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21世紀のリーダー 死活の書
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2007/05/03のBlog

 人はこれを見て、不可解な現象だと思うだろう。
 5月2日の朝日新聞「今の憲法を改正する必要があるか」についてのアンケート結果である。

 《憲法改正について、「必要がある」は全体で58%、「必要はない」は27%、すべての年代で「必要」が多いが、若年層ほど改憲指向が強い傾向がくっきりと表れた。
 「必要」は20代では78%に達し、「必要ない」を圧倒。「必要」は年代が上がるにつれて減り、逆に「必要ない」が増える》

 私はこの現象を危険な前兆の一つであると認識したが、warmgun氏もこの件については注目しているようだ。

 ◆warmgun氏のプログ : snapshot 2574

 特に注目すべきは、やはり20代の78%という数字だろう。極端に言えば若年層のほぼ全員が、憲法改正については支持の方向性を鮮明に打ち出しているのだ。私が危険な前兆と指摘しているのはこの78%という数字についてである。非常に違和感を感じる。

 この新聞記事に接し、政治学者の姜尚中(カン・サンジュン)氏が、彼の著書「愛国の作法」において興味深い指摘をしていることを思い出した。彼の指摘と、今回の朝日のアンケート結果に何らかの関連性を感じずにはいられない。
 「愛国の作法」の一部を紹介する。

 《興味深いのは、先に紹介したような、雇用や結婚、生活設計などで深刻なリスクを背負い、「勝ち組」と「負け組」の二極化の中でしんぎんしているはずの若者たちの間で帰属意識を鮮明にしてくれる「新・国体」論的なメッセージが意外とすんなりと受け入れられているのではないかということです。その事情を少し考えてみましょう。
 (中略)そして社会の矛盾は、当の個人の生き方によって私的に解決することが強要されているわけです。つまり、社会はリスクと矛盾を生み出し続け、それらの対処は、「自己責任」に基づいて個人によって解決されなければならないのです。お上に期待するな、自分の内側だけ見ろ、必要な資源は個人的な才能と意志、能力の如何にかかっている。これがリスク社会の押しつけるルールです。》

 《彼らは、椅子取りゲームの椅子のような場所を求めて、右往左往し続け、そのあげく「負け組」の終わりなきゲームに付き合わされることになるのです。》

 《しかも、弱者としての若者たちが連帯する可能性はほとんどなくなりつつあります。自己責任や自己決定と裏腹のリスク社会では他社とのつながりの弱い、無定型な原子化(アトマイゼーション)が進行していかざるをえないからです。》

 《しかし、そのようなはかない共同体も、メディアのポピュリズム的なヒート・アップによって煽られると、熱狂的な連帯感情を生み出すことがあります。つまり、いつもは公共的な事柄に無関心な人々が、忽然として過政治化し、熱狂的な盛り上がりをみせることがあるのです。政治の世界が見世物と化し、そこにメディアが読者や視聴者の気を引く素材だと思って飛びつくとき、そのような過熱化が起きることになります。》 ~姜尚中『愛国の作法』~

 今回の事象におけるキーワードは「過政治化」といったところだろう。
 引用にもある通り、無定型な原子化、つまり孤立化が進行しつつある若者の中にあっても、他者と融合したいという欲望は最も根源的な熱情であると、姜尚中氏は指摘する。
 そのような背景において、逆説的に熱狂的な連帯(過政治化)を垣間見せるこれら若者たちの行動を、過去の歴史に照らし合わせて考えると、非常なきな臭さを感じとってしまうのは、果たして私だけだろうか。
 これらの現象は、劇場型政治(まさに政治の見世物化)と揶揄された小泉政権の頃より始まり、そして現在の安倍政権ではファシズムの一端として、いよいよその姿を露出させ始めているのだ。





2007/04/29のBlog

 皆さんは「日本会議」という団体をご存知だろうか?
 
 今回の国民投票法案に関しては、御多分に洩れず、書籍、新聞、インターネット等を通して自分なりに勉強し、情報を収集していたわけだが、偶然にもこの「巨大なる団体」に出くわしてしまい、いかに自分が無知蒙昧で、知らず知らずのうちに「平和ボケ」に陥っていた一人であったことに、あらためて気づいてしまった次第である。
 恥ずかしながら、私は「日本会議」という存在を、今回初めて知ったのである。

 この日本会議。昨今の改憲問題のみならず、現代日本の政治・経済・文化、その他あらゆる分野において、とてつもない影響を持つ団体の一つであることは、ほぼ間違いなさそうだ。
 そして、この日本会議こそが、もしかすると日本の暗黒面のまさに核心である可能性も、(そう指摘する人は多いのだが)場合によっては否定することができないのである。
 ただ、今この事に言及するのは非常に危険なことであるし、まだ当団体の核心部分に私自身、なんら迫っているわけでもないので、これはあくまで私の私見に留めておきたい。よって、今回は日本会議という団体のガイドラインと、そのベース上に成り立つ、安倍総理と石原都知事の関係性に焦点を絞り込み、”国民投票法→改憲”の出発点をどの辺に定めるか考察してみたい。
 
 まず最初に、日本会議とはどのようなメンバーで構成されているかに注目していただきたい。
 私がこの団体について非常に悩ましく感じるのはこの構成員に他ならない。説明するまでもなく、各界を代表し、世間からの尊敬と羨望の的となるであろう錚々たる重鎮が名を連ねているのだ。これほどのメンバーを擁する団体は他に例がなく、無視することのできない一大勢力である。
 
 ※ただ、これが単なる名義上の話であって、実際の活動員はいわゆる世間で言うところの右翼活動家だとしたら、ある意味安心である。その辺の事情はどうなのだろう?
 
日本会議中央役員
※ちなみに組織としては、北は「北海道ブロック」南は「九州ブロック」まで、本部・支部を合わせると実に80もの拠点を抱えている。※海外にはブラジルに日本会議の拠点が存在。
【顧問】
 ・宇野精一 (東京大学名誉教授) 
 ・北白川道久(伊勢神宮大宮司 ) 
 ・久邇邦昭 (神社本庁統理) 
 ・白井永二 (鶴岡八幡宮名誉宮司)
 ・瀬島龍三 (伊藤忠商事(株)特別顧問)
 ・服部貞弘 (岩津天満宮名誉宮司)
 ・渡辺恵進 (天台座主)
【会長】
 ・三好達(元最高裁判所長官)
【副会長】
 ・安西愛子(声楽家)
 ・石井公一郎(ブリヂストンサイクル㈱元社長)
 ・小田村四郎(拓殖大学総長)
 ・小堀桂一郎(東京名誉教授、皇室典範研究会長)
 ・矢田部正巳(神社本庁総長)
 ・山本卓眞(富士通(株)名誉会長)

※代表委員についてはあまりの人員の多さに全員は紹介しきれない。主な委員のみ記載することにする。
【代表委員】
 ・市川晋松(日本相撲協会前相談役)
 ・伊藤憲一(青山学院大学教授)
 ・井上太郎(霊友会総務理事)
 ・入江隆則(明治大学教授)
 ・海老原義彦(軍人恩給連盟全国連合会会長)
 ・岡野聖法(解脱会法主)
 ・尾辻秀久(参議院議員、日本遺族会副会長)
 ・唐澤祥人(日本医師会会長)
 ・黒川紀章(建築家)
 ・慶野義雄(日本教師会会長)
 ・志摩淑子((株)朝日写真ニュース社社長)
 ・千玄室(茶道裏千家家元(戦時中は特攻隊員であった))
 ・高城治延(伊勢神宮少宮司)
 ・外山勝志(明治神宮宮司)
 ・南部利昭(靖国神社宮司)
 ・長谷川三千子(埼玉大学教授)
 ・保積秀胤(大和教団教主)
 ・森定慈芳(比叡山延暦寺代表役員)

次に、ざっとではあるが日本会議の概要を説明する。

■「日本会議」とは、日本最大規模の右派・保守主義系の市民団体である。前身は「日本を守る国民会議」「日本を守る会」だが、両団体が統合する形で1997年に発足した。
<point_1>
 日本会議発足当時から主張し続けてきているのが、現在も話題に上る「従軍慰安婦問題」の解釈についてである。発足当時の橋本首相に学校教科書から従軍慰安婦の記述を削除するよう、圧力をかけ続けた。日本会議は従軍慰安婦の存在を認めていない。

■愛国主義・反共主義・親米保守主義がこの団体の基本的なスタンスである。
 安倍晋三、麻生太郎、島村宜伸、山谷えり子、稲田朋美、平沼赳夫、高市早苗、下村博文、西村真悟などの政府与党系国会議員との結びつきが強いのが特徴。
<point_2>
 「日本会議国会議員懇談会」は日本会議の思想を政治へ反映させるための議員集団である。麻生太郎を会長、中川昭一を会長代行とし、約240名もの国会議員が名を連ね、「みんなで靖国神社に参拝する会」の活動も推進している。
 安倍総理は小池百合子氏と同様、副幹事長として防衛・外交・領土問題を担当しており、18人の安倍内閣閣僚のうち、11人までが日本会議在籍者である。

■文化人、政治家、財界や官僚出身者、教育関係者、宗教家、民族派活動家まで擁し、その構成メンバーの多彩さは目を見張るばかりだ。
<point_3>
 特に多くの新興宗教団体が関わっていることが特徴といえるだろう。
 霊友会、解脱会、生長の家、国柱会、仏所護念会、念法真教、モラロジー研究所、大和教団、キリストの幕屋、統一教会、その他多くの教団が日本会議に関わっている。
 特に安部首相と統一教会は祖父岸信介の時代から関係が深く、最近では統一教会の集団結婚式に安部首相自ら祝電を送っていることなどが確認されている。

■国益と伝統的な価値観に基づき独自のスローガンを掲げ、会員運動や言論活動を活発に行っており、その主義・主張が及ぶ範囲はあまりにも広い。
主な方針は次の通り。
 ・憲法の改正
 ・教育基本法改定、道徳教育など教育問題の刷新
 ・新しい教科書の活用(→新しい歴史教科書をつくる会)
 ・靖国神社参拝の推進活動
 ・女系天皇を認める皇室典範改正
 ・外国人(在日)参政権反対
 ・夫婦別姓法案反対
 ・人権擁護法案反対
<point_4>
 長崎市長銃撃事件で殺害された伊藤一長市長は、城尾哲弥容疑者との間には何の面識も無かったという。
 ただ、城尾容疑者が所属する「水心会」と安倍首相の後援会「安晋会」とは何らかの繋がりが取り沙汰されている。
 故伊藤市長はかつてより、核廃絶を主張し、日米安保にも異論を唱え、外務省とも対立してきた経緯がある。つまり、安倍政権に真っ向から対立する首長の一人でもあった。そして、城尾容疑者と30年来のつき合いだという松尾千秋弁護士こそ日本会議長崎県本部・副会長であり、「新しい歴史教科書をつくる会」の長崎県支部長なのである
 こうしてみると、今回の長崎の事件はどうやら個人的な恨みが発端ではなく、何らかの組織的思惑が裏に潜んでいる事を示唆しているかのように思われる。


 これまで紹介した内容は、日本会議についての表層に過ぎない。組織は全国規模で巨大であり、その構成員も社会的地位のある人間が出るわ出るわで、全くのところ収集がつかない。世の「成功者、もしくは勝ち組」と呼ばれる人間が一体何を考えているのか?なんだか人間というものが分からなくなってくる。(これもアメリカ化の一端なのか?)
 極右と言われながら、我々がイメージする黒塗り街宣車の右翼とはやや一線を画すこの団体を(やっていることがたとえ同じだとしても)、今後評価してゆく事はかなりデリケートな問題も孕みそうだ。単純評価するには危険な「難しい団体」でもある。
 どうやら、「日本会議」は私にとってライフワークの一つになりそうな予感がする。

 さらに、ここで忘れてはならない事が一つある。
 先ほどは敢えて記載しなかったが、実は石原慎太郎東京都知事も日本会議の「代表委員」の一人なのである!
 安倍首相と石原都知事は何のことはない、同じ利権団体の盟友同士だったのだ!今回の私の記事に目を通してもらえば、「国との摩擦を起こす」だの「国に対してものを言う」などという石原氏の発言など、枯れ落ち葉ほどの重みもないことが充分に分かっていただけると思う。
 だけでなく、安倍・石原氏を擁するこの超巨大団体が、今にも「日本という国家」に大異変をもたらそうとしているのだ(国家転覆と言っても言い過ぎではないかもしれない)
 この事実に我々はあまりにも無知で、幼く、そして馬鹿まる出しではないのか?我々が想像する以上に、世の中は動き出しているのだ。さらに、経済界、宗教界を母体とする彼らの組織票は、我々の想像力を遥かに超えている。
 そのような状況で、やれ投票率は50%前後だの、無党派層がどっちに動いただの、そんな国民の提灯のようなフワフワした政治的態度では、日本会議のような団体に「絶対に太刀打ちできない!」
 
 つまり、今回の国民投票法に始まる憲法改正の動きは、日本会議のような強大な団体がコントロールする勝ち組によるレースである。負けという想定は一切ない。
 そして、「安倍晋三-石原慎太郎-経団連(御手洗冨士夫)-日本経済新聞」といった悪のカルテットが仲よく手をたずさえ、烏合の衆(つまり、我々国民)にリップサービスを披露する。
 これが、今回の国民投票法から改憲に至る「政府与党」と「国民」の基本的構造なのだ。私は、この基本的構造を基点に、この問題を今後考えてゆきたいと思う。
 国民の大多数は、悪のカルテットの甘い囁きにすっかり「素敵な勘違い」をしているようだが、もう少し大人になるべきだと思う。今のままではあまりに幼すぎるのだ。
 日本人の「民度」は、本当に高いのだろうか?
 我々が真剣に政治を考え、連帯すべき時は、まさにこの瞬間からなのではないだろうか!





2007/04/28のBlog

 日本経済新聞を語る上で、欠かすことのできないキーパーソンがいる。言わずと知れた、石原慎太郎東京都知事である。

 4月19日の朝日新聞「3選 石原知事に聞く」 では、4月8日の東京都知事選で3選を果たした石原慎太郎氏のインタビュー記事が掲載されている。
 見出しは「国との摩擦を起こす」。得意の石原節である。一部内容を紹介してみよう。

 《-副知事をどう考えていますか。
 国との摩擦が起こると思う。起こそうとも思っている。そういうときに、都の官僚出身の副知事じゃ乗り切れないこともある。僕以上の論客で、国がぎゃふんという、そういうサポートのできる人が欲しいな。》

 さらに、4月24日の朝日新聞「3期目の初日、民主都議にタンカ」 も面白い。

 《石原慎太郎知事は23日、3期目の任期がスタートし、都議会の各会派や庁内の各部署を回った。
 自民、公明の両会派では大きな拍手がわいた。しかし、知事選で対立候補を支援し、今回初めて予算案を否決するなど対決姿勢を鮮明にした民主では、控室で待ち受けたのは3都議のみ。「いいオリンピックを期待してます。メリハリつけて」と声をかけられた石原知事は「メリハリが必要なのはそっちだろう。借りは返すからな」と、タンカを切って立ち去った。

 言うまでもなく、今回の東京都知事選におけるポイントは2つある。無党派層の取り込みと政党の支援である。前回の都知事選においては、石原氏が無党派層の実に7割もの票を獲得したのに対し、今回の選挙では対抗馬の浅野氏と約4割づつ分け合う、無党派票については伯仲した戦いとなった。
 これで仮に、石原氏が自民・公明の支援を受けていなかった場合、選挙戦の行方は浅野氏へ大きく傾いた可能性も十分にあったのだ。
 都知事選では石原氏に一つの負い目を持たせ、登庁においては拍手で迎えた政府与党である自民・公明両党、つまりは国に対し、石原氏は都知事として「摩擦を起こす」ことなど果たしてできるのだろうか?本当にするつもりがあるのか?民主党にタンカを切るのがせいぜいなのではないか?
 
 今回の都知事選は日経新聞にとって、いかに無党派層にアピールするかについては、一つの教訓となったに違いない。
 私は都知事選直前の日経新聞の動向を確かめるべく、4月1日~4月10日までの日経朝刊を入手し、その内容を精査してみたが、投票日当日の4月8日までは、4月2日に「東京、石原氏が優勢」を伝える本社世論調査の記事があるのみで、別段大きな動きはなかった。
 逆にそのことが「盟友」石原慎太郎の援護射撃をしなかったということで、無党派層の半数が浅野氏に流れたという過激な見方もできる。このことが日経新聞にとっての教訓となり、前回の記事でも指摘した通り、国民投票法案については早々の無党派層へのアピールへと繋がったのかもしれない。

 今、私は石原都知事が日経新聞にとっての「盟友」であると書いた。これは決して眉唾ものではない。
 そうなのだ、安倍晋三総理、御手洗冨士夫経団連会長、石原慎太郎東京都知事、そして日本経済新聞はれっきとした「仲よしグループ」なのである。

 4月11日(水)、安倍総理は千代田区大手町1丁目の、第1種市街地再開発事業の起工披露のために開催されたパーティーに出席するため、大手町の経団連会館を訪れている。このパーティーでは自民党の中川秀直幹事長、そして時の人、石原都知事も出席しているのである。 
 安倍総理は「都民の皆さんは賢明な判断をされた。東京は世界の東京としてアジアの玄関でなければならず、石原知事にはさらにらつ腕をふるっていただきたい」と挨拶し、「一部マスコミの心ない批判を見事にはねのけた」と、一連の石原バッシングにも言及、石原都政継続に期待感を表している。
 中川幹事長も「東京が世界の都市間競争に負けないように、石原知事再選でこのようなパーティーが開かれ感謝したい」と語り、当の石原都知事も「世界で東京ほど集中集積が進んだ都市はない。さらに活力を増進し、バイタルな活動を維持してゆきたい」と抱負を語った。なんとも仲むつまじい、彼らの姿である。
 この開発事業は、国の旧大手町合同庁舎跡地約1.3ヘクタールに3棟の高層ビルを立てる計画で、全国農業共同組合、そしてむろんのこと、日本経団連、日本経済新聞社が入ることになっている。まさに仲良しグループ内での出来レースである。さぞかし当人達は楽しかろう。

 話はこれで終わりではない。
 石原都知事と日経が、いかに「仲よし」であるかを物語る決定的とも言える記事を発見してしまった。
 石原都知事が公約として「情報公開」を掲げ、その後いともたやすくそれを反故にした事は、4/10の私のプログでも指摘した。この公約については3月17日の朝日新聞社説にも記載されているので、あえてここでは紹介はしない。
 しかしだ、4月10日の日本経済新聞の記事、「再起動を問う 石原都政3期目」 には驚いた。
 この記事では、”石原都政の歩み”として1期目、2期目の活動内容(あまりたいしたことはない)、そして3期目の公約が一覧表にまとめられている。

 過去の活動はさておき、3期目の公約を見てみよう。
 □2016年五輪の東京招致(09年秋に開催都市決定)
 □新銀行東京の経営建て直し
 □子供医療費の無料化
 □道州制へ向けた首都圏知事連合
 □3環状道路の整備、横田基地の軍民共用化推進
 □「シニアベンチャーサポートセンター」設置検討

 あれ?情報公開についてはどうなっているのか?
 まさか、4月9日の記者会見で「公開はヤダ」と言ったから、記事に載せなかったとでも言うのだろうか!これでは情報公開の公約については最初から無かったも同然である。 
 しかも、日経の記事では、この公約を拒否したことなど全く触れてもいない。
 これは明らかにマスコミによる「情報の改ざん」である!これはマズい!この問題はさすがに黙っているわけにはいかない。
 日本経済新聞とは、このような意図的な「情報操作」も厭わない、大変問題を抱えたメディアであることがこれで判明した。この件については、責任者の弁を聞きたいものである。

 仲よしグループのためには、平気で情報を隠蔽する新聞がある。 
 前回の記事で「安倍晋三-経団連(御手洗冨士夫)-日本経済新聞」という負のトライアングルに私は警鐘を鳴らした。
 しかし、その実態は、そのトライアングルに石原東京都知事を含めたカルテットである可能性が非常に高いことが、日経の記事においても判明した。それが現実なら、政府与党と東京都知事がスクラムを組んだ体制での改憲(改悪)議論はいよいよ現実味を増してくる。・・・役者は揃ったのだ。

 次回の記事では、安倍晋三氏と石原慎太郎氏の関係性についてメスを入れてみたい。




2007/04/16のBlog

 憲法改正の手続きを定める国民投票法案の与党修正案が4月16日、参議院で審議入りしている。
 定数242議席(欠員4)のうち、自民党109議席、公明党24議席〔4月16日現在〕
与党が過半数を占める参議院の状況を考えると、今国会で同法案の成立は確実と言える。

 この一大イベント、特に4月12日の衆議院憲法調査特別委員会での可決にあたり、メディアの代表である新聞各紙の動向が、私個人としては非常に気になるところであった。そこで、早速その翌日に有力各紙を買い集め、その内容を比較してみることにした。

 一面トップ記事と社説を以下に記載する。国民投票法に関する記事は太字にしておいた。
 各紙すべて4月13日(金)発行のものである。

■朝日新聞 
 〔トップ記事〕 国民投票法案 可決 ~自・民「協調体制」崩れる
 〔社説_1〕 <温首相演説> 日本への評価を歓迎する
 〔社説_2〕 <新人材バンク> 選挙目当ては論外だ

■読売新聞
 〔トップ記事〕 国民投票法案を可決 ~衆院特別委 今国会成立へ
 〔社説_1〕 <温家宝首相演説> 中国の対日姿勢に変化が見えた
 〔社説_2〕 <訪問介護不正> 量を優先した甘い行政の責任

■毎日新聞
 〔トップ記事〕 与党、修正案を可決 ~憲法改正手続き 国民投票法
 〔社説_1〕 <国民投票法案> 手続きでこの有り様では
 〔社説_2〕 <新人材バンク 骨抜きの懸念を払しょくしろ>

■日本経済新聞
 〔トップ記事〕 モルガン、2800億円で買収 ~全日空の国内13ホテル
 〔社説_1〕 国民投票法案の衆院可決は当然だ
 〔社説_2〕 「300日問題」は子の立場から 

 注目すべきは、「日本経済新聞」の〔社説_1〕である。
 国民投票法案について、世間的には何点かの重大な不備が指摘されており、有力紙においてはまず事実関係、不備に関する記事を掲載するのが一般的と思われる。
 にもかかわらず、この日本経済新聞の社説が明確にある方向を指向していることに、私はむしろある種の違和感を感じた。 
 では、内容を一部抜粋してみよう。

「国民投票法案の衆院可決は当然だ」
 《(前略)法案の性格上、民主党も賛成して可決することが望ましかったが、そうならなかったのはむしろ民主党の党内事情のせいであり、与党の採決は当然である。
 国民投票法案は憲法改正の是非とは直接関係のない中立的なルールを定めるものであり、自民、民主、公明三党間に大きな考え方の違いがあるわけではない。

 (中略)国民投票法案は憲法九条の改正手続きを具体化するものであり、本来なら現行憲法が施行された六十年前に同時に制定されるべきものであった。憲法を制定・改正するのは主権者国民の固有の権利である。この重要な国民の権利を六十年間も実質的に封じ込めてきた国会と政治の怠慢はあきれるばかりである。

 遅きに失した感はあるが、ようやく国民投票法案が成立に向かって動き出したことを歓迎したい。衆院特別委での審議と自公民三党の協議によってすでに論点は出尽くしており、衆院は速やかに審議を進めて早期成立を図るべきである。》 ~4月13日 日本経済新聞社説~

 細かい指摘は後日の記事に譲るとして、この社説については読者をある方向に、意図的に向かわせていると言わざるを得ない、かなり強引な論述である。
 そこで私は考えてみた。日本経済新聞の主な読者層とは、いったいどのような人々か?
 近所の八百屋さんや魚屋さん、その他自営業者層はあまり同紙は読まないような気がする。朝日が多いのではなかろうか。また、主婦には広告が多いという理由で読売派が以外に多い。そして若者層はあまり新聞を読まない。
 やはり、日本経済新聞の読者層は圧倒的にサラリーマン層が多いだろう。しかも、毎日通勤電車で揺られ、しかもビジネス・政治に関する意識が高い、中核的なサラリーマン層であろう。そんな人々に共通するキーワードは何か?そう、そうは「無党派層」である。

 日本経済新聞の社説とは「無党派層」に向けられた明確なメッセージなのだ。
 早速、『フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)』で日本経済新聞を調べてみる。

 《日経の記事によって株価や業績が大きく左右されうるため企業は日経の取材には神経を尖らせていると言われる。そのため、企業によっては日経記者へ度を超した懐柔工作を行うことで、提灯記事を書かせたり、不祥事をもみ消すことなどを行っている。2006年には日本航空の社長退任を巡る騒動に日経の記者が深く関与したことなどが、週刊文春によって報道されている。
 本社屋は経団連会館と上層階で繋がっており、「財界機関紙」「日本財界新聞」「ニッポン株式会社機関紙」「株屋と金貸しの新聞」と揶揄されている。

 なんと、日本経済新聞とは「日本を代表する経済紙」と謳いながら、結局は経団連の「御用新聞」であるというのである。しかも、建物が経団連と繋がっている!
 私の過去の記事を読んでいただいた方にはお分かりになると思うが、経団連について言えば、「御手洗冨士夫-安倍晋三」というラインが浮かび上がる。つまり、国民投票法を軸に考えれば「安倍晋三→御手洗冨士夫→日本経済新聞」という流れが露呈したことになる。

 更に、日本経済新聞に関する大前研一氏の発言もあわせて紹介する。

 《『日本経済新聞』は経済の専門紙を名乗っていながら、いくらその中身を丹念に読んでいても日本経済の実態は全く分からない。なぜなら、『日本経済新聞』は経団連などの経済界や大蔵省の言い分を伝える“財界クラブ機関紙”だからである。
 同紙は、株価が一万五千円を割った時も、本来なら1面のトップ記事にして警鐘を鳴らさなければいけないのに、左下の片隅に小さく扱っただけだった。大蔵省から『危機感を煽るな』と言われていたのかと勘ぐりたくなる主体性のなさである。」
 「たとえば『ウォールストリート・ジャーナル』には『オポエド』という『朝日新聞』の『論壇』や『読売新聞』の『論点』と同じようなオピニオン・コラムがある。私は『オポエド』に世界で最も多く意見を発表している人間の1人だが、『オポエド』が毎日3、4人の意見を全段を使い掲載するのに対し、『論壇』や『論点』は週1回1人だけである。」》 ~1998年11月11日『SAPIO』~

 「日本経済新聞」とは、政府与党の、つまり安倍晋三総理の広告塔の役割をも果たす、恐ろしいまでの有力全国紙であったのだ。
 我々は「安倍晋三-経団連(御手洗冨士夫)-日本経済新聞」という負のトライアングルに警戒感を高めねばならない。
 また、日本経済新聞が無党派層にメッセージを発信することは、どのような意味を持つのだろうか?次回はその辺りを検証してみたい。 

2007/04/14のBlog

 この際、徹底的に検証したい。
 国民投票法、そして、それを足がかりに今後為されるであろう、憲法改正問題についてである。
 今、世の中で着々と進行しているこれらの動向の何が良くて(良いことなどほとんど無きに等しいと思われるが)、何が問題なのか?そして、今後の日本社会、国際社会にどのような影響を及ぼすのか?最近めっきり錆びついてしまった私の脳をフル活動させても、あらゆる角度から考えてみようと思う。
 なぜならば、平和な社会を次の世代へ引き継ぐことは、我々に課せられた最大のミッションであると考えるからだ。

 この先、10年後、20年後、我々がつくった社会について、胸をはって子供達に話ができるだろうか?その目を直視してきちんと説明ができるだろうか?
 それができるか否かの分岐点が、2007年の今現在であるような気がしてならないのだ。果たして、このことに危機感を持つ人が今一体何人いるだろう。政治的無関心、無知、棄権は、将来的に自分のみならず子々孫々の首を絞めることに早く気がついて欲しい。

 憲法や法律といった世の中のルールは、全て”一部の人間”によって作られている。そしてそのルールは”一部の人間”にのみ都合がよくできており、逆に都合の悪いところは巧妙に隠されているのが現実である。今回の「国民投票法案」などその典型である(詳細については別途説明する)
 ちなみに、4月8日に実施された東京都知事選では、投票率が「54.35%」でしかなかった。有権者の約半分は選挙に背を向けたことになる。
 このように、政治に不参加の態度をとっていると”一部の人間”の都合の良いように扱われ、生かさず殺さず死ぬまで不当な扱いを受ける呼び水となる(いびつな利益配分が引き起こす格差社会、9条改正による戦争など)ツケを払わされるのは常に我々だということだ。

 それらを我々に悟られないよう、”一部の人間”はギミックをちゃんと用意している。
 「個性」「美しい国」「愛国心」「オリンピック」といったスローガンがそれである。
 我々はそのような何の根拠もない無責任な妄想を植えつけられ、うかれ踊っている「サル」に過ぎない。なるほど、たいした「個性的な」人生ではある。「自分探し」の結果が踊れるサルだったとしたら、これは悲劇と言うよりもむしろ喜劇ではないか(特に20代の若い世代は、このことをよく認識して欲しい)
 ”一部の人間”のほくそ笑む姿が目に見えるようだ。

 そのようにならないためにも、我々は学ばなくてはならない。政治を、そして社会を。
 テレビを見る暇があったら、まずは本を読むべきだ。
 ここで細木数子や江原啓之や美輪明宏を悪く言うつもりはない。ただ、これだけは断言できる。
 「彼らは決してあなたを幸せにはしない」
 ”一部の人間”、つまり、安倍総理や石原都知事や御手洗キヤノン会長のような人間は、このような夢と現実の”はざま”にいる人間を食い物にするのが実にうまいということは、ぜひとも頭に入れておいて欲しい。石原都知事のオリンピックに関する数々の発言は、その見本のようなものだ。
 彼らに騙され、搾取されるのは御免だと思うのなら、テレビをやめ本を読むこと。学ぶことだ。

 今回の記事を書くに当たっては既に分かっているようなことも、復習の意味を込めて敢えて書くことにする。なぜならば、話を耳にして知っていることと、実際記事として書くこととは大きな隔たりがあるからだ。知っているだけでは噂の域を出ず、記事にして始めて情報としての生命が宿る。この姿勢が物書きが文章を創造するためのAでありZなのであると信じている。

 加えて、当プログはリーダー論を扱うプログでもあるため(というか、リーダーを論じるためのプログである)、一連の法的な問題を通じてリーダー本来のあり方についても考察したいと思う。この問題で論じている”一部の人間”とは、つまるところ国家や企業のリーダーだからである。
 これらリーダーにとっては憲法同様、「理念」を無視して語ることができず、記事としては「第5章 誠実」にカテゴライズした。そういう意味においては、今後書くであろう一連の記事はもはや【番外編】ではない。

 さて、憲法改正の手続きを定める、国民投票法案の与党修正案が4月13日、衆議院本会議で自民・公明両党の賛成多数で可決され、参議院に送られた当法案は、今国会で成立することが確実となってしまった。
 未来の歴史教科書に、この「2007年」という年がどのように記述されるか?それをクリエイトする当事者は、今この瞬間に生きる我々一人ひとりである。

 サイは投げられた。




※当初想定していた以上に記事が増えそうである。
 よって、当シリーズは新たに設けたジャンル「<憲法問題>」に移動することとした。
 (2007.05.23 記)
2007/04/10のBlog

 「みなさん、いいですか~。嘘をついてはいけませんよ~。
嘘をつくと友だちを不幸にします。
そして、閻魔大王様に舌を抜かれますよ。
人として嘘をつかないことは、大切なことなんですよ~。」

 幼少の頃、福島市立清水幼稚園みどり組に入学し、
担任鈴木やす子先生の最初の教えは「嘘をついてはいけない」ということだったと、はっきり記憶している。

 都知事選も終わり、そんな過去の思い出を回想しつつ、いつものリーダー論的なプログをしたためようかと思った矢先、とんでもない記事を目にしてしまった。
 一体なんだこりゃ! (私は、もうキレたよ!)

 《石原知事は公約で「世界の最先端都市にふさわしい『情報公開』を推進し、公平・公正な都政を実現する」としていた。だが、この日は「情報公開は難しい。職員のプライバシーにもかかわってくる」と語り、「失格」扱いが続く市民団体の情報公開度調査についても、「あんまり斟酌(しんしゃく)しないでこれからも同じ姿勢で続けます」と述べた。
 浅野史郎氏が宮城県知事当時に捜査報償費を巡って県警の会計文書開示を要求したことに触れ、「お陰で警察の捜査は非常に難航するようになった。この種の情報開示は間違ってるし、するつもりはない」と語った。》 ~4月10日「朝日新聞」~

こんな人間が都知事とは・・・。

 石原さん。
 あなた、日本の首都、東京のリーダーでしょう?
 だったらこんな嘘をつくな!公約は守れ! 
 選挙が終わって、まだ3日とたっていなんだよ。

 こんな幼稚園レベルの説教を、私ごときの人間から受けるな!
 
 あることないこと、ヘラヘラしゃべるな!
 東京にふさわしい都政をやれ!

言ってる私本人が一番情けない。

・・・閻魔大王に、舌抜かれますよ。





 《「一部メディアの執ようなバッシングがあったが、都民の良識がこういう結果をもたらしてくれた」
 午後8時半すぎ、お気に入りの金ボタンのダブルのスーツ姿で、JR新橋駅(港区)近くの選挙事務所に姿を見せた石原さん。開口一番、「ほっとした」と語ったが、逆風の中での圧勝に選挙中見せていた謙虚な言動とは一転、いつもの「石原節」がはじけた。
 会見で「何が都民に支持されたか」と聞かれると、「その前に、執ようなバッシングで誤解が拡大された」と切り出し、「自民党と公明党が支援してくれた。民主党も前はそうだったけど、今回はどこかに行っちゃった」と皮肉った。
 さらに、環境対策など過去2期8年の実績を意気揚々と披露し、95年の阪神大震災について「首長の判断が遅くて2000人が死んだ」と発言。都の防災訓練に自衛隊や在日米軍の参加を実現させたことを自画自賛し、「来年は航空母艦を持って来いと言ってやった」と胸を張った。
 また、テレビのインタビューでは、2期目に始めた都の花粉症対策事業を例に、「国が花粉症のために何をやりましたか。花粉情報をだしているが、情報を流すだけだったらバカでもできる。何もしていない」と国に対しても気炎を吐いた。思わず「石原節復活ですね」と言ったアナウンサーに、「私は謙虚は謙虚。反省すべきは反省する。国にも反省してもらいたい」と声を荒らげた。》 ~4月9日「アサヒ・コム」~

 《知事の職場、都庁舎を見学に訪れていた豊島区のサービス業者男性(四八)は「(高額な公費出張など)細かな批判は、だれにでもあること。それよりも、国や外国に対して、これだけはっきりとものを言える人はいない。総合判断として、石原(慎太郎)さんに投票した」と話した》 ~4月9日「東京新聞」~

 「反省」「低姿勢」を売り物に、選挙戦を有利に展開した石原氏であったが、石原慎太郎は、結局「石原慎太郎」でしかなかった。
 そして、そんな石原氏に投票する都民の典型が、先のサービス業者男性のような人なのであろう。まことに浅はかとしか言いようがない。
 今回の都知事選は、結局のところ隠れ政党選挙でしかなかった。浅野史郎氏もそうであったが、当の石原氏自身も自民党・公明党といった既成政党の支援を受け入れてしまっていたではないか。
 結局、石原氏は今も昔も、国にも世界にも何も言ってはいない。国や世界に対する発言はつまるところ都民に対してのリップサービスでしかない。石原慎太郎とはそんな男なのである。

 《元副知事の青山さんは、石原さんを「大衆の気持ちを先取りできる天才」と評している。他人の内心に関心はないが、大衆から自分がどう見えるかを、常に考えているという。》 ~4月9日「東京新聞」~

 「大衆社会」とは、人々が「他人の欲しがるもの」を欲する社会のことである。
 人々は「他人の欲しがるもの」つまり、権力や金や情報といったものを手に入れるしか満足を得ることができない。しかし、それは人々誰もが同じものを望んでいるという現実が、人々にそれらを獲得させないという歴然とした構造が横たわってるいる。
 そんな、人々の欲望を的確にくすぐることのみに長けているのが石原慎太郎という政治家の実態なのである。なぜ、こんな簡単なことが都民には分からないのか?
 当初、都民はアホの集団なのかとも思ったが、どうもそれだけでもあるまい。考えあぐねた末、東京もいよいよ老齢を迎えたのだろうという結論に達した。つまり、「ボケ」の兆候がはっきりと露出してきたということだ。
 石原氏を見ていると、彼から発せられる威厳に人々が敬服するというより、すぐに「俺を誰だと思ってんだ!」と怒鳴りだすので、嫌がるみんなが「ハイハイ」と言うことを聞いているような印象を受けてしまう。
 このような老害は我々の周囲にもよく見られることで、それまで自然に尊敬を受けていた老人が、もはやそれも叶わなくなったストレスの現れであり、それを受け入れてしまう都民もまた、自身が老害の一端を担う加害者でもある。

 それでも、選挙に参加する都民は、まだましな方かもしれない。たとえ1票でも政治に参加することが民主主義の根幹であるからである。
 一方で、投票に行けるのにも関わらず、投票を棄権する輩というのは、一体どういう了見なのだろう。彼らは今後、政治的にどのような扱いを受けてもいいと、石原氏は受けとっているだろうが、それでいいのか?
 石原氏がぶら下げるオリンピックという餌に、石原親派と踊り、夢を語り、そして蹂躙されたいのだろうか?
 今後、石原氏をSの都知事と呼ぶのなら、そんな輩はMの都民と呼ぶほかない。




2007/04/08のBlog
[ 19:01 ] [ 【番外編】 ]
午後6時現在、東京都知事選の投票率は「40.85%!」

少なすぎる!

投票率が少ないことは、多数をコントロールする独裁者に有利なことを意味する。

warmgunさんのプログを引用する。

《 “最後の選挙演説”は、五輪への思いに力が入った。
「金もうけのために五輪をやるんじゃない。お金で換算できないぐらいの大事な心の
遺産を子供たちに残してあげたい」最後は、左手を高く上げ「ありがとうございました」
と、5回、繰り返した》スポーツ報知

子供とオリンピックをリンクさせる石原都知事の発言は、詭弁以外の何物でもない!
かつて、ヒトラーも得意の演説の際、子供たちに嫌らしくも呼びかかけた。
「これからのドイツを支えるリーダーは、そう!、君たち子供たちだ!」
演説会場の片隅で、時の覇者ヒトラーを覗き見していた子供たち少年たちは、彼の
発言に恍惚としたという。
そんな子供たち一人ひとりを、ナチスに加担させていったヒトラーの罪は、あまりにも
重すぎる。

それと全く同じことが、この東京、この日本でも行われようとしている。
1人の危うい独裁者のために、我々の生活、人生そのものが狂わせられる危機を
目前に、我々都民はあまりにも愚か過ぎやしないだろうか?

現実的に、我々の生活は政治という土台のもとに成り立っているというのはある種
残念ではあるが、紛れもない事実である。
だからこそ、我々はたとえ自分の力が1票であっても、投票所に行かなくてはならない。
それを拒否するものは、自身の人生を独裁者に委ねることを意味する。
独裁者にそのような免罪符を渡すべきではない。

締切りまで、残り1時間となった。
まだ、時間は残されている。

投票所入場整理券を手にとれ!

「都民よ、投票するのだ!」




 いよいよ抜き差しならない状況になってきた。
 そう、東京都知事選である。

 この混沌とした大都市東京では、政治家が「常に」正解を語ることは、正直なところかなり困難と言えるだろう。
 したがって、自説の正当性の吟味には、十分な時間をかけるのが政治家としての務めである。その時間を私は決して無駄であるとは思わない。
 しかし、大多数は「考える人間」よりも「反論をはねつけ断言する人間」を評価してしまう傾向にある。また、テレビを始めとするメディアに、いとも簡単に流されてもしまう。
 断言型の人間に追随し、イメージに流される方が自身の知的負担も少なく、「楽だから」であろう。

 その点から言えば、篠原涼子なる一塊のタレントが「理想の上司」の1位に選ばれることなど、怒りを通りこして、もはや呆れるしかない。当の本人もいささか当惑しているのではなかろうか?これだからタレントは辞められないのだろう。芸能界は麻薬とはよく言ったものだ。

 以上のことから、世の大多数はこのような「思考停止ポイント」に追い込まれることを、自ら望んでいると言えなくはないだろうか。
 そして、この思考停止ポイントに人々を追いやることを意識し、成功した事例が小泉前首相であり(ワンフレーズ・ポリティクス)、また、石原都知事も決して例外ではないことを、まずは頭に入れて欲しい。

 3月18日の朝日新聞「知事発言 識者はこう見る」を見てみよう。

 松原隆一郎氏(東大教授・社会経済学)
 《「ババア」や「三国人」といった発言は、「『暴言』こそ国民の本音で、物議を醸すというリスクがあっても国民に受けると考えている。石原発言は国民心理を映す鏡と言える」と見る。
 一方で、石原知事はリーダーシップを発揮しようとして成果を上げていないと分析する。「大手銀行を狙い撃ちにした銀行税は、都民感情に訴えたが、税のバランスの悪さは否めなかった。現代美術の振興を目指したトーキョーワンダーサイトは、今のところ(展示場という)『ハコモノ』をつくっただけ。ぶち上げても結果が出ない。政策でこれほど『完敗』の人も珍しい」》

 佐藤綾子氏(日大研究所教授・パフォーマンス学)
 《佐藤さんは、知事になる以前の約10年前、石原知事と雑誌で対談したことがあるという。最近の定例記者会見の映像をみると、「表情や話し方、ルックスも変わっていない。(中略)石原さんは加齢や疲労が感じられない。それも政治家として頼もしく映ります。」
 一方で、「シャイで対人不安があるのでは」とも。記者と長くは視線を合わせない対談でも顔を見ることはめったになかったという。
 会見では、満面の笑みを浮かべる場面もある。「待ってました、という質問への表情ですね。逆に気に入らない質問では、強烈な勢いでガバッと目をまん丸にして、相手を見つめる。表情をコントロールできない」》

 とりあえず文学者出身だけに、石原都知事は太宰治の「人間失格」ぐらいは読んでいるだろう。
 人間の生活というものが見当つかず、禍のかたまりが十個あって、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、自分ひとり全く変わっているような、不安と恐怖に襲われるばかりの主人公である「自分」。そう、その自分とは石原都知事なのではないのか?
 隣人とまともな会話もできない、そんな人間失格の主人公である自分が被ったのが「道化」という仮面だったはずだ。

 そして、石原都知事が被るのは「恫喝」という仮面である。
 人間失格では、主人公が受けをとるためにわざと鉄棒で失敗し、クラスメートから笑われるシーンがある。
 だが、白痴だと侮っていた竹一少年だけは違った。竹一は自分の背中をつつき、「ワザ、ワザ」と、わざと失敗したことを見破り、自分は世界が一瞬にして地獄の炎に包まれる思いで、発狂しそうな気配をかろうじて抑えるのだ。

 今、私は白痴の竹一なってやろうと思う。
 石原都知事のサイトを眺めてみた。いまだ「太陽の季節」を引きずっている。手元にあるこの本を確認するに、初版は昭和32年ではないか。今さら太陽の季節はないだろう。過去の遺物として封印して欲しい。その後の文学的成果はないのだろうか?
 また、芥川賞の選評委員もやっているようだが、昨今の芥川賞の衰退は目を覆うばかりだ(詳細は後述とする)

 このように、石原都知事は文学者としても中途半端、政治家としても中途半端、批評家としても中途半端と言わざるを得ない。加えて、一連の暴言と、現在企画している東京オリンピック構想。
 これら全てが石原都知事の「ワザ、ワザ」なのだ。
 実は、半端で小心である彼を、彼自身が一番よく知っているのかも知れない。それを認めるのが怖いから恫喝と仮面を手放せないでいるのかもしれない。
 そして、今日も石原都知事は仮面を被り「ワザ、ワザ」を繰り返している。

 さて、4月8日に迫った「東京都知事選」
 都民はどのような判断を示すのか?
 願うは決して「思考停止ポイント」に陥って欲しくないということだ。
 私からの最後のメッセージをここに記す。

 「都民よ、思考せよ!」







2007/04/04のBlog
[ 00:28 ] [ 【ビジネス論】 ]

 松下幸之助は体が弱かった。
 彼は9歳で奉公に出されて以来、一人で生きてきた。
 結婚したのは二十歳。しかし、その後まもなく結核を患ってしまう。医者には故郷に帰り静養するよう言われたが、父親が米相場で破産してからというもの一家は離散状態となり、帰る故郷などありはしなかった。
 金もなく入院することもままならず、いつ死ぬか分からぬ不安と戦いながら、それでも生きていくために彼は働かなくてはならなかった。自分で体をいたわりつつ、二日働いては一日休み、四日働いては二日休み、そんな日々を悶々と過ごしてきた。
 親兄弟は彼が二十八歳になるまで全員亡くなっている。
 ―そんな中から彼は松下電器を興してきたのだった。

 リーダーにとって一番大切な仕事は何だろうか。
 私は迷わず「人を育てること」だと考える。
 人が育つということはグループが活性化する事である。全ての生物がそうであるように、最初は極小の細胞から分裂、新陳代謝を繰り返し成長していくように、グループ、そして企業をも大きく育ててゆこうとする気持ちを持つことだ。
 人を育てるには何も頑強な体は必要としない。現に松下幸之助は多くの人材を育ててきた。
 彼は言う。自分は体が弱いからこそ人に育ってもらい、自分の代わりができるよう苦心してきたと。そういう意味においては、たとえ体が弱かろうと、心に病があろうと人を育てることは十分可能である。大切なのは人を育てたい、育てるのだ、という強い意志ではないだろうか。
 鬱病のことを論じた後にこのようなことを言えば、鬱病そのものを否定しているかのように受け止められがちだが、決してそうではない。
 確かに、鬱病で心療内科や精神科に通院することが恥だった時代もあった。周囲の者にはひた隠しにしたものだった。ただ、最近は鬱病そのものが市民権を得、一般化したこともあり、鬱を受け入れることに抵抗がなくなったことは否めない。
 鬱が病である以上、当然通院する必要もある。場合によっては休職せざるを得ない場合もあるだろう。ただ、私の見る限り、長い間休職しその後完全復活できた人は、実は以外に少ないという気がしてならない。極論を言えば、医者に本当に鬱が治せるのだろうか、という一抹の不安を持っているのが正直なところである。
 そんなこともあり、あえて鬱病に対しての一つのアンチテーゼを提示したのである。
つまり、体や心に病を抱えていても、自分を反面教師にして人を育ててやろうという、いわば捨て身の発想もありなのではないか、ということである。
 たとえ、リーダーの職責を外されても構わない。それでも腹の中は自分はリーダーなのだという感性だけは失って欲しくない。そんな気落ちを大切に、自分が今できる仕事を黙々と行うことは非常に尊いことだと思う。
 そのような中で、人が育っていくことに喜びを感じることができるのならば、あなたは決して無能ではない。立派なリーダーなのである。