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2007/12/08のBlog
[ 01:46 ]
[ 【読書部屋】 ]
慢性的にふところ具合がさみしい。
しかも、思いついたときに思いついた書き手の本を際限なく買いたいとも思っている。そんなわけで僕の読書はどうしても古本が主体となる。
ありがたいことに、自宅の目と鼻の先には”ブックオフ”なる大手古本チェーン店がある。僕はこの店に2日に1回は会社帰りに立ち寄り、たいがい何かしらの本を買っている。ぼくはこの店のいわば常連客である。
今年の年始は足を怪我したせいで実家へも帰らず、元旦早々からブックオスに赴き、景品の赤い文庫本カバーを貰った。その時に買ったのが次の3冊である。
ウィリアム・バロウズ 「裸のランチ(The Naked Lunch)」
村上春樹 「遠い太鼓」
林芙美子 「放浪記」
実はこれらの本をまだ読んではいない。
僕は買った本をすぐに読まないことが多い。半年寝かせ、1年寝かせ、3年寝かせてから読むのを尊しとする。よって、僕の本棚にはそのような”熟成”された本がひしめいている。-まあ例外もあるのですが。
本は買ってすぐに読む、というよりはむしろ、気になった本は取り合えず買って置いておくという考えだ。しかも、安い値段で。そして読みたい機運が高まったときに、さあ読みましょう、というのが僕の基本的なスタンスだったりする。-まあ例外もあるのですが。
そのような点も踏まえ、今年のベスト本を僕なりに考えてみた。
これは『L'espace du livre*』のnadjaさんに触発され、ツナミン氏にも呼応した記事であります。
まあ、ベスト本1冊!と決めないで、1位から3位までのランキング形式でいきましょうね。こういうランキングって、好きだなあ(笑)
■第3位 辺見庸 「永遠の不服従のために」
今年の大きな収穫は”辺見庸”という書き手に出会えたことである。
これは取りも直さず、僕のブログにも頻繁に登場するwarmgun氏の影響である。
「ブログを突き動かす激しい怒りと絶望。それでもなお変革への志向と青春の力が漲っている」
友人の鏡響子さんは、warmgun氏をこのように語った。
僕はオフ会の席上で氏と出会い様々な会話を交わしたが、全くをもってその通りだと思う。そしてそんなwarmgun氏に少なからず影響を与えたのが本書であると僕は確信している。
国家とは何か?その国家の生み出す詭弁とは何か?そして、そのような現代社会に生きる我々の立ち位置とは何か?
淀むことなく、本当の意味での市民(=ピープル)として、強大な「何か」に立ち向かうエナジーを喚起し、さらに、それ以上に沈思させる書である。
高らかに宣言しようではないか。
「我々は立ち向かう」
「我々は何ものにも属さない」
この国にも辺見庸のような書き手は、まだいるのだ。
これを機に「抵抗論」「単独発言」「反定義」「自動起床装置」「もの食う人々」「眼の探求」といった辺見庸の作品を買い揃えたことは言うまでもない。
※これらはまだ熟成中です(笑)
「永遠の不服従のために」は、写真がまたいいのよ。
今年の大きな収穫は”辺見庸”という書き手に出会えたことである。
これは取りも直さず、僕のブログにも頻繁に登場するwarmgun氏の影響である。
「ブログを突き動かす激しい怒りと絶望。それでもなお変革への志向と青春の力が漲っている」
友人の鏡響子さんは、warmgun氏をこのように語った。
僕はオフ会の席上で氏と出会い様々な会話を交わしたが、全くをもってその通りだと思う。そしてそんなwarmgun氏に少なからず影響を与えたのが本書であると僕は確信している。
国家とは何か?その国家の生み出す詭弁とは何か?そして、そのような現代社会に生きる我々の立ち位置とは何か?
淀むことなく、本当の意味での市民(=ピープル)として、強大な「何か」に立ち向かうエナジーを喚起し、さらに、それ以上に沈思させる書である。
高らかに宣言しようではないか。
「我々は立ち向かう」
「我々は何ものにも属さない」
この国にも辺見庸のような書き手は、まだいるのだ。
これを機に「抵抗論」「単独発言」「反定義」「自動起床装置」「もの食う人々」「眼の探求」といった辺見庸の作品を買い揃えたことは言うまでもない。
※これらはまだ熟成中です(笑)
「永遠の不服従のために」は、写真がまたいいのよ。
■第2位 板坂元 「考える技術・書く技術」 「続 考える技術・書く技術」
古典的名作ですね。
世の中に”文章の書き方”なる本は、それこそ溢れている最中に、未だこの書は第一線級として君臨していると僕は考える。最近は表紙をリニューアルして版を重ねているというから凄い。ちなみにこの書の初版は昭和48年である。ということは、年がバレるが、僕は6歳のガキであった。
確かに現代では通用しないような古い方法論もあちらこちらに散見してはいるが、それでもなおこの書が精彩を失っていないのは、つまり「書くこと」「考えること」の本質を突いているからに他ならない。そして、この本質こそが、巷に溢れる”文章の書き方ハウ・ツー本”と一線を画している一つの理由でもあるわけだ。
物を書く、ということは単に文字を書くことではない。それは自身の頭を如何に活性化させ、それを一つの論点、大きく言えば物語として紙面にフィードバックさせられるかに尽きる。そのためには頭の整理が重要な鍵となり、そして頭を整理するということは情報を整理することを意味する。これがある程度実現できれば、おのずと文章は立ち上がる。
この本の影響もあり、僕はアイディアをカードに整理したみたり、それにさらに発展させ独自のメモスタイルや、手帳のオリジナルな形式を完成させることができた。
多少大げさに言えば、ブロガーである僕を”僕なり”に確立させたのがこの書であるというわけだ。
一人のブロガーを自認するのであれば、ぜひとも読んでおきたい書である。
古典的名作ですね。
世の中に”文章の書き方”なる本は、それこそ溢れている最中に、未だこの書は第一線級として君臨していると僕は考える。最近は表紙をリニューアルして版を重ねているというから凄い。ちなみにこの書の初版は昭和48年である。ということは、年がバレるが、僕は6歳のガキであった。
確かに現代では通用しないような古い方法論もあちらこちらに散見してはいるが、それでもなおこの書が精彩を失っていないのは、つまり「書くこと」「考えること」の本質を突いているからに他ならない。そして、この本質こそが、巷に溢れる”文章の書き方ハウ・ツー本”と一線を画している一つの理由でもあるわけだ。
物を書く、ということは単に文字を書くことではない。それは自身の頭を如何に活性化させ、それを一つの論点、大きく言えば物語として紙面にフィードバックさせられるかに尽きる。そのためには頭の整理が重要な鍵となり、そして頭を整理するということは情報を整理することを意味する。これがある程度実現できれば、おのずと文章は立ち上がる。
この本の影響もあり、僕はアイディアをカードに整理したみたり、それにさらに発展させ独自のメモスタイルや、手帳のオリジナルな形式を完成させることができた。
多少大げさに言えば、ブロガーである僕を”僕なり”に確立させたのがこの書であるというわけだ。
一人のブロガーを自認するのであれば、ぜひとも読んでおきたい書である。
■第1位 丸山健二 「争いの樹の下で (上下)」
今年はあまり小説を読まなかった。
正確に言えば、あまり身のある小説は読まなかった、ということになる。
実は、最近売れている小説とはいったい何ぞや?というテーマのもとに年代を遡って”吉本ばなな”や”片山恭一”や”田口ランディ”、そして最近の”綿矢りさ”までをも読んでみたのだが、全ては徒労に終わってしまった。
そのような絶望を嘲笑するかのように、丸山健二は、やはり「丸山健二」であった。
軽くフワフワした、そして生ぬるく、虚ろな小説がひしめく中で、
”丸山健二”ほどの書き手が、他にいるだろうか?
今年はあまり小説を読まなかった。
正確に言えば、あまり身のある小説は読まなかった、ということになる。
実は、最近売れている小説とはいったい何ぞや?というテーマのもとに年代を遡って”吉本ばなな”や”片山恭一”や”田口ランディ”、そして最近の”綿矢りさ”までをも読んでみたのだが、全ては徒労に終わってしまった。
そのような絶望を嘲笑するかのように、丸山健二は、やはり「丸山健二」であった。
軽くフワフワした、そして生ぬるく、虚ろな小説がひしめく中で、
”丸山健二”ほどの書き手が、他にいるだろうか?
彼の文体は明快である。
ソリッドでかつスパルタン。有無を言わさず彼の世界に引きずり込む、いわば暴力的とも言える語り口である。この文学的ハードボイルドとも言える文体は、彼の作品において一貫しているものであるが、作品一つひとつのモチーフ、形式、そして物語性において彼は一人の挑戦者、求道者とも言える活動を展開している。
つまり、昨日評判が良かった作品であっても、彼は同じような作品を明日は決して書かない、ということだ。常に、小説、文学の可能性を彼は追求する。よって彼の作品に亜流は決して存在しない。
この辺がエロ小説まがいの作品を、パラメータのみを変化させて量産する”渡辺淳一”なる鈍感作家とは決定的に異なるところだ。
よって、彼は文壇とは一線を引き、作品は常に「書き下ろし」で勝負する。今、この手法で成功しているのは村上春樹だけだと思うが、いかんせん丸山健二の場合読み手を選ぶ傾向にあり、必ずしもセールスに結びつかないところが今後彼の作家活動を支える上での、私個人的な心配事でもある。絶版が多いのも彼の特徴だからである。
さて、この「争いの樹の下で」である。
樹齢千年にもおよぶ「争いの樹」の下で、首吊り女が一人の男子を産み落とす。もはや親もなく名もない男子、「おまえ」の未来を、この樹はまるで何者かに取り付かれたように垣間見る。物語は木偶と化した母親と未だへその緒で繋がっている「おまえ」の、これから起るであろう人生を語ることで進行する。
あざとい女の積もる恨みが鬱然たるこの森に満ち満ちている。
そしてそれは、ときには激しい身悶えとなり、またときには仰々しい歔欷となって、なまめかしい処女林を、真夏の底無しの夜を、滔々たる天の川を震わせている。
生よりも死が望ましいとする、あまりパッとしない存在の、それでいて思いのほか多情かもしれぬ、いびつな心の持ち主・・・彼女はすでに漆黒の闇を相手に切々と吐露する真情の種が尽きてしまっているのだ。だから、あとは決めた通りの手順に従ってさっさと死ぬしかない。
斬新である。
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2007/12/05のBlog
[ 01:15 ]
[ ケータイを持ったサル ]
つくづく粘着気質の私である。とにかく”ネチッコイ”のだ。
こんな男に付き合わされる女や友人は大変だ。だから私は嫁とも仲が悪いし、友人もいないのだろうか?(笑)
人間、やはりあっさり系が良いのかな。顔も”ショーユ顔”がいい?
まあ、それはさておき、warmgun氏のコメントに応じるべく、さらに「ケータイを持ったサル」について、私の愚論を展開したいと思う(がしかし、決して深化してゆないのは何とも悲しい限りである。もう少し進化したいものである・・・)
《不破君、苦言をひとつ(笑)
この朝日”論説顧問”の文章の全文引用は、君のこの文章に対する”全面共感”を意味するのでしょうか?
ぼくはこの文章を紙面で見たとき読まなかった。
君の下記ブログで前半が引用されたのを読んで、昨夜全文を読んだ。
ぼくはここに書かれている内容にとくに反対することはない。
けれどもこの文章の”文体”の感性が嫌いである。
というか、ぼくたちは、この程度の認識の先に行くべきだ。
君は疲れている(爆)》
~warmgun氏~
そう、確かに私は今、疲れているかもしれない。そんな残業疲れがこのような記事を引用するにたらしめたのでしょうか?
今回『「接続狂」の時代 ~つながり薄れつながりにはまる~ 高橋郁男(論説顧問)』を取り上げるにあたり、その前半部分を詠む限りにおいて、私の記事とシンクロする部分もあり、ある種の共感をも感じつつ引用した経緯がある。
しかし、後半に進むにつれ共感しがたい、ある強烈な違和感が私の中に沸き起こってくるではないか。
それは例えばこんな文章に、
《この「個立」の時代に到るには、今を生きる世代や社会もまた、時流や集団に流されない「個」を尊重する方向を目指す必要がある。不可能に近い難問だが、100年の未来への希望としては、持ち続けたい。》
なにこれ?
100年の未来への希望って何?あなたはノストラダムスか?ガリレオか?
ケータイのいったい何に、100年の希望を持ち続けるのが全く分からない。この100年先への希望として持ち続けるとは、結局のところ、記事に行き詰まったジャーナリストの逃げ口上ではないのか。
しかもこのセリフはなんだかどこかで聞いたことがあるぞ。そうだ、それは朝日新聞の社説だ。毎週月曜日に展開されている「希望社会への提言」とやらの、朝日お得意の優等生的、理想主義的の”大風呂敷社説”のノリ、そのものではないか!
ははーん、これでなんだが謎が解けたような気がする。つまりは、あのような壮大なる社説は高橋郁男氏のような論説顧問が書いていたわけね。
次にこれ。
《晩秋。都会にあっても、木々の葉は精いっぱい色づき、大地への舞を見せている。人恋しい時節だ。
秋深き隣は何をする人ぞ》
なんでここで詩情的な展開になるん?ケータイと芭蕉の関連性もこれまた分からん。さては今流行りのケータイ小説の短いフレーズと、俳句を重ね合わせたいのか?いや、まさか!
このように、後半から展開される朝日新聞独自とも言える「大風呂敷」的な場をわきまえない、空気を読めない三文文士的な記事の構成に、並々ならぬ違和感を感じた次第である。これは取りも直さず朝日特有の「ぬるま湯感」といったものである。私は朝日新聞を購読しつつも、このぬるま湯感がどうも気に入らない。
いったいなぜ、朝日新聞の書き手はこうもぬるま湯、つまり「ゆで蛙」なのだろうか?
<なぜか続いてしまう・・・>
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2007/11/30のBlog
[ 00:50 ]
[ ケータイを持ったサル ]
■2007年11月26日 朝日新聞 月曜コラム・時の肖像より
「接続狂」の時代
~つながり薄れつながりにはまる~
高橋郁男(論説顧問)
<続き>
古来、様々なメディアが人と人、人と社会をつないできた。人の声から物音や煙、光、絵、文字、手紙、活字などを経て、電話、ラジオ、テレビ、電子メディアに到った。孤立せずに何かとつながっていたいという願いは、時代を問わないだろう。
約100年前のドイツの哲学者で社会学者だったゲオルク・ジンメルに「橋と扉」という一文がある。
岸と岸を結びつける橋に対して、扉の方は、いったん閉じられると、かなたにあるものすべてに強い遮断感を与える、と述べた。
ジンメル研究者の菅野仁さんは、こう解釈する。「橋と扉」の「橋」とは、人間が<いま・ここ>の場所を越えてほかの空間や人々と<つながりたい>という欲望を最も素直に表現している<媒体>だ・・・「扉」の方はもっと複雑で、小屋を作って(つまり壁を作って)内と外を区別し自分の空間を確保した人間が、おそるおそる外的世界へと一歩踏み出すために開かれる可能性のある境界、これが「扉」なのだ、と。
人は、つながりを求めて橋を架ける。現実の世界では、橋を架けるのは一苦労だが、ネットの世界の橋は、いつでも幾つでもどこにでも簡単に架けられると思われがちだ。
「ヤマアラシのジレンマ」という寓話がある。寒い日、ヤマアラシ同士がくっついて温め合おうとするが、互いの体の鋭い棘が邪魔することを思い知らされる。生身の相手との間合いの取り方は、人間社会でも難しい。しかし、扉が閉ざされて生身の世界とのつながりが薄れ、人が電子信号によるつながりの方にのみ傾いてゆく姿は、やはり異様だ。
「接続狂」を「接続楽」に変えるには、個々人が時流に流されず、自立することが肝要だ。孤立ではなく、「個立」することだ。
この「個立」の時代に到るには、今を生きる世代や社会もまた、時流や集団に流されない「個」を尊重する方向を目指す必要がある。不可能に近い難問だが、100年の未来への希望としては、持ち続けたい。
晩秋。都会にあっても、木々の葉は精いっぱい色づき、大地への舞を見せている。人恋しい時節だ。
秋深き隣は何をする人ぞ
時を越えた、この芭蕉の味は味として、今は、隣は何をする人かも分からないままに隣り合って暮らしている。何をする人かは知らなくとも、ケータイ・パソコンする人ぞ、と言えば、外れることは少ないだろう。うそ寒さと、こっけい味が、ないまぜになった時世だ。
〔引用・参考図書〕
□小此木啓吾 「『ケータイ・ネット人間』の精神分析」 飛鳥新社/のちに朝日文庫
□柳田邦男 「壊れる日本人」 新潮文庫
□「ジンメル・コレクション」 ちくま学芸文庫
□菅野仁 「ジンメル・つながりの哲学」 NHKブックス
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「接続狂」の時代
~つながり薄れつながりにはまる~
高橋郁男(論説顧問)
<続き>
古来、様々なメディアが人と人、人と社会をつないできた。人の声から物音や煙、光、絵、文字、手紙、活字などを経て、電話、ラジオ、テレビ、電子メディアに到った。孤立せずに何かとつながっていたいという願いは、時代を問わないだろう。
約100年前のドイツの哲学者で社会学者だったゲオルク・ジンメルに「橋と扉」という一文がある。
岸と岸を結びつける橋に対して、扉の方は、いったん閉じられると、かなたにあるものすべてに強い遮断感を与える、と述べた。
ジンメル研究者の菅野仁さんは、こう解釈する。「橋と扉」の「橋」とは、人間が<いま・ここ>の場所を越えてほかの空間や人々と<つながりたい>という欲望を最も素直に表現している<媒体>だ・・・「扉」の方はもっと複雑で、小屋を作って(つまり壁を作って)内と外を区別し自分の空間を確保した人間が、おそるおそる外的世界へと一歩踏み出すために開かれる可能性のある境界、これが「扉」なのだ、と。
人は、つながりを求めて橋を架ける。現実の世界では、橋を架けるのは一苦労だが、ネットの世界の橋は、いつでも幾つでもどこにでも簡単に架けられると思われがちだ。
「ヤマアラシのジレンマ」という寓話がある。寒い日、ヤマアラシ同士がくっついて温め合おうとするが、互いの体の鋭い棘が邪魔することを思い知らされる。生身の相手との間合いの取り方は、人間社会でも難しい。しかし、扉が閉ざされて生身の世界とのつながりが薄れ、人が電子信号によるつながりの方にのみ傾いてゆく姿は、やはり異様だ。
「接続狂」を「接続楽」に変えるには、個々人が時流に流されず、自立することが肝要だ。孤立ではなく、「個立」することだ。
この「個立」の時代に到るには、今を生きる世代や社会もまた、時流や集団に流されない「個」を尊重する方向を目指す必要がある。不可能に近い難問だが、100年の未来への希望としては、持ち続けたい。
晩秋。都会にあっても、木々の葉は精いっぱい色づき、大地への舞を見せている。人恋しい時節だ。
秋深き隣は何をする人ぞ
時を越えた、この芭蕉の味は味として、今は、隣は何をする人かも分からないままに隣り合って暮らしている。何をする人かは知らなくとも、ケータイ・パソコンする人ぞ、と言えば、外れることは少ないだろう。うそ寒さと、こっけい味が、ないまぜになった時世だ。
〔引用・参考図書〕
□小此木啓吾 「『ケータイ・ネット人間』の精神分析」 飛鳥新社/のちに朝日文庫
□柳田邦男 「壊れる日本人」 新潮文庫
□「ジンメル・コレクション」 ちくま学芸文庫
□菅野仁 「ジンメル・つながりの哲学」 NHKブックス
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2007/11/29のBlog
[ 00:58 ]
[ ケータイを持ったサル ]
■2007年11月26日 朝日新聞 月曜コラム・時の肖像より
「接続狂」の時代
~つながり薄れつながりにはまる~ 高橋郁男(論説顧問)
ある昼下がり、すいた電車の車両には十数人が座っていた。真向かいの人は目をつむり、その右の人は本を読んでいる。
視線を車内で一周させてみた。何かを読む人がふたり、イヤホンで聞く人が3人、目をつむるのが3人、外を眺めているのがふたりだった。
携帯電話と向き合っている人が、ひとりも居ない。日頃は、この電子の小窓と対面する乗客に四方を囲まれることも珍しくない。いつにない異様な光景かと見回していると、次の駅で乗った男性が背広の内ポケットから取り出して画面を見始めた。
こうして車内の携帯ゼロの状態は3分ほどで終わってしまったが、その状態が異様と見えることこそが異様かと思われた。
携帯電話にしろパソコンにしろ、つながる手だてがある以上は常につながっていないと落ち着かないという気分が、今の世の中にはある。常につながっているのが当たり前で、つながりが悪いのは不行き届きで時代遅れ、といった風潮もあるようだ。ケータイやインターネットという電子の糸で常につながれ、時にはそれにむち打たれる。
「黄金狂」「殺人狂」といったチャップリン映画の邦題にならえば、時は「接続狂」かも知れない。
精神医学者だった故・小此木啓吾さんは、「ケータイ・ネット依存症」を警告していた。インターネットの魅力として、「匿名で別人格になれる」や「自分の気持ちを純粋に相手に伝えられる」をあげて、はまり込むと依存症に陥ると述べた。
生まれた時から携帯やインターネットに囲まれた世代と次の世代が、いずれは世の中の主体になってゆく。ネットや携帯電話の便利さ、使い道の広さは十分認めつつも、やや空恐ろしい思いにかられる。
作家の柳田邦男さんは、家族や友人同士で、週に1回は「ノーケータイデー」を設けることを提案してきた。会社の仕事などで必要なケータイは対象とせず、緊急の時に備えて携帯はする。
柳田さんは週1回の「ノーインターネットデー」も提案するが、ケータイやネットをすべてこの世から消せということではないという。「人間が人間らしくゆったりと生き、とりわけ子供の発達を壊さないために、電子メディアに振りまわされずに、それらのいい面を生かす暮らし方をしようと言っているのだ」
<続く>
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「接続狂」の時代
~つながり薄れつながりにはまる~ 高橋郁男(論説顧問)
ある昼下がり、すいた電車の車両には十数人が座っていた。真向かいの人は目をつむり、その右の人は本を読んでいる。
視線を車内で一周させてみた。何かを読む人がふたり、イヤホンで聞く人が3人、目をつむるのが3人、外を眺めているのがふたりだった。
携帯電話と向き合っている人が、ひとりも居ない。日頃は、この電子の小窓と対面する乗客に四方を囲まれることも珍しくない。いつにない異様な光景かと見回していると、次の駅で乗った男性が背広の内ポケットから取り出して画面を見始めた。
こうして車内の携帯ゼロの状態は3分ほどで終わってしまったが、その状態が異様と見えることこそが異様かと思われた。
携帯電話にしろパソコンにしろ、つながる手だてがある以上は常につながっていないと落ち着かないという気分が、今の世の中にはある。常につながっているのが当たり前で、つながりが悪いのは不行き届きで時代遅れ、といった風潮もあるようだ。ケータイやインターネットという電子の糸で常につながれ、時にはそれにむち打たれる。
「黄金狂」「殺人狂」といったチャップリン映画の邦題にならえば、時は「接続狂」かも知れない。
精神医学者だった故・小此木啓吾さんは、「ケータイ・ネット依存症」を警告していた。インターネットの魅力として、「匿名で別人格になれる」や「自分の気持ちを純粋に相手に伝えられる」をあげて、はまり込むと依存症に陥ると述べた。
生まれた時から携帯やインターネットに囲まれた世代と次の世代が、いずれは世の中の主体になってゆく。ネットや携帯電話の便利さ、使い道の広さは十分認めつつも、やや空恐ろしい思いにかられる。
作家の柳田邦男さんは、家族や友人同士で、週に1回は「ノーケータイデー」を設けることを提案してきた。会社の仕事などで必要なケータイは対象とせず、緊急の時に備えて携帯はする。
柳田さんは週1回の「ノーインターネットデー」も提案するが、ケータイやネットをすべてこの世から消せということではないという。「人間が人間らしくゆったりと生き、とりわけ子供の発達を壊さないために、電子メディアに振りまわされずに、それらのいい面を生かす暮らし方をしようと言っているのだ」
<続く>
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2007/11/28のBlog
[ 00:47 ]
[ <Perspective> ]
異文化への広い心が持ち味である。
それを戦争体験から学んだのかと聞かれ、
「(影響は)受けていないと言った方がいい」
と答えたそうだ。
「そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。
そういう戦争が・・・」
~2007年11月26日 朝日新聞 天声人語より~
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2007/11/25のBlog
[ 22:28 ]
[ 現代日本の小説 ]
「不破さん、ケータイ小説は小説ではなくて「ケータイ小説」ですよ(笑)」
《現在の10代の素人投稿もの(なんだかHな響きですけどw)の小説のフォーマットは2000年代前半にケータイ小説を読む世代よりも一つか二つ上の世代が作りましたね。村上春樹の頃からそうだと思うんですけど、作家の年代と受けての年代は一回りくらい違いますよ。それで、00年代中盤以降はそのフォーマットを吸収した「受け手と同じ世代の書き手」が出てきたんだと思います。また受けての年代はかなり限定されていますが、携帯の所有率と情報に対する敏感さを考慮すると一度ドカンと受ければベストセラーになる可能性は秘めてると思いますよ。ただ、個人的なことを言わせてもらうとそうした流れは一過性なものですから後世には残りませんね。歴史的には重要な作品になりえますけど。》
拙記事「ケータイを持ったサル」に対し、本日イギリスのサンシン君より上記コメントが寄せられた。正確な日時は2007年11月25日午前1時12分である。
そして、本日の朝日新聞朝刊・読書欄に、奇しくも興味深い書評が掲載されている。翻訳家・鴻巣友季子氏が記す書籍は、尾崎真理子著「現代日本の小説」である。ここにその書評全文を紹介しよう。
電子ツールで激変する文学
文芸記者による直接の現場取材とその実感に徹底して基づいた現代日本文学のガイドブックである。通史として読みごたえがある。著者によれば、ワープロや電子ツールのせいで、近年「作家の人格と活字の間には微妙な距離が生じ、文学は・・・悪意を汲み出すブラックボックスと化してきた」。
本書は、パソコン世代の村上春樹、吉本ばなな、俵万智がミリオンセラーを放ち日本文学が終わった1987年を分水嶺に、日本文学界を案内する。そうした中に、80年代には大江健三郎と中上健次が「同時代の作家たちに息をつくスペースを与え、模索する時間を作ってくれたのだ」といった、研究者らの生の証言を惜しみなくさらりと盛り込み、ベテラン記者としての凄みを感じさせる。
やがて、ワープロは「作者以外の何者かが創作を誘導する」という事態を招き、電子ツールは極端に若い「作家」を大量に生み出した。書き手の身体とディスプレーの間に広がる虚空から、この先どういう小説が生まれてくるのか。その精神は漱石の近代的自我からほど遠いものだと著者は締めくくる。新書サイズながら重い予言を秘めた一冊だ。
■第1章 一九八七年、終わりの始まり(「ばなな伝説」の始まり
「サラダ記念日」と三島賞の創設 ほか)
■第2章 村上春樹のグローバリゼーション(『ねじまき鳥クロニクル』の文学的成功
小島信夫による村上作品の解読 ほか)
■第3章 変容する創作のシステム(芥川賞の歴史上最大の"事件"
二十歳の金原ひとみ、綿矢りさの受賞 ほか)
■第4章 パソコンから生まれる新感覚(昭和の終わりと平成の始まり
手書き原稿とファックスの登場 ほか)
鴻巣氏の書評、及びサンシン君のコメントに目を通すとここに2つのキーワードが露出してくるのがよくわかる。一つはワープロに象徴される電子ツール、そしてもう一つは「村上春樹」である。
《現在の10代の素人投稿もの(なんだかHな響きですけどw)の小説のフォーマットは2000年代前半にケータイ小説を読む世代よりも一つか二つ上の世代が作りましたね。村上春樹の頃からそうだと思うんですけど、作家の年代と受けての年代は一回りくらい違いますよ。それで、00年代中盤以降はそのフォーマットを吸収した「受け手と同じ世代の書き手」が出てきたんだと思います。また受けての年代はかなり限定されていますが、携帯の所有率と情報に対する敏感さを考慮すると一度ドカンと受ければベストセラーになる可能性は秘めてると思いますよ。ただ、個人的なことを言わせてもらうとそうした流れは一過性なものですから後世には残りませんね。歴史的には重要な作品になりえますけど。》
拙記事「ケータイを持ったサル」に対し、本日イギリスのサンシン君より上記コメントが寄せられた。正確な日時は2007年11月25日午前1時12分である。
そして、本日の朝日新聞朝刊・読書欄に、奇しくも興味深い書評が掲載されている。翻訳家・鴻巣友季子氏が記す書籍は、尾崎真理子著「現代日本の小説」である。ここにその書評全文を紹介しよう。
電子ツールで激変する文学
文芸記者による直接の現場取材とその実感に徹底して基づいた現代日本文学のガイドブックである。通史として読みごたえがある。著者によれば、ワープロや電子ツールのせいで、近年「作家の人格と活字の間には微妙な距離が生じ、文学は・・・悪意を汲み出すブラックボックスと化してきた」。
本書は、パソコン世代の村上春樹、吉本ばなな、俵万智がミリオンセラーを放ち日本文学が終わった1987年を分水嶺に、日本文学界を案内する。そうした中に、80年代には大江健三郎と中上健次が「同時代の作家たちに息をつくスペースを与え、模索する時間を作ってくれたのだ」といった、研究者らの生の証言を惜しみなくさらりと盛り込み、ベテラン記者としての凄みを感じさせる。
やがて、ワープロは「作者以外の何者かが創作を誘導する」という事態を招き、電子ツールは極端に若い「作家」を大量に生み出した。書き手の身体とディスプレーの間に広がる虚空から、この先どういう小説が生まれてくるのか。その精神は漱石の近代的自我からほど遠いものだと著者は締めくくる。新書サイズながら重い予言を秘めた一冊だ。
■第1章 一九八七年、終わりの始まり(「ばなな伝説」の始まり
「サラダ記念日」と三島賞の創設 ほか)
■第2章 村上春樹のグローバリゼーション(『ねじまき鳥クロニクル』の文学的成功
小島信夫による村上作品の解読 ほか)
■第3章 変容する創作のシステム(芥川賞の歴史上最大の"事件"
二十歳の金原ひとみ、綿矢りさの受賞 ほか)
■第4章 パソコンから生まれる新感覚(昭和の終わりと平成の始まり
手書き原稿とファックスの登場 ほか)
鴻巣氏の書評、及びサンシン君のコメントに目を通すとここに2つのキーワードが露出してくるのがよくわかる。一つはワープロに象徴される電子ツール、そしてもう一つは「村上春樹」である。
電子ツールは本当に文学を変えるのか?
「ワープロってさ、確かに便利なんだけど、あれは作家の文体を変える場合があるのね。たとえばある単語を打ち込んで漢字変換しようとするでしょう。一発変換できればそれで良しなんだけど、もしできない場合、もういいやって感じで、変換しやすい別の類義語を当ててしまう時が、実際、あるんだよね」
これは作家・村上龍と音楽家・坂本龍一の対談でのひとコマである。村上氏によれば、確かにワープロといった電子ツールが、書き手の意図から多少違った文章を生み出してしまう危険性を示唆している。これは書評にもあるように「作家の人格と活字の間には微妙な距離が生じ・・・」に該当する事象であろう。
さらに、電子ツールに関しては布施英利氏も興味深い発言をしているので、ここに紹介してみる。
《ワープロやパソコンで文章を書くことは、それまでの手書きの文章とは「文章を書く」という風景が一変してしまっている。紙が電子のモニターになり、ペンがキーボードになった。
しかもその変化は、そのような外から見たときの姿の変化だけではない。指先と脳が絶妙のバランスで思考し、新しい文章が生みだされていく。
そこでは、かつての手書きのような、「かく」作業と書かれた文字が一対一で対応していない。手書きの場合は、書いた分だけがそこに残る。しかしワープロでは略号を入れれば、文章が現れ、また一瞬にして消えて、そのスペースを後の文章が詰めたりする。ワープロでは「うつ」作業と画面の文字が、一対多あるいは多対一になっている。そのような作業では、文章というものは「物質」ではなく、非物質の情報体になっている。
そこには「かく」という行為の、肉体的な痕跡が少ない。
現れては消えていく、夢まぼろしのようなものに感じられる。それが電子時代の新しい文章なのだ。これは「文章」の一つの革命でもある。かつて言文一致運動が叫ばれた。話し言葉と書き言葉を一致させようとしたわけだが、そこには文章とは別の日常の話し言葉が使われているという現実があった。そしていま、話し言葉とも別の、電子時代の新しい文が生まれつつある。
僕はそれを電脳的文章と呼んでいる。
かつて文語から口語へと代わったように、いま口語から電脳的文章が誕生しつつあるのだ。》
~布施英利 「電脳版 文章読本」~
布施氏によれば、かつて言文一致運動、つまり文語から口語へと移行する大きなムーヴメントがあったように、今、口語から新しい文章スタイルが生み出されつつあることになる。
ちなみにこの書籍が出版されたのは1995年9月。冒頭の書評にある、日本文学が終わったとされる1987年から8年後のことである。これは非常に絶妙なタイミングであるような気もするが、いかがだろう。この辺の事情も踏まえ、彼の言う”電脳的文章”を後追い的に検証するのも大変面白いと考える。
「村上春樹」「電子ツール」「電脳的文章」の関係性から”現代日本の小説”を少し考えてみたい。
<続く>
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「ワープロってさ、確かに便利なんだけど、あれは作家の文体を変える場合があるのね。たとえばある単語を打ち込んで漢字変換しようとするでしょう。一発変換できればそれで良しなんだけど、もしできない場合、もういいやって感じで、変換しやすい別の類義語を当ててしまう時が、実際、あるんだよね」
これは作家・村上龍と音楽家・坂本龍一の対談でのひとコマである。村上氏によれば、確かにワープロといった電子ツールが、書き手の意図から多少違った文章を生み出してしまう危険性を示唆している。これは書評にもあるように「作家の人格と活字の間には微妙な距離が生じ・・・」に該当する事象であろう。
さらに、電子ツールに関しては布施英利氏も興味深い発言をしているので、ここに紹介してみる。
《ワープロやパソコンで文章を書くことは、それまでの手書きの文章とは「文章を書く」という風景が一変してしまっている。紙が電子のモニターになり、ペンがキーボードになった。
しかもその変化は、そのような外から見たときの姿の変化だけではない。指先と脳が絶妙のバランスで思考し、新しい文章が生みだされていく。
そこでは、かつての手書きのような、「かく」作業と書かれた文字が一対一で対応していない。手書きの場合は、書いた分だけがそこに残る。しかしワープロでは略号を入れれば、文章が現れ、また一瞬にして消えて、そのスペースを後の文章が詰めたりする。ワープロでは「うつ」作業と画面の文字が、一対多あるいは多対一になっている。そのような作業では、文章というものは「物質」ではなく、非物質の情報体になっている。
そこには「かく」という行為の、肉体的な痕跡が少ない。
現れては消えていく、夢まぼろしのようなものに感じられる。それが電子時代の新しい文章なのだ。これは「文章」の一つの革命でもある。かつて言文一致運動が叫ばれた。話し言葉と書き言葉を一致させようとしたわけだが、そこには文章とは別の日常の話し言葉が使われているという現実があった。そしていま、話し言葉とも別の、電子時代の新しい文が生まれつつある。
僕はそれを電脳的文章と呼んでいる。
かつて文語から口語へと代わったように、いま口語から電脳的文章が誕生しつつあるのだ。》
~布施英利 「電脳版 文章読本」~
布施氏によれば、かつて言文一致運動、つまり文語から口語へと移行する大きなムーヴメントがあったように、今、口語から新しい文章スタイルが生み出されつつあることになる。
ちなみにこの書籍が出版されたのは1995年9月。冒頭の書評にある、日本文学が終わったとされる1987年から8年後のことである。これは非常に絶妙なタイミングであるような気もするが、いかがだろう。この辺の事情も踏まえ、彼の言う”電脳的文章”を後追い的に検証するのも大変面白いと考える。
「村上春樹」「電子ツール」「電脳的文章」の関係性から”現代日本の小説”を少し考えてみたい。
<続く>
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2007/11/24のBlog
[ 19:29 ]
[ 【政治問題】 ]
先日、拙ブログに寄せられた”HARUHIKO氏”のコメントを紹介する。
《今、私が気にしているのは、今週号(11/19発売)の東洋経済。それにしても経済雑誌が、こういう題材を取り上げるほど深刻な事態なのでしょうね。》
HARUHIKO氏が東洋経済のいかなる記事を気にかけているか、具体的な明示はなかったが、同誌の表紙・中刷りを見る限りにおいて、どうやら”石油”の世界的動向であることはすぐに察しがついた。
ところで、この”石油”に関しての世界的な情勢、各国の思惑。皆さんはどのようにお考えか?HARUHIKO氏は”東洋経済”誌がこのような記事を取り上げることに何らかの違和感をお持ちかもしれないが、私はこの石油問題こそ21世紀経済の根幹に関わる問題のような気がしてならないのだ。
* 【図解】石油は“戦略物資”か、それとも“商品”か
* 【図解】寡占化が進み、金属メジャーの「支配力」がますます増大
* 市場総点検 マネーが作った資源高
* 125ドルも視野、投機資金が演出した超原油高
* INTERVIEW│内藤正久/日本エネルギー経済研究所理事長
* 米国景気の減速とユーロ台頭でどうなる原油高とドル安
* INTERVIEW│エリック・ボーリング/トレーダー
* 投機と中国需要で銅は“異常”な高値に
* 投機資金が主導、金、プラチナの人気
* 原発ブームで激変、ウラン争奪戦で急騰
* 原油高で復権図る経産省、「日の丸油田」の時代錯誤
* 日本企業の資源高サバイバル
* 中国と資源メジャーの台頭で追い詰められる新日本製鉄
* 原油高で強さを増す住友化学、サウジ進出の賭け
* “爆発”する中東市場で産油国政府に密着するプラント会社
* 資源高に直撃されるニッポン自動車業界、そのコスト減大作戦
* カザフスタンでウラン権益押さえた東芝の原発戦略
* ニッポン製造業のアキレス腱、レアメタル途絶の脅威
* INTERVIEW│中村 崇/東北大学多元物質科学研究所 源変換・再生研究センター教授
* This week's data│ ウラン価格は 7年前の20倍に
「資源炎上」の電車の中刷り広告。
石油情勢を巡るもはや抜き差しならない状況を演出したいのだろう、非常にカッコいい。しかも上記に見るように総花的ではあるが、経済紙らしい読み応えのある記事が目白押しである。
ただ、週刊誌らしいトピックに溢れた東洋経済ではあるが、石油を巡る本質的な問題は別にある、というのが私の率直な感想である。
石油のを巡る本質的な問題。-それは「枯渇問題」と「アメリカの動向」に他ならないと私は考える。
素朴な疑問。石油って本当になくなるの?
石油枯渇論が叫ばれて久しい。確かに、石油とは地球という小さな星に存在する限りある資源であろう。これに対し頭ごなしに異論を唱えるつもりは毛頭ない。しかしだ、実際のところ、石油についての産出量、潜在的な埋蔵量については、もう少し立ち止まって検討する余地がありそうでもある。
石油に偏った文明社会を築き上げた人類は日々石油を消費し、もうしばらくすると石油は頭打ちになるというのは、確かに一理ある話である。よく耳にする石油枯渇論の多くは、あと4、50年もすれば石油はなくなってしまう、というものだ。
しかし、本当に石油はなくなってしまうのだろうか?
「石油枯渇論の One of Them」
現在エネルギーの主力となっている石油の今後の予測についてはいろいろな考え方があります。
1つの例を紹介します。図は、キャンベルという人が世界の石油生産を2050年まで推計した1つの予測例です。この予測より資源量は多いとの意見など、これが本当かどうか議論がありますが、石油の専門家の多くは21世紀中に現在の様な形の石油は生産のピークになると考えています。
ただし、オイルサンド、オイルシェールなど、現在あまり利用されてない形の石油資源(非在来資源)の利用(ただし、価格は高くなります)などで、石油資源の問題はあまり大きくないとの考えもあります。
石炭の可採年数が100年以上であるのに対して、石油、天然ガス、ウラン等のエネルギー資源の可採年数が数10年となっており、このままの利用を続けていれば21世紀中に資源が不足し、利用できなくなる可能性があるとの説もあります。ただし、資源開発努力により、もっと資源を入手できるとの説もあります。
石炭も資源量には余裕がありますが、地球温暖化の問題があり、適切な利用を考えなければいけません。
石油、天然ガスは埋蔵地域に偏りがあり、これらを輸入に頼る日本にとっては不利な条件となっています。
~?を!にするエネルギー講座「石油資源の枯渇(2006.06.15)」~
「石油まだまだ論の One of Them」
基本的には、悲観論者たちの主張では、地中には固定量の原油しかなくて、人類はそのすべてをすでに見つけ尽くした、ということになる。イギリスのシンクタンクである原油枯渇分析センターのジム・メイヤーによると、「発見は明らかに1960年代にピークを迎えた。もうこれ以上北海油田は見つからない」とのことだ。かれによれば、年間原油消費量は1980年代以来、新発見を上回っており、世界が「発見済み」の原油ストックを食い尽くしつつあり、主要産油国 18ヶ国(現在世界総生産の3割を占める)はすでにピークを過ぎている。
石油会社が一世紀以上にわたって(南極以外の)全世界をつつきまわしてきたことを考えれば、サウジアラビアのガワールのような日産500万バレルの「超巨大」油田はあり得ない、と悲観論は続ける。キャンベル氏は、こうした問題の見方をきれいにまとめている:
「枯渇を理解するのは簡単だ。アイリッシュ・パブを考えてほしい。ビールのジョッキは満杯から始まって、空っぽで終わる。閉店時間までに飲めるジョッキの数は限られている。原油もおなじことだ。ジョッキを空けられる前に、バーを見つけなくてはならないのだ。」
だがこの議論は理念的にも現実的なレベルでも間違っている。コンサルタント会社 EnergySEER のマイケル・リンチによれば、理念的な問題は掘削可能な原油資源の量を固定したもの――つまりジョッキの中のビールのようなもの――と見ていることだ。実際には世界がすさまじい勢いで原油を消費し続けているにもかかわらず、最終的に掘削可能な原油量の専門家推計は、過去数十年にわたってどんどん増え続けている。
原油確認埋蔵量は過去20年にわたり増え続ける一方である。
ロッテルダムのエラスムス大学のピーター・オデルは、「1971 年以来、確認埋蔵量は 1.5 兆バレルも増えています。同じ 35 年間で消費された原油量は、0.8 兆バレルにすぎません。ですから世界の原油は枯渇しているどころか、あふれているとさえ言えるわけです」と述べる。
なぜ推計埋蔵量が増えるかと言えば、それは絶え間ない経済と技術革新の組み合わせだ。IEAはこのプロセスを以下のように説明する:「埋蔵量は絶えず、新発見や価格変動、技術進歩にあわせて改訂されます。こうした改訂はすべて埋蔵量を増やす方向に動きます」
数十年前には、油田からの平均回収率は 20 パーセントだった。めざましい技術進歩のおかげで、これが今日では 35 パーセントに上がっている。だがこの改善にもかかわらず、油田にあることがわかっている原油の三分の二は、不経済だとして放棄されている。将来の発見や技術革新があれば、世界的なハバードのピークは魔法のようにさらに先に押しやられるだろう。評論家たちは、イギリスの北海油田は 1990 年までには生産のピークを迎えると予想した。実際には、ピークを迎えたのはやっと最近になってのことだった。
世界中のこうした事例が積み重なって、世界的なハバードのピークがそろそろやってくるというキャンベルの予想ははずれ、そんなことはまったく起きていない。それどころか、伝説のハバードですらかなり外している。アメリカでの生産量に関するかれの予測は、メキシコ湾海底にあった大量の原油を見落としていた。これは批判として不公平に思えるかもしれない。ハバードは、過去 10 年で発達した海底掘削技術の大進歩について、知りようがなかったからだ。だが、それこそまさにここで指摘したいことだ。今日の評論家たちには、明日のイノベーションは予想できないのだ。
~底なしのビールジョッキ------世界の原油が枯渇しそうにない理由
(The Economist Vol 375, No. 8424 (2005/04/30), "A Survey for Oil" 所収の "The Bottomless Beermug," pp. 13-15) ~
基本的には、悲観論者たちの主張では、地中には固定量の原油しかなくて、人類はそのすべてをすでに見つけ尽くした、ということになる。イギリスのシンクタンクである原油枯渇分析センターのジム・メイヤーによると、「発見は明らかに1960年代にピークを迎えた。もうこれ以上北海油田は見つからない」とのことだ。かれによれば、年間原油消費量は1980年代以来、新発見を上回っており、世界が「発見済み」の原油ストックを食い尽くしつつあり、主要産油国 18ヶ国(現在世界総生産の3割を占める)はすでにピークを過ぎている。
石油会社が一世紀以上にわたって(南極以外の)全世界をつつきまわしてきたことを考えれば、サウジアラビアのガワールのような日産500万バレルの「超巨大」油田はあり得ない、と悲観論は続ける。キャンベル氏は、こうした問題の見方をきれいにまとめている:
「枯渇を理解するのは簡単だ。アイリッシュ・パブを考えてほしい。ビールのジョッキは満杯から始まって、空っぽで終わる。閉店時間までに飲めるジョッキの数は限られている。原油もおなじことだ。ジョッキを空けられる前に、バーを見つけなくてはならないのだ。」
だがこの議論は理念的にも現実的なレベルでも間違っている。コンサルタント会社 EnergySEER のマイケル・リンチによれば、理念的な問題は掘削可能な原油資源の量を固定したもの――つまりジョッキの中のビールのようなもの――と見ていることだ。実際には世界がすさまじい勢いで原油を消費し続けているにもかかわらず、最終的に掘削可能な原油量の専門家推計は、過去数十年にわたってどんどん増え続けている。
原油確認埋蔵量は過去20年にわたり増え続ける一方である。
ロッテルダムのエラスムス大学のピーター・オデルは、「1971 年以来、確認埋蔵量は 1.5 兆バレルも増えています。同じ 35 年間で消費された原油量は、0.8 兆バレルにすぎません。ですから世界の原油は枯渇しているどころか、あふれているとさえ言えるわけです」と述べる。
なぜ推計埋蔵量が増えるかと言えば、それは絶え間ない経済と技術革新の組み合わせだ。IEAはこのプロセスを以下のように説明する:「埋蔵量は絶えず、新発見や価格変動、技術進歩にあわせて改訂されます。こうした改訂はすべて埋蔵量を増やす方向に動きます」
数十年前には、油田からの平均回収率は 20 パーセントだった。めざましい技術進歩のおかげで、これが今日では 35 パーセントに上がっている。だがこの改善にもかかわらず、油田にあることがわかっている原油の三分の二は、不経済だとして放棄されている。将来の発見や技術革新があれば、世界的なハバードのピークは魔法のようにさらに先に押しやられるだろう。評論家たちは、イギリスの北海油田は 1990 年までには生産のピークを迎えると予想した。実際には、ピークを迎えたのはやっと最近になってのことだった。
世界中のこうした事例が積み重なって、世界的なハバードのピークがそろそろやってくるというキャンベルの予想ははずれ、そんなことはまったく起きていない。それどころか、伝説のハバードですらかなり外している。アメリカでの生産量に関するかれの予測は、メキシコ湾海底にあった大量の原油を見落としていた。これは批判として不公平に思えるかもしれない。ハバードは、過去 10 年で発達した海底掘削技術の大進歩について、知りようがなかったからだ。だが、それこそまさにここで指摘したいことだ。今日の評論家たちには、明日のイノベーションは予想できないのだ。
~底なしのビールジョッキ------世界の原油が枯渇しそうにない理由
(The Economist Vol 375, No. 8424 (2005/04/30), "A Survey for Oil" 所収の "The Bottomless Beermug," pp. 13-15) ~
たとえばここで「ダイヤモンド」について考えてみよう。
皆さんはあまり意識していないかもしれないが、ダイヤモンドは世界企業”デビアス”社が採掘・流通・加工・卸売りの大部分を牛耳っている代物である。つまり、デビアス社がダイヤの価値を決定付け、「ダイヤモンドは永遠と愛の象徴」を担保しているというわけだ。これは取りも直さず、ダイヤはめったに採掘できない、希少価値のある鉱物ということが大前提になっているからだが、実際のところはどうなのか?
ところで、ダイヤってあまり転売しませんよね?金のように投資の対象といった印象はあまりないような気がする。それはダイヤが指輪やネックレスといった定型の商品に加工されている点と、ダイヤそのものがあまりにも硬質で金と違い、いったん加工したら戻せないといった点に尽きると思うが、それ以前にダイヤの持つイメージそのものが、転売や投資といった行動から人を遠ざけているとしか思えないふしもある。
それは前述したように、ダイヤモンドは「永遠の愛の輝き」であり、たとえその愛が破綻したにせよ、人は思い出の品というものを安易に売ったりはしないであろうからだ(まあ、例外的な人もいますが・・・)下手に転売されるとそれにつられ商品価値が下がるものだが、ダイヤに関してはそれが起きない。
要するに、ダイヤは一度手に入れたら、ずっと手元に置いておくもの、もしくは”海に捨てるもの”であるからだ。そのようなイメージを持つ人が、実は非常に多いと思われる。
そして、そのイメージを形作ることに成功したのが紛れもなく”デビアス社”なのである。
今やダイヤモンドは採掘のハイテク化と市場への流通量において、決して希少な鉱物ではなくなっているのは事実である。まあ、ダイヤなどはっきり言えばどこでも手に入る。銀座和光でも、新宿でも、青森八戸でも”高級ダイヤ”は買うことができる。
それでも尚、こうして高級品というイメージを維持しつつ、値崩れしないのは、言うまでもなくデビアス社の戦略に負うところ”大”なのだ。つまり、世の女性諸君は一企業の思惑にまんまと乗せられ、キラキラした”石ころ”を、高価な値段で買わされているというわけだ。
なぜ私がダイヤモンドの話を持ち出したかというと、これと同じようなことが石油の世界でも起きているだろうと考えているからだ。
石油が今すぐ枯渇してしまうか、もっと先まで安泰なのか、果てまた無尽蔵に存在しているものなのか、個人的に断言するのは難しいと思っている。しかし、敢えて言えば、当面供給量については問題がないぐらいに石油は存在しているとの”予感”は持っている。そういう意味では「石油まだまだ論」に多少傾いているとも言える。そして、「石油まだまだ論」を裏付ける一つの動きがある。アメリカの石油利権に絡む動向である。
アメリカの軍産複合体が南米をその手中に収めていることは、既に書いた。ブッシュ大統領が絡む石油企業などである。そして、それら軍産複合体が現在触手を伸ばしているのが、紛れもなく”イラク”なのである。イラク戦争が”テロとの戦い”と謳っているのはこれぞまやかしの典型であって、その実、軍産複合体の石油利権の獲得に他ならないのである。これについてはあまりにも多くのことが語られているので説明は割愛する。
ただ一つ言えることは、なぜアメリカはこうも石油にこだわるのか?ということである。仮に石油がこの先4、50年で頭打ちになるとしたらどうだろう。アメリカはこうも石油に執着しないのではないだろうか。アメリカとは実に欲張りな国だ。先が見えている資源にはこれほどまでに、つまり戦争を仕掛けてまでも固執はしないのだ。
ということは、答えは歴然である。つまり石油は我々の予想を遥かに超える程の埋蔵量があり、アメリカが戦争を仕掛けても十分にペイできる代物であるということなのだ。そう断言できる何らかの根拠を、既にアメリカは握っているのだろう。
●中国、インドといった石油需要国の増加。
●石油産出国の生産性の停滞。
●イラク戦争に象徴される中東情勢の悪化。
原油価格が急騰している昨今である。たとえばガソリン価格を見るまでもなく、なぜ原油価格は上がり続けるのか。メディアの報道を見る限り、主な原因は上記の3点に集約されるが、私個人的にはアメリカがいよいよ石油を牛耳り始めたのではないかと考えている。
石油はまだまだ見込みのある資源であると仮定する。そしてそれを握ったアメリカはどうするか?もちろん高値安定で石油を供給するに決まっているのだ。その場合、役に立つのが上記に示す3つのイメージだ。
本来ならば比較的安価に供給できる石油を、それは高価な代物だというイメージ戦力で世界中に売りつける。これで天文学的利益がアメリカの懐に入り、その利益で軍産複合体を維持し、第2、第3のイラクを探し回る。この恒久的な利益こそが現在のアメリカが最も望むものである。
このように考えると、石油資源はまだまだ枯渇するはずもなく、むしろ深刻なのはアメリカによって今後も操作されるであろう原油価格である。これによって世界経済が歪められることはほぼ間違いはないだろう。
”炎上”するのは経済なのである。
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2007/11/21のBlog
[ 00:42 ]
[ ケータイを持ったサル ]
~2007年11月18日。ある日曜日の風景である~
朝日新聞 声・主張 ~若い世代~
「携帯で強まる一家のきずな」
母が先月、携帯電話を購入した。父は5年前に買っていたので、これで家族4人全員が携帯を手にした。
父は昔から機関関係のことが好きなのもあり、携帯の様々な機能にもずいぶんと興味を示し、メール操作もひととおりできるようになった。
その父から教えられて、母は今特訓中である。ひとつひとつボタンを押しながら、作成したメールはいつもの小言と同じような内容だけれど、なんだか特別な力がこもっている気がする。最近はなにを言ってもロクな返事をしない妹から可愛らしい返事が返ってきたと母は喜ぶ。携帯が家族のきずなをさらに強めた感じがする。携帯電話の使い方を学ぶことはは家の中でもできるし、家族全員が講師役になれる。
母に、この投稿を携帯電話のメール機能で作成した言ったら、きっと驚くだろう。
そのうちに携帯電話をもっと使いこなせるようになって、気軽なコミュニケーションが取れるようになって欲しいと、私は今、母の上達を見守っている。
~大学生 今野 めぐみ (千葉市緑区 21歳)~
朝日新聞広告より
200万人が涙したケータイ小説!!
ますます話題沸騰!22万部突破!!
「Re: 涙雨 (上下)」 飛鳥 asuka 著
実体験を元にケータイから生まれた、切なくも愛しいラブストーリー・・・
魔法のiランド人気ランキング第1位作品!
「ずっと、ずっと、好きだったのに、ずいぶん遠回りしちゃったね。
これからは二人で幸せな道を歩んでいこう。」-本文より
TBSラジオ 「伊集院光 日曜日の秘密基地」
~今週の日曜ゼミナールは「本最新事情」、ゲスト講師は”カンニング竹山”さんです~
「東京タワー」とか「国家の品格」とか、最近は「ホームレス中学生」だっけ?
なんだか世間ではベストセラーが目白押しみたいに言ってるけど、実際はね、今本って売れていないのよ。ほんと全然売れてない。売れてるのはこういった一部の本だけなのよ。
そんでさ、本の代わりに最近HOTなのが「携帯小説」ってやつ。有名な「魔法のiランド」っていう携帯サイトには、今100万もの作品があるっていうから驚きじゃん!書いてるのは大体が素人の女子高生よ。
特にさ、その中からブレイクして書籍にもなった「天使がくれたもの」って作品の出版までのいきさつが凄いのね。これ、作者からの売り込みでなくて、読者からの推薦なのよ。
なんでもこれを読んだ読者がむちゃくちゃ感動して出版社に電話したらしい。しかも泣きじゃくりながら、いかに私はこの作品に感動したかを延々1時間も喋ってるもんだから、その鬼気迫る勢いにさすがの編集者もじゃあちょっと目を通してみるかと。そして実際読んでみたら「これはいい!」ってことになって、晴れて出版にこぎつけたという、俺なんかひねくれてるからさあ、こんな話聞くとマジかよ?「ほんとかよ?」って思うわけだ。
このサイトから出版されてるのは、今や20を越えるっていうから、いやはや時代も変わったよな?
NHK教育テレビ ETV特集
▽ケータイ小説を読む
▽若者が紡ぐ愛の物語
▽女子高生がベストセラー作家に
▽20代OLの実体験
日曜日に読んだ本
人間をボケさせるもっとも確実な方法は、一切の情報を与えないことです。
極端な例から言うと、一日中椅子に縛りつけて、壁だけ見させていたら、その人はどうなるでしょうか?おそらく一週間も経たないうちに、まともな思考力を失うと思います。
次に、同じ状況で、壁にテレビが設置されていたらどうでしょうか?テレビを見ていれば情報が入ってくるから問題ないと想像されるでしょうか?
テレビから情報は入ってきますが、それはあくまで平面に映し出された情報です。外に出て景色を見たり、花の匂いを嗅いだり、動物に触れたりしているときの質感が圧倒的に欠けています。もちろん、壁を見ているよりはいいですが、そういう状況に置かれていても、人はやはりボケてしまうものです。
現代人の脳を取り巻く環境の中で、10年前と今とでもっとも変ったことはなんでしょうか?いろいろあると思いますが,最大の一つは、「小さな平面を見ている時間が長くなった」ということだと思います。
ITの普及が人間の脳にもたらしている影響は、功罪両方の面があると私は考えていますが、この「小さな平面を見ている時間が長くなった」という一面に関しては、どう考えても良くないことです。最近、思考の働きが鈍くなった、人から話しかけられたときにパッと反応できないことが多くなった・・・などと感じている人は、まずこの影響を疑ってみる必要があるかもしれません。
~築山節 「脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める」~
朝日新聞 声・主張 ~若い世代~
「携帯で強まる一家のきずな」
母が先月、携帯電話を購入した。父は5年前に買っていたので、これで家族4人全員が携帯を手にした。
父は昔から機関関係のことが好きなのもあり、携帯の様々な機能にもずいぶんと興味を示し、メール操作もひととおりできるようになった。
その父から教えられて、母は今特訓中である。ひとつひとつボタンを押しながら、作成したメールはいつもの小言と同じような内容だけれど、なんだか特別な力がこもっている気がする。最近はなにを言ってもロクな返事をしない妹から可愛らしい返事が返ってきたと母は喜ぶ。携帯が家族のきずなをさらに強めた感じがする。携帯電話の使い方を学ぶことはは家の中でもできるし、家族全員が講師役になれる。
母に、この投稿を携帯電話のメール機能で作成した言ったら、きっと驚くだろう。
そのうちに携帯電話をもっと使いこなせるようになって、気軽なコミュニケーションが取れるようになって欲しいと、私は今、母の上達を見守っている。
~大学生 今野 めぐみ (千葉市緑区 21歳)~
朝日新聞広告より
200万人が涙したケータイ小説!!
ますます話題沸騰!22万部突破!!
「Re: 涙雨 (上下)」 飛鳥 asuka 著
実体験を元にケータイから生まれた、切なくも愛しいラブストーリー・・・
魔法のiランド人気ランキング第1位作品!
「ずっと、ずっと、好きだったのに、ずいぶん遠回りしちゃったね。
これからは二人で幸せな道を歩んでいこう。」-本文より
TBSラジオ 「伊集院光 日曜日の秘密基地」
~今週の日曜ゼミナールは「本最新事情」、ゲスト講師は”カンニング竹山”さんです~
「東京タワー」とか「国家の品格」とか、最近は「ホームレス中学生」だっけ?
なんだか世間ではベストセラーが目白押しみたいに言ってるけど、実際はね、今本って売れていないのよ。ほんと全然売れてない。売れてるのはこういった一部の本だけなのよ。
そんでさ、本の代わりに最近HOTなのが「携帯小説」ってやつ。有名な「魔法のiランド」っていう携帯サイトには、今100万もの作品があるっていうから驚きじゃん!書いてるのは大体が素人の女子高生よ。
特にさ、その中からブレイクして書籍にもなった「天使がくれたもの」って作品の出版までのいきさつが凄いのね。これ、作者からの売り込みでなくて、読者からの推薦なのよ。
なんでもこれを読んだ読者がむちゃくちゃ感動して出版社に電話したらしい。しかも泣きじゃくりながら、いかに私はこの作品に感動したかを延々1時間も喋ってるもんだから、その鬼気迫る勢いにさすがの編集者もじゃあちょっと目を通してみるかと。そして実際読んでみたら「これはいい!」ってことになって、晴れて出版にこぎつけたという、俺なんかひねくれてるからさあ、こんな話聞くとマジかよ?「ほんとかよ?」って思うわけだ。
このサイトから出版されてるのは、今や20を越えるっていうから、いやはや時代も変わったよな?
NHK教育テレビ ETV特集
▽ケータイ小説を読む
▽若者が紡ぐ愛の物語
▽女子高生がベストセラー作家に
▽20代OLの実体験
日曜日に読んだ本
人間をボケさせるもっとも確実な方法は、一切の情報を与えないことです。
極端な例から言うと、一日中椅子に縛りつけて、壁だけ見させていたら、その人はどうなるでしょうか?おそらく一週間も経たないうちに、まともな思考力を失うと思います。
次に、同じ状況で、壁にテレビが設置されていたらどうでしょうか?テレビを見ていれば情報が入ってくるから問題ないと想像されるでしょうか?
テレビから情報は入ってきますが、それはあくまで平面に映し出された情報です。外に出て景色を見たり、花の匂いを嗅いだり、動物に触れたりしているときの質感が圧倒的に欠けています。もちろん、壁を見ているよりはいいですが、そういう状況に置かれていても、人はやはりボケてしまうものです。
現代人の脳を取り巻く環境の中で、10年前と今とでもっとも変ったことはなんでしょうか?いろいろあると思いますが,最大の一つは、「小さな平面を見ている時間が長くなった」ということだと思います。
ITの普及が人間の脳にもたらしている影響は、功罪両方の面があると私は考えていますが、この「小さな平面を見ている時間が長くなった」という一面に関しては、どう考えても良くないことです。最近、思考の働きが鈍くなった、人から話しかけられたときにパッと反応できないことが多くなった・・・などと感じている人は、まずこの影響を疑ってみる必要があるかもしれません。
~築山節 「脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める」~
正高信男「ケータイを持ったサル 人間らしさの崩壊」 中公新書
おしゃべりによる集団の大型化
相手が視界から消え去ったときに、社会関係を維持するためにおしゃべりをし合うというのが、きわめて高度な社交術であるのはあらためて指摘するまでもないだろう。目下のところ動物ではヒヒとニホンザルの仲間だけで報告されている。しかも両者とも、時として数百頭という例外的に巨大な規模の群れを形成することが知られているが、それはこの社会性によってのみ可能となったと思われる。他の霊長類の群れは、大きくても50頭を超えることはない。対面して関係を維持するには、このあたりが限界なのだ。
ただし、彼らの出す音声そのものには、メッセージが含まれていない。仲間の所在を確認して、反応が聞こえなくなる事態を防いでいるにすぎない以上、やっていることは下等と言えば下等かもしれない。だが最近の日本人と比べてみたとき、あまり差がないように思えてならないのだ。
とりわけ若者がケータイでメールをやりとりするのと、そっくりだと思う。そもそもケータイを使いだすと、常に身につけていないとどうも不安な気分に陥るらしい。先ほどまで会っていた相手と離れるや、ただちに「元気?」とか、あえて伝える価値のない情報を交信している。しかしそんなことは、大昔からサルがやっていたことなのだ。ニホンザルも起きている間中、誰かとつながっていないと落ち着かないようである。
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おしゃべりによる集団の大型化
相手が視界から消え去ったときに、社会関係を維持するためにおしゃべりをし合うというのが、きわめて高度な社交術であるのはあらためて指摘するまでもないだろう。目下のところ動物ではヒヒとニホンザルの仲間だけで報告されている。しかも両者とも、時として数百頭という例外的に巨大な規模の群れを形成することが知られているが、それはこの社会性によってのみ可能となったと思われる。他の霊長類の群れは、大きくても50頭を超えることはない。対面して関係を維持するには、このあたりが限界なのだ。
ただし、彼らの出す音声そのものには、メッセージが含まれていない。仲間の所在を確認して、反応が聞こえなくなる事態を防いでいるにすぎない以上、やっていることは下等と言えば下等かもしれない。だが最近の日本人と比べてみたとき、あまり差がないように思えてならないのだ。
とりわけ若者がケータイでメールをやりとりするのと、そっくりだと思う。そもそもケータイを使いだすと、常に身につけていないとどうも不安な気分に陥るらしい。先ほどまで会っていた相手と離れるや、ただちに「元気?」とか、あえて伝える価値のない情報を交信している。しかしそんなことは、大昔からサルがやっていたことなのだ。ニホンザルも起きている間中、誰かとつながっていないと落ち着かないようである。
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2007/11/18のBlog
[ 16:03 ]
[ 【憲法問題】 ]
国連憲章第51条が認める集団的自衛権について、国際社会の足並みが必ずしも一致しているわけではなく、国際的に承認されているものではないことは既に述べた。
では、この国連が提唱する集団的自衛権とはどのような性質のもので、国際的にはどのように評価されているのだろうか。次に挙げる自衛権の3つの側面から考えてみたい。
1.間接侵略対処
間接的な武力侵略に対処することを目的とする武力行使。
ある国が他国の現地ゲリラを支援・扇動し、侵略行為を行うようなケース。
事例:
かつてイスラエル、南アフリカがその軍事行動の根拠を「間接侵略対処」にあると主張したことがある。しかし、アメリカを含めた安全保障理事会はその主張をしりぞけ、国連憲章違反との判断を下した。
2.在外自国民保護
在外自国民を保護するための武力行使。
外国にいる自国民の生命と財産を守るために武力を行使するケース。
事例:
1976年に起きたイスラエル機ハイジャック事件では多数のイスラエル人が人質となった。機体はウガンダ、エンテベ空港に着陸し、人質解放を訴えるイスラエルはウガンダに対し武力を行使した。
イスラエル、及びイスラエル支持のアメリカは今回の武力行使は在外自国民保護であり、当然自衛権行使を認められると主張。しかし、大多数はその主張を受け入れなかった。
3.予防的自衛
侵略を未然に防ぐための武力行使。
侵略が行われていない段階で、侵略を未然に防止するために武力を行使するケース。
事例:
1978年イスラエルはレバノンにあるパレスチナ難民キャンプを攻撃し、続いて1981年にはイラクの原子炉に対する攻撃を行った。
イスラエルはいずれの場合においても、攻撃は予防的自衛権の発動であることを主張、しかし安全保障理事会は1978年の攻撃は全理事国がこれを否定、1981年の攻撃についてもアメリカを除く理事国がこの主張を認めなかった。
このように、国連が認めるところの集団的自衛権は、必ずしも参加各国のコンセンサスが統一されているわけでもなく、また混沌とする国際情勢や大国の背後にある思惑を考慮すれば、その発動は極めてデリケートな判断が必要とされるのではないだろうか。
基本的に、国連憲章は「力による平和」の考えに基づいていると言われる。これはとりもなおさず、国連がアメリカによってつくられたという経緯に大きく依存し、また集団的自衛権は、アメリカが合法的に軍事行動をとれますようにと”免罪符”として考え出された概念に他ならないからだ。
こうしてみると、我々は世界の平和活動について、国連まかせにすることなど決してできないことがよく分かる。ましてや、国連の主張することはなんでも支持しなければならない、というのは全くのナンセンスな話だ。
日本は自国の考えに沿って国際社会に参画するべきではあろうが、仮にそれが意にそぐわない場合は高らかに「ノー」を言うべきなのだ。結果、テロの戦いから身を引くことや、インド洋沖の給油活動から撤退することになっても一向に差し支えないと私は考えている。そのために、つまり海外活動を考える上で我々が知らねばならない重要事項があるので取り上げてみたい。
海外派兵に根拠はあるのか?
シーン1:
「9.11をテレビで見たか?まったくテロはけしからん!」
「そうだね。あれでたくさんの人が犠牲者になった」
「我々も何か行動を起こすべきではないか?」
「うん、確かにそうだ」
「よし、では戦前のように軍備拡張し、
タリバンにそしてアルカイダ相手に戦争を仕掛けよう!」
「おいおい、それはちょっと・・・」
シーン2:
「9.11をテレビで見たか?まったくテロはけしからん!」
「そうだね。あれでたくさんの人が犠牲者になった」
「我々はこのまま平和を貪っていてよいのだろうか?」
「というのは?」
「多くのテロリストが世界中で暗躍し、罪もない市民までが命を奪われている。その中には幼い子供までもが含まれているんだ」
「うん、確かにここままではいけない。何か行動せねば」
「私はそんな市民を支援する上でも海外に派兵するべきと考えている。その時自衛隊は大きな力になると思うんだ」
「よし、分かった。私も君を支持しよう!」
アメリカを襲った9.11同時多発テロは未だ我々の記憶に生々しい影を落とすが、この事件を受けて日本が強行採決したのが「テロ対策特別措置法」である。この法案に際し、当時の小泉首相は次のような見解を示した。
シーン1:
「9.11をテレビで見たか?まったくテロはけしからん!」
「そうだね。あれでたくさんの人が犠牲者になった」
「我々も何か行動を起こすべきではないか?」
「うん、確かにそうだ」
「よし、では戦前のように軍備拡張し、
タリバンにそしてアルカイダ相手に戦争を仕掛けよう!」
「おいおい、それはちょっと・・・」
シーン2:
「9.11をテレビで見たか?まったくテロはけしからん!」
「そうだね。あれでたくさんの人が犠牲者になった」
「我々はこのまま平和を貪っていてよいのだろうか?」
「というのは?」
「多くのテロリストが世界中で暗躍し、罪もない市民までが命を奪われている。その中には幼い子供までもが含まれているんだ」
「うん、確かにここままではいけない。何か行動せねば」
「私はそんな市民を支援する上でも海外に派兵するべきと考えている。その時自衛隊は大きな力になると思うんだ」
「よし、分かった。私も君を支持しよう!」
アメリカを襲った9.11同時多発テロは未だ我々の記憶に生々しい影を落とすが、この事件を受けて日本が強行採決したのが「テロ対策特別措置法」である。この法案に際し、当時の小泉首相は次のような見解を示した。