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2004/06/04のBlog
[ 17:35 ]
[ 歴史 ]
大体の所感ではあるが、民主代表岡田氏と小泉首相は、なんだか相性が悪そうだ。
とくに、岡田氏からみた、小泉首相は、本当に相手にしにくいと思う。
どんなにクリーンなイメージで売っていたとしても、長い間国会議員をしていれば、泥も抱え込まなければいけないだろうし、小泉首相も、それはそれ、これはこれ、と割り切っている感じはあるが、性格的に岡田氏はそういうのは我慢できないのであろう。
小泉首相ののらりくらりとした答弁はいつもどうりだが、それを受けた岡田氏はやりにくそうであった。まあ真っ向から議論していくというのは、本来日本の政治家にあまりフィットしないスタイルなので、どうしても浮いてしまう感じはある。
岡田氏が、代表を続けていくうちに、何らかの変化があるのかどうか、気になるところである。
とくに、岡田氏からみた、小泉首相は、本当に相手にしにくいと思う。
どんなにクリーンなイメージで売っていたとしても、長い間国会議員をしていれば、泥も抱え込まなければいけないだろうし、小泉首相も、それはそれ、これはこれ、と割り切っている感じはあるが、性格的に岡田氏はそういうのは我慢できないのであろう。
小泉首相ののらりくらりとした答弁はいつもどうりだが、それを受けた岡田氏はやりにくそうであった。まあ真っ向から議論していくというのは、本来日本の政治家にあまりフィットしないスタイルなので、どうしても浮いてしまう感じはある。
岡田氏が、代表を続けていくうちに、何らかの変化があるのかどうか、気になるところである。
2004/06/02のBlog
[ 17:33 ]
[ 歴史 ]
はっきり言って、ひどい事件である。
小学校6年生の子供が、同級生を殺意を持って殺した。
何度考えてみても、これはひどい事態である。
この事件によって、小学校でのカッターの使用の是非だとか、インターネットの使用の是非だとかが、すこし抜けたコメンテーターが意見するだろう。
が、それは方向が間違っている。
問題が起こった枝を一つ一つ切り落としていっても、結局幹がおかしければ、間違った枝は生え続ける。
われわれが考えなければいけないことは、「教育」される子供たちのことではない。
「教育」する大人のことである。
それは、教師達に問題がある、というレベルではない。
教師、親、その他もろもろの社会を構成する大人が深いそして、大きな心の病理を抱え込んでいる、ということであろうと思う。
子供は、周りの大人に大きな影響を受ける。
インターネットの広まりによって、その「大人」というものの範囲もかなり広がったかもしれない。
では、ネットから子供達を遠ざければよいのか、もちろん否である。
少なくとももう、そんなことができる社会状況ではなくなってきている。
ある一定の年代からは、ネットが使えるということがもう当たり前になってくる。
これは、政府や文部科学省の意思とはまったく関係なく動いている流れである。
それをとめることはできない。
また、ネットを関係を持っているのは、「子供」だけではない。
大人だって少なからず、周りの人間から影響を受けるのだから、ネットもその影響力の一部になりうる。
つまり、「子供」だけにネットを禁止したところで、根本的な問題の解決にならない、ということになると思う。
伝達力があり、形に残り、また相手の姿が直接見えないことで、過剰な意見が出やすい。それが、「ネット」である。
まず、そのことを大人がしっかりと理解するべきである。
そして、子供達にその情報をしっかりと伝えてゆく。
恐るべきは、人をあやめることではない。
人をあやめることに対して抵抗感が生まれない、ということである。
その抵抗感は、ひとりでに生まれてはこない。子供というのはいろいろな意味で無邪気なものなのである。
それは、「文化」なり「社会」なりが、生み出し、伝えていくものなのだ。
(自分を含め)人間をなぜ殺してはいけないのか?
そういう内省的な問いが、少しずつ失われているこの社会の方向修正が、本気で迫られていると思う。
小学校6年生の子供が、同級生を殺意を持って殺した。
何度考えてみても、これはひどい事態である。
この事件によって、小学校でのカッターの使用の是非だとか、インターネットの使用の是非だとかが、すこし抜けたコメンテーターが意見するだろう。
が、それは方向が間違っている。
問題が起こった枝を一つ一つ切り落としていっても、結局幹がおかしければ、間違った枝は生え続ける。
われわれが考えなければいけないことは、「教育」される子供たちのことではない。
「教育」する大人のことである。
それは、教師達に問題がある、というレベルではない。
教師、親、その他もろもろの社会を構成する大人が深いそして、大きな心の病理を抱え込んでいる、ということであろうと思う。
子供は、周りの大人に大きな影響を受ける。
インターネットの広まりによって、その「大人」というものの範囲もかなり広がったかもしれない。
では、ネットから子供達を遠ざければよいのか、もちろん否である。
少なくとももう、そんなことができる社会状況ではなくなってきている。
ある一定の年代からは、ネットが使えるということがもう当たり前になってくる。
これは、政府や文部科学省の意思とはまったく関係なく動いている流れである。
それをとめることはできない。
また、ネットを関係を持っているのは、「子供」だけではない。
大人だって少なからず、周りの人間から影響を受けるのだから、ネットもその影響力の一部になりうる。
つまり、「子供」だけにネットを禁止したところで、根本的な問題の解決にならない、ということになると思う。
伝達力があり、形に残り、また相手の姿が直接見えないことで、過剰な意見が出やすい。それが、「ネット」である。
まず、そのことを大人がしっかりと理解するべきである。
そして、子供達にその情報をしっかりと伝えてゆく。
恐るべきは、人をあやめることではない。
人をあやめることに対して抵抗感が生まれない、ということである。
その抵抗感は、ひとりでに生まれてはこない。子供というのはいろいろな意味で無邪気なものなのである。
それは、「文化」なり「社会」なりが、生み出し、伝えていくものなのだ。
(自分を含め)人間をなぜ殺してはいけないのか?
そういう内省的な問いが、少しずつ失われているこの社会の方向修正が、本気で迫られていると思う。
2004/06/01のBlog
[ 14:01 ]
[ ささやかな質問 ]
ささやかな質問です。少々興味がありましたら、コメントに返答くださいまし。(3択にしたかったのですが、あまりに難しかったのでやめました。)
あなたが仕事をする理由はなんですか?学生さんの場合は、仕事を探す理由はなんですか?
あなたが仕事をする理由はなんですか?学生さんの場合は、仕事を探す理由はなんですか?
[ 13:36 ]
[ 哲学・思想 ]
ささやかな質問についての自分なりの答えを書いて行きたいと思います。
とりあえず、この質問を考えたのは、みなさんが「自分」や「他人」についてどういう風に考えているか気になったので、それを質問してみようと思い立ち、その際に「あなたは自分についてどうかんがえていますか?」と聞いても何にも面白くないので、ちょっとひねった感じで質問を作ってみました。
私の中では、「私」と「他人」というのは、光と影のようなもので、二つの概念は互いに関係しあっていると思っています。
これには、二つの意味合いがあって、まず「他人」という概念がなければ「自分」という概念が成立し得ないものであるということと、一人の人間はどうしても周りの人間の影響を受けざる得ないということです。
自分の意識が「自分」を理解すること、「他人」を理解すること、これは広く見れば「人間」というものを理解するという大きな道につながっていると思います。
私自身で言えば、3の自分のことを他人に伝えるということが一番難しいことです。
しかし、それは私が自分や他人を理解しているからではありません。
簡単に自分といいますが、それは決して普遍な存在ではないと私は思っています。
思い浮かべてみると10年前の「自分」というのは、今の「自分」と比べてみて、変わっている部分が多くあります。もちろん変わらない部分もある。
もし、その変わらない部分だけを自分として定義するならば、自分というものは本当に小さな存在でしかありません。
結局のところ、自分というのは必ず変化を伴うものなのだと思います。だから昨日の自分、今日の自分、明日の自分というのは少しずつでも変化をしている。だから今の自分が100%完全に自分のことを理解するということは不可能だと思っています。
これが、「自分」を理解することの第一歩だと、そう思います。
これは「他人」に関しても同じことです。
完全に理解できないなら、そんなことは放棄してしまえ、というのが私の趣旨ではありません。逆にできないからこと、常に相手のこと、自分のことを見つめ続けなければ良い関係は気付いていけないだろうと思っています。
しかしながら、自分のことを他人に伝えるというのは非常に難しいことです。
自分を大きく伝えても、小さく伝えても、それは自分を伝えたことになります。
相手が、誤解を含んだまま、「理解」してしまうかもしれません。
しかも、自分ではそれを確認することができません。一度他人の手に渡ってしまった「自分」にはなかなか手を触れることができません。
自分を「自分」のままに伝えるということは、十分な経験と失敗が必要なのかもしれません。
とりあえず、この質問を考えたのは、みなさんが「自分」や「他人」についてどういう風に考えているか気になったので、それを質問してみようと思い立ち、その際に「あなたは自分についてどうかんがえていますか?」と聞いても何にも面白くないので、ちょっとひねった感じで質問を作ってみました。
私の中では、「私」と「他人」というのは、光と影のようなもので、二つの概念は互いに関係しあっていると思っています。
これには、二つの意味合いがあって、まず「他人」という概念がなければ「自分」という概念が成立し得ないものであるということと、一人の人間はどうしても周りの人間の影響を受けざる得ないということです。
自分の意識が「自分」を理解すること、「他人」を理解すること、これは広く見れば「人間」というものを理解するという大きな道につながっていると思います。
私自身で言えば、3の自分のことを他人に伝えるということが一番難しいことです。
しかし、それは私が自分や他人を理解しているからではありません。
簡単に自分といいますが、それは決して普遍な存在ではないと私は思っています。
思い浮かべてみると10年前の「自分」というのは、今の「自分」と比べてみて、変わっている部分が多くあります。もちろん変わらない部分もある。
もし、その変わらない部分だけを自分として定義するならば、自分というものは本当に小さな存在でしかありません。
結局のところ、自分というのは必ず変化を伴うものなのだと思います。だから昨日の自分、今日の自分、明日の自分というのは少しずつでも変化をしている。だから今の自分が100%完全に自分のことを理解するということは不可能だと思っています。
これが、「自分」を理解することの第一歩だと、そう思います。
これは「他人」に関しても同じことです。
完全に理解できないなら、そんなことは放棄してしまえ、というのが私の趣旨ではありません。逆にできないからこと、常に相手のこと、自分のことを見つめ続けなければ良い関係は気付いていけないだろうと思っています。
しかしながら、自分のことを他人に伝えるというのは非常に難しいことです。
自分を大きく伝えても、小さく伝えても、それは自分を伝えたことになります。
相手が、誤解を含んだまま、「理解」してしまうかもしれません。
しかも、自分ではそれを確認することができません。一度他人の手に渡ってしまった「自分」にはなかなか手を触れることができません。
自分を「自分」のままに伝えるということは、十分な経験と失敗が必要なのかもしれません。
2004/05/31のBlog
[ 23:58 ]
[ ささやかな質問 ]
2004/05/30のBlog
[ 14:24 ]
2004/05/27のBlog
[ 13:21 ]
[ 哲学・思想 ]
物資、人、情報が今までよりも簡単に行き交うようになってきて、世界は「ボーダーレス」になりつつあるという。
グローバーリズムとは、地球を一つの生活圏と考え、地球規模で文化や生活、社会などを捉えていこうという試みである。
そのグローバリズムと、ボーダーレスというのは非常によくマッチする。
だが、ボーダーレスの弊害というものの、確かに存在する。それは歴史性、固有文化の否定ということにつながりかねない。
経済格差が、確実に存在する中で、ボーダーレスというのが、力ある国の主導によって行われれば、その後に待っているのは、繁栄か没落という二つの選択肢しかない。
日本では、希薄かも知れないが、やはり世界中の多くの国が「自分の国」についてなんらかの関心・愛情というものがあると思う。(もちろんないところもあるだろう)
自分達の文化が生き残れば、他の文化がどうなろうと知ったことではない、とか、あるいは、自分達が行っていることが唯一の「正解」で他の国はそれに従うべきだ、なんて考えでは「争い」は決して絶えることはないであろう。
そこで、私は「ボーダーフリー」というのを考える。
ちなみに私の造語なのだが、ググッてみると、大学入試で「Fランク」の大学のことをボーダーフリーと呼ぶらしい(河合塾)
要するに、誰でも入れる大学ということなのであろう。
あまりいい印象ではないが、私が理想とする「世界」のありようとはまさにそれである。
国境を消していくのではなく、それを生かしながら、そこに出入りすることが非常に簡単であること、これが「ボーダーフリー」である。
社会の機能がどんどん分散化し、国が持つ役割をどんどん小さくしていく中で、国境というのは文化圏の境目的意味合いを持つものとして尊重していけばよいと思う。
世界中の人々が、同じ言語を話せば、それは確かに楽であろうが、果たしてそんな世界が面白いのか。
それは言葉だけに限った事ではない。
もちろん、言葉を変えただけで、この世界が現在進んでいる方向を直ちに修正できるわけではない。
が、大きな目標へと進むためには、少しずつの修正が大切なのではないか、と思う。
100年、200年先に戦争という言葉が忘れ去られて久しくなるというような状況が生まれていれば、こんなにいいことはないと思う。
人が戦争する能力を失うということが、もし「退化」であったとしても、僕はその退化を喜んで受け入れようと思う。
グローバーリズムとは、地球を一つの生活圏と考え、地球規模で文化や生活、社会などを捉えていこうという試みである。
そのグローバリズムと、ボーダーレスというのは非常によくマッチする。
だが、ボーダーレスの弊害というものの、確かに存在する。それは歴史性、固有文化の否定ということにつながりかねない。
経済格差が、確実に存在する中で、ボーダーレスというのが、力ある国の主導によって行われれば、その後に待っているのは、繁栄か没落という二つの選択肢しかない。
日本では、希薄かも知れないが、やはり世界中の多くの国が「自分の国」についてなんらかの関心・愛情というものがあると思う。(もちろんないところもあるだろう)
自分達の文化が生き残れば、他の文化がどうなろうと知ったことではない、とか、あるいは、自分達が行っていることが唯一の「正解」で他の国はそれに従うべきだ、なんて考えでは「争い」は決して絶えることはないであろう。
そこで、私は「ボーダーフリー」というのを考える。
ちなみに私の造語なのだが、ググッてみると、大学入試で「Fランク」の大学のことをボーダーフリーと呼ぶらしい(河合塾)
要するに、誰でも入れる大学ということなのであろう。
あまりいい印象ではないが、私が理想とする「世界」のありようとはまさにそれである。
国境を消していくのではなく、それを生かしながら、そこに出入りすることが非常に簡単であること、これが「ボーダーフリー」である。
社会の機能がどんどん分散化し、国が持つ役割をどんどん小さくしていく中で、国境というのは文化圏の境目的意味合いを持つものとして尊重していけばよいと思う。
世界中の人々が、同じ言語を話せば、それは確かに楽であろうが、果たしてそんな世界が面白いのか。
それは言葉だけに限った事ではない。
もちろん、言葉を変えただけで、この世界が現在進んでいる方向を直ちに修正できるわけではない。
が、大きな目標へと進むためには、少しずつの修正が大切なのではないか、と思う。
100年、200年先に戦争という言葉が忘れ去られて久しくなるというような状況が生まれていれば、こんなにいいことはないと思う。
人が戦争する能力を失うということが、もし「退化」であったとしても、僕はその退化を喜んで受け入れようと思う。
2004/05/26のBlog
[ 16:27 ]
[ 哲学・思想 ]
少し前に、TVで中学の教師だったか高校の教師だったか忘れたのだが、その教師が言った言葉が強く印象に残っている。
「偉そうなことを言う奴は、『偉く』なきゃいけないんだ」
まさに、その通りだと思う。
その教師は、学校が終わってからも、夜の街の中で遊び、さまよう子供たちに声を掛けて回る。家に帰ってからも、相談のメールや電話でほとんど睡眠時間がない。
相談する子供達は、本当にその教師を信頼している、頼っている。
彼は丁寧な話し方をするが、「厳しく」接するべき時は、きちんとそれを行う。
もし、彼がただ電話に向かって人生相談をするだけの人間であれば、子供達がそれほど信頼をするはずがない。
自分の言動に責任を持ち、「偉い」ことをやっているからこそ、偉そうな言葉に力が生まれるのだ。
言葉、というのは関係性によってその力が変わってくる。言葉を受け取る人間が、その言葉を発した人間をどう感じているかで、まったくその力は変わってくる。
「認めている」人間の言葉であれば重きを置くし、そうでなければ素通りする。
悲しいかな、世の中には、素通りされる人間が多い。特に大人である。
会社の上司が、無能で、かつ、それを棚に上げて偉そうにする人間だったとしたらそれはかなり最悪なことだろう。
しかし、大人であれば、仕事場を変えるという選択肢を選ぶことができる。
が、もし自分が子供で、親がただ偉そうなだけの人間であったならば。想像しただけでもかなりつらいことであろう。自分がつらい状況であるということすら認識できないかもしれない。
少なからず、そういう事態は進行してきていると思う。そして、子が親となり、それは連鎖と名って続いてゆく。
少なくとも、自分自身に関しては一つの意志を持とうと思っている。
自分でできないことは他人に押し付けたりはしないし、まず自分でやってから、他人に任せる。
これは一つのルールとしてきちんと定めるべきことだと思う。
道義とか倫理観とか、言葉は何でもいい。「人間」というのは、「人」のDNAを持っていればそれで人間であるとはいえないと思う。共通で守ってゆくべき、規範(ルール)があるからこそ、人間であると思う。
人ということばと、人間ということばが二つ存在することからわかるように、日本語ではその意味が少し違う。
人とは、人そのものであるし、人間というのは、「社会」というものと少なからずかかわりを持つ者として定義されていると思う。
--------------------------------------
すくなくとも、このBlogでは「偉そうな」ことは書いていないつもりだが、もし偉そうなことを書いているとしたら私の文章能力が著しく低いのであろう。もしそうであるならば、平謝しておく所存である。
「偉そうなことを言う奴は、『偉く』なきゃいけないんだ」
まさに、その通りだと思う。
その教師は、学校が終わってからも、夜の街の中で遊び、さまよう子供たちに声を掛けて回る。家に帰ってからも、相談のメールや電話でほとんど睡眠時間がない。
相談する子供達は、本当にその教師を信頼している、頼っている。
彼は丁寧な話し方をするが、「厳しく」接するべき時は、きちんとそれを行う。
もし、彼がただ電話に向かって人生相談をするだけの人間であれば、子供達がそれほど信頼をするはずがない。
自分の言動に責任を持ち、「偉い」ことをやっているからこそ、偉そうな言葉に力が生まれるのだ。
言葉、というのは関係性によってその力が変わってくる。言葉を受け取る人間が、その言葉を発した人間をどう感じているかで、まったくその力は変わってくる。
「認めている」人間の言葉であれば重きを置くし、そうでなければ素通りする。
悲しいかな、世の中には、素通りされる人間が多い。特に大人である。
会社の上司が、無能で、かつ、それを棚に上げて偉そうにする人間だったとしたらそれはかなり最悪なことだろう。
しかし、大人であれば、仕事場を変えるという選択肢を選ぶことができる。
が、もし自分が子供で、親がただ偉そうなだけの人間であったならば。想像しただけでもかなりつらいことであろう。自分がつらい状況であるということすら認識できないかもしれない。
少なからず、そういう事態は進行してきていると思う。そして、子が親となり、それは連鎖と名って続いてゆく。
少なくとも、自分自身に関しては一つの意志を持とうと思っている。
自分でできないことは他人に押し付けたりはしないし、まず自分でやってから、他人に任せる。
これは一つのルールとしてきちんと定めるべきことだと思う。
道義とか倫理観とか、言葉は何でもいい。「人間」というのは、「人」のDNAを持っていればそれで人間であるとはいえないと思う。共通で守ってゆくべき、規範(ルール)があるからこそ、人間であると思う。
人ということばと、人間ということばが二つ存在することからわかるように、日本語ではその意味が少し違う。
人とは、人そのものであるし、人間というのは、「社会」というものと少なからずかかわりを持つ者として定義されていると思う。
--------------------------------------
すくなくとも、このBlogでは「偉そうな」ことは書いていないつもりだが、もし偉そうなことを書いているとしたら私の文章能力が著しく低いのであろう。もしそうであるならば、平謝しておく所存である。