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21世紀のリーダー 死活の書
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2008/06/15のBlog
[ 17:08 ] [ 靖国 ~YASUKUNI ]

 《日常は平穏そのものだが、毎年8月15日になると、そこは奇妙な祝祭的空間に変貌する。
 旧日本軍の軍服を着て「天皇陛下万歳」と猛々しく叫ぶ人たち、的外れな主張を並べ立て星条旗を掲げるアメリカ人、境内で催された追悼集会に抗議し参列者に袋叩きにされる若者、日本政府に「勝手に合祀された魂を返せ」と迫る台湾や韓国の遺族たち。
 狂乱の様相を呈する靖国神社の10年にわたる記録映像から、アジアでの戦争の記憶が、見る者の胸を焦がすように多くを問いかけながら鮮やかに蘇ってくる。
 そして知られざる事実ががある。
 靖国神社のご神体は刀であり、昭和8年から敗戦までの12年間、靖国神社の境内において八千百振りの日本刀が作られていたのだ。
 「靖国刀」の鋳造を黙々と再現してみせる現役最後の刀匠。その映像を象徴的に構成しながら、映画は「靖国刀」がもたらした意味を次第に明らかにしていく。》
~映画「靖国 YASUKUNI」 パンフレットより一部抜粋~


 この作品の最大の特徴は、一切のナレーションを排除している点にある。
 現役最後の靖国刀の刀匠、刈谷直治(90歳)が刀を作り上げるまでの工程を軸に、終戦記念日である8月15日の靖国神社の映像を中心としながら、映画は淡々と進行してゆく。
 我々はこの靖国にまつわる映像を、ただひたすら見続けることになるのだ。
 それにしても、である。
 画面の中に展開される(これは現実に起こっていることなのだが)圧倒的とも言える人間同士のせめぎ合いは、一体何なのか。

 黒塗りの街宣車、見るからにその筋の者たち。
 -スピーカーの炸裂音。
 若者から年寄りに到るまで、軍服を着て闊歩する者たち。
 -行軍ラッパ。
 学生と思われる者のシュプレヒコール。
 -「首相の靖国参拝反対」
 右派政治家による戦没者追悼の演説。
 -君が代斉唱。 

 「侵略戦争だの防衛戦争だのと論議もいいが、祖国日本のため命の極限において戦った人を侵略者扱いする国は日本以外にない!」
 「次は陸軍海軍ともに軍隊生活でもっていちばん楽しい食事ラッパであります。天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!」
 「靖国神社参拝糾弾!侵略戦争反対!」
 「一国の首相が一政治家として、一国民として戦没者に対して感謝と敬意を捧げる。哀悼の念を持って靖国神社に参拝する。二度と戦争をおかしてはいけないという事が日本人からおかしいとかいけないとかいう批判が私はいまだに理解できません」

 我々の日常から遠くかけ離れた異様な世界でもあるのだが、それでもこの作品は映画の形式性において極めてフラットな姿勢を崩すことがない。小説で言うところの第三者の視点、すなわち”神の視点”により我々はこの世界を垣間見ることになる。
 そして、監督リ・インが我々に訴えかけているのは、この作品をとおして「何を見るのか」ということである。同時に、見る者それぞれの”靖国”とは一体何なのかを「思考すること」をも要求しているのだ。
 確かに、右翼系のメディアや言論人がこの作品に過剰に反応するのも分からなくもない。靖国の存在に異を唱える者を擁護派が袋叩きにし怪我をさせるシーンや、南京大虐殺の写真などをありのままに写しているからだ。

 しかし、この作品においてそのような抗議活動は全く意味を持たないだろう。
 イ・リン監督が我々に要求するところは、そのようなイデオロギー囚われることなく現代の靖国神社という場において繰り広げられている現実を「見つめ」「思考する」ことであるからだ。これは左右のイデオロギーを遥かに超越する姿勢である。

 我々は映画「靖国 YASUKUNI」に何を見るのだろうか。

 刀匠、刈谷直治氏による靖国刀の製作は、物語の進行と共に淡々と為されてゆく。
 彼は決して多くを語ってはくれない。



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2008/06/14のBlog
[ 16:59 ] [ 靖国 ~YASUKUNI ]

 或る晴れた土曜の午前、京王線電車内のひとコマである。

 「あれでうちの子も結構いいとこあってね、この前なんかは、ええと、母の日だっけ?
 眼の疲れをとる”ひんやりシート”みたいなのプレゼントしてくれて・・・」
 「あなたそれって普段テレビと寝てばかりなのがバレバレじゃない(爆笑)」

 「でもねえやっぱり子どもは好きにさせたげるのが一番よ。自主性っていうの?
 秋葉原の事件みたいになったらそれこそ大変じゃない?」
 「あの犯人もいろいろあったみたいだけどね」

 「うん、そうそう、タッキーだって結構苦労してるのよね。
 ジャニーズなんかは始めは必ずうしろで踊らされるみたいだし、
 中にはずうっとうしろばかりのかわいそうな子もいてね、本当大変なのよね」
 「今日の嵐なんかもあの子たちったらかなり苦労してるわよ、若いからいろいろ遊びたい時期なのに、仕事ばかりで本当かわいそう・・・」

 「今朝がた地震なんかあったけ?」
 「うんあったわよ。ちょっとだけの揺れね」
 「そういえばOLやってた時にハンパじゃないくらいに地震嫌いな子がいて、
 ”前世”は地震で死んだんじゃないかって噂でね(爆笑)」
 「地震も中国みたいになったらたいへんよね」
 「ほんとお気の毒にねえ」

 弛緩しきった惰性としての日常を過ごしているのだろう、そう思わざるを得ない会話を耳にするにあたり、電車内もきっと彼女たちの日常の延長線でしかないのか、辺り構わず世間話をわめき立てている。
 現在中学3年生の男子を抱え、来年はいよいよ高校受験だというこの母親たちは片や巨大なバストを揺さぶりつつ会話の主導権を握り、片やそれに反応する痩せすぎの、世間でいうところのこれら典型的「オバサン」たちも立派な”KY”であるとも言える。
 隣でなされている彼女たちの会話があまりにもうるさく、本に集中できなかったため、どんなことを話しているのかそれとなく聴いてみたのが大方以上の内容だ。

 秋葉原の事件の話題では一瞬しんみりとした表情を浮かべ、
 四川省大地震の話題でも一瞬しんみりとした表情を浮かべ、
 それでも会話は唐突にあらぬ方向へと突き進み、結局彼女たちの最大の関心事はジャニーズ、とりわけ今日観に行く予定の”嵐”の東京ドーム公演なのである。
 これも現代の子持ち専業主婦の一側面なのである。

 公共の場において、拒否するしないに関わらず我々のもとに土足で踏み込んでくる(もう少し静かに話ができないものか。みたところこのような”オバサン”が多すぎる)轟音を撒き散らし、暴力装置としての右翼の黒塗り街宣車と実は本質的に同じなのではないかと思った私は、少し考えが大げさ過ぎるのかもしれない。
 東京で観測された微弱な揺れが実は「2008年岩手・宮城内陸地震」であったことに、いつ頃彼女たちは気がついたのだろうか。

 さて「靖国」である。
 「咽元過ぎれば熱さを忘れる」というが、一時期放映中止問題であれほど世間を騒がせた映画「靖国 YASUKUNI」も、今ではメディアの報道も途絶えてしまっている。
 しかし、この映画を巡る騒動が片付いたわけでは全くない。現在においても右翼系メディアを中心とする抗議の電話やメールといったものが制作会社に多数寄せられているからだ。

 例えば、雑誌「SAPIO」6月11日号では漫画家小林よしのり氏が「ゴーマニズム宣言」において、さらには著書『靖國論』においても映画「靖国」は”反日プロパガンダ”であると主張しているようだ。私は小林氏の「ゴーマニズム宣言」には何度か目を通したことがあるが、なかなか興味深い論点を提示することもある一方で、基本的には感情論に裏打ちされた上っ面の主張を展開している場合が非常に多い作者であるというのが彼に対する印象である。

 だが、この”感情論”こそが靖国問題を語る上での最も厄介な障壁であり、この”感情論”により靖国という存在の実体がこれまで曖昧にされてきたことは言うまでもない。つまり、靖国を巡る論争は”反中国”に象徴されるイデオロギー的な問題に常にすり替えられてきたのである。
 靖国問題、靖国論争、そして映画「靖国」もまたこれらイデオロギー的発想を乗り越える必要がある。これを飛び越えてこそ、初めて靖国という実体の輪郭が明確に我々の眼前に現れてくるだろう。

 映画「靖国」を撮った監督・李纓(リ・イン)が中国人であることも非常に興味深い。このことが小林よりのり氏を始めとする右翼系論者に波風をたてる契機ともなったのだが、李監督が撮影において採用した方法論は、イデオロギー論を乗り越えることに、実は成功しているのではないか、そのような明確な感想を私は持ったのである。
 その意味においてこの作品は成功している。
 これまで、多くの人間が様々な立場、見方で靖国を論じてきたが、映画「靖国」は映像的分野において金字塔を立てたと言えるだろう。

 2008年6月14日、土曜日。
 私は「靖国 YASUKUNI」を観るべく、早朝渋谷に向かったのである。



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2008/06/01のBlog
[関連したBlog]

 ”笹川陽平”なる日本財団のみみっちい男が、どうやら詭弁を弄している模様である。
 たばこを1箱1000円にすることで健康が増進し、なおかつ税収も増えるということを彼は主張しているのである。
 常日頃から思うのだが、日本のエスタブリッシュメントはなぜ故にこうも”バカ”なのか?
 ”笹川陽平”と言えばかつての「日本船舶振興会」、要は競艇の親玉、”笹川良一”の三男坊ではないか。そして、笹川良一とはかつて小佐野賢治と裏社会での覇権を争い、それに打ち勝ち、あの田中角栄をして”君づけ”で呼んだ、事実上”日本のドン”として君臨した人間である。
 私はこの笹川良一を肯定する立場ではないが、この期に及んで彼の三男坊が世間に対し主張するのが「たばこ1箱1000円」であるとは、なんともスケールが小さく、近視眼的で、しかも詭弁そのものであることは、はっきりと主張したい。

 そもそも「たばこ」の問題などシンプル極まりないものである。
 ①最近は嫌煙権が市民権を得たために公共の場を中心として、外では吸いずらくなった。
 ②たばこは百害あって一利なし。特に肺癌を誘発する最大の原因となっている。


 たった、これだけの話だ。
 ①については、喫煙者は敢えて妥協するしかない。
 駅の構内で、列車や飛行機の車内で、人が集うような場で、我慢すればいいだけの話である。たったこれだけである。
 吸いたければ自宅で、それこそ死ぬほど気がすむまで吸えばいいのである。誰もこれは止められはしまい。
 ②についても同様だ。
 喫煙者は何もたばこが健康に良いと思って吸っている人はおそらく1人もいない。かなり体に悪いだろう、でも止められないし好きだから吸ってる、というのが大方の現実である。結果、それが原因で癌になって死んでも、まあ仕方なしと思っているのが大半だ。だから、日本ではバカなアメリカ人のように、「俺が肺癌になったのもたばこのせいだ!」という訳の分からぬ理屈で訴訟に訴える人が少ないのも頷ける。(そんなアメリカ人に告ぐ。だったら吸うなよ!<爆>)
 「たばこ」という嗜好品はそのような、かつて流行った言葉で言うと「自己責任」の極地なものでしかない。そして、それこそが嗜好品の嗜好品たる所以でもある。体に良い”嗜好品”などあるわけないだろう!これがある種の世の中の摂理でもある。

 このように書くと、「いや、問題はもう一つある。たばこによる、例えば肺癌の増加によって医療費の高騰はどうするの?」といった、”笹川陽平”的指摘である。
 このような人間にこそ、私は「バカ野郎!」と言いたい!

 たばこは確かに健康を害する嗜好品である。
 では、高級食材とされるキャビアや鱶鰭や油たらたらの豚の丸焼きや、北京ダックなどはどうなのか?さらには、世の政治家が夜な夜な舌鼓を打つ高級料亭での、あからさまに健康にはプラスとは言いがたい、ばか高いだけの不健康食材の数々はどうなのか?
 もっと突っ込めば「酒」だって、体にいいことは全然ない(少しだけなら百薬の長ともいうが、そんな飲み方ををしている人は稀である。実際問題、酒も「体に悪い!」)エスカレートした矢先に、かつてのアメリカのような”禁酒法”でもぶち上げるつもりなのか。
 このような、メタボリックを誘発するような食材を、では健康に害であると言う意味で、医療予算が大変だという意味で、禁止するなり価格を上げて果たしていいのだろうか?
 ふざんけんな!と思う。
 このような「幻想的健康志向」「詭弁的健康信仰」もいい加減にして欲しいものだ。

 そもそも、国民医療費を抑えると言う意味で、例えば、たばこといった嗜好品の値上げをするのは本末転倒なのである。
 これは、現在の「後期医療制度」についても当てはまる。
 確かに、医療に関する財源はジリ貧の状態である。これは間違いない。
 しかし、この原因を作ったのは戦後一党独裁を継続し、腐敗の限りを尽くした政府与党、つまりは「自民党」の大罪なのである。それをあろうことか、自身の責任も省みず、金がないから「老人も金を出せ」とは何事であるか。そのような妄言を吐く前に、時の為政者はそれこそ首を括ってでも謝罪すべき事態であったのだ。それができなければ、予算がないなりに、どうにかやりくりするべきである。
 それこそが政治であり、その当事者が政治家なのである。
 よって、たばこ値上げの問題にしても、医療予算を”笹川陽平”なる愚か者が云々する前に、いかに国家の予算立てをどうするか工夫と議論が必要なのである。そのような前提もなしに、時の政治家は「金がないから値上げ」「金がないから増税」というやり方にすがりつき過ぎる。そんなことは猿でもできることなのである。

 ”笹川陽平”なる男が一度でも「医療費の不正な使途」について言及したことがあったか?
 塩漬けにされてる数百兆円とも言われる各省庁の隠し金について言及したことがあったか?
 国家予算を遥かに超える特別会計の矛盾について言及したことがあったか?

 1箱1000円にすれば9兆5千億円の税収増が見込まれるなどと言う詭弁を云々する前に、彼は国家の予算について真剣に考えたことが、果たしたあったか?

 一度”笹川陽平”なる男をぶん殴ってやるがいい。
 親にも殴られたことがないであろう世間知らずの”ボンボン”を、ぶん殴って眼を覚ましてやるがいい。
 このような偽善者、詭弁を弄するものすべてをぶん殴ってやるがいい。


 私が主張するのはそういうところである。


 ※異論反論はいつでも受けて立つ!

 

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2008/05/30のBlog
[関連したBlog]

 warmgunさ~ん♪
 ”ローリー・アンダーソン”なんつーても、
 だれもわかんねーでないかい?
 Doblogでそれに反応すんのは、
 きっと俺だけだべさ~!(笑)



 この数日、仕事でお疲れになったwarmgun氏のために、お堅いエントリーの合間を縫って「不破2.0」がひと時の清涼を”アーティスティック”な側面からお届けする、実に興味深い企画である(笑)

 ”ローリー・アンダーソン”と聞いて、僕は「あっ!」と思いましたよ。
 それは、「そうだ!”ローリー・アンダーソン”って、いたよね!」という懐かしい想いと、「ああ、warmgunさんも何かしら彼女に興味を抱いていたんだ!」という、氏の音楽性の広さ、深さに対する敬意でからである。
 「亀の甲より年の功」と言ったら、あからさまに叱責を受けそうだが、それでも氏の音楽性の広さには計り知れないものを感じる。基本的に僕は”ロック”(注1)の人かと思っていたが、実にこんなところまで氏は手を広げていたのである(爆)

 今、僕は敢えて”音楽性”と書いた。
 それはwarmgun氏が、「Strange Angels」なる彼女のアルバムを聞いていたと知ったからである。
 しかし、ご存知のように、彼女は音楽だけに収まるようなタイプでは決して有り得なかった。
 僕は”ローリー・アンダーソン”を知ったのは、実をいうと”現代美術”という側面からであった。
 実際、彼女はアメリカの大学で彫刻を専攻し、さらには芸術理論も学んだという経緯もある。
 そして、その後の彼女の活動を通して伺い知れるのは、周囲は彼女を単なる絵描きやミュージシャンとは考えてはいなかった、ということである。

 彼女が活躍したのは1980年代のことである。
 当時、現代アートの世界では、絵画といった平面的な様式から脱皮した、あたかも舞台セットを彷彿とさせる「インスタレーション」といわれる、新しい立体的な芸術様式が台頭し始めた時代であった。
 そんな中で”ローリー・アンダーソン”はパフォーマンサーとして、その地位を期待されたのである。
 例えば、ギターシンセサイザーを使ってギターを弾きつつトロンボーンの音を出し、センサーを張り巡らしたウエストスーツを身にまとい、肉体をあたかも打楽器のように”叩く”ことで打音を奏で、さらにはボイスチェンジャーで自信の声を男の声に変換しパフォーマンスを繰り広げる。
 彼女の代表的舞台パフォーマンスは「0&1」として結実し、それはVIDEOでも発売されている。
 10年以上も昔のことだろうか、僕も彼女の作品「0&1」を観たことがある。
 数人の女の子をアシスタントにし、彼女が様々なパフォーマンスを披露していたのを覚えている。その中身はまさに紹介したギターシンセ、パーカッションスーツ、ボイスチェンジャーといった彼女のエッセンス目白押しであった。テーマは「0&1」、すなわちコンピューターの根源である2進数「0と1」を現代風にアレンジし、そして揶揄する内容であった。テーマは勿論「デジタル」である。当時は”デジタル”そのものが、芸術作品として成り立つ時代でもあったのだ。 
 僕はこの作品を非常に興味深い眼で見つつも、しかしながら、5、10分で猛烈な眠気に襲われ、最終的には熟睡してしまったことを今でもよく覚えていうる。あれほどに敬愛したローリーの作品を、たとえ夢うつつの中でそれを記憶していたとしても、居眠りしてしまったという事実は当時の僕にとってはいささかショックでもあった。(要は、つまんね~!ってことよ<笑>)
 だから、僕の”ローリー・アンダーソン”感はそれなりに”観念的”でもある。だが、その最終的には解釈し切れなかったローリーが、それが故に僕の内面で生き続け、今こうして新たな息吹をwarmgun氏によって喚起されたとも言える(たぶん本人にはそのような意識はないと思うが)

 結局、僕にとっての”ローリー・アンダーソン”とは何だったのだろうか?
 それは、あの当時、現代美術を指向していた僕にとっての「それを後押しするファクター」、たとえ意味が分からなくとも「なんとなく意味が分かったように現代アートを誘導してくれる、ちょっと素敵なおばさん」であったような気がする。
 禅問答をしているようだが、”ローリー・アンダーソン”とは分かり易いようで分かりづらく、僕のような人間にとっては「分かりづらいようで分かり易い」アーティストでもある。
 僕はおそらく、あの当時、ローリーを通じて現代アートを自分自身に担保していたのではなかったろうか・・・今更ながらに、そんな疑惑が頭をよぎっている。
 写真は僕の所有する、美術出版社「現代美術」の表紙である。
 ここに写されているのはドイツのアーティスト”ヨーゼフ・ボイス”と、その後ろにいるのは”ナム・ジュン・パイク”である。
 当時、この二人は僕にとってのスターであったのは言うまでもない。
 そして、ページをぱらり、ぱらり、とめくってみる。

 そこに見いだすのは現代アートの巨匠、ポップアートの重鎮とも言える、ロイ・リキテンシュタインと並列に映し出される”ローリー・アンダーソン”の姿である。
 リキテンシュタインの右に出るものなし、という意味でローリーは左側に写っているのだろうか、しかし確かに、あの当時”ローリー・アンダーソン”はリキテンシュタイン以上に僕をインスパイアーしたアーティストの1人でもあった。

 《天国はTVのようなものだという
 完璧なひとつの小さな世界で
 あなたのことなど全然必要としていない》


 そう、それは確かに真実である。
 僕がTVを見なくなったと同様に、今現在のローリーも!おそらくは、たぶん僕の想像力において、テレビなどほとんど見ていないのではあるまいか?(笑)
 冒頭に紹介した「Strange Angeles」がリリースされたのは1989年。
 当時、アメリカにおいてテレビを作っているのは”ゼニス”ただ1社であったはずだ。
 ローリーの「天国はTV・・・」という発言は、その字面意外に、実はこのようなアメリカの社会状況を皮肉った内容でもあったということに、warmgun氏も気がついてはいないはずだ!(ウッシッシ<笑>)
 つまり、アメリカの言うところの”天国”とはTVという”仮想空間”での天国であり、日本という他国に委ねられたテクノロジーに依存した”委託された”天国であることを、ローリーは揶揄しているのである。
 それが、当時のアメリカの虚しさであり、これは”今”に及んで、「虚しさ」から「決定的破壊の要因」に増殖するにまで到っているのが現実である。
 ”ローリー・アンダーソン”とは、その辺までも予言したアーティストであり、その意味においては、芸術家とは時に政治家以上に世界に達見した存在になりうると、彼女を眺めつつ、あらためてそれを実感した次第でもある。
 今、”ローリー・アンダーソン”は、どのような活動をしているのだろうか?
 (これはDoglogユーザーに問いかけても、だぶん無理だろうな<笑>)


(注1)
ここで、”ロック”というものの定義は必要であろう。
果たして、”ロック”とは何だろう?
それは、具体的にはリードギターを”ディストーション”というエフェクター経由でかき鳴らし、アップテンポで騒ぎまくることでは決してないことは明白である。
ロックとは楽曲の形式ではなく、感性の形式を指す、と私は考える。
その意味においては、ピアノ1台、バイオリン一つでも”ロック”は可能である。
よって、”ローリー・アンダーソン”の開拓した荒野は、その感性の様式において、実にロック的とも解釈できるのである。



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2008/05/27のBlog
■城尾被告に死刑判決 長崎市長射殺

 《長崎市長選中の07年4月、伊藤一長・前市長(当時61)を銃撃して殺害したとして、殺人などの罪に問われた指定暴力団山口組系の元幹部、城尾哲弥被告(60)の判決公判が26日、長崎地裁であった。松尾嘉倫(よしみち)裁判長は「民主主義を根底から揺るがす犯行で、極刑はやむを得ない」と述べ、求刑通り死刑判決を言い渡した。
 判決は犯行を「選挙民の選挙権行使を否定するものだ。選挙妨害としてこれほど直接かつ強烈なものはない」と指摘。被害者が1人にとどまることを考慮しても結果の重大性などから極刑を科すことはやむを得ないと述べた。
 判決は、城尾被告が事件前、資金源としていたとされる建設業者に公的融資制度が適用されなかったことや市発注の道路工事現場で起きた車の事故をめぐり、市役所に押しかけて助役に面会を求めるなどしていたと認定。全く理由のない主張・要求だと述べて「市への不正追及だった」との被告側の主張を退けた。》
~2008年05月26日 asahi.com~

 この事件について、私が非常に腹立たしく思ったのは5月27日朝日新聞朝刊の社説である。
 「市長殺害死刑 テロへの怒りを新たに」と題した論旨は、次のような展開を見せている。
 《暴力で言論や政治活動を封じようというのは、民主主義に対するテロである。裁判官はテロの社会的な影響の深さを重く見て、いまある刑罰の中で最も重い死刑を選んだということだろう。厳罰化の流れが背景にあるとはいえ、そうしたテロに対する厳しい姿勢は十分うなずけるものだ。》
 
 確かに、市長選の期間中に候補者を銃殺するなど、言語道断、とうてい許されざる民主主義に対する大罪であることは、言うまでもない。
 しかも、被告城尾哲弥は、右翼の構成員であり広域暴力団山口組系の元幹部でもあるとされている。この種の人間の犯罪に対し、世間の人々は「やれやれ、ほっとした」「さも当然」とばかりに、さぞ溜飲を下げていることだろう。
 僕がこのような朝日の社説を読むにつれ、つくづく無様で、作為的で、偽善的だと思うのは次の点においてである。
 それは、今回の朝日新聞社説については、三大紙と呼ばれるジャーナリズムが提供するに値しない、致命的、あるいは意図的ともいえる論点の誤り、すり替えを2点ほど指摘しなくてはならないだろう、ということだ。 

 まず第1点目。
 それは、明らかに今回の判決は重すぎる、という点についてである。
 例えば「池田小学校児童殺傷事件」では、被告宅間守は裁判において反省の弁を述べるどころか、自ら積極的とも受け取れる態度で死刑を望む発言をしたことは記憶に新しい。そして今回の被告も右翼でありヤクザである者の犯罪、すなわち世間から弾かれ大きく逸脱した者、そのように世間から見なされる者の起こした犯罪である。
 このような時、司法はあたかも”水を得た魚”のように、まるで何かに取り付かれたかのように嬉々として、しかも驚くべき早さで極刑を科すことを、僕はあらためて確信した次第である。司法がこの手の事件を踏み台に、厳罰化を加速させようとしている意図はあまりにも見え見えである。

 死刑を言い渡す際、その基準の一つとされるのが、よく知られた「永山基準」である。
 この基準に到った詳しい経緯は省くとして、その内容は大まかには次の通りである。
 1. 犯罪の性質 2. 犯行の動機 3. 犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
 4. 結果の重大性、特に殺害された被害者の数 5. 遺族の被害感情 6. 社会的影響
 7. 犯人の年齢 8. 前科 9. 犯行後の情状

 これら9つの項目から総合的に判断し、果たして死刑は妥当であるか、ということである。
 そして、朝日新聞が指摘しなければならない、ジャーナリズムとしてとるべき態度もまさにここにある。
 朝日新聞は、毅然として判決の妥当性を社説において追求しなければならなかったはずだ。
 しかし、こともあろうに「裁判官はテロの社会的な影響の深さを重く見て、最も重い死刑を選んだということだろう。」などど、まるで他人事のような、核心から眼をそらさせるような発言でこの場をやり過ごしている。
 このような発言は、「北朝鮮が核ミサイルで攻撃してきたらどうする?」といったような、否定しがたい質問を投げかけることにより軍備を正当化しようとする、政府与党の幼稚な論法と本質的には同じなのである。


 次に2点目。
 城尾哲弥被告が死刑となり事件が手打ちとなったお陰で、事件そのものの背景、本質が完全に隠されてしまった、ということだ。
 ご存知のように長崎市長銃撃事件はこれが初めてではない。1990年には当時の市長、本島等氏があろうことが市役所正面で銃撃されている(銃弾は右胸を貫通しつつも、幸い傷は致命傷に到らなかった。それでも3ヶ月の重症である)
 これには、長崎市長と裏世界の関係、さらには国家という巨大権力の関わりについても十分に検証してみる必要がある。
 特に今回の伊藤市長射殺事件については、当時の首相、安倍晋三の関与まで疑う者すらいるのである。当然安倍晋三は否定しているが、実際彼が関与したしないに関わらず、裏世界と結託した巨大権力が長崎市長に対し何らかの圧力を掛けていたのでは、そのように疑えなくもない情報はあちらこちらに散見しているようではある。
 城尾被告は取調べに対し、自ら起こした自動車事故を巡り、市の対応にプライドを傷つけられたとして犯行に及んだとされるが、まさかこのような話を真に受ける者はおるまい。それはあたかも「ケネディ大統領暗殺は、オズワルド単独の仕業である」といったインチキ報告を信じるようなものだ。
 その後オズワルドは、口封じのため、つまりCIAの末端エージェントでもあった彼は本人の意に反して逮捕直後、シンジケートの手により射殺されてしまう。
 今回の城尾被告がオズワルドと重なるのは、果たして僕だけだろうか?

 朝日新聞がもっとも追求すべき箇所もこの辺である。
 城尾被告の市長殺害にいたる動機が、誰の眼から見ても薄い、薄すぎるのである。朝日は勇気を持って本当の事件の背景、本質に斬り込むべきなのである。そしてそれを我々の眼前に曝さなくてはならない。
 それをあろうことか「うんうん、死刑は当然だよね。だってテロは許せないもんね。これから裁判所はテロには厳しくするんだってね、よかったね」などと、少し抜けた国民を社説においてあらぬ方向へと洗脳するかのような行為と詭弁は、我々に対する明らかな大罪である。これも朝日が意図的に行う、権力に組した卑劣な作為なのであろう。

 「長崎市長射殺事件」においては意図的な2つの工作、つまり司法による「死刑判決」と朝日新聞にみられるような「判決翼賛報道」により、事件の真相はベールに包まれ、事件の本質は完全に闇に葬られてしまった。
 言い換えれば犯人を殺すことで、その裏に潜む国家権力という最大の”悪”が隠蔽されてしまったかもしれない、ということだ。


 我々はこのような判決や提灯記事に対し、のんきに快哉を上げている場合ではない。
 そして、このような巨大権力を知らず知らずのうちに担保しているのが、死刑判決に「やれやれ、ほっとした」「さも当然」と溜飲を下げる我々”世間”なのである。


 
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2008/05/25のBlog
■”カオス”としての近未来社会

 ちなみにではあるが、私に関して言えば”ユートピア”自体が、信じられる概念であるとは到底言い難い。”ユートピア”といった理想社会を、全く信じることができない。
 私の、これから展開されるであろう社会、近未来社会の予想される形態は、”カオス”そのものである。

 《カオスは、「コントロールのきいた(ゆるい手綱のある)」偶然性である。
 いいかえれば、「ある種の偶然性が必然性と近づく場面を、必然性の側から眺めたもの」》
~山口昌哉「カオスとフラクタル―非線形の不思議」~

 そのような”私見”はさておき、大澤真幸の語る”これからの世界のありよう”は、それでもなお探検する価値は十分にありそうである。
 《このとき、真に求められているものは何か。個別の要求ではなく、普遍的な要求、社会の普遍的な構想を含んだオールタナティブ(選択肢)ではないか。行政的な選択ではなく、(社会体制の全体としての改変に関わるという意味での)真に政治的な選択ではないか。要するに、<ユートピア>を指向した選択ではないか。》
~本書より引用~

 「逆説の民主主義」とは現在の政治・社会に対し、大澤真幸の様々な角度からなされる提案をまとめたものである。それは彼の言う「グローバル化globalizationに普遍化universalizationを対置する試み」なのである。
 その先の見えてくるものが果たして彼の言う”ユートピア”なのか、それとも”カオス”なのか、それとも、そのようなもの以外の”何か”なのか、私は期待を持って読み進めているわけなのである。
 ここで気づいた方もいるかもしれないが、私自身「では、このカオスなるものは、具体的にどのような社会なのか」について、具体的に回答してはいない。
 どのようなテクノロジーが進化し、現在と比較して個々のライフスタイルの変容を予想することは容易だ。しかし、社会学的にはどのような社会が展開されているかを予想するのは、実は案外困難なのかもしれない(これは私の社会学という学問の定義付けが明確でないことも要因となっている)
 したがって、私個人的には正確に言うと「近未来社会は予想できない」となってしまっているのである。

 中学の卒業文集の中、社会科担当のとある先生が「グローバルに生きよう」と寄せ書きしていたことを鮮明に思い出す。
 当時はそのような言葉が実に新鮮に感じられ、また受け入れられた時代でもあった。
 私にとって、あの中学時代はあたかも昨日の出来事のような直近の感覚なのだが、実際は四半世紀もの月日が流れている。
 そして今、大澤真幸の言説に接するに際し、学術的には時代は明らかに新しい、次なるベクトルを指向し始めていると言えるのだ。
 確かに、我々は「グローバル化」を越えなくてはならない。



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2008/05/24のBlog

 面白い。
 あたかも「逆説の民主主義」は、興奮のレッドゾーンへと誘う引率者の役割を果たしているかのようだ。
 本書は私の知的好奇心(そのようなものがあればの話だが・・・)を満足させるに留まらず、私の問題意識と、今後為されるかもしれない何らかの社会行動への規範を、一段上位への高みに導いてくれるに十分な可能性を秘めているものと思われる。
 どうやら、しばらくの間はこの大澤真幸に付き合ってゆくことになりそうである。

■”ユートピア”はあるのか?

 ”ゴムひも”を使った往年のお笑いコンビ、”ゆーとぴあ”ではないことは明々白々なのだが、社会学者は往々にして”ユートピア”を指向し、それを論じる傾向にあるようだ。
 そして、大澤真幸もそのような感性において例外ではなく、本書でも”まえがき”の下りにおいて「ユートピアは必要であるもの」として位置づけている。
 しかし、そもそも”ユートピア”とは何か?
 我々は”ユートピア”というものに対し、どのような社会をイメージしたらよいのか?それに対するある程度明確な定義は必要であると思われる。

 《しかし、だからこそ、われわれは、<ユートピア>を、われわれの現実の社会構造の中から見れば「不可能なもの」として現れていることへの社会的構想という意味での<ユートピア>を必要としている。<ユートピア>が緊急に求められるのは、われわれが、「グローバル化」と総称している社会変動を不可避なものとして受け止め、それを可能な唯一のゲームと見なしてしまっているからである。》
~本書より引用~

 ここで言うところの「グローバル化」とは、現代社会の基調となる自由主義・自由競争的市場原理、つまりは現在進行形の資本主義社会、具体的には新自由主義(ネオ・リベラリズム)、新保守主義(ネオ・コンサバティズム)のことを指す。
 この「グローバル化」は、我々にとっての潜在的・構造的欠陥を内に孕んでいると私も考えており、このような大きな矛盾は日を追うごとに、もはや明白になりつつある昨今である。
 なぜならば、本書で言うグローバルな資本主義からこぼれ落ちてしまった社会的弱者、-例えば賃金格差に喘ぐ非正規雇用者、ワーキング・プア、ネットカフェ難民といった人々は、さらに状況を突き詰めて考えれば「純粋悪としての暴力によって現状に対抗するしかないような者たち」、いわゆる「テロリスト」と、この社会が生み出した”負”の遺産としては、大澤真幸の理屈で言えば、いわば同列になってしまうからである!これは言うまでもなくかなり”マズイ”状況である。

 以上の点からも、この「グローバル化」はいずれ我々が越えなくてはならない高いハードルであろう。それが可能か不可能か議論する以前として、仮にそれを越えることができたその先に新たに展開される社会こそが、大澤真幸の言うところの「ユートピア」であることは容易に想像できる。
 私は本書を約6分の5ほど読み進めてきたが、それでもなお、大澤真幸が「では、このユートピアなるものは、具体的にどのような社会なのか」について回答していないように思われる。
 これについては、
 彼が敢えて答えを提示しなかったのか、
 それとも、本書の行間を読みつつ見いだすものなのか、
 それとも、本書に接することにより個々が独自の<ユートピア>を想像すべきものなのか、
 本書を読了したときに、それはやってくるのかもしれない。
 「ユートピアはあるのか?」
 「そのユートピアとは、どのようなものなのか?」
 についてである。



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2008/05/14のBlog
[ 22:18 ] [ 【社会問題】 ]
[関連したBlog]

 大澤真幸(おおさわ まさち)という気鋭の社会学者がいる。
 念のために言っておくが、”ばんばひろふみ”の兄弟ではない。

 現在『不可能性の時代』(岩波新書)、『逆説の民主主義』(角川oneテーマ21)が好評であり、特に『不可能性の時代』については朝日新聞2008年5月11日朝刊、読書欄において八重洲ブックセンター本店調べの週間売り上げベスト10に、『金融権力』『反貧困』(共に岩波新書)と並びランクインしていることが紹介されている。
 この『金融権力』『反貧困』、そして『不可能性の時代』は全く同じタイミングで、しかも3冊セットの大々的広告で岩波が売り込みをかけていたのは、つい最近のことである。
 昨今のケータイによる”小説もどき”の興隆からしてみれば、これらの社会的新書の伸びといった動向は、とりあえず歓迎すべきことであろう。当然のこととして、これら岩波新書3点セットは買うべき本として、個人的にリストアップされていることは言うまでもない。

 実を言うと、これら書籍が俎上に載る前に、ことに大澤真幸については『文明の内なる衝突』なるものを、秘かに読んでいたりもしていたわけなのである。
 あの”9.11”の衝撃のもとで書かれた、世界を震撼とさせた”9.11”を社会学的に検証し、現代世界の深層なるものを探り出す試みの書である、という触れ込みだ。
 誰もが知るあの大惨事をテーマにした書物を選ぶことにより、むしろ大澤真幸なる人物に入りやすくなるのではという、私の勝手な期待もあった。
 筆者は言う。
 夢を「忘れないための最も効果的な方法は、それをできるだけ早く言葉にしてしまうことである」と。
 「われわれは、あの出来事を忘れるべきではない。あの出来事に遭遇したときの驚きや悲しさや困惑を忘れてはならない」
 そして、「あのテロは、この忘れやすい夢のようなものである」と形容する。
 だからこそ、筆者・大澤真幸はこの書を急いで書いたことを”あとがき”に記している。”9.11”が忘れてはならない悪夢であることは私も同感である。

 しかしである。
 ”9.11”についてはもはや様々な角度で取り沙汰され、ついにはアメリカ国家自身による自作自演の陰謀論まで吹き出している状況に対し、大澤氏が語るような「社会学」とはあまりにも無力なのではないか、そんな想いが頭をよぎり、さらには痛感すらしている自分がいたのだ。
 そう、『文明の内なる衝突』を途中まで読み、その時点の感想としては、私がピンとくるようなものは何一つとして得られなかったということなのである。”9.11”が私に全く迫ってこない!
 大澤氏の言説は社会学の理論上の実験でしかないような気がして、さらに悪く言えば言葉の辻褄合わせをしているようで、どうも”9.11”の本質(それがあればという仮定の上においてだが)を捉えているとは言い難いように思われた。”9.11”を忘却する前の、忘れないための言語化作業であったのにも関わらずだ。
 これを読む限りにおいて、”9.11”とは何やら遠い異国で起こった事件であり、私は傍観者ですらなかったのだ。
 このことについては、あたかも布石を打つように、大澤真幸は本の冒頭で”9.11”に対する社会学の”無力感”を素直に認めてしまってもいる。
 私はまさに、この書の5合目付近で立ち往生したことになる。

 《われわれの問題は資本主義と原理主義の関係にあった。資本主義と原理主義の間の(原理主義者にとって)代替関係にあった。この問題にアプローチするために、ここで、資本主義をあらためて定義しなおしておかなくてはならない。資本主義の拡張された定義が必要なのだ。既に第一章で、資本主義は、それ自身、宗教的な現象だ、と述べておいた。資本主義のこうしたアスペクトが、資本主義の本質的な-付随的ではなく本質的な-契機であることが明らかになるような、資本主義の捉え方が必要である。》
 →第一章は読んだが、資本主義と宗教性について、私は全くピンときていない(笑)。つまりこの書で言うところの”資本主義”を、例えば、私は捉え損なってしまっていた。


 もっとも、この読書体験で得てしまった私に関する”自己発見”も、ここで言っておかねばなるまい。
 思想や社会学、もしかしたら哲学なども含まれるかもしれないが、これらの思索的な分野に、私は決定的に弱いかもしれないということだ!(爆)
 今回の大澤真幸感は、こんな私の思索の脆弱性が引き起こした可能性も当然捨てきれない。
 そう言えば、そう言えばである。
 大澤本を途中で放り出し、自身に対する疑念が晴れぬままに手にした書物、『共同幻想論』(吉本隆明著)、ジャンル的には類似のものと思われるこの書にしても、何やら私にとって”アナーザー・ワールド”のような感覚が拭いきれない(これは眺めただけで再び本棚に戻す・・・)

 さて、本当に私はこの分野に弱いのか否か?それが問題だ。
 この弱点が真実ならば、これを補うために私は何をすべきが?それが問題だ。
 少し壁に当たってしまった気もする。これは些細な問題か?
 はてまた、今回の大澤本は「ハズレ」だったのか?
 どうも『文明の内なる衝突』は少し難しいようにも思えるのだが・・・。


 トラックバック元であるwarmgun氏のここ最近、大澤真幸の入れ込みようには尋常ならざるものを感じる(笑)
 私自身、こんなところで大澤真幸をはずしてしまうことは何だか出遅れてしまうようで、少し「怖いな」と思っているのであろう(笑)。一方、warmgun氏はかなり直裁的に大澤真幸を「読め!」と言っているのである。

 ええ、読みますとも!(笑)
 次はいよいよ『逆説の民主主義』に挑戦だ。
 私は大澤真幸について、取り敢えずまだ諦めてはいない。
 『逆説の民主主義』に期待するところ”大”なのである。



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2008/05/08のBlog

 先日受けたレーシック手術についてだが、今のところ特に大きな問題もなく順調である。つまり良く見えている!という一言に尽きる。普通の旧型ブラウン管テレビから突如ハイビジョンになった、というのは言い過ぎだろうか?(笑)

 そのような折、ツナミン氏からレーシックについて至極もっともな質問のコメントをいただき、返事をしたためているうちに長文となったこともあり、また他の方もレーシックについては同様な疑問を持っているのではないか?であるならば、余計なお世話と思いつつもこれに答えてみようかという、ある種の老婆心のような感慨も湧き出でてきたのを機に、レーシックについての若干の解説をここに記してみようと思う。
 まさに「不破2.0」からの回答である(爆)
 これも何かの参考になれば筆者としては望外の喜びでもある。
 

1.痛みについて

 目薬タイプの麻酔をするので、痛みはほとんどありません。
 ただ、手術をする際に眼の周りや眼の上に施される器具で、かなり眼球が圧迫されます。この圧迫感はかなりのものです(苦笑)。僕にはそれなりに辛いものでした。
 また、手術をした当日、麻酔が切れてくると痛くて、沁みて、ヒリヒリして相当苦しみます!これは覚悟しておいてください。勿論、これには個人差、性差はあります。意外にも女性の方がさばさばしているように見受けられます。これは子どもを産むための、女性特有の痛みに強い肉体的アドバンテージだと思われます。
 手術後は日帰りとなりますが、そのようなこともあり、帰りは必ず誰かに付き添ってもらうようにして下さい。
 幸いにも、これらの症状は2日目以降から急激な回復を見せます(これもある意味不思議ね!)


2.失敗について

 失敗する可能性はほとんどありません。
 レーシックは他の手術とは異なり、医師の腕の良し悪しはあまり関係がありません。
 極論を言えば、レーシックは基本的に機械がすべてを行います。
 したがって最新のマシーンを導入した、症例の多い病院を選ぶのがよろしいかと思われます(あたかもベルトコンベアに乗せられた感はありますが)
 レーシックはアメリカで数百万、日本でも数十万の症例があります。そして、レーシックが直接の原因となって失明したという事例は基本的にありません。ちなみにアメリカでは10年ほど前からレーシックを実施していましたが、突如失明!ということは無いようです。
 手術といっても、要は角膜の表面をガリガリ削っているだけの突貫工事のようなものなので(笑)、あまり心配はないように思われます。
 ノリとしては歯医者に少し似ているかもしれません(苦笑)


3.費用について

 僕の場合は最新型のマシーンで行ったので少し高めでした。
 しめて24万円、といったところです。
 ただし、工夫すればかなり安くなります。
 まず、お約束として「紹介者割引」を使ってください。これで5万円引き。
 次に生命保険の「手術給付金」を確認してください。
 もし、これが付帯されていれば最低でも5万円は支払われるはずです。商品によっては10~20万も支払われる場合があるので、これは絶対にチェックです。
 ちなみに僕の場合は”第一生命”から5万円、加えて親が掛けていたJAの保険からも、額は未確認ですが給付される予定です(おそらくは5万円)

 5万円 + 5万円 + 5万円 = これで15万円の割引。
 つまり「9万円」で手術を受けられることになるわけです。
 僕はこの値段を見て「やってみる価値あり」と判断しました。眼鏡だって良い物を買えば5、6万なんて簡単に吹っ飛ぶわけですから・・・。
 さらに、自治体によっては医療費控除の対象にもなります(これは微々たるものですが)

 いかがなものでしょう?
 基本的にレーシックは安全に視力回復を図る一つの手段だと思いますが、まれに想定したほど視力が回復しなかったり、重度のドライアイになってしまう場合もあります。
 個人的には、眼鏡やコンタクトに特に支障を感じていなければ全くやる必要はないと思います。
 逆に、いい加減”うんざり”であれば、レーシックによって労苦から解放されると言えるでしょう。

 ありきたりの結論ですが、レーシックは個人の価値観にかなり左右されるものだと考える次第です。
 加えて、僕は業者からの回し者でもありません(笑)
 質問はいつでもウエルカムです。

 

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