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2008/06/24のBlog
[ 22:40 ]
[ 【社会問題】 ]
1975年9月30日。
昭和天皇は皇后を伴いアメリカを訪問している。これは前年来日したアメリカ・フォード大統領の招待に応じたもので、天皇のアメリカ訪問は歴史上初めてのことである。
ホワイトハウスで行われた大統領主催の歓迎晩餐会の席上、天皇は先の大戦に触れ「深く悲しみとする不幸な戦争」とし、アメリカに対しては「貴国が戦後、我が国再建のために温かい好意と援助の手を差しのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し上げたい」という過大なまでのリップサービスを行い、フォード大統領の顔を大いに立てる格好となった。
さらに帰国後の同年10月31日、日本記者クラブの公式記者会見の席上、昭和天皇は原爆が投下された広島、及び自身の戦争責任について耳を疑うような発言をしている。
広島の原爆投下について、天皇はどのように受け止めているか。中国放送・秋信利彦氏が質問に立った。天皇の回答は次の通りである。
「原子爆弾が投下されたことについては、遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですので、ええ、どうも、広島市民に対しては気の毒とは思いますが、私としてはやむを得ないことだったと思っています」
極めつけは天皇の戦争責任についてである。
質問に立ったザ・タイムズの中村康二氏は、アメリカ訪問にて発した「深く悲しみとする不幸な戦争」発言とは、天皇自身が開戦を含め、戦争そのものに責任を感じているという理解でよろしいかと尋ねたのである。
返ってきた返事はこうである。
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」
広島に対して”お気の毒”とは、高みから眺めるまるで他人事同然、さらに自身の戦争責任については”言葉のアヤ”であり、それは文学方面の言説であるとする珍弁・詭弁を披露する始末。
「原爆投下はしょうがない」発言で糾弾された防衛相がいたことは記憶に新しいが、この天皇発言はそんなエセ大臣どころではない。これが長きに渡り世間が信奉させられてきた”天皇様さま”の正体なのである。あの戦争とは、まるで天皇の人生ゲームそのものだったかのようである。
この作品において、面白いエピソードが映し出されている。
片手には「小泉総理を支援する」とのプラカード、もう片手には星条旗を掲げた、母国で不動産業を営むというアメリカ人男性が参拝者達に詰め寄られ、罵声を浴びせられるというシーンである。
詰め寄る者たちはこう叫ぶ。
「ここは日の丸を掲げるところ。お前は出て行け」
結局、意味の分からぬままこのアメリカ人は退散を余儀なくされた。
このシリーズの冒頭で述べた「亡霊」とは、一体どこからやってくるのだろうか。
亡霊とは「大切な何かを置き忘れてしまった」時、我々の前に姿を現す。
星条旗のアメリカ人を糾弾する一方で、決してアメリカを高らかに非難することのない参拝者たち。彼らのベクトルは内面、すなわち日本、そして日本人に向いている。
先の戦争で国土は焦土と化し、全てが破壊し尽くされた。しかし、玉音放送があり、東京裁判があり、GHQが進駐してくる最中でも、日本人の象徴たる天皇は相も変わらず存在し地方行脚まで行い、かつての”神”の実像を一般衆人の面前に曝すこととなった。
日本はなにも変わっていなかった。全てが砕け散ったと思ったのは実は上っ面のことで、破壊すべき日本を取り巻く本質、つまり天皇は何も変っていなかったのだ。
靖国信奉者の主張は、常に次の3点に集約される。
「英霊の御霊を弔うこと」「英霊の名誉を回復すること」、そして我々日本人が「英霊に深く頭をたれること」である。
やはり、彼らのベクトルは確実に内面、すなわち日本、そして日本人に向いているのだ。
そして、私の言う亡霊とは、するべき重要なことを成し遂げられなかった我々自身からやってきて、それは我々に強烈に主張する。この亡霊は我々の”生霊”のようなものである。
「なぜ、天皇を糾弾・断罪せず、存置してしまったのか?」
その意味において「靖国」とは、実は我々自身の問題ではないだろうか。
そして、私はそのような亡霊たちが、つくづく”哀れ”でならないのだ。
このことが、ジャニーズにハマる子持ち専業主婦に象徴される、現代の日本人に理解して貰えるかどうか、私には自信がない。
映画「靖国 YASUKUNI」は、製作に際しての公的助成金の是非を巡り、自民党・稲田朋美議員が文化庁に問い合わせを行ったことから国会議員向けの試写会が行われ、それに呼応するかのように右翼団体のバッシングも活発となり、予定されていた上映が各地で中止になるという動きも起こった。
公的助成金云々というのは隠れ蓑であるとして、たとえ稲田氏が”右側の”議員であるにせよ、なぜこうも騒ぎ立てるのか当初不思議ではあった。しかし、実際にこの作品を観るにあたり「なるほどな」と納得することができた。
それは、何のことはない。
実は、議員になる直前、日本会議の代表弁護士という立場で、戦没者追悼演説を行う稲田朋美氏の姿が、作品の中でありありと映し出されているのである(※画像はその前年のものである)
おそらく、彼女は映画の中で自分がどのように扱われているか、すなわち”世間”にどのように映っているか、異常に気になったのだろう。しかし、これらの不穏な動きがむしろ世間様のポイントを明らかに下げたであろうことは、彼女にとってはなんとも皮肉な結果をもたらした。
ここにも”世間”は横たわっているのである。
【終わり】
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2008/06/22のBlog
[ 15:05 ]
[ 【社会問題】 ]
前回のエントリーでは、朝廷、すなわち現代で言う天皇の権威を最も担保するのが、我々”世間”であることを書いた。
少なくとも表向きの顔はそれで間違いないとして、実際のところ本音の部分、”世間”の腹の中はどうだったのだろうか。
奇しくも、映画「靖国」を観るのに前後して坂口安吾を読んでいたのだが、その作品の中には戦前から戦後かけての、いわゆる”世間”の本音がちらほらと垣間見られるようで大変興味深い。
《我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、ある種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社についてはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄にについて、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気がつかないだけのことだ。》
~坂口安吾 「堕落論」 ちくま日本文学~
《我々国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒瀆する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。》
~坂口安吾 「続堕落論」 ちくま日本文学~
実際のところ、日本人のほとんど全員は、坂口安吾が書いているように、天皇を”神”だとは信じていなかったのではなかろうか。
日本人にとってかつての天皇は、信仰の対象としてその存在に意味があるわけではなく、軍部を中心とする、ごく一部の人間の作り出す根拠のない天皇崇拝の空気を横目で睨みつつ、世間はとりあえずそれに屈服するポーズを取っていたに過ぎなかったのではないか。
そして、終戦に到った時、昭和天皇はもはや飾り物としては「賞味期限切れ」でしかなく、願わくば天皇という存在は無くなって欲しい、我々の前から姿を消して欲しい、-アメリカ辺りが抹殺してくれないか、秘かにそんな願望を抱いていたのではなかろうか。
しかし、現実はそうはならなかった。戦後日本は大混乱も生じることなく、アメリカGHQの占領体制にシフトしてしまったのである。
この件については、社会学者・大澤真幸がその著書「不可能性の時代」において興味深い見方を我々に提示してくれている。
それは、これまで天皇が占拠していた”神聖な座”、ありていに言えば崇拝対象となる”飾り物”の座に、間髪を入れない交替劇があったからである。
つまり、アメリカという新たな支配構造の出現により、日本人の精神を支える形式的構造は、敗戦によって破壊されることがなかった。「内容」は変化したが、「形式」は保持されたのである。
そして、この交替劇を象徴的かつ劇的に演出したのが、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサー元帥と昭和天皇・裕仁との「結婚写真」であるというのだ。
彼の著書に興味深い逸話が紹介されている。
1945年8月30日のマッカーサーの厚木海軍飛行場の到着は、敗戦後の決定的大事件でもあったのにも関わらず、翌日の新聞一面を飾ることはなかったのだ。日本人なら誰もが目にしたことのあるコーンパイプにサングラス姿の、あの写真である。
大澤真幸は指摘する。
日本人がアメリカを受け入れたのは、マッカーサーと天皇との「結婚・抱擁」を待って初めて、今後為されるであろうアメリカの支配体制が有意義な出来事になったからではなかろうかと。この2人の記念写真こそが、アメリカが日本人のコンセンサスを勝ち取る決定打となったのである。
私は、「天皇は時の権力者に容易になびく。日本人であろうがアメリカ人であろうがそれは問題ではない」と既に書いた。そして、天皇とは、戦後アメリカがわざわざ定義するまでもなく、日本人の象徴、飾り物でもあった。このように考えると、天皇象徴の母体でもある日本人が2人の写真を目の当たりにし、容易にアメリカになびいてしまったのも何ら不思議なことはない。
日本人にとっては崇拝の対象は絶対的に必要なものであるが、それは極端に言えば何でも構わないのである。
内容よりも、飾り物が存在するいう「形式」こそが最も重要なのである。
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2008/06/21のBlog
[ 16:18 ]
[ 【社会問題】 ]
《靖国神社は戦争を祀る<生>と<死>の巨大な舞台であり、そこで私は戦争に関する様々な<記憶>と<忘却>、戦争の巨大な<仮面>を目の当たりにした。今もなお世界において、戦争という名の亡霊が人類に接近する歩みを止めたことはない。
私は、靖国神社の中に残る<戦争後遺症>を通して、人類にとって永遠のテーゼでもある<戦争と平和>とは何なのかを、十年、もの歳月をかけて追いかけてきた。
その問いかけにはそれぞれの観客の心の中の<靖国>を通じて考えてもらいたい。》
~映画「靖国 YASUKUNI」 パンフレットより 監督 李纓(リ・イン)の言葉~
靖国の監督リ・インは戦争という名の”亡霊”は人類に対し歩みを止めたことがないと指摘し、戦後約60年を経た今でも、靖国に”戦争後遺症”を感じとっている。
この感覚については私も同感であり、この戦争後遺症を引きずる現代の中に亡霊を見る思いを禁じえなかった。
私は、映画「靖国」に映し出される「街宣車と共にある右翼の人間」「軍服を着て闊歩する人間」「首相の参拝に反対する人間」「戦没者を追悼する人間」、そのような”人間たち”を垣間見るにあたり、つくづく彼らは哀れな者たちであると感じてしまう。「哀れ」なのだ。
つまり、私はこのような人間たちこそ、戦争後遺症が産み出した”亡霊”そのものに他ならないと感じてしまったのである。
■戦争が終わり、日本人は何かを置き忘れた
なぜ、このような亡霊たちが、21世紀の現代においても我々の前に姿を現すのか。
それは、戦後、日本人は大切な何かを置き忘れてしまった、するべき重要な何かをしてこなかったからではないだろうか。
極東国際軍事裁判、俗に言う「東京裁判」では東条英機ら戦犯と見なされた者たちが死刑、終身刑、禁固刑に処せられている。これら軍部出身の者たちはかつての日本を不毛な戦争へと導いた大罪人であることは明白であるが、それでも戦勝国が敗戦国を裁くというのは偽善以外の何ものでもない。なぜならば、戦勝国、敗戦国の如何に関わらず、戦争推進者は全てが”戦犯”であると考えるからである。そして、この裁判においてこそ最も重要なことが為されていない。バッサリと抜け落ちている。
それは、時の昭和天皇・裕仁を退位・訴追、さらにはA級戦犯として死刑判決を下さなかったことである。
東京裁判など偽善そのものであると考える。それでも、そのような偽善的行為を全うするならば、当然、天皇も裁かれてしかるべきであったとも考える。ところが、占領政策を優位に進めるため、アメリカは天皇制を温存する決断を下している。このことが東京裁判の偽善性を何よりも雄弁に物語っており、天皇に対する何らか制裁を与えられなかったことこそ「戦後日本が置き忘れたこと」なのではなかろうか。
かつて、天皇とは我々日本人にとって”神”そのものであった。
戦前、「天皇も人間だからやはり大便をするのではないか」と生徒の質問に答えた教師がいたが、「天皇は神であり、大便などしない」と言う理由でこの教師が処罰されると言う事件もおきている。
しかし、昭和天皇は1946年1月1日、東京裁判が始まる前にいわゆる「人間宣言」を行っている。これは、その後の東京裁判で天皇自身の処遇を暗示する出来事でもあったわけだが、かつて”神”と崇め奉られていた天皇が、「実は人間でした」と表明することによる、アメリカの占領政策という長いものに巻かれる逃げの一手に他ならない。
靖国には明治維新から大東亜戦争に到るまで、240万人にも及ぶ戦没者が合祀されている。ほとんどが無名の一般国民である。そのような戦争犠牲者に対し、「実は人間でした」ときた。これでは彼らは浮かばれない。
しかし、このような天皇の立ち振る舞いは戦後始まったことではない。日本の歴史において天皇が直接の実権を握り政治を左右した時期もあったが、基本的には天皇、かつての朝廷はその時々の権力者のお飾りに過ぎなかった。
日本人が好きな戦国時代にもそれはよく表れている。朝廷から征夷大将軍に任ぜられたものが幕府を開くという図式である。権力者は朝廷という虚構の権威を利用し、天下統一を図ってきたのである。なぜならば、朝廷の権威を最も担保していたのが一般の民・百姓、すなわち”世間”であったからである。
そのような歴史的経緯も踏まえ、アメリカが天皇を温存し、戦後「国民の象徴」という荒唐無稽な立ち位置に追いやってしまったのである。
天皇は時の権力者に容易になびく。日本人であろうがアメリカ人であろうがそれは問題ではない。そんな”世間”を見透かすかのようにアメリカは天皇をかつての”お飾り”し、その後の日本を植民地化することに成功したのである。
強いものに容易くなびき、自身の主張一つ発することのできない日本人。会社でも、友人関係でも、家族の中でも、思い当たるふしはいくらでもあるだろう。
そんな”世間”を象徴するのが「天皇」であるとは、なるほどよく言ったものである。
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2008/06/15のBlog
[ 17:08 ]
[ 【社会問題】 ]
《日常は平穏そのものだが、毎年8月15日になると、そこは奇妙な祝祭的空間に変貌する。
旧日本軍の軍服を着て「天皇陛下万歳」と猛々しく叫ぶ人たち、的外れな主張を並べ立て星条旗を掲げるアメリカ人、境内で催された追悼集会に抗議し参列者に袋叩きにされる若者、日本政府に「勝手に合祀された魂を返せ」と迫る台湾や韓国の遺族たち。
狂乱の様相を呈する靖国神社の10年にわたる記録映像から、アジアでの戦争の記憶が、見る者の胸を焦がすように多くを問いかけながら鮮やかに蘇ってくる。
そして知られざる事実ががある。
靖国神社のご神体は刀であり、昭和8年から敗戦までの12年間、靖国神社の境内において八千百振りの日本刀が作られていたのだ。
「靖国刀」の鋳造を黙々と再現してみせる現役最後の刀匠。その映像を象徴的に構成しながら、映画は「靖国刀」がもたらした意味を次第に明らかにしていく。》
~映画「靖国 YASUKUNI」 パンフレットより一部抜粋~
この作品の最大の特徴は、一切のナレーションを排除している点にある。
現役最後の靖国刀の刀匠、刈谷直治(90歳)が刀を作り上げるまでの工程を軸に、終戦記念日である8月15日の靖国神社の映像を中心としながら、映画は淡々と進行してゆく。
我々はこの靖国にまつわる映像を、ただひたすら見続けることになるのだ。
それにしても、である。
画面の中に展開される(これは現実に起こっていることなのだが)圧倒的とも言える人間同士のせめぎ合いは、一体何なのか。
黒塗りの街宣車、見るからにその筋の者たち。
-スピーカーの炸裂音。
若者から年寄りに到るまで、軍服を着て闊歩する者たち。
-行軍ラッパ。
学生と思われる者のシュプレヒコール。
-「首相の靖国参拝反対」
右派政治家による戦没者追悼の演説。
-君が代斉唱。
「侵略戦争だの防衛戦争だのと論議もいいが、祖国日本のため命の極限において戦った人を侵略者扱いする国は日本以外にない!」
「次は陸軍海軍ともに軍隊生活でもっていちばん楽しい食事ラッパであります。天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!」
「靖国神社参拝糾弾!侵略戦争反対!」
「一国の首相が一政治家として、一国民として戦没者に対して感謝と敬意を捧げる。哀悼の念を持って靖国神社に参拝する。二度と戦争をおかしてはいけないという事が日本人からおかしいとかいけないとかいう批判が私はいまだに理解できません」
我々の日常から遠くかけ離れた異様な世界でもあるのだが、それでもこの作品は映画の形式性において極めてフラットな姿勢を崩すことがない。小説で言うところの第三者の視点、すなわち”神の視点”により我々はこの世界を垣間見ることになる。
そして、監督リ・インが我々に訴えかけているのは、この作品をとおして「何を見るのか」ということである。同時に、見る者それぞれの”靖国”とは一体何なのかを「思考すること」をも要求しているのだ。
確かに、右翼系のメディアや言論人がこの作品に過剰に反応するのも分からなくもない。靖国の存在に異を唱える者を擁護派が袋叩きにし怪我をさせるシーンや、南京大虐殺の写真などをありのままに写しているからだ。
しかし、この作品においてそのような抗議活動は全く意味を持たないだろう。
イ・リン監督が我々に要求するところは、そのようなイデオロギー囚われることなく現代の靖国神社という場において繰り広げられている現実を「見つめ」「思考する」ことであるからだ。これは左右のイデオロギーを遥かに超越する姿勢である。
我々は映画「靖国 YASUKUNI」に何を見るのだろうか。
刀匠、刈谷直治氏による靖国刀の製作は、物語の進行と共に淡々と為されてゆく。
彼は決して多くを語ってはくれない。
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2008/06/14のBlog
[ 16:59 ]
[ 【社会問題】 ]
或る晴れた土曜の午前、京王線電車内のひとコマである。
「あれでうちの子も結構いいとこあってね、この前なんかは、ええと、母の日だっけ?
眼の疲れをとる”ひんやりシート”みたいなのプレゼントしてくれて・・・」
「あなたそれって普段テレビと寝てばかりなのがバレバレじゃない(爆笑)」
「でもねえやっぱり子どもは好きにさせたげるのが一番よ。自主性っていうの?
秋葉原の事件みたいになったらそれこそ大変じゃない?」
「あの犯人もいろいろあったみたいだけどね」
「うん、そうそう、タッキーだって結構苦労してるのよね。
ジャニーズなんかは始めは必ずうしろで踊らされるみたいだし、
中にはずうっとうしろばかりのかわいそうな子もいてね、本当大変なのよね」
「今日の嵐なんかもあの子たちったらかなり苦労してるわよ、若いからいろいろ遊びたい時期なのに、仕事ばかりで本当かわいそう・・・」
「今朝がた地震なんかあったけ?」
「うんあったわよ。ちょっとだけの揺れね」
「そういえばOLやってた時にハンパじゃないくらいに地震嫌いな子がいて、
”前世”は地震で死んだんじゃないかって噂でね(爆笑)」
「地震も中国みたいになったらたいへんよね」
「ほんとお気の毒にねえ」
弛緩しきった惰性としての日常を過ごしているのだろう、そう思わざるを得ない会話を耳にするにあたり、電車内もきっと彼女たちの日常の延長線でしかないのか、辺り構わず世間話をわめき立てている。
現在中学3年生の男子を抱え、来年はいよいよ高校受験だというこの母親たちは片や巨大なバストを揺さぶりつつ会話の主導権を握り、片やそれに反応する痩せすぎの、世間でいうところのこれら典型的「オバサン」たちも立派な”KY”であるとも言える。
隣でなされている彼女たちの会話があまりにもうるさく、本に集中できなかったため、どんなことを話しているのかそれとなく聴いてみたのが大方以上の内容だ。
秋葉原の事件の話題では一瞬しんみりとした表情を浮かべ、
四川省大地震の話題でも一瞬しんみりとした表情を浮かべ、
それでも会話は唐突にあらぬ方向へと突き進み、結局彼女たちの最大の関心事はジャニーズ、とりわけ今日観に行く予定の”嵐”の東京ドーム公演なのである。
これも現代の子持ち専業主婦の一側面なのである。
公共の場において、拒否するしないに関わらず我々のもとに土足で踏み込んでくる(もう少し静かに話ができないものか。みたところこのような”オバサン”が多すぎる)轟音を撒き散らし、暴力装置としての右翼の黒塗り街宣車と実は本質的に同じなのではないかと思った私は、少し考えが大げさ過ぎるのかもしれない。
東京で観測された微弱な揺れが実は「2008年岩手・宮城内陸地震」であったことに、いつ頃彼女たちは気がついたのだろうか。
さて「靖国」である。
「咽元過ぎれば熱さを忘れる」というが、一時期放映中止問題であれほど世間を騒がせた映画「靖国 YASUKUNI」も、今ではメディアの報道も途絶えてしまっている。
しかし、この映画を巡る騒動が片付いたわけでは全くない。現在においても右翼系メディアを中心とする抗議の電話やメールといったものが制作会社に多数寄せられているからだ。
例えば、雑誌「SAPIO」6月11日号では漫画家小林よしのり氏が「ゴーマニズム宣言」において、さらには著書『靖國論』においても映画「靖国」は”反日プロパガンダ”であると主張しているようだ。私は小林氏の「ゴーマニズム宣言」には何度か目を通したことがあるが、なかなか興味深い論点を提示することもある一方で、基本的には感情論に裏打ちされた上っ面の主張を展開している場合が非常に多い作者であるというのが彼に対する印象である。
だが、この”感情論”こそが靖国問題を語る上での最も厄介な障壁であり、この”感情論”により靖国という存在の実体がこれまで曖昧にされてきたことは言うまでもない。つまり、靖国を巡る論争は”反中国”に象徴されるイデオロギー的な問題に常にすり替えられてきたのである。
靖国問題、靖国論争、そして映画「靖国」もまたこれらイデオロギー的発想を乗り越える必要がある。これを飛び越えてこそ、初めて靖国という実体の輪郭が明確に我々の眼前に現れてくるだろう。
映画「靖国」を撮った監督・李纓(リ・イン)が中国人であることも非常に興味深い。このことが小林よりのり氏を始めとする右翼系論者に波風をたてる契機ともなったのだが、李監督が撮影において採用した方法論は、イデオロギー論を乗り越えることに、実は成功しているのではないか、そのような明確な感想を私は持ったのである。
その意味においてこの作品は成功している。
これまで、多くの人間が様々な立場、見方で靖国を論じてきたが、映画「靖国」は映像的分野において金字塔を立てたと言えるだろう。
2008年6月14日、土曜日。
私は「靖国 YASUKUNI」を観るべく、早朝渋谷に向かったのである。
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2008/06/01のBlog
[ 23:32 ]
[ 【社会問題】 ]
[関連したBlog]
”笹川陽平”なる日本財団のみみっちい男が、どうやら詭弁を弄している模様である。
たばこを1箱1000円にすることで健康が増進し、なおかつ税収も増えるということを彼は主張しているのである。
常日頃から思うのだが、日本のエスタブリッシュメントはなぜ故にこうも”バカ”なのか?
”笹川陽平”と言えばかつての「日本船舶振興会」、要は競艇の親玉、”笹川良一”の三男坊ではないか。そして、笹川良一とはかつて小佐野賢治と裏社会での覇権を争い、それに打ち勝ち、あの田中角栄をして”君づけ”で呼んだ、事実上”日本のドン”として君臨した人間である。
私はこの笹川良一を肯定する立場ではないが、この期に及んで彼の三男坊が世間に対し主張するのが「たばこ1箱1000円」であるとは、なんともスケールが小さく、近視眼的で、しかも詭弁そのものであることは、はっきりと主張したい。
そもそも「たばこ」の問題などシンプル極まりないものである。
①最近は嫌煙権が市民権を得たために公共の場を中心として、外では吸いずらくなった。
②たばこは百害あって一利なし。特に肺癌を誘発する最大の原因となっている。
たった、これだけの話だ。
①については、喫煙者は敢えて妥協するしかない。
駅の構内で、列車や飛行機の車内で、人が集うような場で、我慢すればいいだけの話である。たったこれだけである。
吸いたければ自宅で、それこそ死ぬほど気がすむまで吸えばいいのである。誰もこれは止められはしまい。
②についても同様だ。
喫煙者は何もたばこが健康に良いと思って吸っている人はおそらく1人もいない。かなり体に悪いだろう、でも止められないし好きだから吸ってる、というのが大方の現実である。結果、それが原因で癌になって死んでも、まあ仕方なしと思っているのが大半だ。だから、日本ではバカなアメリカ人のように、「俺が肺癌になったのもたばこのせいだ!」という訳の分からぬ理屈で訴訟に訴える人が少ないのも頷ける。(そんなアメリカ人に告ぐ。だったら吸うなよ!<爆>)
「たばこ」という嗜好品はそのような、かつて流行った言葉で言うと「自己責任」の極地なものでしかない。そして、それこそが嗜好品の嗜好品たる所以でもある。体に良い”嗜好品”などあるわけないだろう!これがある種の世の中の摂理でもある。
このように書くと、「いや、問題はもう一つある。たばこによる、例えば肺癌の増加によって医療費の高騰はどうするの?」といった、”笹川陽平”的指摘である。
このような人間にこそ、私は「バカ野郎!」と言いたい!
たばこは確かに健康を害する嗜好品である。
では、高級食材とされるキャビアや鱶鰭や油たらたらの豚の丸焼きや、北京ダックなどはどうなのか?さらには、世の政治家が夜な夜な舌鼓を打つ高級料亭での、あからさまに健康にはプラスとは言いがたい、ばか高いだけの不健康食材の数々はどうなのか?
もっと突っ込めば「酒」だって、体にいいことは全然ない(少しだけなら百薬の長ともいうが、そんな飲み方ををしている人は稀である。実際問題、酒も「体に悪い!」)エスカレートした矢先に、かつてのアメリカのような”禁酒法”でもぶち上げるつもりなのか。
このような、メタボリックを誘発するような食材を、では健康に害であると言う意味で、医療予算が大変だという意味で、禁止するなり価格を上げて果たしていいのだろうか?
ふざんけんな!と思う。
このような「幻想的健康志向」「詭弁的健康信仰」もいい加減にして欲しいものだ。
そもそも、国民医療費を抑えると言う意味で、例えば、たばこといった嗜好品の値上げをするのは本末転倒なのである。
これは、現在の「後期医療制度」についても当てはまる。
確かに、医療に関する財源はジリ貧の状態である。これは間違いない。
しかし、この原因を作ったのは戦後一党独裁を継続し、腐敗の限りを尽くした政府与党、つまりは「自民党」の大罪なのである。それをあろうことか、自身の責任も省みず、金がないから「老人も金を出せ」とは何事であるか。そのような妄言を吐く前に、時の為政者はそれこそ首を括ってでも謝罪すべき事態であったのだ。それができなければ、予算がないなりに、どうにかやりくりするべきである。
それこそが政治であり、その当事者が政治家なのである。
よって、たばこ値上げの問題にしても、医療予算を”笹川陽平”なる愚か者が云々する前に、いかに国家の予算立てをどうするか工夫と議論が必要なのである。そのような前提もなしに、時の政治家は「金がないから値上げ」「金がないから増税」というやり方にすがりつき過ぎる。そんなことは猿でもできることなのである。
”笹川陽平”なる男が一度でも「医療費の不正な使途」について言及したことがあったか?
塩漬けにされてる数百兆円とも言われる各省庁の隠し金について言及したことがあったか?
国家予算を遥かに超える特別会計の矛盾について言及したことがあったか?
1箱1000円にすれば9兆5千億円の税収増が見込まれるなどと言う詭弁を云々する前に、彼は国家の予算について真剣に考えたことが、果たしたあったか?
一度”笹川陽平”なる男をぶん殴ってやるがいい。
親にも殴られたことがないであろう世間知らずの”ボンボン”を、ぶん殴って眼を覚ましてやるがいい。
このような偽善者、詭弁を弄するものすべてをぶん殴ってやるがいい。
私が主張するのはそういうところである。
※異論反論はいつでも受けて立つ!
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”笹川陽平”なる日本財団のみみっちい男が、どうやら詭弁を弄している模様である。
たばこを1箱1000円にすることで健康が増進し、なおかつ税収も増えるということを彼は主張しているのである。
常日頃から思うのだが、日本のエスタブリッシュメントはなぜ故にこうも”バカ”なのか?
”笹川陽平”と言えばかつての「日本船舶振興会」、要は競艇の親玉、”笹川良一”の三男坊ではないか。そして、笹川良一とはかつて小佐野賢治と裏社会での覇権を争い、それに打ち勝ち、あの田中角栄をして”君づけ”で呼んだ、事実上”日本のドン”として君臨した人間である。
私はこの笹川良一を肯定する立場ではないが、この期に及んで彼の三男坊が世間に対し主張するのが「たばこ1箱1000円」であるとは、なんともスケールが小さく、近視眼的で、しかも詭弁そのものであることは、はっきりと主張したい。
そもそも「たばこ」の問題などシンプル極まりないものである。
①最近は嫌煙権が市民権を得たために公共の場を中心として、外では吸いずらくなった。
②たばこは百害あって一利なし。特に肺癌を誘発する最大の原因となっている。
たった、これだけの話だ。
①については、喫煙者は敢えて妥協するしかない。
駅の構内で、列車や飛行機の車内で、人が集うような場で、我慢すればいいだけの話である。たったこれだけである。
吸いたければ自宅で、それこそ死ぬほど気がすむまで吸えばいいのである。誰もこれは止められはしまい。
②についても同様だ。
喫煙者は何もたばこが健康に良いと思って吸っている人はおそらく1人もいない。かなり体に悪いだろう、でも止められないし好きだから吸ってる、というのが大方の現実である。結果、それが原因で癌になって死んでも、まあ仕方なしと思っているのが大半だ。だから、日本ではバカなアメリカ人のように、「俺が肺癌になったのもたばこのせいだ!」という訳の分からぬ理屈で訴訟に訴える人が少ないのも頷ける。(そんなアメリカ人に告ぐ。だったら吸うなよ!<爆>)
「たばこ」という嗜好品はそのような、かつて流行った言葉で言うと「自己責任」の極地なものでしかない。そして、それこそが嗜好品の嗜好品たる所以でもある。体に良い”嗜好品”などあるわけないだろう!これがある種の世の中の摂理でもある。
このように書くと、「いや、問題はもう一つある。たばこによる、例えば肺癌の増加によって医療費の高騰はどうするの?」といった、”笹川陽平”的指摘である。
このような人間にこそ、私は「バカ野郎!」と言いたい!
たばこは確かに健康を害する嗜好品である。
では、高級食材とされるキャビアや鱶鰭や油たらたらの豚の丸焼きや、北京ダックなどはどうなのか?さらには、世の政治家が夜な夜な舌鼓を打つ高級料亭での、あからさまに健康にはプラスとは言いがたい、ばか高いだけの不健康食材の数々はどうなのか?
もっと突っ込めば「酒」だって、体にいいことは全然ない(少しだけなら百薬の長ともいうが、そんな飲み方ををしている人は稀である。実際問題、酒も「体に悪い!」)エスカレートした矢先に、かつてのアメリカのような”禁酒法”でもぶち上げるつもりなのか。
このような、メタボリックを誘発するような食材を、では健康に害であると言う意味で、医療予算が大変だという意味で、禁止するなり価格を上げて果たしていいのだろうか?
ふざんけんな!と思う。
このような「幻想的健康志向」「詭弁的健康信仰」もいい加減にして欲しいものだ。
そもそも、国民医療費を抑えると言う意味で、例えば、たばこといった嗜好品の値上げをするのは本末転倒なのである。
これは、現在の「後期医療制度」についても当てはまる。
確かに、医療に関する財源はジリ貧の状態である。これは間違いない。
しかし、この原因を作ったのは戦後一党独裁を継続し、腐敗の限りを尽くした政府与党、つまりは「自民党」の大罪なのである。それをあろうことか、自身の責任も省みず、金がないから「老人も金を出せ」とは何事であるか。そのような妄言を吐く前に、時の為政者はそれこそ首を括ってでも謝罪すべき事態であったのだ。それができなければ、予算がないなりに、どうにかやりくりするべきである。
それこそが政治であり、その当事者が政治家なのである。
よって、たばこ値上げの問題にしても、医療予算を”笹川陽平”なる愚か者が云々する前に、いかに国家の予算立てをどうするか工夫と議論が必要なのである。そのような前提もなしに、時の政治家は「金がないから値上げ」「金がないから増税」というやり方にすがりつき過ぎる。そんなことは猿でもできることなのである。
”笹川陽平”なる男が一度でも「医療費の不正な使途」について言及したことがあったか?
塩漬けにされてる数百兆円とも言われる各省庁の隠し金について言及したことがあったか?
国家予算を遥かに超える特別会計の矛盾について言及したことがあったか?
1箱1000円にすれば9兆5千億円の税収増が見込まれるなどと言う詭弁を云々する前に、彼は国家の予算について真剣に考えたことが、果たしたあったか?
一度”笹川陽平”なる男をぶん殴ってやるがいい。
親にも殴られたことがないであろう世間知らずの”ボンボン”を、ぶん殴って眼を覚ましてやるがいい。
このような偽善者、詭弁を弄するものすべてをぶん殴ってやるがいい。
私が主張するのはそういうところである。
※異論反論はいつでも受けて立つ!
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2008/05/30のBlog
[ 22:00 ]
[ 【音楽図鑑】 ]
[関連したBlog]
warmgunさ~ん♪
”ローリー・アンダーソン”なんつーても、
だれもわかんねーでないかい?
Doblogでそれに反応すんのは、
きっと俺だけだべさ~!(笑)
この数日、仕事でお疲れになったwarmgun氏のために、お堅いエントリーの合間を縫って「不破2.0」がひと時の清涼を”アーティスティック”な側面からお届けする、実に興味深い企画である(笑)
”ローリー・アンダーソン”と聞いて、僕は「あっ!」と思いましたよ。
それは、「そうだ!”ローリー・アンダーソン”って、いたよね!」という懐かしい想いと、「ああ、warmgunさんも何かしら彼女に興味を抱いていたんだ!」という、氏の音楽性の広さ、深さに対する敬意でからである。
「亀の甲より年の功」と言ったら、あからさまに叱責を受けそうだが、それでも氏の音楽性の広さには計り知れないものを感じる。基本的に僕は”ロック”(注1)の人かと思っていたが、実にこんなところまで氏は手を広げていたのである(爆)
今、僕は敢えて”音楽性”と書いた。
それはwarmgun氏が、「Strange Angels」なる彼女のアルバムを聞いていたと知ったからである。
しかし、ご存知のように、彼女は音楽だけに収まるようなタイプでは決して有り得なかった。
僕は”ローリー・アンダーソン”を知ったのは、実をいうと”現代美術”という側面からであった。
実際、彼女はアメリカの大学で彫刻を専攻し、さらには芸術理論も学んだという経緯もある。
そして、その後の彼女の活動を通して伺い知れるのは、周囲は彼女を単なる絵描きやミュージシャンとは考えてはいなかった、ということである。
warmgunさ~ん♪
”ローリー・アンダーソン”なんつーても、
だれもわかんねーでないかい?
Doblogでそれに反応すんのは、
きっと俺だけだべさ~!(笑)
この数日、仕事でお疲れになったwarmgun氏のために、お堅いエントリーの合間を縫って「不破2.0」がひと時の清涼を”アーティスティック”な側面からお届けする、実に興味深い企画である(笑)
”ローリー・アンダーソン”と聞いて、僕は「あっ!」と思いましたよ。
それは、「そうだ!”ローリー・アンダーソン”って、いたよね!」という懐かしい想いと、「ああ、warmgunさんも何かしら彼女に興味を抱いていたんだ!」という、氏の音楽性の広さ、深さに対する敬意でからである。
「亀の甲より年の功」と言ったら、あからさまに叱責を受けそうだが、それでも氏の音楽性の広さには計り知れないものを感じる。基本的に僕は”ロック”(注1)の人かと思っていたが、実にこんなところまで氏は手を広げていたのである(爆)
今、僕は敢えて”音楽性”と書いた。
それはwarmgun氏が、「Strange Angels」なる彼女のアルバムを聞いていたと知ったからである。
しかし、ご存知のように、彼女は音楽だけに収まるようなタイプでは決して有り得なかった。
僕は”ローリー・アンダーソン”を知ったのは、実をいうと”現代美術”という側面からであった。
実際、彼女はアメリカの大学で彫刻を専攻し、さらには芸術理論も学んだという経緯もある。
そして、その後の彼女の活動を通して伺い知れるのは、周囲は彼女を単なる絵描きやミュージシャンとは考えてはいなかった、ということである。
彼女が活躍したのは1980年代のことである。
当時、現代アートの世界では、絵画といった平面的な様式から脱皮した、あたかも舞台セットを彷彿とさせる「インスタレーション」といわれる、新しい立体的な芸術様式が台頭し始めた時代であった。
そんな中で”ローリー・アンダーソン”はパフォーマンサーとして、その地位を期待されたのである。
例えば、ギターシンセサイザーを使ってギターを弾きつつトロンボーンの音を出し、センサーを張り巡らしたウエストスーツを身にまとい、肉体をあたかも打楽器のように”叩く”ことで打音を奏で、さらにはボイスチェンジャーで自信の声を男の声に変換しパフォーマンスを繰り広げる。
彼女の代表的舞台パフォーマンスは「0&1」として結実し、それはVIDEOでも発売されている。
10年以上も昔のことだろうか、僕も彼女の作品「0&1」を観たことがある。
数人の女の子をアシスタントにし、彼女が様々なパフォーマンスを披露していたのを覚えている。その中身はまさに紹介したギターシンセ、パーカッションスーツ、ボイスチェンジャーといった彼女のエッセンス目白押しであった。テーマは「0&1」、すなわちコンピューターの根源である2進数「0と1」を現代風にアレンジし、そして揶揄する内容であった。テーマは勿論「デジタル」である。当時は”デジタル”そのものが、芸術作品として成り立つ時代でもあったのだ。
僕はこの作品を非常に興味深い眼で見つつも、しかしながら、5、10分で猛烈な眠気に襲われ、最終的には熟睡してしまったことを今でもよく覚えていうる。あれほどに敬愛したローリーの作品を、たとえ夢うつつの中でそれを記憶していたとしても、居眠りしてしまったという事実は当時の僕にとってはいささかショックでもあった。(要は、つまんね~!ってことよ<笑>)
だから、僕の”ローリー・アンダーソン”感はそれなりに”観念的”でもある。だが、その最終的には解釈し切れなかったローリーが、それが故に僕の内面で生き続け、今こうして新たな息吹をwarmgun氏によって喚起されたとも言える(たぶん本人にはそのような意識はないと思うが)
結局、僕にとっての”ローリー・アンダーソン”とは何だったのだろうか?
それは、あの当時、現代美術を指向していた僕にとっての「それを後押しするファクター」、たとえ意味が分からなくとも「なんとなく意味が分かったように現代アートを誘導してくれる、ちょっと素敵なおばさん」であったような気がする。
禅問答をしているようだが、”ローリー・アンダーソン”とは分かり易いようで分かりづらく、僕のような人間にとっては「分かりづらいようで分かり易い」アーティストでもある。
僕はおそらく、あの当時、ローリーを通じて現代アートを自分自身に担保していたのではなかったろうか・・・今更ながらに、そんな疑惑が頭をよぎっている。
写真は僕の所有する、美術出版社「現代美術」の表紙である。
ここに写されているのはドイツのアーティスト”ヨーゼフ・ボイス”と、その後ろにいるのは”ナム・ジュン・パイク”である。
当時、この二人は僕にとってのスターであったのは言うまでもない。
そして、ページをぱらり、ぱらり、とめくってみる。
そこに見いだすのは現代アートの巨匠、ポップアートの重鎮とも言える、ロイ・リキテンシュタインと並列に映し出される”ローリー・アンダーソン”の姿である。
リキテンシュタインの右に出るものなし、という意味でローリーは左側に写っているのだろうか、しかし確かに、あの当時”ローリー・アンダーソン”はリキテンシュタイン以上に僕をインスパイアーしたアーティストの1人でもあった。
《天国はTVのようなものだという
完璧なひとつの小さな世界で
あなたのことなど全然必要としていない》
そう、それは確かに真実である。
僕がTVを見なくなったと同様に、今現在のローリーも!おそらくは、たぶん僕の想像力において、テレビなどほとんど見ていないのではあるまいか?(笑)
冒頭に紹介した「Strange Angeles」がリリースされたのは1989年。
当時、アメリカにおいてテレビを作っているのは”ゼニス”ただ1社であったはずだ。
ローリーの「天国はTV・・・」という発言は、その字面意外に、実はこのようなアメリカの社会状況を皮肉った内容でもあったということに、warmgun氏も気がついてはいないはずだ!(ウッシッシ<笑>)
つまり、アメリカの言うところの”天国”とはTVという”仮想空間”での天国であり、日本という他国に委ねられたテクノロジーに依存した”委託された”天国であることを、ローリーは揶揄しているのである。
それが、当時のアメリカの虚しさであり、これは”今”に及んで、「虚しさ」から「決定的破壊の要因」に増殖するにまで到っているのが現実である。
”ローリー・アンダーソン”とは、その辺までも予言したアーティストであり、その意味においては、芸術家とは時に政治家以上に世界に達見した存在になりうると、彼女を眺めつつ、あらためてそれを実感した次第でもある。
今、”ローリー・アンダーソン”は、どのような活動をしているのだろうか?
(これはDoglogユーザーに問いかけても、だぶん無理だろうな<笑>)
(注1)
ここで、”ロック”というものの定義は必要であろう。
果たして、”ロック”とは何だろう?
それは、具体的にはリードギターを”ディストーション”というエフェクター経由でかき鳴らし、アップテンポで騒ぎまくることでは決してないことは明白である。
ロックとは楽曲の形式ではなく、感性の形式を指す、と私は考える。
その意味においては、ピアノ1台、バイオリン一つでも”ロック”は可能である。
よって、”ローリー・アンダーソン”の開拓した荒野は、その感性の様式において、実にロック的とも解釈できるのである。
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2008/05/27のBlog
[ 22:27 ]
[ 【社会問題】 ]
■城尾被告に死刑判決 長崎市長射殺
《長崎市長選中の07年4月、伊藤一長・前市長(当時61)を銃撃して殺害したとして、殺人などの罪に問われた指定暴力団山口組系の元幹部、城尾哲弥被告(60)の判決公判が26日、長崎地裁であった。松尾嘉倫(よしみち)裁判長は「民主主義を根底から揺るがす犯行で、極刑はやむを得ない」と述べ、求刑通り死刑判決を言い渡した。
判決は犯行を「選挙民の選挙権行使を否定するものだ。選挙妨害としてこれほど直接かつ強烈なものはない」と指摘。被害者が1人にとどまることを考慮しても結果の重大性などから極刑を科すことはやむを得ないと述べた。
判決は、城尾被告が事件前、資金源としていたとされる建設業者に公的融資制度が適用されなかったことや市発注の道路工事現場で起きた車の事故をめぐり、市役所に押しかけて助役に面会を求めるなどしていたと認定。全く理由のない主張・要求だと述べて「市への不正追及だった」との被告側の主張を退けた。》
~2008年05月26日 asahi.com~
この事件について、私が非常に腹立たしく思ったのは5月27日朝日新聞朝刊の社説である。
「市長殺害死刑 テロへの怒りを新たに」と題した論旨は、次のような展開を見せている。
《暴力で言論や政治活動を封じようというのは、民主主義に対するテロである。裁判官はテロの社会的な影響の深さを重く見て、いまある刑罰の中で最も重い死刑を選んだということだろう。厳罰化の流れが背景にあるとはいえ、そうしたテロに対する厳しい姿勢は十分うなずけるものだ。》
確かに、市長選の期間中に候補者を銃殺するなど、言語道断、とうてい許されざる民主主義に対する大罪であることは、言うまでもない。
しかも、被告城尾哲弥は、右翼の構成員であり広域暴力団山口組系の元幹部でもあるとされている。この種の人間の犯罪に対し、世間の人々は「やれやれ、ほっとした」「さも当然」とばかりに、さぞ溜飲を下げていることだろう。
僕がこのような朝日の社説を読むにつれ、つくづく無様で、作為的で、偽善的だと思うのは次の点においてである。
それは、今回の朝日新聞社説については、三大紙と呼ばれるジャーナリズムが提供するに値しない、致命的、あるいは意図的ともいえる論点の誤り、すり替えを2点ほど指摘しなくてはならないだろう、ということだ。
《長崎市長選中の07年4月、伊藤一長・前市長(当時61)を銃撃して殺害したとして、殺人などの罪に問われた指定暴力団山口組系の元幹部、城尾哲弥被告(60)の判決公判が26日、長崎地裁であった。松尾嘉倫(よしみち)裁判長は「民主主義を根底から揺るがす犯行で、極刑はやむを得ない」と述べ、求刑通り死刑判決を言い渡した。
判決は犯行を「選挙民の選挙権行使を否定するものだ。選挙妨害としてこれほど直接かつ強烈なものはない」と指摘。被害者が1人にとどまることを考慮しても結果の重大性などから極刑を科すことはやむを得ないと述べた。
判決は、城尾被告が事件前、資金源としていたとされる建設業者に公的融資制度が適用されなかったことや市発注の道路工事現場で起きた車の事故をめぐり、市役所に押しかけて助役に面会を求めるなどしていたと認定。全く理由のない主張・要求だと述べて「市への不正追及だった」との被告側の主張を退けた。》
~2008年05月26日 asahi.com~
この事件について、私が非常に腹立たしく思ったのは5月27日朝日新聞朝刊の社説である。
「市長殺害死刑 テロへの怒りを新たに」と題した論旨は、次のような展開を見せている。
《暴力で言論や政治活動を封じようというのは、民主主義に対するテロである。裁判官はテロの社会的な影響の深さを重く見て、いまある刑罰の中で最も重い死刑を選んだということだろう。厳罰化の流れが背景にあるとはいえ、そうしたテロに対する厳しい姿勢は十分うなずけるものだ。》
確かに、市長選の期間中に候補者を銃殺するなど、言語道断、とうてい許されざる民主主義に対する大罪であることは、言うまでもない。
しかも、被告城尾哲弥は、右翼の構成員であり広域暴力団山口組系の元幹部でもあるとされている。この種の人間の犯罪に対し、世間の人々は「やれやれ、ほっとした」「さも当然」とばかりに、さぞ溜飲を下げていることだろう。
僕がこのような朝日の社説を読むにつれ、つくづく無様で、作為的で、偽善的だと思うのは次の点においてである。
それは、今回の朝日新聞社説については、三大紙と呼ばれるジャーナリズムが提供するに値しない、致命的、あるいは意図的ともいえる論点の誤り、すり替えを2点ほど指摘しなくてはならないだろう、ということだ。
まず第1点目。
それは、明らかに今回の判決は重すぎる、という点についてである。
例えば「池田小学校児童殺傷事件」では、被告宅間守は裁判において反省の弁を述べるどころか、自ら積極的とも受け取れる態度で死刑を望む発言をしたことは記憶に新しい。そして今回の被告も右翼でありヤクザである者の犯罪、すなわち世間から弾かれ大きく逸脱した者、そのように世間から見なされる者の起こした犯罪である。
このような時、司法はあたかも”水を得た魚”のように、まるで何かに取り付かれたかのように嬉々として、しかも驚くべき早さで極刑を科すことを、僕はあらためて確信した次第である。司法がこの手の事件を踏み台に、厳罰化を加速させようとしている意図はあまりにも見え見えである。
死刑を言い渡す際、その基準の一つとされるのが、よく知られた「永山基準」である。
この基準に到った詳しい経緯は省くとして、その内容は大まかには次の通りである。
1. 犯罪の性質 2. 犯行の動機 3. 犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
4. 結果の重大性、特に殺害された被害者の数 5. 遺族の被害感情 6. 社会的影響
7. 犯人の年齢 8. 前科 9. 犯行後の情状
これら9つの項目から総合的に判断し、果たして死刑は妥当であるか、ということである。
そして、朝日新聞が指摘しなければならない、ジャーナリズムとしてとるべき態度もまさにここにある。
朝日新聞は、毅然として判決の妥当性を社説において追求しなければならなかったはずだ。
しかし、こともあろうに「裁判官はテロの社会的な影響の深さを重く見て、最も重い死刑を選んだということだろう。」などど、まるで他人事のような、核心から眼をそらさせるような発言でこの場をやり過ごしている。
このような発言は、「北朝鮮が核ミサイルで攻撃してきたらどうする?」といったような、否定しがたい質問を投げかけることにより軍備を正当化しようとする、政府与党の幼稚な論法と本質的には同じなのである。
次に2点目。
城尾哲弥被告が死刑となり事件が手打ちとなったお陰で、事件そのものの背景、本質が完全に隠されてしまった、ということだ。
ご存知のように長崎市長銃撃事件はこれが初めてではない。1990年には当時の市長、本島等氏があろうことが市役所正面で銃撃されている(銃弾は右胸を貫通しつつも、幸い傷は致命傷に到らなかった。それでも3ヶ月の重症である)
これには、長崎市長と裏世界の関係、さらには国家という巨大権力の関わりについても十分に検証してみる必要がある。
特に今回の伊藤市長射殺事件については、当時の首相、安倍晋三の関与まで疑う者すらいるのである。当然安倍晋三は否定しているが、実際彼が関与したしないに関わらず、裏世界と結託した巨大権力が長崎市長に対し何らかの圧力を掛けていたのでは、そのように疑えなくもない情報はあちらこちらに散見しているようではある。
城尾被告は取調べに対し、自ら起こした自動車事故を巡り、市の対応にプライドを傷つけられたとして犯行に及んだとされるが、まさかこのような話を真に受ける者はおるまい。それはあたかも「ケネディ大統領暗殺は、オズワルド単独の仕業である」といったインチキ報告を信じるようなものだ。
その後オズワルドは、口封じのため、つまりCIAの末端エージェントでもあった彼は本人の意に反して逮捕直後、シンジケートの手により射殺されてしまう。
今回の城尾被告がオズワルドと重なるのは、果たして僕だけだろうか?
朝日新聞がもっとも追求すべき箇所もこの辺である。
城尾被告の市長殺害にいたる動機が、誰の眼から見ても薄い、薄すぎるのである。朝日は勇気を持って本当の事件の背景、本質に斬り込むべきなのである。そしてそれを我々の眼前に曝さなくてはならない。
それをあろうことか「うんうん、死刑は当然だよね。だってテロは許せないもんね。これから裁判所はテロには厳しくするんだってね、よかったね」などと、少し抜けた国民を社説においてあらぬ方向へと洗脳するかのような行為と詭弁は、我々に対する明らかな大罪である。これも朝日が意図的に行う、権力に組した卑劣な作為なのであろう。
「長崎市長射殺事件」においては意図的な2つの工作、つまり司法による「死刑判決」と朝日新聞にみられるような「判決翼賛報道」により、事件の真相はベールに包まれ、事件の本質は完全に闇に葬られてしまった。
言い換えれば犯人を殺すことで、その裏に潜む国家権力という最大の”悪”が隠蔽されてしまったかもしれない、ということだ。
我々はこのような判決や提灯記事に対し、のんきに快哉を上げている場合ではない。
そして、このような巨大権力を知らず知らずのうちに担保しているのが、死刑判決に「やれやれ、ほっとした」「さも当然」と溜飲を下げる我々”世間”なのである。
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2008/05/25のBlog
[ 14:48 ]
[ 【社会問題】 ]
■”カオス”としての近未来社会
ちなみにではあるが、私に関して言えば”ユートピア”自体が、信じられる概念であるとは到底言い難い。”ユートピア”といった理想社会を、全く信じることができない。
私の、これから展開されるであろう社会、近未来社会の予想される形態は、”カオス”そのものである。
《カオスは、「コントロールのきいた(ゆるい手綱のある)」偶然性である。
いいかえれば、「ある種の偶然性が必然性と近づく場面を、必然性の側から眺めたもの」》
~山口昌哉「カオスとフラクタル―非線形の不思議」~
そのような”私見”はさておき、大澤真幸の語る”これからの世界のありよう”は、それでもなお探検する価値は十分にありそうである。
《このとき、真に求められているものは何か。個別の要求ではなく、普遍的な要求、社会の普遍的な構想を含んだオールタナティブ(選択肢)ではないか。行政的な選択ではなく、(社会体制の全体としての改変に関わるという意味での)真に政治的な選択ではないか。要するに、<ユートピア>を指向した選択ではないか。》
~本書より引用~
「逆説の民主主義」とは現在の政治・社会に対し、大澤真幸の様々な角度からなされる提案をまとめたものである。それは彼の言う「グローバル化globalizationに普遍化universalizationを対置する試み」なのである。
その先の見えてくるものが果たして彼の言う”ユートピア”なのか、それとも”カオス”なのか、それとも、そのようなもの以外の”何か”なのか、私は期待を持って読み進めているわけなのである。
ここで気づいた方もいるかもしれないが、私自身「では、このカオスなるものは、具体的にどのような社会なのか」について、具体的に回答してはいない。
どのようなテクノロジーが進化し、現在と比較して個々のライフスタイルの変容を予想することは容易だ。しかし、社会学的にはどのような社会が展開されているかを予想するのは、実は案外困難なのかもしれない(これは私の社会学という学問の定義付けが明確でないことも要因となっている)
したがって、私個人的には正確に言うと「近未来社会は予想できない」となってしまっているのである。
中学の卒業文集の中、社会科担当のとある先生が「グローバルに生きよう」と寄せ書きしていたことを鮮明に思い出す。
当時はそのような言葉が実に新鮮に感じられ、また受け入れられた時代でもあった。
私にとって、あの中学時代はあたかも昨日の出来事のような直近の感覚なのだが、実際は四半世紀もの月日が流れている。
そして今、大澤真幸の言説に接するに際し、学術的には時代は明らかに新しい、次なるベクトルを指向し始めていると言えるのだ。
確かに、我々は「グローバル化」を越えなくてはならない。
【では、グローバル化を越えるということは、どんなことか?と思った方はワンクリック! ⇒人気ブログランキングへ】
ちなみにではあるが、私に関して言えば”ユートピア”自体が、信じられる概念であるとは到底言い難い。”ユートピア”といった理想社会を、全く信じることができない。
私の、これから展開されるであろう社会、近未来社会の予想される形態は、”カオス”そのものである。
《カオスは、「コントロールのきいた(ゆるい手綱のある)」偶然性である。
いいかえれば、「ある種の偶然性が必然性と近づく場面を、必然性の側から眺めたもの」》
~山口昌哉「カオスとフラクタル―非線形の不思議」~
そのような”私見”はさておき、大澤真幸の語る”これからの世界のありよう”は、それでもなお探検する価値は十分にありそうである。
《このとき、真に求められているものは何か。個別の要求ではなく、普遍的な要求、社会の普遍的な構想を含んだオールタナティブ(選択肢)ではないか。行政的な選択ではなく、(社会体制の全体としての改変に関わるという意味での)真に政治的な選択ではないか。要するに、<ユートピア>を指向した選択ではないか。》
~本書より引用~
「逆説の民主主義」とは現在の政治・社会に対し、大澤真幸の様々な角度からなされる提案をまとめたものである。それは彼の言う「グローバル化globalizationに普遍化universalizationを対置する試み」なのである。
その先の見えてくるものが果たして彼の言う”ユートピア”なのか、それとも”カオス”なのか、それとも、そのようなもの以外の”何か”なのか、私は期待を持って読み進めているわけなのである。
ここで気づいた方もいるかもしれないが、私自身「では、このカオスなるものは、具体的にどのような社会なのか」について、具体的に回答してはいない。
どのようなテクノロジーが進化し、現在と比較して個々のライフスタイルの変容を予想することは容易だ。しかし、社会学的にはどのような社会が展開されているかを予想するのは、実は案外困難なのかもしれない(これは私の社会学という学問の定義付けが明確でないことも要因となっている)
したがって、私個人的には正確に言うと「近未来社会は予想できない」となってしまっているのである。
中学の卒業文集の中、社会科担当のとある先生が「グローバルに生きよう」と寄せ書きしていたことを鮮明に思い出す。
当時はそのような言葉が実に新鮮に感じられ、また受け入れられた時代でもあった。
私にとって、あの中学時代はあたかも昨日の出来事のような直近の感覚なのだが、実際は四半世紀もの月日が流れている。
そして今、大澤真幸の言説に接するに際し、学術的には時代は明らかに新しい、次なるベクトルを指向し始めていると言えるのだ。
確かに、我々は「グローバル化」を越えなくてはならない。
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2008/05/24のBlog