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2007/08/23のBlog
[ 00:23 ]
[ 終戦記念日って、なんだベ? ]
■Notice:インポテンツなる作家”高橋源一郎”に捧げてみたりするベ!
この記事は管理者の(つまりは、まあ、オレのことだ。わかる?)、
ええ管理者の意に反して、自己増殖する。
ここはひとつ、ジュールにGOだな。”シュール”といえば”米米クラブ”の「シュール・ダンス」か?と書いちまうと頭の中で「シュール・ダンス」がこだまするから、今夜は頭の中のこの楽曲で寝ることにオレは決めた(オレは米米なんぞ大嫌いだ!)
なぜ、日本人はサザンが好きなのか?これもオレにとっての問題だ。
「タカハシって、室井佑月とチチクリあってたんだぜ」
「だんだかはあ、あやかりてえなあ」
「終戦記念日ってよ、いったいなんだベ?」
「そりゃ、おめえ、8月15日のことだベ」
-それは嘘だろう。天皇が1945年8月15日、あの日あの時に及んで、こともあろうに”役者”の真似事をしたくなったに相違ない。玉音放送を収録語、「今日のオレってどうだった?」 そんな質問を、偶然か必然か側近に投げかけた。
「ええ、もちろん、イケてましたとも!」昭和天皇・裕仁氏はとても満足げであったという。
「でもよう、8月15日でねえとすると、いったい、いつなんだ?」
「なんだか、みずーりーどかっていう、船の上で上の連中が何かに署名した日だとか、俺は聞いたぞ」
-このようなやり取りを端で聞き耳を立てている一人の、”ちしきじん”がいた。仮にその名をT氏と仮定するとして、彼の薀蓄<うんちく>とやらにも耳を傾けねばなるまい。
”聞き耳をたてる”、”耳を傾ける”
同じ”耳”なる単語が、ここでは重複して発生している。これは文章的にはあまり良い表現とはいえない。少なくとも後発の”耳を傾ける”を、別のフレーズに置き換える必要がある。
ところで、「薀蓄」の語源って何だろう?
T氏の傍白は既に始まっている。
《正しくは、どこから議論を始めなければならないのかというと、それは「ポツダム宣言」です。ポツダム宣言は一九四五年七月にアメリカ、イギリス、中華民国の三国が大日本帝国に対して発した降伏勧告の宣言です。》
《もうひとつ日本人のほとんどが誤解している重要なことをいっておくと、本当の終戦記念日は八月十五日ではないということです。
八月十五日が終戦記念日だと思っているのは、世界中で日本人だけです。日本人以外の人が終戦記念日にしているのは、九月二日です。
九月二日がどういう日かというと、戦艦ミズーリ号上で、日本が降伏文書に署名した日です。あの署名で、正式に戦争が終わったんです。だから、世界中でその日を戦争が終わった日として、今でも祝っているんです。》
~月刊 現代 7月号 立花隆「私の護憲論」~
「ほらな、やっぱ九月二日だべ。」
「九月二日ねえ・・・、なんだが、しっくりこねえな。俺は。あんた天皇嫌いなの?」
「いや、家の座敷にさあ、天皇の写真、飾ってるぞ。」
「んだべ?やっぱ、山のヤスんとこのオヤジも、ああ、戦争で死んじまったし、やっぱ、あれ、遺族会だべ?」
「んだ。遺族会だ。」
-あのう、あなた一体何にかこつけて引用なんかしてるのですか?”立花隆”じゃなくて、じゃなくてね、”T氏”と仮定するんじゃなかったの?しかも”太字”まで駆使する意味が分からない。
■Agenda:「シュール」について
「シュール」というのは、つまり「シュール・レアリズム(超表現主義)」のことね。
「シュール・レアリズム」というと皆さんは”サルバドール・ダリ”を思うかもしれないけど、僕は少し違ってね、へへ、結構、建築家”フィリップ・スタルク”なんかが浮かんできたりするのよ。浅草にあるキリンビールの会社の”ウンコ”がのった変な建物をデザインした、まあフランス人だ。
あれはやりすぎだな、でも。
ちなみに、僕が通勤に使っている鞄はスタルクのデザインよ。
あれは、なかなかよ。
~続くよ。「自己増殖する」って、言ったでしょう?~
この記事は管理者の(つまりは、まあ、オレのことだ。わかる?)、
ええ管理者の意に反して、自己増殖する。
ここはひとつ、ジュールにGOだな。”シュール”といえば”米米クラブ”の「シュール・ダンス」か?と書いちまうと頭の中で「シュール・ダンス」がこだまするから、今夜は頭の中のこの楽曲で寝ることにオレは決めた(オレは米米なんぞ大嫌いだ!)
なぜ、日本人はサザンが好きなのか?これもオレにとっての問題だ。
「タカハシって、室井佑月とチチクリあってたんだぜ」
「だんだかはあ、あやかりてえなあ」
「終戦記念日ってよ、いったいなんだベ?」
「そりゃ、おめえ、8月15日のことだベ」
-それは嘘だろう。天皇が1945年8月15日、あの日あの時に及んで、こともあろうに”役者”の真似事をしたくなったに相違ない。玉音放送を収録語、「今日のオレってどうだった?」 そんな質問を、偶然か必然か側近に投げかけた。
「ええ、もちろん、イケてましたとも!」昭和天皇・裕仁氏はとても満足げであったという。
「でもよう、8月15日でねえとすると、いったい、いつなんだ?」
「なんだか、みずーりーどかっていう、船の上で上の連中が何かに署名した日だとか、俺は聞いたぞ」
-このようなやり取りを端で聞き耳を立てている一人の、”ちしきじん”がいた。仮にその名をT氏と仮定するとして、彼の薀蓄<うんちく>とやらにも耳を傾けねばなるまい。
”聞き耳をたてる”、”耳を傾ける”
同じ”耳”なる単語が、ここでは重複して発生している。これは文章的にはあまり良い表現とはいえない。少なくとも後発の”耳を傾ける”を、別のフレーズに置き換える必要がある。
ところで、「薀蓄」の語源って何だろう?
T氏の傍白は既に始まっている。
《正しくは、どこから議論を始めなければならないのかというと、それは「ポツダム宣言」です。ポツダム宣言は一九四五年七月にアメリカ、イギリス、中華民国の三国が大日本帝国に対して発した降伏勧告の宣言です。》
《もうひとつ日本人のほとんどが誤解している重要なことをいっておくと、本当の終戦記念日は八月十五日ではないということです。
八月十五日が終戦記念日だと思っているのは、世界中で日本人だけです。日本人以外の人が終戦記念日にしているのは、九月二日です。
九月二日がどういう日かというと、戦艦ミズーリ号上で、日本が降伏文書に署名した日です。あの署名で、正式に戦争が終わったんです。だから、世界中でその日を戦争が終わった日として、今でも祝っているんです。》
~月刊 現代 7月号 立花隆「私の護憲論」~
「ほらな、やっぱ九月二日だべ。」
「九月二日ねえ・・・、なんだが、しっくりこねえな。俺は。あんた天皇嫌いなの?」
「いや、家の座敷にさあ、天皇の写真、飾ってるぞ。」
「んだべ?やっぱ、山のヤスんとこのオヤジも、ああ、戦争で死んじまったし、やっぱ、あれ、遺族会だべ?」
「んだ。遺族会だ。」
-あのう、あなた一体何にかこつけて引用なんかしてるのですか?”立花隆”じゃなくて、じゃなくてね、”T氏”と仮定するんじゃなかったの?しかも”太字”まで駆使する意味が分からない。
■Agenda:「シュール」について
「シュール」というのは、つまり「シュール・レアリズム(超表現主義)」のことね。
「シュール・レアリズム」というと皆さんは”サルバドール・ダリ”を思うかもしれないけど、僕は少し違ってね、へへ、結構、建築家”フィリップ・スタルク”なんかが浮かんできたりするのよ。浅草にあるキリンビールの会社の”ウンコ”がのった変な建物をデザインした、まあフランス人だ。
あれはやりすぎだな、でも。
ちなみに、僕が通勤に使っている鞄はスタルクのデザインよ。
あれは、なかなかよ。
~続くよ。「自己増殖する」って、言ったでしょう?~
2007/08/20のBlog
[ 21:31 ]
[ 【番外編】 ]
[関連したBlog]
モデルの先駆け、俳優の山口小夜子さん死去
パリ・コレクションなど欧米のファッションショーで活躍した日本人女性モデルの先駆けで、俳優の山口小夜子(やまぐち・さよこ)さんが14日、急性肺炎で亡くなった。57歳だった。葬儀は親族のみで済ませた。後日、お別れの会を開く予定。
横浜市生まれ。杉野学園ドレスメーカー女学院卒業後にモデルとなり、高田賢三や山本寛斎のショーで注目を集めた。72年にパリ・コレにデビュー。次いでニューヨークコレクションにも参加して、おかっぱ頭に切れ長の目の容姿で日本人モデルのブームを巻き起こした。77年には米ニューズウィーク誌から「世界の6人のトップモデル」の一人に選ばれた。
俳優としても、寺山修司演出「中国の不思議な役人」などに出演するなど演劇、映画、コンテンポラリーダンスに活動の場を広げた。衣装デザインも手がけた。
~2007年08月20日15時19分 asahi.com~
■写真は”STEELY DAN”のアルバム「aja」である。
左上にうっすらと人の顔のようなものが写っているが、実はこれが山口小夜子である。
モデルの先駆け、俳優の山口小夜子さん死去
パリ・コレクションなど欧米のファッションショーで活躍した日本人女性モデルの先駆けで、俳優の山口小夜子(やまぐち・さよこ)さんが14日、急性肺炎で亡くなった。57歳だった。葬儀は親族のみで済ませた。後日、お別れの会を開く予定。
横浜市生まれ。杉野学園ドレスメーカー女学院卒業後にモデルとなり、高田賢三や山本寛斎のショーで注目を集めた。72年にパリ・コレにデビュー。次いでニューヨークコレクションにも参加して、おかっぱ頭に切れ長の目の容姿で日本人モデルのブームを巻き起こした。77年には米ニューズウィーク誌から「世界の6人のトップモデル」の一人に選ばれた。
俳優としても、寺山修司演出「中国の不思議な役人」などに出演するなど演劇、映画、コンテンポラリーダンスに活動の場を広げた。衣装デザインも手がけた。
~2007年08月20日15時19分 asahi.com~
■写真は”STEELY DAN”のアルバム「aja」である。
左上にうっすらと人の顔のようなものが写っているが、実はこれが山口小夜子である。
非常にミーハーな話だが、僕の印象からすれば山口小夜子といえば、やはり山本寛斎だ。寛斎のコレクションに登場する彼女の印象は、実に強烈だった。
写真は1983年に新潮文庫より出版された「寛斎 完全燃焼」の中のひとコマである。当時の寛斎を象徴する、寛斎のイメージを一身に背負っていたのが彼女だったと言える。この彼女の起用は寛斎にとっても大成功だったと言えるだろう。
僕も中学から高校にかけて、女性の一つの理想形が山口小夜子だった時代がある。コム・デ・ギャルソンのようなアーティスティックなブランドとは違い、山本寛斎は多少俗物的な印象もあったが、彼女の中性的な雰囲気、モデルという人工物的なありようが、思春期の”ませた”僕の感性に見事にマッチしてしまったからだ。同時に、またそれが寛斎作品を俗物的なものから、一つのクリエイトされた作品へと昇華させていったと思う。
山口小夜子は僕にとって、モデルというよりもむしろ人。男でも女でもなく、何か近寄りがたい一人の崇高なる”人”なのだ。
嗚呼、彼女も逝かれたか・・・。
写真は1983年に新潮文庫より出版された「寛斎 完全燃焼」の中のひとコマである。当時の寛斎を象徴する、寛斎のイメージを一身に背負っていたのが彼女だったと言える。この彼女の起用は寛斎にとっても大成功だったと言えるだろう。
僕も中学から高校にかけて、女性の一つの理想形が山口小夜子だった時代がある。コム・デ・ギャルソンのようなアーティスティックなブランドとは違い、山本寛斎は多少俗物的な印象もあったが、彼女の中性的な雰囲気、モデルという人工物的なありようが、思春期の”ませた”僕の感性に見事にマッチしてしまったからだ。同時に、またそれが寛斎作品を俗物的なものから、一つのクリエイトされた作品へと昇華させていったと思う。
山口小夜子は僕にとって、モデルというよりもむしろ人。男でも女でもなく、何か近寄りがたい一人の崇高なる”人”なのだ。
嗚呼、彼女も逝かれたか・・・。
2007/08/10のBlog
[ 23:03 ]
[ 【番外編】 ]
「差別されるのがどういうことなのか。それがどれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。だから公平さや公正さを求めるという点では、僕だって誰にもひけをとらないと思う。ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う(うつろな人間たち)だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ。つまり早い話、さっきの二人組みのような人間のことだよ」
彼はため息をついて、指の中で長い鉛筆をまわす。
「ゲイだろうが、レズビアンだろうが、ストレートだろうが、フェミニストだろうが、ファシストの豚だろうが、コミュニストだろうが、ハレ・クリシュナだろうが、そんなことはべつにどうだっていい。どんな旗を掲げていようが、僕はまったくかまいはしない。僕が我慢できないのはそういううつろな連中なんだ。」
~村上春樹「海辺のカフカ」~
村上春樹「海辺のカフカ」は”フランツ・カフカ”へのオマージュである。
「村上春樹?うん、やっぱり読んでおいた方がいいよ」
そう語った、男性の知人がいる。
「あれを捧げられたらカフカもキツイだろう」
そう語った、女性の知人もいる。
正直なところ、僕は村上春樹をほとんど読んではいない。彼に何やら危険な匂いを感じ、意図的に避けてきた経緯がある。ついでに言うとカフカもほとんど読んでいない。グレーゴル・ザムザが登場する中篇を読んだぐらいだ。だから、僕は村上春樹もフランツ・カフカも胸を張って語れる立場にない。
とはいえ、村上初心者の僕の感想、端的に「海辺のカフカ」に接した感想としては、やはり彼は”引っ張る書き手”である。静寂の中に構築される彼独自の理屈と言い回しは、ファンにとってはおそらく麻薬に近いものがあるのだろう。
「村上春樹はクセになる」
そう語ったのは、作家清水良典だ。なるほど、村上春樹はいたるところに出没する。電車の中に、居酒屋の中に、そして便所の中にも。ページをひろげれば、そこが海辺のカフカの世界である。便座にまたがり、この夏汗だくになりながら踏ん張る僕をよそに、村上春樹は涼しげに、そして容赦なく僕を村上ワールドに引きずり込むのだ。そういう意味では、なるほど彼は”プロの書き手”なのである。
僕は作品以上に、村上春樹のスタンスがうらやましいと思う。
彼はほとんどメディアというものに登場しない。自宅にはテレビもないようだ。テレビがない生活は僕も大賛成だ。僕も1年ほどテレビが全くない生活を満喫したことがある。35年ローンを組み建売住宅を買い、連れ合いがお産で実家に帰っている間、そして赤子を連れて新居にやってきたしばらくの間、僕の家にはテレビがなかった。いや、正確に言うとテレビをつけても観ることができなかった。アンテナ工事を意図的にしなかったためである。テレビが単なる”箱”でしかなかったあの頃は、日々本と音楽を友とするあの頃は、僕にとっても至福の時であったのだ。そのときに村上春樹という存在が、ふと僕の頭をかすめるときが時々あった。
「彼もこんな生活を堪能しているのだろうか?」
”売れている”作家は数多い。でも、どんなに売れて、しかも文壇の大御所であっても、書きたくもないことを書かざるを得ない立場にあるのは、ある種仕方がないことだ。売れれば売れるほど、その”しがらみ”はどうしてもついてまわるからである。これは出版業界が文化産業である以前に、歴とした会社組織であり利益追求の団体だからだ。その中においても、村上春樹は稀有な存在である。つまりは、自分の書きたい作品だけを、自分の書きたいペースで世に送り、そしてその作品が確実に対価となってフィードバックされているからである。
自分の書きたい作品を書きたいペースで書き、それなりに評価を得ている書き手は他にもいる。例えば丸山健二がそうである。彼は文壇とは一線をおき、長野の山奥に暮らし見事なまでの庭園を創作しながら、文筆活動を続けている。僕も含め丸山ファンは根強いのだけど、いかんせんそれがセールスにはあまり結びついてはいないようだ。誤解して欲しくはないのだが、僕は売れることのみを善しとしているのではない。一つのありさまを言っているのだ。
そう考えると、メジャーであり、自分の創造したいもののみを創造し、それが金になるのは、おそらく書き手の中では村上春樹だけではないのだろうか?先ほどの清水氏も作家でありながら、どこかの大学で教鞭を執ることにより、自身の生活を維持していると思われるふしがある。
作家というものは実に因果な商売だ。僕は素直に、村上春樹のこのような立場が、単純明快に「うらやましい」と感じている。
そうなのだ、村上春樹の一番のファンは、実は村上春樹本人なのだ。彼自身が独自の理屈と言い回しと構成のなかで、縦横無尽に思いのたけをぶちまけ、そして、その対価を確実に懐に入れている。書き手としてこれほど快感を感じることはない。そして、暇が少しできた時点で、電車に乗り中吊り広告を眺めながら、くだらぬ退廃した擦り切れた世間の動向を感じとる。彼にとって世間のかかわりはそれで十分であろう。
故に、このような自己完結した「村上春樹」は、僕にとって危険な存在なのだ。
例えば、仕事はろくすっぽせずに、眼鏡をかけた中年で、ブスで、離婚歴があり、女手ひとつでヒステリックに子供を養いつつ、それでも働き手としての権利意識だけは猛烈に主張しながら労働組合などに命をかけているような、嫌われ者の「オバサン!」にどうのように立ち向かうか?このような俗物、属人的な命題に日ごろ頭を悩ませる僕という存在があるとする、いや、実際にある。
そんな折に村上春樹はそっと歩み寄り、僕にそのヒントを与えてくれた。冒頭に紹介した箇所の前後を読めば、その回答が記されている。「海辺のカフカ」は僕にとってそのような”実用書”的な面も垣間見せてくれていたのだ。
村上春樹は危険な作家である。
趣味で彼を読むことは大いによろしかろうと思う。しかし、書き手にとっては一度その香り接した途端、その世界から逃れられなくなる”力”がある。その力に抗うのは僕のような凡夫には、あまりにもハードルが高すぎるようにも思われる。
それでも、僕は彼が少し好きになってしまった。
カフカへのオマージュなどと、言わなきゃよかったのに・・・。
今、この記事は”ROXY MUSIC 「AVALON」”を聴きながら書いている。
村上氏はJAZZがお好きなようだが、「海辺のカフカ」には”ROXY MUSIC”がよく似合う。
※どさくさにまぎれて9連休の夏休みをとってしまった。8/11~8/19は帰省のため、記事を更新しません。
友人たちへ。
素敵な夏を過ごされんことを願います。
2007/08/09のBlog
[ 00:14 ]
[ <Perspective> ]
《時とともに被爆者は亡くなり、平均年齢は74歳を超えた。原爆の日以外は記念公園もひっそりする。風化なのだろう、広島市の小学生の5割は投下日時を知らない。原爆の惨をどう伝え継ぐか、模索が続いている。》
~2007年8月7日 朝日新聞「天声人語」より一部抜粋~
8月6日、広島原爆の日においても久間元防衛相の「しょうがない」発言は各メディアにより取り沙汰された。当たり前の話だ。
しかし、冒頭に紹介した小学生の話は本当なのだろうか?であるならば、我々は久間氏批判に終始していて良いものなのだろうか。
人を批判することは容易いものだ。しかし、8月6日を境に、このような不毛な批判は止めにしたい。この批判精神を我々の心に刻みつけ決して忘れることなく、そしてそのエネルギーをもっと実のあるほうへ向けねばなるまい。
戦争を後押しするものは、人々の”無関心”であり”忘却”であり、そして他への”想像力の欠如”ではないだろうか。
この3点の発露において戦争は確実に現実のものとなるであろう。
8月9日は「長崎の日」である。
2007/08/06のBlog
[ 22:17 ]
[ <Perspective> ]
[関連したBlog]
小田実氏追悼の意を込めて、またツナミン氏の熱い要望にお答えして、2007年7月31日東京新聞、小田氏に関する記事(全文)を紹介する。
当記事は紙面に掲載されたにも関わらず、同社WEBサイトには紹介されなかったものである。
********************************************************************************
「市民運動の先駆け」
行動する作家 小田実さん死去
作家で評論家、市民運動家でもあった小田実さんが参院選の開票終了間際、亡くなった。死の間際まで社会と隔絶せず、戦争や政治と向き合った。「人間みなちょぼちょぼや」。こう語り続けた小田さんの足跡の重みを振り返ると-。
「これまでも言説として反戦を語る人はたくさんいた。しかし、運動の修羅場に身を置いて、かつ小説を書き続けた作家であるという点で稀有な人だった」
翻訳家で「市民の意見30の会・東京」で活動する吉川勇一氏はこう語る。吉川氏は小田さんらが発足させた「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の元事務局長。事務局長に就任した一九六五年以来、付き合いは四十年以上に及んだ。
「骨太で話に一貫性があった。軸がぶれない」。その原点は小田さんが中学生時代に体験した終戦前日の大阪大空襲にあったのではないか、と吉川氏はみる。
「おびただしい死者を彼は目撃した。あと一ヶ月、昭和天皇の終戦の決断が速ければ、この空襲も原爆もなく、数十万の人々が死ななくて済んだ。『国体の護持』といったナショナリズムへの強い反発がここで刻まれたのだろう」
このため、小田さんは国民ではなく「市民」に語り続けた。「国家や軍隊と個人を切り離す。(ベトナム戦時中の)良心的兵役拒否米兵の脱出支援もこの延長線上にあった」(吉川氏)
十代の反戦活動で小田さんと出会い、その後、旅をともにしたこともあるノンフィクション作家の吉岡忍氏は「いまの若い人には小田さんは『左翼』とみられがちだが、その昔、ある国際集会に招かれ、参加者の若者たちが『インターナショナル』を歌っていた場面でも小田さんは一人起立しなかった」と振り返る。
国家と同時に「階級」にも懐疑を抱き、市民の自立にこだわったという。「いま、盛んになった市民運動に与えた影響は大きい」
吉岡さんは小田さんの作品について「当人から人間が『絶句する』瞬間、このときに人が背負っている社会的矛盾を描き出すことが小説だと聞いた」と話す。
歴史、社会描き世界性持つ
足かけ十年の労作「ベトナムから遠く離れて」をはじめ、小田さんの作品は個人の領域にとどまらず、背後の歴史や社会を描く「全体小説」が特色だった。
「文壇に加わらない当時では異色の存在だったが、アジアや欧米の作家たちは社会性を描き、同じように振る舞っていた。その意味で世界性を持っていた」
ただ、その素顔は旅先の銭湯にも紛失しないようにと、書きかけの原稿用紙を持っていくほど「慎重で、小心な一面も。それに豪放にみえて、人見知りが激しかった」(吉岡氏)
九五年の阪神大震災後、被害者の一人でもあった小田さんは「市民立法」を掲げ、「被災者生活再建支援法」制定(九八年)運動にも奔走。二〇〇四年には憲法改正に反対する「九条の会」結成にも加わる。
ただ、そうした小田さんの姿を「見た目はいいが、果たして社会を本当に動かす力があったのか」と、秋田県で週刊新聞「たいまつ」を主宰してきたむのたけじさんは厳しく評価する。
現在、九十二歳のむのさんは元朝日新聞記者で、戦争責任を感じ、終戦と同時に三十歳で退社した。その後、地方から発信を続ける。
「僕は農村で根を張ろうとして、その泥沼に手を突っ込んで種をまこうとしてきた。彼は都市型でスマート。対照的だった」
むのさんは「できれば笑って死にたいものだ」と苦笑する。
「最近の国家主義的な社会の流れ、小泉、安倍政権の動きを見るにつけ、自分たちがそれを阻めず、空回りしてきたのかなと思う」
そして、こう続けた。
「彼の華々しい活躍も結局、空回りだったのでは。死の直前、無念の思いがなかったか。それを案じる」
小田実氏追悼の意を込めて、またツナミン氏の熱い要望にお答えして、2007年7月31日東京新聞、小田氏に関する記事(全文)を紹介する。
当記事は紙面に掲載されたにも関わらず、同社WEBサイトには紹介されなかったものである。
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「市民運動の先駆け」
行動する作家 小田実さん死去
作家で評論家、市民運動家でもあった小田実さんが参院選の開票終了間際、亡くなった。死の間際まで社会と隔絶せず、戦争や政治と向き合った。「人間みなちょぼちょぼや」。こう語り続けた小田さんの足跡の重みを振り返ると-。
「これまでも言説として反戦を語る人はたくさんいた。しかし、運動の修羅場に身を置いて、かつ小説を書き続けた作家であるという点で稀有な人だった」
翻訳家で「市民の意見30の会・東京」で活動する吉川勇一氏はこう語る。吉川氏は小田さんらが発足させた「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の元事務局長。事務局長に就任した一九六五年以来、付き合いは四十年以上に及んだ。
「骨太で話に一貫性があった。軸がぶれない」。その原点は小田さんが中学生時代に体験した終戦前日の大阪大空襲にあったのではないか、と吉川氏はみる。
「おびただしい死者を彼は目撃した。あと一ヶ月、昭和天皇の終戦の決断が速ければ、この空襲も原爆もなく、数十万の人々が死ななくて済んだ。『国体の護持』といったナショナリズムへの強い反発がここで刻まれたのだろう」
このため、小田さんは国民ではなく「市民」に語り続けた。「国家や軍隊と個人を切り離す。(ベトナム戦時中の)良心的兵役拒否米兵の脱出支援もこの延長線上にあった」(吉川氏)
十代の反戦活動で小田さんと出会い、その後、旅をともにしたこともあるノンフィクション作家の吉岡忍氏は「いまの若い人には小田さんは『左翼』とみられがちだが、その昔、ある国際集会に招かれ、参加者の若者たちが『インターナショナル』を歌っていた場面でも小田さんは一人起立しなかった」と振り返る。
国家と同時に「階級」にも懐疑を抱き、市民の自立にこだわったという。「いま、盛んになった市民運動に与えた影響は大きい」
吉岡さんは小田さんの作品について「当人から人間が『絶句する』瞬間、このときに人が背負っている社会的矛盾を描き出すことが小説だと聞いた」と話す。
歴史、社会描き世界性持つ
足かけ十年の労作「ベトナムから遠く離れて」をはじめ、小田さんの作品は個人の領域にとどまらず、背後の歴史や社会を描く「全体小説」が特色だった。
「文壇に加わらない当時では異色の存在だったが、アジアや欧米の作家たちは社会性を描き、同じように振る舞っていた。その意味で世界性を持っていた」
ただ、その素顔は旅先の銭湯にも紛失しないようにと、書きかけの原稿用紙を持っていくほど「慎重で、小心な一面も。それに豪放にみえて、人見知りが激しかった」(吉岡氏)
九五年の阪神大震災後、被害者の一人でもあった小田さんは「市民立法」を掲げ、「被災者生活再建支援法」制定(九八年)運動にも奔走。二〇〇四年には憲法改正に反対する「九条の会」結成にも加わる。
ただ、そうした小田さんの姿を「見た目はいいが、果たして社会を本当に動かす力があったのか」と、秋田県で週刊新聞「たいまつ」を主宰してきたむのたけじさんは厳しく評価する。
現在、九十二歳のむのさんは元朝日新聞記者で、戦争責任を感じ、終戦と同時に三十歳で退社した。その後、地方から発信を続ける。
「僕は農村で根を張ろうとして、その泥沼に手を突っ込んで種をまこうとしてきた。彼は都市型でスマート。対照的だった」
むのさんは「できれば笑って死にたいものだ」と苦笑する。
「最近の国家主義的な社会の流れ、小泉、安倍政権の動きを見るにつけ、自分たちがそれを阻めず、空回りしてきたのかなと思う」
そして、こう続けた。
「彼の華々しい活躍も結局、空回りだったのでは。死の直前、無念の思いがなかったか。それを案じる」
2007/08/04のBlog
[ 21:02 ]
[ <Perspective> ]
気になった記事を紹介してみる。
「ゆでガエル症候群」=以下「BF症候群」と略称=という、いっとき企業経営の分野などでもちだされたたとえ話がある。水を入れた器にカエルを入れて少しずつ温度を上げていくと、カエルは温度上昇に気づかず湯のなかにとどまり、終いには”ボイルド・フロッグ”とあいなって昇天してしまう。けれども、いきなり熱湯に入れると、驚いてすぐさま器から飛びでて生きのびるという。ぬるま湯のうちに来るべき破局を予感し、危機回避のために主体的決断をくだすべし、というのがこのたとえの教訓であろう。
選挙よりもある意味でよほど大事な情報の開示が最近あった。独立行政法人国立環境研究所がスーパーコンピューターによるシュミレーションの結果として発表したところによると、地球温暖化がこのまま進んだ場合、日本各地では2030年、夜になっても涼しくならない日が現在の3倍程度に増える。
同研究所のプレス・リリースには「極端な高温・低音の出現が顕在化」の見出しもあり、事態は極めて深刻である。こうした気候変動により台風などによる大災害がますます起りやすくなるだけでなく、気象が極端化して生態系が大きく変り、新たな疾病、細菌も発生して、人の健康状態につよい影響をあたえるだろう-という予測もすでに内外でなされている。発表は2030年という近未来に起きるであろう危機を予測指標としてつよい警告をあたえているといってよい。
だが、右の大ニュースは新聞号外にはされなかった。昨今、スポーツ記事や埒もない芸能ニュースでも号外が乱発されているのにもかかわらず、である。この発表をめぐって緊急閣議が開かれたという話も寡聞にして知らない。新聞、テレビがこれを機会に一斉に温暖化防止の大特集を組むこともなかったし、選挙の争点が変ることもなかった。世間は相も変らずお笑い芸人のパフォーマンスに大喜びし、環境研究所の発表より株価のほうを気にし、23年後の暑い夜より来年の北京五輪における日本選手団の活躍いかんにより大きい関心を示すのである。なぜだろうか。われわれはやはりBF症候群により危機を予感する力をなくし、すでにして危機温度にあるのにもかかわらず「いい湯だな」と錯覚するほど神経が麻痺しているのではないか。
だが選挙の焦点にならなかったイシューは重要ではない、ともし考えるなら典型的なBF症候群患者といわれてもしかたがないだろう。われわれのいる水が冷水かぬるま湯か熱湯か判断する感覚中枢は、大半のニュースメディア同様、ひどい失調をきたしている可能性がある。事態は逆なのだ。むしろ選挙で一大争点とされなかった事項にこそ危機回避のために真剣に議論すべきテーマが多いのである。
~月刊 現代 9月号 辺見庸「潜思録」 [特別拡大版] より一部抜粋~
「ゆでガエル症候群」=以下「BF症候群」と略称=という、いっとき企業経営の分野などでもちだされたたとえ話がある。水を入れた器にカエルを入れて少しずつ温度を上げていくと、カエルは温度上昇に気づかず湯のなかにとどまり、終いには”ボイルド・フロッグ”とあいなって昇天してしまう。けれども、いきなり熱湯に入れると、驚いてすぐさま器から飛びでて生きのびるという。ぬるま湯のうちに来るべき破局を予感し、危機回避のために主体的決断をくだすべし、というのがこのたとえの教訓であろう。
選挙よりもある意味でよほど大事な情報の開示が最近あった。独立行政法人国立環境研究所がスーパーコンピューターによるシュミレーションの結果として発表したところによると、地球温暖化がこのまま進んだ場合、日本各地では2030年、夜になっても涼しくならない日が現在の3倍程度に増える。
同研究所のプレス・リリースには「極端な高温・低音の出現が顕在化」の見出しもあり、事態は極めて深刻である。こうした気候変動により台風などによる大災害がますます起りやすくなるだけでなく、気象が極端化して生態系が大きく変り、新たな疾病、細菌も発生して、人の健康状態につよい影響をあたえるだろう-という予測もすでに内外でなされている。発表は2030年という近未来に起きるであろう危機を予測指標としてつよい警告をあたえているといってよい。
だが、右の大ニュースは新聞号外にはされなかった。昨今、スポーツ記事や埒もない芸能ニュースでも号外が乱発されているのにもかかわらず、である。この発表をめぐって緊急閣議が開かれたという話も寡聞にして知らない。新聞、テレビがこれを機会に一斉に温暖化防止の大特集を組むこともなかったし、選挙の争点が変ることもなかった。世間は相も変らずお笑い芸人のパフォーマンスに大喜びし、環境研究所の発表より株価のほうを気にし、23年後の暑い夜より来年の北京五輪における日本選手団の活躍いかんにより大きい関心を示すのである。なぜだろうか。われわれはやはりBF症候群により危機を予感する力をなくし、すでにして危機温度にあるのにもかかわらず「いい湯だな」と錯覚するほど神経が麻痺しているのではないか。
だが選挙の焦点にならなかったイシューは重要ではない、ともし考えるなら典型的なBF症候群患者といわれてもしかたがないだろう。われわれのいる水が冷水かぬるま湯か熱湯か判断する感覚中枢は、大半のニュースメディア同様、ひどい失調をきたしている可能性がある。事態は逆なのだ。むしろ選挙で一大争点とされなかった事項にこそ危機回避のために真剣に議論すべきテーマが多いのである。
~月刊 現代 9月号 辺見庸「潜思録」 [特別拡大版] より一部抜粋~
2007/08/03のBlog
[ 23:32 ]
[ <Perspective> ]
[関連したBlog]
「日本は戦争などできるのか?」
「私は大阪で、子供として戦争を体験した。
私の体験は”空襲”と”飢え”だ。」
「私はこの体験で、日本には抵抗する力が全然ないと
痛感した。」
「この国、石油ないでしょう?これで戦争できるのか?」
「飛行機飛ばすにも石油がない。戦車も何も動かない。私はそれをつぶさに体験した」
「果たして、日本は戦争できるのか?」
「日本は中国ともアメリカともフランスとも違う。」
「日本は何もない国だ。」
「そんな日本が、どう生きるかを決める基本原則が、憲法だ。」
2007年7月30日。
小田実氏が亡くなった。享年75歳。
冒頭に紹介したのは2006年6月10日、日本青年館大ホールで行われた「9条の会 全国交流集会」の呼びかけ人アピールでの1コマである。
私は”ツナミン氏”によりこの会の存在を知り、彼の映像を見る機会に預かり、そして、彼の訃報に接し再び彼の肉声を自身の眼で捉えたところである。
ほんの1年前までは、これほどまでに矍鑠としていた彼が、今や無常の世界へと旅立ってしまったことに、とても信じられない思いである。
戦争について、彼は強烈なまでの原体験を持っている。大阪空襲である。
爆弾が降り注ぐ中必死に逃げ惑い、防空壕を這い出し、そして焼け爛れた黒焦げの死体を片付けたという。このような体験を持つ一人の人間が、9条の会の呼びかけ人アピールとして何かを語るとき、その言葉の一つひとつが我々の心の琴線の何かを震えさす。
ところで皆さんは、人間が腐ったときの匂いを嗅いだことがありますか?私は詳しいことはここでは言いませんが、個人的な体験としてあります。
我々は身近な人の死を葬式としての場で体験することはできるが、特に最近の都会の火葬場はハイテク化が進み、また空調も完全なまでに完備している中、葬式という儀式が粛々とあたかもベルトコンベア式に取り回される中で、我々は傍観者としてそれを見守る立場でしかない。しかし、地方の火葬場はそうはいかない。建物に入るや否や、あの何とも形容しがたい骨と肉が焼け焦げる匂いに、参列者として立ち向かなくてはならない。私が欝的な症状に陥るのは、そんな時である。
最近も地方の葬式に参列する機会があった。地方には似つかわしくないまでの”ご立派な”建物に関わらず、遺体を火葬するときに発する匂いが、僕に相当の欝的状態をもたらしてしまった。どんなに酒を飲んでも、その日は結局ダメだった。人の腐った匂い、私の個人的体験を呼び起こしてしまうのだ。
閑話休題。
小田実氏というのは、”体験”に裏打ちされた言論者の一人であったのではなかろうか?今、広く世間を見渡してみても、経験値、体験にもとずく血肉の通った言葉を発する人間が、ほとんど皆無に等しいことに気がつく。僕のささいなトラウマでさえ10年以上も経た今でもこんな怪しげな精神状態に陥らせるのである。ましてや、小田氏の戦争体験、焼け爛れた遺体と向き合う体験は如何ほどのものであったか。おこがましく私はそれを語る言葉を持ち得ない。
今、世に溢れているのは、頭の中で全てが完結し、それを話すだけの”観念論者”でしかないのは、我々にとっても悲劇的なことだ。逆に、我々は小田氏のような人間の言葉に、果たして真摯に耳を傾けてきたのであろうか?
彼のような人間が全員亡くなってからでは、全てが遅いのではないか?政府与党に象徴される観念論者は、必ず”戦争”を指向する。小田実氏はあの世でそれを忸怩たる思いで見る羽目になるのだろうか?
「日本は戦争などできるのか?」
「私は大阪で、子供として戦争を体験した。
私の体験は”空襲”と”飢え”だ。」
「私はこの体験で、日本には抵抗する力が全然ないと
痛感した。」
「この国、石油ないでしょう?これで戦争できるのか?」
「飛行機飛ばすにも石油がない。戦車も何も動かない。私はそれをつぶさに体験した」
「果たして、日本は戦争できるのか?」
「日本は中国ともアメリカともフランスとも違う。」
「日本は何もない国だ。」
「そんな日本が、どう生きるかを決める基本原則が、憲法だ。」
2007年7月30日。
小田実氏が亡くなった。享年75歳。
冒頭に紹介したのは2006年6月10日、日本青年館大ホールで行われた「9条の会 全国交流集会」の呼びかけ人アピールでの1コマである。
私は”ツナミン氏”によりこの会の存在を知り、彼の映像を見る機会に預かり、そして、彼の訃報に接し再び彼の肉声を自身の眼で捉えたところである。
ほんの1年前までは、これほどまでに矍鑠としていた彼が、今や無常の世界へと旅立ってしまったことに、とても信じられない思いである。
戦争について、彼は強烈なまでの原体験を持っている。大阪空襲である。
爆弾が降り注ぐ中必死に逃げ惑い、防空壕を這い出し、そして焼け爛れた黒焦げの死体を片付けたという。このような体験を持つ一人の人間が、9条の会の呼びかけ人アピールとして何かを語るとき、その言葉の一つひとつが我々の心の琴線の何かを震えさす。
ところで皆さんは、人間が腐ったときの匂いを嗅いだことがありますか?私は詳しいことはここでは言いませんが、個人的な体験としてあります。
我々は身近な人の死を葬式としての場で体験することはできるが、特に最近の都会の火葬場はハイテク化が進み、また空調も完全なまでに完備している中、葬式という儀式が粛々とあたかもベルトコンベア式に取り回される中で、我々は傍観者としてそれを見守る立場でしかない。しかし、地方の火葬場はそうはいかない。建物に入るや否や、あの何とも形容しがたい骨と肉が焼け焦げる匂いに、参列者として立ち向かなくてはならない。私が欝的な症状に陥るのは、そんな時である。
最近も地方の葬式に参列する機会があった。地方には似つかわしくないまでの”ご立派な”建物に関わらず、遺体を火葬するときに発する匂いが、僕に相当の欝的状態をもたらしてしまった。どんなに酒を飲んでも、その日は結局ダメだった。人の腐った匂い、私の個人的体験を呼び起こしてしまうのだ。
閑話休題。
小田実氏というのは、”体験”に裏打ちされた言論者の一人であったのではなかろうか?今、広く世間を見渡してみても、経験値、体験にもとずく血肉の通った言葉を発する人間が、ほとんど皆無に等しいことに気がつく。僕のささいなトラウマでさえ10年以上も経た今でもこんな怪しげな精神状態に陥らせるのである。ましてや、小田氏の戦争体験、焼け爛れた遺体と向き合う体験は如何ほどのものであったか。おこがましく私はそれを語る言葉を持ち得ない。
今、世に溢れているのは、頭の中で全てが完結し、それを話すだけの”観念論者”でしかないのは、我々にとっても悲劇的なことだ。逆に、我々は小田氏のような人間の言葉に、果たして真摯に耳を傾けてきたのであろうか?
彼のような人間が全員亡くなってからでは、全てが遅いのではないか?政府与党に象徴される観念論者は、必ず”戦争”を指向する。小田実氏はあの世でそれを忸怩たる思いで見る羽目になるのだろうか?
ここに1冊の本がある。
彼の著書「なんでも見てやろう」である。
東京大学卒業後の1958年、フルブライト留学生として米国ハーバード大学へ進学し、そのアメリカ時代に世界巡りを記したこの本は、日本でもベストセラーになった。このような世界を自身の肉体で実感した体験、そして、子供の頃の戦争体験が、彼を9条の会へと走らせたのだろう。
正直なところ、私は彼を、胸を張って私見を語れるほどには至ってはいない。しかし、敢えて言わせてもらえば、体験に裏打ちされた、体験による書き手としての感性、今はほとんど見られなくなった体験による言論者としての感性がこの時点で既に育まれていたのではないか。
彼の言動全てが”体験”であり”実感”である。これほどの説得力はない。
我々が今一番見失っていること。それは、「なんでも見てやろう」という感性かもしれぬ。例えば戦争体験者の話を直に聞く最後の機会は、まさに今しかないかもしれないのだ。その戦争体験者が全員亡くなった時、そして我々が結局彼らから何の話も聞かなかった時、確実に戦争は起きるだろう。
彼が参院選の直後に亡くなったのは、決して偶然ではない。
悶々と思い悩むのではなく「何でも見てやろう」
頭だけで考えるのではなく「なんでも見てやろう」
「なんでも見てやろう」精神こそが、若さの萌芽である。
”若さ”とは年齢の若さとは限らないのである。
【追記】
写真は、昭和44年4月11日に撮影されたものだ。当時小田氏は代々木ゼミナールにて講師を勤めてており、また、同校世田谷寮にて学生たちと寝食を共にしていた。
当時、私はまだ2歳に満たない赤子であった。
~写真は「わが家の夕めし」アサヒグラフ編より~
関連する拙記事はこちら
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当時、私はまだ2歳に満たない赤子であった。
~写真は「わが家の夕めし」アサヒグラフ編より~
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2007/07/31のBlog
[ 22:53 ]
[ 【政治問題】 ]
7月22日のプログにおいて、私は一つの「挑戦状」を”おこがましく”も国民へ突きつけたわけだが、皆さんはこれを見事受けて立ち、今こうして自民党を歴史的大惨敗へと至らしめた。
肝心の憲法問題がすっかり影をひそめてしまったことは、個人的には肩透かしを食らった感もあるが、世間で言うように、「年金問題」「政治と金の問題」「閣僚の失言」といったこれらのスキャンダルが重なった点からすれば、政府与党としては沈没するしかあるまい。安倍政権を今回の形で窮地に追いやったことについて、私は一定の評価は与えて良いと思う。
まずは国民の皆様に「おめでとう」を言わせていただく。
既に終わった参院選をあれこれと解説するのはテレビや新聞各紙でいい加減うんざりしているはずであろうから、私の属する東京選挙区について少し話してみたいと思う。
《興味深いのは、東京選挙区での民主党の大河原雅子氏のケースだ。報道各社の情勢調査では当落線上に近かったのに、結果はトップ当選。これは、有権者が民主党候補を2人当選させるために意識的に戦略的な投票行動をとった結果だと言える。
(中略)かつての自民党対社会党時代には、政権担当能力のない社会党に政権を取らせないとの「逆バネ」が働いた。だが、今回は大河原氏の例を見ても、「小差の勝利では与野党逆転はできない」と感じた有権者が意識的に行動した結果であり、「自民党に負けて欲しい」との有権者の気持ちが表れたと言える。》
~2007年7月31日 朝日新聞「逆転参院を聞く」蒲島郁夫・東大教授(政治学)
メディア・リテラシー、そして、集合的無意識の共鳴?
東京選挙区については、自民党と民主党の動向には注目せざるを得なかったが、確かに、大河原雅子氏に関しては当選は少し難しいのではと私は予想していた。そして、民主党のもう一人の候補者、鈴木寛氏について、世間の予想では当選が確実視されていた。
ところが、結果を見ると実に100万票を獲得してのトップ当選である。正直、私にとってもこれは一つのサプライズである。蒲島教授の指摘する通り、有権者が戦略的投票を行っていたとしたら、これは実に興味深い話である。
しかし、これについてはもう少し突っ込んで分析すれば、有権者の”メディア・リテラシー”が少しだけ上達したのではという見方もできる。それは、7月17日朝日新聞、「主な候補者へのアンケート」記事である。この記事では、東京選挙区の候補者へ向けられた次の3つの質問の回答が紹介されていた。
①築地市場移転については賛成か?反対か
②東京の2016年五輪招致について賛成か?反対か?
③年金問題を巡る安倍首相の対応を評価するか?
この回答について、大河原氏は「反対」「反対」「評価しない」といった、取りあえずは無難な回答を示している。ところが、鈴木寛氏については、築地移転は「反対」し、年金の対応についても「評価しない」とした一方で、東京五輪招致は「賛成」との立場をとっているのである。
この記事を読み「あれ?」と思った有権者はかなりの数に上ったと思われる。そして、おそらくはインターネットを通じて鈴木氏を”洗う”作業をしたのではないか。この作業をすることにより、鈴木氏は、私のプログでも以前紹介した「日本会議」のメンバーであることが分かるのである。
(これに到る道すじとしては、「きっこのプログ」→「反戦な家づくり」が考えられる)
要するに、鈴木氏も安倍首相も、そしてい石原都知事も「同じ穴のムジナ」だったわけなのである。ネットでこの事実を知り、危機感をいただいた有権者は迷うことなく大河原氏に投票したのではないだろうか?
このようにネットでの情報が呼び水となり、そこに集合的無意識の共鳴現象を引き起こし、蒲島教授の指摘する戦略的投票へと繋がったのであれば私としても非常に興味深いものがある。記事を書いた甲斐があったというものである。そうでなければこのような逆転現象は説明できないと思うが、いかがだろう?
とはいえ、私は今回の民主党の勝利を手放しで喜ぶ立場ではないことは、明言しておきたい。
先に紹介した日本会議に属する鈴木寛氏、そして9条改正発言を躊躇しない前原前代表にも見られるように、民主党は歴とした改憲政党なのである。この事実については、我々が今後とも忘れてはならない重要なポイントであると考えている。
加えて、今回の参院選は自民党が画策する非常に根の深いストーリーを内に孕んでいることをつけ加えておく。
今後の政局を占う上でも、次回の記事よりこの根の深い部分に焦点を当て、検証してゆくことにする。
戦いは、今始まったばかりなのである・・・。
2007/07/28のBlog
[ 14:02 ]
[ 【憲法問題】 ]
参院選、前日に寄せて・・・
必要ならば、物理的にも国家に抵抗すべきである。
だがしかし、もしもそうした勇気がなければ、次善の策として、日常的な
服従のプロセスから離脱することだ。つまり、ああでもないこうでもないと
意義や愚痴を並べて、いつまでものらりくらりと服従を拒むことである。
弱虫は弱虫なりに、小心者は小心者なりに、根源の問いをぶつぶつと発し、権力の
支持にだらだらとどこまでも従わないこと。激越な反逆だけではなく、いわば
「だらしのない抵抗」の方法だってあるはずではないか。
本書『永遠なる不服従のために』はそうした脈絡から編まれた、柔らかで永続的な
抵抗を勧めるテキストでもある。
~辺見庸「永遠なる不服従のために」~
必要ならば、物理的にも国家に抵抗すべきである。
だがしかし、もしもそうした勇気がなければ、次善の策として、日常的な
服従のプロセスから離脱することだ。つまり、ああでもないこうでもないと
意義や愚痴を並べて、いつまでものらりくらりと服従を拒むことである。
弱虫は弱虫なりに、小心者は小心者なりに、根源の問いをぶつぶつと発し、権力の
支持にだらだらとどこまでも従わないこと。激越な反逆だけではなく、いわば
「だらしのない抵抗」の方法だってあるはずではないか。
本書『永遠なる不服従のために』はそうした脈絡から編まれた、柔らかで永続的な
抵抗を勧めるテキストでもある。
~辺見庸「永遠なる不服従のために」~
2007/07/23のBlog
[ 21:44 ]
[ 国民投票法に始まる改憲問題 ]
《1953年のこと。宮崎県の南部、陸地より約300メートル離れた日向灘の海に浮かぶ幸島という無人島にいたニホンザルが、イモを水で洗いはじめたのである。この島には昔からニホンザルがすんでいて、1934年には天然記念物に指定され、島の自然とともに守られてきた。そのサルたちに対して1950年から餌付けが試みられ、2年後には成功していた。
餌付けといっても、餌として使えるのは当時は畑からとれたばかりのサツマイモしかなかった。しかもそのサツマイモは泥だらけだった。しかしある日、1歳半のメスが、何かのはずみに泥だらけのイモを真水につけ、泥を手で洗い流してから食べることを始めたのである。
この行動はやがて若いサルたちや母親のサルたちにも伝播し、1957年には群れの4分の3にあたる15匹がイモを洗って食べるようになったのである。》
~喰代栄一「なぜそれは起るのか」~
基本的にサルは言語が発達しておらず言葉による意思疎通が困難なこともあり、冒頭に紹介したイモ洗いの行動は、サルたちの模倣により群れ全体に広がったのは間違いないだろう。
しかし、非常に興味深いのは、このイモ洗い行動が幸島だけでなく、その後、幸島から遠く離れた他の野猿公園でも、幸島に呼応するかのように同様の行動が見られるようになったことである。
当初私は、これら一連の現象はシンクロニシティー(共時性:一般の常識では説明のつかない恐るべき偶然)の一つの現れであると解釈していたが、どうもそれだけでは説明のつかない深い意味が、これにはありそうなのだ。
一つだけ言えることは、幸島に関して、イモ洗いをするサルの数がある臨界点を超えると、その数は幸島の群れ全体のみならず、他の地域へも爆発的に広がった、ということである。
生物をコントロールする”集合的無意識”
なぜ、一糸乱れぬ隊列を組み、海中を旅する魚の群れが、互いにぶつかることなく急激な方向転換をしたり、花火を咲かせるように散らばることができるのだろうか?
なぜ、アリやミツバチが女王アリや女王蜂を中心に整然とした群れを編成し、迷路のように複雑な巣を形成することができるのか?不思議だと思いませんか?
この疑問に対する回答が、「集合的無意識」の作用であると、私は考えている。
この「集合的無意識」という概念を確立したのが、フロイトの弟子でもあり、後にフロイトと決別するに到った心理学者カール・グスタフ・ユングである。
彼は、心は決して個人的な無意識の部分にとどまらず、それとは別の”第2の心のシステム”があるのではないかと考えた。そして、それは集合的・普遍的・非個人的な性質を持ち、しかも全ての個人において同一であるとしたのである。これを彼は「集合的無意識」と名づけたのである。
《彼の定義によると、この集合的無意識は、心全体の中で個人的に獲得されるものではない心の部分である。フロイトの発見した個人的無意識は、一度は意識されていたものが忘却や抑圧によって意識の底に隠れてしまったものだ。これに対しユングの発見した集合的無意識は、個人的無意識よりも深い層にあり、その内容は一度も意識されたことがない。
さらにフロイトの個人的無意識の内容はほとんどがコンプレックスによって成り立っているのに対し、ユングの集合的無意識の内容は「元型」によって成り立っている。この元型というのがユングの心理学の中核をなす考え方である。彼はそれを「存在に先んずる型式」といっているが、要するに生まれながらに持っている心のパターンということだ。》
~喰代栄一「なぜそれは起るのか」~
我々は”集合的無意識”に共鳴する。
このようにユングは人類の心の一番深い部分に、ある複数の共通パターンを見出し、それを「元型」と名づけた。そして、この元型が作用するのが集合的無意識の世界である。そして、これは魚やアリや、ミツバチといった生物全体にも当然当てはまると、私は考える。これら生物の一連の行動は、集合的無意識の「共鳴」による作用なのだ。
つまり、生物の心の奥深くには全ての生物に共通する集合的無意識の領域があり、その生物をコントロールし、互いに共鳴作用を及ぼしている。そして、この内部世界は客観的外部である自然界という外側の世界にも通じており、この内部世界と外部世界とが交錯するところに、先ほど述べた”シンクロニシティー”も起りうる訳なのだ。
なぜ、一糸乱れぬ隊列を組み、海中を旅する魚の群れが、互いにぶつかることなく急激な方向転換をしたり、花火を咲かせるように散らばることができるのだろうか?
なぜ、アリやミツバチが女王アリや女王蜂を中心に整然とした群れを編成し、迷路のように複雑な巣を形成することができるのか?不思議だと思いませんか?
この疑問に対する回答が、「集合的無意識」の作用であると、私は考えている。
この「集合的無意識」という概念を確立したのが、フロイトの弟子でもあり、後にフロイトと決別するに到った心理学者カール・グスタフ・ユングである。
彼は、心は決して個人的な無意識の部分にとどまらず、それとは別の”第2の心のシステム”があるのではないかと考えた。そして、それは集合的・普遍的・非個人的な性質を持ち、しかも全ての個人において同一であるとしたのである。これを彼は「集合的無意識」と名づけたのである。
《彼の定義によると、この集合的無意識は、心全体の中で個人的に獲得されるものではない心の部分である。フロイトの発見した個人的無意識は、一度は意識されていたものが忘却や抑圧によって意識の底に隠れてしまったものだ。これに対しユングの発見した集合的無意識は、個人的無意識よりも深い層にあり、その内容は一度も意識されたことがない。
さらにフロイトの個人的無意識の内容はほとんどがコンプレックスによって成り立っているのに対し、ユングの集合的無意識の内容は「元型」によって成り立っている。この元型というのがユングの心理学の中核をなす考え方である。彼はそれを「存在に先んずる型式」といっているが、要するに生まれながらに持っている心のパターンということだ。》
~喰代栄一「なぜそれは起るのか」~
我々は”集合的無意識”に共鳴する。
このようにユングは人類の心の一番深い部分に、ある複数の共通パターンを見出し、それを「元型」と名づけた。そして、この元型が作用するのが集合的無意識の世界である。そして、これは魚やアリや、ミツバチといった生物全体にも当然当てはまると、私は考える。これら生物の一連の行動は、集合的無意識の「共鳴」による作用なのだ。
つまり、生物の心の奥深くには全ての生物に共通する集合的無意識の領域があり、その生物をコントロールし、互いに共鳴作用を及ぼしている。そして、この内部世界は客観的外部である自然界という外側の世界にも通じており、この内部世界と外部世界とが交錯するところに、先ほど述べた”シンクロニシティー”も起りうる訳なのだ。
我々はサルに勝てるのか?
幸島で生きる一部のサルが、イモ洗いの行動をある臨界点を超えさせたことにより、集合的無意識の共鳴を引き起こし、他の地域のサルもイモを洗って食べるという”画期的”な方法を獲得したことになる。これは、1個の生物の”意識”が、革命的事象のトリガーとなることを雄弁に物語っている。
これは、我々が現在抱えている憲法問題、国民投票法問題、そして、選挙にもそのまま当てはまるのではないだろうか?
なぜ、小泉政権があのように高い支持率を得、選挙に大勝することができたのか?それは、少なからずも国民の改革という”意識”が共鳴現象を起こしたからとも言えるのではないか(実際彼がまっとうな改革を行ったかは別としても)”小泉劇場”は人々の意識がもたらした産物だったのではないだろうか。
そのような意味において、百人なのか千人なのか、1万人なのかは私には分からないが、しかし、我々一人ひとりが確固とした意識をもって選挙に望めは、きっと選挙に打ち勝つことができるものと、私は信じている。
「どうせ、今回も与党が勝つに決まっている」
「与党は組織票を持っているから、どうせ負けないだろう」
”したり顔”でそんな発想の虜になるのは止めようではないか。
このような考えを変えたときにこそ、我々の集合的無意識が共鳴し、臨界点を超えたときに、それは爆発的なエネルギーとなるであろう。
本当のサプライズが起きるのは、きっとその時に違いないのだ。
はたして、これはオカルトだろうか?
あなたが、政府与党に組みしないのであれば、胸をはって選挙に行こうではないか。きっと勝利はあなたのものだ。
あなたが、組織票の一員であれば、今一度考えて欲しい。投票ロボットに成り下がるか、主権者としての意志を発露するかは、あなた次第だ。
世界を変えるのは我々の意識に他ならない。意識が世界を変えてゆく。
幸島のサルたちは、我々よりも一足先に「改革」を手に入れた。
我々はサルに勝てるだろうか?
私は、みんなの動向を常にウォッチし続けるだろう。
これは、私から国民へ当てた一つの「挑戦状」である
幸島で生きる一部のサルが、イモ洗いの行動をある臨界点を超えさせたことにより、集合的無意識の共鳴を引き起こし、他の地域のサルもイモを洗って食べるという”画期的”な方法を獲得したことになる。これは、1個の生物の”意識”が、革命的事象のトリガーとなることを雄弁に物語っている。
これは、我々が現在抱えている憲法問題、国民投票法問題、そして、選挙にもそのまま当てはまるのではないだろうか?
なぜ、小泉政権があのように高い支持率を得、選挙に大勝することができたのか?それは、少なからずも国民の改革という”意識”が共鳴現象を起こしたからとも言えるのではないか(実際彼がまっとうな改革を行ったかは別としても)”小泉劇場”は人々の意識がもたらした産物だったのではないだろうか。
そのような意味において、百人なのか千人なのか、1万人なのかは私には分からないが、しかし、我々一人ひとりが確固とした意識をもって選挙に望めは、きっと選挙に打ち勝つことができるものと、私は信じている。
「どうせ、今回も与党が勝つに決まっている」
「与党は組織票を持っているから、どうせ負けないだろう」
”したり顔”でそんな発想の虜になるのは止めようではないか。
このような考えを変えたときにこそ、我々の集合的無意識が共鳴し、臨界点を超えたときに、それは爆発的なエネルギーとなるであろう。
本当のサプライズが起きるのは、きっとその時に違いないのだ。
はたして、これはオカルトだろうか?
あなたが、政府与党に組みしないのであれば、胸をはって選挙に行こうではないか。きっと勝利はあなたのものだ。
あなたが、組織票の一員であれば、今一度考えて欲しい。投票ロボットに成り下がるか、主権者としての意志を発露するかは、あなた次第だ。
世界を変えるのは我々の意識に他ならない。意識が世界を変えてゆく。
幸島のサルたちは、我々よりも一足先に「改革」を手に入れた。
我々はサルに勝てるだろうか?
私は、みんなの動向を常にウォッチし続けるだろう。
これは、私から国民へ当てた一つの「挑戦状」である