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2008/07/27のBlog
[ 20:42 ]
[ 【番外編】 ]
[関連したBlog]
いやはや、暑いですわ。
こう暑くては肉体的には夏バテ状態なのはもちろんのこと、かなり精神的にも参っている。そんなわけでブログを更新する気力も湧かず、日々ビールを共に同僚から借りたアニメDVDなどを見ていたりもする。
このように、夏になると知的生産力が減退するのは問題だ。それこそ「世の中の詭弁を断罪する」意識が遠のくからだ。他人にとってはどーでもいいことかも知れないが、僕自身の精神衛生上、これは由々しきことである(笑)
これも一つには、僕の書斎にはエアコンがないのが原因なのではないか?(爆)
書斎にはコンプレッサー付きの”冷風機”が一台あり、たしかに冷たい風を起こしはするものの、夜九時になろうとする今においても温度計は30度を指し示している。
やはり知的活動(笑)にはエアコンは欠かせないのではなかろうか・・・?
秋葉原に勤める叔父が言うように、所詮冷風機などは扇風機に毛の生えたオモチャでしかなかったのだ。
それはさておき。
warmgun氏が最近よく目にされるという”非国民通信”というブログにおいて、gooの“ブログ通信簿”サービスなるものが紹介されている。
僕もひとつ納涼の意味も込めてやってみたのだが、これが実に笑えるのだ。
採点によると、僕は”一般生徒”タイプであり、もっと目立った方がよく、しかも、もっと自分の意見を言った方が良いと言うのである(笑)
どうやら、僕は”自己主張”が足りないらしい(爆)
しかも、年齢は”59歳”!加えて性別はなんと!「女性」である!
この支離滅裂さ加減に「ヤッホー」である(笑)なんだかよけいに暑くなってきた。
それでは、今日の暑さを吹き飛ばす一曲。
アメリカのプログレバンド、”ドリーム・シアター”の「メトロポリス」はいかが?
楽団まで巻き込んでとんでもない演奏をしています(笑)
え?さらに暑くなったって?
http://jp.youtube.com/watch?v=lNp4tMcpM10
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いやはや、暑いですわ。
こう暑くては肉体的には夏バテ状態なのはもちろんのこと、かなり精神的にも参っている。そんなわけでブログを更新する気力も湧かず、日々ビールを共に同僚から借りたアニメDVDなどを見ていたりもする。
このように、夏になると知的生産力が減退するのは問題だ。それこそ「世の中の詭弁を断罪する」意識が遠のくからだ。他人にとってはどーでもいいことかも知れないが、僕自身の精神衛生上、これは由々しきことである(笑)
これも一つには、僕の書斎にはエアコンがないのが原因なのではないか?(爆)
書斎にはコンプレッサー付きの”冷風機”が一台あり、たしかに冷たい風を起こしはするものの、夜九時になろうとする今においても温度計は30度を指し示している。
やはり知的活動(笑)にはエアコンは欠かせないのではなかろうか・・・?
秋葉原に勤める叔父が言うように、所詮冷風機などは扇風機に毛の生えたオモチャでしかなかったのだ。
それはさておき。
warmgun氏が最近よく目にされるという”非国民通信”というブログにおいて、gooの“ブログ通信簿”サービスなるものが紹介されている。
僕もひとつ納涼の意味も込めてやってみたのだが、これが実に笑えるのだ。
採点によると、僕は”一般生徒”タイプであり、もっと目立った方がよく、しかも、もっと自分の意見を言った方が良いと言うのである(笑)
どうやら、僕は”自己主張”が足りないらしい(爆)
しかも、年齢は”59歳”!加えて性別はなんと!「女性」である!
この支離滅裂さ加減に「ヤッホー」である(笑)なんだかよけいに暑くなってきた。
それでは、今日の暑さを吹き飛ばす一曲。
アメリカのプログレバンド、”ドリーム・シアター”の「メトロポリス」はいかが?
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え?さらに暑くなったって?
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2008/07/13のBlog
[ 21:08 ]
[ 【番外編】 ]
どうやら”洞爺湖サミット”なる茶番劇が幕を閉じたようだ。
この会合では「高騰する石油問題」「食糧問題」「温暖化問題」などが話し合われたようだが、案の定、何ら具体的な方策が示されることはなく、各国共同の”スローガン”なるものが高らかに宣言されるに留まった。おそらく各国首脳は、ひと時のバカンスを楽しむために日本の田舎の”ウインザーホテル”に参集したに違いない。さぞ有意義な休暇であったろう。
私がこのサミットで非常に馬鹿らしいと思ったのは、例えば、アメリカに対する取り決めである。
洞爺湖サミットにおいては、アフリカに関する協議で、感染症対策支援として今後5年間で600億ドル(約6兆5000億円)を供与することで合意するとともに、これまでのサミットで誓約してきたアフリカ向け政府開発援助(ODA)の倍増を再確認したと発表されている。
しかし、この600億ドルについては前年ドイツのハイリゲンダムで開催されたサミットにおいて既に決まっていたことだ。ところが、その後実際に支払われたのはわずか30億ドル。よって今回のサミットで確認された5年間の時間枠というのは、結局のところ、お金が出せないから「5年間の月賦払いでどうか?」ということなのだ。
金が出せないのなら、最初から「アフリカを援助する」などという詭弁を弄するなと言いたい。アフリカを馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。
-温暖化しているのは、お前達の頭じゃないのか?
アフリカについては伏線がある。
今年の5月、横浜で開催された「第4回アフリカ開発会議(TICAD)」である。
この席上、福田総理は「向こう5年間で最大40億ドル(約4160億円)の円借款を提供する」と約束するなど、大風呂敷を広げている。
日本としても、レアメタルの宝庫であるアフリカをなんとか押さえておきたいという思惑もあるのだろうが、これまでに為されてきたような金のばら撒きでは、もはやアフリカは決して動いてはくれない。
首脳会談もまったく”お粗末”そのものだった。
約40カ国ものアフリカの首脳が招待されたのだが、ホテルで行われた首脳会談は1国あたりわずか「15分」。これでは本題に入る前の世間話すらできない。
金を出すのは我々なのだからそれで我慢しろ、とでも言いたいのだろう。まったく馬鹿にした話である。当然アフリカ各国の反応も冷ややかであった。
「アフリカの将来の成長を支えるのは貿易であり、援助ではない」
「アフリカと日本企業の関係は希薄だ」
「実生活で日本の援助の成果を感じたことはない。一般国民は、アフリカ開発会議に期待を抱いていないと思う」
そんな声が聞こえてきたという。たいした”ままごと遊び”である。
-温暖化しているのは、お前達の頭じゃないのか?
さて、「高騰する石油問題」「食糧問題」「温暖化問題」が云々されている頃、我々の象徴でもある”天皇様さま”は何をしていたのか。
これが笑ってしまうのだ。
《天皇陛下は、国立科学博物館の研究者らとともに、皇居内に生息するタヌキの「ためフン」を調べ、論文を共同で発表した。天皇陛下はハゼ類について30編の論文を発表しているが、タヌキは初めて。
身近なタヌキの生態に関心をもった天皇陛下は、皇居内の自然を調査している国立科学博物館の研究者らとともに、06年から調査を開始。ご自身も、御所近くの「ためフン場」でフンを採取して、ざるで洗い、フンからタヌキが食べたものを拾い出した。
その結果、豊かな自然を反映し、鳥類、昆虫、木の実など自然の動植物がほとんどだった。わずかにビニール片などはあったが、通常、都市部のタヌキのフンの大半を占める人間の残飯はなかった。
タヌキは決まった場所にフンをする習性がある。 》
~2008年7月11日 asahi.com~
まあ、天皇個人が何に興味をもち、何を研究するかは全くの個人の自由だ。たしか昭和天皇も雑草なんぞに興味を持ち、せっせと研究活動をしていたのは有名な話である。
そして、いよいよその息子はどうやらタヌキの”糞”に関心を抱いているらしい。わざわざ畜生の糞を洗って食い物を調べていたというから、なんともご苦労なことではないか。うれしくて涙が出てしまう。
まあ、昭和天皇の雑草といい、平成天皇の糞といい、まったくのところ「クソにもならない研究である」
-温暖化しているのは、お前達の頭じゃないのか?
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2008/07/07のBlog
[ 22:14 ]
[ ”消費者庁設立”に断固反対する ]
「年次改革要望書」とは1993年、来日したアメリカ大統領ビル・クリントンにより強引に突きつけられ、1994年から日米で交換されることになった規制や制度についてまとめた文書であるが、その実態は日本の対米従属の”約束手形”であった。
これにより、日本は独禁法改正による持株会社を解禁、建築基準法改正、労働者派遣法の改正による人材派遣の自由化、郵政の民営化、道路公団の解体、司法制度を変更するまでに到っている。
この間、アメリカに流れた資金は数百兆円とも言われ、いかにアメリカが日本を植民地化し、獲物としてターゲットに見定めていたかよく分かる。
そして、今回指摘する”新会社法”も例外ではない。
かつて食品衛生管理上の問題で世間を騒がせた「白い恋人」や「赤福」の場合はどうであったか。
この事件に過度に反応した厚生労働省がこれら企業を営業停止処分とし、その後企業再建というお題目のもとに銀行家が乗り込んできた。ここまではいい。
しかし、その銀行、すなわち金融機関のことごとくがアメリカ巨大資本の息が掛かっているならば、見過ごすわけにもゆくまい。そして、この再建を担う金融機関とは、例えば拙ブログでも紹介したゴールドマン・サックスの出先機関と化した三井住友ゴールドマン・サックス銀行であったり、ゴールドマン・サックス証券であったりする。
また、今年の初め早々、世間を震撼とさせたギョーザ問題もまたしかりである。この時も事前にインサイダー情報を仕入れたゴールドマン・サックスがJT関連の株を空売りし、またMSCBといった手法により莫大な利益を得ていることは既に書いた。
これは、なにもゴールドマン・サックスばかりが問題なのではない。これらアメリカ巨大金融資本のほとんどが似たような方法論により日本企業を足蹴にしていることは、現在進行形であるということを言いたいのだ。
そして、これら巨大金融資本の活動の強力なバックボーンとなるのが、おそらくは「消費者庁」なのではないか。
すなわち、アメリカの「年次改革要望書」により設立されるであろう「消費者庁」とは、日本の新会社法のもと、アメリカ金融資本が日本企業を食い物にし、利益を得るための機関でしかないだろう、ということなのだ。
たしかに、新会社法による三角合併で日本企業が外資に買収されるなら、逆に同様の手法で日本企業が外資を買収するという図式も成り立つ。これが健全な状態であるかは別としても、企業論でいくならば公平であるかのようにも見える。しかし、現実的にはそうは問屋が卸さない。それは、日本企業の時価総額の決定的な安さにある。
例えば、イトーヨーカ堂の時価総額はアメリカ小売大手ウォルマート・ストアーズの14分の1、松下電器産業はゼネラル・エレクトリックの10分の1にとどまる。
金融業界でも、三菱東京フィナンシャル・グループはアメリカ・シティ・グループの4分の1である。
また、国内大手製薬メーカー・武田薬品工業の時価総額は約4兆円。これに対しアメリカ・ファイザー社は約30兆円である。
さらに、今をときめくソフトバンクの時価総額は3.5兆円だが、これは住友金属、三菱重工業より高い数字であるのだ。
より少ない株数で交換できるという意味において、三角合併では時価総額の高い方が圧倒的に有利である。ここに挙げた以外の、国内主要企業の時価総額を見てみるといいだろう。とてもアメリカ企業には到底太刀打ちできない。つまり、潜在的には日本のあらゆる企業がアメリカ企業に吸収・合併される下地を孕んでいるとも言えるのである。
■それでも投資家は嬉しいのか?
このような状況を踏まえてもなお、投資家たちの反応はクールである。それはアンケート調査において如実に表れている。
日本経済新聞が、2005年3月に実施した経営者や市場関係者に対するアンケートでは、「会社はだれのものか」という問いに対して、「会社は株主の物」という回答が9割を占めていたという。すなわち、儲けさせる対象は日本企業であろうが、外資であろうが一向に構わないということなのである。
彼らの理屈はシンプルだ。法という名のもと、それに逸脱しない限り企業間の買収は何ら問題はない。強い企業が弱い企業の経営権を奪ったとて、それは自然の理である、ということに尽きる。
これこそがアメリカに端を発した”新自由主義経済”の発想そのものだと考えるが、投資家達はもはやそのような感性は持ってはいないであろう。
彼らは、相当に長期的展望にたって投資を展開しているとしても、その感性は実に近視眼的である。それは国家の企業の立ち位置についての感性においてである。
なぜなら、企業とはそもそも”売り買い”する対象ではないと、私は考えるからである。企業とは、ある時はささやかな、そしてある時は強大な勢力として国の土壌にあるものだ。しかし、今や現実はそうではない。
投資家たちはあくまでも直近の利益にこだわりがちだ。消費者庁設立後、5年間ほどはそれでもいいだろう。しかし、10年後、20年後、果たして彼らに日本企業はどれほどの利益をもたらすか。私は甚だ疑問である。この答えはアメリカの実体産業の現実を見れば分かると思うのだが。
そして、ここで浮上してくるのが日本の弁護士会である。政府与党は労せずして企業売り渡しのための参謀を得ることにもなる。さらに、日本以上に弁護士の余剰人員を抱えるアメリカについても、自国の弁護士のリーガルマーケットとして消費者庁を視野に入れることだろう。私が弁護士利権は成り立たないとする所以はここにある。
このような、司法をも巻き込んだ投資・投機的な感性こそが、アメリカの提唱するグローバリゼーション、金融工学の正体でもあるのだ。
この調子でいけば20年後の日本企業は見る影もない無残な姿を晒すことになるだろう。私が危惧しているのは、そのような国のありようそのものである。
日本という国家が、その企業をマネーゲームの玩具に堕すれば、企業は、国は必ずや滅びるであろう。
そして、その象徴こそが今回の指摘する「消費者庁」であるということなのである。
【終わり】
【よし、分かった。私も消費者庁に反対、と思った方はワンクリック! ⇒人気ブログランキングへ】
2008/07/03のBlog
[ 21:15 ]
[ ”消費者庁設立”に断固反対する ]
■法曹人口拡大計画
2002年、政府与党は司法制度改革の一環として、2010年頃には司法試験合格者を年間3千人程度まで増やすことを閣議決定し、このことにより1990年頃までは年間500人程度だった合格者は昨年の2007年、初めて2千人を超えることになる。計画通りにいけば、現在約2万9千人の法曹人口は10年後には5万人規模になることは確実である。これが現在推進されている「法曹人口拡大計画」のあらましだ。
ところが、昨年あたりから法曹界人員の質の低下が指摘されるようになり、さらには合格者の就職難といった”高学歴ワーキングプア”といった状況も現れはじめた。
このような状況を踏まえると、弁護士会が新たに新設されるだろう消費者庁に熱い視線を向けるのは、ある意味当然なことでもある。
これは例えば、多重債務者問題解決のため裁判による救済はもはや無理だという意見、つまり個別訴訟や判例解釈変更の限界論がその根底にあるためでもある。
しかし、弁護士は社会正義のため、市民の手足となって働くという理想がある一方で、法曹ビジネスが成り立たなければ弁護士の存在自体も危うくなるという現実もある。よって、ダイヤモンドが指摘するような、利権という土壌が生まれる可能性も無視できない。この消費者庁設立に際しては、森雅子といった参議院議員は言うに及ばず、多数の弁護士グループが消費者庁の設立推進に活動しているのはどうやら事実である。
それでも、”ダイヤモンド・オンライン”に見るような「弁護士利権」なる指摘はゴシップ記事の域を出ないように思われる。
一つには、”弁護士利権”という発想があまりにも短絡的、稚拙であるということ。
二つ目には、弁護士の存在自体が必ずしも政府与党の利益にはならないということ(例えば、消費者庁の設立により、国を相手取る訴訟の増加など)
三つ目には、利権そのもの自体が成り立たないであろうこと。
利権とは、当事者双方のアンダーグラウンド的思惑(金銭も含め)が成り立って初めて”利権”となる。今回の消費者庁は、政府与党側の弁護士会に対する働きかけはほとんど皆無であると考える。すなわち双方向による利権構造は全く成り立っていないのだ。これはどういうことか。
■”新会社法”という悪魔の法律
ここで「新会社法」という法律を考えてみよう。
「資本金1円からでも会社が設立できます」「有限会社から簡単に株式会社へ変更できます」といったうたい文句で2006年5月に施行された新会社法。志ある企業人たちは、きっとこれに飛びついたに違いない。しかし、この新会社法のもと、現在生き残っている企業はほとんど皆無ではなかろうか。
当たり前である。これらの企業家を後押しするような取り決めは新会社法にとって枝葉末節、単なる国民に対しての隠れ蓑的な”おまけ”に過ぎなかったからである。新会社法のコンセプトとはもっと別のところにあった。
それは、外資系企業が日本企業を買収するための手法、「三角合併」にこそ、その本質が隠されていたのだ。
「三角合併」とは、買収元となる企業が、子会社を通じて買収元株式を交付することにより、ターゲット企業を買収する手法である。
例えば、外資系企業A社が日本に100%子会社B社を設立し、B社が日本企業C社を吸収合併する場合を考えてみよう。
これまでは、B社がC社の株主に対し現金、あるいはB社の自社株を対価として交付しなければならなかったが、新会社法では、B社はC社の株主に対し、自社株ではなく、親会社である外資系企業A社の株式を交付することになる。
B社は合併の受け皿会社に過ぎないため、外資系企業A社が事実上、日本企業C社を買収したのと同じことになっしまうのだ。
これが新会社法のダミー会社を通じた企業のっとりの”からくり”であり、また政府与党がアメリカを中心とする外資系企業に日本企業を売り渡すための狡猾な手口でもあるのだ。
ここに恐ろしい数字がある。
資本金5000万以上の中規模以上の企業で、なおかつ外資の比率が49%以上の企業は、日本においてなんと約1600社もあるというのだ!
このことは、新会社法のもとに展開されてきた、政府の詭弁的行為であるのは明白だ。現在の政府与党とは、もはや”売国奴”以外の何者でもないことがよく分かる。
そして、これらの「法曹人口拡大計画」「新会社法」については、アメリカが日本に突きつけた「年次改革要望書」に、はっきりと記載されている事項なのである。
【消費者庁がいよいよ、きな臭くなってきた、と思った方はワンクリック! ⇒人気ブログランキングへ】
2002年、政府与党は司法制度改革の一環として、2010年頃には司法試験合格者を年間3千人程度まで増やすことを閣議決定し、このことにより1990年頃までは年間500人程度だった合格者は昨年の2007年、初めて2千人を超えることになる。計画通りにいけば、現在約2万9千人の法曹人口は10年後には5万人規模になることは確実である。これが現在推進されている「法曹人口拡大計画」のあらましだ。
ところが、昨年あたりから法曹界人員の質の低下が指摘されるようになり、さらには合格者の就職難といった”高学歴ワーキングプア”といった状況も現れはじめた。
このような状況を踏まえると、弁護士会が新たに新設されるだろう消費者庁に熱い視線を向けるのは、ある意味当然なことでもある。
これは例えば、多重債務者問題解決のため裁判による救済はもはや無理だという意見、つまり個別訴訟や判例解釈変更の限界論がその根底にあるためでもある。
しかし、弁護士は社会正義のため、市民の手足となって働くという理想がある一方で、法曹ビジネスが成り立たなければ弁護士の存在自体も危うくなるという現実もある。よって、ダイヤモンドが指摘するような、利権という土壌が生まれる可能性も無視できない。この消費者庁設立に際しては、森雅子といった参議院議員は言うに及ばず、多数の弁護士グループが消費者庁の設立推進に活動しているのはどうやら事実である。
それでも、”ダイヤモンド・オンライン”に見るような「弁護士利権」なる指摘はゴシップ記事の域を出ないように思われる。
一つには、”弁護士利権”という発想があまりにも短絡的、稚拙であるということ。
二つ目には、弁護士の存在自体が必ずしも政府与党の利益にはならないということ(例えば、消費者庁の設立により、国を相手取る訴訟の増加など)
三つ目には、利権そのもの自体が成り立たないであろうこと。
利権とは、当事者双方のアンダーグラウンド的思惑(金銭も含め)が成り立って初めて”利権”となる。今回の消費者庁は、政府与党側の弁護士会に対する働きかけはほとんど皆無であると考える。すなわち双方向による利権構造は全く成り立っていないのだ。これはどういうことか。
■”新会社法”という悪魔の法律
ここで「新会社法」という法律を考えてみよう。
「資本金1円からでも会社が設立できます」「有限会社から簡単に株式会社へ変更できます」といったうたい文句で2006年5月に施行された新会社法。志ある企業人たちは、きっとこれに飛びついたに違いない。しかし、この新会社法のもと、現在生き残っている企業はほとんど皆無ではなかろうか。
当たり前である。これらの企業家を後押しするような取り決めは新会社法にとって枝葉末節、単なる国民に対しての隠れ蓑的な”おまけ”に過ぎなかったからである。新会社法のコンセプトとはもっと別のところにあった。
それは、外資系企業が日本企業を買収するための手法、「三角合併」にこそ、その本質が隠されていたのだ。
「三角合併」とは、買収元となる企業が、子会社を通じて買収元株式を交付することにより、ターゲット企業を買収する手法である。
例えば、外資系企業A社が日本に100%子会社B社を設立し、B社が日本企業C社を吸収合併する場合を考えてみよう。
これまでは、B社がC社の株主に対し現金、あるいはB社の自社株を対価として交付しなければならなかったが、新会社法では、B社はC社の株主に対し、自社株ではなく、親会社である外資系企業A社の株式を交付することになる。
B社は合併の受け皿会社に過ぎないため、外資系企業A社が事実上、日本企業C社を買収したのと同じことになっしまうのだ。
これが新会社法のダミー会社を通じた企業のっとりの”からくり”であり、また政府与党がアメリカを中心とする外資系企業に日本企業を売り渡すための狡猾な手口でもあるのだ。
ここに恐ろしい数字がある。
資本金5000万以上の中規模以上の企業で、なおかつ外資の比率が49%以上の企業は、日本においてなんと約1600社もあるというのだ!
このことは、新会社法のもとに展開されてきた、政府の詭弁的行為であるのは明白だ。現在の政府与党とは、もはや”売国奴”以外の何者でもないことがよく分かる。
そして、これらの「法曹人口拡大計画」「新会社法」については、アメリカが日本に突きつけた「年次改革要望書」に、はっきりと記載されている事項なのである。
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2008/07/02のBlog
[ 22:58 ]
[ ”消費者庁設立”に断固反対する ]
《最前線の地方がガタガタでは、せっかくの消費者庁も空回りする。そこで基本計画では、自治体によって設置基準がまちまちな消費生活センターの位置づけを法的に明確化するとともに、それぞれをつなげた全国ネットワークをつくる方針を打ち出した。これが実現すれば、緊急事態に三百六十五日、二十四時間対応することが可能となる。》
~2008年6月30日 東京新聞~
消費者庁設立に際しては、6月13日、消費者行政推進会議の佐々木毅座長から、報告書が福田首相へと既に手渡されているが、そもそも、なぜ今、消費者庁なのか?
政府与党の言い分はこうである。
つまり、現在の消費者行政は薬のことなら厚生労働省、マンションのことなら国土交通省、電気製品のことなら経済産業省といったように細分化され、対応がまちまちである。
であれば、消費者行政を一元化するため、過去に公害行政を一元化するために置いた環境庁(現在の環境省)のように、「消費者庁」を作るべきではないか、さらに全国に設置された消費者センターをネットワーク化すれば、より速やかに事態に対応することもできる、ということなのである。
非常に結構なことのようにも思えるが、いざ蓋を開けてみれば消費者保護という名目の下、国民・民間企業に対する政府の権限がさらに強化されるだけなのではないだろうか。
これは耐震擬装問題に端を発した、改正建築基準法に見られる規制の強化により明らかである。この事件では末端の関係者のみがいたずらにクローズアップされ、問題の本質ともいうべき国土交通省の責任がうやむやにされ、結果、官僚の規制が強まっただけであった。
さらに、この消費者庁については、かねてよりまことしやかに囁かれている話がある。
それは、消費者庁設立の背後には「弁護士利権」があるのではないか、という”噂”である。
■消費者庁創設の背後に見え隠れする「弁護士利権」
「弁護士の食い扶持にしかならないのではないか」
《政府関係者からは早くも懸念の声が上がっている。この4月に新設が決まった「消費者庁」のことだ。あまり知られていないことだが、消費者庁創設に関しては、日本弁護士連合会(日弁連)に代表される弁護士勢力の意向が強く働いているのだという。
事実、消費者庁構想を推進してきた自民党・消費者問題調査会の事務局次長は、弁護士の森雅子参院議員。消費者保護という「錦の御旗」の下に、貸金業法、割賦販売法、宅建業法など20以上の法律を各省庁から消費者庁に移管しようと奔走している。
縦割り行政に浸かり切ってきた霞が関にしてみれば、面白いはずがない。「消費者庁が創設されても、ロクな人材を送るつもりはない」(中央省庁幹部)といずれもそっぽを向いている。この間隙を縫って、消費者庁本体に弁護士を送り込むというのが、日弁連の思惑。5月19日、福田康夫首相を訪れた宮崎誠・日弁連会長は「消費者問題に詳しい弁護士を政府に派遣することもできる」と水を向けた。》
~2008年6月3日 週間ダイヤモンド・オンライン~
この法曹界を取り巻く”噂”の審議については、次のエントリーにて検証してみたい。
【消費者庁がだんだん怪しくなってきた、と思った方はワンクリック! ⇒人気ブログランキングへ】
2008/07/01のBlog
[ 22:09 ]
[ ”消費者庁設立”に断固反対する ]
朝日新聞がまた”やらかして”いる。
いったいこの腐敗した酩酊船(よいどれぶね)は、どこを徘徊しているというのか。
朝日新聞は毎月3万部づつ部数を減らしていると一部では囁かれているようだが、そこまではいかないにせよ、我々の想像以上に”減らしている”というのは案外言い当てているのかもしれない。
私が今回指摘するのは、前回のエントリー2008年5月26日の社説に引き続き、同月28日の社説についてである。
「消費者庁―首相は各省を説き伏せよ」と題されたそれは、首相福田康夫が人気挽回と民主党の「国民の生活が第一」なるスローガンに対抗すべく、現在彼が押し進めている新省庁設立の動きを後押しする、いわば”提灯(ちょうちん)記事”の見本のようなものである。
このような、言説はもはやマスコミとは言えないだろう。-強いて言うなら「マスゴミ」である。
では、そのような社説の”ゴミさ加減”を見ていこう。
《人々の安全や安心にかかわる問題を幅広く担当する。各省庁が扱う法律のうち、消費者にとって身近なものは消費者庁の受け持ちに変え、必要があれば他の役所に勧告もする――。
権限と責任を持った「消費者行政の司令塔」というイメージである。
これまで多くの省庁は、産業の振興や業界の育成に軸足を置いてきた。消費者を守る部門があっても、分野ごとに担当する役所が違うから、国民にとっては、どこに相談すればいいのかわかりにくい。役所同士の連携も不十分で、縦割りのすき間に落ちてしまい、対応が遅れるケースもある。
そうしたお粗末な態勢が浮き彫りになったのは、家庭用器具による事故や食品の偽装、冷凍ギョーザ事件をめぐる役所の対応の不手際だった。
消費者行政の窓口を一本化し、必要な権限を集められれば、人々の生命や暮らしを守るのに大いに役立つ。消費者庁をつくることを支持したい。 》
~2008年5月28日 朝日新聞社説より一部抜粋~
これに目を通した人はどう思うか?
「問題のある点は特に見当たらない」「なるほど、もっともな意見である」-そんな感想をもつ人が多いものと思われる。
しかし、このような”問題のない”、”もっともな意見”こそ、実は大問題なのではないだろうか。
朝日がいまさら分かりきった綺麗事を発するときは、注意が必要である。今回もかしこぶった中学生の作文のような社説を臆面もなく載せているが、その神経の図太さ、というよりその無神経ぶりに私はただただ脱力するのみなのだ。
つまり、我々はこのような政府与党に旗振る記事など全くをもって必要としていない、ということなんですね。
私たちが知りたいのは、
「なぜ今、消費者庁」なのか?
「なぜ、福田康夫は消費者庁に固執しているのか?」ということであるはずだ。
そしてマスコミが”ゴミ”でないことを証明するためにも、この動きの背景については取材の総力を上げた結果を我々に提示しなければならないはず。それを朝日はすっかり放棄し、またしても政府ににじり寄っているわけだ。私が酩酊船と揶揄する所以である。
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2008/06/29のBlog
[ 14:43 ]
[ <Perspective> ]
朝日新聞、日曜朝刊の文化面に掲載される「100 Answers」という記事がある。
各方面の識者や有名人といった文化人100人が、その時々のテーマについて回答を寄せるといった企画である。
そして、これまでも「夏休みの過ごし方」「品格のある人とは」「紅白歌合戦に代わるNHK番組」といったテーマを質問にするなど、実にくだらない企画なのである。
今回は「東京五輪」がテーマに選ばれている。
すっかり忘れていたが、都知事の石原何某が現在推進している、彼自身の自己満足イベントのことである。「東京で二度の五輪、歓迎ですか」の質問に対し、「賛成:28人」「反対:48人」「どちらでもない:15人」「無回答:9人」
ある意味予想通りの結果でもあるが、この結果を云々するのは言うに及ばず、東京五輪について語ることさえ全くをもってアホらしいとも思っている。
それでも、今回は「21世紀型の五輪は、どんなかたちが望ましいでしょう?」という質問に対する文化人の回答の中で、個人的に目についたものを紹介し、合わせて私のコメントも添えてみようかと思う。
朝日新聞の選ぶ文化人とは、なかなかの人物が数名いる一方で、基本的にはしょーもない連中の寄せ集めであることが、これで良くわかっていただけるのではないだろうか。
■Q:21世紀型の五輪は、どんなかたちが望ましいでしょう?
■有栖川有栖(作家)
国対抗をやめ選手の生まれ月対抗に。家族で敵味方に分かれ楽しめます。
→ということは、たった12チームか?あまりに飛躍した荒唐無稽な発想。
ちなみに、この作家は”ありすがわありす”と発します(笑)
■小川洋子(作家)
村人全員、外国人を見るのは生まれて初めてというようなところで。
→村上春樹同様、海外に紹介される数少ない作家の素顔とは、実にこの程度。このような幼稚で痴呆にも似た、非現実的な文化人の物言いには生理的嫌悪感を覚える。日本の文学・小説が死に絶えたのも、このような”妄言オバサン”が幅を利かせていることと無縁ではない。
■北村想(劇作家)
極端なことをいえば、競泳は全裸で。そこから何か考え直したほうがいいような直感がある。
→SPEEDO社製の水着を揶揄しているのだろうが、この直感は”鈍感”そのものである。全裸は個人的には結構なことだが、中高生男子の勉強部屋のゴミ箱がティッシュで溢れるだけなのではないか?(笑)
最初に紹介した連中は、一体何を考えているのだろうか?特に小川洋子に見られるお得意の空想非科学的言説にはいい加減辟易する。我々はこのようなファンタジーな回答など全く期待していないし、これは他の2人にも言えるのだが、自分の世界に浸りきるのもいい加減にして欲しいものだ。
一方、こんな回答もある。
■本田由紀(東京大准教授)
全会場を衛星放送とインターネットで結んで行われる開会式では、紛争や貧困・飢餓の撲滅、人間の尊厳の回復に向けての宣言と祈りが捧げられる。
■原武史(明治学院大教授)
開催場所に硫黄島やアウシュビッツ、カティン、ボルゴグラード、アッツ島、沖縄本島、広島、長崎など、戦争の記憶を濃厚に残す場所を。
■武田徹(ジャーナリスト)
紛争などで焦土と化した地や、災害被災地を開催場所として、五輪の広告収入、放映権料などを復興支援に。
この3人は一見、もっともなことを言っているように思われる。
しかし、これらは全て”偽善”そのもの。
文化人お得意の偽善・詭弁発言の見本のようなものである。
まず、本田由紀。
主張は大変立派だが、なぜ五輪でこのような祈りが捧げられなければならないのか?これではNHK紅白がよく主張するところと何ら変りはない。国民的番組、世界的なスポーツ祭典だからこそ平和への祈りを、と大風呂敷を広げているのだが、これらは祭典・大行事に際してのレトリックである。
次に原武史。
沖縄、広島、長崎はまだしも、硫黄島やアッツ島での五輪など絶対不可能だし、またやるべきですらないのは明白。このような絶対的不可能性を、なんの恥じらいもなく口にするのが文化人的「偽善」の典型である。
そして、そのようなかつての戦場、被災地で五輪開催など絶対にできない。このことを一番良く知っているのが、例えばジャーナリストといった武田徹のはずだ。
なぜならば、中条省平(学習院大教授)が指摘するように、
「五輪はもはや「自由な意見・案」を聞くことができない、多国籍産業複合体になっている」
からなのだ(中条省平にしては珍しく、まともな発言だ)
現代の五輪は利権、すなわち金が全てである。
こんな分かりきったことを、わざわざ私がここで言うまでもないことなのだが、そんな中においても朝日新聞は五輪に対する企画を打ち出し、それに同調するように文化人は綺麗ごと、もの分かった発言、さらには妄言・珍弁を繰り返し、石原何某のような為政者がその利権を当て込んで、五輪云々と方々で騒ぎ立てている。
また、一部の偽善者が主張する、かつての戦場、被災地の救援・復興、そして祈りといった活動は五輪で行うことではない。それは、我々が、自身の立ち位置で「今すぐ」やるべきことではないだろうか。しかしながら、世界平和を唱える文化人ほどそれに対しては何もしていないし、もちろん石原何某も何もしやしない。
言うまでもなく、五輪とは、利権と偽善と詭弁による世界的祭典なのである。
よって、私は東京五輪、さらに五輪一般に対しては、下記の町田康と考えを同一にしている。
■町田康(作家)
廃絶。
これである。
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2008/06/24のBlog
[ 22:40 ]
[ 靖国 ~YASUKUNI ]
1975年9月30日。
昭和天皇は皇后を伴いアメリカを訪問している。これは前年来日したアメリカ・フォード大統領の招待に応じたもので、天皇のアメリカ訪問は歴史上初めてのことである。
ホワイトハウスで行われた大統領主催の歓迎晩餐会の席上、天皇は先の大戦に触れ「深く悲しみとする不幸な戦争」とし、アメリカに対しては「貴国が戦後、我が国再建のために温かい好意と援助の手を差しのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し上げたい」という過大なまでのリップサービスを行い、フォード大統領の顔を大いに立てる格好となった。
さらに帰国後の同年10月31日、日本記者クラブの公式記者会見の席上、昭和天皇は原爆が投下された広島、及び自身の戦争責任について耳を疑うような発言をしている。
広島の原爆投下について、天皇はどのように受け止めているか。中国放送・秋信利彦氏が質問に立った。天皇の回答は次の通りである。
「原子爆弾が投下されたことについては、遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですので、ええ、どうも、広島市民に対しては気の毒とは思いますが、私としてはやむを得ないことだったと思っています」
極めつけは天皇の戦争責任についてである。
質問に立ったザ・タイムズの中村康二氏は、アメリカ訪問にて発した「深く悲しみとする不幸な戦争」発言とは、天皇自身が開戦を含め、戦争そのものに責任を感じているという理解でよろしいかと尋ねたのである。
返ってきた返事はこうである。
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」
広島に対して”お気の毒”とは、高みから眺めるまるで他人事同然、さらに自身の戦争責任については”言葉のアヤ”であり、それは文学方面の言説であるとする珍弁・詭弁を披露する始末。
「原爆投下はしょうがない」発言で糾弾された防衛相がいたことは記憶に新しいが、この天皇発言はそんなエセ大臣どころではない。これが長きに渡り世間が信奉させられてきた”天皇様さま”の正体なのである。あの戦争とは、まるで天皇の人生ゲームそのものだったかのようである。
この作品において、面白いエピソードが映し出されている。
片手には「小泉総理を支援する」とのプラカード、もう片手には星条旗を掲げた、母国で不動産業を営むというアメリカ人男性が参拝者達に詰め寄られ、罵声を浴びせられるというシーンである。
詰め寄る者たちはこう叫ぶ。
「ここは日の丸を掲げるところ。お前は出て行け」
結局、意味の分からぬままこのアメリカ人は退散を余儀なくされた。
このシリーズの冒頭で述べた「亡霊」とは、一体どこからやってくるのだろうか。
亡霊とは「大切な何かを置き忘れてしまった」時、我々の前に姿を現す。
星条旗のアメリカ人を糾弾する一方で、決してアメリカを高らかに非難することのない参拝者たち。彼らのベクトルは内面、すなわち日本、そして日本人に向いている。
先の戦争で国土は焦土と化し、全てが破壊し尽くされた。しかし、玉音放送があり、東京裁判があり、GHQが進駐してくる最中でも、日本人の象徴たる天皇は相も変わらず存在し地方行脚まで行い、かつての”神”の実像を一般衆人の面前に曝すこととなった。
日本はなにも変わっていなかった。全てが砕け散ったと思ったのは実は上っ面のことで、破壊すべき日本を取り巻く本質、つまり天皇は何も変っていなかったのだ。
靖国信奉者の主張は、常に次の3点に集約される。
「英霊の御霊を弔うこと」「英霊の名誉を回復すること」、そして我々日本人が「英霊に深く頭をたれること」である。
やはり、彼らのベクトルは確実に内面、すなわち日本、そして日本人に向いているのだ。
そして、私の言う亡霊とは、するべき重要なことを成し遂げられなかった我々自身からやってきて、それは我々に強烈に主張する。この亡霊は我々の”生霊”のようなものである。
「なぜ、天皇を糾弾・断罪せず、存置してしまったのか?」
その意味において「靖国」とは、実は我々自身の問題ではないだろうか。
そして、私はそのような亡霊たちが、つくづく”哀れ”でならないのだ。
このことが、ジャニーズにハマる子持ち専業主婦に象徴される、現代の日本人に理解して貰えるかどうか、私には自信がない。
映画「靖国 YASUKUNI」は、製作に際しての公的助成金の是非を巡り、自民党・稲田朋美議員が文化庁に問い合わせを行ったことから国会議員向けの試写会が行われ、それに呼応するかのように右翼団体のバッシングも活発となり、予定されていた上映が各地で中止になるという動きも起こった。
公的助成金云々というのは隠れ蓑であるとして、たとえ稲田氏が”右側の”議員であるにせよ、なぜこうも騒ぎ立てるのか当初不思議ではあった。しかし、実際にこの作品を観るにあたり「なるほどな」と納得することができた。
それは、何のことはない。
実は、議員になる直前、日本会議の代表弁護士という立場で、戦没者追悼演説を行う稲田朋美氏の姿が、作品の中でありありと映し出されているのである(※画像はその前年のものである)
おそらく、彼女は映画の中で自分がどのように扱われているか、すなわち”世間”にどのように映っているか、異常に気になったのだろう。しかし、これらの不穏な動きがむしろ世間様のポイントを明らかに下げたであろうことは、彼女にとってはなんとも皮肉な結果をもたらした。
ここにも”世間”は横たわっているのである。
【終わり】
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2008/06/22のBlog
[ 15:05 ]
[ 靖国 ~YASUKUNI ]
前回のエントリーでは、朝廷、すなわち現代で言う天皇の権威を最も担保するのが、我々”世間”であることを書いた。
少なくとも表向きの顔はそれで間違いないとして、実際のところ本音の部分、”世間”の腹の中はどうだったのだろうか。
奇しくも、映画「靖国」を観るのに前後して坂口安吾を読んでいたのだが、その作品の中には戦前から戦後かけての、いわゆる”世間”の本音がちらほらと垣間見られるようで大変興味深い。
《我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、ある種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社についてはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄にについて、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気がつかないだけのことだ。》
~坂口安吾 「堕落論」 ちくま日本文学~
《我々国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒瀆する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。》
~坂口安吾 「続堕落論」 ちくま日本文学~
実際のところ、日本人のほとんど全員は、坂口安吾が書いているように、天皇を”神”だとは信じていなかったのではなかろうか。
日本人にとってかつての天皇は、信仰の対象としてその存在に意味があるわけではなく、軍部を中心とする、ごく一部の人間の作り出す根拠のない天皇崇拝の空気を横目で睨みつつ、世間はとりあえずそれに屈服するポーズを取っていたに過ぎなかったのではないか。
そして、終戦に到った時、昭和天皇はもはや飾り物としては「賞味期限切れ」でしかなく、願わくば天皇という存在は無くなって欲しい、我々の前から姿を消して欲しい、-アメリカ辺りが抹殺してくれないか、秘かにそんな願望を抱いていたのではなかろうか。
しかし、現実はそうはならなかった。戦後日本は大混乱も生じることなく、アメリカGHQの占領体制にシフトしてしまったのである。
この件については、社会学者・大澤真幸がその著書「不可能性の時代」において興味深い見方を我々に提示してくれている。
それは、これまで天皇が占拠していた”神聖な座”、ありていに言えば崇拝対象となる”飾り物”の座に、間髪を入れない交替劇があったからである。
つまり、アメリカという新たな支配構造の出現により、日本人の精神を支える形式的構造は、敗戦によって破壊されることがなかった。「内容」は変化したが、「形式」は保持されたのである。
そして、この交替劇を象徴的かつ劇的に演出したのが、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサー元帥と昭和天皇・裕仁との「結婚写真」であるというのだ。
彼の著書に興味深い逸話が紹介されている。
1945年8月30日のマッカーサーの厚木海軍飛行場の到着は、敗戦後の決定的大事件でもあったのにも関わらず、翌日の新聞一面を飾ることはなかったのだ。日本人なら誰もが目にしたことのあるコーンパイプにサングラス姿の、あの写真である。
大澤真幸は指摘する。
日本人がアメリカを受け入れたのは、マッカーサーと天皇との「結婚・抱擁」を待って初めて、今後為されるであろうアメリカの支配体制が有意義な出来事になったからではなかろうかと。この2人の記念写真こそが、アメリカが日本人のコンセンサスを勝ち取る決定打となったのである。
私は、「天皇は時の権力者に容易になびく。日本人であろうがアメリカ人であろうがそれは問題ではない」と既に書いた。そして、天皇とは、戦後アメリカがわざわざ定義するまでもなく、日本人の象徴、飾り物でもあった。このように考えると、天皇象徴の母体でもある日本人が2人の写真を目の当たりにし、容易にアメリカになびいてしまったのも何ら不思議なことはない。
日本人にとっては崇拝の対象は絶対的に必要なものであるが、それは極端に言えば何でも構わないのである。
内容よりも、飾り物が存在するいう「形式」こそが最も重要なのである。
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2008/06/21のBlog
[ 16:18 ]
[ 靖国 ~YASUKUNI ]
《靖国神社は戦争を祀る<生>と<死>の巨大な舞台であり、そこで私は戦争に関する様々な<記憶>と<忘却>、戦争の巨大な<仮面>を目の当たりにした。今もなお世界において、戦争という名の亡霊が人類に接近する歩みを止めたことはない。
私は、靖国神社の中に残る<戦争後遺症>を通して、人類にとって永遠のテーゼでもある<戦争と平和>とは何なのかを、十年、もの歳月をかけて追いかけてきた。
その問いかけにはそれぞれの観客の心の中の<靖国>を通じて考えてもらいたい。》
~映画「靖国 YASUKUNI」 パンフレットより 監督 李纓(リ・イン)の言葉~
靖国の監督リ・インは戦争という名の”亡霊”は人類に対し歩みを止めたことがないと指摘し、戦後約60年を経た今でも、靖国に”戦争後遺症”を感じとっている。
この感覚については私も同感であり、この戦争後遺症を引きずる現代の中に亡霊を見る思いを禁じえなかった。
私は、映画「靖国」に映し出される「街宣車と共にある右翼の人間」「軍服を着て闊歩する人間」「首相の参拝に反対する人間」「戦没者を追悼する人間」、そのような”人間たち”を垣間見るにあたり、つくづく彼らは哀れな者たちであると感じてしまう。「哀れ」なのだ。
つまり、私はこのような人間たちこそ、戦争後遺症が産み出した”亡霊”そのものに他ならないと感じてしまったのである。
■戦争が終わり、日本人は何かを置き忘れた
なぜ、このような亡霊たちが、21世紀の現代においても我々の前に姿を現すのか。
それは、戦後、日本人は大切な何かを置き忘れてしまった、するべき重要な何かをしてこなかったからではないだろうか。
極東国際軍事裁判、俗に言う「東京裁判」では東条英機ら戦犯と見なされた者たちが死刑、終身刑、禁固刑に処せられている。これら軍部出身の者たちはかつての日本を不毛な戦争へと導いた大罪人であることは明白であるが、それでも戦勝国が敗戦国を裁くというのは偽善以外の何ものでもない。なぜならば、戦勝国、敗戦国の如何に関わらず、戦争推進者は全てが”戦犯”であると考えるからである。そして、この裁判においてこそ最も重要なことが為されていない。バッサリと抜け落ちている。
それは、時の昭和天皇・裕仁を退位・訴追、さらにはA級戦犯として死刑判決を下さなかったことである。
東京裁判など偽善そのものであると考える。それでも、そのような偽善的行為を全うするならば、当然、天皇も裁かれてしかるべきであったとも考える。ところが、占領政策を優位に進めるため、アメリカは天皇制を温存する決断を下している。このことが東京裁判の偽善性を何よりも雄弁に物語っており、天皇に対する何らか制裁を与えられなかったことこそ「戦後日本が置き忘れたこと」なのではなかろうか。
かつて、天皇とは我々日本人にとって”神”そのものであった。
戦前、「天皇も人間だからやはり大便をするのではないか」と生徒の質問に答えた教師がいたが、「天皇は神であり、大便などしない」と言う理由でこの教師が処罰されると言う事件もおきている。
しかし、昭和天皇は1946年1月1日、東京裁判が始まる前にいわゆる「人間宣言」を行っている。これは、その後の東京裁判で天皇自身の処遇を暗示する出来事でもあったわけだが、かつて”神”と崇め奉られていた天皇が、「実は人間でした」と表明することによる、アメリカの占領政策という長いものに巻かれる逃げの一手に他ならない。
靖国には明治維新から大東亜戦争に到るまで、240万人にも及ぶ戦没者が合祀されている。ほとんどが無名の一般国民である。そのような戦争犠牲者に対し、「実は人間でした」ときた。これでは彼らは浮かばれない。
しかし、このような天皇の立ち振る舞いは戦後始まったことではない。日本の歴史において天皇が直接の実権を握り政治を左右した時期もあったが、基本的には天皇、かつての朝廷はその時々の権力者のお飾りに過ぎなかった。
日本人が好きな戦国時代にもそれはよく表れている。朝廷から征夷大将軍に任ぜられたものが幕府を開くという図式である。権力者は朝廷という虚構の権威を利用し、天下統一を図ってきたのである。なぜならば、朝廷の権威を最も担保していたのが一般の民・百姓、すなわち”世間”であったからである。
そのような歴史的経緯も踏まえ、アメリカが天皇を温存し、戦後「国民の象徴」という荒唐無稽な立ち位置に追いやってしまったのである。
天皇は時の権力者に容易になびく。日本人であろうがアメリカ人であろうがそれは問題ではない。そんな”世間”を見透かすかのようにアメリカは天皇をかつての”お飾り”し、その後の日本を植民地化することに成功したのである。
強いものに容易くなびき、自身の主張一つ発することのできない日本人。会社でも、友人関係でも、家族の中でも、思い当たるふしはいくらでもあるだろう。
そんな”世間”を象徴するのが「天皇」であるとは、なるほどよく言ったものである。
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