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2006/06/24のBlog
[ 05:29 ]
このシンポジウムに限らず、日本に市民参加型ジャーナリズムは根付かないとの意見はメディアに溢れている。
・日本人は、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」精神が人々の心に根付いており、議論そのものを嫌う傾向がある。
・日本のジャーナリズムがさまざまな問題点を抱えているといっても、市民参加型ジャーナリズムがないとその問題を解消できないという程に危機的状況ではない。
・日本には巨大掲示板やタウンミーティングなど、市民の不満のガス抜き装置がたくさんあるので、市民参加型ジャーナリズムに書き込む人は少ない。
・日本の市民記者は暇な時間をつかって記事を書くのだから、既存のジャーナリズムとの質の差は歴然であり、そのようなものを社会は評価しないのは当然である。
・日本の市民記者は自らの楽しみと自己実現のために記事をかくのだから、独りよがりのものが多く、読者の支持を得にくい。
一方、私が市民記者をして感じた市民参加型ジャーナリズムの問題点は、以下になる。
・日本は同一性の高い社会なので、発言することで自分の存在をしめさなくても、社会の構成員として認められる。逆に、自らを主張すると、異分子として自分の属する集団から弾き出される可能性がある。
・公平中立であるべきというジャーナリズムの概念が、他者の悲しみも自分の悲しみとする善良なる市民感情と乖離している。
・誹謗中傷であるかどうかは、司法機関によって事実性・真実性が争われることによって決定する。一般市民には、裁判に関わる費用(経費・時間)を支払う余裕はないから、市民記者が世の中の物事を批判するためにはかなりの覚悟が強いられる。
・実名で記事を書くと、掲示板やコメント欄にさまざまな反響がある。なかには市民記者を喜ばせるものもあるが、市民記者を怒らせるばかりでなく、市民記者本人や家族の生活を脅かす場合もないとはいえない。ネット上のできごととはわりきれないような危機的事態もある。そういうものにひるんでしまって、市民が記者を書きにくい。
・実名・匿名など署名に関わる混乱。トレーサビリティーの確保および、複数人へのなりすましなどへの対策の不備。
・運営に関する透明性の確保がなされていないので、市民記者が媒体に対して疑心暗鬼になっている。
・編集権が権力として機能し、市民記者が運営システムなどに意見をいいづらい。
・市民記者同士の横のつながりができにくい。(多様な意見の並立が難しい。日本人は無意識のうちに、合議や合意を求めてしまう。)
・市民記者が参加型ジャーナリズムに加わって記事を書いても、受け手の側は旧来の読者のままである。つまり、読者のほとんどは記事に対して賛成も反対もしめさない。TBやコメントをつける機能はあるが、反応する人のほとんどは、記事に意義を唱える人だ。
ネガティブな分析の大行進である。
だが、その一方で、市民参加型ジャーナリズムが日本に必要でないと断言する人は一人とて、いないのである。
ならば、問題点を解決し、市民参加型ジャーナリズムが日本社会の有効なツールとして機能するようなシステムを作り出せばいい。私は、「インターネットは、無責任な日本人を続出させる」などと、大宅壮一を真似て、したり顔をすることを好まない。
同じく、日本人は和を持って尊となしという民族性を持つから、ネット上で有効な議論が交わされることは将来にわたってないと指摘する講師もいた。シンポジウムで、ライブドアのパブリックジャーナリズムのことが具体的に指摘されることはなかったが、彼らは、日本には市民参加型ジャーナリズムは定着しないという意見で一致していた。
だが、どうだろう。ほんとうに日本人は、自分の個性を発揮することよりも集団の和を重んじ、集団の中に個を埋没させることに満足する民族性を持っているのだろうか。
パネルディスカッションの最後の質問コーナーで、私は客席から質問をオ・ヨンホ氏にぶつけてみた。
「私は、市民記者をやっているが、日本では、個が集団の中に埋没するのを好む傾向にあるのでなかなか難しい、韓国での市民参加型ジャーナリズムの成功の要因は何なんでしょうか…」
私が確認したかったのは、韓国の葬式の泣き屋・泣き女などにみらえるように、自分の感情を周囲にみせることを憚らない民族性が市民参加型ジャーナリズムの成功要因のひとつとしてあげられないだろうか。ということである。
だが、 オ・ヨンホ氏は、オーマイニュースの成功の原因を、「インターネットの普及」「言論弾圧などによる市民意識の高さ」「国土が狭い」と答えるにとどまった。
たしかに集団の中に個を埋没させることが、日本人のコミュニティーでうまくやりすごすひとつの方法だった。
しかし、最近では若者たちの間に、キャラクターがダブルことを嫌う風潮がある。芸能界の力学をこどもや学生たちが自分たちに適応したのがキッカケだと思う。
簡単にいえば、ドリフターズには、デブキャラは高木ブー一人でいいということ。同じグループの中に、自分とキャラクターが同じものがいることを嫌うのだ。キャラクターがかぶると、いじめの対象になりかねない。そうした若者たちの傾向の深層心理には、他人とは違う自分を表現したいという気持ちがあるはずだ。
そういう思いをすくいとってあげること。それがインターネットならできるはずだ。
何も市民参加型ジャーナリズムの将来も悲観的に考える必要はない。いまはただ、市民参加型ジャーナリズムの仕組みに不備があるだけで、日本人がより多くの人に自分の意見を伝えたいと思っていない訳ではないのだ。
考えうる一番の問題は、情報を発信する個の責任の問題。韓国では北朝鮮のスパイ事件をきっかけに、国民番号制度が実施されている。国民番号を記入することによって、市民記者は自説に責任を持って発言することを強いられるし、それはコメントする側、トラックバックする側についても同様と思われる。
国民番号制度は、韓国のインターネットにおけるコミュニケーションの阻害因子の排除に一役も二役もかっているに違いない。
NII国立情報学研究所情報基盤研究系教授の曽根原登氏は、「テジタルコマースの展開」という講義の中で、e-コマースを考えるときの重要な視点として、利用の競合性と所有の排他性を指摘した。簡単に言えば、インターネットでは無料が当たり前だが、無料でなくても顧客を得ることができるのは、「利用の競合性や所有の排他性」がある場合に限られる。
だから、有料サイトをつくっても、利用の競合性をユーザーが感じられなければ、対価を支払う気にはならない。
ネットジャーナリズムはその理論を越えられないから、なかなかビジネスとしては成立しにくい。事実、民主化のツールとしては大きな役割を果たしたオーマイニュースだが、それがビジネスプランとして有効かどうかは、疑わしい。
[ 05:15 ]
「市民記者とネットジャーナリズム」という演題で、オ・ヨンホ氏は登場した。
「すべての市民は記者である」。それがオーマイニュースの基本コンセプトである。
新聞が登場する前の地域のコミュニケーションは、情報の送り手と受け手はそれぞれを兼ねていた。それが新聞記者の登場によって、隔てられることになった。
だが、インターネットの登場によって、情報の送り手と受け手を隔てるものはなくなった。さらに、新聞後も存在した時間も空間といった隔たりもなくなっている。
さらに、受け手の中の乖離もなくなっている。つまり、こども、学生、公務員、教授など、どんな立場の情報の送り手であっても、平等に情報の送り手になりうると示唆した。
航空事故に関して、元パイロットが記事を書き、評価された。日本同様、韓国でも航空事故に関する記事は、航空評論家が書いていたのだろう。だが、そういう執筆者は専門家であってもアウトサイダーに過ぎず、ものを書く人であっても、飛行機を飛ばす人ではない。
この場合は、元パイロットが言い、それを聞いて専門記者が書いた。それでもいい。ライブドアのように、署名であるとか、個人記事であるとか、その責任は個人に帰するだとか、そんなことを気にする必要はあまりない。
市民がそれぞれの専門分野を記事を書く、オピニオンを述べることで、既存メディアにはできない市民記者媒体としての価値が生まれる。
オ・ヨンホ氏は、韓国での自らの成功の理由を次のように分析している。韓国は未曾有の経済危機に際して、インターネットインフラを整えることを起爆剤にすることにより、復活をめざした。ADSLではあったが、社会への普及度は高く、小さな国土という個別の事情もあって、インターネットが国民の生活に深く浸透した。
彼は言う、テクノロジーは社会を変えられない。彼にとって重要だったことは、テクノロジーを仕える人たちが韓国社会に沢山いたことだ。
だから、オーマイニュースの成功は、民主化のムーブメントとテクノロジーが結婚して生まれた子供であると。そのコアな部分は386世代が担った。386世代とは、30代であり、80年代に大学生活を過ごし、60年代に生まれた人たちを指す。彼らは、1980年に光州事件が起こり、その後、沈黙か死かを迫られ、辛い沈黙を強いられてきた。そうした若き日に民主化運動に身を投じたひとたちが、いままた、ネット上で民主化運動を再燃させているというのだ。
いま紙媒体の新聞は、時間や空間の限界を持つ特性に縛られて苦悶している。ジャーナリズムが時間や空間に縛られなくなったインターネットのジャーナリズムにおいて、価値ある記事とはいかなるものなのだろうか。
オヨンホ氏は、そんなことをまったく気にしていない。彼が気にしているのは、民主化の流れ。韓国の民主主義の質を高めるこめには、市民が積極的に参加すること。そのためには、市民参加型民主主義をネット上の中ですすめていくし、そのムーブメントを世界に広げていくと宣言した。
つづく、マイクロソフト株式会社執行役MSN事業部長は、オ・ヨンホ氏の講演に触れ、日本には韓国のようなアグレッシブなニュースサイトが登場するにはまだ時間がかかると感想を述べた。その理由は図りかねるが、アグレッシブ(攻撃的)という語を使ったことに、彼女の意図が読みとれる。
オ・ヨンホ氏は、民主化のツールとして市民参加型のニュースサイトを構築していったのであって、既存の社会を攻撃するためのものではない。
エスタブリッシュに特有な、急激な変化が自分の領域を侵すことに対する漠然として不安。見知らぬものたちが意見を発することに対する危惧。そういう漠然とした不安が彼女の言葉から感じることができる。
[ 05:12 ]
ライブドア・パブリックジャーナリズムとの雲行きが怪しい私が惹かれていたのは、韓国のオーマイニュース、オ・ヨンホ氏だ。
私は、「MSN毎日インタラクティブ」の1周年を記念した、国際シンポジウム「ネット・ジャーナリズムの可能性」(6月7日・東京・神保町・学術総合センター)に、行くことにする。
( http://pcweb.mycom.co.jp/news/2005/06/08/003.html )
シンポジウムの基調講演は、コロンビア大学情報通信研究所所長のエリ・M・ノーム氏の「メディア経営におけるインターネット・ジャーナリズム」と題するものだった。
ノーム氏曰く、ネットによって新聞の領域が侵されているのではない。そもそも、若い世代がニュースを読まなくなったのであって、紙媒体からデジタルへユーザーが流れているとの分析は間違っている。と。
そもそも、既存の情報関連産業が破綻の兆しを示しているのは、新聞だけではない。音楽やテレビ、ラジオも例外ではない。
そういう業界はそもそも固定費が高く、利益率が低いものだったが、それを大量生産・大量消費することでビジネスとして成立させてきた。だが、世の中の情報のコモディティー(日用品)化の流れの中で、特権的立場が失われ、デフレ現象を起こしている。
ノーム氏は、講義の最後に、マードック氏がやろうとしたような垂直統合的なメディアのアライアンスは古いとし、これからはジャーナリストもネットワークにもっと参加しなければならないし、そういうインテグレートしたジャーナリズムのモデルが重要だと結論づけた。
ノーム氏は図らずも、「垂直統合の利点は過大評価されやすいこと」と指摘していたが、ホリエモン逮捕の今、この指摘を振り返ると、まさにそのとおりだ。
企業買収の話題はマスコミを席巻し、ホリエモンは時代の寵児としてもてはやされた。だが、それが過大評価であり、ネットワークをインテグレートしていく地道な作業とは別のものなのだ。
株式の専門家が、ライブドア株の暴落は株価全体の凋落につながらないとの意見を述べているが、ノーム氏の意見はそれを裏付けるものでもある。
[ 05:07 ]
7月20日。私は、「ネットは新聞を殺すのか」ブログを通じて交流のあった湯川さんを時事通信に訪ねた。
「湯川さんのブログにたくさんの書き込みをしていますが、アラシと感じていないですか」
私はまず、湯川氏に謝罪した。
「いやぁ、あなたの書き込みには沢山反論が書き込まれますよねぇ」と湯川氏は苦笑した。そして、「どうしてライブドアって、あんなに叩かれるのかなぁ」と続けた。
湯川氏は彼のブログで、参加型ジャーナリズムという形で論じているが、それは記者というよりも、ジャーナリズムという言葉の方が、書きたい人たちの意欲をかきたてるだろうという理由だけの話であって、インターネットが市民社会に完全に浸透したあとのポストジャーナリズムが、旧来の定義のジャーナリズムを継承しているからは保証しない、と白状した。
インターネットのなかった時代では、マスコミにしか情報発信ができなかった。だが今、ブログや掲示板をつかって、誰でも簡単に情報発信ができる。そのような時代では、アクティビズムとジャーナリズムの垣根はなくなると、湯川氏は言う。
いままでは、既存の報道機関がメディアを牛耳っていたので、アクティビストたちはジャーナリズムに入っていけなかった。だが、インターネットの発達とともに、今後はアクティビストもジャーナリスティックな活動をするようになる。
私の語感では、アクティビストは主観者であり、ジャーナリストは客観者。そこに問題があるのではないか。
JANJANはライブドアPJと双璧ともいえる市民参加型ジャーナリズムだが、私には、そこが、アクティビストたちの主観で覆われてしまって収拾がつかなくなり、読者を想定していないメディアに陥っているのを感じている。
本来、アクティビストはジャーナリスティックに自説を語るべきであり、ジャーナリストはアクティブに読者に働きかけるべき。それがいまは、アクティビストたちがようやく自説を語るメディアを得たことに狂喜乱舞してしまって、そのメディアを覆い尽くしている。それが結果として、彼らをメディアから排除するキッカケになるとともに、サポーターを増やすことにもつながらないことを理解もせずに…。
私は、彼に尋ねた。
ジャーナリズムが保持すべき取材対象との客観性・中立性というモラルは、ジャーナリストに冷酷さを強いるのではないか。と。
すると、湯川氏は、「私はジャーナリストである前に、一人の人間でありたい」と即答した。
