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Rashita's Style Blog
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2004/06/06のBlog
[ 17:10 ] [ 政治・社会 ]
年金法案が通ってしまった。対北問題も、道路公団問題も、郵政民営化問題も、
何一つ100点を与えられるような政策をしていない。

しかし、直接的な問題はそういうことではない。
そういう与党・政府が国民から「認められている」ということである。

もし、選挙権を持つ国民一人一人に今の政府はアリですか、無しですかと聞いて回った場合、その結果はどうだろうか。

私個人的には、無しが圧倒多数を確保すると信じたいが、おそらく現実は五分五分がそれよりも与党よりになるのではないか、そんな気がする。

結局のところ、民主主義をつくるのは、国会議員ではない。
われわれ国民一人一人の意識が民主主義を作っているのだ。

たとえば、世界から見て、バカな政府だなと思われていれば、それはそのままバカな国民だなと同じ扱いになってしまう。この国は「自由民主主義」国家なのだ。
別に、自民党がわれわれに独裁を行っているわけではない。

もちろん、権力が集中しやすいような仕組みが出来上がっているかもしれない。

しかし、それ自身を含めてきちんとした評価をしていくのが、国民の理性であろう。

今、国民の理性がない、というのではなく極端なまでの無関心になっているということは確かである。それもまた政治家の思惑どうりなのかもしれないが。
とりあえず、国民が無関心であればあるほど、国会議員は好き勝手できる。

これは、株主がいながら、その目が光っていない株式会社を思い浮かべていただければ、適切であろう。

お金を出している人間が、「まあ、てきとーにやってくれよ」なんて思っていれば、経営者がだんだんとバランス感覚を失ってくるのは、もう仕方ないことなのだ。

国会議員はそれほど偉い人間ではない。対して勉強もしてない奴らがおおいし、考えが凝り固まって広い視野をもてなくなった老人も多い。
そして、彼らは自らがやめるという意思を持たない限りはその職についていられるのだ。

国会議員は偉い人間ではないが、「国会議員」というのは、この日本ではだいぶありがたがられている。大体にして扱っている分野が大きすぎる、と私は思う。

これは、地方分権が進むことで改善されるかもしれない。

しかしながら、自分が得ている仕事・権力をやすやすと話すほど人間は無欲なものではない。

だからこそ、はっきりとNOというべき国民が必要なのだ。l

なぜ、自民党政権がこんなに続くのだろうか。

小泉人気?
もちろん、それもあるだろう。しかしそれを直接支えているのは、われわれの意識である。
国民の国内の状況における知識のなさ、無関心さ、それに加えて変化を拒絶する心理がおおきく働いていると思う。

たとえば、ある日突然気がつくと、民主党に政権がわたっていた。選挙もなく辞任もなく、ただ日常の延長線上で民主党が与党になっていた。まるでカフカの「変身」のように突然。

だとすれば、そのまま誰も大きな声を上げず、民主党が政権をになっていくだろう。
自民党に票を投じた人も、とくに違和感なく生活を続けていくだろう。
という仮定からの結果はあまりに間違っているのだろうか。
やはり、自民党に票を投じた人は、自民党にもう一度政権を、と声を高くして動き出すのだろうか。そうはならない気がする。

結局のところ、戦後の復興以来自民党が政権をになってきた、それでなんとなってきた、という思いが強く、その形からの変化を望まない人がたくさんいるということなんだろうと思う。

私の人気では、今の自民党に限らず、多くの国会議員は現状の問題に対してなんら対応できる能力を持たないと思っている。時代遅れなのだ。化石。

このままでいけるんだったらこのままでいいじゃないか、というのは割に普遍的な心理であろう。環境に適応するためにはエネルギーが必要であるし、人間はエネルギーを最小限に抑えるように行動する。

しかしながら、この変化を拒絶する心理は、何かを蝕んでゆく。
愛国心?自尊心?国の未来?子供達の将来?国家の安全?国家の自立?

それが何であれ、一度失われたものは、取り返すのが容易でないということである。

国民が豊かさのなかで、享楽におぼれ、いろんな問題を他人に押し付けてきた結果が今の日本である。それが悪かったのかどうか、私には判断しかねる。

しかし、これからも同じ状況でよい、とは決していえないと思う。
本当に大きな変化が訪れない限りやがてこの国は、どういう形であれ「滅びる」と思う。
2004/06/05のBlog
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というわけで、いろいろ考えてみました。

とりあえず、翻訳ツールで訳すと。

1 consideration about a possibility that it can fly.

となる。

いろいろ気になるところをチェックしつついくつか例を作ってみます。

1 consideration about a possibility that we can fly.

A consideration acout a possiblility that we can fly.

と、人類一般を指す場合、その主語はitで受けるのが普通ですが、ここはweとしたほうが、親近感がましてよさげです(笑)。

あと、文頭の1ですが、大文字のAのほうが、「一つの」という感じがしていいかもしれません。さらにつきすすんで、A litte とかにすると、謙遜するかんじがでるかもしれません。

ただ、consideration というのが、直感的にわかりにくいかもしれないので、
thinking とやったほうが、イメージが伝わりやすいかもしれません。
考察が、思想ならThought、熟慮ならDeliberationという単語があります。
Deliberation ならかなりわかりにくい感じになります。あえてそういう感じもよいかもしれません。
きわめて短くするなら、idea で考えになります。

これだけでもかなりのバリエーションが作れそうですが、まだ続きます。

~について、はまあaboutですが、of a ~ と訳してもあんまり違和感はなさそうです。

可能性については、possibility 以外でいくと、 the ability of us to fly.というのもアリじゃないかな~と思います。

と、まとめると、
極端に短く、かつイメージだけを伝えるなら、

A idea of a possibility (that) we can fly.

ぐらいでしょうか、コレくらいだと英語をあんまり知らなくても、大体の意味はつかめると思います。
中程度ならば、

A thinking about a possibility (that) we can fly.

A thinking of a possibility (that) we can fly.

A thinking about the ability of us to fly.

ぐらいでまとまりそうです。thatはまあ省略しても意味は通じると思います。

長くいくなら、

A litte my consideration about a possibitity that we can get a way of take off a ground.

なんていう風にもできます。まあわかりにくいですが。

文の形式を、名詞から一般文に変えて、

I have a consideration ~ 

という風にもできます。若干ニファンスはかわりますが・・・。

スーパークールに短くすると、

I think , can we fly or not?

とかでも、大体の感じは表現できているのではないかと思います。


いろいろあげてみましたが、参考にしていただければ幸いです。


ちなみに、私のサイト名のStyle は格好というよりも、文体という意味合いです。
別に関係ありませんが。蛇足。
昨日の民主党の行動で、とりあえず本気で廃案に持っていこうとしている、という意思表示は見れたが、今後どういう展開になるかはわからない。

自民党のほうも、かなり意地になってこの法案を通そうとしている。

こうなると、党と党の面子のぶつかりあいみたいなものだ。

しかし、結局はこの法案は通ってしまうような気がする。
様々な事件の陰で、世論がちょっと忘れてるんではないかという気がする。

はっきりと言い切ってしまうが、与党が提出し、そしてそれを成立させようとしている本法案は、まったくの詐欺である。
すくなくとも、最初の説明と、現状の説明がまったく食い違っている。

だいたい、傷を持ってしまった国会議員が声をそろえて、「わかりにくい」制度と言い訳しているにもかかわらず、その制度そのものにはまったく着手しないこの法案に一体どのような意味合いがあるのだろうか。

少なくとも、長期的な国民の利益、という観点から見た場合、それはゼロといえる。

とりあえず、社会保険庁はつぶれるつもりは一切ないし、まだまだおいしいことがのこっているのだから、それを使わない手はない、という官僚の認識はいつまでたっても消えないのだろう。

本来ならば、今国会議員は、一元化に向けた問題点を議論して、それに向かう様々な手段に対する意見を出して、法案の形作りをして、詰めていく作業がお粉ワナ麗なければいけないはずである。

国民の信頼もなく、金銭的に行き詰まり、社会保険庁のポケットマネーと化し、さまざまな著名人、議員が複雑な制度に振り回され、制度間の公平感もなく、ただ今まで続いてきたからというだけで存在している制度を、そのままの形で残す意味はまったくない。

ここは、もう一度声を大きくして言いたいところだが、この法案は完全に国民を馬鹿にしている。

良い点としては、国会議員がこれから忙しくはならないし、年金の心配も要らない。
というだけである。

あぁ、なんてことであろうか。

国会議員は、国民の利益を代表するものではなかったのだろうか。

地方に高速を引きたいという、古株の議員達も、すくなくとも一部の「国民」の利益を代表していることは確かである。その行為が正しいのかどうかはともかくとして、それなりに筋は通っている。

が、この年金制度の存続にかんしては、はっきり言ってわれわれ若い世代はなんら利益を受けない。

わかりにくい年金制度というのは、どう見ても、国民から関心を遠ざけるため、であろうと思う。そう考えると、やっぱり官僚というのは頭が切れる人たちなんだな、という感じがする。その方法は実に成功している。

自民党に一票を投じた人であっても、すくなくともここはNOと言うべきである。
この国に愛想を尽かし、10年後、20年後海外に移り住む予定の人でも、やっぱり他の人のためにNOといっておくべきである。
特に20代なりたての人は、はっきりとNOというべきである。めっちゃくちゃな損を、こちらだけにまわされることになるのだ。

年金一元化への道のりはかなり厳しい。自営業者と、会社員を一つにまとめるというのは、現行の制度だけでは無理である。それには時間もかかるし、大きな労力もいる。
だからこそ、こんなところで、回り道している時間はないのだ。

もし、この法案が、与党の単独採決で可決されてしまったら、国民の年金不信だけでなく、政治不信も今まで以上に大きくなるだろう。

それが、どんどん進んでいってしまったとき、この国がどうなってしまうのか、それを考えるだけの想像力を持ち合わせた政治家が、政界の上の方にいてくれると、随分と面白くなってくるんだが、今のところそれは厳しくそしてはかない願いなのかもしれない。
2004/06/04のBlog
大体の所感ではあるが、民主代表岡田氏と小泉首相は、なんだか相性が悪そうだ。

とくに、岡田氏からみた、小泉首相は、本当に相手にしにくいと思う。

どんなにクリーンなイメージで売っていたとしても、長い間国会議員をしていれば、泥も抱え込まなければいけないだろうし、小泉首相も、それはそれ、これはこれ、と割り切っている感じはあるが、性格的に岡田氏はそういうのは我慢できないのであろう。

小泉首相ののらりくらりとした答弁はいつもどうりだが、それを受けた岡田氏はやりにくそうであった。まあ真っ向から議論していくというのは、本来日本の政治家にあまりフィットしないスタイルなので、どうしても浮いてしまう感じはある。

岡田氏が、代表を続けていくうちに、何らかの変化があるのかどうか、気になるところである。
2004/06/02のBlog
[ 17:33 ] [ 歴史 ]
はっきり言って、ひどい事件である。

小学校6年生の子供が、同級生を殺意を持って殺した。

何度考えてみても、これはひどい事態である。

この事件によって、小学校でのカッターの使用の是非だとか、インターネットの使用の是非だとかが、すこし抜けたコメンテーターが意見するだろう。

が、それは方向が間違っている。

問題が起こった枝を一つ一つ切り落としていっても、結局幹がおかしければ、間違った枝は生え続ける。

われわれが考えなければいけないことは、「教育」される子供たちのことではない。
「教育」する大人のことである。

それは、教師達に問題がある、というレベルではない。
教師、親、その他もろもろの社会を構成する大人が深いそして、大きな心の病理を抱え込んでいる、ということであろうと思う。

子供は、周りの大人に大きな影響を受ける。
インターネットの広まりによって、その「大人」というものの範囲もかなり広がったかもしれない。

では、ネットから子供達を遠ざければよいのか、もちろん否である。
少なくとももう、そんなことができる社会状況ではなくなってきている。

ある一定の年代からは、ネットが使えるということがもう当たり前になってくる。
これは、政府や文部科学省の意思とはまったく関係なく動いている流れである。
それをとめることはできない。

また、ネットを関係を持っているのは、「子供」だけではない。
大人だって少なからず、周りの人間から影響を受けるのだから、ネットもその影響力の一部になりうる。

つまり、「子供」だけにネットを禁止したところで、根本的な問題の解決にならない、ということになると思う。

伝達力があり、形に残り、また相手の姿が直接見えないことで、過剰な意見が出やすい。それが、「ネット」である。

まず、そのことを大人がしっかりと理解するべきである。

そして、子供達にその情報をしっかりと伝えてゆく。

恐るべきは、人をあやめることではない。
人をあやめることに対して抵抗感が生まれない、ということである。

その抵抗感は、ひとりでに生まれてはこない。子供というのはいろいろな意味で無邪気なものなのである。
それは、「文化」なり「社会」なりが、生み出し、伝えていくものなのだ。

(自分を含め)人間をなぜ殺してはいけないのか?

そういう内省的な問いが、少しずつ失われているこの社会の方向修正が、本気で迫られていると思う。
2004/06/01のBlog
[ 14:01 ] [ ささやかな質問 ]
ささやかな質問です。少々興味がありましたら、コメントに返答くださいまし。(3択にしたかったのですが、あまりに難しかったのでやめました。)

あなたが仕事をする理由はなんですか?学生さんの場合は、仕事を探す理由はなんですか?
ささやかな質問についての自分なりの答えを書いて行きたいと思います。

とりあえず、この質問を考えたのは、みなさんが「自分」や「他人」についてどういう風に考えているか気になったので、それを質問してみようと思い立ち、その際に「あなたは自分についてどうかんがえていますか?」と聞いても何にも面白くないので、ちょっとひねった感じで質問を作ってみました。

私の中では、「私」と「他人」というのは、光と影のようなもので、二つの概念は互いに関係しあっていると思っています。

これには、二つの意味合いがあって、まず「他人」という概念がなければ「自分」という概念が成立し得ないものであるということと、一人の人間はどうしても周りの人間の影響を受けざる得ないということです。

自分の意識が「自分」を理解すること、「他人」を理解すること、これは広く見れば「人間」というものを理解するという大きな道につながっていると思います。

私自身で言えば、3の自分のことを他人に伝えるということが一番難しいことです。

しかし、それは私が自分や他人を理解しているからではありません。

簡単に自分といいますが、それは決して普遍な存在ではないと私は思っています。

思い浮かべてみると10年前の「自分」というのは、今の「自分」と比べてみて、変わっている部分が多くあります。もちろん変わらない部分もある。
もし、その変わらない部分だけを自分として定義するならば、自分というものは本当に小さな存在でしかありません。

結局のところ、自分というのは必ず変化を伴うものなのだと思います。だから昨日の自分、今日の自分、明日の自分というのは少しずつでも変化をしている。だから今の自分が100%完全に自分のことを理解するということは不可能だと思っています。

これが、「自分」を理解することの第一歩だと、そう思います。
これは「他人」に関しても同じことです。

完全に理解できないなら、そんなことは放棄してしまえ、というのが私の趣旨ではありません。逆にできないからこと、常に相手のこと、自分のことを見つめ続けなければ良い関係は気付いていけないだろうと思っています。

しかしながら、自分のことを他人に伝えるというのは非常に難しいことです。
自分を大きく伝えても、小さく伝えても、それは自分を伝えたことになります。
相手が、誤解を含んだまま、「理解」してしまうかもしれません。

しかも、自分ではそれを確認することができません。一度他人の手に渡ってしまった「自分」にはなかなか手を触れることができません。
自分を「自分」のままに伝えるということは、十分な経験と失敗が必要なのかもしれません。

2004/05/31のBlog
[ 23:58 ] [ ささやかな質問 ]
ささやかな質問です。お暇ならちょこっとお付き合いくださいまし。

次のうち、あなたが一番難しいと思うことはどれですか?

1、自分自身のことを理解すること
2、他人のことを理解すること
3、自分自身のことを他人に伝えること

ささやかな理由なども添えていただけると幸いです。