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2008/05/18のBlog
[ 07:03 ]
庭の奥の竹やぶに分け入り腐葉をまさぐると、たけのこが次々に顔を出した。手入れをしてないせいか少々やせているが、6つ7つと収穫した。さっそくわかめと炊きあわせ、そこらに新葉を吹き出している山椒をアレンジしたら高級料理屋の趣である。
採りたては美味、ここはやはり日本酒が合う。
孟宗竹に真竹、黒竹とはびこり放題でやっかいだが、いずれ間引いて竹林にし、伐採した竹は蔓ものの棚にしたり、竹垣に活用できたらいい。しかし竹は強い。
黒竹のエリアにもたけのこが芽を出している。鉢植えにしたいという料理屋や、庭に植えたいという希望者もあり、根っこから掘り起こす作業に挑んだがいやはや大変。生け捕りにするのは至難の業であることを思い知らされた。掘り進めていくと直径1cmぐらいの根が延々とつながり、縦横無尽に広がっている。剪定鋏では切れず、小さな鋸を隙間に入れてカットせざるを得ないのだ。
格闘すること1時間、ようやく数本を召し上げてとりあえずの植木鉢に鎮座させた。果たして根付くだろうか。体力勝負でいささか腰にきたが、これで根付いてくれなかったら涙の格闘技だったことになる。
黒光りする竹はそのまま眺めても美しいが、行灯などに加工しても美しい。
いずれにせよ隠れ家には竹工房も必要になりそうだ。
採りたては美味、ここはやはり日本酒が合う。
孟宗竹に真竹、黒竹とはびこり放題でやっかいだが、いずれ間引いて竹林にし、伐採した竹は蔓ものの棚にしたり、竹垣に活用できたらいい。しかし竹は強い。
黒竹のエリアにもたけのこが芽を出している。鉢植えにしたいという料理屋や、庭に植えたいという希望者もあり、根っこから掘り起こす作業に挑んだがいやはや大変。生け捕りにするのは至難の業であることを思い知らされた。掘り進めていくと直径1cmぐらいの根が延々とつながり、縦横無尽に広がっている。剪定鋏では切れず、小さな鋸を隙間に入れてカットせざるを得ないのだ。
格闘すること1時間、ようやく数本を召し上げてとりあえずの植木鉢に鎮座させた。果たして根付くだろうか。体力勝負でいささか腰にきたが、これで根付いてくれなかったら涙の格闘技だったことになる。
黒光りする竹はそのまま眺めても美しいが、行灯などに加工しても美しい。
いずれにせよ隠れ家には竹工房も必要になりそうだ。
2008/05/17のBlog
[ 06:21 ]
刈っても刈っても尻から雑草が生えてくる。この時期は庭木の手入れ時だが、芽吹いた草木の成長期でもある。イタチごっこの作業になってしまうが、といって放置できない。
10日ほど前に剪定をしたとき、モッコクとグミの木に囲まれたイヌツゲの枝陰に鳥の巣を発見、たまごが4個並んでいた。ひょっとしたらと、周辺の木々の剪定は手抜きをし、巣が目立たぬように残しておいた。
昨日のぞいたら、かわいらしいヒナが寄り添うように丸まっていた。ムクドリだ。そっと離れて遠巻きに観ていたら、親が舞い戻り「チ、チ、チ、チ」と声をあげている。
庭いじりをしていて、蛇やムカデの出現はごめんだが、鳥は大歓迎である。
ウグイスが庭のどこかにねぐらを構えているのは知っていたが、いろんな種類の鳥たちが集まっているのを意識したことはなかった。「ケ、ケ、ケ、ケ」と鋭い声を発する鳥、「チョットキテ、キテ」としゃべっているような鳥もいる。そのうち野鳥の会の人を呼んで鳥の正体を見極めてもらおうか。
しばし鳥の合唱に耳を傾ける。心地よいBGMだ。
おちついたらどこかに巣箱をしつらえてみよう。
10日ほど前に剪定をしたとき、モッコクとグミの木に囲まれたイヌツゲの枝陰に鳥の巣を発見、たまごが4個並んでいた。ひょっとしたらと、周辺の木々の剪定は手抜きをし、巣が目立たぬように残しておいた。
昨日のぞいたら、かわいらしいヒナが寄り添うように丸まっていた。ムクドリだ。そっと離れて遠巻きに観ていたら、親が舞い戻り「チ、チ、チ、チ」と声をあげている。
庭いじりをしていて、蛇やムカデの出現はごめんだが、鳥は大歓迎である。
ウグイスが庭のどこかにねぐらを構えているのは知っていたが、いろんな種類の鳥たちが集まっているのを意識したことはなかった。「ケ、ケ、ケ、ケ」と鋭い声を発する鳥、「チョットキテ、キテ」としゃべっているような鳥もいる。そのうち野鳥の会の人を呼んで鳥の正体を見極めてもらおうか。
しばし鳥の合唱に耳を傾ける。心地よいBGMだ。
おちついたらどこかに巣箱をしつらえてみよう。
2008/05/15のBlog
[ 16:28 ]
今、競泳用の水着が話題になっている。SPEED社製を着用した選手が自己記録を次々に更新し、世界記録も塗り替えているというので大騒ぎである。大阪のメーカーが「ならばやってやろうじゃないか」と新素材を開発し好評だという。
しかしポイントはやはり選手の才能である。
「いかに早く走るか、泳ぐか」で思い出したのはカーレースだ。昭和50年、今から33年前の話だが忘れられない思い出がある。
星野一義という男との出会いである。
当時カーレーシングの世界では高原敬武、高橋国光、生沢徹、鮒子田寛、米山二郎、津々見友彦、長谷見昌弘といった、蒼々たるメンバーがしのぎを削り、若手はスポンサードの問題もあり、なかなか割り込む機会がなかった。
そんな折、フォーミュラチャンピオンレースを手がけていた本多氏と飲む機会があり、「星野という速い男がいる。スポンサードして環境を整えてやったら日本一のレーサーになる。協力してくれないか」と持ちかけられた。当時カーキチだった小生は、富士スピードウェイや鈴鹿サーキットへよく観戦に出かけていたが、モトクロスでは敵なし、下のFJ1300クラスでも強かった星野一義の名前は知っていた。
「よし星野に賭けてみよう」と、当時仕事で深いつきあいがあった西武セゾングループにかけあい、多店舗展開を目指して勢いのあった西友がバックアップしてくれることになった。資金援助をする条件として①優勝すること、②優勝したマシーンを指定する店頭に飾り、レーサーのサイン会を行うことを約束させられた。まさに賭けである。
こうして星野のFⅡ(F2000)のデビュー戦が決まった。
レース当日の富士スピードウェイは雨と霧だった。前日の予選で並みいる強豪を抑えてトップ、ポールポジションを得ていたが、微差である。前夜の星野は食事も喉を通らぬほど緊張していて、かける言葉も選べないほどだった。
レース本番、安の定出遅れて5番手に下がったが、周回ごとにぐいぐい追い込み、結局ぶっちぎりでチェッカーフラッグを受けたのだ。ピットで抱き合い、びしょぬれになるほどシャンパンをかけまくったことは言うまでもない。
その後も星野は活躍し、日本を代表するレーシングドラーバーになった。
今、星野一義の顔から当時の精悍な面影は消え、よき親父になっている。
カーレースはマシーンの性能が大きく左右するが、やはり最後はそれを操る才能に尽きる。
布切れ1枚にそれほど大騒ぎすることはない。
星野と一杯飲りたくなってきた。
しかしポイントはやはり選手の才能である。
「いかに早く走るか、泳ぐか」で思い出したのはカーレースだ。昭和50年、今から33年前の話だが忘れられない思い出がある。
星野一義という男との出会いである。
当時カーレーシングの世界では高原敬武、高橋国光、生沢徹、鮒子田寛、米山二郎、津々見友彦、長谷見昌弘といった、蒼々たるメンバーがしのぎを削り、若手はスポンサードの問題もあり、なかなか割り込む機会がなかった。
そんな折、フォーミュラチャンピオンレースを手がけていた本多氏と飲む機会があり、「星野という速い男がいる。スポンサードして環境を整えてやったら日本一のレーサーになる。協力してくれないか」と持ちかけられた。当時カーキチだった小生は、富士スピードウェイや鈴鹿サーキットへよく観戦に出かけていたが、モトクロスでは敵なし、下のFJ1300クラスでも強かった星野一義の名前は知っていた。
「よし星野に賭けてみよう」と、当時仕事で深いつきあいがあった西武セゾングループにかけあい、多店舗展開を目指して勢いのあった西友がバックアップしてくれることになった。資金援助をする条件として①優勝すること、②優勝したマシーンを指定する店頭に飾り、レーサーのサイン会を行うことを約束させられた。まさに賭けである。
こうして星野のFⅡ(F2000)のデビュー戦が決まった。
レース当日の富士スピードウェイは雨と霧だった。前日の予選で並みいる強豪を抑えてトップ、ポールポジションを得ていたが、微差である。前夜の星野は食事も喉を通らぬほど緊張していて、かける言葉も選べないほどだった。
レース本番、安の定出遅れて5番手に下がったが、周回ごとにぐいぐい追い込み、結局ぶっちぎりでチェッカーフラッグを受けたのだ。ピットで抱き合い、びしょぬれになるほどシャンパンをかけまくったことは言うまでもない。
その後も星野は活躍し、日本を代表するレーシングドラーバーになった。
今、星野一義の顔から当時の精悍な面影は消え、よき親父になっている。
カーレースはマシーンの性能が大きく左右するが、やはり最後はそれを操る才能に尽きる。
布切れ1枚にそれほど大騒ぎすることはない。
星野と一杯飲りたくなってきた。
2008/05/14のBlog
[ 16:51 ]
黙想の3日間がかなり効いて、このところ少々暗い日々が続いた。依頼されている企画書の制作も遅々として進んでいない。ここはガラリと気分を変えなくてはとうさぎ小屋のレイアウトを変えてみた。本棚の移動には汗をかいたが、我ながら心地よい出来栄えだ。
どっかり椅子に座ってみると、またまた日曜日の叔父の葬儀が甦ってくる。
銅鑼あり太鼓あり、曹洞宗(禅宗)のしきたりに法ったものだったが、イベント的にとらえれば60点をあげてもいい。不謹慎な感想だが、戒名代が50万円を下らないということを耳にしていたので、どのような構成で死者を弔うのか多少の興味はあった。なにせ「○○なんとか居士」と命名するだけでウン十万円とはチト高過ぎると思った。「葬式仏教」とか「弔いを待つ坊さん」と揶揄される実態を検証してもいいかと考えたのも確かだ。
人間が生きていくことはイベントの連続である。
誕生して祝い、入学卒業して祝い、結婚して大いに祝う。葬式だけは悲しいイベントである。
正月だ桃の節句だ端午の節句だと祝い、七夕を通り過ぎるとお盆でばたばたし、運動会をがんばったら七五三、そして年末協奏曲と相成る。その間にもバレンタインデーやゴールデンウィーク、クリスマスといったカタカナのイベントが差し込まれるのだ。「衣替え」もそのひとつに加えていいかもしれない。
年がら年中イベントで彩られているわけだ。
人生はイベント、なんにもない日常にも、台本どおりいかないハプニングが潜んでいる。
生まれるのも死ぬのもいわばハプニングである。
それがイベントであり、だからおもしろいとも言える。
庭の手入れをしていたら蛇が顔を出した。思わぬ出来事。
殺傷する気になれず、つまんで側溝へ放り込んでやった。
あまり気持ちのいいハプニングではない。
どっかり椅子に座ってみると、またまた日曜日の叔父の葬儀が甦ってくる。
銅鑼あり太鼓あり、曹洞宗(禅宗)のしきたりに法ったものだったが、イベント的にとらえれば60点をあげてもいい。不謹慎な感想だが、戒名代が50万円を下らないということを耳にしていたので、どのような構成で死者を弔うのか多少の興味はあった。なにせ「○○なんとか居士」と命名するだけでウン十万円とはチト高過ぎると思った。「葬式仏教」とか「弔いを待つ坊さん」と揶揄される実態を検証してもいいかと考えたのも確かだ。
人間が生きていくことはイベントの連続である。
誕生して祝い、入学卒業して祝い、結婚して大いに祝う。葬式だけは悲しいイベントである。
正月だ桃の節句だ端午の節句だと祝い、七夕を通り過ぎるとお盆でばたばたし、運動会をがんばったら七五三、そして年末協奏曲と相成る。その間にもバレンタインデーやゴールデンウィーク、クリスマスといったカタカナのイベントが差し込まれるのだ。「衣替え」もそのひとつに加えていいかもしれない。
年がら年中イベントで彩られているわけだ。
人生はイベント、なんにもない日常にも、台本どおりいかないハプニングが潜んでいる。
生まれるのも死ぬのもいわばハプニングである。
それがイベントであり、だからおもしろいとも言える。
庭の手入れをしていたら蛇が顔を出した。思わぬ出来事。
殺傷する気になれず、つまんで側溝へ放り込んでやった。
あまり気持ちのいいハプニングではない。
2008/05/12のBlog
[ 14:12 ]
先の週末は叔父の通夜と葬儀があり、人間の生と死を考える黙想の3日間となった。
人間誰にも平等にやってくる死について、まして自分の死について普段じっくり考えることはない。若いうちは特にそうだが、すぐに疲れを感じたり年金特別便などが届くようになると「歳くったなぁ」などと、後ろから数えたくなったりするものだ。
人間千差万別、価値観や倫理観まで異なる。死ぬまで金儲けに走るもよし、権力の座に固執するもよし、はたまたおざなりな日常に満足するもよし、ただ「人間は1回しか経験できない」ことだけは確かなことだ。
「おぎゃぁ」と生まれ、学校で何がしかを学び、使命感に燃えても燃えなくても社会に出てもまれ、それなりの階段を昇ったり、女性は育児に追われたりしているうちに皺をきざみ、気がつけば寄る年波に愕然とし、諦める人もいれば第二の人生だとギアチェンジする人もいる。どれほどのダイヤを集めても、その先には必ず十字架がついて回る、それが人間の宿命だ。充実感と空疎感、それは所詮表と裏の関係なのだ。
「確かなもの」が欲しいが、そのことを考えるゆとりを与えない日常が広がり続け、あっという間に屍と化して土に返る。
宇宙の、地球の、その片隅で、人間は蟻のように右だ左だとうごめいている。
しかし時として一人の人間の死は大きい。自らの生きざまを確認させてくれるからだ。
健康で生かされているうちは前向きでありたいと思う。
人間誰にも平等にやってくる死について、まして自分の死について普段じっくり考えることはない。若いうちは特にそうだが、すぐに疲れを感じたり年金特別便などが届くようになると「歳くったなぁ」などと、後ろから数えたくなったりするものだ。
人間千差万別、価値観や倫理観まで異なる。死ぬまで金儲けに走るもよし、権力の座に固執するもよし、はたまたおざなりな日常に満足するもよし、ただ「人間は1回しか経験できない」ことだけは確かなことだ。
「おぎゃぁ」と生まれ、学校で何がしかを学び、使命感に燃えても燃えなくても社会に出てもまれ、それなりの階段を昇ったり、女性は育児に追われたりしているうちに皺をきざみ、気がつけば寄る年波に愕然とし、諦める人もいれば第二の人生だとギアチェンジする人もいる。どれほどのダイヤを集めても、その先には必ず十字架がついて回る、それが人間の宿命だ。充実感と空疎感、それは所詮表と裏の関係なのだ。
「確かなもの」が欲しいが、そのことを考えるゆとりを与えない日常が広がり続け、あっという間に屍と化して土に返る。
宇宙の、地球の、その片隅で、人間は蟻のように右だ左だとうごめいている。
しかし時として一人の人間の死は大きい。自らの生きざまを確認させてくれるからだ。
健康で生かされているうちは前向きでありたいと思う。