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ヘルメットヘアーをめぐる冒険
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2008/05/06のBlog
食べ物のビザの話。

ピザってのはとっても美味しいものだ。日本に多く浸透している食い物だ。円山に行けば、たっかいこだわりピザが食えるし、コンビニに行けば100円の冷凍のやつが買える。個人的には、六花亭のレストランが出すピザがとてもすきなのだ。札幌には六花亭レストランてあるのだろうか。あと、飲みに良くのなら北18条のウッドバックというお店のピザがお酒のお供として心強い。ここはマジお勧めなので、今度誰かと行きたいものだ。

そんなピザだが、よく食べやすいように切れ目が入っているピザがある。もしくは、分けやすい様に始めから切って出されるものもある。

俺はいつも思うのだが、これらはピザなのか?

切れ目が入っている状態であるのに、ピザと称して良いのかと思い悩んでいるのである。立派なピザなんて食べた事ないけれど、多分本物ってのは、普通に作ったならば、切れ目は入らないはずだ。焼いてる途中で切れ目がかってに生まれるとか無いはずだ。

トマトとかを切って、サラダに出すことがある。多分これはみんな切ったトマトだと認識するはずだ。だが、ピザの場合、切れ目が入っていても(ワンホールで出されるならば)、ピザとしか認識していないのではないか。

一体、ピザに切れ目を入れる、もしくは商品として出す時点で切っているという行為は、料理の過程であるのだろうか。それとも食事するための作業なのだろうか。ステーキなどは、ほとんど明確に肉を切る作業は食事の作法の部分である。先述のサラダにおけるトマトは、料理の一部分だろう。

では、ピザに切れ目を入れて食べやすくするという行為は、一体どちらに属するのか。私にはこれが全くわからない。ピザ、というものはどういう状態のものを指すのだろうか。どこまでが料理の結果で、どこまでが被食の始まりなのか。

昨今のコンビニの安いピザは、必ずといって良いほど、製作の段階で切れ目が入っている。まるまま焼いたピザと、始めから切れ目を入れたピザは、別物だと思う。という事で別の呼称をつけるべきと思う。チワワとセントバーナード見たいに、ね

このピザの切れ目問題は、上のチーズが割と癒着していて切れ目を入れても割とくっついているように見える点に象徴されるがごとく、未だあやふやなのである。
2008/04/26のBlog
[ 22:01 ] [ 大学生活 ]
もうすぐ日本史の歓迎コンパあるのだ。耳鳴がひどい。

この前カラオケで、セレブ?の日本史OGとデュエットしたのを財界さっぽろに投稿されそうになった俺であるが、そのときに約束したのが、中森明菜の『北ウィング』を次回は歌うということであった。彼女は俺の知らない歌を歌って!!!といって無理やり入れてくるので(これは社会人院生のロサエビーナも同じ傾向にある)何とかそれに応えなくてはならないのだ。下っ端はそういうのが仕事である。

正直なところ、中森明菜に関しては『DESIRE』しか歌えなかったので、見識を広げる意味でも丁度いいのである。私は、聖子派かといえばそうではなく、明菜派であるのだ。いつも謎なのだが、聖子派は一発で変換されないが、明菜派は一発で出るのだ。これは明らかに、このパソコンの変換をつかさどったものが明菜派だったのに違いない証左である。

ま、こんな無意味な対立軸を作ってもどうしようもないのだが。よく、犬派?猫派?という質問があるが、どうして両者が対立しているかのような質問設定が基準としてあるのかと思う。犬も猫もどっちもすきでいいし、どっちも嫌いでもいい。択一を迫られて、両方を選択したり拒否したりする人間が好きだ。

あとテレサテンも歌わなくてはならなかった!!!!俺は懐メロが好きなのかもしれないな。てか、何で若者は今の音楽しか聞かないのだろうかと思う(補遺:そなことないか~昔の曲詳しい人実際多いしなぁ)。例えば、何で自分の誕生日は知っているのに、その年のレコード大賞は知らないのだろうか。両者の価値なんて大した差異はないだろうと思う。

(俺は誕生日なんてこの煩悩渦巻く世にただ生まれただけの記念日であると思っていて大した価値があるものと考えていないのだ。誕生日なんて自分では何もやってないし。ただ産み落とされただけ。自分だけ浮かれてないで、産んでくれた親に感謝すべきである。もっと人間として、個人的に何か大きなことを達成したと思うその日を自分の記念日とすればいいのだ。誕生日なんて糞だ。(言いすぎである))

という事で、85年のレコード大賞は中森明菜の『ミ・アモーレ』であり、86年は同じく中森明菜の『DESIRE』である。

勿論、今の音楽も昔の音楽と同じように愛でるべきである。それは大事。という事で、どっちも愛好していれば、二倍楽しめるのだ。だから今日もカウントダウンTVを見るのだ。

何か攻撃的な文章を書いてしまったが、たまにはそういうこともあるのである。


この前、ガキの使いのヤマちゃん卒業の回で、ヤマちゃんが『フライデイチャイナタウン』を歌っていた。曲名わからないけどラジオで聞いたことがあって、何て曲名だろうと思っていたところなので、丁度良かった。こういうのって、検索できないから困る。そのうち、鼻歌で検索できる、なんてのが出てくるのかもしれないなぁと思った。
2008/04/24のBlog
[ 00:55 ] [ 今日は・・・○○篇 ]
今日は…のあとの~篇には、何かと難しい漢字を使いたい、そんな年頃の俺が今日もブログを更新だ。とは行っても今日は特に記す事もなく、ちゃんとブラインドタッチでタイピングできているかの確認程度の内容になってしまっている感が否めないのである。

今日は久しぶりに、メニエール病の症状が出てフラフラで朝起きられず。サークルの勧誘のために登校。ちゃんと授業に出た。サボろう思った5限もちゃんと出ました。最近風邪を引いている人がちゃんと学校に来る姿を良く見ていたので俺もやってみようと思ったのであった。わりと頑張った一日であった。俺は調子悪いとすぐ学校を休んで寝てるタイプの人間である。

南部先生とちょっとお話した。卒論について。話せてほっとした。

その後もう一人研究室にいた友人と先生とで一時間くらい雑談。南部先生は話をするのがすき。自分の研究室が、学生たちの研究室の近くになって嬉しくてやってくるのだろう。良かったと思う。俺も先生の話を聞くのがすきだ。というか年上の人の話を聴くのがすきだ。でも先生はクリープを入れすぎだと思う。

上記の出来事があったから、今日は頑張ってきた甲斐があったということだ。今これを書いてて思った。こんな文章を書いていた甲斐もあったということだ。

母親と電話で話したとき不調を訴えたためか、OBAより食事の勧誘があった。土日でいければよいなぁ。感謝である。
2008/04/23のBlog
[ 01:06 ] [ 大学生活 ]
お勧めのニコニコ動画コンテンツを紹介する。といっても皆ちゃんと見ているので、すこしマニアックなところで。


護法少女ソワカちゃんシリーズ

初音ミクで作曲した歌と手書きの絵で笑わせられるシリーズ。これがすごくて、名前の通り、仏教的色彩の濃い作品である。天台宗の話だとかの教義をしっかり踏襲してそれを踏まえてジョークをかます。

また、製作者はオカルティズムにも精通しているようで、それもよく作品に織り込んでいる。オカルトの一部分ってのは、しばしば仏教を基盤に語られる。地底大陸とかね。仏教とオカルトは一種親和性があるってことだ。まぁこれは大きな宗教全部に言えるだろうけど。という事で、有象無象のオカルトもネタとして取り上げる。

また哲学も組み込んでくる。『そんなところに神は宿らない』とか。最近のアニメとか小説に元ネタがあることも。

そのた、動画に登場する細々した物品や情景やキャラの配置に、ちゃんとした由来があったりする。

こういった知的ごった煮は見ていて爽快である。特最近のネット上での話題から、古来から築かれてきた仏教世界がごちゃ混ぜになって、それらが歌詞の言葉回しやアニメーションの滑稽さによって上手く扱われているのだ!

という事で、元ネタを探求するまとめwikiが存在するので、そこから動画を辿ると解りやすい。作者のセンスには感嘆するばかりである。

ソワカちゃん疏鈔

これは是非お勧めなのである。
2008/04/22のBlog
今日はあたふたしてしまった。ゼミの準備の段取りをミスった。多分大丈夫だろうけれども・・・

そうそう、北大生相手の定食屋の雄、北二十条の『六宝亭』のおっさんがボードでこけて靭帯を切ったらしい。道理で一週間近く休業したままだったのだ。これを何故私が知ったかというと、北大生相手の謎の中華料理屋『六宝飯店』のおじいさん(すごい肌ツヤ)が、他のお客さんに話しているのを小耳に挟んだのだ。このじいさんの店はすごくて、店は汚くて本は積み放題だし、醤油とかはいつそれいれたの?ってくらいだ。普通に虫がいる。でもうまい。怪しいお店だ。18時ころ開店で、29時くらいに閉店するのも意味不明だ。隠しメニューが多すぎるし。常連にさばの味噌煮を出していたのは笑った。

ここに一つの都市伝説があって、『六宝飯店』のおじいさんが、実は『六宝亭』のおっさんの父親だという説である。

実は今日それがおじいさんの台詞で実証されたのだ。じいさんは息子のことを心配してたぞ。大学四年になってようやく知ることが出来た。てかおじいさんは『六宝亭』に手伝いに行っているらしい、笑個人的にはすごいコラボレーションだ。『六宝亭』は本当に飢えた北大生の胃臓を満たす重要な存在だ。美味しいし、大盛りも充実している。至高の学生相手の定食屋だ。俺の大食いはここで培われたのだ。一番お世話になっている。

という事で、おっさんを元気付けるために、明日はホイコーロー定食のダブルを食べに行こうかなとも思う。ちょうど、後輩と大盛りのお店に行きたいねって話していた所だ。大学生協の大盛りメニューは微妙だったのである。そしてとりあえず俺は一刻も早く寝るべきだ。
2008/04/20のBlog
よく月にはウサギがいるという話がある。

これは月の表面の凹凸で出来る影によって、ウサギが餅をついているように見えるという点から出来た話だ。他の国ではかにだとか女性だとか、様々に月の影に想像力を投影する。

その一方で、漫画とかでよく月に実際にウサギが居て、そこで餅をついているという描写がある。ゲームでもそういうのがあって、桃太郎電鉄の月面基地にはウサギが居る。東方シリーズの、月の住人である優曇華やてゐはうさみみだ。

これはおかしい話で、ウサギの像が月の表面に見えるからといってそこに実際にウサギが居るとは限らないではないか。イタリアが長靴の形をしているからといって、そこは長靴だらけか?いやおしゃれの国だから、長靴無いわけではないだろうが、例えばヘプバーンは長靴履いていないではないか。

このようにして俺はいっつも月を見ていらいらしているのである。どっちかにすべきなのである。

ウサギのような影が月に見える。それでいい。

もしかしたら、月にウサギが居て、餅をついているかもしれない。それもロマンとしては妥当だ。それでいい。日本最古の物語が、月の住人を描いている。

だがな、その両方が同時に達成されているってのは一番ありえない状況なのである。これで良いのか21世紀。俺はそれが納得いかんのである。納得いただけたであろうか。


今日は満月だったのかな?よくわからないが怪しい月が中空に浮かんでいました。月は見ることが出来るから、月の使者や月の神とは身近に会話できる。かぐや姫とかとも。

でも太陽は見れないからそういうキャラを立てにくい。絶対的な太陽神のようなかんじだ。あっでもアマテラスは違うかな???そうだ、昨日よぱらってアマテラスに萌える話を大人(先生)に開陳してしまった。なにをやっておるのだ俺は。
2008/04/18のBlog
もう考えるのが面倒になって、たいていの場合においての価値基準をイケメンかどうかで判断すれば良いのではないかと思う。

Kか先生か。

前世紀の日本における最大のラブトライアングル(恋の三角関係のことである)である夏目漱石の『心』をみてみよう。

お嬢さんがKか先生どちらかイケメンなほうを黙って選べばよいではないか。そしたらKも先生も悩まなくていいし小石川とかを散歩しなくていい。青春の煩悶は、完全撤去なのである。

『かぐや姫』のお話もそうで、かぐや姫は結婚を望んだ貴公子たちのなかから黙ってイケメンを選べばよいのだ。てかむしろ、全員気に食わなかったから無理難題を申し付けたのだ。

他にアラビアンナイトにお話のもとがある「笑わない王女」(決して笑わない王女を笑わせた者が王女と結婚できるって話で正直者がたいていの場合王女を笑わす)も、ぜんぜん求婚する男たちが面白くない以前にイケメンでさえもないから笑わないのである。正直者は正直が顔に出ていてイケメンなのである。

トゥーランドットでも、お姫様がカラフがイケメンだなーと思ったからこそ、わざとに三つの質問(答えられないと死刑になる)を、カラフごのみに作ったのである。そして正解はお姫様しか知らないんだからカラフが変な答えしてもいくらでも正解に出来る。

と言うことで、結婚への変な注文付けは、実はイケメンを析出させるための構造物であったのだ。

とはいっても、この男女平等の世の中。我々はシンデレラの王子が、ガラスの靴をもってかわいい女の子を捜している可能性も考えなくてはならんのである。
2008/04/09のBlog
[ 18:37 ] [ 大学生活 ]
どうでもいい話だが、私の苺に関しての奇癖を記しておこう。

私は苺が嫌いなのだ。ただそれには留保がついていて、苺を単品で食べるときのみ、嫌いなのである。だから苺の加工品は好きだ。苺ジャムとか。ハーゲンダッツは苺味が一番好きだ。

だが苺だけでは食えない。酸っぱいのである。これはきっと、一般的に苺が嫌いな人の持っている感覚と相違ないと思われる。だがだがどうだろうか。何かと苺が合わさると、これはいけるのである。

ここで微妙な問題に立ち入る。非常にマージナルな問題だ。

(マージナルという言葉を知ってから、よく使ってしまうのであるが何か相応する適切な日本語がないものだろうか。なんだかちょっと便利すぎて安易に使ってしまうように感じる。)

閑話休題。そのマージナルな話題とは、ショートケーキの上に乗っている苺はセーフなのかというものだ。まさに竹島問題に匹敵するマージナルさである。

結論から言えば、セーフである。これは食えるしおいしい。これは苺はショートケーキの要素を占める存在で有り、大福の中に苺が入っているのと同じと捉えられるためである。

ここまで来ると、どうも俺は苺が別に嫌いではないとも思われてくるのだ。

さらに視座を一歩進めて、加工品か否かという問題を突き詰める。現代の出荷されてわれわれの口に届く苺は、苺本体だけの商品でも中途で何らかの加工が為されている。箱詰めとか。

そういう点を自分の感情の中で斟酌できれば、身の回りのほとんどの苺に対して苦手意識を克服できよう。それらはほとんどの場合加工品であるためだ。苺が加工されたら俺は大丈夫なんだ。

きっと苦手の克服はこういう詭弁ぽいようにやるものであると、ふと思うのだ。だが俺は別に苺が嫌いなままでいいので苺に関してはそういうことはしない。
2008/04/06のBlog
世の中には、自動ドアなるものがたくさん設置されている。人間偉くなったもので、何にもせずとも建物の中に入れる時代となったのである。暖簾に腕押しすることさえ必要なくなった。

扉→暖簾→自動ドアと入り口の進化は、そこを通る人間の労力の減少とともに歩んできた。回転ドアをどこに組み込んでよいか良くわからない!

それはいいのだ。どの分野を見渡しても、物はどんどん便利になるし、人間はどんどん苦労せずして行為を行うようになっている。それでいいのだ。科学万歳!!!!

でだ。世の中をさらに細かく見ていくと、手で押すと扉が自動で開くシステムのドアが存在する!

例えば飲食店で、入り口付近を人が頻繁に通ったり、また並んだ客が入り口付近に待っている場合、このタイプのドアは活躍する。このほか、完全に自動で開くことの弊害が多い場面で、このタイプは本領を発揮する。北海道は冬場寒いので、人通りが多すぎてずっと開いたままだと困るのが結構有る。

このドアは何ドアというのか?

自動ドア?手で動かすのに自動だろうか?よく見ると、手で押す部分に「手動」なんて書いてある。でも本当に手動か?本物の手動ドアってのは、単なるドアのことを言うのではないか。

なんとも奇妙なのである。完全に自動ドアでもないし完全に手動ドアでもない。

今日私が提起したいことは、あれを敢えて「手動ドア」と呼称するということである。

なぜなら、全自動のドアは自動ドアと呼ばれている。そしてただのドアはドアと呼ばれ、わざわざ手動ドアと呼ばれていないからである。「手動ドア」という呼称は、いわば空席なのである。

だからこの自動だか手動だか良くわからん押すと勝手にドアが開くタイプのドアは手動ドアと呼んだらよいのだ。

だかこれは呼称・定義の問題である。本質的に彼のドアが手動で開いているのか自動で開いているのか、こんなにも進んだ科学力を持ってしてもいまだ解明されていないのである。手をパンとたたいて、どちら側から音が出ているのかわからないのとちょっと似ている。
2008/04/05のBlog
「ビートルズがやって来る~…」は映画史上最悪の邦題だと思う。翻訳史上最大の失敗といったほうが良いかなぁ。やーやーやーのあたりが、意味不明だし、それにしては大衆に迎合しようとする姿勢が発露している。アハードデイズナイトが一切訳出されていないものすごい訳だ。中学生にこれ教えたら零点だし、漱石先生に報告してもこれはないだろさすがに…って言いそうです。

そんなかんなで昨日は研究室に新人がやってきた。将来有望な学生どもだ!練達の文学部生である。自主ゼミの説明。先生全員の前で説明したので、言葉選びが大変でした。とくに南部先生の前で説明するのが緊張する。

近世にはたくさん人がきそうだ。宣伝の上手さの賜物である。

成績が出ました。まったく問題なし。でもそろそろGDPの平均値が上がらなくなってきた。『交響詩篇エウレカセブン』と『未来少年コナン』の比較対照から論を起こした国文学のレポートは見事優であった。これは果たしてアニメでレポート書いて大丈夫なのかと思っていたところなので、ちゃんと評価されて良かった。

鬼頭莫宏の短編がジャンプスクエアに載ってました。オチ読めたけれど、楽しかったです。短編もいけるぜ。鬼頭作品は、古来からの典型によってしっかりまとめられている。それは古くから哲学で問題とされてきた事柄だったり、様々に言説が為される心理学社会学だったり。なるたるの主人公のシイナが一回死んで、生き返って初潮を迎えたりとかってのは、あまりに象徴的だ。

ということで、構造がとてもしっかりしている。生きること、死ぬことに対しての作品としての挑み方が、昔からの思索・探求の成果を踏襲している。立脚している要素が力強い。

そして、まっとう過ぎるほどのセカイ系。こういう点でも、しっかり今までのアニメ・漫画作品の流れを汲んでいる。

ハートフルボッコにされるけど、鬼頭作品はお勧めなのである。

あと良く作品の中で検出される要素として、犯罪を犯す者の動機を、他者が類型化して処理するのを厭うというものがある。「恵まれない家庭環境」だとか「受験のストレス」だとか、少年犯罪でよくマスコミとかが言うよな判断である。だがそんな類型で事件をすべて言い切れるものか?と考えているのである。今回の短編のテーマはまさにそれだった。

これは確か京極夏彦も言っていたことだ。京極はそんな皆が一見すると納得いくような理由などではなく、もっと心の本源にふと湧き出るものが、殺人へと人を突き動かす、見たいな事を書いていた。で、それを「通り魔」なんて例えていた。「動機」否定論である。


卒論について、ちゃんと考え直さなくてはならない。自分の頭の中でだけでしか考えていなかったので、とても出来そうにないということが本や史料を読んでいく中でわかってきた。橋本先生からも同じようなことをちょっとうかがった。南部先生に相談しなくてはならない。この点、時間有るときにちゃんとこのブログにでも書いて整理しておきたい。折角進学するのだからちゃんとしてのを書いてみたいのである。