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2008/07/18のBlog
[ 21:31 ]
[ 文学 ]
マキシ(マキノコさんの詩集)
マキシを書いているマキノコさんのブログ
詩人の村田正夫は、若い女性が詩を書き始めた場合、恋愛をすると、半分が詩作をやめ、結婚するとさらにその半分がやめ、子どもが生まれるとさらに半分がやめるというような意味のことを言っている。フェミニストの逆鱗に触れそうな言葉ではあるが、おそらく村田氏は、恋愛や結婚、子どもごときがきっかけで詩を書かなくなる人、というのは、もともと、詩を書き続けることができない人なのだ、というような意味のことを言いたいのかもしれない。
生まれつき、詩を「書き続けられる人」と、「書き続けられない人がいる」、のは事実だ、と思う。本当に詩を書く習慣のある人は、生きることと、詩を書くことが、深く結びついていて、人生で何が起こっても、詩を書きつづけていくことが、自然なこととしてあるのだと思う。
自らのブログに詩を書かれているマキノコさんも、生きることと詩を書くことが深く結びついている人だ、と感じる。マキノコさんの詩を読むと、人生で何が起こっても、詩を書く、ということが、息をしたり、水を飲んだりするのと同じくらい、自然な行為としてあった人なのだ、ということが伝わってくる。
マキノコさんは、長い間詩を書き続けているそうだが、私が読んだのは、最近三年間に書かれた詩だ。それら一つ一つは、本当にそのときその瞬間の詩人の息遣いまでが伝わってくる作品ばかりだ。たとえばこんな詩。
互い違い
そしてこんな詩も。
無題
透けるような空は
かつてない苦しみを味わうと、「もう自分はかつてと同じように笑ったり泣いたりすることはできない。」と感じることがある。
そんな苦痛は、どんな深い睡眠でも癒されず、こころの奥深くに沈んでいくような気がする。こんなときは、自分から本当の喜びが永久に失われてしまったのではないか、と思えてくる。
ところが、そんな癒しがたい苦痛は、ときに人に思ってもみない感覚をもたらす。
「もう、かつてと同じように笑ったり泣いたりできない」とある種の喪失感にとらわれ続けるうち、しなやかさを持った人は、誰も見つけたことのない、自分がそれまで知らなかったような種類の喜びを見つけてしまうのだ。
マキシを読むと、私がこれまで出会うことのなかった、そんな飛躍的な喜びの存在に気づかされ、言葉を失う。そして、全存在を裸のまま言葉に託している大胆さに胸を衝かれるのだ。
だが、マキシは大胆なだけではない。読むほうの魂の局所に触れてしまうような深みを表現していても、かならず澄んだ透明感があるのだ。
この透明感は、きっと、どんなときでも、マキノコさんが自由な精神を失わないところからくるのだろう、と思う。
しかし、私はこんな百の贅語をついやして、マキシの魅力を半減させているのである。
よい詩がみなそうであるように、「マキシ」もまた、どんな注釈も余計に感じさせるからだ。
さあ、私もそろそろこのページを閉じて、マキシを読もう。
マキシを書いているマキノコさんのブログ
詩人の村田正夫は、若い女性が詩を書き始めた場合、恋愛をすると、半分が詩作をやめ、結婚するとさらにその半分がやめ、子どもが生まれるとさらに半分がやめるというような意味のことを言っている。フェミニストの逆鱗に触れそうな言葉ではあるが、おそらく村田氏は、恋愛や結婚、子どもごときがきっかけで詩を書かなくなる人、というのは、もともと、詩を書き続けることができない人なのだ、というような意味のことを言いたいのかもしれない。
生まれつき、詩を「書き続けられる人」と、「書き続けられない人がいる」、のは事実だ、と思う。本当に詩を書く習慣のある人は、生きることと、詩を書くことが、深く結びついていて、人生で何が起こっても、詩を書きつづけていくことが、自然なこととしてあるのだと思う。
自らのブログに詩を書かれているマキノコさんも、生きることと詩を書くことが深く結びついている人だ、と感じる。マキノコさんの詩を読むと、人生で何が起こっても、詩を書く、ということが、息をしたり、水を飲んだりするのと同じくらい、自然な行為としてあった人なのだ、ということが伝わってくる。
マキノコさんは、長い間詩を書き続けているそうだが、私が読んだのは、最近三年間に書かれた詩だ。それら一つ一つは、本当にそのときその瞬間の詩人の息遣いまでが伝わってくる作品ばかりだ。たとえばこんな詩。
互い違い
そしてこんな詩も。
無題
透けるような空は
かつてない苦しみを味わうと、「もう自分はかつてと同じように笑ったり泣いたりすることはできない。」と感じることがある。
そんな苦痛は、どんな深い睡眠でも癒されず、こころの奥深くに沈んでいくような気がする。こんなときは、自分から本当の喜びが永久に失われてしまったのではないか、と思えてくる。
ところが、そんな癒しがたい苦痛は、ときに人に思ってもみない感覚をもたらす。
「もう、かつてと同じように笑ったり泣いたりできない」とある種の喪失感にとらわれ続けるうち、しなやかさを持った人は、誰も見つけたことのない、自分がそれまで知らなかったような種類の喜びを見つけてしまうのだ。
マキシを読むと、私がこれまで出会うことのなかった、そんな飛躍的な喜びの存在に気づかされ、言葉を失う。そして、全存在を裸のまま言葉に託している大胆さに胸を衝かれるのだ。
だが、マキシは大胆なだけではない。読むほうの魂の局所に触れてしまうような深みを表現していても、かならず澄んだ透明感があるのだ。
この透明感は、きっと、どんなときでも、マキノコさんが自由な精神を失わないところからくるのだろう、と思う。
しかし、私はこんな百の贅語をついやして、マキシの魅力を半減させているのである。
よい詩がみなそうであるように、「マキシ」もまた、どんな注釈も余計に感じさせるからだ。
さあ、私もそろそろこのページを閉じて、マキシを読もう。
2008/07/05のBlog
[ 20:35 ]
[ 美 ]
西嶋雄志さんの個展 「存在の気配」
ギャラリースペースに入ると、闇のなか、宙に浮かび上がる一人の人が見える。人体は、点で、表され、ところどころ闇も光も透過しているので、そこに人が存在している、ということが、まるで予感のように感じられる。
この、宙に浮かんだ人体を形作る点の一つ一つは、実は、西嶋さんと関わりのある、多種多様な人々の手によって作られたものだそうだ。
空間の中、この作品と向き合っていると、人が無数の人との接点に支えられて存在している、ということの意味が伝わってくる。
西嶋さんの個展を見させていただいたのは今回が初めてではないのだが、二年前の作品を思い返すと、重力と、それに逆らう力を持って立ち上がることを選択した、人間の不思議な存在について、考えさせられたように思う。今回の闇に浮かんだ作品を通じて、そこからさらに、重力との絆を断ち切っていくかのような、人間の姿を思った。
そして、この作品を見ていたら、なぜか私は、若くして逝った友人のことを思い出したのだ。死というのは不思議だ。この世に存在しなくなることなのにも関わらず、「彼が死んだ」と聞いた瞬間、なぜか彼の全存在が直接私に迫ってきたのだ。
すべての人は、死んで形を失い、塵となって無に帰す。人は、無に帰した瞬間、(西嶋さんの作品のように)、重力から解放されるのだ。きっと人は、ハイデガーも言うように、「無に先行して存在している」のに違いない。ところが、死んで無に帰しても、やはり誰かが存在していた事実そのものは無に帰さない。無数の人々との関わりの中で生きた現実もまた、無に帰すどころか、取り返しのつかないことなのだ。
「人が存在している」、ということは儚くて、形を失うことでありながら、同時に永遠に取り消せない何かなのだ、と、作品を通じて感じる。
そして、この作品が展示されていたギャラリーは、慶應4年に建設された、江戸時代末期の土蔵なのだった。関東大震災も、東京大空襲も、この土蔵だけが一人ぽつんと耐え抜いたのだそうだ。この、時の重みに沈んだような建物に入った瞬間、私は、現代の建物と、この建物の違いを考えさせられた。
それは、今、何か新しい建物を作る人は、自分が生きている間だけのことを考えてしか、建物を建てられなくなっている、ということなのだった。きっと、その建物が世代を超えていくことなど、到底考えることができなくなっているのだ。なぜなら、自分の死後、その建物が壊れても、自分にとっては、存在しないも同然なので、「自分が死ねばその建物を作った責任から完全に逃げ切れる」、という思いがどこかにあるような気がする。
しかし、この土蔵は違う。透明な闇のように黒い床や、不死身のように朽ちていない頑丈な柱、高い天を思わせる空間は、作る人が、世代を超えて、永遠に通じるものを求めていたからこそ生まれたような気がする。
今回、個展のオープニングではさらに、この土蔵の中で、金子なおさんの、ビオラが演奏された。曲はバッハの組曲第1番。このバッハの旋律がまた、同じメロディが各小節につぎつぎに受け継がれ、繰り返されてはいつまでもつづいていく永遠を思わせるようなメロディなのだった。
西嶋さんの作品が、三次元にあらわれた永遠なら、金子さんが届けてくださったのは、メロデイを通じて時間のなかにあらわれる永遠の姿のようだった。
西嶋さんの作品の存在と、土蔵と、バッハの旋律・・。みんな、それぞれが、かけがえのない「永遠」を暗喩していたように感じられました。これら三つが合わさって、何気ない日常も、実は永遠に通じている、と感じられる、稀有な時間を過ごすことができました。
西嶋雄志 存在の気配 浅草 ギャラリーef にて 7月21日まで
ギャラリースペースに入ると、闇のなか、宙に浮かび上がる一人の人が見える。人体は、点で、表され、ところどころ闇も光も透過しているので、そこに人が存在している、ということが、まるで予感のように感じられる。
この、宙に浮かんだ人体を形作る点の一つ一つは、実は、西嶋さんと関わりのある、多種多様な人々の手によって作られたものだそうだ。
空間の中、この作品と向き合っていると、人が無数の人との接点に支えられて存在している、ということの意味が伝わってくる。
西嶋さんの個展を見させていただいたのは今回が初めてではないのだが、二年前の作品を思い返すと、重力と、それに逆らう力を持って立ち上がることを選択した、人間の不思議な存在について、考えさせられたように思う。今回の闇に浮かんだ作品を通じて、そこからさらに、重力との絆を断ち切っていくかのような、人間の姿を思った。
そして、この作品を見ていたら、なぜか私は、若くして逝った友人のことを思い出したのだ。死というのは不思議だ。この世に存在しなくなることなのにも関わらず、「彼が死んだ」と聞いた瞬間、なぜか彼の全存在が直接私に迫ってきたのだ。
すべての人は、死んで形を失い、塵となって無に帰す。人は、無に帰した瞬間、(西嶋さんの作品のように)、重力から解放されるのだ。きっと人は、ハイデガーも言うように、「無に先行して存在している」のに違いない。ところが、死んで無に帰しても、やはり誰かが存在していた事実そのものは無に帰さない。無数の人々との関わりの中で生きた現実もまた、無に帰すどころか、取り返しのつかないことなのだ。
「人が存在している」、ということは儚くて、形を失うことでありながら、同時に永遠に取り消せない何かなのだ、と、作品を通じて感じる。
そして、この作品が展示されていたギャラリーは、慶應4年に建設された、江戸時代末期の土蔵なのだった。関東大震災も、東京大空襲も、この土蔵だけが一人ぽつんと耐え抜いたのだそうだ。この、時の重みに沈んだような建物に入った瞬間、私は、現代の建物と、この建物の違いを考えさせられた。
それは、今、何か新しい建物を作る人は、自分が生きている間だけのことを考えてしか、建物を建てられなくなっている、ということなのだった。きっと、その建物が世代を超えていくことなど、到底考えることができなくなっているのだ。なぜなら、自分の死後、その建物が壊れても、自分にとっては、存在しないも同然なので、「自分が死ねばその建物を作った責任から完全に逃げ切れる」、という思いがどこかにあるような気がする。
しかし、この土蔵は違う。透明な闇のように黒い床や、不死身のように朽ちていない頑丈な柱、高い天を思わせる空間は、作る人が、世代を超えて、永遠に通じるものを求めていたからこそ生まれたような気がする。
今回、個展のオープニングではさらに、この土蔵の中で、金子なおさんの、ビオラが演奏された。曲はバッハの組曲第1番。このバッハの旋律がまた、同じメロディが各小節につぎつぎに受け継がれ、繰り返されてはいつまでもつづいていく永遠を思わせるようなメロディなのだった。
西嶋さんの作品が、三次元にあらわれた永遠なら、金子さんが届けてくださったのは、メロデイを通じて時間のなかにあらわれる永遠の姿のようだった。
西嶋さんの作品の存在と、土蔵と、バッハの旋律・・。みんな、それぞれが、かけがえのない「永遠」を暗喩していたように感じられました。これら三つが合わさって、何気ない日常も、実は永遠に通じている、と感じられる、稀有な時間を過ごすことができました。
西嶋雄志 存在の気配 浅草 ギャラリーef にて 7月21日まで
2008/06/29のBlog
[ 19:09 ]
[ 随想 ]
美容院に行って手渡された雑誌に、「運命の腕時計特集」というのが出ていた。
腕時計に限らず、「運命の○○と出会う」というタイトルはときどきファッション誌で見かけるように思う。○○の部分は、バッグであったり、靴であったり、アクセサリーであったりいろいろだ。
しかし、「運命の」というのはなんだろう。
「運命の」、というからには、自分にとっての、「一生もの」を選ぶ、ということなのだろうか。だが、これらの雑誌のいう「運命のバッグ」や「運命の時計」が「一生もの」を指しているのではないことは明らかだ。一生ものの買い物であれば、自分にとって「これ以上ないもの」を選ぶ必要があるが、そんなことはできはしない。バッグであろうと靴であろうと、ブランドの名前だけでも、聞いたことがないようなものまで膨大な種類があり、しかも、毎号毎号、その同じブランドの中でもたくさんの種類の新しいモデルがつぎつぎに掲載されているのを見れば、「これこそ、これ以上ない一生ものの品だ」、と思ったものですら、翌週にはその価値は否定されてしまうだろう。
次々に新しいものが出てくることが分かっているのだから、勢い、「一生ものの何かを選ぼう」などという酔狂なことは考えなくなる。把握しきれない膨大なものたちの中から、何かが目に付くのは、運命ではなく偶然だ。あくまでも、たまたまそのときの気分で「こういうのが今の気分に一番合う」、というのが、選ぶ基準になってくる。
こういうのは、おおよそ、「運命」、とは程遠い買い物の仕方かもしれない。偶然と気分で選ぶ以上、買い物はどんなに吟味して買ったものでも、その場限りの衝動買いの様相を呈してくるのだ。
もしも、最初から選択肢が二つか三つしかなく、新しい製品が滅多に出ない、となれば、二つか三つの中から選んだものを、ずっと使い続けるしかなくなる。これぞ、運命的。きっと、物そのものが少なかった昔は、「運命的な」買い物ばかりさせられていたに違いない。
ではなぜ物の豊富な今の時代に、ファッション雑誌はこぞって「運命の」買い物をさせたがるのだろう。しかも、本来、一回的なはずの「運命」なのに、雑誌は何回も何回も「運命の○○」特集を組むのだ。買っても買ってもすぐに品物の価値が否定されてしまうからだろうか。それとも、偶然まかせに気分で選ぶしかないからこそ、それを「運命だ」と思わせたいからだろうか・・・。
もしかしたら、「運命の○○」というフレーズは、「もはや物との出会いが、人間の力で制御できない」、という意味かもしれない。しかもこれは「天運」とかそういうものではなくて、今や、溢れ出る物の濁流のほうが、出会いの主導権を握っている。人間はその流れに飲み込まれながら、気分次第で場当たり的にそれに対峙するしかない。人間のほうが商品の濁流に押し流されているので、もう自分の側から最上のものを選んだりはできない。「一生ものの何か」を買うことなど夢のまた夢だ。人も濁流の一部である以上、そのときそのときの気分が変わるたびに自分にとっての「運命の物」もコロコロ変わる。そして「これぞ運命の物」と思った物も、すぐに私たちにぶち当たっては流されていく。どんどん流されていくから、雑誌もその都度「運命の○○」特集を組む。これぞ、今を生きる私に課せられた「運命の買い物」なのである。
腕時計に限らず、「運命の○○と出会う」というタイトルはときどきファッション誌で見かけるように思う。○○の部分は、バッグであったり、靴であったり、アクセサリーであったりいろいろだ。
しかし、「運命の」というのはなんだろう。
「運命の」、というからには、自分にとっての、「一生もの」を選ぶ、ということなのだろうか。だが、これらの雑誌のいう「運命のバッグ」や「運命の時計」が「一生もの」を指しているのではないことは明らかだ。一生ものの買い物であれば、自分にとって「これ以上ないもの」を選ぶ必要があるが、そんなことはできはしない。バッグであろうと靴であろうと、ブランドの名前だけでも、聞いたことがないようなものまで膨大な種類があり、しかも、毎号毎号、その同じブランドの中でもたくさんの種類の新しいモデルがつぎつぎに掲載されているのを見れば、「これこそ、これ以上ない一生ものの品だ」、と思ったものですら、翌週にはその価値は否定されてしまうだろう。
次々に新しいものが出てくることが分かっているのだから、勢い、「一生ものの何かを選ぼう」などという酔狂なことは考えなくなる。把握しきれない膨大なものたちの中から、何かが目に付くのは、運命ではなく偶然だ。あくまでも、たまたまそのときの気分で「こういうのが今の気分に一番合う」、というのが、選ぶ基準になってくる。
こういうのは、おおよそ、「運命」、とは程遠い買い物の仕方かもしれない。偶然と気分で選ぶ以上、買い物はどんなに吟味して買ったものでも、その場限りの衝動買いの様相を呈してくるのだ。
もしも、最初から選択肢が二つか三つしかなく、新しい製品が滅多に出ない、となれば、二つか三つの中から選んだものを、ずっと使い続けるしかなくなる。これぞ、運命的。きっと、物そのものが少なかった昔は、「運命的な」買い物ばかりさせられていたに違いない。
ではなぜ物の豊富な今の時代に、ファッション雑誌はこぞって「運命の」買い物をさせたがるのだろう。しかも、本来、一回的なはずの「運命」なのに、雑誌は何回も何回も「運命の○○」特集を組むのだ。買っても買ってもすぐに品物の価値が否定されてしまうからだろうか。それとも、偶然まかせに気分で選ぶしかないからこそ、それを「運命だ」と思わせたいからだろうか・・・。
もしかしたら、「運命の○○」というフレーズは、「もはや物との出会いが、人間の力で制御できない」、という意味かもしれない。しかもこれは「天運」とかそういうものではなくて、今や、溢れ出る物の濁流のほうが、出会いの主導権を握っている。人間はその流れに飲み込まれながら、気分次第で場当たり的にそれに対峙するしかない。人間のほうが商品の濁流に押し流されているので、もう自分の側から最上のものを選んだりはできない。「一生ものの何か」を買うことなど夢のまた夢だ。人も濁流の一部である以上、そのときそのときの気分が変わるたびに自分にとっての「運命の物」もコロコロ変わる。そして「これぞ運命の物」と思った物も、すぐに私たちにぶち当たっては流されていく。どんどん流されていくから、雑誌もその都度「運命の○○」特集を組む。これぞ、今を生きる私に課せられた「運命の買い物」なのである。
2008/06/22のBlog
[ 20:15 ]
[ プロパガンダ ]
私の愛読するブログ、warmgunさんや、ツナミンさんの天声人語の批判を読むと、溜飲が下がる思いがする。
天声人語ってどういう意味だ、といつも思うのだが、この言葉を聞くたびに、NHK教育でやっていた番組、「できるかな」を思い出す。故つかせのりこ氏がやっていた、天の声という奴だ。天声人語とは、日本中に、あのコラムの内容が天の声になって空高く響き渡っているという意味なのだろうか。
かくいう私も、随分前に、天声人語にイチャモンをつけたことがあった。カフカについて取り上げた内容で、カフカの言葉の引用の仕方が間違っていたので、投書したのだ。そうしたら、翌週の天声人語に、お詫びと訂正の文章が小さく出ていたのだが、その訂正の引用の仕方がまた間違っていたので再度投書した。そうしたら、今度は、翌週に訂正の文章が間違っていたことを詫びる内容の長めの文章が出ていた。ただでさえ限られた字数なのに、その日は、お詫びと訂正でコラムがさらに短くなっていて、ザマーミロと思った覚えがある。
天の声になるには百年早い、ということだ。
天声人語ってどういう意味だ、といつも思うのだが、この言葉を聞くたびに、NHK教育でやっていた番組、「できるかな」を思い出す。故つかせのりこ氏がやっていた、天の声という奴だ。天声人語とは、日本中に、あのコラムの内容が天の声になって空高く響き渡っているという意味なのだろうか。
かくいう私も、随分前に、天声人語にイチャモンをつけたことがあった。カフカについて取り上げた内容で、カフカの言葉の引用の仕方が間違っていたので、投書したのだ。そうしたら、翌週の天声人語に、お詫びと訂正の文章が小さく出ていたのだが、その訂正の引用の仕方がまた間違っていたので再度投書した。そうしたら、今度は、翌週に訂正の文章が間違っていたことを詫びる内容の長めの文章が出ていた。ただでさえ限られた字数なのに、その日は、お詫びと訂正でコラムがさらに短くなっていて、ザマーミロと思った覚えがある。
天の声になるには百年早い、ということだ。
[ 19:15 ]
[ 映画 ]
初めて映画館に映画を観にいったのは、4つのときだった。
父親は、家族サービスをまったくしない人だったが、自分の観たい映画には勝手に私をよく連れて行ったのだ。
その映画は、白黒映画で、主人公が死病に罹っている、ということは父の説明でわかったが、なぜか最後は、その死病ではなく、抗争に巻き込まれて殺されてしまう、という話だった。
このときやたら印象に残ったのは、街の下水のような泥沼の中に女の子の人形が死んだように浮いていた場面だ。
私は、観ていても面白くないので、早く終わらないか早く終わらないか、とずっと待っていたから、主人公が死んだときは、ちょっと嬉しかったのを覚えている。
こんなことを思い出したのも、自分が映画を観ない人生を送っているのは、このときの映画が原因ではないか、と思って、最近、この映画をもう一度観なおしたからだ。黒澤明の「酔いどれ天使」である。
今観たら、また違う感想を抱くか、と思ったのだが、やっぱり私にはピンと来なかった。これも、ある意味で、あのとき観てつまらなかったという先入観がそうさせただけかもしれない。今回初めて観たのだとしたら、別の感想を抱いた可能性もある。いや、それでもやっぱり、私はつまらない、と感じたかもしれない。しかし、改めてこの映画を観て思ったのは、私はこの映画のせいで映画を観なくなったのではなく、もともと私には映画を観る目がないということだった。
「映画は観たほうがいい」、という気持ちを抱いてはいるのだが、なかなか、億劫で観ることができない。稀に好きになった映画は何回でも観てしまうのだが、そういう映画に出会っても、そこから映画を観る習慣、は身についていかなかった。これから残された生涯で、どのくらいの本数の映画が観られるのか分からないが、数ある映画の中から、どれを観たらいいのか、本を選ぶのと同じくらい、難しいような気がする。
父親は、家族サービスをまったくしない人だったが、自分の観たい映画には勝手に私をよく連れて行ったのだ。
その映画は、白黒映画で、主人公が死病に罹っている、ということは父の説明でわかったが、なぜか最後は、その死病ではなく、抗争に巻き込まれて殺されてしまう、という話だった。
このときやたら印象に残ったのは、街の下水のような泥沼の中に女の子の人形が死んだように浮いていた場面だ。
私は、観ていても面白くないので、早く終わらないか早く終わらないか、とずっと待っていたから、主人公が死んだときは、ちょっと嬉しかったのを覚えている。
こんなことを思い出したのも、自分が映画を観ない人生を送っているのは、このときの映画が原因ではないか、と思って、最近、この映画をもう一度観なおしたからだ。黒澤明の「酔いどれ天使」である。
今観たら、また違う感想を抱くか、と思ったのだが、やっぱり私にはピンと来なかった。これも、ある意味で、あのとき観てつまらなかったという先入観がそうさせただけかもしれない。今回初めて観たのだとしたら、別の感想を抱いた可能性もある。いや、それでもやっぱり、私はつまらない、と感じたかもしれない。しかし、改めてこの映画を観て思ったのは、私はこの映画のせいで映画を観なくなったのではなく、もともと私には映画を観る目がないということだった。
「映画は観たほうがいい」、という気持ちを抱いてはいるのだが、なかなか、億劫で観ることができない。稀に好きになった映画は何回でも観てしまうのだが、そういう映画に出会っても、そこから映画を観る習慣、は身についていかなかった。これから残された生涯で、どのくらいの本数の映画が観られるのか分からないが、数ある映画の中から、どれを観たらいいのか、本を選ぶのと同じくらい、難しいような気がする。
[ 08:20 ]
[ 不埒な日常 ]
最近、「生きていて良かった」、と思うときはどんなときか、とたずねられた。
私がそんな風に思うのは、「とても個性的な人に会ったとき」かもしれない。
常識にまみれきった、ある種のあきらめにとらわれた人には「節操があるな、大人だな。」と感心する気持ちを覚えるが、それにもまして、稀に、社会通念を超越した、個性的な人に出会うと、わけもなく嬉しくなってきてしまう。
近隣で開業している獣医は間違いなく、そんな一人だと思う。
この獣医は治療の腕は確かなのだが、とても口が悪い。
近隣の奥さんが、具合の悪い犬を連れて行ったところ、見た瞬間、「これはもうダメです。」と言われたらしい。
「そんなこといわずに、何か、注射だけでも・・・」と言ったら、
「ダメなものはダメ!!帰りなさい!」と追い返されたという。
しかも、犬の耳元で、「早く死になさい!」と怒鳴ったらしい。
翌朝その犬は死んだそうだ。
そういえば、この「早く死になさい!」は、私の飼っていた犬も言われた。
相当な高齢だった私の犬は、晩年はこの獣医の世話になることが多かった。私が医院の扉を開けるたび、「まだ生かそうとしてる。」と睨みつけられたものだ。
そして治療が終わると、「呪文かけといてやる。早く死になさい!」と耳元で怒鳴るのだ。
こういうせりふを聞いて怒る飼い主もいるのだろうが、私はいつも、先生の犬たちへの絶大なる愛情を感じていたので、こういう呪文も笑いを噛み殺しながらありがたく拝聴していた。
自分が死にそうになったとき、医者が心の中で、「はやく死ね」と思いながらも猫なで声で、「まだ当分死なないですよ。」と言うのと、「死ぬな」、と思いながら「はやく死ね!」と怒鳴るのと、どちらが長生きできるのだろう。私の犬は、最後には呪文の通りになったが、それまでかなりしぶとく持ちこたえた。これも、あの先生の呪いのおかげだったのだろう。
私がそんな風に思うのは、「とても個性的な人に会ったとき」かもしれない。
常識にまみれきった、ある種のあきらめにとらわれた人には「節操があるな、大人だな。」と感心する気持ちを覚えるが、それにもまして、稀に、社会通念を超越した、個性的な人に出会うと、わけもなく嬉しくなってきてしまう。
近隣で開業している獣医は間違いなく、そんな一人だと思う。
この獣医は治療の腕は確かなのだが、とても口が悪い。
近隣の奥さんが、具合の悪い犬を連れて行ったところ、見た瞬間、「これはもうダメです。」と言われたらしい。
「そんなこといわずに、何か、注射だけでも・・・」と言ったら、
「ダメなものはダメ!!帰りなさい!」と追い返されたという。
しかも、犬の耳元で、「早く死になさい!」と怒鳴ったらしい。
翌朝その犬は死んだそうだ。
そういえば、この「早く死になさい!」は、私の飼っていた犬も言われた。
相当な高齢だった私の犬は、晩年はこの獣医の世話になることが多かった。私が医院の扉を開けるたび、「まだ生かそうとしてる。」と睨みつけられたものだ。
そして治療が終わると、「呪文かけといてやる。早く死になさい!」と耳元で怒鳴るのだ。
こういうせりふを聞いて怒る飼い主もいるのだろうが、私はいつも、先生の犬たちへの絶大なる愛情を感じていたので、こういう呪文も笑いを噛み殺しながらありがたく拝聴していた。
自分が死にそうになったとき、医者が心の中で、「はやく死ね」と思いながらも猫なで声で、「まだ当分死なないですよ。」と言うのと、「死ぬな」、と思いながら「はやく死ね!」と怒鳴るのと、どちらが長生きできるのだろう。私の犬は、最後には呪文の通りになったが、それまでかなりしぶとく持ちこたえた。これも、あの先生の呪いのおかげだったのだろう。
2008/06/21のBlog
[ 20:28 ]
[ 文学 ]
何かを切に求めているのに、それが手に入らないとき、それを生み出すことは可能だろうか。
たとえば、自分が読みたい本を見つけられずにいるとき、「これこそ読みたかった本だ」というものを自分で書けたらさぞ楽しいだろう、と思う。
きっと、カフカのような作家は、自分が切望する小説がどこを探しても見当たらないので、必要に迫られて自分で生み出したのに違いない、という気がする。
「必要に迫られて」書かれた小説は本当に素晴らしい。
そういう小説には、「次は何を書こうか」、、などと考えている悠長さはない。
そんな、切羽詰った小説を読みたい。
たとえば、自分が読みたい本を見つけられずにいるとき、「これこそ読みたかった本だ」というものを自分で書けたらさぞ楽しいだろう、と思う。
きっと、カフカのような作家は、自分が切望する小説がどこを探しても見当たらないので、必要に迫られて自分で生み出したのに違いない、という気がする。
「必要に迫られて」書かれた小説は本当に素晴らしい。
そういう小説には、「次は何を書こうか」、、などと考えている悠長さはない。
そんな、切羽詰った小説を読みたい。
2008/06/19のBlog
[ 22:14 ]
[ 信仰 ]
三人の死刑が執行されたそうだ。
「あなたは死刑に賛成か反対か」と問われたら、「反対」と答えるだろう。しかし、このように立て続けに死刑が執行された場合、私は、死刑に反対するというのはどういうことなのか、と考えさせられる。
私は今回の死刑の執行に賛成した覚えはないが、私の立っている地面のつづきに、法務大臣がいて、執行を命じるサインをする。
私は死刑廃止の署名を集めればよかったのだろうか。
「死刑を執行するな」、と大臣に手紙を書けばよかったのだろうか。
大臣が法務省から出てくるところを狙って、襲い掛かればよかったのだろうか。
私が執行を阻止できないのは、いつまでも「死刑を阻止できなかった」責任を追求されないからかもしれない。
もしも、将来、死刑が廃止されたとして、「あの当時は、死刑制度に賛成する人が殆どでしたからねえ・・」と昔語りをされたとき、私も、死刑に賛成したことになっているのだろう。そのときになって初めて、私は死刑を阻止できなかった責任を追及されるのかもしれないが、そのとき私が死んでいたら責任を取らないで済むのだろう。
こんな風に、「私は死刑囚ではない。」「私は責任から逃げおおせる」、そう思っているから死刑を廃止できないのかもしれない。
死刑に賛成している人間のほうが、私ほど欺瞞的ではない。
しかし、どうやったら生きているうちに責任を果たせるのか。
選挙で死刑に反対する人に投票すればいいのだろうか。
死刑に賛成する人に、死刑に反対するように説得すればいいのだろうか。
大臣がサインをしないようにひたすら祈り続ければいいのだろうか。
分からない。
そして、死刑を阻止できなかったことについて、誰に詫びたらよいのだろう。
死刑囚にか?
だが、彼らは、もう死んだ。
私もそれに手を貸したのだ。
彼らにしてみたら、私は死刑に賛成している、と思っただろう。
「あなたは死刑に賛成か反対か」と問われたら、「反対」と答えるだろう。しかし、このように立て続けに死刑が執行された場合、私は、死刑に反対するというのはどういうことなのか、と考えさせられる。
私は今回の死刑の執行に賛成した覚えはないが、私の立っている地面のつづきに、法務大臣がいて、執行を命じるサインをする。
私は死刑廃止の署名を集めればよかったのだろうか。
「死刑を執行するな」、と大臣に手紙を書けばよかったのだろうか。
大臣が法務省から出てくるところを狙って、襲い掛かればよかったのだろうか。
私が執行を阻止できないのは、いつまでも「死刑を阻止できなかった」責任を追求されないからかもしれない。
もしも、将来、死刑が廃止されたとして、「あの当時は、死刑制度に賛成する人が殆どでしたからねえ・・」と昔語りをされたとき、私も、死刑に賛成したことになっているのだろう。そのときになって初めて、私は死刑を阻止できなかった責任を追及されるのかもしれないが、そのとき私が死んでいたら責任を取らないで済むのだろう。
こんな風に、「私は死刑囚ではない。」「私は責任から逃げおおせる」、そう思っているから死刑を廃止できないのかもしれない。
死刑に賛成している人間のほうが、私ほど欺瞞的ではない。
しかし、どうやったら生きているうちに責任を果たせるのか。
選挙で死刑に反対する人に投票すればいいのだろうか。
死刑に賛成する人に、死刑に反対するように説得すればいいのだろうか。
大臣がサインをしないようにひたすら祈り続ければいいのだろうか。
分からない。
そして、死刑を阻止できなかったことについて、誰に詫びたらよいのだろう。
死刑囚にか?
だが、彼らは、もう死んだ。
私もそれに手を貸したのだ。
彼らにしてみたら、私は死刑に賛成している、と思っただろう。
2008/06/08のBlog
[ 09:55 ]
[ カフカ ]
関連するnadjaさんの記事
~ ある朝グレゴール・ザムザが、気がかりな夢から目覚めると、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変身しているのを発見した。~ カフカ「変身」
奇妙な夢から目覚めた朝は決まって、世界が平常のままであることに少し驚く。普段は、何が起こっても、どこまでも何も変わらない世界に、うんざりさせられているというのに、この瞬間だけは、世界がもとのままであることが滅多にない神秘的なことのように感じられて、私は好きなのだ。
奇妙な夢であればあるほど、起きたときの「夢オチ」感は大きいわけだが、奇想天外な映画や、小説でも、「これは夢でした」という陳腐な夢オチを用いている結末は、ときどきあるようだ。
しかし、「変身」はどうだろう。巨大な虫に変身する小説を読んだ場合、結末で、「・・・実は全部夢でした。」というオチを予測する読者もいるかもしれない。だが、書き出しの一節、「~気がかりな夢から目覚めると~」で、そんな「夢オチ」の予測は封殺される。主人公が巨大な虫に変身したのは、やはり夢じゃなかったのである。
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奇妙な夢であればあるほど、起きたときの「夢オチ」感は大きいわけだが、奇想天外な映画や、小説でも、「これは夢でした」という陳腐な夢オチを用いている結末は、ときどきあるようだ。
しかし、「変身」はどうだろう。巨大な虫に変身する小説を読んだ場合、結末で、「・・・実は全部夢でした。」というオチを予測する読者もいるかもしれない。だが、書き出しの一節、「~気がかりな夢から目覚めると~」で、そんな「夢オチ」の予測は封殺される。主人公が巨大な虫に変身したのは、やはり夢じゃなかったのである。
2008/05/25のBlog
[ 21:17 ]
[ 映画 ]
関連するツナミンさんの記事
先日、若松孝二監督の「実録・連合赤軍」という映画を観てきた。私は普段、映画館はおろか、DVDレンタルや、テレビ放映のものも含め、ほとんど映画を観ない。年間平均鑑賞本数は、4~6本くらいである。なので、映画について何かを語れるような人間では全然ないのだが、「映画館に行って映画を観る」というのは私の生活では本当に滅多にない大イベントでもあるし、ツナミンさんの見た夢の件もあるので(笑)、備忘録として、簡単に感想を書きとめておこうと思う。
まず、映画を観た後の感想としては、制作費もない中、俳優たちの手弁当と、監督の私財を投じて3時間以上もある映画を作った監督の執念のようなものを感じ、すごい力作だなあ、という印象を受けた。ただ、私が映画に期待していたものと、監督が実際に作ったものにはズレがあるように思った。そこに、ちょっと満足できない、少々物足らない感じを抱いたことも確かだった。
物足りなさの原因をいろいろ考えたのだが、「事実を映画にする」というのは、小説を映画にするのとはまた違った難しさがあるのかもしれない、ということだった。事実に起きたことを時系列に映像にしていくだけだと、単なる再現フィルムや、事件のあらすじを追う紙芝居のようになってしまう危険性があって、おおよその事件の概要を知っている人には、映画にした意味があまり感じられない可能性が高くなるように思う。ツナミンさんも指摘されていたが、私自身も、連合赤軍事件のおおよその顛末を知っていたためか、映画で描かれた内容自体には、「衝撃を受ける」、というようなことはなかった。
そもそも、私がこの映画を観たいと思ったのは、なぜ、仲間内同士で粛清が始まったのか、どうしてそうならざるをえなかったのか、についての監督の考えが映画に反映されているかもしれない、という思いがあったからだった。しかし、最初の総括要求と、リンチが始まった場面では、けっこう唐突に、リーダーが「我々は、殴ることを通じて共産主義化を達成させる。」と宣言するだけで、なぜそういう行動が出てきたか、しかも、仲間の誰かを異端視し、「暴力をふるうことが革命を起こすためには絶対的に正しいんだ」という雰囲気をみんなで共有していった過程、それについての監督の洞察もあまり感じられなかった。最初に、メンバーがリンチの結果死んだときも、リーダーが「メンバーの敗北死」を宣言するだけで、あまり他のメンバーの心の動きが描かれてはいなかったように思う。普通の部外者の感覚なら、対象者が死にそうになった時点で「もうやめよう」となる可能性もあるわけだが、そうはならず、死ぬまで殴り、実際に人が死んだ後では、皆が「次は自分が殺されるかもしれない」という激しい恐怖心から、絶えず自分ではない誰かをスケープゴートにせざるを得なくなった集団の心理の必然的な動きなど、もうちょっと見せ方があったのではないか、と思わされた。
このような描写を通じて思ったのは、監督は、すごく連合赤軍の人たちを、最終的には愛おしいと思っているのだな・・、ということだった。リーダーや仲間たちが、恣意的で独断的な暴力を、「共産主義化の観点から」理論武装するところや、メンバーの男女関係を糾弾して死に追いやったリーダー二人が、自らお互いに不倫の関係に陥るところ、あさま山荘で、人質の奥さんに、「僕らは戦争のない平和な日本を作ろうと思ってるんです」といいながら銃を乱射するところなど、皮肉に描こうとすれば描けたのだろうが、そういうことは一切しておらず、あくまで彼らがそうであったようにしか描いていなかったように思う。
こういう場面を鑑賞していると、やはり、事実として起こった事件だからこその強みがこの映画を支えているように思った。もしもこの映画が、若松監督がゼロから考えたフィクションだったとしたら、この描き方では観客は誰も納得しないだろうと思う。「なぜ些細なことが原因で仲間内で殺し合いが起こるのか」とか、「普通は誰かが止めに入るだろう。ありえない」となってしまい、ストーリーに無理のある、理解に苦しむナンセンスな映画になってしまっただろうと思う。
しかし、映画のパンフレットを読んで、なぜ監督がこのような描き方をしたのか、その一端が分かったような気がした。監督は、パンフレットの中で、元赤軍メンバーたちと座談会をしているのだが、その中で、「誰かが勇気を持って止めに入れば、粛清は1~2人くらいで済んだのではないか。」ということを問いかけている。それが監督が少年に言わせた最後のセリフ、「俺たちには勇気がなかったんだ。」につながっていったのだと思われた。しかし、これは、赤軍のメンバーの言葉を借りれば若松監督自身が「総括要求」されかねない、大変に甘い認識なのではないか、と私にも思われた。監督は、「あれ以外の選択肢が仲間たちにありえたのではないか」、と他行為の可能性を言っているのかもしれないが、実際はそんな生易しいものではなかったと思う。異を唱えれば、確実に殺されることが分かりきっている中で、誰が勇気など出してリンチを止めに入るのだろう。
「違う可能性もあったのではないか」、と監督が頭の片隅で思っている以上、やはり、映画の中の仲間たちの描写が、物足らなくならざるを得なかったのは仕方がなかったのだな、と思わされた。連合赤軍の映画を撮るからには、やはり、12人もの仲間が殺されざるを得なかった彼らの「必然」を描いて欲しかった気がするのだが、それが、「必然」のようには描かれていないところに物足りなさがあるように思った。
でも、私にとって反省させられる場面も数多くあった。日常生活や仕事の場面でも、自分が「おかしいな。」と思っていても、その場の雰囲気で言い出せないことというのはたくさんあり、また、言わなかったために、その場の雰囲気だけで物事が決まったり、進んでいくことはよくあるのである。まさに、自分に「勇気がない」ということについて、これまでのことを色々思い出し、暗い気持ちになったことは確かである。この意味で、「見てよかった」と思った映画であったことは間違いない。
※前売りチケットを分けてくださった、ウェルカムトゥザ中心荘の管理人さんにこの場を借りて、厚くお礼を申し上げます。
先日、若松孝二監督の「実録・連合赤軍」という映画を観てきた。私は普段、映画館はおろか、DVDレンタルや、テレビ放映のものも含め、ほとんど映画を観ない。年間平均鑑賞本数は、4~6本くらいである。なので、映画について何かを語れるような人間では全然ないのだが、「映画館に行って映画を観る」というのは私の生活では本当に滅多にない大イベントでもあるし、ツナミンさんの見た夢の件もあるので(笑)、備忘録として、簡単に感想を書きとめておこうと思う。
まず、映画を観た後の感想としては、制作費もない中、俳優たちの手弁当と、監督の私財を投じて3時間以上もある映画を作った監督の執念のようなものを感じ、すごい力作だなあ、という印象を受けた。ただ、私が映画に期待していたものと、監督が実際に作ったものにはズレがあるように思った。そこに、ちょっと満足できない、少々物足らない感じを抱いたことも確かだった。
物足りなさの原因をいろいろ考えたのだが、「事実を映画にする」というのは、小説を映画にするのとはまた違った難しさがあるのかもしれない、ということだった。事実に起きたことを時系列に映像にしていくだけだと、単なる再現フィルムや、事件のあらすじを追う紙芝居のようになってしまう危険性があって、おおよその事件の概要を知っている人には、映画にした意味があまり感じられない可能性が高くなるように思う。ツナミンさんも指摘されていたが、私自身も、連合赤軍事件のおおよその顛末を知っていたためか、映画で描かれた内容自体には、「衝撃を受ける」、というようなことはなかった。
そもそも、私がこの映画を観たいと思ったのは、なぜ、仲間内同士で粛清が始まったのか、どうしてそうならざるをえなかったのか、についての監督の考えが映画に反映されているかもしれない、という思いがあったからだった。しかし、最初の総括要求と、リンチが始まった場面では、けっこう唐突に、リーダーが「我々は、殴ることを通じて共産主義化を達成させる。」と宣言するだけで、なぜそういう行動が出てきたか、しかも、仲間の誰かを異端視し、「暴力をふるうことが革命を起こすためには絶対的に正しいんだ」という雰囲気をみんなで共有していった過程、それについての監督の洞察もあまり感じられなかった。最初に、メンバーがリンチの結果死んだときも、リーダーが「メンバーの敗北死」を宣言するだけで、あまり他のメンバーの心の動きが描かれてはいなかったように思う。普通の部外者の感覚なら、対象者が死にそうになった時点で「もうやめよう」となる可能性もあるわけだが、そうはならず、死ぬまで殴り、実際に人が死んだ後では、皆が「次は自分が殺されるかもしれない」という激しい恐怖心から、絶えず自分ではない誰かをスケープゴートにせざるを得なくなった集団の心理の必然的な動きなど、もうちょっと見せ方があったのではないか、と思わされた。
このような描写を通じて思ったのは、監督は、すごく連合赤軍の人たちを、最終的には愛おしいと思っているのだな・・、ということだった。リーダーや仲間たちが、恣意的で独断的な暴力を、「共産主義化の観点から」理論武装するところや、メンバーの男女関係を糾弾して死に追いやったリーダー二人が、自らお互いに不倫の関係に陥るところ、あさま山荘で、人質の奥さんに、「僕らは戦争のない平和な日本を作ろうと思ってるんです」といいながら銃を乱射するところなど、皮肉に描こうとすれば描けたのだろうが、そういうことは一切しておらず、あくまで彼らがそうであったようにしか描いていなかったように思う。
こういう場面を鑑賞していると、やはり、事実として起こった事件だからこその強みがこの映画を支えているように思った。もしもこの映画が、若松監督がゼロから考えたフィクションだったとしたら、この描き方では観客は誰も納得しないだろうと思う。「なぜ些細なことが原因で仲間内で殺し合いが起こるのか」とか、「普通は誰かが止めに入るだろう。ありえない」となってしまい、ストーリーに無理のある、理解に苦しむナンセンスな映画になってしまっただろうと思う。
しかし、映画のパンフレットを読んで、なぜ監督がこのような描き方をしたのか、その一端が分かったような気がした。監督は、パンフレットの中で、元赤軍メンバーたちと座談会をしているのだが、その中で、「誰かが勇気を持って止めに入れば、粛清は1~2人くらいで済んだのではないか。」ということを問いかけている。それが監督が少年に言わせた最後のセリフ、「俺たちには勇気がなかったんだ。」につながっていったのだと思われた。しかし、これは、赤軍のメンバーの言葉を借りれば若松監督自身が「総括要求」されかねない、大変に甘い認識なのではないか、と私にも思われた。監督は、「あれ以外の選択肢が仲間たちにありえたのではないか」、と他行為の可能性を言っているのかもしれないが、実際はそんな生易しいものではなかったと思う。異を唱えれば、確実に殺されることが分かりきっている中で、誰が勇気など出してリンチを止めに入るのだろう。
「違う可能性もあったのではないか」、と監督が頭の片隅で思っている以上、やはり、映画の中の仲間たちの描写が、物足らなくならざるを得なかったのは仕方がなかったのだな、と思わされた。連合赤軍の映画を撮るからには、やはり、12人もの仲間が殺されざるを得なかった彼らの「必然」を描いて欲しかった気がするのだが、それが、「必然」のようには描かれていないところに物足りなさがあるように思った。
でも、私にとって反省させられる場面も数多くあった。日常生活や仕事の場面でも、自分が「おかしいな。」と思っていても、その場の雰囲気で言い出せないことというのはたくさんあり、また、言わなかったために、その場の雰囲気だけで物事が決まったり、進んでいくことはよくあるのである。まさに、自分に「勇気がない」ということについて、これまでのことを色々思い出し、暗い気持ちになったことは確かである。この意味で、「見てよかった」と思った映画であったことは間違いない。
※前売りチケットを分けてくださった、ウェルカムトゥザ中心荘の管理人さんにこの場を借りて、厚くお礼を申し上げます。
2008/03/15のBlog
[ 20:35 ]
[ 文学 ]
私にとって、「大切な小説」を書く小説家の条件のひとつに、「異性の登場人物をどれだけ魅力的に描いているか」というのがある。男性の小説家なら女の登場人物を、女性の小説家ならどれだけ男の登場人物を面白く魅力的に描いているか、が小説家の大切な腕の見せ所の一つではないか、と思ってきた。自分が忘れることのできないヒロインたちを生み出した作家の男女比を思い返すと、圧倒的に男の小説家の小説のほうが多かったように思う。女性の描いたヒロインで忘れられないのもいっぱいいるが、自分が女性であるせいか、「男性が描いた」、というだけで、「この人は男性なのに、なぜにここまで女性の気持ちを正確に描き出すことができるのか??」という不可思議さにいつまでも悩まされるからかもしれない。
その本を読むずいぶん前から、自分にとって親しいヒロインになるに違いない、と感じていたヒロインがいる。名前は「テレーズ・デスケルウ」(モーリアック著)。15年ほど前、雑誌か何かで、故遠藤周作氏が、この本の女主人公について書いていたのを読んで、その人物像に惹きつけられ、「いつか読んでみたい。」とずっと頭の片隅で思ってきた。その後すぐに村松 剛氏訳の単行本を買ったことは買ったのだが、生来のズボラな性格から、「買った以上はいつでも読める」などと言い訳しながらうっちゃっていた。だが最近、本屋で遠藤周作本人が訳した「テレーズ・デスケルウ」を見つけ、15年前の文章を突然思い出し、氏の訳で、「今こそ本当に読んでみたい」、という気持ちになり、改めて購入して読むことになった。その小説のあらすじはこうである・・・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・・・テレーズは、古い因習に縛られた村で成長し、やがて、自分の家柄の家名とつりあった家柄の男と結婚する。テレーズには、発達した経済観念や財産への執着もあったため、この結婚をさほど悪いものとは考えていなかった。夫は常識的で面白みの無い男だと思っていたが、他の男よりも土地を持っており、学歴もある分、随分ましだとテレーズは思っていた。彼女は幼いころから内面に抱えていたある種の空虚さから、相手が誰であれ、愛情のよろこびに身を任せたり、喜びの感情に満たされたりすることが自分に起きるなど、鼻から信じていなかった。このように醒めた性格だったため、常に周囲の人々の考えや感情の動きを、ただただシニカルに傍観しているようなところが彼女にはあった。旦那との夫婦関係も、精神的にも官能的にも喜びや陶酔をかんじることはなく、その行為の最中にも旦那の行為をただただ動物を眺めるかのような醒めた目で眺めているのだった。
子どもが生まれても、テレーズの気持ちに変化は起きなかった。妊娠中も、母性の喜びに身をひたすこともなく、ただただ「この子どもが生まれない方法があったなら」、という思いが頭をよぎるのだった。テレーズは古い因習と財産、世間体を保つためだけに腐心する常識的な夫とともに、茫漠として隔絶された田舎の村で日々暮らすことを、いつまでも続く苦役のように感じた。
そんなあるとき、テレーズの夫は、自分の心臓の調子が芳しくないのを払拭しようと、砒素療法を始める。砒素は、数滴なら心臓の薬になるらしいが、その限度を越すと猛烈な毒薬となる。ある昼下がり、テレーズは、夫が心そこにない様子で自分のコップに砒素を数滴たらしているのをぼんやりと見つめていた。そのとき、夫はテレーズにたずねる。「おれは今、砒素をコップに入れただろうか?」。このとき、テレーズは二倍の量の砒素を夫が服用しているのを黙ってやり過ごす。
夫はその後、瀕死の状況に陥り、テレーズが故意に自分を死なせようとしたことに気づくのだが・・・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
という話である。なぜ、15年前、遠藤周作氏の文章を読んで、「この本を読みたい」と思ったか、といえば、氏が文中で、ある問いを立てていたからである。遠藤氏によれば、テレーズの夫はつねに常識的で実利的な冷たい夫として描かれているが、小説中、たった一箇所、テレーズが夫の「ある一面」を理解していなかった、ということが描かれているところがある、というのである。雑誌にはそれに続けて、「それが分かった人は私に手紙をくれ、当ったら私のサインをあげる」、というようなことが書かれていた。
今となっては、氏は他界し、もう手紙を出すこともできなくなったわけだが、私はこの小説を読んで、それはここではないか、と思われる場面に遭遇した。それは夫が服毒事件の後、短期間旅に出た後に帰宅し、出迎えた妻のやつれ変わり果てた姿を見た瞬間のことではないか、と思った。が、正解はもう確かめようもない。
しかし、人というのはなんと、(たとえ夫婦のような一番近しい人間同士であっても)、目の前にその人がいないと、自分の思ったようにその人物像を歪めてしまうことだろう・・・。否、たとえその人を目の前にしても、その人の真の姿に触れることはできず、それぞれが自分の思いばかりに囚われて、互いの言葉がすれ違って行き交うのである。しかしそんな人間たちの淋しい現実を受け入れたからこそ、このヒロインは最後には人を愛おしい、と思うようになるのかもしれない。久々に私にとって、再読の必要を強く感じさせる小説だった。
その本を読むずいぶん前から、自分にとって親しいヒロインになるに違いない、と感じていたヒロインがいる。名前は「テレーズ・デスケルウ」(モーリアック著)。15年ほど前、雑誌か何かで、故遠藤周作氏が、この本の女主人公について書いていたのを読んで、その人物像に惹きつけられ、「いつか読んでみたい。」とずっと頭の片隅で思ってきた。その後すぐに村松 剛氏訳の単行本を買ったことは買ったのだが、生来のズボラな性格から、「買った以上はいつでも読める」などと言い訳しながらうっちゃっていた。だが最近、本屋で遠藤周作本人が訳した「テレーズ・デスケルウ」を見つけ、15年前の文章を突然思い出し、氏の訳で、「今こそ本当に読んでみたい」、という気持ちになり、改めて購入して読むことになった。その小説のあらすじはこうである・・・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・・・テレーズは、古い因習に縛られた村で成長し、やがて、自分の家柄の家名とつりあった家柄の男と結婚する。テレーズには、発達した経済観念や財産への執着もあったため、この結婚をさほど悪いものとは考えていなかった。夫は常識的で面白みの無い男だと思っていたが、他の男よりも土地を持っており、学歴もある分、随分ましだとテレーズは思っていた。彼女は幼いころから内面に抱えていたある種の空虚さから、相手が誰であれ、愛情のよろこびに身を任せたり、喜びの感情に満たされたりすることが自分に起きるなど、鼻から信じていなかった。このように醒めた性格だったため、常に周囲の人々の考えや感情の動きを、ただただシニカルに傍観しているようなところが彼女にはあった。旦那との夫婦関係も、精神的にも官能的にも喜びや陶酔をかんじることはなく、その行為の最中にも旦那の行為をただただ動物を眺めるかのような醒めた目で眺めているのだった。
子どもが生まれても、テレーズの気持ちに変化は起きなかった。妊娠中も、母性の喜びに身をひたすこともなく、ただただ「この子どもが生まれない方法があったなら」、という思いが頭をよぎるのだった。テレーズは古い因習と財産、世間体を保つためだけに腐心する常識的な夫とともに、茫漠として隔絶された田舎の村で日々暮らすことを、いつまでも続く苦役のように感じた。
そんなあるとき、テレーズの夫は、自分の心臓の調子が芳しくないのを払拭しようと、砒素療法を始める。砒素は、数滴なら心臓の薬になるらしいが、その限度を越すと猛烈な毒薬となる。ある昼下がり、テレーズは、夫が心そこにない様子で自分のコップに砒素を数滴たらしているのをぼんやりと見つめていた。そのとき、夫はテレーズにたずねる。「おれは今、砒素をコップに入れただろうか?」。このとき、テレーズは二倍の量の砒素を夫が服用しているのを黙ってやり過ごす。
夫はその後、瀕死の状況に陥り、テレーズが故意に自分を死なせようとしたことに気づくのだが・・・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
という話である。なぜ、15年前、遠藤周作氏の文章を読んで、「この本を読みたい」と思ったか、といえば、氏が文中で、ある問いを立てていたからである。遠藤氏によれば、テレーズの夫はつねに常識的で実利的な冷たい夫として描かれているが、小説中、たった一箇所、テレーズが夫の「ある一面」を理解していなかった、ということが描かれているところがある、というのである。雑誌にはそれに続けて、「それが分かった人は私に手紙をくれ、当ったら私のサインをあげる」、というようなことが書かれていた。
今となっては、氏は他界し、もう手紙を出すこともできなくなったわけだが、私はこの小説を読んで、それはここではないか、と思われる場面に遭遇した。それは夫が服毒事件の後、短期間旅に出た後に帰宅し、出迎えた妻のやつれ変わり果てた姿を見た瞬間のことではないか、と思った。が、正解はもう確かめようもない。
しかし、人というのはなんと、(たとえ夫婦のような一番近しい人間同士であっても)、目の前にその人がいないと、自分の思ったようにその人物像を歪めてしまうことだろう・・・。否、たとえその人を目の前にしても、その人の真の姿に触れることはできず、それぞれが自分の思いばかりに囚われて、互いの言葉がすれ違って行き交うのである。しかしそんな人間たちの淋しい現実を受け入れたからこそ、このヒロインは最後には人を愛おしい、と思うようになるのかもしれない。久々に私にとって、再読の必要を強く感じさせる小説だった。
2008/03/02のBlog
[ 11:31 ]
[ プロパガンダ ]
関連するツナミンさんの記事
芸能人には、容姿で収入を得ている人も多い。そういう人が、タレント本などを出す場合、自分の姿を表紙に使用することはある意味当然の行為とも思える。しかし、最近は、容姿で収入を得るような生業についてない人でも、自著の表紙に自分の写真を使用している本を多く見かける。いや、テレビやインターネットなど、視覚による情報網が発達した今、容姿も込みで売り出すことで、本のイメージも左右される、ということかもしれず、本業がモデルやタレントでなくても、売れる容姿なら、収入の手段となりうる、ということかもしれない。きっと、顔写真を表紙にすることにためらいを感じない作家や学者、というのは、自らの容姿になんらかの自信を抱いている人たちなのであろう。
出版社にとっても、才色兼備に憧れる読者をターゲットにしたい場合や、「顔をテレビで見たことがあるから手にとってみよう」と思う読者に訴えるのに、このような表紙は大変効果的であると思われる。そのせいか、顔写真が表紙になる作家や学者は、一度ならず二度三度と自らの姿が表紙になっているように思う。
これは、その著者のルックスが(も)好き、という読者にとっては、有難く、戦略的にも正しい装丁なのであろう。私自身は、どんな美男美女でも、著者の顔写真が装丁された本は持ってて恥ずかしいのであまり好きではないのだが、表紙にどんな装画や写真を使うのも自由であるから、とくに思うこともなかったのであった。
しかし、そんな数々の、自著に著者自らの姿が映し出された本たちのなかにあって、刊行当時、「ぎょっ」と思わされたのが右上写真の本である。柳美里という作家の「命」という本であるが、この表紙には柳氏本人と、柳の子どもがうつしだされている。この写真から推測すると、おそらくこの子は生後半年にも満たないのではないかと見える。
柳本人が自著の表紙になることはいいのであるが、この子は、「自分が『本の表紙になる』ということがどうゆうことであるか」、を考えられるようにならないうちに本の表紙になってしまったのではないだろうか。この子が年頃になって、「なぜ僕の写真を使ったの?」と言い出さない保障はない。柳美里は、思春期の青少年のこころについて語ることの多い作家であるわけだが、その言動から推測すると、子ども一般のこころに敏感であろうとしてきた人なのではないかと思われる。しかしそんな人でも、母親になると、自分の子どものこころについて、少しばかり盲目になってしまうことがあるのであろうか。子どものいない私には推し量りきれない、謎の多い表紙である。
芸能人には、容姿で収入を得ている人も多い。そういう人が、タレント本などを出す場合、自分の姿を表紙に使用することはある意味当然の行為とも思える。しかし、最近は、容姿で収入を得るような生業についてない人でも、自著の表紙に自分の写真を使用している本を多く見かける。いや、テレビやインターネットなど、視覚による情報網が発達した今、容姿も込みで売り出すことで、本のイメージも左右される、ということかもしれず、本業がモデルやタレントでなくても、売れる容姿なら、収入の手段となりうる、ということかもしれない。きっと、顔写真を表紙にすることにためらいを感じない作家や学者、というのは、自らの容姿になんらかの自信を抱いている人たちなのであろう。
出版社にとっても、才色兼備に憧れる読者をターゲットにしたい場合や、「顔をテレビで見たことがあるから手にとってみよう」と思う読者に訴えるのに、このような表紙は大変効果的であると思われる。そのせいか、顔写真が表紙になる作家や学者は、一度ならず二度三度と自らの姿が表紙になっているように思う。
これは、その著者のルックスが(も)好き、という読者にとっては、有難く、戦略的にも正しい装丁なのであろう。私自身は、どんな美男美女でも、著者の顔写真が装丁された本は持ってて恥ずかしいのであまり好きではないのだが、表紙にどんな装画や写真を使うのも自由であるから、とくに思うこともなかったのであった。
しかし、そんな数々の、自著に著者自らの姿が映し出された本たちのなかにあって、刊行当時、「ぎょっ」と思わされたのが右上写真の本である。柳美里という作家の「命」という本であるが、この表紙には柳氏本人と、柳の子どもがうつしだされている。この写真から推測すると、おそらくこの子は生後半年にも満たないのではないかと見える。
柳本人が自著の表紙になることはいいのであるが、この子は、「自分が『本の表紙になる』ということがどうゆうことであるか」、を考えられるようにならないうちに本の表紙になってしまったのではないだろうか。この子が年頃になって、「なぜ僕の写真を使ったの?」と言い出さない保障はない。柳美里は、思春期の青少年のこころについて語ることの多い作家であるわけだが、その言動から推測すると、子ども一般のこころに敏感であろうとしてきた人なのではないかと思われる。しかしそんな人でも、母親になると、自分の子どものこころについて、少しばかり盲目になってしまうことがあるのであろうか。子どものいない私には推し量りきれない、謎の多い表紙である。
2008/02/15のBlog
[ 22:26 ]
[ 労働 ]
「こちらからは向こうが丸見えだが、向こうからはこちらが見えない」、、、この場合、優位に立っているのは、こちら側のような気がするが、それが当てはまらないのがテレビかもしれない。私はしょっちゅうテレビを見ているが、向こうはそんなこと知ったことではないだろう。向こうから私の行動は見えないのだが、なぜか力関係は私のほうが圧倒的に弱いのである。
しかし最近、こちらの方が優位に立っているような気にさせられる人がテレビにも出てくる。それはバラエティ番組などで、VTRが流れる際、画面の隅の小さな枠にそれを眺めるスタジオの面々が映し出されるときである。従来、テレビ画面上に小さな枠を見かけるときというのは、衛生中継などで離れたところにいる人とコミュニケーションしている様子が流れるときであったが、最近の小枠は意味が違う。
もともと、タレントがテレビに出てるときというのは、タレントが労働しているところを見せられているわけである。大勢のタレントが雛壇にずらりと並んでいるような番組も数多いが、そんな中、時間中、一言も発しない人がいる場合、カメラに撮られることだけがその人の労働ということになるのであろう。しかし、番組中別のVTRが流れ出すとどうか。そのときもはや、スタジオのタレントは「撮られる」、という労働すら消失するのである。
そこで導入された、(のかどうかは知らないが)、小枠にタレントがVTRを眺めている様子を映し出す、という手法。スポンサーにしてみれば、視聴率を稼いでもらうために莫大な出演料を払っているのに、VTR毎に遮られては対費用効果が薄れるから、番組の間中彼らの姿を映してほしい、と要望しているのだろうか。それとも、「VTRが流れる間もタレントは一応仕事をしている」、という局側のアリバイ作りなのか。急に表情が真剣になるところや、さも興味深げにVTRに見入る様子が抜き撮りされるわけだが、していることは視聴者と同じであることは否めない。衛生中継などと違い、殆どの場合、彼らの映像がなくても番組は成立すると思われる。
だが、出演タレントのファンの人からすればあの小枠は、憧れのタレントと同じVTRを眺めながら、彼らの表情を確かめつつ共感するためのツールなのかもしれない。確かに、ファンがたくさんいるようなタレントは、人気の熱量が高ければ高いほど、「存在している」ということだけで価値が生じ、何もしなくても労働が成立することもあるであろう。しかし、小枠に顔が映し出されることだけでは、まったく労働が成立しないようなタレントでも、あの瞬間ギャラは派生しているのである。そうである以上、小枠に映し出されている間にも笑わせたり感銘を与えたりしてほしいものだと思う。それが彼らの労働なのである。小枠の中の人々は、労働を監視されている、、、、、その錯覚がテレビにしては珍しく、こちらに優位を感じさせるのかもしれない。
しかし最近、こちらの方が優位に立っているような気にさせられる人がテレビにも出てくる。それはバラエティ番組などで、VTRが流れる際、画面の隅の小さな枠にそれを眺めるスタジオの面々が映し出されるときである。従来、テレビ画面上に小さな枠を見かけるときというのは、衛生中継などで離れたところにいる人とコミュニケーションしている様子が流れるときであったが、最近の小枠は意味が違う。
もともと、タレントがテレビに出てるときというのは、タレントが労働しているところを見せられているわけである。大勢のタレントが雛壇にずらりと並んでいるような番組も数多いが、そんな中、時間中、一言も発しない人がいる場合、カメラに撮られることだけがその人の労働ということになるのであろう。しかし、番組中別のVTRが流れ出すとどうか。そのときもはや、スタジオのタレントは「撮られる」、という労働すら消失するのである。
そこで導入された、(のかどうかは知らないが)、小枠にタレントがVTRを眺めている様子を映し出す、という手法。スポンサーにしてみれば、視聴率を稼いでもらうために莫大な出演料を払っているのに、VTR毎に遮られては対費用効果が薄れるから、番組の間中彼らの姿を映してほしい、と要望しているのだろうか。それとも、「VTRが流れる間もタレントは一応仕事をしている」、という局側のアリバイ作りなのか。急に表情が真剣になるところや、さも興味深げにVTRに見入る様子が抜き撮りされるわけだが、していることは視聴者と同じであることは否めない。衛生中継などと違い、殆どの場合、彼らの映像がなくても番組は成立すると思われる。
だが、出演タレントのファンの人からすればあの小枠は、憧れのタレントと同じVTRを眺めながら、彼らの表情を確かめつつ共感するためのツールなのかもしれない。確かに、ファンがたくさんいるようなタレントは、人気の熱量が高ければ高いほど、「存在している」ということだけで価値が生じ、何もしなくても労働が成立することもあるであろう。しかし、小枠に顔が映し出されることだけでは、まったく労働が成立しないようなタレントでも、あの瞬間ギャラは派生しているのである。そうである以上、小枠に映し出されている間にも笑わせたり感銘を与えたりしてほしいものだと思う。それが彼らの労働なのである。小枠の中の人々は、労働を監視されている、、、、、その錯覚がテレビにしては珍しく、こちらに優位を感じさせるのかもしれない。
2008/01/23のBlog
[ 21:44 ]
昨年を漢字一文字で表すと、「偽」という字になる、とどこかで聞いた。ある意味、私も今の日本の「偽」的空気を誘発している一人であるような気がする。つい先日も、今年の抱負は?と問われたので、「大嘘つきになること」と答えておいた。もともと私は嘘をつきたい派なのであるが、なかなかみんなを楽しませるよい嘘はつけたことがない。
「嘘つきは○○のはじまり」というけれども、この○○にあてはまる職業には様々なものがありそうだ。「通訳」を入れたのは田丸公美子氏だったが、他にも作家や広告マン、俳優、商社マン、政治家、弁護士、教師、医者など際限なく挙げられるように思う。政治家やタレントの嘘は単純に「本当の反対」とか、「何かを隠している」というだけでまったく面白みがない嘘が多いが、私が目指しているのは、故ジョージ川口氏のような華麗なる嘘つきである。即興であのような嘘がどんどんつけたらどんなにか楽しいであろうか。というわけで、今年は(も?)嘘ばかり書くかもしれないけれども、どうぞよろしくお願いいたします。これも嘘かもしれないが。
「嘘つきは○○のはじまり」というけれども、この○○にあてはまる職業には様々なものがありそうだ。「通訳」を入れたのは田丸公美子氏だったが、他にも作家や広告マン、俳優、商社マン、政治家、弁護士、教師、医者など際限なく挙げられるように思う。政治家やタレントの嘘は単純に「本当の反対」とか、「何かを隠している」というだけでまったく面白みがない嘘が多いが、私が目指しているのは、故ジョージ川口氏のような華麗なる嘘つきである。即興であのような嘘がどんどんつけたらどんなにか楽しいであろうか。というわけで、今年は(も?)嘘ばかり書くかもしれないけれども、どうぞよろしくお願いいたします。これも嘘かもしれないが。
2008/01/19のBlog
[ 19:42 ]
何を今更、という感じですが、あけましておめでとうございます。ご無沙汰しております。諸般の事情で、たまにしかパソコンを開けない状況が続きそうなので、しばらくコメント欄、トラックバック機能を閉じさせていただきます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
鏡 響子
鏡 響子