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Rashita's Style Blog
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2005/03/06のBlog
[ 09:37 ] [ エッセイ ]
チャララッラララーラー(ドラクエLVup風)

本日3月6日を持ちまして、このRashita's Style Blogも一周年を迎えさえていただくことになりました。この記事を書いている時点で計36310件のアクセスをいただきました。ありがとうございます。

まさか、一年も続けられるとは以外の極みなんですが、これもこのあんまり面白くないBlogをごらんにきていただいている皆様のおかげです。ちなみに一年前、つまり初投稿の記事はこんな感じでした。(記事を読む

ドブログにて初投稿をする。これでブログは4つ目だ。
いろいろな機能を試してみようと思う。

これからどんどんとブログというのは普及していくだろう。高速回線が一般家庭に普及する中で、インターネットというのが日常生活の中に取り入れられるようになってくる。

参加する人間の数が多くなってくるとその中にもうひとつの社会が生まれる。それは必然的な流れだ。

そこには交流があり、廃絶があり、偏見があり、救いがある。もちろん自己表現もごく普通に行われるようになるだろう。

いままで、Webサイトといえば何か特別な情報を発信するための装置であった。

しかし、ブログはあくまで、個人的な感想といったものがメインになってくる。これは世の中に蔓延する情報をある種のナイフで切った切り口を見るようなものだ。

あらゆる観点があり、あらゆる感想がある。
同じような感想を持つ人間が、コミュニティーを築くかもしれない。

これらのことはオフラインの社会で行うよりははるかに容易であり、また無料でもある。
参加する敷居は低い。

しかし、それが故に無責任な発言も流布してしまうだろう。故意の嘘をばら撒く人間もでてくるだろう。

そういった現象はもう少しずつ始まっている。
そこでは情報の真偽を自分で判断でしなければいけない。

日本では国民は政府に手厚く保護されていた。
その社会の中では自分自身で何かの価値観を決める必要はあまりなかった。
その名残が改革しきれずに続いている。

しかし、ネット社会では自己判断の原則が少しずつ広まっている。政府の規制など必要なく世界のありように合わせて規制が少しずつできていく。

それが人間というものなのかもしれない。
結局のところ政府が行うべき規制はごく限られたものなのだ。もちろん犯罪が起こりそれの被害もでるだろう。
そういったときに、「全面禁止」的措置をとるのではなく、いかに国民が考えて行動するか、という方向にもっていくのが本当の意味での「小さな政府」であろうと思う。


他にもブログを持っているが、これほどきちんと更新したブログは他に無い。なんだか不思議な感じである。いまぱっと読むと明らかに文体が変わっている。読んでいると背をぴんと伸ばしてPCに向かっている姿が思い浮かぶようだ。今は非常に気楽に書いている。それがいいのか悪いのかわからないが。

最初は、「哲学・思想」で書いていこうと思っていたのだが、なんだか最近では時事問題が多い気がする。大して書く力もないくせについつい口を挟んでしまうのは幼い証拠であろうか。

今後このBlogがどのような方向に進んでいくのか私自身まったくわかりませんが、よろしければお付き合いくださいませ。
2005/03/05のBlog
切込さんの「ライブドア騒動と、オウム真理教事件が構造的に酷似している件について」にトラックバック。

分析に理はあるものの、多少強引かなという気がしないでもない。が、いくつか考えたこともあるので多少触れてみよう。

一応、切込さんも記事のはじめ辺りで
※ 本稿はライブドアが犯罪性のある集団であるという意図ではなく、メディアでの取り上げられ方や組織の構造が類似していることを示唆するもので、誤解のないようにお願いしたいと思います。
と断りがはいっているので、ライブドア関係者の方はお怒りにならないように、私もお願いしたいと思います。

一度くそみたいに長い記事を書いて後で見直すとどうでもいいな、という感じになったので非常に簡単にまとめることにする。

切込さんの記事を見て一番引っかかったのは、「ライブドアを熱狂的に支持している」という大衆の存在である。そんなのいるのか?というのが私の単純な意見である。

まったくタイムリーな話で、私もまったく違う筋で同じカテゴリーのエントリーを書こうと準備していたのだが、あんまり意味がなかったかもしれない。
「ささやかな質問」というシリーズの番外編で、このBlogを読んでいる人に、堀江社長についての感触を聞いている。それを読むと、うんうんそうだよなという気がする。

で、結局どういうことかというと、堀江社長の行動は、おもしろいあるいは賛成できるが、彼自身の人間性についてはちょっとな~という感じである。これは傍観者的といえばそうであろうし、また一歩引いて見ているということでもあろう。

本質的に、現在のテレビ事業をデジタル化しポータルにすることがどのくらいの収益機会を生む可能性があるのかという想定を、誰もやっていない。むしろ、MSCBの発行や仮処分の申請といったテクニカルな事象についてのみ、言及が為されているだけである。

この辺は経営者や市場関係者にとっては重要なファクターであろうし、博打を打つのが嫌いな人間からすると想像を絶するくらいバカな行動なのかもしれない。堀江社長が経営を握って大コケにこけるかも知れない、それはそれでいいんじゃないのかなという気がしないでもない。もちろん、それが持たざるものの理論であるといわれればそれまでだが。

 いわば、オウム真理教がそのメディア的な価値を高めていくなかで、彼らが彼らの主義、理想として追求していた精神世界の理解不能な言説を繰り返し放送していくプロセスと類似している。簡単に言えば「訳が分からないけど、何か凄そう」という期待感と「いまの社会を率いている奴らは駄目だ。だから、奴らを否定する奴らは有益である」という本質的な誤解にある。フジサンケイが仮に悪者だとして、それに抵抗する集団が善玉であるという保証は必ずしもない。

ライブドアが善玉である保証はないし、また悪玉であるという確証も無い。
そもそも善とか悪とかいう対立軸なんかで物事を判断している人間がどれほどいるのだろうか。(もしかしたら私の知らないところでたくさんいるのかもしれないな)

もし、民衆が無批判にライブドアの行動を評価しているのならば、それはオウム的な社会のリスクを抱えていることになる。でも、みんな「いつかは叩かれてつぶれていくんだろうなという」非常にリアリスティックな予想を持っているのではないか。
結局のところ、この現象はとある一過性の祭りであるに過ぎない。

オウム真理教のメディア利用の経緯は万人に明らかなことであるので触れないが、私はライブドア自体が仕手グループ「光進」代表の小谷光浩氏の通ってきたような道筋で糾弾されていくのではないかと恐れている。犯罪でない限り、ライブドアのやってきたことも一面の理として理解されるべき性質のものである。しかし、現状で見てライブドアの報道を見る限り「持ち上げて叩く」という順路を誠実に守っているように見える。

まさにその通りであろう。経緯はどうあれ、ライブドアが何らかの興味を引っ張る話題を提供できなくなれば、メディアからは叩かれるようになり、視聴者からは徐々に忘れられていくのだろうと思う。

が、なんとなくオウムと違うと感じる点はライブドアが何かを残していくのではないかということだ。結局のところオウムの暴走は、オウム側にとってもそれを含む社会側にとっても住み心地の悪い状態を作ってしまった。
ただライブドアは我々(もたざるもの)の心に何かを残していくのではないかと思う。彼が暴走気味にどんどん突っ張っていく様子を見ることによって、この社会のシステムを本の少しでも垣間見ることができるのではないか、そんな気がする。

彼は、セイギノミカタではない。それ以上でもそれ以下でもないただそれだけ、そんな気がする。
2005/03/04のBlog
[ 17:22 ] [ エッセイ ]
トニー滝谷という短編小説をご存知だろうか。マイナーと言えばマイナーかもしれないが、一部の方は知っておられるかもしれない。

これは、本当にたまたまな事で、私が特定地域向け週間情報誌を読んでいた時の事。
今月も何か見に行く映画が無いかな~とぱらぱらとページをめくっておりました。本当にパラパラと。トピックスで扱われていた映画もそれほど興味をそそられるものでもなく、あとはいくつかのあまり注目されていない映画が並んでいるページを通り過ぎたその瞬間私の目に何か引っかかる文字が。

数ページ戻ると、トニー滝谷という映画が3月から公開されるという情報。変わった名前だなという思いと、確かどこかで聞いたことのある、いや読んだことのある小説だという強い思いが私の中で吹くらんでいきます。大体において私が読む日本人作家はかなり限られているし、その中でもこんなタイトルをつける作家は一人しかいないと思い、その映画の原作を見ると、村上春樹の文字が。

うむむ。確かに読んだことのある小説だった。短編小説だ。たしかジャズアーティストが出てきたような気がする。が、それ以外の筋はまったく思い出せない。だいたいちょっとふざけたタイトルだ。
必死にどの短編集に入っていたかを思い出そうとするがなかなか思い当たらないので、家の本棚をひっくり返し、一冊ずつ探していくことに。
と、見つかったのが「レキシントンの幽霊」という短編集。
その5つ目の短編が「トニー滝谷」という小説。

書き出しはこうだ。
「トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった。」
約30ページほどの作品であるが、話の展開が非常に読みにくい話である。
切なさと孤独、喪失感といったテーマであろうか。
ちょいと読んでみても面白いかもしれません。
いや、しかしこれを映画にする監督がいるんだな~。世の中不思議な人でいっぱいだ。
かなり、見てみたい作品。
映画の公式サイトは(コチラ
関西での上映は
 大阪 2/19-(3/11) テアトル梅田 06-6359-1080 大阪市北区茶屋町16-7
 京都 2/19-(3/11) 京都シネマ 075-353-4723 京都市下京区烏丸通四条下ル水銀 屋町620COCON烏丸ビル3F
 兵庫 2/19-(3/11) シネカノン神戸 078-367-3868 兵庫県神戸市中央区東川崎町1-8-1

以上で行われている模様。
[ 15:42 ] [ ささやかな質問 ]
ささやかな質問です。深い意図はありません。ただの質問です。

「ライブドア社長、堀江さんをどのように感じますか?」
[ 13:34 ] [ 教育 ]
大阪府教委が初の試み、不登校対策でホームページ開設

読売の記事である。見出しの通りの内容である。

大阪府教委は、不登校の小中学生を対象にしたホームページ(HP)を今月下旬に開設し、家庭学習の支援やメール相談に乗り出す。

 利用する児童生徒が交流できる場も設ける。ネットを利用したこうした総合的な不登校対策は都道府県教委では初めてという。寝屋川市立中央小の教職員殺傷事件で逮捕された卒業生の少年(17)も中学時代に不登校になっていたことから、府教委は「このHPで外の世界への関心を育て、子供たちが学校に戻るきっかけになれば」と期待している。


なんかこれは違うような気がする。あんまり効果がないか、あるいはそれによる影響するのではないかと心配してしまう。

私はネットの負の面ばかりを強調するような評論家でもないし、自分自身でもこうやってブログを書いているわけだからネットの力というものはある程度知っているつもりである。が、それがゆえにその力の限界を感じざる得ない。記事の先のほうではこう書かれている。

コミュニケーションが苦手な児童生徒が多いため、会員を対象に日記やイラストを書いて発表するページやゲーム、占いコーナーも開設。楽しみながら他人と触れ合うトレーニングをしてもらう。会員しか見られないため、外部からの心ない書き込みは排除できる。

不登校児といってもその形はいろいろあるだろうが、コミュニケーションが苦手という子供は多いだろうと思う。小中学生で学校を拒否するというのは、対人的な何かを上手くつかめていない可能性が高い。多くの小学生は別に勉強が好きだから学校に足を運んでいるわけではない、半ば義務として半ば交流の場として学校へ行くことを認識している。そういう学校に行きたくないというのはイデオロギー的なものではなく、ただ学校というシステムを受け入れる能力が育っていないということであろう。
結局は、コミュニケーション能力の不足ということに結びついていくのではないか。

私は思うのだが、ネットはコミュニケーション能力を育てたリすることは無いと思う。
ネットで学べることはネットでのコミュニケーションのやり方である。
ネットと対比する形で現実社会というものを考えた場合、その社会でのコミュニケーションのやり方を学ぶには現実社会でしかありえないと思う。それは特に子供の場合。

ネットというのは爆発的に普及してからはそれほど年月の立っていないツールである。
たとえば20代の人間は高校時代ごろからどんどんと一般化していく環境の中でネットと接している。つまりある程度現実社会での何かをつかんだ後ネットと接触しているということになる。それよりも上の世代もほとんどがそうであろう。
こういった突然登場してきた新しいツールとして認識している世代と、生まれて育っていく中でネットというものが当たり前にある世代では、その影響力は違ってくると思う。

現実社会でコミュニケーションを学んでいる人間が、ネットを使うことで何らかのフィードバックを得ることはできると思う。ただ、若い世代に対して同じ方法が通用するのか、私は疑問に思ってしまう。

不登校児に必要なのは果たして家でネットで他の誰かに繋がる環境なのだろうか。
おそらくそういうものでは無いと思う。もっと身近な何かが変化する必要があるのではないか。
2005/03/02のBlog
たとえば、10年前のゲーム市場と現在のゲーム市場はまったく違ったものになっているといって過言で無いと思う。

その多くはハードの進化によって起こった変化であり、それ以外はユーザーの進化によって起こった変化であると思う。

まず、アーケード市場から考えていこう。
その昔、ゲームセンターというのは、ゲーマー(ゲーム熱中者)が集まるところであった。ハード面での制約もあったのだろうが、一人プレイ物が多く、パズル、麻雀、シューティング・・・。一人でしこしこと画面に向かっているのがゲーセンの日常であった。
最初の変化は、やはり対戦格闘ゲームの台頭であろう。ストリートファイターシリーズをはじめ、KOFなどカプコンとSNKが一年に一作程度の割合でどんどん新作(多くは続編)を出していった。これにより、学生が頻繁にゲーセンに顔を出すようになった。マニアックになる要素はあったが、掘り下げていけばそれほど差は無いというレベルだったと思う。
単純なCPUを相手にゲームするよりは、心理的な駆け引きのある対人戦をメインに置かれたゲームは、アーケードにとってはひとつの進歩であったといえよう。
対戦が多くなれば、すなわちゲーム機のインカム率が上がるので、ゲーセン側にもメリットはあった。ただ、この辺りから人間的な問題を抱えるゲーセンも増えだすことになる。暇つぶしの「ヤンキー」とゲーム好きの学生が同じスペースにいれば問題が発生しないはずが無い。が、まだそれは深刻な問題ではなかったと思う。
このころのゲーセンには大人の姿はほとんど無かったと思う。子供の付き添いか、大人になりきれていない大人がちらほらいるだけだったように思う。
とりあえず、一人でゲーム画面に向かっているという段階から、情報を共有したり、対戦を楽しんだりする世界が始まった。

対戦格闘ゲームが次の段階に進んだのがバーチャファイター2というゲームだ。このシリーズは3D(ポリゴンによる表現で奥行きという概念がある)で作られており、この前作であるバーチャファイターよりもはるかに作りこまれていた。これはSEGAの作品だ。
これによって、さらにゲームの熱は広がり、またマニア度が上がっていった。
もちろん他の会社も続編などを製作しており、蓄えられた技術によって、グラフィックのレベルは上がってゆき、操作も複雑化してきた。キャラクターにとらせることのできる動きの選択肢が増えてきた。それは即ちマニアック化ということだ。
このころのシューティングゲームも同様に複雑化し難易度が上がっていった。やりこんでいる人間とそうでない人間のレベルがだんだんと乖離し始める。

そして、アーケードにまた新たなる風が吹くことになる。それがコナミの「ビートマニア」である。これはマニア向け路線の最たるものである。おそらくこの辺からアーケードが向かっていく方向が決まったように思える。上から落ちてくる鍵盤の表示を、それ通りにたたくというシンプルにして斬新なゲーム性は、その音楽性を含めてかなりのファンを作った。このゲームは自らが楽しむということだけでなく、他人に魅せるという新たなるコンセプトを出してきた。
これらのゲームはだんだんと新しいバージョンが出され、そのたびに難しくなっていった。もはやこの辺だとゲームの情報がないとついていけないというゲームが多く目に付くようになった。それが4,5年ほど前くらいだろうか。
ゲームがマニアックかしていくにつれ、一般客(つまりゲーマーでない)が徐々に、もうついていけないよ、ということになりだした。もちろんメーカーもそれよりも十分早く手を打っていた、それがUFOキャッチャーである。これはゲームに興味の無い女性客にゲーセンに足を運ばせるという新規開拓の意味合いが強かったが、UFOキャッチャーにお金をつぎ込んだのは、そういう女性を喜ばせたいという男性客であったのは間違いない。これも登場したころは入れ食い状態だったが、その時期が過ぎるとたんなるボッタクリマシーンと化していった。あんなのに100円つぎ込むなんて信じられないと今の私は思うが、そういうぬいぐるみを100体以上持っていることは秘密である。
そういう女性客の取り込みからステップアップして言ったのが、「プリクラ」である。
プリクラについては、全然詳しくないので省略するが、もはや女性客がゲーセンに入るのは当然となったし、一部のゲーセンでは女性用に特化したところもある。男性ONLYの客入店禁止とか今まででは考えられないコンセプトを打ち出す店も出てきた。
この流れは今も続いている。
超マニアックなゲーム、暇つぶしの一般客用のゲーム、アミューズメントと分類される女性用のゲーム、ゲーセンにあるゲームはほとんどこの分類に収まるというのが現状である。
が、その超マニアックなゲームはなかなかインカム率が上がらない。なにせマニア達がマニアックにプレイするのだから仕方が無い。しかし、毎日のようにゲーセンに通ってくれる客もまたマニアである。よってめーかー側も新たなるコンセプトを打ち出さざる得なくなった、これはもう必然的な流れであろう。何とかして儲けなければいけないというのはいつでも至上命題なのだ。
メーカーの出した答えが「カード」である。磁気情報を書き込むことのできるカード。これを使って、一人一人のユーザーを識別し、その情報を管理する。
これは思い返してみると何が一番最初だったのかいまいち記憶が怪しい。おそらくバーチャロン・フォースだったのではないかと思うが定かではない。違うゲームかもしれない。
バーチャロン・フォースとはSEGAの作ったバーチャロンという3Dロボット系のゲームの続編でなにやらコクピット型の筐体が特徴である(こういうの
カード一枚が300円で、そのカードは30回ゲームで使用すると仕様不可となる。そうなった場合ユーザーはそのカードの情報をあきらめるか、新しくカード買ってそこに継続させるかの選択を迫られることになる。(もちろんカードが無くてもプレイできる)
今までのゲームから考えると驚くほど出費のかかるゲームである。ゲームを続けるのに維持費がかかるのだから。私はこの情報を雑誌で読んだとき、これはこけるなと思った。しかし蓋を開けてみると、実にマニア達が食いついた。この辺は恐るべきSEGAと言うしかない。
当然カードを使うプレイヤーはそうでないプレイヤーに比べていくつかのメリットがある。
選べるキャラ(機体)が増える(正確には支給される)たり、自分の戦歴が残ったり、・・・。そして一番大きいのが「階級」制度ではなかったかと私は思う。
プレイをし、戦跡を残すことで、そのプレイヤーに新しい階級がもらえる。三党兵から二等兵、一等兵、軍曹・・・。いわば「偉く」なれるのだ。
こういうロボット系が好きな人間は、同じように軍隊的な要素が大好きな可能性が高い。(ちなみに機体デザインにはカトキハジメ氏が参加している。ガンダム好きには説明は要るまい)
そういうユーザーの心をくすぐりながら、ユーザーが長期的にゲームをするというメリットを作り、またカードによる収益も作り出した。
これ以降、爆発的にカード型のゲームが増えた。そしてそれとともに、全国ランキングという今までに無かったコンセプトも出てきた。ネットである。
麻雀ゲームやクイズゲームなど、大規模な処理を必要としないジャンルではネット対戦が非常に盛んである。麻雀を好む人間にとって全然別の地域に住む人間と打つというのはなかなか楽しいことであるし、知識好きの人間にとって、全国の人間とうんちく比べをできるということは心躍ることではないだろうか。
新しいゲームのコンセプトは、カードそしてネットによる全国のゲーセンの並列化という方向に進んできている。
それ以外のゲームは、過去のゲームの焼き直し的なものは多い。それはそれでよいのだが。
いまゲームセンターに行くと、幅広年代の顔が見える。もちろん男性客が多いが、女性客が珍しいということはない。
昔は街の一角にネオジオの筐体が置いてある店舗もあったが、今はそんなものはほとんど姿を消した。どうしても大規模な設備投資が必要となっている。新しいゲームは高機能であるがゆえに、高価格なのだ。広いスペースも必要だ。雰囲気もずいぶん変わった。昔の暗い「ゲーセン」という雰囲気はどこかに行き、「アミューズメントスポット」としてがんばって経営を続けている。

こういう小規模から大規模への流れというのは、パチンコ屋や映画館、書店などでも見られる流れだ。大量消費社会では当然と言っていいのかもしれない。
それが良くないことだ、と大きな声で叫んでみてもひたすら空しいだけである。下流に向かって流れる川の中では、その流れの中必死にとどまるか、その流れに乗るしかない。それがいやならさっさと川から出ることである。

アーケード市場がたどってきた流れを見ると、「人」というのがやはりキーワードになっている。コミュニケーションと言ってもいいかもしれないし、リンクと言い換えてもいいかもしれない。人と接し、人と関わり、人を魅せ、人を巻き込み、アーケードは市場は変化を遂げてきた。今のゲームはただ単に、楽しみを与え時間をつぶすだけのものではない。
それが虚構の世界であれ、プレイヤーにアイデンティティを与えるものになりつつある。
それは現実社会においてそういうものが欠落している、ということが流れの源流であるかもしれない。すくなくとも今と昔ではユーザーが求める満足感の質というものが確かに変化しているということは間違いない。
たかだか、ゲームじゃないかと私は今では思うわけだが。
2005/03/01のBlog
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■「ささやかな質問
 Rashitaが送る、ささやかな質問。興味をもった質問があればお答えください。

■「関西、関西、関西
 Blogをやっている関西人の方募集中。たま~にTB企画もあり?
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☆創作文は「Rashitaのヒトトキ」にて
[ 14:22 ] [ エッセイ ]
という企画が、ほぼ日のコンテンツとして始まってます。(コチラ
皆さん遊んであげてください。

やはり、楽しい企画の多いほぼ日ですが、こういう企画も大歓迎ですね。

実際過去ポータブルオーディオを使ってきた私としては、iPodというのは、Macが提供するすばらしい音楽環境と表現してしまうわけです。全然違う世界が広がっちゃいます。恐るべきアイテムです。

そんな中で、iPodを使っている人を見つけるとやはりうれしくなるんですよね。
ただ、ブームに乗って買った(40GB)ものの、がんばっても100曲も入っていない、なんて悲しいユーザーもいるわけですが、それは置いといて。

mp3なんて邪道だという人は、脇に置いといて楽しまないと損だな~とつくづく思います。iPod一台あれば何もいらない、という環境はめんどくさがり屋の人間には実に最適です。後一年くらいかけて、じっくりとライブラリを熟成していきたいな、というのが私の目標です。適当に詰め込んだ3000曲よりも、厳選した2000曲。

ちなみに私は、家ではiDockをアクティブスピーカーに接続し、外出するときは必ず携帯、残念ながら車には繋げられないという環境です。車で聞けるようになるとほぼ無敵状態になりますね。携帯電話よりも共に行動する時間が長いのは間違いないでしょう。

いやはやまったく、というのが私の率直な感想です。それにしても40GBはいらないよな~。でもお金があったらそっちを買いそうだ。