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幻想の市民参加型ジャーナリズム
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2006/07/06のBlog

 コミュニケーションをしようと思い立ち、コミュニケーションを果たした結果、悲しいかな、意見の対立を見てしまった。そういう場合、私がどうするかと言えば、「なかなか意志の疎通が上手くいきませんで…」などと、論点をずらすことで事態の収拾をめざすこと。
 意見の乖離が厳しく、折り合いがつかない場合は、コミュニケーションの不足のせいにする。それが単なる言い訳に過ぎないのは分かっているから、その後もコミュニケーションの向上を図らない。そこで仕方なく、議論も合意もせず、独断で結論を下すことになる。
 別段、これは何も私に限ったことではなくて、世の中全般で行われていることではないでしょうか。
 自分と他者の間に意見の乖離を見ると、すわ対立と思ってしまう。それがそもそも悪い。
 顔かたちを見れば自分と他人は違うのだから、意見も違っていておかしいはずはない。逆にいえば、生まれも立場も違うのに意見が同じことに驚くべきなのだ。
 そして、意見が異なる場合もそれはひとつの対立軸の上で、プラスとマイナスに別れているのではなく、無限の選択肢の中で並置されている。それが実際だと思うのです。
 ゲシュタルト論理学ではありませんが、人間の頭とはどうしても単純化して、パターン化して物を考える習性があるようです。しかし、人間関係を円滑にするために考え方を変えることができれば、もっと楽に生きることができるのではないでしょうか。
 実は、それは一神教的な二元論から隔絶する八百万の神の国、日本ならではの考え方・多神教的多元論。
 だから、日本人だったら、素直に自分の心に耳を澄ませば、自ずからそのような思いにいたるはずだと思えてならないのです。

 娘の小学校では、校長がこどもたちにコミュニケーションの基本が挨拶などと、自慢げに語っている。だが、暢気に言っている時代なのだろうか。
 確かにコミュニケーションにおいて波風が立たぬほうがいいに決まっている。だが、コミュニケーションの手触りのよさばかり求めていては問題は解決しない。
 たとえば拉致家族に関わる日朝交渉。日本政府はかの国の代表に挨拶をしたのでしょうか。私は、随行員たちが挨拶するのはかまわないが、代表は挨拶をする必要はないと考えている。それは、弔意を表す手紙に時節の挨拶がいらないのと同様の理由から。挨拶には丁寧や優しさの表現であることは勿論ですが、相手への服従の意味も少なからずある。だとするならば、挨拶に慎重になるべきときはある。
 国際社会では、語学だけが堪能で内容のない人材が占める場所はなくなってしまった。挨拶だけが達者で、雑談はできるものの、確固たる自己を持ち、自説を主張し、他者の意見を聞き、交渉し、すすむべき道を探る。そういうことができなければ人間としての価値はない。そういう時代がやってきている。
 日本人は、プリーズとサンキューを言い過ぎるとの批判があるが、原因は自己の尊厳を放棄して挨拶を強いられる小学校での痛恨事にあるのではないかと推論することもできるのだ。
 こどもたちが学ぶべきは、挨拶なしのコミュニケーションの持つ違和感に耐えながら、相手をいつくしむこと。そして、たとえ相手が自分と違う意見を述べたとしても、その相手を尊重し、耳を傾けること。そして、相手の語気がいかに荒くとも、自説を披露することを躊躇しないこと。そして、お互いの乖離がいかに果てしなくとも、継続した対話を続ける努力を惜しまないことである。
 コミュニケーションにおいて小さな違和感に負けない勇気を持つこと。コミュニケーションにともなう恥ずかしさと戦うこと。そのことをこどもたちは学ぶべきであって、コミュニケーションの表面の手触りの良さだけを求めて挨拶の習得にやっきになってはいけないと思うのです。

 十年も経てば、憎らしい先生が書いた原稿を、日本語意味解析ソフトにかけて、その先生の空虚さをあざ笑う生徒が出てくるのは間違いないでしょう。
 そのときに、挨拶の意味はどうなっているのだろうか。きっと御互いが個として充実し、充実した個をコミュニケートさせるための重要なツールとして、挨拶が再評価されているかもしれない。すくなくとも、今のような挨拶を重視するあまり、個を捨て去るようなまちがった教育が是正されていることは確かだろう。
2006/07/05のBlog

「三色ボールペンで読む日本語」や「声で出して読みたい日本語」で有名な斎藤孝氏は、日本語の文章には意味の含有率が低いと指摘している。問題は挨拶だけの問題ではない。
「時下ますますご清栄のことお喜びもうしあげます」などという常套句も、字数はついやすが、英語で言えば、文頭の文字が大文字ぐらいの役目しかないのではないか。
 私はメイルを書くとき、手紙の本文は日常の些細などうでもいいことを書き、伝えたいことを追伸にしたためることをよくする。この場合、私にとっても相手にとっても、手紙の本文自体にまったく意味がないことでもある。情報伝達でいえば、丁寧な挨拶であり、近況報告である。だが、近況報告に意味があるかといえば、それはあたりさわりのないことであって、送り手にとっても、受け手にとっても価値は薄い。
 
 考えてみれば、そのような内容の薄い文章というのは、世の中に横溢している。読者の興味をひくことが条件のプロの文章はそれほどでもないが、そうでない世界では90%以上がその種の文章だといえるのではないだろうか。
 小学校の広報誌に保護者が書いたこの一年の感想。具体的なエピソードに触れられることもなく、ちょっぴり頑張った自分へのわずかな賛美と、助けてくれたメンバーへの感謝の言葉で御茶を濁す。
 小学校の保護者会活動は、こどもたちの安全で安心な生活のための潤滑油であって、そこから何かを生み出して、こどもたちの生活に波風が立つのなら、それは避けるべきだ。そういう文章を綴る側の気持ちは分かる。だが、そういうもので埋め尽くされた広報誌を読ませられる側はたまったものではない。
 だが、原稿を依頼された場合、まず殆どの人がは当たり障りのない内容で字数を埋めることを目標にするだろう。また、世話になっている人たちの御世辞で字数を稼ぐ人も多い。これは、有名人がメディアに原稿を依頼された場合も散見する。
 プロの文章家であっても、独自の意見を主張するのではなく、まわりの意見をいくつか紹介し、体よくまとめることでマス目を埋めている例も珍しいことではない。だが、それでは読まされるほうは、無駄な時間を消費させられるだけだ。
 インターネットなら、いつでもオリジナルにあたれるから、差分のない情報に意味はない。情報のインデックスとしては意味があるのかもしれないが、その場合でも、インデックスを引く意味を明確にすべきだ。
 世の中には、情報を総合するばかりで差分を明確に主張しない文章があまりに多いのではないか。多くの人たちはそういう文章を書く事が、処世として当然のことだし、社会人として尊ばれると思っている。
 でも、情報イノベーションが爆発的にすすむ21世紀。それでいいのでしょうか。

 最近では、Semalyze(セマライズ) 日本語意味解析ソフトなどというものが存在する。そのサイトを覗くと次のように書いてある。

【意味や意図、文章の目的までも抽出可能】
・文章の目的が抽出できるので、リコメンドシステムにおいて「適切な商品斡旋」を行えます。
・文章の意図・目的が分かるので、文書管理システムにおいて「内容に即した文章管理」を行えます。
・意味、意図を解析できるので、「精度の高い要約」を行えます。


 いままでの技術では、単語単位の解析しかできなかったが、今後は、文章単位・文脈単位での解析を自動的に行えるようになるということなのだろう。
 これは、読み手にとってはとてもうれしいことだが、果たして書き手にとってはどういう意味を持つことなのだろうか。
 この自動解析ソフトが、挨拶や季節の事柄を意味や意図として価値を認めるのだろうか。
 Thank you very much.がTNXと略されるのがインターネットだ。字数を連ねなくても、顔文字の(^o^)マークだけで親しさを伝えることのできるのだ。ならば、今後は文章の質も大いに変わってくるに違いない。

 挨拶がコミュニケーションの基本であることは誰もが納得するところである。
 そういう社会通念にしたがって、小学校の国語の時間は勿論、朝礼での校長のお話やホームルームでも、挨拶の重要性が生徒たちに向かって繰り返し説かれる。だが、その主張の裏に、教員たちの個別の事情があると、私には思えてならない。
 生徒が教員に挨拶することは、教員に対する従順さを示すことに他ならない。つまり、生徒に挨拶を強いることは、教員への服従の強制であり、そういう生徒たちの従順さが、教員たちの第一目標である学級の円滑な運営のために不可欠といえるだからだ。
 たとえば、生徒たちの尊敬を集められない学校長が、「挨拶をしなければいけません」と主張する。だが、それは挨拶を求めているのではなく、自分への尊敬を求めているに過ぎない。
 学校長は、自らのすべての言動によって生徒からの尊敬を獲得すればいいのだが、そういう資質のない輩はかりそめの尊敬である挨拶を求めるのだ。
 挨拶とは、する方、される方、双方向のコミュニケーション。だから、私がしなくても、先方がすればいいし、こっちからしむければ、応えればいい。だが、私は、ある問題で対立関係にあった学校長と小学校の廊下ですれ違ったが、彼は私に挨拶をするどころか、見て見ぬふりをした。これなどは、挨拶が基本と説く教育者がやるべきことではないし、挨拶の意味とはその程度のことだと自らが証明していることだとも思える。

 そういえば、グッチ裕三のコントに、芸能界の挨拶というのがあったと思う。
 芸能界に入りたての新人は、スタジオ入りすると、先輩たちに明るく元気に「おはようございます」と挨拶をする。 だが、数年もたつと新人は中堅になる。すると、タレントの挨拶も少し変化して、「おはよっうっす」となる。自分は挨拶をされる側ではないけれど、単純に挨拶する側じゃないとの抵抗の意志が表れたセリフ…。
 そして、数十年のベテラン大御所は、挨拶もせず、新人から挨拶をされても「誰?」と応えるだけ。挨拶とは、そのコミュニティーにおける帰属意識や主従関係を示すためのものでしかないのである。
 集団への帰属意識も相手への尊敬もない状況で挨拶を強いられる。こどもたちが理不尽さに耐えていることを私は理解する。

 小学校の英語授業では、まず最初に習うことは、How do you do. や Helloがなどの挨拶が定番だろう。
 だが、挨拶の常套句と自分の名前を教えること。そして、自分の趣味や好きな食べ物を相手に伝えることだけで、コミュニケーションといえるのだろうか。
 勿論、初対面の相手と、こみ入った話題について議論することは危険だし、世の中の渡り方としては当然なのかもしれないが、それだけでいいとはどうしても思えない。
 それに、もし挨拶がなかったらコミュニケーションはしないのかと考えると、答えは明白だ。挨拶がなくてもコミュニケーションは成立する。
 では何が無かったらコミュニケーションは成立しないのかと言われたら、それはコミュニケーションの核ともいえる個の存在だ。挨拶には情報的な価値はないという結論になるのではないか。週刊誌の対談記事でも、「こんにちは」などという文面に出会ったことはない。
2006/07/04のBlog


08_コミュニケーション時代の終焉


08_01〔コミュニケーションの世代〕

 私は昭和34年の生まれだが、幼い頃、親戚連中が集まる法事などがあると、あのおじいさんは明治の男だ。とか、あいつは大正の生まれだから…。などという言葉を聞いてきたような気がする。不幸か幸か、明治も大正もほとんどが鬼籍に去られた今となっては、そんなこともなつかしい昔話だ。
 私が覚えている明治生まれの人の気質は、かくしゃくとしていて、独立自尊。容易に自分の意見を曲げない信念を持っていること。それに対して、大正生まれの人は、明治と昭和というふたつの時代にはさまれたのが理由でもあるまいにどっちつかずであり、あまり信用がおけない感じ。大正生まれの政治家・中曽根康弘氏が風見鶏というニックネームをもらっていたのを憶えているが、そういうこと。
 それに対して、明治人の典型と言うことができる乃木希典は、生まれは嘉永年間の1849年だが、自分の信念を貫く明治の男のイメージがある。
 市井の輩は武士道の範ともいえる彼のような責任のまっとうの仕方ができるはずもないが、彼の生き方を理想としていた時代が明治であり、その時代を生きた人たちであることは間違いない。勿論、戦中派である大正世代が戦争によって自己のアイデンティティーを見失い、戦後においても自分たちの居所を見つけることに苦労したのだから、容易に大正世代を批判することもできない。
 さて、そう考えてきたとき、いまの大多数を占める昭和の世代はどういう特質を持っているのだろうか。昭和一桁世代はすでにリタイアし、いま団塊の世代がリタイア目前にある。昭和一桁世代は戦時下で物資に貧しい幼少時代を経て、高度成長時代にイケイケドンドンを経験した。社会の成長期は実力がものを言う時代だから、努力が報われる時代でもあったろう。その後の団塊の世代もポスト不足に苦しめられた時代でもあるが、自らの消費活動によって大量消費を生み出した時代でもある。アメリカの置き土産である民主主義を日本にローカライズさせる時期は、さまざまな言論も許容されていたと思う。そういうムーブメントの中で学生運動が生まれ、もっとも過激な部分が非合法活動に発展し、警察が介入するとともに、社会的反発を生み出して、結果として許される言論や活動の範囲が自己規制されていったのではないか。
 では、「もう戦後ではない」と首相が発言した1956年以降の世代はいかなる世代的な特徴を持っているのだろうか。
 歴史は振り返ることでしか成立しないし、自分の姿を鏡で見たところで、客観的であることは不可能だから、虚しい分析でしかないのかもしれないが、私は「世の中で一番大切なものは、コミュニケーションだ」と、刷り込まれた世代だと感じてならない。
 そして、それは、平成の今も続いている。