の変化である。狭くとも閉鎖的な居住空間のなかに核家族が住むという生活形態は、日本文化の伝統ともいえる繁雑な人間関係から住民を解き放った。装置としても、水洗便所、ダイニングキッチンがそなわり、冷蔵庫、テレビなどの電化製品やインスタント食品が登場して、新しい生活様式がつくりだされた。テレビ、マンガの普及は子どもの世界に大きな影響力をもった。そういった状況をモノでどう表現するか。
 ブログを見ると早々に「展示品さがし」を始めている。博物館にはこの種の収集品がほとんどなかった。電化製品がなかなか集まらず「サンヨー・ミュージアム」から、借りなければならなかった。しかし、衣装、小物、おもちゃ、レコード、書籍などはよくあつまり、持ち込みの品物が増えた。その結果、物置から引っ張り出してきたという品物が多くなり、基本的に触ってもよい「体験型」展示になったのである。
このような収集活動のなかで、ほくさんバスオールと呼ばれる簡易風呂が発掘された。台所やベランダにおくことのできる小さなもので、当時の集合住宅の三分の一には風呂がなかったので、発売されると爆発的に売れたという。なつかしがる人が多く、会期中のシンポジウムや演劇の話題に取り上げられ、展示の目玉となった。もう一つの目玉は、あの小さなミゼットである。まだ所有している人がいて、さわってもよいということでロビーに展示し、人気を呼んだ。
 展示は、自然環境、ニュータウンの計画と開発、生活の変化、交通、1960~70年代の生活、子どもの世界という5セクションになった。(図録を参照のこと)
(博物館側からの視点) 監修する立場で見ていて、市民委員がもっとも苦しんだのは展示部会だった(展示ができあがったのは、一部委員が徹夜作業をした当日の朝である)。博物館の展示はモノで組み立てなければならないという特殊なひねりがある。これは、ふつう一般人が馴染んでいる写真や絵画そして文章による表現方法とはまったく異なるもので、どうしても写真、書類、パンフレットを並べ、長々しい解説文に頼る、立体感のない展示に陥りやすいのである。
 また、ニュータウンという日常生活の場の表現は、美術館や歴史資料館のように、個々の作品を独立して見せるのではなく、片々たる品物が組み合わされてかもし出す効果をねらうので、いっそう作業が複雑になる。もう一つ、時代的整合性を保つために、時間軸をさだめて品物をあつめる必要がある。
 展示は、まず陳列品を決定し、それを配置した見取り図(パース)を描くことが必須条件である。ところが、市民委員には世代、職業、地域による差があり、それぞれの関心も異なるので、なかなか統合見解が出せず、全体のパースが描けなかった。また、展示品は、市民の持ち込みが主体となったので、時間整合にズレが生じた。これは、本来は学芸員の仕事と言えるのだが、沸騰する議論と開幕に向けて猛烈なスピードで走り出している混沌とした状況下では、不可能だった。
 学芸員のプライドは、(たとえ、コラボレーションに徹したとはいえ)美しく、陳列品のauthenticityが保証され、ミスのない展示をすることにかかっている。市民の展示は、所々にほころびがあるし、文化祭やバザーのノリになったことは認めなければならない。委員の間で「進化する展示」という合い言葉ができた。これは「会期中であっても陳列品を代えて充実させる」、「展示そのものよりプロセスを見せることが大切」という意味である。カンペキではなくとも、専門家の批判など一蹴してしまうほどに、おもしろくパワーのある展覧会になったことは、今後、市民参加型展示が一般化するならば、モデルになることは確実だと考えている。

(つづく)

●千里ニュータウン展のブログはこちら
2008/04/16のBlog
吹田市立博物館発行の『館報』No.8が、できました。2006(平成18)年度-千里ニュータウン展をやった年です!-の活動報告が掲載されています。展覧会概要は学芸員F氏が書いておりますが、小山修三館長も「市民が企画した千里ニュータウン展」を寄稿しています。本人が承諾しておりますので、こちらのブログに転載いたします。長いので、3回に分けます(それでも長いけど)。ご一読いただければ幸いです

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市民が企画運営した千里ニュータウン展
小山修三

Ⅰ 日本における博物館:問題の背景
 いま、日本の博物館は大きな転換期にさしかかっている。その主たる原因は人が集められなくなっている(支出にたいして、収入が上がらない)ことだと思う。全国統計をみると、来館者数はながく減少がつづいており、各地で縮小、廃館の動きさえ出ている。なぜ博物館はここまで追い詰められたのかをまず考えることにしたい。

国家による創設と管理
 博物館という近代的装置は大英博物館(1759年に開館)に始まり、19世紀に入って社会的に定着したものである。後発の日本は、明治維新後の文明開化の時代に欧米諸国に追いつくために、国家が博物館をつくり、管理・運営を行うことにした。
 国家行政による指導管理という体制は、上述した段階では非常に有効な手段であった。これは大英博物館やスミソニアンなどの博物館が、国家の大きな助成をうけているとはいえ、基本的には市民の寄贈品や寄付金によってなりたち、支えられていることと比べて大きく異なる点である。
 日本最初の博物館として1872年に開館した東京博物館は計画時に二つの流れが交錯していたようだ。一つは、当時欧米で盛んだった万国博覧会で、先進技術が一目にしてわかる製品の集中展示されていることをみて、国民の教育に役立つと考え、博覧会を開いて産物を集める産業博物館とするもの、もう一つは、「秘宝」を収蔵し展示する宝物館をめざすものであった。結果的には、皇室の宝物を中心とする「帝室博物館」として現在の形に落ち着いたのである。
 このような歴史をもつ日本の博物館は、効率のよい反面、弱点をかかえこむことになる。まず、国家行政による指導という体制は、博物館のあり方を画一化してしまった。その後つくられた地方博物館もほとんど同じ形になり、多様性をうばってしまったのである。
 官営の弊害は、運営管理面にもあらわれている。とくに「教育」を目的としたことにより、高圧的な姿勢になったことがある。さらに、国有財産である所蔵品はかけがえのないお宝であるという考えは「モノ信仰」にまで近づき、代替可能な複製品やレプリカや民