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2008/04/06のBlog
[ 22:40 ]
[ 何が死刑を加速させるのか? ]
『俗物による、俗物のための”死刑廃止論”』と書くと、あたかも
辺見庸氏が”俗物”であるかのように誤解される方もいるだろう。
しかし、そうではない。
これは、俗物である”私”が「死刑廃止」という命題について、
辺見庸氏の講演会を通じ、俗物なりに考えてみた記事である。
【関連するブログ】
◇warmgun氏の記事 その一 その二
◇ツナミン氏の記事
上記2名の記事を読めば今回の講演会の本質のすべてが間違いなく理解できる。
とはいえ、もう少し俗な観点から言えばこの問題はつまりどうなか、という思いも頭をよぎったこともあり、死刑問題についてあまり詳しくない私が私なりの視点で”死刑廃止”という論点について書いてみたいと思うに到った次第である。
■事件の重大性と感情論
例えば、「世田谷一家殺人事件」については未だ犯人が特定されていないが、もし仮に犯人が逮捕され、裁判の結果”死刑”が言い渡されたとしても世の中の多くの人は「死刑もやむなし」と考えるに違いない。
また、「光市母子殺害事件」においては既に犯人が逮捕され、被害者の夫である本村洋氏が犯人を死刑とすべく長期に渡り法廷闘争を繰り広げている。この事件についても本村氏に共感する人は大変多いのではないかと思われる。
さらに、かつて大阪の小学校に押し入り、多くの小学生を殺害した宅間守については2003年9月26日に死刑が確定し、翌年年9月14日には異例の早さで死刑が執行されてもいる。その後、この件に関し批判があまり聞こえてこないのは、この事件の死刑執行が多くの人々の支持を背景にしているからではないかと想像できる。
このように、凶悪事件に対しそれに対する死刑を容認しているのが、すなわち「世間」であると辺見氏は指摘している。
死刑制度とは、ある意味我々の暗黙の了解の上に成り立つ制度でもある。このような暗黙の社会・国家に対する契約を、彼は「黙契」と呼んでいる。
ただ、死刑を考える上では当然の事として「黙契」では済まされない問題がある。
それは、果たしてたとえ国家であろうと人を殺してもいいのだろうか?辺見氏が言うように、たとえ国家であっても人の生命の連続性を断ち切ることが果たしてできるのであろうか?という問題である。
これは非常に難しい問題であり、多くの人が一度はこのことを考えたことがあるのではないか、そして私の私見を言わせてもらえば、やはり死刑については”否”と言わざるを得ないものである。
その一方、日々の報道を見るにつれよく耳にするのが「被害者遺族の感情を考えると極刑で臨む他ない・・・」という言葉である。
この感性はよく分かる。
私だって自分の妻子や親兄弟を殺されればおそららく、というよりは間違いなく加害者を殺したい、「死刑にしたい」と強烈に思うだろう。これについてはもはや否定のしようもない正直な気持ちである。
そして、凶悪な事件に巻き込まれてしまった人々の「被害者遺族の感情」のもとに、加害者を死刑にしてきた司法制度、すなわち国家も歴然と存在している。
しかしだ。
ここで冷静に考えてみる必要があるのは、果たして国家とはそのような個人的な私憤の断罪機関であるのか?ということである。これはツナミン氏も指摘していたことであるが、国家とは我々の親でもないし、そのような個人的恨み辛みについて我々に成り代わり犯人を殺してやる機関ではない、ということである。国家の役目は犯人を逮捕し、法的手続きに従い犯人を罰することのみだ。
死刑制度を温存する基本的感性が世間であり、突き詰めて考えた結果国家が人を殺すのはどうしてもいけないということであれば、被害者に成り代わって犯人を殺す機関など、どこにも存在はしないはずだ。
大切な身内を殺された我々の仇をとってくれるものなど、悲しいことかもしれないが、現実世界においてはどこにもありはしないのだ。
よって、ここに”倫理”という概念が産まれることになろう。
一頃、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」といった”したり顔”したいやらしい小学生の質問に答えるテレビ番組が流行ったことがあるが、死刑廃止問題はそれに明確な答えを出していると思う。
仮に、殺人を多少なりとも肯定し、しかも自分がその被害者となったらどうするか?そして国家が犯人に対して死刑を言い渡さなかったら、あなたの個人的恨みはどのように昇華させればいいのだろうか?
しかも、あなたが殺人を認めてしまう以上、それは巡りめぐってあなた自身も殺されてしまうことを受け入れることにもつながる。
であれば、あなたの個人的恨みを解消する仕組みや制度がない以上、やはり「人殺し」はしない方がいいのではないか?このような、ある意味人々を縛り付けるのが”倫理”なのではないか。
「殺人はいけない」ことや「死刑制度廃止」について、明確な論拠は実はないのかもしれない。世間の周知のもとに殺人や死刑を認めるのではなく、その代わりに”倫理”によりそのような”人殺し”はやはりすべきではない、というのが個人的な私の考えなのである。
そして、この倫理というものをさらに深化・発展させたものが、もしかしたら講演会で辺見氏が最初に語っていた”愛”、マザー・テレサを引き合いに出したところの「愛」なのではないか。そんなことを、ふと思ってみたりもした。
そのような「愛」でれは、思慮する価値は十分にありそうだ。
最後になるが、死刑廃止についての論拠はないのではないかと、先ほど書いた。
しかし、辺見氏はこの件について非常に興味深い見方を我々に提示している。
それは、憲法9条が、実は死刑廃止をも主張しているのではないか、という見方である。
「・・・国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
人殺しを殺人犯として逮捕する一方で、その犯人に対し場合によっては死刑という”殺人行為”で臨む国家は、倫理的に照らし合わせればある種の矛盾を孕んでいるとも言える。
それでもなおかつ死刑を止めないとするならば、国家におけるこの殺人は明らかに”国権の発動”に他ならない。
国権の発動はそれが拡大すると戦争に繋がるであろうことは誰しも予感しており、また歴史的事実でもあり、ところが憲法9条は国権の発動たる戦争(=殺人)を明確に否定しているのである。
辺見氏の言うところの「憲法9条が死刑廃止を主張している」根拠はここにある。憲法9条は国家による戦争という殺人を否定し、更に辺見氏の解釈によれば国家による死刑という”殺人”をも否定しているのである。
ところが現実はどうであろうか?
ご存知のように、日本はこの憲法をまるで無視するかのように”国際貢献”という詭弁のもとに軍隊を持ち、これを海外に派遣し、当然死刑も行っている国家である。
これはEU諸国についても同様である。
EUは死刑廃止を全面的に主張しながらその一方で「国権の発動する場合」は例外、すなわち「戦争の場合は例外」としているのである。
これは明らかなる”詭弁”である。
世の中がご立派に、システマチックに動いていると思ったら大間違いだと思う。
日本、いや世界は偽善で詭弁で作為のもとに成り立っている、というのが偽らざる私の実感である。
そして、このような偽善で詭弁で作為を保障しているのが我々の「世間」なのであろう。つまりは、我々は意識的にも無意識的にも、このような国家の詭弁の加害者となっているし、少なくともそうである可能性は非常に高い。
私は政府与党による歪んだ解釈が仮に成り立つとするならば、そのアンチテーゼとして辺見氏の憲法解釈を支持したいとも考える。
我々は今一度自身の在り方と立ち位置については猛省する必要があるし、それはまさに今なのだと思う。-その感性を少なくとも自分自身に証明するためにも、何らかの行動は起さなくてはならないだろう。
以前から憲法9条を支持する私があり、そして死刑制度についてもやはりそれは廃止だろうと考える私がある。
そしてこれら別次元と考えていた2つの命題が、辺見氏の提示した見方により細い糸であるとはいえ繋がる可能性を見出す私がここにある。
そのようなことを実感した「辺見庸氏の講演会」であった。
【ご連絡】
プチオフ会に参加くださったwarmgunさん、あーもんどさん、ツナミンさん、鏡響子さんへ。
飲み代の余り「1430円」は、次回のオフ会もしくは読書会に充当すべく、それまで私が責任を持って管理いたします。
~まったく謎めいていない不破利晴より(笑)~
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2008/03/28のBlog
[ 23:15 ]
[ 【社会問題】 ]
《日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申し立ての声を押しつぶそうとしている。
そのようなおりがきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること、事実に立った異議申し立てをの声を押しつぶすことがどうしてできぬだろう?
あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の人間が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ判断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。》
~大江健三郎 「沖縄ノート」~
[関連したBlog]
■軍関与を司法明言 元隊長、悔しい表情 沖縄ノート判決
《集団自決は、旧日本軍が深く関与した――。岩波新書「沖縄ノート」などの記述をめぐる28日の大阪地裁判決は、沖縄・渡嘉敷島の島民らの悲惨な集団自決の背景に軍の存在があったことを明確に認めた。体験を語り継いできた島民らは安堵(あんど)の表情を浮かべ、「歴史の改ざん」を許さなかった判決を評価した。「国民に死を命じるわけがない」と主張してきた元戦隊長らは原告席で、訴えを退けた裁判長を凝視した。
「軍と国の教育を背景に軍の強制があり、悲劇が引き起こされたと考えている。私の書物が主張していることをよく読み取ってもらえた」
閉廷後の記者会見で、大江健三郎さん(73)は判決をこう評価した。「今回の判決で軍の関与は非常に強いものだったことが明らかになった。教科書に『関与』という言葉しかなくても、教師はその背後にある恐ろしい意味を子どもたちに教えることができる」
大江さんはこの日、法廷で判決の言い渡しを聴いた。表情を変えずに聴き入り、最後に裁判長に一礼した。 》
~2008年3月28日 asahi.com~
非常に馬鹿らしい裁判である。
僕は判決について言っているのではない。判決は至極まっとうであると考えている。
僕が指摘しているのはこの裁判そのものが馬鹿らしいということだ。
僕がこのような感想を持った発端は、3月29日付、朝日新聞朝刊の社説である。
大江氏を訴えた原告の梅沢、赤松両氏の発言に僕は驚きと怒りを通り越し、しばし開いた口がふさがらない状況に陥った。
記事によれば、大江氏の「沖縄ノート」を読んだのは裁判を起した後だった、と彼らは法廷で述べたというのだ!
彼らは訴訟の拠り所ともなるべき肝心要の「沖縄ノート」を、当初読んではいなかった!
いったい彼は何を根拠に大江健三郎氏を訴えたのだろうか?
このようなものは裁判とは言わない。-単なるチンピラの因縁である。
大江健三郎氏が集団自決で訴えられるとすれば、その根拠は彼の著作「沖縄ノート」以外に有り得ない。それを読まずして裁判に訴え出るとは、まったく人を食った、人を馬鹿にした話である。
聞いたところによると、どうやら彼らは作家の曽野綾子が1973年に出版した著作をもとに裁判を起したらしい。全く無謀としか言いようのない”頓珍漢”な方々だ。
大阪地裁もこれにはさすがに呆れたのだろう、原告の訴えを退ける判決を言い渡し、そしてこのような裁判に巻き込まれた大江健三郎氏については、まったくのところお気の毒というほか言葉が見つからない、まあそういったところなのだ。
僕がこの裁判を通じて非常に情けなく、また激しい怒りを感じるのは、原告である元隊長らのあまりにも無知で、盲目で、傲慢な態度である。
このような態度こそがかつての戦前、戦時中の大本営を頂点とし末端の士官に到るまでの日本軍のありようそのものであったのではあるまいか?このような一部の軍部の人間の曖昧模糊とした、神国”日本”という幻想的な国家感により、日本の人々は戦争に狂気し戦争の道に突き進められてしまったのではないだろうか?
そのような軍事の生き残り、もしくは軍人の関係者といった人間のこの裁判における姿勢を見るにあたり、あたかも彼らの態度そのものが、「沖縄の集団自決」が軍の関与のもと明らかに存在したのではないかという事実を如実に暗示している。
彼らは明らかに墓穴を掘っている。
僕は先の戦争を直接体験した者ではないのだが、この裁判の記事に触れ、そして自身の想像力を駆使するに当たり、一つの確信をここに感じている。
-集団自決は存在した、という確信である。
僕は先の戦争の手記などに触れるたび、戦争を体験した人々に対しては最大限の経緯をこれまでにはらってきたつもりだが、今回の裁判における原告に見られるような人間については、尊敬する気持ちには到底なれない。
なぜならば、彼らはいまだ幻のような国家に浸り、どれほどの人間が犠牲となり、それに対し自身がどのように関与してきたかを全く直視しようとしないからである。
つまりは、彼らは戦後60年以上経過した現在においても、未だ旧日本軍の幻影を抱きつつ戦争状態にあるからである。
先の戦争はこのような人間が集まり、無謀で”頓珍漢”な戦争感のもとに日本を壊滅に陥れた。そして沖縄は日本国家に足蹴にされ、日本国家に切り捨てられ、そしてそこに集団自決という悲劇的行為を産み出す土壌をつくってしまった。おそらく、これは間違いあるまい。
このような痴呆とも受け取れる”現役軍人”など、僕は到底支持する気にはなれないのである。
ただし、今回の沖縄の集団自決の問題については、それが「あったか、なかったか?」といった2言論的な問題に収束すべきではないと考える。
これについては、3月5日の朝日新聞に寄せられた現代史研究者大杉一雄氏の発言を引用することにより、この記事の終わりとしたい。
《教科書検定についての論争はもっぱら、集団自決が軍による強制=命令かどうかということだった。(しかし史実は)自分たちは玉砕するが、住民にはとにかく逃げ延びろという場合もあっただろうし、一緒に死のうと手榴弾を手渡したケースもあっただろう。
一億玉砕を教えられていた当時の国民はそれを受け入れる精神状態にあり、それがあの戦争の現実であった。
直接的な軍命令の関与が確認されているかいないかという議論をつづけるよりも、当時の客観的な事情を前提に、歴史の真実が書かれるべきである。
悲劇の責任を問われるべきは、沖縄現地軍というよりは、敗色歴然となっても本土決戦、一億玉砕を叫んでいた軍首脳部と、終戦を積極的に推進しなかった政治家である。
権力の中枢にいた人々と、第一線で戦わざるを得なかった人々の責任の軽重は、厳に区別されなければならない。》
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2008/03/22のBlog
[ 16:49 ]
[ 【国際問題】 ]
~60年前に、イスラエルが誕生し、パレスチナ難民が発生
した。
この事件をパレスチナ人は「NAKBA(ナクバ:大惨事)」
と呼ぶ。
隠され続けてきた歴史が、今、姿を現そうとしている。~
-我々は、「NAKBA」に遭遇するべきだ-
「夕方、銃撃がはじまった。娘の夫に、娘を連れてくるように言った。そして彼は出かけていった。息子にも娘を連れてきてと頼んだ。息子も帰ってこなかった。外に出たら誰もいない。みんな殺されたみたいだった。ブルドーザーが遺体を穴に運んでいた。そこに21の遺体があった。そして娘の夫を見つけた。娘は顔を焼かれて死んでいた。」
~サミーハ・ハジーザ(パレスチナ人) シャティーラ難民キャンプで暮らす~
「部下と一緒にある家の中に入ると、3人の子どもが部屋の隅で撃たれて死んでいた。女も男も撃たれ、家という家で銃声が響き、多くのアラブ人は逃げていたが、右派武装組織は見つけたものは誰であれ撃った。私はその日が金曜日だと記憶している。」
~メイール・パイール(ユダヤ人) ユダヤ正規軍突撃隊バルマッハ元部隊長~
「老人にインタビューすると過去の記憶がよみがえり、何度も涙を流しながら語ってくれる。私にとってもつらい仕事だが彼らもつらい想いをする。私たちは100人以上の犠牲者の名前を知っている。イスラエル兵は戦闘中でなく、戦闘後に人々を殺した。」
~ムハンマド・タンジ(パレスチナ人) タントゥーラ村歴史資料館館長~
「シオニズムとは一種のナショナリズムだ。アメリカのユダヤ人はこの国家に属することができるのに、この地に住むアラブ人が属することができないとしたら、シオニズムの中に人種差別が組み込まれていることは否めない。殺戮のプロセスだ。これは国家の利己主義、そして愚かさが原因となるのだ。」
~シュロモー・ザンド(ユダヤ人) テルアビブ大学教授。元マツペン(※)メンバー~
「国連も世界もどうして弱い者を助け、正しいことを行おうとしないのか。そうだろう。自分の物が誰かに取られたら、取り戻すか話し合いによって解決するものだ。問題は・・・年寄りも若者も、ユダヤ人もアラブ人も殺しあっている・・・誰がこんなことを始めた。1948年からずっと続いている!こんなひどいことを誰が始めたんだ!」
~アフマド・アブシャイフ(パレスチナ人) ジェニン難民キャンプに住む。~
(※)マツペン:
1962年、イスラエル共産党を離脱した人々を中心に結成された反シオニズム組織。1967年の第3次中東戦争以降は、占領地の即時変換を求め活動している。
ちなみにシオニズムとは、ユダヤ人迫害に対しユダヤ独自の民族国家を設立せんとするナショナリズムの思想、あるいはその活動を指す。
した。
この事件をパレスチナ人は「NAKBA(ナクバ:大惨事)」
と呼ぶ。
隠され続けてきた歴史が、今、姿を現そうとしている。~
-我々は、「NAKBA」に遭遇するべきだ-
「夕方、銃撃がはじまった。娘の夫に、娘を連れてくるように言った。そして彼は出かけていった。息子にも娘を連れてきてと頼んだ。息子も帰ってこなかった。外に出たら誰もいない。みんな殺されたみたいだった。ブルドーザーが遺体を穴に運んでいた。そこに21の遺体があった。そして娘の夫を見つけた。娘は顔を焼かれて死んでいた。」
~サミーハ・ハジーザ(パレスチナ人) シャティーラ難民キャンプで暮らす~
「部下と一緒にある家の中に入ると、3人の子どもが部屋の隅で撃たれて死んでいた。女も男も撃たれ、家という家で銃声が響き、多くのアラブ人は逃げていたが、右派武装組織は見つけたものは誰であれ撃った。私はその日が金曜日だと記憶している。」
~メイール・パイール(ユダヤ人) ユダヤ正規軍突撃隊バルマッハ元部隊長~
「老人にインタビューすると過去の記憶がよみがえり、何度も涙を流しながら語ってくれる。私にとってもつらい仕事だが彼らもつらい想いをする。私たちは100人以上の犠牲者の名前を知っている。イスラエル兵は戦闘中でなく、戦闘後に人々を殺した。」
~ムハンマド・タンジ(パレスチナ人) タントゥーラ村歴史資料館館長~
「シオニズムとは一種のナショナリズムだ。アメリカのユダヤ人はこの国家に属することができるのに、この地に住むアラブ人が属することができないとしたら、シオニズムの中に人種差別が組み込まれていることは否めない。殺戮のプロセスだ。これは国家の利己主義、そして愚かさが原因となるのだ。」
~シュロモー・ザンド(ユダヤ人) テルアビブ大学教授。元マツペン(※)メンバー~
「国連も世界もどうして弱い者を助け、正しいことを行おうとしないのか。そうだろう。自分の物が誰かに取られたら、取り戻すか話し合いによって解決するものだ。問題は・・・年寄りも若者も、ユダヤ人もアラブ人も殺しあっている・・・誰がこんなことを始めた。1948年からずっと続いている!こんなひどいことを誰が始めたんだ!」
~アフマド・アブシャイフ(パレスチナ人) ジェニン難民キャンプに住む。~
(※)マツペン:
1962年、イスラエル共産党を離脱した人々を中心に結成された反シオニズム組織。1967年の第3次中東戦争以降は、占領地の即時変換を求め活動している。
ちなみにシオニズムとは、ユダヤ人迫害に対しユダヤ独自の民族国家を設立せんとするナショナリズムの思想、あるいはその活動を指す。
-2008年3月22日(土)
今日はフォトジャーナリスト広河隆一氏監督によるドキュメンタリー映画「NAKBA(ナクバ)」の公開初日である。
広河氏の舞台挨拶が企画されていることを知り、私は初回10:20の上映に合わせて渋谷「ユーロスペース」に足を運び、最前列の真ん中に座席を確保した。
館内は立ち見客が出るほどの盛況振りであった。また、マスコミからも取材陣が多数押しかけ、映画「NAKBA」に対する関心の深さを窺わせた。
この作品は私自身を戦慄とさせるものであった。
パレスチナ情勢は広河氏の著書「パレスチナ 新版」により私の記憶の中にある種の”引っかかり”を留めていたのだが、この作品がそれに対する”答え”でもあるといえる。今日、こうして映画という映像を通してパレスチナ問題に触れ、その言語を絶する状況を垣間見るにつれ、いかに我々は何も見ていなかったかという事実に打ちのめされた次第である。
「我々は何を見、何を見ていないのか?」
日本という安住なる家畜小屋に生息し、日々垂れ流されるテレビのバラエティーに首まで浸かっている我々は、果たして何を見てきたのだろう?タレントの結婚に話の花を咲かせ、お笑い芸人の”虚動”を楽しみ、スピリチュアルタレントの御信託に感動し涙している。我々はブロイラーそのものである。行き着く果ては愚にもつかぬ国家ぬ食われてしまうのか?
そう、我々は、私も含め何も見てはいないのだ。
広河氏が最初にパレスチナに関わったのは、私が生まれた年でもある1967年のことである。
当時イスラエルでは社会主義的な思想をもとに「キブツ」と呼ばれる農業を基本とした地域共同体が各地に設立され、社会主義が実現されているとのふれ込みに世界中から共産主義・社会主義に憧憬をもつ多くの若者達が集まっていた。
広河氏もそんな若者の一人で、氏が活動の拠点としたのが「キブツダリヤ」であった。
彼はそこで様々な仕事に従事した。彼はリンゴやオレンジの果樹園で働き、共同食堂で働き、そして時には塹壕掘りなどもやった。
そのような充実した労働の日々の中で、ある転機が訪れる。
それはヒマワリ種の収穫の時であった。
偶然畑の外れに足を踏み込んだ彼は、サボテンの茂みの中に白い瓦礫に目をとめた。最初彼はそれを遠い昔の遺跡か何かだと思った。これをキブツの仲間に尋ねても要領を得ないし、なぜかいつも話ははぐらかされてしまう。このことは妙に気になる事として彼の脳裏に焼きついた。
それが氷解したのはマツペンの仲間から見せられた一枚の地図からであった。
ぼろぼろになったその地図はイスラエル建国前にイギリスによって作られたもので、建国後のイスラエルがその上に新しいユダヤ人移住地名を印刷していた。
彼のキブツダリヤの場所にはパレスチナの村の「ダリヤトルーハ」が書かれていた。そしてその横には括弧書きで「破壊されている」の文字。
キブツダリヤとは、ユダヤ人がパレスチナ人の村を破壊し侵略した上に建設された”偽りのユートピア”に他ならなかったのである。
この体験が以後、広河氏がパレスチナに40年にも渡り関わりを持つきっかけとなった。
映画「NAKBA」とはパレスチナの貴重な記録でもあると同時に、広河氏自身の人生の記録でもある。この映画において、広河氏はNAKBAの証人、特に「ダリヤトルーハ」の生き残りを執拗なまでに追いかけている。
彼によれば、このようにユダヤ人の手により消滅してしまった村は420にもなるという。その村一つひとつには冒頭に紹介した殺戮があったのは言うまでもない。
映画の最後にダリヤトルーハの住人が、かつて彼らが生活したその地を再訪するシーンがある。
彼らは故郷の歌を唄い、瓦礫の中から故郷に眠る先祖の墓を見出し、そして故郷の水を飲んだ。そして最後に広河氏自身の手により集合写真を撮った。これは広河氏が舞台挨拶でも述べていたのだが、私にとっても非常に印象的な光景となった。
「我々は何を見、何を見ていないのか?」
21世紀の現在においても、世界の基本的潮流は実は戦争状態にある、というのが私の個人的な考えだ。20世紀は戦争の世紀であると言う人もいるが、それは全くその通りで、21世紀になった今もそれら過去の負の遺産を引きずり、平和の実現は全くのところ進展してはいない。
今現在チベットの暴動が世間を騒がせている。この中国大陸とパレスチナはそれぞれ独自の問題を内に孕んでいるが、個別の問題として片付けてしまって果たしてよいものだろうか。これらの問題は国家の利己主義という点において、本質的には同じものではなかろうか?これはイラク戦争またしかりである。これらに対し我々は目を背けてはならない、これらに向かわなくてはならない。
なぜならば、このような国際問題は我々にとって決して”例外”ではないからだ。このような国際問題は我々が生きる実社会の問題である。そしてこのような社会が、すべてのひとに関与するなら、この社会で起きるどんな異常事態も我々の責任なのである。それが社会の社会たる所以でもある。
したがって、これらの問題に対し我々は被害者であり、同時に”加害者”でもあるのだ。
「NAKBA」とは映画ではない。これは広河隆一氏が突きつけた強烈なメッセージである。
我々に突きつけられた命題はあまりにも重い。
「NAKBA」とは、我々一人ひとりの問題なのである。
広河隆一氏はどのような人物か、かねてから気になってはいた。
今日実際にその人物に接し、意に反してとてもナイーブで物静かな方であるとの印象を受けた。しかし、氏の体から滲み出るオーラ、力には何か尋常ならざるものも合わせて感じた次第である。
非常にずうずうしい私である。
今日も名刺を渡し、広河氏にサインをお願いしたのだが、二言三言話した途端なんとも形容しがたい緊張感に襲われ手が震えだしてしまった。あたかも彼は石造りの巨大な城壁のように私には感じられた。これが40年もの間体を張って”何か”を伝えてきた人間のパワーなのであろう。私など及びもつかない本物の人間だと思った。
広河氏にはこの時名刺までもいただいてしまった。
ここであらためてお礼を言いたい。
■「NAKBA」の予告編はこちら
■ニュースで紹介された映像はこちら(You Tube)
■4月2日(水)に「NAKBAシンポジウム」が開催されます。
これは当日18:20上映終了後、当上映に参加した方々を対象に行われるものです。
様々な疑問を広河隆一氏にぶつけ、大いに語り合う絶好の機会です。
興味のある方はぜひ参加されたし!
場所:渋谷「ユーロスペース」
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[ 16:35 ]
[ 【国際問題】 ]
※これは2008年1月18日付の記事である。
”NAKBA(ナクバ)”とは「大破局」という意味である。
1948年、地中海の東端、パレスチナ地方にイスラエルが建国された。
このイスラエル独立とパレスチナ難民発生の日を、パレスチナ人はナクバ
(大破局)と呼んでいる。
以来、実に60年もの長きにわたり、彼らパレスチナ人の多くは難民生活を強いられてきた。
既に記事でも述べたことだが、この60年もの歳月は侵略と強奪と殺戮の歴史でもある。
今、世界では何が起っているのか?
現実の世界とはどのようなものか?
我々はそのような世界を見て、何を感じるのか?
TV受像機から日々垂れ流されるタレントの言動に一喜一憂し、虚しいゲームに貴重な時間をすり減らし、愚にもつかないオチャラケ映画に涙するような、そんな日本人に成り下がってはならない。
よく考えて欲しい。
パレスチナは、果たして他人事なのだろうか?
我々は本当に平和な社会に暮らしているのだろうか?
そして、平和とされている今の状況が、今後も保証されているのだろうか?
よく考えて欲しい。
気がついてみたら我々も侵略と強奪と殺戮の渦中の真っ只中にいた、そんな近未来が足音を立てて近づいてきているのではないだろうか。
「我々は一度、”NAKBA”に遭遇してみるべきだ。」
この春は渋谷に集結だ。
そこにある人間の姿を直視しようではないか。
”NAKBA(ナクバ)”とは「大破局」という意味である。
1948年、地中海の東端、パレスチナ地方にイスラエルが建国された。
このイスラエル独立とパレスチナ難民発生の日を、パレスチナ人はナクバ
(大破局)と呼んでいる。
以来、実に60年もの長きにわたり、彼らパレスチナ人の多くは難民生活を強いられてきた。
既に記事でも述べたことだが、この60年もの歳月は侵略と強奪と殺戮の歴史でもある。
今、世界では何が起っているのか?
現実の世界とはどのようなものか?
我々はそのような世界を見て、何を感じるのか?
TV受像機から日々垂れ流されるタレントの言動に一喜一憂し、虚しいゲームに貴重な時間をすり減らし、愚にもつかないオチャラケ映画に涙するような、そんな日本人に成り下がってはならない。
よく考えて欲しい。
パレスチナは、果たして他人事なのだろうか?
我々は本当に平和な社会に暮らしているのだろうか?
そして、平和とされている今の状況が、今後も保証されているのだろうか?
よく考えて欲しい。
気がついてみたら我々も侵略と強奪と殺戮の渦中の真っ只中にいた、そんな近未来が足音を立てて近づいてきているのではないだろうか。
「我々は一度、”NAKBA”に遭遇してみるべきだ。」
この春は渋谷に集結だ。
そこにある人間の姿を直視しようではないか。
【2008年春、40年の記録が世界を変える!】
【特別鑑賞券¥1,400(税込)絶賛発売中!】
~当日:一般¥1,700 大学・専門学生¥1,400~
■渋谷 ユーロスペース
■住所 渋谷区円山町1‐5(渋谷・文化村前交差点左折)
■電話番号 03-3461-0211
※劇場窓口でお買い求めの方には、『パレスチナ1948・NAKBA』 限定オリジナルポストカード(広河隆一直筆サイン入り)を プレゼントいたします。
詳細はこちら↓
http://nakba.jp/
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2008/03/19のBlog
[ 22:28 ]
[ 【憲法問題】 ]
3月。弥生(やよい)
この月は忙しいねえ。
講演会が開催されて一週間以上経過してしまった。
なのに私の記事、「九条の会参加報告」は一向に進まない。
たいへん大きな成果があったのにも関わらずだ!
これもすべては3月のせいであろう。
僕も世間並みにあくせくと”会社人”していたわけだ。
ただ、講演会に参加してひとつ、明確に分かったことがある。
それは世の中に「社会人」と呼べる人が存在しない、ということである。
いや、正確に言えば9割9部9厘の人は社会人ではなかろう、ということだ。
例えば、学校を卒業し晴れてどこその会社に所属すれば世間では「社会人」と見なされる。また、学生時代のアルバイトも一つの「社会経験」として、できれば一度は経験しておく方が良いと世間一般の人は考えてもいる。僕もそんな一人であった。
でもね、そんな考えはまったくのところ「嘘」でしかないんじゃないの?
僕は今月は仕事に忙殺され、九条に関する思考や余韻がある時ざっくりと抜け落ちる瞬間を何度も経験した。周囲の人間に到ってはなおさらそうだ。九条に限らず、今現在の世の中的な問題を真剣に考えている人間が、果たしてどれほどいるのだろうか。
僕はシステム屋である。
よって周囲の人間はシステムのこと、つまりは仕事のことのみを考えて1日の大半を過ごしている。それが興じればもはや社会問題から遠く離れて、本当に会社や仕事のことしか考えなくなる。そこで成果を上げれば、立派な一人前と見なされるからだ。
これは何も会社員に限ったことではない。
学生のアルバイトは週末の彼女とのデートとそのために誰にバイトを代わって貰うかを考え、そうでないパートタイマーはその日の暮らしに汲々とし、一部のエスタブリッシュメントは次なる投機先と金勘定に忙しい。
これって「社会人」じゃないよね?
僕たち会社員について言っても、確かに「会社人」かもしれないけど、「社会人」じゃ決してない。
社会人とは、社会のことを真摯に考える人を指す言葉なのだと、はたと気がついてしまった。よって、社会を考える人が会社員であろうが、フリーターであろうが、無職であろうが、全く関係ない!
そういう意味で世の中には社会人と呼べる人など、哀しいことにほとんどいないわけよ。
3月8日、「九条の会講演会」
この日は約2300人が集い、立ち見の人まで現れた。
井上ひさし氏が言ってたけど、休日に渋谷まで足を運ぶ人は本当に奇特な人なのだ(笑)
ついでに言うと、外で騒ぎまくっている街宣車の”右側の黒い人たち”も彼に言わせれば”奇特な方々”である(爆)
そんな物騒な最中に「九条に会講演会」は開催されたのだ。
僕はね、ここにこうして集まった方々こそ本当に「社会人」だと感じたね。やはりみんなこれからの「日本」という国を憂いてるわけなのよ。でなけりゃわざわざこんなところまで来ないでしょう。だからといって、これに参加した僕が”エライ”と言うつもりは毛頭ないわけね。僕なんか凡百のオッサンですよ。それでも今後これを機にどう活動していくかはいろいろと考えてはいるけどね。
ただ、心配なことが一つある。
それは九条の会を支持する方々があまりにも年配である、ということね。
当日参加した人の7~8割りは50代、60代以上ではなかろうか?
これではこの活動も後々先細りすること必死なわけよ。
問題はここよ!
今後はいかに若い世代を取り込むかが鍵になるのよ。
当日、会場を運営しているスタッフに大学生とおぼしき若い世代が多々見受けられたのがせめてもの救いであった。
聞くところによると、早稲田大学で「ピース・ナイト」と銘打った九条の会関連の集会が1000人以上の参加者を呼んで大成功を遂げたらしい。
僕が期待するのはこの辺だね。
この辺を踏まえて僕の課題もある程度はっきりとしてきた。
今後は周囲の人間に九条の会を周知させ、いかに活動の輪を広げるかということ。
ちなみに僕の会社にも法政大学法学部出身の人間がいる。
先日彼と飲んだとき、さりげなく「国民投票法についてどう思う?」と振ってみた。
彼曰く「あれは・・・、それなりに良かったのでは・・・」
「なんでよ?穴だらけの法案のどこがいいんだよ!」と突っ込む僕。
「いやあ・・・憲法に即して・・・(もぐもぐ)」(という感じで口ごもる)
-まったくお話にならない。
彼も単なる「会社人」でしかないわけよ。
僕にできることは、このような会社人をいかにして「社会人」たらしめる手助けをすることではないのか?なんだか偉そうなことを言って申し訳ない。
社会人とは英語で言えば「people=市民」という概念なのかも知れない。ただ言えることは、現在の日本ではピープルは不在であるということだ。
それでも「会社人」が「社会人」足らんとすることは、つまりは”二束のわらじ”を履くことをも意味するような気がする。それほど僕達は企業にスポイルされ人生の大半をすり減らし、日々の生活に疲弊しているわけね。だから社会人を目指すのは非常にパワーが必要とされるわけなのよ。
世の中皮肉だよ。
政府与党がのさばっていられる理由もこの辺にあるのでしょう。だって、世の中には”まっとうな”社会人がいないわけだから。
「僕は社会人になりたい!」
そう切に願った「九条の会講演会」でありました。
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2008/03/02のBlog
[ 14:49 ]
[ 【憲法問題】 ]
気に入らない写真である。
2008年2月19日に起こったイージス艦と漁船の衝突事件に際し、首相・福田康夫は3月2日事件後初めて被害者親子の親族と面会した。
首相は親子の写真の前に座り、涙ぐんで謝罪したという。そして帰り際の写真がこれである。
これを見る限り、これでお役目を果たしたと言わんばかりの首相に対し、来てくださってありがとうございますとばかりに深々と頭をさげる、正確に言えば頭を下げさせられる親族の姿に圧倒的な違和感を禁じ得ない。政府与党としては、わざわざ首相がお越しなのだから庶民のお前たちはありがたく思え、と言いたいところなのだろう。
このように、憲法に違反し軍隊を保有している政府がふんぞり返り、その犠牲者が頭を下げるといった転倒したさまを見るにつれ、つくづく日本には軍隊など必要ないなと感じる次第である。
今回の事件により、日本のイージス艦は漁船1隻すらまともに回避できない、いやむしろ「漁船1隻だからこそ、回避するつもりなどなかった」といったことが判明してしまっている。つまり、イージス艦とは自衛隊にとって分不相応な”危険なオモチャ”であるということだ。
このような場合、軍隊を制御する一つのシステムとして「文民統制」が挙げられるが、今回の事件で分かったのは、この文民統制が全くの絵空事であるということである。
■全く機能しない文民統制
事件発生時、イージス艦「あたご」の艦長・船渡健(なんと皮肉な名前であることよ!)は自室で居眠りを決めこみ、艦は民間船舶密集地域にも関わらず自動操舵を止めていなかった。
防衛相・石破茂のもとに第一報が届いたのは、事件発生から1時間半も経過してからのこと。さらに、石破茂が防衛相に登庁したのは第一報を受けてからこれも1時間半後である。彼は車でわずか5分の衆院宿舎にいたのにも関わらずだ。
話はこれだけではない。
石破茂は事件当日、海上保安本部の了承を受けることなく独自に「あたご」の航海長から事情聴取を行っている(このような時だけフットワークが早い)
これでは周囲に何らかの口裏合わせが行われたのではないかと疑念を抱かせることになり(当然口裏合わせの為だが)、これに同席した統合幕僚長・斎藤隆は不適切という認識もなく、呆れたことに石破茂は「これこそが”文民統制”である」と主張するありさまである。ついでに言うと、この事情聴取は議事録すら取られていないことが判明している。
船舶をまともに扱えない、扱おうとしない自衛隊。
まともに機能しない情報経路。
まっとうな判断・行動ができない防衛大臣と防衛官僚たち。
-これが日本の文民統制の実体なのである。
■今、我々は何をすべきなのか?
過去にイージス艦の情報漏えい事件があり、自衛隊による不当な国民監視事件があり、防衛官僚による政界を巻き込んだ関連企業の癒着も発覚した。
この際はっきり言うが、政治家にも官僚にも、そして我々国民にも、-自衛隊という歴とした”軍隊”をコントロールすることなどできないのだ。
それでも「自衛隊は必要だ」と主張するなら、いつでも私が論戦に応じよう。彼らはきっと「防衛利権に絡んだ人間」か「勉強不足の人間」か「本物のおバカ」に違いない。そんな輩を相手にすることなど朝飯前だ、いつでも私のもとへ来い!
何度も指摘しているように、政府与党は軍備を認めない憲法九条がありながらそれをないがしろにし、憲法問題を例えばテロ特措法に見られるように憲法議論を法的な問題にすり替えることで日本を世界でも指折りの軍事国家に変貌させてきた経緯がある。
イージス艦とは軍用艦船の中でもとりわけ傑出した能力を誇るハイテク艦であり、当然高価な代物である。この艦船を保有しているのはアメリカを含め、世界で5カ国ほどしかないのだが、なぜ憲法九条をもつ日本がその中に含まれなければならないのか?
そのような状況の中、我々は今、日本の軍隊、とりわけ憲法九条について考えなくてはならない。大いに議論しなくてはならない。メディアがあれほどイージス艦衝突事件を取り上げる最中、日本に憲法論議が一向に湧き上がらないことが、私にとっては不思議でならないのだ。
過去にイージス艦の情報漏えい事件があり、自衛隊による不当な国民監視事件があり、防衛官僚による政界を巻き込んだ関連企業の癒着も発覚した。
この際はっきり言うが、政治家にも官僚にも、そして我々国民にも、-自衛隊という歴とした”軍隊”をコントロールすることなどできないのだ。
それでも「自衛隊は必要だ」と主張するなら、いつでも私が論戦に応じよう。彼らはきっと「防衛利権に絡んだ人間」か「勉強不足の人間」か「本物のおバカ」に違いない。そんな輩を相手にすることなど朝飯前だ、いつでも私のもとへ来い!
何度も指摘しているように、政府与党は軍備を認めない憲法九条がありながらそれをないがしろにし、憲法問題を例えばテロ特措法に見られるように憲法議論を法的な問題にすり替えることで日本を世界でも指折りの軍事国家に変貌させてきた経緯がある。
イージス艦とは軍用艦船の中でもとりわけ傑出した能力を誇るハイテク艦であり、当然高価な代物である。この艦船を保有しているのはアメリカを含め、世界で5カ国ほどしかないのだが、なぜ憲法九条をもつ日本がその中に含まれなければならないのか?
そのような状況の中、我々は今、日本の軍隊、とりわけ憲法九条について考えなくてはならない。大いに議論しなくてはならない。メディアがあれほどイージス艦衝突事件を取り上げる最中、日本に憲法論議が一向に湧き上がらないことが、私にとっては不思議でならないのだ。
■九条の会・講演会に参加する!
今年は”行動する年”にすることに決めた。
今や日本の軍隊は我々のコントロールの域を遥かに超えてしまっただけでなく、我々国民を殺戮する集団となっていることは明白である。
我々は、今あらためて憲法九条に向かい合わなくてはならないのではないか?
以上の点をふまえ、私は来る3月8日(土)に開催される「九条の会・講演会」に出席する所存である。
この講演会は昨年7月に亡くなった小田実氏の志を受けつぎ、ひきつづき憲法九条を守り、生かしていくという主旨で開催されるものである。
「九条の会講演会」
~小田実さんの志を受けついで~
◇2004年6月10日、「九条の会」発足の記者会見で、憲法は「いまこそ旬」だと語った小田実さん。昨年亡くなった呼びかけ人の小田さんの志を受けつぎ、ひきつづき憲法9条を守り、生かしていくという趣旨で、「九条の会」は講演会を開催します。当日は小田さんのパートナーの玄順恵さんも出席されます。
【講演】
大江健三郎 作家
加藤周一 評論家
奥平康弘 憲法学者
井上ひさし 作家
澤地久枝 作家
鶴見俊輔 哲学者
□日時:3月8日(土)開会13:30~(開場は12:00~)
□会場:渋谷C.C.Lemonホール(旧渋谷公会堂)http://shibuko.com/map.html
□参加費:前売り券1000円(当日券1200円)
□主催:九条の会
※なお、前売り券のお申し込みが会場の定員に達しましたが、当日、一定枚数のキャンセルがでることを想定して、事務局としましては8日午前11時頃から会場入り口において、当日券受け取りのための整理券を発行する予定です。しかしこれはどれだけ入場が可能になるか、全くわかりません。お待ち頂いても入場できないことも考えられます。あらかじめご了承願います(九条の会事務局)
※「九条の会」オフィシャルサイトはこちら
最後に小田実氏の言葉を紹介しこの記事の終わりとする。
《後から声をあげる人たちを私は信用しない
亡くなった小田実の、いかにも彼らしい言葉がある。デモ抗議こそ民主主義における市民の意思表示だという信念を、自らの言動で示した彼でしか言えない言葉だ。
デモの本質は、前後、左右を歩く人たちが、名前も、身分も語らず、また聞きもせず、ただデモの目的に向かって声を上げて歩き続ける事であるという。
その小田が、デモに参加せずに後になってから、実は私も同じ考えを持っているんです、と近寄ってくる、「私はそういう人を信じないことにしている」という。
かつてフリージャーナリスト立花隆が田中元首相の金権政治を雑誌で告発した事があった。これがきっかけで田中元首相は失墜する事になった。その時、大手新聞の記者たちは、悔しまぎれに、「あんな事は皆知っていた事だ」とうそぶいたという。だったら何故書かなかったのか。
「後から声を上げる人たちを私は信用しない」。この小田の言葉が今輝いて見える。彼らこそ世の中の悪をはびこらせる共犯者だと小田は言いたかったに違いない。》
~天木直人のブログより~
日本国憲法第9条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
わざわざ講演会に来なくともよい。
しかし、今、我々にはやらなくてはならないことがあるはずだ!
一人ひとりが、それぞれのやり方で、憲法九条を体感せよ!
今こそ行動する時である!
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今年は”行動する年”にすることに決めた。
今や日本の軍隊は我々のコントロールの域を遥かに超えてしまっただけでなく、我々国民を殺戮する集団となっていることは明白である。
我々は、今あらためて憲法九条に向かい合わなくてはならないのではないか?
以上の点をふまえ、私は来る3月8日(土)に開催される「九条の会・講演会」に出席する所存である。
この講演会は昨年7月に亡くなった小田実氏の志を受けつぎ、ひきつづき憲法九条を守り、生かしていくという主旨で開催されるものである。
「九条の会講演会」
~小田実さんの志を受けついで~
◇2004年6月10日、「九条の会」発足の記者会見で、憲法は「いまこそ旬」だと語った小田実さん。昨年亡くなった呼びかけ人の小田さんの志を受けつぎ、ひきつづき憲法9条を守り、生かしていくという趣旨で、「九条の会」は講演会を開催します。当日は小田さんのパートナーの玄順恵さんも出席されます。
【講演】
大江健三郎 作家
加藤周一 評論家
奥平康弘 憲法学者
井上ひさし 作家
澤地久枝 作家
鶴見俊輔 哲学者
□日時:3月8日(土)開会13:30~(開場は12:00~)
□会場:渋谷C.C.Lemonホール(旧渋谷公会堂)http://shibuko.com/map.html
□参加費:前売り券1000円(当日券1200円)
□主催:九条の会
※なお、前売り券のお申し込みが会場の定員に達しましたが、当日、一定枚数のキャンセルがでることを想定して、事務局としましては8日午前11時頃から会場入り口において、当日券受け取りのための整理券を発行する予定です。しかしこれはどれだけ入場が可能になるか、全くわかりません。お待ち頂いても入場できないことも考えられます。あらかじめご了承願います(九条の会事務局)
※「九条の会」オフィシャルサイトはこちら
最後に小田実氏の言葉を紹介しこの記事の終わりとする。
《後から声をあげる人たちを私は信用しない
亡くなった小田実の、いかにも彼らしい言葉がある。デモ抗議こそ民主主義における市民の意思表示だという信念を、自らの言動で示した彼でしか言えない言葉だ。
デモの本質は、前後、左右を歩く人たちが、名前も、身分も語らず、また聞きもせず、ただデモの目的に向かって声を上げて歩き続ける事であるという。
その小田が、デモに参加せずに後になってから、実は私も同じ考えを持っているんです、と近寄ってくる、「私はそういう人を信じないことにしている」という。
かつてフリージャーナリスト立花隆が田中元首相の金権政治を雑誌で告発した事があった。これがきっかけで田中元首相は失墜する事になった。その時、大手新聞の記者たちは、悔しまぎれに、「あんな事は皆知っていた事だ」とうそぶいたという。だったら何故書かなかったのか。
「後から声を上げる人たちを私は信用しない」。この小田の言葉が今輝いて見える。彼らこそ世の中の悪をはびこらせる共犯者だと小田は言いたかったに違いない。》
~天木直人のブログより~
日本国憲法第9条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
わざわざ講演会に来なくともよい。
しかし、今、我々にはやらなくてはならないことがあるはずだ!
一人ひとりが、それぞれのやり方で、憲法九条を体感せよ!
今こそ行動する時である!
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2008/02/20のBlog
[ 22:54 ]
[ 【憲法問題】 ]
■イージス艦衝突事件の本質①
軍隊は戦争遂行という至上目的が前面に出た時点で、
同胞を殺してしまうことさえ論理的に正しくなる。
「軍隊とは有事の際に我々の生命と財産を守ってくれるものだ」などと思っている人が大変多いように思われるが、それは”素敵な勘違い”である。
単刀直入に言って、軍隊は決して我々を守ってはくれない。
軍隊が守るものは、軍隊が認識しているところの”国家”である。
では、軍隊が認識している国家とは何か?
それは、曖昧模糊とした、実体のない、観念的な”国家”に過ぎない。
小説家の司馬遼太郎は戦時中、戦車部隊に所属していたが、そこで信じられない言葉を耳にしたという。内容を以下に引用する。
《「われわれの連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で攻撃する任務を持っているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから、当然、街道の交通混雑が予想される。こういう場合、わが八十輌の中戦車は、戦場到着までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」
高級な戦術論ではなく、ごく常識的な質問である。
だから大本営少佐参謀も、ごくあたりまえな表情で答えた。
「轢き殺してゆく」》
~司馬遼太郎 「歴史の中の日本」~
今回のイージス艦衝突事件で起こったことも、本質的には戦時中の大本営判断と寸分違わない。
おそらくは、イージス艦は漁船を回避するつもりなど毛頭なかったに違いない。
「視認は衝突12分前=イージス艦、正面から乗り上げか-突端部に傷、両舷にも」
《千葉県・房総半島沖で起きた海上自衛隊のイージス護衛艦「あたご」とマグロはえ縄船「清徳丸」の衝突事故で、防衛省は20日、あたごが衝突12分前の 19日午前3時55分に清徳丸を視認したと思われると発表した。同省がこれまで明らかにした時刻より10分も早かったことになる。
事故は同4時7分に発生。同省はこれまで他船の灯火を視認したのは発生2分前の同5分としていたが、「見張り要員が同3時55分ごろ、清徳丸の灯火を視認したと思われる」と訂正した。》
~2008年2月20日 時事通信~
軍隊は戦争遂行という至上目的が前面に出た時点で、
同胞を殺してしまうことさえ論理的に正しくなる。
「軍隊とは有事の際に我々の生命と財産を守ってくれるものだ」などと思っている人が大変多いように思われるが、それは”素敵な勘違い”である。
単刀直入に言って、軍隊は決して我々を守ってはくれない。
軍隊が守るものは、軍隊が認識しているところの”国家”である。
では、軍隊が認識している国家とは何か?
それは、曖昧模糊とした、実体のない、観念的な”国家”に過ぎない。
小説家の司馬遼太郎は戦時中、戦車部隊に所属していたが、そこで信じられない言葉を耳にしたという。内容を以下に引用する。
《「われわれの連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で攻撃する任務を持っているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから、当然、街道の交通混雑が予想される。こういう場合、わが八十輌の中戦車は、戦場到着までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」
高級な戦術論ではなく、ごく常識的な質問である。
だから大本営少佐参謀も、ごくあたりまえな表情で答えた。
「轢き殺してゆく」》
~司馬遼太郎 「歴史の中の日本」~
今回のイージス艦衝突事件で起こったことも、本質的には戦時中の大本営判断と寸分違わない。
おそらくは、イージス艦は漁船を回避するつもりなど毛頭なかったに違いない。
「視認は衝突12分前=イージス艦、正面から乗り上げか-突端部に傷、両舷にも」
《千葉県・房総半島沖で起きた海上自衛隊のイージス護衛艦「あたご」とマグロはえ縄船「清徳丸」の衝突事故で、防衛省は20日、あたごが衝突12分前の 19日午前3時55分に清徳丸を視認したと思われると発表した。同省がこれまで明らかにした時刻より10分も早かったことになる。
事故は同4時7分に発生。同省はこれまで他船の灯火を視認したのは発生2分前の同5分としていたが、「見張り要員が同3時55分ごろ、清徳丸の灯火を視認したと思われる」と訂正した。》
~2008年2月20日 時事通信~
■イージス艦衝突事件の本質②
日本は恐るべき海洋軍事国家である。
かつて日本は「戦艦大和」なる”とんでも戦艦”まで建造した国である。
この大和の戦果と言えば、自慢の46センチ砲百発以上も打ち込んでアメリカの中型空母1隻を撃沈したのみである。そして、この艦船偏重主義は21世紀を迎えた現在においても何ら変ることはない。
では、日本のイージス艦の出どころを見てみよう。
【艦名①】きりしま(霧島)
所属:第1護衛隊群(横須賀) 建造:三菱重工長崎
【艦名②】こんごう(金剛)
所属:第2護衛隊群(佐世保) 建造:三菱重工長崎
【艦名③】みょうこう(妙高)
所属:第3護衛隊群(舞鶴) 建造:三菱重工長崎
【艦名④】ちょうかい(鳥海)
所属:第4護衛隊群(佐世保) 建造:石川島播磨重工
【艦名⑤】あたご
所属:第3護衛隊群(舞鶴) 建造:三菱重工長崎
戦闘機にせよ戦車にせよ、そして軍用艦その他諸々の”兵器”について、日本はアメリカからその大部分を買っていると思っている人が、やっぱり多いのではないか?
ところが実際はそうではない。
上記に記載通り、イージス艦においては全てが”国産”である。これは何も船舶に限ったことではなくF15といった戦闘機に始まって、大方の米国製兵器は日本国内の生産によるものである。
アメリカはライセンスを売り渡すだけなのである。
しかも、イージス艦の1隻当たりの建造費は約1300億円。
これは我々の血税で賄われていることは言うまでもない。
この額をあなたは何と見る?
それでもこのような軍事力は必要か?
実際問題、米国製と何ら遜色ないスペックの兵器を生産しているということは、裏を返せば、それだけ日本の兵器開発力がアメリカに迫ってきている何よりの証なのである。
紛れもなく、日本は世界有数の海洋軍事国家である。
日本は恐るべき海洋軍事国家である。
かつて日本は「戦艦大和」なる”とんでも戦艦”まで建造した国である。
この大和の戦果と言えば、自慢の46センチ砲百発以上も打ち込んでアメリカの中型空母1隻を撃沈したのみである。そして、この艦船偏重主義は21世紀を迎えた現在においても何ら変ることはない。
では、日本のイージス艦の出どころを見てみよう。
【艦名①】きりしま(霧島)
所属:第1護衛隊群(横須賀) 建造:三菱重工長崎
【艦名②】こんごう(金剛)
所属:第2護衛隊群(佐世保) 建造:三菱重工長崎
【艦名③】みょうこう(妙高)
所属:第3護衛隊群(舞鶴) 建造:三菱重工長崎
【艦名④】ちょうかい(鳥海)
所属:第4護衛隊群(佐世保) 建造:石川島播磨重工
【艦名⑤】あたご
所属:第3護衛隊群(舞鶴) 建造:三菱重工長崎
戦闘機にせよ戦車にせよ、そして軍用艦その他諸々の”兵器”について、日本はアメリカからその大部分を買っていると思っている人が、やっぱり多いのではないか?
ところが実際はそうではない。
上記に記載通り、イージス艦においては全てが”国産”である。これは何も船舶に限ったことではなくF15といった戦闘機に始まって、大方の米国製兵器は日本国内の生産によるものである。
アメリカはライセンスを売り渡すだけなのである。
しかも、イージス艦の1隻当たりの建造費は約1300億円。
これは我々の血税で賄われていることは言うまでもない。
この額をあなたは何と見る?
それでもこのような軍事力は必要か?
実際問題、米国製と何ら遜色ないスペックの兵器を生産しているということは、裏を返せば、それだけ日本の兵器開発力がアメリカに迫ってきている何よりの証なのである。
紛れもなく、日本は世界有数の海洋軍事国家である。
■イージス艦衝突事件の本質③
日本の閣僚は自国民よりも艦船が大事、そして何よりアメリカが大事
売国奴の見本のような閣僚がいる。
このツラと名前をよく覚えておくように。
渡辺喜美行政改革担当相である。
《渡辺喜美行政改革担当相は19日午前の記者会見で、海上自衛隊のイージス艦と漁船の衝突事故について、「素人的に考えると、(漁船が)レーダーに映らなかったのか(と思う)。映らない場合もあるそうだが、万が一これが自爆テロの船ならどうするのか」と述べ、イージス艦の警戒態勢に懸念を示した。》
~2008年2月19日 時事通信~
彼の言葉を翻訳すると「ああイージス艦の損害が少なくて良かった。万一これがテロでイージス艦の機密がバレでもしたらアメリカさんから大目玉だからな・・・」ということに尽きる。
罪もない漁師親子が犠牲になったことなど、全く眼中にないのである。
しかも日本のハイテク艦の取りまわしについては、全く能力ゼロであることを世界に宣伝する結果となった。まあ、このようなクズどもが上に立っているわけだからそれも当然ではあるが。
日本の閣僚は自国民よりも艦船が大事、そして何よりアメリカが大事
売国奴の見本のような閣僚がいる。
このツラと名前をよく覚えておくように。
渡辺喜美行政改革担当相である。
《渡辺喜美行政改革担当相は19日午前の記者会見で、海上自衛隊のイージス艦と漁船の衝突事故について、「素人的に考えると、(漁船が)レーダーに映らなかったのか(と思う)。映らない場合もあるそうだが、万が一これが自爆テロの船ならどうするのか」と述べ、イージス艦の警戒態勢に懸念を示した。》
~2008年2月19日 時事通信~
彼の言葉を翻訳すると「ああイージス艦の損害が少なくて良かった。万一これがテロでイージス艦の機密がバレでもしたらアメリカさんから大目玉だからな・・・」ということに尽きる。
罪もない漁師親子が犠牲になったことなど、全く眼中にないのである。
しかも日本のハイテク艦の取りまわしについては、全く能力ゼロであることを世界に宣伝する結果となった。まあ、このようなクズどもが上に立っているわけだからそれも当然ではあるが。
問題はこのオヤジ。
事態の重大さが全く理解できていない、痴呆タヌキ首相である。
こんなクズが日本の首相で本当にいいのか?
「ああイージス艦の損害が少なくて良かった。万一これがテロでイージス艦の機密がバレでもしたらアメリカさんから大目玉だからな・・・」
罪もない漁師親子が犠牲になったことなど、全く眼中にない。
さらにいやらしいのはこの変態。
プラモデルが好きなんだってさ(笑)
お前のネチネチした話し方は妙に耳につく。
もう少しまともに話せ。
イージス艦はおまえの”プラモデル”ではないぞ!
「ああイージス艦の損害が少なくて良かった。万一これがテロでイージス艦の機密がバレでもしたらアメリカさんから大目玉だからな・・・」
罪もない漁師親子が犠牲になったことなど、全く眼中にない。
【日本の閣僚は全員死刑だな、と思った方はワンクリック! ⇒人気ブログランキングへ】
2008/02/17のBlog
[ 21:45 ]
[ ギョーザ問題、本当の舞台裏 ]
■これがアメリカの正体だ
ゴールドマン・サックスとはアメリカの金融グループであり、現在最も収益を上げている世界最大級の投資銀行である。
そうするとアメリカはやはり景気がいいのかと言えば、その実全くそうではない。
アメリカでは個人金融資産のうち株式市場に流れる資金の比率が異常に高いため、株価で比較すれば外見上は大変景気が良く見える。
しかし最近発覚した「サブプライムローン問題」により、アメリカ経済の虚構性と脆弱性と実体性のなさがにわかに白日のもとに曝されることになった。この問題こそがアメリカ帝国崩壊への序章となることは疑いないだろう。
そもそも株とは”実体産業”への投資である。しかしながら、すでに実体産業が崩壊してしまっているアメリカ国内においては投資すべき対象などあるはずもない。ここに外見上良く見えるアメリカ経済の大きな矛盾がある。そこでアメリカは”金融工学”という詐欺的な方法論を編み出し、投資の矛先を海外に求めてきた。
金融で儲ける者がいるということは、当然損する者もいる。それらを全て足し算すれば結局のところゼロになる。当たり前だ。その辺を踏まえ、いかに自分の方をプラスにもっていくかで金融界はしのぎを削っているわけだから。
ところが、この金融工学論でいくと損得全てを足しても絶対にゼロにならない。マイナスである。しかも天文学的なマイナス数値にしかならないのだ。
これは金融資本のゆき過ぎにより、実体経済の数100倍とも数1000倍とも言われるペーパーマネーが生み出した結果である。このマイナスを減らすため、あるいは隠すためにはとにかく投資を続けなくてはならない。そして投資で儲けるには損する存在が絶対的に必要である。
アメリカはイラク戦争後、新たな獲物としてアジア諸国に目を向けていると言われている。これは何も武力によりアジアを侵略しようとしているのではない。アメリカが仕掛ける戦争とは金を使った戦争、つまりは「金融戦争」である。そしてまず最初にババを掴ませようとしている国が、まさに日本なのである。
今世界はアメリカの金融工学で膨れ上がった巨大なペーパーマネーにより経済が汚染され、アメリカのグローバリゼーショ
ゴールドマン・サックスとはアメリカの金融グループであり、現在最も収益を上げている世界最大級の投資銀行である。
そうするとアメリカはやはり景気がいいのかと言えば、その実全くそうではない。
アメリカでは個人金融資産のうち株式市場に流れる資金の比率が異常に高いため、株価で比較すれば外見上は大変景気が良く見える。
しかし最近発覚した「サブプライムローン問題」により、アメリカ経済の虚構性と脆弱性と実体性のなさがにわかに白日のもとに曝されることになった。この問題こそがアメリカ帝国崩壊への序章となることは疑いないだろう。
そもそも株とは”実体産業”への投資である。しかしながら、すでに実体産業が崩壊してしまっているアメリカ国内においては投資すべき対象などあるはずもない。ここに外見上良く見えるアメリカ経済の大きな矛盾がある。そこでアメリカは”金融工学”という詐欺的な方法論を編み出し、投資の矛先を海外に求めてきた。
金融で儲ける者がいるということは、当然損する者もいる。それらを全て足し算すれば結局のところゼロになる。当たり前だ。その辺を踏まえ、いかに自分の方をプラスにもっていくかで金融界はしのぎを削っているわけだから。
ところが、この金融工学論でいくと損得全てを足しても絶対にゼロにならない。マイナスである。しかも天文学的なマイナス数値にしかならないのだ。
これは金融資本のゆき過ぎにより、実体経済の数100倍とも数1000倍とも言われるペーパーマネーが生み出した結果である。このマイナスを減らすため、あるいは隠すためにはとにかく投資を続けなくてはならない。そして投資で儲けるには損する存在が絶対的に必要である。
アメリカはイラク戦争後、新たな獲物としてアジア諸国に目を向けていると言われている。これは何も武力によりアジアを侵略しようとしているのではない。アメリカが仕掛ける戦争とは金を使った戦争、つまりは「金融戦争」である。そしてまず最初にババを掴ませようとしている国が、まさに日本なのである。
今世界はアメリカの金融工学で膨れ上がった巨大なペーパーマネーにより経済が汚染され、アメリカのグローバリゼーショ