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2008/05/05のBlog
[ 12:57 ]
[ 【国際問題】 ]
「9条酒」という日本酒を発見した(笑)
◆向かって左 :「憲法九条」
(醸造元:石川県金沢市・やちや酒造)
◆真ん中の2本 :「九条酒」
(醸造元:岡山県真庭市・御前酒蔵元辻本店)
※左が第1項、右が第2項、憲法9条は「2本一緒で1セット」という仕掛け。
◆向かって右 :「九条」(醸造元:京都府佐々木酒造)
既に紹介したように「9条世界会議」は、5月5日の今日、ピークを迎えていることだろう。
またイベントの模様は、オフィシャルサイトでライブ映像が発信されてもいる。興味ある方は早速アクセスしてみよう。
さて、この「9条世界会議」については、朝日新聞2008年4月25日朝刊、読者投稿欄「声」に掲載されている文面が私の眼を引いた。
山形県山形市に在住する主婦、遠藤和子さん(73歳)の「連休の幕張で9条を学ぼう」と題する投稿である。非常に実直で真面目なこの投稿に敬意を表するためにも、ここに全文を掲載する。
■連休の幕張で9条を学ぼう
主婦 遠藤和子 (山形市 73)
連休中の来る5月4~6日、千葉の幕張メッセで「武力によらず平和をつくる」という憲法9条の理念を世界に広める「9条世界会議」が開かれます。ノーベル平和賞受賞者らの講演やUA、加藤登紀子さんらの音楽ライブもあります。
この会議のプレイベントとして幕張に向け平和行進が進行中です。山形でも4日に賛同者たちが行進し集会を持ちました。幕張まで行進する7人のお坊さんが読経と太鼓の力強い響きで私たちに力を与え、沿道の人々も応えていました。
集会所を提供してくださったのは街の協会。そこの牧師様の「仏教徒の方々をお迎えしたのは初めて」の言葉に9条のおおらかさを感じました。
私たちは日頃、水や空気を意識しません。戦後63年、戦争で殺した、殺されたが無いのは9条のおかげです。水や空気が無ければ、即、生存の危機です。9条も同じく生存とかかわりがあるのに気にもとめないのは、9条に申し訳ないです。
それどころか、昨今は憲法の精神に背く事態が起きています。世界の良識が9条を見習おうという時、我が国は自衛隊海外派遣の恒久法を成立させようとしています。
どんな口実であれ正義の戦争なんてありません。まもなく憲法記念日です。世界の宝・9条の精神をじっくり勉強しようではありませんか。
◆我々はこのような人生の先輩方の声に耳を傾け、それに続いてゆく必要があるであろう。
9条を守る活動の弱点のひとつに、賛同者の”高齢化”が挙げられるからだ。
今、本当に求められているのは”若い力”である。
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2008/05/02のBlog
[ 23:02 ]
[ 【番外編】 ]
ぜ~んぜん関係ないエントリーをしたためてみる(笑)
5月3日は”憲法記念日”なのだが、
それとは全く関係なく、僕はこの日「レーシック手術」、
要するに「コンチェルト・イントラレーシック手術」、
正式手術名は「レーザー角膜屈折補正手術」を受けることになっている。
これはレーザー光線で眼の角膜を削り、角膜の屈折率を変えることで視力回復を図るものだ。
最近はかなりの人が体験しているのでご存知の方も多いだろう。
私の会社でも既に3人ほどがこの手術の恩恵に浴している。
私の後輩も近々受ける予定だ。
今後レーシック人口はねずみ算的に増えると思われる。
思えば僕の近眼の歴史は中学2年生に始まる。
一番前の席に座っていながら黒板の文字がよく見えていないことに、ある日はたと気がついた。
そこで早速眼鏡を作ったのだが、以来坂道を転げるように視力は下がり、現在の強度の近視と言われるまでに到ったのである。
そんなわけで、僕は人生の半分以上を眼鏡とコンタクトと共に過ごしてきたのである。
それもいよいよ明日からは、そんな補正器具とはおさらばだ。
少年の日の、裸眼で見る快感が蘇るであろうということだ。
いやはや、長かった。
参考までに僕の裸眼視力は次の通り。
◇右目:0.06
◇左目:0.05
◇乱視:左右とも-1.00
ちなみに、既に手術を受けた会社の先輩は、視力・乱視共に僕より悪いものであった。
その先輩が現在視力1.2で推移していることからすれば、これは驚異的なことである。
僕の場合も、おそらく同様の結果が期待できるであろう。
世の中、進歩したものね・・・(笑)
そんな訳で今日はもう寝ます。
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2008/04/30のBlog
[ 21:57 ]
[ 【憲法問題】 ]
1993年以降、アメリカは理不尽とも言える要望書を日本に突きつけ、司法制度を始めとする日本の内政に干渉してきたことは既に書いた。このことは戦後日本に駐留して以来、脈々と続いてきたアメリカによる日本の植民地化の一環であろうとの疑念を我々に抱かせるに十分な材料でもある。そして、このことを裏付ける資料が先日アメリカ公文書館で発見されたのである。
それは、当時米軍立川基地の拡張に反対する住民が、基地内に侵入したことに端を発した「砂川事件」の最高裁判決を巡る機密文書である。
機密解除されたこの文書によると、基地の存在を違憲とし住民を無罪とした東京地裁の1審判決を巡り、当時の駐日アメリカ大使と最高裁長官が密談していたというものである。この密談により1審の判決は破棄され、基地が合憲とされる判決が1959年に確定した。
これは日本の司法制度が政府と癒着し、さらにはアメリカの圧力下にあることの明白な証拠でもある。
もはや”三権分立”は教科書に記されるだけの空疎なお題目に過ぎない。学校で社会を学ぶ学生たちもこのような”詭弁”はとうにお見通しだろう。
-日本の司法制度は一体どこに向かおうとしているのだろうか?
■2008年4月30日 毎日新聞朝刊より
米大使 最高裁長官と密談
《国際問題研究者の新原昭治さん(76)が、別の事件に関する日本と米国の交渉記録などを公文書館で閲覧していて発見した。大使は、連合国軍総司令官のマッカーサー元帥のおいであるダグラス・マッカーサー2世。最高裁長官は、上告審担当裁判長の田中耕太郎氏だ。
文書は、59年4月24日に大使から国務長官にあてた電報。「内密の話し合いで担当裁判長の田中は大使に、本件には優先権が与えられているが、日本の手続きでは審議が始まったあと、決定に到達するまでに少なくとも数ヶ月掛かると語った」と記載している。
電報は、米軍存在の根拠となる日米安保条約を違憲などとした59年3月30日の1審判決からほぼ1ヵ月後。跳躍上告による最高裁での審議の時期などについて、田中裁判長に非公式に問い合わせていたことが分かる内容。
これとは別に、判決翌日の3月31日に大使から国務長官にあてた電報では、大使が同日の閣議の1時間前に、藤山愛一郎外相を訪ね、日本政府に最高裁への跳躍上告を勧めたところ、外相が全面的に同意し、閣議での承認を勧めることを了解する趣旨の発言があったことを詳細に報告していた。
新原さんは「外国政府の公式代表者が、日本の司法のトップである、担当裁判長に接触したのは、内政干渉であり、三権分立を侵すものだ」と話している。
【足立旬子】》
東京新聞の記事は単刀直入で分かりやすい。
米大使 最高裁長官と密談
《国際問題研究者の新原昭治さん(76)が、別の事件に関する日本と米国の交渉記録などを公文書館で閲覧していて発見した。大使は、連合国軍総司令官のマッカーサー元帥のおいであるダグラス・マッカーサー2世。最高裁長官は、上告審担当裁判長の田中耕太郎氏だ。
文書は、59年4月24日に大使から国務長官にあてた電報。「内密の話し合いで担当裁判長の田中は大使に、本件には優先権が与えられているが、日本の手続きでは審議が始まったあと、決定に到達するまでに少なくとも数ヶ月掛かると語った」と記載している。
電報は、米軍存在の根拠となる日米安保条約を違憲などとした59年3月30日の1審判決からほぼ1ヵ月後。跳躍上告による最高裁での審議の時期などについて、田中裁判長に非公式に問い合わせていたことが分かる内容。
これとは別に、判決翌日の3月31日に大使から国務長官にあてた電報では、大使が同日の閣議の1時間前に、藤山愛一郎外相を訪ね、日本政府に最高裁への跳躍上告を勧めたところ、外相が全面的に同意し、閣議での承認を勧めることを了解する趣旨の発言があったことを詳細に報告していた。
新原さんは「外国政府の公式代表者が、日本の司法のトップである、担当裁判長に接触したのは、内政干渉であり、三権分立を侵すものだ」と話している。
【足立旬子】》
東京新聞の記事は単刀直入で分かりやすい。
■2008年4月30日 東京新聞朝刊より
判決破棄へ米露骨介入
《「米軍駐留判決」を受け、米政府が破棄へ向けた秘密工作を進めていた真相が初めて明らかになった。内政干渉の疑いが色濃く、当時のいびつな日米関係の内実を示している。最高裁はこの後、審理を行い、同年十二月十六日に一審判決を破棄、差し戻す判決を下した。公文書は日米関係史を長年研究する専門家の新原昭治氏が今月、米国立公文書館で発見した。
「伊達判決」が出た翌日に当たる五九年三月三十一日付のマッカーサー大使の国務省あて公電によると、大使は藤山外相と同日会談し、「日本政府が判決を正すために迅速な行動をとる重要性」を強調。東京高裁に控訴するのではなく、地裁から即座に最高裁に上告する手続きである跳躍上告をすべきだと訴えた。
高裁を経由すれば判決破棄までに時間がかかると主張した大使に対し、外相は賛意を表明。同日の閣議で跳躍上告を提案する意向を示した。
同年四月二十四日付大使の国務省あて公電は、上告審の裁判長を務めた田中耕太郎・最高裁長官が大使と接触した事実を明記。長官は「非公式なやりとり」の中で、本件を「優先的」に扱うとの見解を表明した。
上告審では、日本を拠点とする米艦船が五八年の台湾海峡危機に出勤した事実関係が争点となったが、五九年九月十四日付の国務省公電は、作戦参加をにらんだ第五空軍の部隊や海兵隊の航空団が日本の基地から台湾や本土復帰前の沖縄に移動していた事実を記している。》
※「砂川事件と伊達判決」
1957年7月8日、東京調達局が東京都砂川町(現・立川市)にある米軍立川基地拡張のため測量を始めた際、拡張に反対するデモ隊の一部が基地内に立ち入ったとして、刑事特別法違反の罪でデモ隊のうち7人が起訴された事件。
東京地裁(伊達秋雄裁判長)は59年3月30日、駐留米軍を憲法9条違反の「戦力の保持」に当たるとして無罪判決を言い渡した。これに対し、検察側は最高裁に跳躍上告。最高裁は同年12月16日、「憲法の平和主義は無防備、無抵抗を定めたものではなく、他国による安全保障も禁じていない。安保条約はわが国の存立にかかわる高度の政治性を有し、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り司法審査の対象外」と一審判決(伊達判決)を破棄し、差し戻した。
後に有罪確定。
”新聞”は、言うまでもなく司法以上に政府・アメリカと癒着し、「もはや役割は終わった」と囁かれるように、自壊自滅したメディアであると個人的には考えている。もはや新聞を読んだとて世の中の何も見えてはこない。いや、下手に洗脳される恐れがある分、むしろ”見ないほうがよい”メディアといっても過言ではあるまい。
それでも各紙、自壊自滅の温度差というものはあるだろう。
今回比較的リベラルだとされる(あくまでも比較的だが)「毎日新聞」と、これも比較的反政府的(あくまでも比較的だが)「東京新聞」だけが、メジャー紙の中でこの記事を掲載しているのは大変興味深い。
朝日、読売、日経、産経は一体何をしているのだろうか?
読売、日経、産経といった政府の御用新聞、ちょうちん記事を量産する新聞にはもはや望むべくもない。
先の名古屋高裁での違憲判断において、さもこの判決を支持する社説を展開した朝日は何をしているのか。本来ならは当然この介入記事について論を展開するのが筋ではなかろうか。やはりインターネット紙「あらたにす」に象徴されるように、読売・ナベツネ陣営に組したと見るのが妥当なのであろう。
日本に介入し続けるアメリカ。
そしてそれを報道せず、権力を監視するという役目を放棄し、だんまりを決め込む新聞。
「司法の独立」の虚構性を再認識し、新聞というメディアの崩壊を確信した「アメリカ司法介入記事」であった。
※この件に関して、さらなる詳しい解説をお求めの方は、ツナミン氏のエントリー「尊敬すべき裁判官たち」をぜひとも参照されたし!
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判決破棄へ米露骨介入
《「米軍駐留判決」を受け、米政府が破棄へ向けた秘密工作を進めていた真相が初めて明らかになった。内政干渉の疑いが色濃く、当時のいびつな日米関係の内実を示している。最高裁はこの後、審理を行い、同年十二月十六日に一審判決を破棄、差し戻す判決を下した。公文書は日米関係史を長年研究する専門家の新原昭治氏が今月、米国立公文書館で発見した。
「伊達判決」が出た翌日に当たる五九年三月三十一日付のマッカーサー大使の国務省あて公電によると、大使は藤山外相と同日会談し、「日本政府が判決を正すために迅速な行動をとる重要性」を強調。東京高裁に控訴するのではなく、地裁から即座に最高裁に上告する手続きである跳躍上告をすべきだと訴えた。
高裁を経由すれば判決破棄までに時間がかかると主張した大使に対し、外相は賛意を表明。同日の閣議で跳躍上告を提案する意向を示した。
同年四月二十四日付大使の国務省あて公電は、上告審の裁判長を務めた田中耕太郎・最高裁長官が大使と接触した事実を明記。長官は「非公式なやりとり」の中で、本件を「優先的」に扱うとの見解を表明した。
上告審では、日本を拠点とする米艦船が五八年の台湾海峡危機に出勤した事実関係が争点となったが、五九年九月十四日付の国務省公電は、作戦参加をにらんだ第五空軍の部隊や海兵隊の航空団が日本の基地から台湾や本土復帰前の沖縄に移動していた事実を記している。》
※「砂川事件と伊達判決」
1957年7月8日、東京調達局が東京都砂川町(現・立川市)にある米軍立川基地拡張のため測量を始めた際、拡張に反対するデモ隊の一部が基地内に立ち入ったとして、刑事特別法違反の罪でデモ隊のうち7人が起訴された事件。
東京地裁(伊達秋雄裁判長)は59年3月30日、駐留米軍を憲法9条違反の「戦力の保持」に当たるとして無罪判決を言い渡した。これに対し、検察側は最高裁に跳躍上告。最高裁は同年12月16日、「憲法の平和主義は無防備、無抵抗を定めたものではなく、他国による安全保障も禁じていない。安保条約はわが国の存立にかかわる高度の政治性を有し、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り司法審査の対象外」と一審判決(伊達判決)を破棄し、差し戻した。
後に有罪確定。
”新聞”は、言うまでもなく司法以上に政府・アメリカと癒着し、「もはや役割は終わった」と囁かれるように、自壊自滅したメディアであると個人的には考えている。もはや新聞を読んだとて世の中の何も見えてはこない。いや、下手に洗脳される恐れがある分、むしろ”見ないほうがよい”メディアといっても過言ではあるまい。
それでも各紙、自壊自滅の温度差というものはあるだろう。
今回比較的リベラルだとされる(あくまでも比較的だが)「毎日新聞」と、これも比較的反政府的(あくまでも比較的だが)「東京新聞」だけが、メジャー紙の中でこの記事を掲載しているのは大変興味深い。
朝日、読売、日経、産経は一体何をしているのだろうか?
読売、日経、産経といった政府の御用新聞、ちょうちん記事を量産する新聞にはもはや望むべくもない。
先の名古屋高裁での違憲判断において、さもこの判決を支持する社説を展開した朝日は何をしているのか。本来ならは当然この介入記事について論を展開するのが筋ではなかろうか。やはりインターネット紙「あらたにす」に象徴されるように、読売・ナベツネ陣営に組したと見るのが妥当なのであろう。
日本に介入し続けるアメリカ。
そしてそれを報道せず、権力を監視するという役目を放棄し、だんまりを決め込む新聞。
「司法の独立」の虚構性を再認識し、新聞というメディアの崩壊を確信した「アメリカ司法介入記事」であった。
※この件に関して、さらなる詳しい解説をお求めの方は、ツナミン氏のエントリー「尊敬すべき裁判官たち」をぜひとも参照されたし!
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2008/04/27のBlog
[ 21:21 ]
[ 【国際問題】 ]
日本国憲法9条とは何か、という単純かもしれないし実は非常に深い命題をあらためて考えてみる。
それは言わずと知れた「軍隊の保持を否定」し、「国権の発動による武力の威嚇・行使を放棄」し、「国際平和を追求する」憲法であることには間違いない。
しかし、このような世界に冠たる憲法を持ちながら、なぜ故に日本の為政者はこれを尊重しないのか、私にとっては甚だ疑問なのである。
例えば、日本のイラク派兵が本当に真の「国際平和」に貢献しているのだろうか?
そのことにより世界は日本を本当に評価しているのだろうか?
日本が武装し、世界でも指折りの”軍隊”を保有することで世界の平和が実現し、我々は豊かな生活を送っているのだろうか?
-答えはすべて「否」であろう。
つまりは、日本の政治家の言うところの「国際貢献」は、ことごとく詭弁というしかあるまい。
日本はアメリカの言うがままに法外な価格のパトリオットミサイルを購入し、こともあろうに新宿御苑にまでそれを持ち込み、イラクにおいては多大な税金を投入した軍隊が無料で他国の軍用艦船に燃料を補給しているありさまである。さらに1隻1400億円もするイージス艦は結局のところ罪もない漁師親子を殺すだけだった。
先の名古屋高裁では「イラク派兵は明らかに憲法違反である」との判断を我々に示している。
私は死刑廃止論者であるが、それでもどうしても”死刑”を存続させたいのであれば、これまで多大な出費を国民に負わせ、さらに死者という犠牲者までだした日本の政治家にこそ”死刑”という断罪を下したいと、私は思うのである。
光市母子殺人事件の死刑判決が、感情論によって死刑という道すじを切り開いたとするならば、私は敢えて私の”感情論”により政治家達を奈落の底に落としいれたいとも思う。これも一つの国民的判断なのではなかろうか?
きたるゴールデンウイークの5月4~6日、「9条世界会議」が幕張メッセにて開催される。
これは憲法9条の意義を世界的視野から考察しようとする、画期的な試みでもある。私は日本よりはむしろ世界が9条に注目し、さらには9条こそが今や世界的な潮流にならんとすることを秘かに期待している一人でもある。
そう、「世界は9条を志向している」のである。
《世界中で紛争が絶えず、武器が次々と作られるなか、地球環境の変化が人々の生存を脅かしています。
そんな世界でいま人々が注目し始めているのが、日本の憲法9条です。
「武力によらない平和」という9条の考え方を、世界共通のものにしたい。
「9条世界会議」は、ノーベル平和賞受賞者や、イラク、アフリカなどからゲストを招き、音楽ライブらパネル展も多彩な平和の祭典です。
戦争のない未来への扉を開きます。》
【9条世界会議のサイトはこちら!】
■5月4日のプログラム
◇映画「火垂るの墓」(実写版) @国際会議場201
◇【全体会】「9条を考える」 @イベントホール
◇【基調講演】マイレッド・マグワイア(北アイルランド/1976年ノーベル平和賞受賞)
◇【ビデオメッセージ】ワンガリ・マータイ (ケニア/2004年ノーベル平和賞受賞)
◇【ビデオメッセージ】ジョディ・ウィリアムズ(予定)(アメリカ/1997年ノーベル平和賞受賞)
◇「戦争のない世界をつくる」川崎 哲 (「9条世界会議」日本実行委員会事務局長)
◇【講演】エマニュエル・ボンバンデ (ガーナ/西アフリカ平和構築ネットワーク)
◇【トーク】雨宮処凜 (日本/作家)
◇【ライブ】 UA、 FUNKIST、 原田真二(懐かしい!)、 加藤登紀子
その他、多数のイベントあり!
■5月5日のプログラム
◇【シンポジウム1】「世界の紛争と非暴力」@コンベンションB
◇【シンポジウム2】「アジアのなかの9条」@国際会議室
◇【シンポジウム3】「平和を創る女性パワー」@コンベンションB
◇【シンポジウム4】「環境と平和をつなぐ」@国際会議室
◇【シンポジウム5】「核時代と9条」@コンベンションB 浅井基文 (日本/広島平和研究所)出演!
◇【シンポジウム6】「9条の危機と未来」 香山リカ (精神科医)、伊藤真 (伊藤塾塾長)出演!
◇【特別フォーラム】 「武力紛争予防のためのグローバル・パートナーシップ」
◇【パネル討論】「グローバリゼーションと戦争」
◇【自主映画】「世界に広がる9条の会」
◇【ライブハウス】「音楽のパワーで憲法9条を守ろう!」ピーター・バラカン出演!
◇【ミニステージ】「歌・命の輝き」
◇【シネマ】きくちゆみさんと観る「テロリストは誰?」
■5月6日のプログラム
◇「まとめの総会」 @国際会議場
ここに紹介したのは予定されているイベントのほんの一部である。
これほど大規模な9条に関するイベントがこれまでにあったろうか?
GWは、大抵の人は旅行や家族サービスといったバカンスに夢中になる時期でもあろう。しかし、私としてはこのようなイベントにぜひとも参加していただきたいと思う次第である。なぜなら、ひとたび間違えればGWに「お遊び」をするどころではない荒んだ世の中が、近い将来やってくるかも知れないからだ。その時では遅すぎる。
我々は、今から9条に関する何らかの意識を持ち合わせるべきだと私は痛感しているのである。
かくいう私はどうか?
このイベントにはぜひとも!ぜひとも!ぜひとも!参加したいと思っている。
しかし、参加できない。
実は5月3日に眼の手術を予定しており、連休中は安静でいなければならないからだ。
だからこそ、みんなに呼びかける。
「私に代わって参加して欲しい!」
そして、参加した感想を私に聞かせて欲しいのだ。自慢して欲しいのだ。
よろしくお頼み申します。
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2008/04/24のBlog
[ 00:32 ]
[ 【社会問題】 ]
■裁判員制度により、社会は凶暴化する
結局のところ、司法制度の問題とは何か。
今、司法制度には何が求められているのか。
そして、司法制度によって決定される「死刑」について、我々は今後どのように捉えてゆくべきなのか。
ここ最近、死刑判決、並びに死刑執行数がにわかに増加している。
-何が死刑を加速させるのだろうか?
非常に分かりにくいとされている日本の裁判。刑事事件においては9割以上が有罪になるとも言われ、政治との癒着やその圧力に屈しているとの疑念は晴れることがない。
そして、長期化する公判審理-原告も被告も肉体的・精神的に疲弊する裁判。
司法制度を考える際、すぐにこれらの問題が浮かんでくるほど日本の司法制度が抱える問題は大きいと言わざるを得ない。
裁判員制度とは、裁判を分かりやすいものにし、裁判の迅速化を図るというのがその謳い文句だが、くじ引きで選ばれた一般市民による裁判員が果たしてこれらの問題を解消する原動力と成り得るのだろうか。甚だ疑問である。結局は問題をクリアするどころか、更なる問題を一つ積み上げるだけなのではないだろうか。
確かに、市民の感覚というものは今まで以上に裁判に反映されるかもしれない。しかし、「勝ち組・負け組」「ワーキングプア」「年金問題」「老人医療保険問題」といったキーワードに象徴される、いわば不安定な格差社会へと変貌を遂げつつある我々の社会において、”市民感覚”は裁判を進める上では非常に危険な感性でもある。
つまり、裁判員制度が一般市民に「ガス抜き」効果をもたらす装置として作用することは、十分にありうるだろうと言うことだ。
人間とは錯覚しやすい生き物である。
大手新聞社の記者が電話一つで時の大物とアポイントメントが取れてしまうことに、それを自分の力だと錯覚してしまう。同様に、掲載された記事の反響の大きさに、自分の能力を過大に評価してしまう。
殺人行為を取り締まるはずの国家が、死刑というこれも殺人を正当化するのなら、それは”国権の発動”以外の何ものでもないことは辺見庸氏の指摘であり、私も既に記事に書いた。
多数の市民の要望に後押しされ、また、自身の怒りの感情をよりどころに”犯罪者”を断罪することは、それに関与する裁判員にとってさぞかし痛快なものになるだろう。彼らの行為は、紛れもなく世間では”正義”なのであるから。
正義はさらなる正義を呼ぶ。
「大罪人は絶対に死刑」という風潮が世にはびこることにも繋がろう。やがて世間はかつてのヨーロッパのように”魔女狩り”を始めたとしても決しておかしくはない。
裁判員に選ばれれば、法の知識がなくとも原則としてそれを断ることはできない。しかも、今年末までには、事件の被害者や遺族が法廷に参加し、被告への質問や、「求刑」を意見として述べることも可能となる。
かつてないほどに被害者の思いが伝わる仕組みである。
だが、逆に裁判員や裁判官が”被害者感情”に流される土壌を醸成したとも言える。裁判においての”感情論”とは、”魔女裁判”の感性そのものである。
《90%ぐらいの方が支持という感触を持っています。
先日、欧州連合(EU)27カ国の大使を前に講演しました。そのときにも語ったのですが、日本文明は、歴史的に自然との共生を体現しており、命をすごく大切にする。だからこそ、命を奪うことへの怒りも強い。死をもって報いるという文化があるのです。私は、そこに生きていることに誇りを感じます。
逆に、何人殺しても死刑でなく終身刑というのはドライな考え方でしょう。》
~週刊朝日 2008年5月2日号 「鳩山邦夫の死刑執行論」より~
正義を尊ぶ一般市民による魔女狩り裁判が現実のものになった時、パラノイア法相の感情的、詭弁的、支離滅裂、そしてクレイジーなこのような発言も賛辞をもって受け入れらえてしまうのか?
このような人間が法相であること自体、怒りを通り越し、情けなさと脱力感のみが体全体を覆ってゆくことをはっきり感じとれるのだ。
このように、「裁判員制度」とは”国権の発動”を市民に”体現化”させることにその意図はあるのではないだろうか?
正義の名のもと、大罪人に極刑を言い渡す裁判員は世間の喝采を浴び、そのような裁判員は次々と現れるだろう。国権の発動を体現する裁判員は自身の力を過信し、やがて凶暴化してゆく。常に極刑を追い求めるようにもなる。
「裁判員制度」とは、アメリカの要請でもあったことは既述したとおりである。しかし、これは同時に日本の要望でもあったと言える。植民地とその宗主国の利害が一致したとき、裁判員制度は実現する運びとなった。
凶暴化した社会は、例えば「テロ特措法」といった法案にかつてほどの抵抗を感じなくなるだろうし、また政府与党の”強行採決”も容易く受け入れるであろう。もしかしたら、憲法9条改正の大きなうねりが国民の中から生まれてくるかもしれない。
「裁判員制度」とは、日本が戦争に向かうための”加速装置”である。
その意味においては、死刑を加速させる要因の一つが裁判員制度であり、その要因を作り出しているのが政府与党の裁判員制度を通じた国民の”凶暴化”策、一種のマインドコントロールであると、私は考える。
その先には「戦争」という文字が、その影が、視野の中にはっきりと見て取れる。日本の戦争、換言すれば宗主国アメリカのがはっきりと見て取れるのだ。
将来、そんな戦争への水先案内人が、目的を失った先の殺人事件の被害者遺族・本村洋氏でないことを願うとともに、亡くなった方の冥福を心から祈る次第である。
被害者は、一体何人なのだろうか・・・。
【終わり】
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結局のところ、司法制度の問題とは何か。
今、司法制度には何が求められているのか。
そして、司法制度によって決定される「死刑」について、我々は今後どのように捉えてゆくべきなのか。
ここ最近、死刑判決、並びに死刑執行数がにわかに増加している。
-何が死刑を加速させるのだろうか?
非常に分かりにくいとされている日本の裁判。刑事事件においては9割以上が有罪になるとも言われ、政治との癒着やその圧力に屈しているとの疑念は晴れることがない。
そして、長期化する公判審理-原告も被告も肉体的・精神的に疲弊する裁判。
司法制度を考える際、すぐにこれらの問題が浮かんでくるほど日本の司法制度が抱える問題は大きいと言わざるを得ない。
裁判員制度とは、裁判を分かりやすいものにし、裁判の迅速化を図るというのがその謳い文句だが、くじ引きで選ばれた一般市民による裁判員が果たしてこれらの問題を解消する原動力と成り得るのだろうか。甚だ疑問である。結局は問題をクリアするどころか、更なる問題を一つ積み上げるだけなのではないだろうか。
確かに、市民の感覚というものは今まで以上に裁判に反映されるかもしれない。しかし、「勝ち組・負け組」「ワーキングプア」「年金問題」「老人医療保険問題」といったキーワードに象徴される、いわば不安定な格差社会へと変貌を遂げつつある我々の社会において、”市民感覚”は裁判を進める上では非常に危険な感性でもある。
つまり、裁判員制度が一般市民に「ガス抜き」効果をもたらす装置として作用することは、十分にありうるだろうと言うことだ。
人間とは錯覚しやすい生き物である。
大手新聞社の記者が電話一つで時の大物とアポイントメントが取れてしまうことに、それを自分の力だと錯覚してしまう。同様に、掲載された記事の反響の大きさに、自分の能力を過大に評価してしまう。
殺人行為を取り締まるはずの国家が、死刑というこれも殺人を正当化するのなら、それは”国権の発動”以外の何ものでもないことは辺見庸氏の指摘であり、私も既に記事に書いた。
多数の市民の要望に後押しされ、また、自身の怒りの感情をよりどころに”犯罪者”を断罪することは、それに関与する裁判員にとってさぞかし痛快なものになるだろう。彼らの行為は、紛れもなく世間では”正義”なのであるから。
正義はさらなる正義を呼ぶ。
「大罪人は絶対に死刑」という風潮が世にはびこることにも繋がろう。やがて世間はかつてのヨーロッパのように”魔女狩り”を始めたとしても決しておかしくはない。
裁判員に選ばれれば、法の知識がなくとも原則としてそれを断ることはできない。しかも、今年末までには、事件の被害者や遺族が法廷に参加し、被告への質問や、「求刑」を意見として述べることも可能となる。
かつてないほどに被害者の思いが伝わる仕組みである。
だが、逆に裁判員や裁判官が”被害者感情”に流される土壌を醸成したとも言える。裁判においての”感情論”とは、”魔女裁判”の感性そのものである。
《90%ぐらいの方が支持という感触を持っています。
先日、欧州連合(EU)27カ国の大使を前に講演しました。そのときにも語ったのですが、日本文明は、歴史的に自然との共生を体現しており、命をすごく大切にする。だからこそ、命を奪うことへの怒りも強い。死をもって報いるという文化があるのです。私は、そこに生きていることに誇りを感じます。
逆に、何人殺しても死刑でなく終身刑というのはドライな考え方でしょう。》
~週刊朝日 2008年5月2日号 「鳩山邦夫の死刑執行論」より~
正義を尊ぶ一般市民による魔女狩り裁判が現実のものになった時、パラノイア法相の感情的、詭弁的、支離滅裂、そしてクレイジーなこのような発言も賛辞をもって受け入れらえてしまうのか?
このような人間が法相であること自体、怒りを通り越し、情けなさと脱力感のみが体全体を覆ってゆくことをはっきり感じとれるのだ。
このように、「裁判員制度」とは”国権の発動”を市民に”体現化”させることにその意図はあるのではないだろうか?
正義の名のもと、大罪人に極刑を言い渡す裁判員は世間の喝采を浴び、そのような裁判員は次々と現れるだろう。国権の発動を体現する裁判員は自身の力を過信し、やがて凶暴化してゆく。常に極刑を追い求めるようにもなる。
「裁判員制度」とは、アメリカの要請でもあったことは既述したとおりである。しかし、これは同時に日本の要望でもあったと言える。植民地とその宗主国の利害が一致したとき、裁判員制度は実現する運びとなった。
凶暴化した社会は、例えば「テロ特措法」といった法案にかつてほどの抵抗を感じなくなるだろうし、また政府与党の”強行採決”も容易く受け入れるであろう。もしかしたら、憲法9条改正の大きなうねりが国民の中から生まれてくるかもしれない。
「裁判員制度」とは、日本が戦争に向かうための”加速装置”である。
その意味においては、死刑を加速させる要因の一つが裁判員制度であり、その要因を作り出しているのが政府与党の裁判員制度を通じた国民の”凶暴化”策、一種のマインドコントロールであると、私は考える。
その先には「戦争」という文字が、その影が、視野の中にはっきりと見て取れる。日本の戦争、換言すれば宗主国アメリカのがはっきりと見て取れるのだ。
将来、そんな戦争への水先案内人が、目的を失った先の殺人事件の被害者遺族・本村洋氏でないことを願うとともに、亡くなった方の冥福を心から祈る次第である。
被害者は、一体何人なのだろうか・・・。
【終わり】
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2008/04/23のBlog
[ 22:04 ]
[ 【社会問題】 ]
■現代のWitch hunt(魔女狩り)
キリスト教社会においては、異教を信仰するものは「異端審問」により拷問にかけられた時代がある。12世紀頃のヨーロッパ諸国での話だ。
これがある種の「魔女狩り」の下地となったと想像できると思うが、魔女狩りの起源は意外に新しく15世紀に入ってからのことだ。この魔女狩りを公認したのはローマ教皇のインノケンティウス8世で、1484年のことである。以降、罪もない女性が魔女裁判により拷問を受け殺されていった。
魔女狩りが最も盛んに行われたのは1450年頃から1700年頃にかけてであり、宗教改革の時期とも重なっている。そして、ヨーロッパ全体で約35,000~55,000人もの人々が魔女裁判により「死刑」になったと言われている。
ちなみに、インノケンティウス8世は魔女狩りに反対する者すら”異端”と見なし、処刑したこともある。したがって魔女裁判の犠牲者は女性だけとは限らない。その内の何割かは男性である(これは、同性愛者も同時に処刑されたことにも起因する)
魔女狩りの何が恐ろしいのかと言えば、その”魔女裁判”自体が全く裁判の体を成していなかったであろうことである。つまり、世間の噂や密告だけで死刑判決が下されることが非常に多かった、ということである。
魔女裁判には陪審員が参加することもあり、一説にはこの陪審員制度が犠牲者数を軽減したとも言われているが、私個人的にはその真意は定かではないと思う。それよりもやはり気になるのが、この「世間」という魔物である。
「気に入らない者は殺してしまえ」
「妖しい者は殺してしまえ」
「罪深い者は、当然殺してしまえ」
「魔女狩り」とは究極の異端排除の感性である。
この異端排除の思考性が偏見という名の触媒のもと「世間」と化学反応を起こすとき、この世間は巨大な殺人装置に変容してしまうのであろう。
「魔女狩り」とはかつてのヨーロッパの暗い側面であった訳だが、私は現代の日本にこそむしろ「魔女狩り」は適合しているのではないかと錯覚してしまう。
ここ最近、日本の死刑基準は大逆転している。
「やむなく死刑」という方向性が、「積極的に死刑」といった方向性に大転換を示しているのは明らかである。そしてこれを支えてるのが、多数の国民の意識、まさに世間である。凶悪犯については躊躇なく死刑に処すべし、といった考えをもつ日本人が急激に増えてきているのは事実だろう。
日本はムラ社会とよく言われる(少なくとも言われていた)
それでも日本が金持ちの頃はまだよかった。
ムラからマチへ格上げになったかのように見えたからだ。
ところが、現在のように社会が荒んでくると、日本人はその馬脚をにわかにあらわにするようになる。-ムラ人根性の露出である。
ムラ人根性とは結局、異端排除の根性であると思う。
外からの新参者をジロジロ眺め、値踏みをし、何かしでかそうなら集団で糾弾する根性である。
つくづく日本は何も変ってはいなかったのだと思う。
そうなのだ。日本人は何一つ変ってはいないのだ。
どんなに金持ちになろうと、どんなに貧乏になろうと、勝ち組と負け組みの格差社会が進行しようと、日本人は大昔からムラ人でしかなかったのであろう。
このような、ムラ社会がこれからの死刑制度を支え、ムラ人が死刑制度を担保してゆく。今の日本の「世間」は恐ろしい。
「異端者は全て排除してしまえ」なのだから。
【続く】
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キリスト教社会においては、異教を信仰するものは「異端審問」により拷問にかけられた時代がある。12世紀頃のヨーロッパ諸国での話だ。
これがある種の「魔女狩り」の下地となったと想像できると思うが、魔女狩りの起源は意外に新しく15世紀に入ってからのことだ。この魔女狩りを公認したのはローマ教皇のインノケンティウス8世で、1484年のことである。以降、罪もない女性が魔女裁判により拷問を受け殺されていった。
魔女狩りが最も盛んに行われたのは1450年頃から1700年頃にかけてであり、宗教改革の時期とも重なっている。そして、ヨーロッパ全体で約35,000~55,000人もの人々が魔女裁判により「死刑」になったと言われている。
ちなみに、インノケンティウス8世は魔女狩りに反対する者すら”異端”と見なし、処刑したこともある。したがって魔女裁判の犠牲者は女性だけとは限らない。その内の何割かは男性である(これは、同性愛者も同時に処刑されたことにも起因する)
魔女狩りの何が恐ろしいのかと言えば、その”魔女裁判”自体が全く裁判の体を成していなかったであろうことである。つまり、世間の噂や密告だけで死刑判決が下されることが非常に多かった、ということである。
魔女裁判には陪審員が参加することもあり、一説にはこの陪審員制度が犠牲者数を軽減したとも言われているが、私個人的にはその真意は定かではないと思う。それよりもやはり気になるのが、この「世間」という魔物である。
「気に入らない者は殺してしまえ」
「妖しい者は殺してしまえ」
「罪深い者は、当然殺してしまえ」
「魔女狩り」とは究極の異端排除の感性である。
この異端排除の思考性が偏見という名の触媒のもと「世間」と化学反応を起こすとき、この世間は巨大な殺人装置に変容してしまうのであろう。
「魔女狩り」とはかつてのヨーロッパの暗い側面であった訳だが、私は現代の日本にこそむしろ「魔女狩り」は適合しているのではないかと錯覚してしまう。
ここ最近、日本の死刑基準は大逆転している。
「やむなく死刑」という方向性が、「積極的に死刑」といった方向性に大転換を示しているのは明らかである。そしてこれを支えてるのが、多数の国民の意識、まさに世間である。凶悪犯については躊躇なく死刑に処すべし、といった考えをもつ日本人が急激に増えてきているのは事実だろう。
日本はムラ社会とよく言われる(少なくとも言われていた)
それでも日本が金持ちの頃はまだよかった。
ムラからマチへ格上げになったかのように見えたからだ。
ところが、現在のように社会が荒んでくると、日本人はその馬脚をにわかにあらわにするようになる。-ムラ人根性の露出である。
ムラ人根性とは結局、異端排除の根性であると思う。
外からの新参者をジロジロ眺め、値踏みをし、何かしでかそうなら集団で糾弾する根性である。
つくづく日本は何も変ってはいなかったのだと思う。
そうなのだ。日本人は何一つ変ってはいないのだ。
どんなに金持ちになろうと、どんなに貧乏になろうと、勝ち組と負け組みの格差社会が進行しようと、日本人は大昔からムラ人でしかなかったのであろう。
このような、ムラ社会がこれからの死刑制度を支え、ムラ人が死刑制度を担保してゆく。今の日本の「世間」は恐ろしい。
「異端者は全て排除してしまえ」なのだから。
【続く】
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2008/04/22のBlog
[ 00:51 ]
[ 【国際問題】 ]
[関連したBlog]
以前、拙ブログで紹介した、フォトジャーナリスト・広河隆一氏によるドキュメンタリー映画「NAKBA(ナクバ)」が好評である。
「Yahoo!映画」のレビューにおいても未だトップの座を明け渡してはいない。
まだこの作品を観ていない方々にに告ぐ。
今すぐ、渋谷・ユーロスペースに走るのだ!
公開は4月25日(金)までである。
**************************************
【NAKBAのHPより】
Yahoo!映画のレビュー採点(観賞後のお客様による感想&採点)にてなんと「1位」を獲得しました!
※2008年4月21日(月)現在。ランキングは常に変動がございます。
ユーロスペース公開開始から約1ヶ月、確実に皆さまに“届いている”のだとスタッフ一同喜んでおります。
どうぞ引き続き『パレスチナ1948・NAKBA』をよろしくお願い申し上げます。
「Yahoo!映画 レビュー採点」
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyove/mnow/
**************************************
ちなみに、この作品「NAKBA」におけるYahoo!の「作品ユーザーレビュー」では、
私、不破利晴の記した「我々は何を見、何を見ていないのか?」が「役立ち度:16人」でこれまたトップである(4月24日現在)
このレビューについても、皆さんどうぞよろしく!
【私も「NAKBA」を観てみたい、と思った方はワンクリック! ⇒人気ブログランキングへ】
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2008/04/18のBlog
[ 22:04 ]
[ 【社会問題】 ]
裁判員制度を考えるに当たり、忘れることのできない事件が脳裏に浮かぶ。
1992年10月17日、アメリカ・ルイジアナ州に起こった「日本人留学生射殺事件」である。
この地に奨学生として留学していた愛知県名古屋市旭丘高校2年、服部剛丈君(当時16歳)は、ハロウィンパーティーの会場である友人の家に向かう予定であったが、番地を間違え誤ってロドニー・ピアース(当時30歳)に家を訪問。ピアースに強盗だと間違えられ射殺されてしまった事件である。
射殺に用いられた”マグナム44口径”は服部の胸を貫通、彼は病院に搬送中出血多量により亡くなった。
刑事裁判はピアース被告の希望もあり、12人の陪審員制度による法廷がルイジアナ州東バトンルージュ郡大陪審により開かれた。
ピアース被告は罪状認否で無罪を主張、結果陪審員の全員一致の「無罪評決」となり、ピアーズ被告の正当防衛が認められてしまったのである。
この事件は陪審員制度、今後日本で実施されるであろう裁判員制度を考える上で、非常に象徴的な事件である。
それまでもロドニー・ピアースは問題のある人間であった。
多数の拳銃を所持するガンマニアであり、たびたび近所の野良犬を撃っては悦に浸り、そして事件当日は酒に酔い妻の制止を振り払って服部君を射殺したことが判明している。
それでも陪審員制度の下では彼は無罪なのである。
私は勘ぐってしまう。
これが留学生である服部君でなかったらどうだったのか?日本人という黄色人種ではなく、白人の高校生だったらどうだったのか?ということである。
明らかにロドニー・ピアースという人間は、辺見庸氏の指摘するところの”パラノイア”であり”マニアック”な人種であったと、私は考える。
それでもなお、12人という多数の陪審員を揃えていながら、判決は「無罪」となる恐ろしさ、陪審員の偏見と狂気が奏でるこの裁判に戦慄を感じずにはいられなかったのをよく覚えている。
そして、このような判決は近い将来、間違いなく日本において下されるであろうことは、もはや論を待たないであろう。
ここでもピアース被告に「無罪評決」を下したのは、ある意味陪審員ではなく、紛れもなく「世間」であったのではないだろうか。
「世間」とは具体的に誰それを指すものではない。
強いて言えば、我々の、「日本人留学生射殺事件」で言えばアメリカ社会の”意識の総体”そのものである。この事例に接するに際し、社会の人々の意識の総体なるものが個人の主義心情を遥かに超える場合が、時として起こりえるのではないかと私は危惧するのである。「日本人留学生射殺事件」とは、そのような私の個人的危機感を象徴する典型的な事件であったと言えよう。
-間違いなく、「世間」とは我々の個人的な意識を飛び越え、それを社会全体の意識、要請へと最大公約数化するものである。それを最近の流行語で言えば「空気」と置き換える人も中にはいるかもしれない・・・。
1993年、アメリカ大統領に就任したビル・クリントンは同年7月、先進国首脳会議のため来日した際、当時の宮澤首相に”ある提案”を突きつけたと聞いている。
宮澤首相は当初これを拒否したが、最終的にはクリントンの強引さに屈する形でこれを受け入れてしまった。
その後日本に大損害をもたらしたこの”ある提案”とは、1994年から日米で交換されることになった「年次改革要望書」である。
もちろん、これは日米が対等な関係で取り交わされるものではないことは言うまでもない。日本だけを一方的に拘束する、いわば日本の対米従属の”約束手形”のようなものだ。
アメリカは「要望書」に記されたアメリカ政府の”要望”の完全実施を日本に要求し、やがて日本はこれを丸呑みするまでになってしまった。
アメリカの要求は次のようなものであった。
「郵政民営化」
「独占禁止法改正」
「司法制度改革」
「憲法改正」
これらの要求を眺めるにつれ、これまでの”改革”という名の錦の御旗がいかにアメリカによって操られ、演出されてきたことがよく窺える。こんなところにもアメリカと日本の関係が露出してきている気がしてならない。
-アメリカとは日本の宗主国、やはり日本はアメリカの植民地に過ぎないのではないか・・・?
そして言うまでもなく、来年より実施される「裁判員制度」とは、アメリカの要求に従属した”司法制度改革”の一環であったとしか言いようがないのである。
はかなくも日本という国の”改革”とは、アメリカの影響・圧力を一身に受け止め、その手先となった政治家がこれを具体化し、そして我々国民が物言わぬ羊のようにそれをあたかも御信託のごとく何ら疑うことなく日々の生活に追われている現実そのものであるかのようだ。
物言わぬ羊-アメリカにとっては喜ばしき「サイレント・マジョリティー」こそがこの国を形成し、そして司法制度、ひいては”死刑制度”の存在を意識的・無意識的に担保しているかのように、私の目には映ってしまうのである。
【続く】
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2008/04/17のBlog
[ 22:38 ]
[ 【憲法問題】 ]
この判決についてはぜひとも書かなくてはなるまい。
4月17日という今日は、司法において憲法9条の歴史的な判断が下されたと日として記憶されるだろう。
自衛隊イラク派遣の違憲確認と派遣差し止めを求めた集団訴訟の控訴審判決が名古屋高裁であり、青山邦夫裁判長は航空自衛隊が行っている現在のイラクでの活動について「憲法9条1項に違反する活動を含んでいる」との判断を示したからである。
これまで原告の訴えを門前払いし、または直接の判断を避けてきた司法にしてみれば、今回は自衛隊活動の違憲性にかなり踏み込んだ判決下したことになる。
それでも、集団訴訟をおこした原告側は正確に言えば、やはり”敗訴”したと言わざるを得ない。
それはなぜか。
このような憲法訴訟の難しさからまずは考えてみたい。
■違憲確認という壁
今年の3月8日。東京・渋谷において2300人もの観衆が集い、「9条の会・講演会」が開催されている。
この講演会の中で憲法学者・奥平康弘氏は、憲法訴訟の難しさについて重要な指摘を我々に示してくれた。
つまり、現在の日本の司法制度の下では、何らかの要因により我々が直接の権利を侵害されない限り、裁判として成り立たせるのは非常に困難であるということだ。
また、この種の訴訟は違憲確認を直接の目的として行うことができない。今回はイラク派遣によって原告の権利や利益が具体的に侵害されたかどうかが、勝敗の分岐点となる。
したがって、今回の事例が示すように原告側は憲法で言うところの「平和的生存権」などをその根拠にする他なく、大変苦しい闘いを強いられることにもなるのである。
これまでにも全国各地で自衛隊派遣の違憲性についての訴訟が起されてきたが、いずれにおいても原告側は敗れるか、裁判所が直接的な判断を回避する結果となっている。
今回の訴訟においても、原告側が請求した派遣差し止めは認められなかった。これまでの判例を踏まえた「原告らの平和的生存権が侵害されたとまでは認められない」との司法判断である。原告の請求が認められない限り、裁判としてはやはり負けなのである。
■青山邦夫裁判長の憲法解釈
しかしである。
今回の裁判を担当した名古屋高裁の青山邦夫裁判長は、これまでにない画期的な、そしてしごく”まっとうな”憲法解釈を我々に提示してくれた。
「イラク国内での戦闘は、実質的には03年3月当初のイラク攻撃の延長で、多国籍軍対武装勢力の国際的な戦闘である」
「特にバグダッドについて『まさに国際的な武力紛争の一環として行われている人を殺傷し物を破壊する行為が現に行われている地域』であり、イラク特措法の”戦闘地域”に該当する」
「現代戦において輸送等の補給活動も戦闘行為の重要な要素であり、空自の活動のうち少なくとも多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸するものは、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」
「したがって、武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、(国際紛争の解決手段として武力行使を放棄した)憲法9条に違反する活動を含んでいる」
まったく異論の挟む余地もない。
私個人的には当たり前のことなのだが、司法がよくぞここまで言い切ったものだと感動すら覚えた判決である。
これまでの中曽根康弘や小泉純一郎の靖国参拝を例に挙げると、東京・千葉・大阪・松山・福岡・那覇の全国6カ所の地方裁判所にて訴訟が起されてきた。
そして、仙台高裁は首相および天皇の公式参拝は「違憲である」と断定し、大阪高裁は「違憲の疑いがある」とし、福岡高裁においても「継続すれば違憲」との判断を示している。
原告の請求はいずれも棄却されたとはいえ、どの訴訟においても参拝の合憲性を認めた判例は全くのところない。
特に注目すべきは福岡の場合だ。
あえて憲法判断に踏み込み、違憲の判決を下した亀川清長裁判長は、判決後の右翼からの攻撃を予想し遺書を書いて判決に臨んだともいう。
現在、日本の司法制度は政治と癒着し、政治の圧力に屈しているのは紛れもない”事実”である。国家から身分の保証された裁判官といえども人事が全てである。政府与党の思惑に反する判決をした裁判官は確実に地方に飛ばされる。
それでもなお、政治家とは違い彼らにはまだ裁判官としての”良心”がかろうじて残っているのだろう。退官間際の裁判官は、時として画期的な、一発逆転の判決を言い渡すことがあるのはよく知られていることだ。
そして、今回の青山邦夫裁判長場合はどうだったか?
実を言うと彼は今年の3月末日をもって「依願退官」している。
そのような経緯もあり、今回の判決は高田健一裁判長が代読する運びとなったわけである。
私は青山裁判官の退官の経緯については分からない。
今回の裁判がきっかけとなったのか、はたまた別に一身上の都合があったのか、全く知る由もない。
しかし、これを最後に彼が自身の良心に従い、勇気をもって違憲判断に踏み込んだであろうことは十分に想像できる。これは司法制度、そして日本という国家に対する一つの挑戦であり、我々に向けられた強烈なメッセージであり、そして彼の遺言でもあろう。
彼はもはや裁判官ではなくなり、そして「イラク派遣は違憲である」という判例が残った。
これは重要なことである。
そうである。
「イラク派遣は明らかに憲法違反なのである」
-これは原告の、そして我々の勝利なのである。
最後に福田康夫の談話を紹介する。
『2008年4月17日 毎日jp 「首相vs記者団」より』
Q 名古屋高裁が空自のイラクでの活動に関し、「多国籍軍の武装兵員を戦闘地域のバグダッドに空輸するものについては憲法9条に違反している」と違憲判断した。受け止めは?
A それは判断ですか?
Q 傍論。
A 脇の論ね。あのー、判決はですね。国の方が勝ったんですね。そして、えー、まあ意見なんですかね。裁判官が述べたということらしいですが、これは判決そのものには直接関係のないことなんですね。ですからこの判断は国の判断が正しいというのが、この裁判の結論であります。
Q 今後、多国籍軍のバグダッド空輸任務を外す考えは?
A いや、ですから問題がないんだと思いますよ。ええ、あのー、特別にその裁判のためにですね。どうこうする考えはありません。
無残なものである。
彼にはもはや良心のかけらも残っていないとみえる。
福田よ、そして政治家たちよ。君たちは憲法の理念を知るべきだ。
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しかしである。
今回の裁判を担当した名古屋高裁の青山邦夫裁判長は、これまでにない画期的な、そしてしごく”まっとうな”憲法解釈を我々に提示してくれた。
「イラク国内での戦闘は、実質的には03年3月当初のイラク攻撃の延長で、多国籍軍対武装勢力の国際的な戦闘である」
「特にバグダッドについて『まさに国際的な武力紛争の一環として行われている人を殺傷し物を破壊する行為が現に行われている地域』であり、イラク特措法の”戦闘地域”に該当する」
「現代戦において輸送等の補給活動も戦闘行為の重要な要素であり、空自の活動のうち少なくとも多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸するものは、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」
「したがって、武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、(国際紛争の解決手段として武力行使を放棄した)憲法9条に違反する活動を含んでいる」
まったく異論の挟む余地もない。
私個人的には当たり前のことなのだが、司法がよくぞここまで言い切ったものだと感動すら覚えた判決である。
これまでの中曽根康弘や小泉純一郎の靖国参拝を例に挙げると、東京・千葉・大阪・松山・福岡・那覇の全国6カ所の地方裁判所にて訴訟が起されてきた。
そして、仙台高裁は首相および天皇の公式参拝は「違憲である」と断定し、大阪高裁は「違憲の疑いがある」とし、福岡高裁においても「継続すれば違憲」との判断を示している。
原告の請求はいずれも棄却されたとはいえ、どの訴訟においても参拝の合憲性を認めた判例は全くのところない。
特に注目すべきは福岡の場合だ。
あえて憲法判断に踏み込み、違憲の判決を下した亀川清長裁判長は、判決後の右翼からの攻撃を予想し遺書を書いて判決に臨んだともいう。
現在、日本の司法制度は政治と癒着し、政治の圧力に屈しているのは紛れもない”事実”である。国家から身分の保証された裁判官といえども人事が全てである。政府与党の思惑に反する判決をした裁判官は確実に地方に飛ばされる。
それでもなお、政治家とは違い彼らにはまだ裁判官としての”良心”がかろうじて残っているのだろう。退官間際の裁判官は、時として画期的な、一発逆転の判決を言い渡すことがあるのはよく知られていることだ。
そして、今回の青山邦夫裁判長場合はどうだったか?
実を言うと彼は今年の3月末日をもって「依願退官」している。
そのような経緯もあり、今回の判決は高田健一裁判長が代読する運びとなったわけである。
私は青山裁判官の退官の経緯については分からない。
今回の裁判がきっかけとなったのか、はたまた別に一身上の都合があったのか、全く知る由もない。
しかし、これを最後に彼が自身の良心に従い、勇気をもって違憲判断に踏み込んだであろうことは十分に想像できる。これは司法制度、そして日本という国家に対する一つの挑戦であり、我々に向けられた強烈なメッセージであり、そして彼の遺言でもあろう。
彼はもはや裁判官ではなくなり、そして「イラク派遣は違憲である」という判例が残った。
これは重要なことである。
そうである。
「イラク派遣は明らかに憲法違反なのである」
-これは原告の、そして我々の勝利なのである。
最後に福田康夫の談話を紹介する。
『2008年4月17日 毎日jp 「首相vs記者団」より』
Q 名古屋高裁が空自のイラクでの活動に関し、「多国籍軍の武装兵員を戦闘地域のバグダッドに空輸するものについては憲法9条に違反している」と違憲判断した。受け止めは?
A それは判断ですか?
Q 傍論。
A 脇の論ね。あのー、判決はですね。国の方が勝ったんですね。そして、えー、まあ意見なんですかね。裁判官が述べたということらしいですが、これは判決そのものには直接関係のないことなんですね。ですからこの判断は国の判断が正しいというのが、この裁判の結論であります。
Q 今後、多国籍軍のバグダッド空輸任務を外す考えは?
A いや、ですから問題がないんだと思いますよ。ええ、あのー、特別にその裁判のためにですね。どうこうする考えはありません。
無残なものである。
彼にはもはや良心のかけらも残っていないとみえる。
福田よ、そして政治家たちよ。君たちは憲法の理念を知るべきだ。
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2008/04/14のBlog
[ 23:45 ]
[ 【社会問題】 ]
■鳩山法相と死刑
《昨年8月の法相就任時、「法相の署名が絡まないでも自動的に死刑が執行できる方法はないか」などと発言し、「ベルトコンベヤー発言」と波紋を呼んだ。
絞首刑についても「ほかの方法はないか」と疑問を呈した。
省内に死刑に関する勉強会を設置。
昨年12月には、非公開だった死刑執行者の名前などを公表した。》
~2008年4月11日 朝日新聞~
辺見庸氏は4月5日の講演会にて、現在の法務大臣・鳩山邦夫を”パラノイア”、もしくは犯罪用語にちなんで”マニアック”と言い切った。
パラノイアについては説明の必要はないと思われるが、”マニアック”については”おたく”という意味で発したのではない。
かつて「マニアック・コップ」というB級まがいの映画が上映されたが、これは無実の罪により非業の死を遂げた刑事が、ゾンビ“マニアック・コップ”として蘇り、自分を陥れた人間殺害し、さらには無差別殺人へとエスカレートする作品であった。
警官の姿という国家権力の象徴を身にまとい、殺人鬼と化すこのゾンビこそが”マニアック”、つまりは「キチガイ警官」ということである。
冒頭に紹介したのは朝日新聞2008年4月11日朝刊、『もっと知りたい!』からの引用であるが、彼の挙動を大まかにまとめたこの記事においてさえも彼の異常性、マニアック振りが十二分にうかがえる。
なるほど、彼は国家権力という衣を被った”キチガイ大臣”と言うほかないだろう。
最近の死刑執行に関する状況をみるにつれ、死刑執行数が急激に増えているのがよく分かる。
特に2006年以降の長勢甚遠、鳩山邦夫の両法務大臣のもとにおいてはそれぞれ執行者数10人という異常なまでの数字を残し、現法務大臣である鳩山邦夫においてその数はまだまだ増えそうな勢いだ。
それにしてもだ。
いったいなぜ故にかくもこのように人を殺したがるのだろうか?
鳩山邦夫がパラノイアであることは間違いないにせよ、彼をしてこうも死刑に駆り立てるのは一体何なのか?原因を彼のマニアックな人間性に押し込めるだけには留まらない疑問が私には残るのだ。一体何が死刑制度を加速させるのだろうか?
朝日新聞によれば、死刑執行数が増えている背景の一つに、来年5月に始まる「裁判員制度」が挙げられるという。
裁判員制度は言うまでもなく、アメリカの陪審員制度の影響を受けている。
抽選で選ばれた一般市民6人の裁判員が、裁判官とともに事件に対する量刑を審議するというものだ。このため「死刑を特殊な事例としてとらえるのではなく、法に基づいてごく当たり前のように執行すれば、市民の抵抗感が収まる」という法務省の思惑もあると朝日新聞は伝えている。
これは鳩山邦夫が「国民の理解を得られる」と称して死刑囚の氏名や事件の背景を公表したことにも繋がるものである。
しかし、「市民の抵抗感が収まる」という理由で死刑執行数が増えているのが本当ならば、これは当然許されるべきことではない。
市民がたやすく死刑を言い渡せるよう、国が死刑執行の既成事実を積み上げる・・・。
果たしてこれが健全な近代国家と言えるのだろうか?
本末転倒なのだ。本来、国は国民を守るべきものだと思っていたが、どうやら日本は人を殺したくて仕方がないらしい。-日本が大罪を犯しているのは明白である。
しかも、この裁判員制度には大きな欠陥もある。
裁判員制度の本家であるアメリカにおいてさえも陪審員が「有罪」か「無罪」かを決定するにせよ、死刑を科すかどうかの判断までは実はかかわらない。実際に量刑を科す、つまりは死刑を決定するのは裁判官なのである。
ところが、日本の場合はそうではない。市民から選ばれた裁判員が、裁判官と共に死刑か否かの判断まで踏み込めてしまうのである。これは世界でも例を見ない制度である。
実際問題、裁判員になってみたい日本国民はどれほどいるのだろうか?
また、市民に裁判官と同じ権限を与えると思われるこの裁判員制度のもと、はたして公正な裁判が成り立つのか、という疑問も残る。
例えば、先に紹介した「世田谷一家殺人事件」、「光市母子殺害事件」、「池田小学校児童殺傷事件」といったような事件を扱うに当たっては、「事件の凶悪性」や「被害者遺族の感情」といった裁判員も含めた国民の”感情論”の要請に流され、いとも容易く「死刑」が言い渡される可能性は十分にあると言わざるを得ない。辺見庸氏の言うところの”世間”がそうさせるのだ。
これは、実に危険な制度である。
私個人的には正直なところこのような制度には加担したくはないし、また制度そのものに対しても反対である。
一体何が死刑を加速させるのだろうか?
【続く】
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《昨年8月の法相就任時、「法相の署名が絡まないでも自動的に死刑が執行できる方法はないか」などと発言し、「ベルトコンベヤー発言」と波紋を呼んだ。
絞首刑についても「ほかの方法はないか」と疑問を呈した。
省内に死刑に関する勉強会を設置。
昨年12月には、非公開だった死刑執行者の名前などを公表した。》
~2008年4月11日 朝日新聞~
辺見庸氏は4月5日の講演会にて、現在の法務大臣・鳩山邦夫を”パラノイア”、もしくは犯罪用語にちなんで”マニアック”と言い切った。
パラノイアについては説明の必要はないと思われるが、”マニアック”については”おたく”という意味で発したのではない。
かつて「マニアック・コップ」というB級まがいの映画が上映されたが、これは無実の罪により非業の死を遂げた刑事が、ゾンビ“マニアック・コップ”として蘇り、自分を陥れた人間殺害し、さらには無差別殺人へとエスカレートする作品であった。
警官の姿という国家権力の象徴を身にまとい、殺人鬼と化すこのゾンビこそが”マニアック”、つまりは「キチガイ警官」ということである。
冒頭に紹介したのは朝日新聞2008年4月11日朝刊、『もっと知りたい!』からの引用であるが、彼の挙動を大まかにまとめたこの記事においてさえも彼の異常性、マニアック振りが十二分にうかがえる。
なるほど、彼は国家権力という衣を被った”キチガイ大臣”と言うほかないだろう。
最近の死刑執行に関する状況をみるにつれ、死刑執行数が急激に増えているのがよく分かる。
特に2006年以降の長勢甚遠、鳩山邦夫の両法務大臣のもとにおいてはそれぞれ執行者数10人という異常なまでの数字を残し、現法務大臣である鳩山邦夫においてその数はまだまだ増えそうな勢いだ。
それにしてもだ。
いったいなぜ故にかくもこのように人を殺したがるのだろうか?
鳩山邦夫がパラノイアであることは間違いないにせよ、彼をしてこうも死刑に駆り立てるのは一体何なのか?原因を彼のマニアックな人間性に押し込めるだけには留まらない疑問が私には残るのだ。一体何が死刑制度を加速させるのだろうか?
朝日新聞によれば、死刑執行数が増えている背景の一つに、来年5月に始まる「裁判員制度」が挙げられるという。
裁判員制度は言うまでもなく、アメリカの陪審員制度の影響を受けている。
抽選で選ばれた一般市民6人の裁判員が、裁判官とともに事件に対する量刑を審議するというものだ。このため「死刑を特殊な事例としてとらえるのではなく、法に基づいてごく当たり前のように執行すれば、市民の抵抗感が収まる」という法務省の思惑もあると朝日新聞は伝えている。
これは鳩山邦夫が「国民の理解を得られる」と称して死刑囚の氏名や事件の背景を公表したことにも繋がるものである。
しかし、「市民の抵抗感が収まる」という理由で死刑執行数が増えているのが本当ならば、これは当然許されるべきことではない。
市民がたやすく死刑を言い渡せるよう、国が死刑執行の既成事実を積み上げる・・・。
果たしてこれが健全な近代国家と言えるのだろうか?
本末転倒なのだ。本来、国は国民を守るべきものだと思っていたが、どうやら日本は人を殺したくて仕方がないらしい。-日本が大罪を犯しているのは明白である。
しかも、この裁判員制度には大きな欠陥もある。
裁判員制度の本家であるアメリカにおいてさえも陪審員が「有罪」か「無罪」かを決定するにせよ、死刑を科すかどうかの判断までは実はかかわらない。実際に量刑を科す、つまりは死刑を決定するのは裁判官なのである。
ところが、日本の場合はそうではない。市民から選ばれた裁判員が、裁判官と共に死刑か否かの判断まで踏み込めてしまうのである。これは世界でも例を見ない制度である。
実際問題、裁判員になってみたい日本国民はどれほどいるのだろうか?
また、市民に裁判官と同じ権限を与えると思われるこの裁判員制度のもと、はたして公正な裁判が成り立つのか、という疑問も残る。
例えば、先に紹介した「世田谷一家殺人事件」、「光市母子殺害事件」、「池田小学校児童殺傷事件」といったような事件を扱うに当たっては、「事件の凶悪性」や「被害者遺族の感情」といった裁判員も含めた国民の”感情論”の要請に流され、いとも容易く「死刑」が言い渡される可能性は十分にあると言わざるを得ない。辺見庸氏の言うところの”世間”がそうさせるのだ。
これは、実に危険な制度である。
私個人的には正直なところこのような制度には加担したくはないし、また制度そのものに対しても反対である。
一体何が死刑を加速させるのだろうか?
【続く】
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