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《西へ》《東へ》私の移動距離は中途半端じゃない《北へ》《南へ》
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2008/07/21のBlog
[ 14:04 ] [ さ行・バスガイド資料 ]
人物
被差別部落出身とされてます。生業の草履表づくりを
手伝いながら、将棋を覚える。1886年(明治16年)ごろ、
日本橋の履き物問屋に丁稚奉公、町角の縁台将棋に
よく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せ
ていました。だが、将棋に夢中になる余り背負っていた
奉公先の子供を負傷させ暇を出されたといわれてます。

その後は実家に帰り家業を手伝いながら賭け将棋で腕を
磨き、アマチュアの棋士として大阪で有名になります。
1899年(明治29年)頃、関根金次郎と堺で初対決し惨敗
したことでプロの道を決意しました。この対局は両者とも
賭け将棋を否定しているが、賭け将棋の意見もあります
(岡本嗣郎「9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝」より)
関根とは1906(明治39)年4月22日大阪阿弥陀池で
二度目の対局をする。双方互角の勝負でしたが坂田が
千日手を打開してペースが狂い惜敗sます。坂田にとって
「私を本物の将棋指しにしてくれた」一戦でありました。
以後坂田は打倒関根を目標として貧困や自身の眼病などの
危機を乗り越えていく。さらに自身の才能を見出す後援者
にも恵まれ、1908(明治41)年大阪朝日新聞嘱託となります。
こうして生活も少しずつ安定し同時に技術人格ともに成長
していきます。 1910年(明治43年)7月、阪田三吉七段を
盟主とする関西将棋研究会が設立されます。

1913年(大正2年)4月、関根金次郎八段と対局(関根の
香落ち)して勝利します。この対局において後に阪田は
『銀が泣いている』という有名な言葉を残してます。1925年
(大正14年)、京阪神の財界有力者八十余名の主唱者に
より名人に推薦され、「名人」を名乗る。この事が名人僭称と
され、棋界を追放される原因となりましたが、1937年(昭和
12年)に和解し将棋大成会(現在の日本将棋連盟)に復帰。
同年2月、京都の南禅寺で木村義雄八段と対局します
(南禅寺の決戦)。

復帰後、八段格として第2期名人戦挑戦者決定リーグ
(八段リーグ)に参加、その後引退しました。引退後は大阪市
東住吉区田辺の自宅にこもり文字通りの隠遁生活でした。
終戦直後食当たりで急死しましたが、坂田の死亡を報じる
新聞記事はたった十行のベタ記事で写真もなく、おまけに
死亡日が三日も違ってたといいいます。

家が貧しく、幼い頃から丁稚奉公をしていたため文字を知りま
せんでした。将棋を親しく教わった升田幸三は、生涯覚えた
漢字は「三」「吉」「馬」の三字だったと証言しています。現在、
日本将棋連盟から販売されている扇子にはこの「馬」の字が
使用されており、通常の他棋士の扇子よりも値段が高く、
今なお将棋ファンに根強い人気があります。

『王将』というタイトルで数多くの舞台や映画、歌のモデルに
なりました。阪田は生前「わしが死んだらきっと芝居や活動
写真にしよりまっせ」と言っていました。しかし、映画などでの
阪田像は多分に誇張されたものであり、真実の阪田とは
へだたりがあるという、阪田と実際に会った棋士たちの複数の
証言があります。阪田は映画では無法者であるかのように
描かれています、実際には極めて礼儀正しい人物であり、
文字は知らなかったが江戸時代の古い将棋を相当よく知って
いて、将棋も独学ではなく阪田以前に大阪名人といわれた
小林東伯斎に入門していました。有名な阪田流向かい飛車も
江戸時代の定跡を元にしたものです。僧侶などの知識人の
話を聞くなどの耳学問で一般常識などは身に付いていました。
ただ、文字を知らないための奇行があったことは、実際に親しく
将棋を教えられた升田幸三も認めており、食堂のメニューが
読めなかったり、阪田の記録係だった大山康晴が、算用数字で
棋譜を記録していたのを見た阪田は「英語で記録しているのか」
と聞いたりしたそうです。また坂田自身は字が書けないことを
気にしておらず、頭を指さして「ここに将棋が一杯入ってまんねん。」
とおどけてみせてました。

「ほんまの先生は真率という言葉がありますやろ。あの通り
ですわ。ちょっと変わったとこはあったけど、素直で生地の
まま、それはもう何のまじり気もない、あんな人がよう将棋
させるなと思うような、純粋でええ人でした。」
(知人の書道家北野千里の証言)

人気少女漫画『ガラスの仮面』の主人公北島マヤのモデルは阪田です

死後、昭和30年、日本将棋連盟から名人・王将の称号が贈られました。

大阪市浪速区新世界の通天閣下には「王将」の碑があります。
墓は大阪府豊中市の服部霊園。阪田三吉墓は清水次郎長の
墓と同じ様に扱われてか、金槌で墓石を打ち欠きその破片を
勝守りとする人が絶えず、結果として墓石自体がひどく傷付
けられた状態にあります。

後継者たち
弟子に藤内金吾、星田啓三、高浜禎がおり、その他阪田
自身が特に才能を評価していた升田幸三がいます。阪田は
升田が将棋を教えている社交クラブへ出向き、色々なアド
バイスをし、「木村(義雄)を負かすのはあんたや、あんたの
ほかにおらへん」と激励したといいます。

阪田が得意とした振り飛車戦法は大野源一が改良を加え
て引き継いでいる。阪田を創始者とする戦法は阪田流向かい
飛車・袖飛車があり、特に袖飛車では花田長太郎が対抗
する定跡を作り上げるまでは当時不敗を誇ったと天狗太郎は
記しています。

また、一番弟子の藤内金吾(1893年~1968年)は弟子を
多く育て、高島一岐代、内藤國雄、若松政和を始めとする
「阪田三吉の孫弟子」、さらには若松から「阪田三吉の曾孫
弟子」で十七世名人(資格者)の谷川浩司を生みました。
藤内は元々は棋士でもなんでもなく一介の繊維業者であり、
阪田とはいわゆるタニマチとしてのつながりでしかありません
でした。しかし、個人的に稽古をつけてもらっているうちに
阪田の魅力にひかれ、気がつけば39歳からプロ棋士に
なっていた人物です。

南禅寺の決戦
阪田の復帰を記念し、読売新聞社主催で特別対局が
行われることになりました。当時の名人は関根金次郎で
したが、高齢のため、弟子の木村義雄が対局に臨む事に
なります。

対局の舞台は南禅寺。1937年2月5日から7日間、持ち時間
30時間というルールの下で行われました。現在の公式戦で
持ち時間が最も長い棋戦は名人戦の9時間であり、名人戦は
創設当初でも15時間の持ち時間で指されていたことからも、
30時間という持ち時間は非常に長いです。このとき66歳の
阪田にとっては厳しい戦いになることが予想されました。

この対局は後手となった阪田が2手目に△9四歩と指した
ことで有名である(「阪田の端歩突き」)。後手でありながら
なお1手損とするこの指し手は、関西の棋界を背負っていた
阪田の、東京への反骨精神の表れとも見られてます。当時は
非常に注目を集めた勝負であり、織田作之助は新聞で阪田の
端歩突きを知り、感激して「坂田はやったぞ。坂田はやったぞ。」
とつぶやいたと、作品「聴雨」で回想しています(織田作之助は
阪田ファンで、二度も作品に阪田を取り上げてます)。一方で
正攻法の将棋を重んじ、奇手や小技を潔しとしなかった木村
義雄はこの手に「これには私もたまげたが、同時に『ははん、
これは』と思った」とのちの自著に記しています。

結局この一手が響いた形となり、結果は95手で先手の木村
義雄の勝ち。のちに阪田の孫弟子に当たる内藤國雄は、
自著「阪田三吉名局集」の中で、この南禅寺の決戦を
「三百七十年に及ぶ将棋の歴史の中で、最大の一番」と
記してます。

読売新聞社の観戦記者である西條耕一によると当時は
関根金次郎が名人位を返上し、木村義雄らによる第1期の
名人決定リーグ戦のさなかであった。名人戦は東京日日
新聞(現在の毎日新聞社)が主催していましたが、小さな
新聞社であった読売は名人の権威を逆手に取り、リーグ戦の
上位で名人位獲得が有力視されていた木村義雄、花田
長太郎の2人の実力者と阪田を対局させることを企画したと
いいます。名人位の失墜を恐れる毎日は反発しましたが、
木村が「将棋大成会を脱退し、個人として参加する」ことを
宣言して対局は実現しました。

花田との対局(1937年3月)は「天竜寺の決戦」として
知られており、このときは後手となった阪田が2手目に
△1四歩と南禅寺とは逆の端歩を突いています。結果は
169手で花田の勝ちとなりました。

坂田三吉の妻
戯曲『王将』の坂田の妻は「小春」であるが、実際は坂田
コユウ(1881~1927)です。三男三女を設けてます。子供
たちの証言では、コユウは坂田が長い間想っていた女性で
コユウが離縁したのち三吉のもとに嫁いだといいます。
コユウは貧しさに耐えながら夫を支えつづける。劇中の
鉄道自殺未遂も実際のことです。この事件は大正2年頃と
推定されますが坂田は初めて家族の大切さに気付き、その
後の生き方に大きな影響を与えたと言われてます。その後
生活は安定するが、長年の苦労や夫の眼病の看護などで
コユウ自身病に倒れてしまいます。臨終の床で「お父ちゃん、
あんたは将棋が命や。どんなことがあっても、アホな将棋は
指しなはんなや。」と三吉に言ってます。三吉はコユウの
亡骸をいつまでも抱くようにしていたといいます。
「小春」は『王将』の作者北条秀司の創作です。

エピソード
洋食を好んだが、特に牛肉が好きで食堂でも牛肉料理をよく
注文しました。「牛肉食べな丈夫で賢ウなられへん。」という
のが持論でした。
文字が読めなかったので食堂のメニューを読むより、テーブルの
周囲をうろついて「これおいしいでっか。」と尋ねたり「ボーイさん。
ここで一番旨いンのは何や。牛肉入ってまっか。」と尋ねたり
しました。必ず料理を二人前注文し「ボーイさん。これあんさんの
だっせ。」と言って一皿渡しボーイへの感謝を表しました。
大局観について、「あんた、そこから見て浪速区と北区の
火事がいっぺんに見えまへんやろ。ワテは五重の塔の上に立っ
とるから大阪中の火事がみな見える。その違いや。」と言いました。
2008/05/18のBlog
[ 07:05 ] [ か行・バスガイド資料 ]
伝説によると、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が
奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まり
とされます。
その後、円仁(慈覚大師)が延福寺(瑞巌寺の前身)を
創建した際に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に
東方降三世明王、西方大威徳明王、 南方軍荼利明王、
北方金剛夜叉明王の五大明王像を安置したことにより、
五大堂と呼ばれるようになりました。

堂は慶長9年(1604年)伊達政宗により再建され、
現在は国の重要文化財に指定されてます。

本州と五大堂のある島とは橋で繋がってます。
本尊の五大明王像は33年に1回開扉の秘仏で、
21世紀に入ってからでは2006年(平成18年)8月
18日~20日の3日間、「三聖堂、五太堂、日吉山王
神社 三十三年御開帳」が開催された」(堂の名は
通常は「五大堂」と表記するが、前回の御開帳の
時も「五太堂」という表記であった。五大堂の正面に
掲げられている額に「五太堂」とあるが、筆の遊びで
「大」が「太」になったといわれてます)。

重要文化財
五大堂
木造五大明王像 - 33年に1回開扉の秘仏です。各像
ともケヤキ材の一木造。不動明王像の像高64cm。作風
から、平安時代中期の作で、中央(畿内)から持ち込まれ
たものではなく、地元で制作されたものと推定されてます。
1995年に国の重要文化財に指定されました。


○大施餓鬼(おおせがき)・8月16日
 瑞巌寺の盂蘭盆会は「川施餓鬼」と呼ばれ、
盆の16日夜(現在は8月)に行われております。
門前の海岸に櫓を組み棚を設け、回向供養の
ための経木塔婆の焚き上げが行われますます。
そして、午後8時に山内の僧約50名が、住職を
先頭に列をつくり、寺を出ます。
法要は約1時間続けられます。

○大般若(だいはんにゃ)・1月1日~3日
 修正会とは前年のいろいろな過ちを懺悔修正
する法要で、元旦から3日間、本堂室中で一山
僧侶が大般若経600巻の転読を行います。

○火鈴様(こうりんさま)・12月31日
 大晦日の夜9時、雲版の乱打を合図に、住職
代理の一僧が鈴を振り、般若心経を繰り返し唱え
ながら、一晩中松島の海岸地区を歩きます。
火鈴様を迎える家は軒に提灯をつるし、机に灯明を
ともし、茶碗に梅湯または酒を入れて玄関に置き
ます。行者はその前で心経3巻を唱えたあと、箸で
茶碗の中をかき回し、飲んだ振りをして次の家へと
回ります。
この地域では、火鈴様の姿を見ると目がつぶれ、
また、火鈴の音を聞かずに年を越すと五臓腸が
腐れると禁忌されております。
家々では明かりを消して静かに待ち、火鈴様の
残した梅湯や酒を分けて飲み、1年の災厄を払い
ます。なお、現在使用されている鈴は、戦後に
なって模造されたものです。

○藩祖忌(はんそき)・6月24日
 藩祖・政宗と、殉死(追腹ともいう)した側近及び
陪臣20名、正室陽徳院の毎歳忌。6月24日に
行われます。
寛永13年(1636年)5月24日の朝、政宗は70歳で
波瀾万丈の生涯を閉じました。法諡は瑞巌寺殿
貞山禅利大居士。政宗の死が伝えられた幕府は、
三日間、江戸での歌舞音曲を停止せしめました。
この特別措置は家光をして「政宗は天下の副将軍」
と言わしめたのもです。戦国生き残りに対する家光の、
心からの弔慰でありました。正室・陽徳院田村氏は
承応2年(1653年)1月24日に亡くなりました。
世寿86歳の高齢でした。奇しくも夫・政宗と同じ命日
となっております。法諡は陽徳院殿栄庵寿昌尼大姉。

○開山忌(かいさんき)・9月8日
 当山を開山し、また再興に貢献した法身禅師、雲居
禅師、洞水禅師の毎歳忌。9月8日に行われます。
政宗が死を迎えるころ、瑞巌寺住持は空席でした。
政宗は修行中の若者・洞水に目をつけたのですが、
若年の故を持って断られ、替わりに雲居を推薦しました。


瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といいます。現在臨済宗妙心寺派に属しております。

開創は平安の初めにさかのぼります。天長5年(828年)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が淳和天皇の詔勅を奉じ、3000の学生・堂衆とともに松島に来て寺を建立しました。この寺は延暦寺と比肩すべき意を持って延福寺と命名され、平泉・藤原氏の外護を受けました。

藤原氏滅亡の後は鎌倉幕府が替わって大檀越となりました。北条政子は当時学徳一世に高かった見仏上人に仏舎利を寄進し、夫の菩提を弔わせています。その仏舎利・寄進状は今に伝わっております。

この天台宗延福寺は鎌倉時代中期、開創以来28代約400年の歴史をもって滅しました。
法身禅師が開山とされ、天台宗延福寺にとって替わった寺は円福寺と命名されましたが、正確な開創年はわかっておりません。
歴代住持の経営努力によってその勢力を岩手県南部にまで伸長してき、寺格も五山十刹に次ぐ諸山の高位にありました。しかし、戦国時代を経て次第に衰退し、妙心寺派に属するようになりました。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが終了した後、仙台に治府を定めた伊達政宗は、仙台城の造営と併せて神社仏閣の造営も行い、塩竃神社・仙台大崎八幡宮・陸奥国分寺薬師堂を相次いで完成させました。
当寺の造営は特に心血を注いだ事業でした。用材を紀州(和歌山県)熊野山中から伐り出し、海上を筏に組んで運びました。大工は梅村彦左衛門家次一家や、刑部(鶴)左衛門国次ら名工130名を招き寄せております。工事は慶長9年(1604年)、政宗自ら縄張りを行って始まりました。丸4年の歳月をかけ、慶長14年(1609年に)完成しております。

伊達家の厚い庇護を受け、瑞巌寺は90余りの末寺を有し、領内随一の規模格式を誇りました。
しかし、明治維新を迎え王政復古の政策は廃仏毀釈を惹起し、さらに伊達家の版籍奉還による寺領の撤廃が瑞巌寺を始め松島の諸寺院を直撃し、零落・廃絶・焼亡等の憂き目を見ることになりました。瑞巌寺はそれでも時の住持太陽東潮の努力によりようやく維持されていたのですが、明治9年、天皇の行在所となり、内帑金千円が下賜され、復興の契機となりました。
現存する本堂・御成玄関、庫裡・回廊は国宝に、御成門・中門・太鼓塀は国の重要文化財に指定されております。


2008/04/20のBlog
[ 00:36 ] [ さ行・バスガイド資料 ]
栄光の銅メダル
オリンピックイヤーとなった1964年3月20日、
初マラソンに挑戦。2:23:31で5位となります。
それからわずか約3週間後の4月12日、
オリンピックの最終選考会となる毎日マラソン
(現在のびわ湖毎日マラソンの前身。この時は
東京オリンピック本番と同じコースで実施)に
出場、2:18:20.2で君原健二に次ぐ2位となり、
マラソンでもオリンピック代表となります。
オリンピック本番までのマラソン経験3回は、
戦後の男子マラソン代表では新宅雅也と森下
広一とに並ぶ少ない記録ではありますが、
初マラソンからオリンピック本番までの期間は、
新宅が3年半、森下が1年半あったのに対して、
初マラソンから7ヶ月でこれは戦後では最短
記録です。

東京オリンピック本番では、まず陸上競技初日に
行われた10000mに出場し6位入賞。これは男子
の陸上トラック競技で戦後初の入賞でした。
一方、最終日に行われる男子マラソンについては、
君原が日本人では最有力と目されており、円谷は
経験の少なさからあまり注目はされていませんでした。
しかし、本番では君原や寺沢徹が脱落する中、
上位にとどまって、ゴールの国立競技場に2位で
戻ってきます。だが、後ろに迫っていたイギリスの
ベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれてしまい
ました。これについては、「男は後ろを振り向いては
いけない」との父親の戒めを愚直にまで守り通したが
ゆえ、トラック上での駆け引きが出来なかったことが
一因として考えられてます。とはいえ、自己ベストの
2:16:22.8(結果的に生涯記録となる)で3位となり、
銅メダルを獲得しました。これは東京オリンピックで
日本が陸上競技で獲得した唯一のメダルとなり、
「日本陸上界を救った」とまでいわれました。

挫折、自殺
次の目標を「メキシコシティオリンピックでの金メダル」と
円谷は宣言しました。しかし、様々な不運に見舞われ
ます。所属する自衛隊体育学校の校長が替わり、
それまで選手育成のために許されて来た特別待遇を
見直す方針変更を打ち出しました。
その上、ほぼ決まりかけていた円谷の婚約を「次の
オリンピックの方が大事」と認めず、結果的に破談と
なってしまいます。直後に、体育学校入学以来円谷を
サポート、婚約に対する干渉の際も「結婚に上官の
許可(「娶妻願」の提出)を必要とした旧軍の習慣を
振り回すのは不当だ。」と抵抗した畠野が突然転勤
となり、円谷は孤立無援の立場に追い込まれます。
オリンピックの敗北の後、結婚して復活した君原
健二とはあまりにも対照的でありました。

さらに円谷は幹部候補生学校に入校した結果トレー
ニングの時間に苦労するようになります。その中で
周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、
腰痛が再発してしまします。病状は悪化して椎間板
ヘルニアを発症。
1967年には手術を受けます。病状は回復しましたが、
既に嘗てのような走りを出来る状態ではありません
でした。

周囲の期待の重圧と走れない焦りから、1968年
1月9日にカミソリで左頚動脈を切って自殺。
戒名は最勝院功誉是真幸吉居士。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。
干し柿、餅も美味しゆうございました...」で始まって
「幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。
何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、
御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は
父母上様の側で暮らしとうございました」
で結ばれている遺書にあった家族への感謝と
「疲れ切ってもう走れない」の言葉は世間に大きな
衝撃を与えました。
川端康成は『円谷幸吉選手の遺書』を発表し
「繰り返される《おいしゅうございました》 といふ、
ありきたりの言葉が、じつに純な、命を生きてゐる。
そして、遺書全文の韻律 をなしてゐる。美しくて、
まことで、悲しい響きだ」と語って「千万言も尽くせぬ
哀切」と評しました。(「風景」1968年3月号)

円谷と接した人は口を揃えて、まじめで責任感が
強くて礼儀正しい好青年だったと評されてます。
その性格はしばしば自らの不成績を責めるという
形になって現れ、それを克服するためにオーバー
ワークを招きがちだったことが、自殺という悲劇に
つながったとする見方も強いです。
当時の関係者からは「ノイローゼによる発作的自殺」
「選手生命が終わったにもかかわらず指導者に
転向できなかった円谷自身の力不足が原因」など
様々な憶測が語られましたが、三島由紀夫は
『円谷二尉の自刃』で、これらの無責任な発言に
対し「(円谷の自殺は)傷つきやすい、雄雄しい、
美しい自尊心による自殺‥‥この崇高な死を
ノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と
規定したりする、生きている人間の思い上がりの
醜さは許しがたい」と強い調子で批判しました。

出身地須賀川市では、業績を偲んで毎年「円谷
幸吉メモリアルマラソン」が開催されています。
また、実家には幸吉の没後に家族の手で開設
された「円谷幸吉記念館」がありましたが、遺族の
高齢化により2006年の秋に閉館しました。
それに先立って展示品は同年6月に須賀川市に
寄贈されてます。その後、市によって市営須賀川
アリーナに展示コーナーが設置されて、2006年
10月の「円谷幸吉メモリアルマラソン」開催記念の
特別展示を経て、2007年1月7日より「円谷幸吉
メモリアルホール」として正式に公開されました。。

彼の事件を教訓にオリンピック・アスリートに対するメンタル面でのサポートが重視されるようになった。

[ 00:03 ] [ さ行・バスガイド資料 ]
、旧石器時代の乙字ケ滝遺跡をはじめ、
奈良・平安時代を代表する国指定史跡の
上人壇廃寺跡など、古代からこの地が、
東北地方の要衝として栄えていたことが
解ります。

鎌倉時代以降は、二階堂氏の城下町と
して栄えたんでが、天正年間、伊達政宗に
攻められて、須賀川城は落城し手しまいます。
毎年、11月の第2土曜日に行われる日本
三大火祭りのひとつ「松明あかし」は、この
時の二階堂家の霊を弔うために行われて
きたっていう伝統行事です。

江戸時代、白河領となってからは、奥州街道
屈指の宿場町として栄え、独自の町人文化も
花開きます。俳諧も盛んだったので、松尾芭蕉が
「奥の細道」の旅で須賀川宿に8日間も滞在しました。

明治元年、須賀川は戊辰戦争で大きな打撃を
受けたんですが、須賀川人の気風によって、
明治の近代化に尽くし、新たな時代を築いて
いきました。
明治9年に本町、中町、北町、道場町が合併し、
須賀川村となり、同22年の町村制実施により
森宿村の一部を合併して須賀川町となりました。

また、昭和29年3月、須賀川町と隣接する浜田、
西袋、稲田、小塩江の4か村が合併し市制を施行
、翌30年3月に は仁井田村、昭和42年2月には
大東村が合併し、平成17年4月に長沼町、岩瀬村
との合併により、新しい須賀川市が誕生してます。

平成に入り、須賀川市は臨空都市として大きな
変貌をとげております。平成5年に開港した市の
東部に位置する福島空港では、札幌、名古屋、
大阪及び沖縄並びにソウル及び上海へ定期便が
就航し、福島県の空の玄関として大きな役割を
果たしてます。
また須賀川市は、東北縦貫自動車道須賀川IC
が整備され、東北新幹線へのアクセスが優れて
いるなど、福島県内でも比較的高速交通条件に
恵まれた地域となってます。

●名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
初寅大祭(旧正月初寅の日)
須賀川さくらまつり(4月)
高土山山開き(4月下旬)
宇津峰山山開き(4月下旬)
牡丹園開園(4月から6月)
いわせグリーンロードレース大会(6月)
きうり天王祭(7月14日)
ほたる&水とみどりのふるさとまつり(7月16日)
市民よさこい・盆おどり大会(8月15日)
釈迦堂川全国花火大会(8月)
長沼祭り(9月)
須賀川秋祭り(9月)
須賀川国際短編映画際(9月)
桙衝神社祭礼「太鼓獅子」(10月)
円谷幸吉メモリアルマラソン大会(10月)
すかがわ産業フェスティバル(10月)
松明あかし(11月第2土曜日)
牡丹焚火(11月)

●出身有名人
円谷英二
円谷幸吉
亜欧堂田善
門倉有希
鈴木央 - 漫画家
長沢ゆりか
羽鳥兼市 - ガリバーインターナショナル創設者
菅波栄純 - THE BACK HORNギター
小湊昭尚 - ZAN尺八奏者、ボーカル

2008/04/17のBlog
[ 20:31 ] [ あ行・バスガイド資料 ]
福島県のほぼ中央に位置する。面積は琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖に次いで日本第4位、福島県最大。また、湖面の標高514mは、全国でも有数の標高の高い湖であり、磐梯朝日国立公園に属する。

水質・・強酸性の地下水や強酸性の源泉が長瀬川を通じて流入するため湖水は酸性を示す。また、鉄イオンやアルミニウムイオンの濃度が高く、酸性の流入水と中和する過程で有機物やリンが吸着・結合して沈殿するため、水中の有機物の量を示すCODは0.5mg/L(2004年現在)と日本でもっとも少ない湖であり、4年連続で湖沼の中で水質日本一になっている。

しかし、近年、流入する酸性水の量や質の変化、生活系や産業・農業系排水の流入等の要因によって湖水が中性化する傾向があり、今後中性化が進行すると有機物を沈殿させる作用が働かなくなったり、湖底に沈殿していた物質が溶出したりして水質が急激に変化する可能性がある。

2002年、福島県では、猪苗代湖及び裏磐梯地域の湖沼群の水環境の悪化を未然に防止し、水環境を保全していくため、水質汚濁防止法の上乗せ規制及び横出し規制条例である「福島県猪苗代湖及び裏磐梯湖沼群の水環境の保全に関する条例」を制定した。

湖の形成
 更新世中期、約20万年前に猪苗代盆地が形成された。その後、磐梯山による9万年前頃の翁島火砕流堆積物と5万年前頃の頭無火砕流堆積物によって、それ以前の猪苗代盆地の河川が堰き止められて水位が上がり古猪苗代湖が出現した。その後の日橋川による急激な侵食により湖面が現在の高さまで低下し、猪苗代湖が形成された。
* (参考「会津若松市史13」『会津の大地-自然の生いたちと姿』(自然編3地誌))

伝説・・弘法大師がこの地を通りかかった際、機を織っていた女に水を乞うが断られてしまう。そこで別の村で米をといでいた翁という名前の貧しい女に米のとぎ水を乞うと、快く飲ませてもらえた。その翌日、磐梯山が噴火して周囲の52の村が陥没して湖底に沈んでしまったが、弘法大師に水を飲ませた翁の家だけは湖底に沈まず、島となった。これが翁島だという伝説が会津地方に伝わる。

利用
 猪苗代湖の日本海側への流出口である日橋川に十六橋水門を設け湖水面の高さ調整を行い、一山越えた日本有数の米の生産地安積原野に飲料用水、農業用水を供給する重要な安積疏水の水源となっている。
福島県を代表する観光スポットである。日本百景に選定されており、マリンスポーツやキャンプなど、年間を通して家族連れなどの観光客が多い。白鳥の飛来地としても有名。
湖北岸には天鏡閣(重要文化財)、野口英世記念館などがある。
また冬には、強い季節風に吹き上げられた水しぶきが木などに付着して、そのまま凍り付いてできる「しぶき氷」が有名。

天然記念物
「猪苗代湖のミズスギゴケ群落」、「猪苗代湖のハクチョウおよびその渡来地」が国の天然記念物に指定されている。
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