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鶯のさえずり
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2008/03/30のBlog
昨日は小春日和、天満橋、大川端へ行ってきた。
「水都ルネサンス大阪2008」の川開きと同時に、八軒家浜に船着場が完成し、その開港式もあるということで川風に吹かれるのもいいかと出かけた。

橋本知事や平松市長の挨拶など、セレモニーは淡々と進んだが、国土交通省近畿整備局の親玉という人物の挨拶は美辞麗句、官僚言葉の羅列で、一般参列者の間からも「なんだあいつ」といった呟きが漏れ、思わず苦笑。しかしその後挨拶に立った「水都ルネサンス大阪」の実行委員会の代表・山崎勇祐が「大川には80以上の橋が架かっているが、そのうち国や行政が造った橋は3つだけ。あとは市民の力で造られたのだ」と明確に切り返し、拍手喝采を浴びた。
山崎が体調を崩し、一時は「余命いくばく」と宣告されたことは多くの人の知るところである。しかしその言辞を聞く限り、まだまだ元気、その勢いで実現してもらいたいことは山ほどある。大阪の活力のためにこんな人こそ必要なのだ。

開港された八軒家浜と、東海道中膝栗毛の弥次・喜多さんとの関係は興味深い。
「八軒家」は、江戸時代に京と大坂を往来した三十石舟の発着場のことで、八軒の船宿が軒を連ねていたことからその名がついたという。旅人や荷揚げ人、旅籠の客引きや饅頭売りなどでごった返していたらしい。その中に弥次・喜多コンビもいて、大坂での第一歩の旅が始まったという。安藤広重の「八軒家船着場の図」を眺めてみると、当時が垣間見えて実に楽しい。

4月22日までこの八軒家の港から「桜クルーズ」が毎日出航する。
建築家の安藤忠雄も来ていたが、彼の発案でスタートした大川沿岸の桜の植樹事業で、一人1万円で募金を呼びかけたところ52000人の寄進があったというからスゴイ。
5億円以上集まったことになる。やはり市民パワーはあなどれない。

今あちこちでウォーターフロントが見直されている。
わが吹田にも神崎川という由緒正しい河があり、その整備や景観を生かした利用方法の再検討は急務である。川に限らず「水辺」のある場所は市民の貴重な資産として生かし、「水たまり」よろしく「人たまり」を考えることは重要だ。ここにも市民パワーが大いに求められると思う。
2008/03/27のBlog
今日は「吹田市立博物館協議会小委員会」という、ものものしい会議があり、昼からのぞきに行った。今回は傍聴するだけではなく、「市民との討論」もあり、発言の機会が持てるということだったが、「ご意見は所定の用紙に書いて提出する」という形で、市民参加の白熱した討論にはならなかった。まぁ初めての「小委員会」ということで試行錯誤もあったのだろう。もともと「協議会」を形成する「有識者」の方々が、大所高所から博物館のあり方を考えるという前提条件が整えられているようで、小生のごとき無頼の徒にはいささか場違いな集いだったのかもしれない。

こういう会になると「博物館の使命、目標というものは・・・」といった原則論を持ち出す御仁がいたりして、どうも話が噛みあわない。博物館の現況を見れば、そんな抽象論は時間の無駄である。「そもそも博物館には博物館法という憲法みたいなものがありまして・・・」などと大真面目に答える古参の学芸員がいたりして、思わず時計をみたりしてしまう。
「博物館の活性化について」という市民会議の提言は立派なものだが、それを受けての博物館協議会の答申もまた立派である。立派すぎて涙が出そうになる。
答申は平成16年3月末だから丸4年になるわけだが、誰が見ても改革が進められた形跡は見当たらない。ただ、現館長になって「市民参画」という危険な筵旗を立てて実施した「千里ニュータウン展」や「07EXPO70展」は成功し、それなりの評価を得た。惜しむらくはその教訓が生かされていないことだ。常設展示など、「展示更新のために不断の努力をする」などと大見得をきりながら、何も変わっていない。いや、変えようと努力したという話は聞いたことがない。
改革は大事業、大英断なくしてはできない。
一歩踏み出す勇気とパワーが必要なのだ。

「博物館に愛称をつけたら・・・」と発言した委員がいてほっとした。
それなら「リオちゃんミュージアム」でいい。
岡本太郎という素材を生かさない手はない。
2008/03/26のBlog
このところ音信不通で気になっていた友人から電話があった。
「上海へ行ってました。報告やら相談やらあるので今夜伺います」という。
居酒屋「たんぽぽ」へ出向く予定だったが、何やら急ぎの相談もあるらしく、拙宅にて一杯飲ることにした。彼は仕事の関係で中国と日本とを行ったり来たりしているが、どうやら今回、いい意味での拠点というかネットワークができたらしく、目がきらきらしている。
お土産の老酒「古越龍山」を開け、ぐびぐび飲りながら歓談のひとときと相成った。

おみやげに「老酒」なら大歓迎。
しかしこのところ中国からの土産は要注意、要らないのに勝手に送りつけてくるのは迷惑である。しかも受取人払いときている。
毒ギョウザのメタミドホス、ご丁寧にロールキャベツなどにも包み込んである。
ジクロルホスなど、黄砂にまぶし、風にまかせて飛ばしてくる。
ぺパリンだかポポリンだか知らないが、鎮静剤や抗生物質に含ませているらしい。

出所や原因は明白なのに、日本の政府は政治問題化を恐れて弱腰、中国当局の言い分を鵜呑みにしているフシがある。日本・韓国・中国・モンゴルの4か国合同で計画を進めていた「黄砂監視プログラム」など、ここへきて中国が突然脱退したらしいが、日本は何も言わない。チベット問題にしても総理はむにゃむにゃ口ごもるばかり。国家のトップが評論家もどきでは何も解決しないし、ついて行く国民はたまったもんじゃない。
洞爺湖で環境サミットを主導するらしいが、「黄砂問題」も取り上げて欲しいものだ。きれいごとを並べるだけの会議ならやめたほうがいい。いや、総理はその前に辞めた方がいい。

北京五輪や上海万博が控えているが、お隣の大国は何を考えているのかわからず、ただ不気味さだけが漂っている。そんな中、かの友人はどんどん走って行くようだが、まぁ彼持ち前の明るさと元気さに期待し、民間レベルでの文化交流による日中友好に賭けるしかない。

さぁて、餃子を食べたくなった。
こうなったら自分で作るしかない。
2008/03/25のBlog
斜向かいのマンションの植え込みにある「くさぼけ」が、淡紅色の五弁の花を開き始めた。ぽつりぽつりと蕾をつけていたのは知っていたが、この数日で一斉開花となった。なんとなくぼわ~んとした感じだが、見ているとつい引き込まれ、周辺の雰囲気がスクリーンに投影されたように、山口淑子こと李香蘭の世界となって漂ってくる。

今は亡き祖母が「ぼけは嫌いや」とよく言っていたが、そのはっきりしない色合いや、低木のくせに立派な棘をもっているからだろう。94歳最期のときまで「ぼけなかった」祖母の気丈な性格を思い出して懐かしくなる。

たしかに「掴みどころのない人だ」と思いつつ、さりげなく話しかけてみると意外にキツイことをのたまう人がいる。そういう人のことを「ぼけ」とは言わないが、陰に回って「あのボケが」などと口走ることはある。
しかし本格的な「ぼけ」は、しっかり脳が発達しているのに何らかの原因で知能低下が起きてしまう状態らしいので、心しなければならない。細胞の老化は致し方ないが「何をぼけ~っとして」などと言われないように、判断力だけはしっかり持っていたいと思う。
漫才には「ボケとツッコミ」という役割分担が明確にされているが、つっこまれても返せない「ぼけ」にはなりたくないものだ。天然ぼけは花だけでいい。
したがって今書こうと思っていることは、思い出せなくなる前にキーボードを叩く必要がある。

昨日はあんずの花に想いを寄せ、今日はぼけの花に翻弄されている。
この10日ぐらいで始まる花見桜の酒池肉林、その喧騒の宴も悪くないが、路傍で必死に咲いている小さな花たちに話しかけてみるのも楽しい。
あちこちに春がいっぱいあふれている。
2008/03/24のBlog
わが家の近くにある「あんず公園」には、4本のあんずの樹があり、近隣住民の象徴的な存在になっている。毎日通りすがりに眺めていたのだが、このところの陽気で、蕾が先を競って開き始めた。
地元の自治会長を引き受けた際、今までの「北自治会」ではどうも堅苦しく「あんず会」と名称変更したほど、この樹にこだわった。このブログのタイトルもそこから名付けた。吹田市の地図を広げて見ると、わが居住地・五月が丘北は吹田市のど真ん中と言ってもいい位置にある。したがってこの4本のあんずの樹は吹田のシンボル的存在だともいえるのだ。
(・・・と勝手に考えている)

あんずは桃のようでもあり、梅のようにも見える。
ストレートに伸びた枝から茎もなく直接蕾をつけ、寄り添うように密集して咲き誇る。満開ともなればぼんぼりのような味わいがあって、うっとりさせられる。「乙女のはにかみ」という花言葉はまさしくぴったりである。
信州・千曲市更埴には「一目10万本」という「あんずの里」があるが、わが町には4本、たかが4本されど4本、貴重なコミュニケーションの媒介役になっている。

昨日はイースター。復活祭だった。
キリスト教会ではゆで卵を配って「新生」を祝うのだが、あんずも元気に生まれ変わり、新たな生命を育んでいる。
あかちゃんのような蕾と愛らしい花から元気をもらい、自らの内にまた新たな何かをスタートさせなくてはいけない。
なんにしても、芽吹きの春は心地よい。