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2004/07/01のBlog
[ 16:25 ]
[ 政治・社会 ]
まず、私は民主党の年金案がパーフェクトであるとは思っていない。
しかしながら、自民党案のかっこたるまでの先延ばし案に比べればはるかにましであると考えている。
とりあえず、以前いただいた、コメントに対するフォローから。
>民主党案は財源は何%になるかわからない消費税
厚生労働省が、きちんとしたデータ開示をしないのだから、数字を100%出すのは、ほとんど不可能だといえます。
>国民年金と厚生年金の統合にしても数年でできる話ではないと思います。
まさにその通りです。
>自営業者が今の2倍の保険料を払うわけありませんし、
払わなない人がいる、というシステムはOKでしょうか?
>所管を国税庁に移しても、
すくなくとも、あの「社会保険庁」がなくなりますよね。
>金融所得は把握できても事業所得は把握できませんから、一層サラリーマンの不公平感が増すと思います。
ということは、現状のシステムは「不公平」であるわけですよね。
>いわゆる国民総背番号制の導入は必要になりますし
公平な制度のためには、収入のきちんとした把握というのは必要ですね、やっぱり。
>4年に1度の今回の改正でそこまで求める方がどうかしていると思います。
とすれば、われわれはいつ、制度の改革を求めたらよいのでしょうか。
すでに、私も年金を払わされる年になって数年たちますが、このままずるずると払い続けていけば、それでOKなんでしょうか?
私が民主党案を支持している最大の原因は、現状のシステムを否定し新しいシステムの形を示しているということである。
だれがどう考えても、現状の年金は様々な、そして深刻な問題を抱えている。
国民にある程度お金を払っておけば、残りのお金は官僚の思うがままというような、システムの裏に隠されたものもあるし、サラリーマンから自営業になったとたんに、厚生年金からはずされてしまう、といったような、制度間の不公平もある。
本当に公平なシステムを目指すならば一元化は避けて通れない道である。
職業が変わっても、制度が変わらないという単純なシステムが求められている。
今までの日本は、そういったことをとりあえず避けてきた。
もし、今突然日本の景気がぐぐーんと回復したら、おそらく年金問題も立ち消えてしまうだろう。
大体にして、サラリーマンは所得が把握されているのに、自営業者はその範疇にないという状況もおかしい。それは改めていくべきである。
社会保険庁の「はたらっきぷり」にも問題があるだろう。
大体、賦課方式にもかかわらず、とても巨大な積立金があるというのも謎である。
そのお金をどうするんだよーと、声を大にして聞いてみたい。
いろいろな利権や思惑が複雑に絡み合ったシステムを変えていくのには、大変な時間と労力がかかる。
改革を始めるには、遅すぎるくらいの時期である。
一刻も早く、新しい制度に向けた議論が開始されていてもおかしくない。
すくなくとも、今の制度を「100年」持たせようというような意見が受け入れられるとしたら、日本国民はすごくおおらかなんだな~という風に、私は思う。
しかしながら、自民党案のかっこたるまでの先延ばし案に比べればはるかにましであると考えている。
とりあえず、以前いただいた、コメントに対するフォローから。
>民主党案は財源は何%になるかわからない消費税
厚生労働省が、きちんとしたデータ開示をしないのだから、数字を100%出すのは、ほとんど不可能だといえます。
>国民年金と厚生年金の統合にしても数年でできる話ではないと思います。
まさにその通りです。
>自営業者が今の2倍の保険料を払うわけありませんし、
払わなない人がいる、というシステムはOKでしょうか?
>所管を国税庁に移しても、
すくなくとも、あの「社会保険庁」がなくなりますよね。
>金融所得は把握できても事業所得は把握できませんから、一層サラリーマンの不公平感が増すと思います。
ということは、現状のシステムは「不公平」であるわけですよね。
>いわゆる国民総背番号制の導入は必要になりますし
公平な制度のためには、収入のきちんとした把握というのは必要ですね、やっぱり。
>4年に1度の今回の改正でそこまで求める方がどうかしていると思います。
とすれば、われわれはいつ、制度の改革を求めたらよいのでしょうか。
すでに、私も年金を払わされる年になって数年たちますが、このままずるずると払い続けていけば、それでOKなんでしょうか?
私が民主党案を支持している最大の原因は、現状のシステムを否定し新しいシステムの形を示しているということである。
だれがどう考えても、現状の年金は様々な、そして深刻な問題を抱えている。
国民にある程度お金を払っておけば、残りのお金は官僚の思うがままというような、システムの裏に隠されたものもあるし、サラリーマンから自営業になったとたんに、厚生年金からはずされてしまう、といったような、制度間の不公平もある。
本当に公平なシステムを目指すならば一元化は避けて通れない道である。
職業が変わっても、制度が変わらないという単純なシステムが求められている。
今までの日本は、そういったことをとりあえず避けてきた。
もし、今突然日本の景気がぐぐーんと回復したら、おそらく年金問題も立ち消えてしまうだろう。
大体にして、サラリーマンは所得が把握されているのに、自営業者はその範疇にないという状況もおかしい。それは改めていくべきである。
社会保険庁の「はたらっきぷり」にも問題があるだろう。
大体、賦課方式にもかかわらず、とても巨大な積立金があるというのも謎である。
そのお金をどうするんだよーと、声を大にして聞いてみたい。
いろいろな利権や思惑が複雑に絡み合ったシステムを変えていくのには、大変な時間と労力がかかる。
改革を始めるには、遅すぎるくらいの時期である。
一刻も早く、新しい制度に向けた議論が開始されていてもおかしくない。
すくなくとも、今の制度を「100年」持たせようというような意見が受け入れられるとしたら、日本国民はすごくおおらかなんだな~という風に、私は思う。
[ 13:16 ]
[ 10:08 ]
[ ささやかな質問 ]
2004/06/30のBlog
[ 22:52 ]
[ ささやかな質問 ]
ささやかな質問です。お気軽にコメントorTBお願いします。
「優しさ」の反対の意味の言葉はなんだと思いますか?
「優しさ」の反対の意味の言葉はなんだと思いますか?
[ 15:34 ]
[ ささやかな質問 ]
ささやかな質問です。お気軽でも、お気重でも、お答えくだされば幸いです。
「戦争」は必要悪でしょうか?、それとも世の中からまったく消え去っていくべきものなのでしょうか?
「戦争」は必要悪でしょうか?、それとも世の中からまったく消え去っていくべきものなのでしょうか?
[ 13:16 ]
[ 哲学・思想 ]
6月も本日が最終日なので、この一ヶ月で考えたことをまとめていきたいと思う。
■現状の認識
日本という国の国防は、その大部分がアメリカに依存している。
もちろん、アメリカ側にも日本に基地を置くメリットはあるので、相互依存と言えなくはない。が、日本政府の発言力の弱さ、影響力のなさ、から考えても、アメリカに「守ってもらっている」という認識はそれほどの誤りではないと思う。
日本国憲法前文より一部抜粋
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
同じく、9条より
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
われわれは、この憲法の下に生きている限りは、戦争を放棄しなければならない。
ごく単純な解釈ならば、軍隊を保有することもできない。
以上が、日本国の現状である。
■人類の歩んできた歴史
特定の国、地域を除いて、おそらく大小問わず絶え間なく戦争というものは続いてきたのではないか。戦争の始まりは、国家、宗教、というものの始まりと期を同じくするはずである。数えきれないくらいの人間が殺し合いを続けてきた。
おそらく1900年代になってからだろうか、「戦争」反対の声が大きくなってきたのは。
それまでは、「戦争」はあって当然のものとして扱われてきたはずである。
なぜ、「戦争」を反対する声が大きくなってきたのか。人々が理性に目覚めてきた、というのではない、国家に対して自由に意見を述べることができる環境ができた、というのでもない。「戦争」に使われる科学技術があまりにも進歩してしまったからであろう。
「核」というものは、本当に恐ろしいものである。人類はいまだに核エネルギーを完全にコントロールできてはいない。人体だけでなく、環境に与える影響もすさまじい。
歴史の上で戦争が始まった頃では想像もつかないほどの人間を簡単に殺すことができるようになってしまった。どこかの歯車が、変な方向にかみ合ってしまったら、一つの国が滅びるというのも、SFの世界ではなくなった。
殺し合いの環が大きくなってゆけば、人類が「滅びる」ということも、笑い話ではない。
■ 戦争の定義 正義と悪
戦争とは国権が発動する争いである。
そして、「正義」と「正義」同士の自らの生存をかけた争いである。
愛国心、宗教心、が国民の心を蔽い隠し、自らの想像力を奪う。
自らが「正義」、他方が「悪」という線引きをおこなうことによって、実際に戦争の現場で行われている現状を全て「正当化」する。
メディアが正常に働かない限り、民主主義というものは、正常に機能しない。
唯一絶対の「正義」とはなんであろうか?
民主主義でないことは確かだ。どこか一つの宗教でもない。もちろんどこかの大国でもない。
私が考える「正しい」という言葉は
個人が自らが望む生き方を得られ、他人(組織・国家を含む)によってそれを侵害されない状況
ということである。
それを守るためならば「正義」と言っていいと思う。
本当ならば、「正義」という言葉を使いたくない。
「正義」という言葉は、思考を停止させる恐れがある。
しかしながら、人間という生き物は「正義」と「悪」を求める。それらは避けがたい欲求である。だとすれば、一番無難な「正義」の定義を選択しておいたほうが良いと思う。
そして、「正義」を行うためならば、何だって正当化されるという理論は一度完全に白紙にすべきである。その思想が一番危険である。警察官だってやっていいことと悪いことがある。そんなことは当たり前である。
■戦争を否定する力
以上のことから考えてみた場合、われわれ(つまり日本人)は「戦争」にどう対峙すべきであろうか。すくなくとも一番やってはいけないこと、それは「戦争」を無視することであろう。
第二次世界大戦(大東亜戦争)の敗戦国であり、唯一の被爆国である日本。その国民が「戦争」に対して無関心であるというのは、親が子供の教育に無関心であるということよりも悲しいことである。
日本国憲法がどのような背景で成立されたとしても、「戦争放棄」の理念は進歩的であるといわざる得ない。それが現状からみていかに理想でしかなくても、その理念の下で作られた憲法というのは大変貴重である。
戦後直後の日本とアメリカの関係がどうであって、アメリカがどのような思惑を持っていたのか、私は直接知ることはできない。
しかしながら、そこには一つの理想郷への道が示されていたような気がする。
われわれが、まず一番最初にすべきことは、この憲法を守るのか、それとも変えるのかの選択である。憲法上明確な武力を持たずにいくか、それとも自衛隊を「軍」としてみとめるか。
そして、ここで大きなジレンマにぶち当たる。
「恒久なる平和」を望むためには、「軍」を持たなければいけない。
このある種の矛盾を受け入れないならば、我が国は「軍」を保持できない。
できない、というよりも積極的に保持しない、という選択である。
そうなってきた場合に、アメリカ一国による我が国の国防というあり方は見直さなければいけないであろう。
現在の状況ではとてもアメリカが、恒久なる平和を実現しようと努力しているとは思えない。彼らは、知ってか知らずか戦争の種をあちらこちらにまいている。
我らは、そのことにSTOPをかけなければいけない。しかし、現状ではとても無理である。政治家の手腕うんぬんかんぬんの前に、日米安保条約が大きくのしかかってくる。
となると、われわれは別のところに安全保障を求めなければいけない。自らの国以外に国防を依存しなければ「平和」に向けての発言ができないというのが、現状である。
そういった場合には、アジア主体の共同体というのが一番可能性があるだろうか。
構図としてはアメリカ⇔アジア諸国という感じである。
こうなれば、われわれもアメリカに対して発言力を持つことができるかもしれない。
もちろん、無視される可能性も大いにある。
では、日本が「軍」を有するように憲法を改正した場合。
憲法の前文での平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してという前提部分が崩れてしまっている状況である。われわれもきちんと発言することができるポジションを得ようというのはそんなに間違いではないように思える。
しかし、先ほども述べたが、これには「戦争を否定している国が戦争をしなければいけない」という状況を生みかねない。これはある種滑稽であるようにも思える。
しかし、ながらこれはどうしようもない真実なのである。
戦争を否定するためには、力が必要である。
それも大きな力が。
その力というのは、単純に武力ということだけではない。経済力も十分に力になりうる。
もし、これからの社会のなかで、日本という国がどうしても必要だと思われるような状況になった場合、われわれは強い発言力を持つであろう。
日本がハードなりソフトなりで、重要な技術力をもつというもの、目指すべき選択肢の一つであると思う。
「戦争反対」だ、だからアメリカは戦争をやめろ、というのは簡単である。
「戦争やむなし」、日本も軍事力の整備を、というもの簡単である。
この両者はまったく反対の意見を言いながらも、他人事的視点という点ではまったく同じである。戦争が大きな力の流れであること、あるいはその悲惨さ、そういうことがまったく考えられていない。
想像力の不足というのは、こういうことをいうのだろう。
つまり、ただの「現状追認」も「現状否定」もまったく問題の本質を捉えていないということにつながっている。
「ささやかな質問」で戦争は「必要悪」であるかどうかを皆さんに質問した。
非常にいろいろな答えが返ってきて、私の頭の中は大変刺激を受けた。
私自身は戦争反対なのか、戦争やむなしなのか、考えてみた。
すさまじく悲惨な戦争の現状。毎日のように新聞の上に踊る死傷者の数。
それらを見ているとひどく心が痛み、戦争なんてやらなきゃいいのに、と思う。
しかし、北朝鮮との、日本国の対応を見ていると、われわれもきちんと軍事力を「明文化」すべきだなーとも思う。
ひどい矛盾である。
戦争で無残に死んでいく人をみて、喜びに打ち震える人はそんなにいないであろう。
また、北朝鮮の言いなりになってOKと思う人もまた、そんなにたくさんはいないであろう。
多かれ少なかれ、人々はその両極端の心理の中間地点を、時々ぶれながら進んでいるのではないかと思う。
今までは、その中途半端な状態が許されていた。
モラトリアム。
しかしながら、その決断を先延ばしする行為が、日本にどのような影響を与えてきたのか。
どういった方向であれ、われわれはきちんと道を定めなければならない。
今まで何とかなってきたから、これからも何とかなるという方法論はそろそろ通じなくなってきている。
もし、われわれが幼い子供であったならば、私はあなたの手をつなぎ、あなたはまた別の人の手をつなぐ。そしてその環が世界中をめぐりめぐって私の手に帰ってくる。それで満ち足りた世界が出来上がるはずである。
しかしながら、われわれの大半は大人である。価値観を持ち、守るべきものを持ち、国家を持ち、宗教を持ち、文化を持ち、偏見を持ち、友人を持ち、仮想の敵を持ち、悲惨な状況を作り武器をたくさん持っている。
われわれは手を差し伸べるだけでは、解決しない問題がたくさんある。
しかしながら、手を差し伸べる行為がまったく役に立たないわけでもない。そういった行為でしか解決できない問題もあるだろう。憎しみの連鎖は、更なる憎しみを生む。
時には、剣をその手に握り、時には、誰かの手を握る。
微笑みながらその手をつなげるような未来が、われわれに待っていないとしたら、それは地獄としかいえないだろう。
そのような未来に、われわれの子孫を送り出さざる得ないような状況にだけは決してしたくない、と私は強く思う。
長くなってしまいました。最後まで読んでくれた方、お疲れ様です。
この記事は、「ささやかな質問」への返答と以下のBlogに大変触発されました。
ありがとうございます。
sivuchさん[戦争の防ぎ方]
cdtさん[[TB]戦争の防ぎ方]
taroboy22さん[誰にだってできること]
showさん[イラク主権移譲]
minamimoemoeさん[小泉首相、集団的自衛権の行使に賛成意見]
wouldbeさん[帝国を壊すために]
■現状の認識
日本という国の国防は、その大部分がアメリカに依存している。
もちろん、アメリカ側にも日本に基地を置くメリットはあるので、相互依存と言えなくはない。が、日本政府の発言力の弱さ、影響力のなさ、から考えても、アメリカに「守ってもらっている」という認識はそれほどの誤りではないと思う。
日本国憲法前文より一部抜粋
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
同じく、9条より
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
われわれは、この憲法の下に生きている限りは、戦争を放棄しなければならない。
ごく単純な解釈ならば、軍隊を保有することもできない。
以上が、日本国の現状である。
■人類の歩んできた歴史
特定の国、地域を除いて、おそらく大小問わず絶え間なく戦争というものは続いてきたのではないか。戦争の始まりは、国家、宗教、というものの始まりと期を同じくするはずである。数えきれないくらいの人間が殺し合いを続けてきた。
おそらく1900年代になってからだろうか、「戦争」反対の声が大きくなってきたのは。
それまでは、「戦争」はあって当然のものとして扱われてきたはずである。
なぜ、「戦争」を反対する声が大きくなってきたのか。人々が理性に目覚めてきた、というのではない、国家に対して自由に意見を述べることができる環境ができた、というのでもない。「戦争」に使われる科学技術があまりにも進歩してしまったからであろう。
「核」というものは、本当に恐ろしいものである。人類はいまだに核エネルギーを完全にコントロールできてはいない。人体だけでなく、環境に与える影響もすさまじい。
歴史の上で戦争が始まった頃では想像もつかないほどの人間を簡単に殺すことができるようになってしまった。どこかの歯車が、変な方向にかみ合ってしまったら、一つの国が滅びるというのも、SFの世界ではなくなった。
殺し合いの環が大きくなってゆけば、人類が「滅びる」ということも、笑い話ではない。
■ 戦争の定義 正義と悪
戦争とは国権が発動する争いである。
そして、「正義」と「正義」同士の自らの生存をかけた争いである。
愛国心、宗教心、が国民の心を蔽い隠し、自らの想像力を奪う。
自らが「正義」、他方が「悪」という線引きをおこなうことによって、実際に戦争の現場で行われている現状を全て「正当化」する。
メディアが正常に働かない限り、民主主義というものは、正常に機能しない。
唯一絶対の「正義」とはなんであろうか?
民主主義でないことは確かだ。どこか一つの宗教でもない。もちろんどこかの大国でもない。
私が考える「正しい」という言葉は
個人が自らが望む生き方を得られ、他人(組織・国家を含む)によってそれを侵害されない状況
ということである。
それを守るためならば「正義」と言っていいと思う。
本当ならば、「正義」という言葉を使いたくない。
「正義」という言葉は、思考を停止させる恐れがある。
しかしながら、人間という生き物は「正義」と「悪」を求める。それらは避けがたい欲求である。だとすれば、一番無難な「正義」の定義を選択しておいたほうが良いと思う。
そして、「正義」を行うためならば、何だって正当化されるという理論は一度完全に白紙にすべきである。その思想が一番危険である。警察官だってやっていいことと悪いことがある。そんなことは当たり前である。
■戦争を否定する力
以上のことから考えてみた場合、われわれ(つまり日本人)は「戦争」にどう対峙すべきであろうか。すくなくとも一番やってはいけないこと、それは「戦争」を無視することであろう。
第二次世界大戦(大東亜戦争)の敗戦国であり、唯一の被爆国である日本。その国民が「戦争」に対して無関心であるというのは、親が子供の教育に無関心であるということよりも悲しいことである。
日本国憲法がどのような背景で成立されたとしても、「戦争放棄」の理念は進歩的であるといわざる得ない。それが現状からみていかに理想でしかなくても、その理念の下で作られた憲法というのは大変貴重である。
戦後直後の日本とアメリカの関係がどうであって、アメリカがどのような思惑を持っていたのか、私は直接知ることはできない。
しかしながら、そこには一つの理想郷への道が示されていたような気がする。
われわれが、まず一番最初にすべきことは、この憲法を守るのか、それとも変えるのかの選択である。憲法上明確な武力を持たずにいくか、それとも自衛隊を「軍」としてみとめるか。
そして、ここで大きなジレンマにぶち当たる。
「恒久なる平和」を望むためには、「軍」を持たなければいけない。
このある種の矛盾を受け入れないならば、我が国は「軍」を保持できない。
できない、というよりも積極的に保持しない、という選択である。
そうなってきた場合に、アメリカ一国による我が国の国防というあり方は見直さなければいけないであろう。
現在の状況ではとてもアメリカが、恒久なる平和を実現しようと努力しているとは思えない。彼らは、知ってか知らずか戦争の種をあちらこちらにまいている。
我らは、そのことにSTOPをかけなければいけない。しかし、現状ではとても無理である。政治家の手腕うんぬんかんぬんの前に、日米安保条約が大きくのしかかってくる。
となると、われわれは別のところに安全保障を求めなければいけない。自らの国以外に国防を依存しなければ「平和」に向けての発言ができないというのが、現状である。
そういった場合には、アジア主体の共同体というのが一番可能性があるだろうか。
構図としてはアメリカ⇔アジア諸国という感じである。
こうなれば、われわれもアメリカに対して発言力を持つことができるかもしれない。
もちろん、無視される可能性も大いにある。
では、日本が「軍」を有するように憲法を改正した場合。
憲法の前文での平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してという前提部分が崩れてしまっている状況である。われわれもきちんと発言することができるポジションを得ようというのはそんなに間違いではないように思える。
しかし、先ほども述べたが、これには「戦争を否定している国が戦争をしなければいけない」という状況を生みかねない。これはある種滑稽であるようにも思える。
しかし、ながらこれはどうしようもない真実なのである。
戦争を否定するためには、力が必要である。
それも大きな力が。
その力というのは、単純に武力ということだけではない。経済力も十分に力になりうる。
もし、これからの社会のなかで、日本という国がどうしても必要だと思われるような状況になった場合、われわれは強い発言力を持つであろう。
日本がハードなりソフトなりで、重要な技術力をもつというもの、目指すべき選択肢の一つであると思う。
「戦争反対」だ、だからアメリカは戦争をやめろ、というのは簡単である。
「戦争やむなし」、日本も軍事力の整備を、というもの簡単である。
この両者はまったく反対の意見を言いながらも、他人事的視点という点ではまったく同じである。戦争が大きな力の流れであること、あるいはその悲惨さ、そういうことがまったく考えられていない。
想像力の不足というのは、こういうことをいうのだろう。
つまり、ただの「現状追認」も「現状否定」もまったく問題の本質を捉えていないということにつながっている。
「ささやかな質問」で戦争は「必要悪」であるかどうかを皆さんに質問した。
非常にいろいろな答えが返ってきて、私の頭の中は大変刺激を受けた。
私自身は戦争反対なのか、戦争やむなしなのか、考えてみた。
すさまじく悲惨な戦争の現状。毎日のように新聞の上に踊る死傷者の数。
それらを見ているとひどく心が痛み、戦争なんてやらなきゃいいのに、と思う。
しかし、北朝鮮との、日本国の対応を見ていると、われわれもきちんと軍事力を「明文化」すべきだなーとも思う。
ひどい矛盾である。
戦争で無残に死んでいく人をみて、喜びに打ち震える人はそんなにいないであろう。
また、北朝鮮の言いなりになってOKと思う人もまた、そんなにたくさんはいないであろう。
多かれ少なかれ、人々はその両極端の心理の中間地点を、時々ぶれながら進んでいるのではないかと思う。
今までは、その中途半端な状態が許されていた。
モラトリアム。
しかしながら、その決断を先延ばしする行為が、日本にどのような影響を与えてきたのか。
どういった方向であれ、われわれはきちんと道を定めなければならない。
今まで何とかなってきたから、これからも何とかなるという方法論はそろそろ通じなくなってきている。
もし、われわれが幼い子供であったならば、私はあなたの手をつなぎ、あなたはまた別の人の手をつなぐ。そしてその環が世界中をめぐりめぐって私の手に帰ってくる。それで満ち足りた世界が出来上がるはずである。
しかしながら、われわれの大半は大人である。価値観を持ち、守るべきものを持ち、国家を持ち、宗教を持ち、文化を持ち、偏見を持ち、友人を持ち、仮想の敵を持ち、悲惨な状況を作り武器をたくさん持っている。
われわれは手を差し伸べるだけでは、解決しない問題がたくさんある。
しかしながら、手を差し伸べる行為がまったく役に立たないわけでもない。そういった行為でしか解決できない問題もあるだろう。憎しみの連鎖は、更なる憎しみを生む。
時には、剣をその手に握り、時には、誰かの手を握る。
微笑みながらその手をつなげるような未来が、われわれに待っていないとしたら、それは地獄としかいえないだろう。
そのような未来に、われわれの子孫を送り出さざる得ないような状況にだけは決してしたくない、と私は強く思う。
長くなってしまいました。最後まで読んでくれた方、お疲れ様です。
この記事は、「ささやかな質問」への返答と以下のBlogに大変触発されました。
ありがとうございます。
sivuchさん[戦争の防ぎ方]
cdtさん[[TB]戦争の防ぎ方]
taroboy22さん[誰にだってできること]
showさん[イラク主権移譲]
minamimoemoeさん[小泉首相、集団的自衛権の行使に賛成意見]
wouldbeさん[帝国を壊すために]
2004/06/29のBlog
[ 07:42 ]
[ 哲学・思想 ]
6月も今日を含めてあと2日。
とりあえず、戦争について、あともう少し考えていきたい。
平和という言葉の定義から考えてみよう。
4つの順子があって、あとは頭、で両面まち・・・。
(わからないかたは、スルーしてください)
平和という言葉の意味は、やはり戦争がない、ということではないかと思う。
逆に言えば、戦争がなければ「平和」という概念もない。
光と影のようなものである。
考えてみると、戦後の日本は「平和」であった。しかしながら、戦後生まれの日本人はあまり「平和」というものを意識してないのではないかと思う。
日本で「戦争」というものを知っている人間にはおおよそ2種類いると思う。
戦前生まれで、戦争を「体験」している人。海外に出かけて戦争を「目撃」した人。
それ以外の人は、戦争に関する知識を有しているだけである。
しかし、詳しく見ていくと、戦争を「体験」している人といっても様々である。
実際ほとんど影響を受けずに(経済的な影響は含まない)生活を送っていた人もいるだろう。
世界からの視点で見るならば、たしかに日本国は空爆を受けたものの、一部の地域を除いて外国人の直接的な侵略を受けていない。
戦争を100%体験した人は、すごく少ないといえる。
また、日本の平和は、冷戦構造、日本の高度経済成長、アメリカ軍の保護、といものに
支えられてきた。直接的に日本人が日本の平和のために何かを犠牲にしてきたわけではない。政治家がアメリカの言いなりになる、海外にやたらとお金をばら撒く、などの行為があったことは確かだが、そのことが国民に強く意識されていたとは思えない。
人類の歩んできた歴史を考えるならば、平和というのは、ハイどうぞ、といって与えられるものではないはずである。しかしながら、日本はそれをいただいた。
われわれはその価値の大きさに気付かずに生きてきた、ような気がする。
日本国憲法は、戦争放棄を謳っている。
理想としては、これはすばらしい考えであると思う。
しかし、その理想は本当ならばいくつもの犠牲の上に立つことで現実となっていくもであろう。
日本は戦争をしてこなかった、しかしながら、アメリカは戦争を繰り返してきたし、そのアメリカに対して、沈黙の肯定をしたり、あるいは積極的に賛同してきたことを忘れてはいけない。
好意的にアメリカという国家を見た場合、彼らが目指すのは世界秩序の樹立ということであろう。そして、そのためには軍力の行使もいとわない、という一貫したスタイルである。その行いが悪いとは、たかだか日本に住む一国民が断言できることではない。
(しかしながら、アメリカのとってきた行為が、彼ら自信の首を絞めていることは確かである。)
日本が、目指しているのはナンなのであろうか。
すくなくとも、「世界に平和をもたらすこと」ではない。
ごくごく好意的に見ても、日本国内の平和というところからは一歩もでないと思う。
今回のイラク派遣に関しても、世界に平和をもたらすこと、という理念に裏打ちされた行為とはとてもいえない。
私はそのことに、どうしても強い不信感を感じぜずにはいられない。
本当に重要なことは、行為そのものではないと私は思う。
その行為は、どういった意思・意図からでているのか、ということが重要である。
現在の日本がどのような行動をとっても、アメリカの顔色窺いとしてか捉えられない。
それは、この国の進んでいる方向が、まったくその通りであるからであろう。
もし、日本が自国の平和を維持しながら、世界に平和をもたらすという壮大かつ偉大な理念を持ったときに、どのような行為ができるのであろうか。
それは、今の憲法でも可能なのか。
日本人は、何を求めているのか。
世界は、日本に何を期待しているのか。
日本は世界に対してどのくらい影響力があるのか。
とりあえず、日本人が考える「戦争と平和」というものが、世界的な「戦争と平和」とは、おそらく若干ずれているであろう、ということは認識しておきたい。
そして、逆に言えば日本人にしか発言できないようなこともある、ということも同時に考えておきたいことである。
とりあえず、戦争について、あともう少し考えていきたい。
平和という言葉の定義から考えてみよう。
4つの順子があって、あとは頭、で両面まち・・・。
(わからないかたは、スルーしてください)
平和という言葉の意味は、やはり戦争がない、ということではないかと思う。
逆に言えば、戦争がなければ「平和」という概念もない。
光と影のようなものである。
考えてみると、戦後の日本は「平和」であった。しかしながら、戦後生まれの日本人はあまり「平和」というものを意識してないのではないかと思う。
日本で「戦争」というものを知っている人間にはおおよそ2種類いると思う。
戦前生まれで、戦争を「体験」している人。海外に出かけて戦争を「目撃」した人。
それ以外の人は、戦争に関する知識を有しているだけである。
しかし、詳しく見ていくと、戦争を「体験」している人といっても様々である。
実際ほとんど影響を受けずに(経済的な影響は含まない)生活を送っていた人もいるだろう。
世界からの視点で見るならば、たしかに日本国は空爆を受けたものの、一部の地域を除いて外国人の直接的な侵略を受けていない。
戦争を100%体験した人は、すごく少ないといえる。
また、日本の平和は、冷戦構造、日本の高度経済成長、アメリカ軍の保護、といものに
支えられてきた。直接的に日本人が日本の平和のために何かを犠牲にしてきたわけではない。政治家がアメリカの言いなりになる、海外にやたらとお金をばら撒く、などの行為があったことは確かだが、そのことが国民に強く意識されていたとは思えない。
人類の歩んできた歴史を考えるならば、平和というのは、ハイどうぞ、といって与えられるものではないはずである。しかしながら、日本はそれをいただいた。
われわれはその価値の大きさに気付かずに生きてきた、ような気がする。
日本国憲法は、戦争放棄を謳っている。
理想としては、これはすばらしい考えであると思う。
しかし、その理想は本当ならばいくつもの犠牲の上に立つことで現実となっていくもであろう。
日本は戦争をしてこなかった、しかしながら、アメリカは戦争を繰り返してきたし、そのアメリカに対して、沈黙の肯定をしたり、あるいは積極的に賛同してきたことを忘れてはいけない。
好意的にアメリカという国家を見た場合、彼らが目指すのは世界秩序の樹立ということであろう。そして、そのためには軍力の行使もいとわない、という一貫したスタイルである。その行いが悪いとは、たかだか日本に住む一国民が断言できることではない。
(しかしながら、アメリカのとってきた行為が、彼ら自信の首を絞めていることは確かである。)
日本が、目指しているのはナンなのであろうか。
すくなくとも、「世界に平和をもたらすこと」ではない。
ごくごく好意的に見ても、日本国内の平和というところからは一歩もでないと思う。
今回のイラク派遣に関しても、世界に平和をもたらすこと、という理念に裏打ちされた行為とはとてもいえない。
私はそのことに、どうしても強い不信感を感じぜずにはいられない。
本当に重要なことは、行為そのものではないと私は思う。
その行為は、どういった意思・意図からでているのか、ということが重要である。
現在の日本がどのような行動をとっても、アメリカの顔色窺いとしてか捉えられない。
それは、この国の進んでいる方向が、まったくその通りであるからであろう。
もし、日本が自国の平和を維持しながら、世界に平和をもたらすという壮大かつ偉大な理念を持ったときに、どのような行為ができるのであろうか。
それは、今の憲法でも可能なのか。
日本人は、何を求めているのか。
世界は、日本に何を期待しているのか。
日本は世界に対してどのくらい影響力があるのか。
とりあえず、日本人が考える「戦争と平和」というものが、世界的な「戦争と平和」とは、おそらく若干ずれているであろう、ということは認識しておきたい。
そして、逆に言えば日本人にしか発言できないようなこともある、ということも同時に考えておきたいことである。
2004/06/28のBlog
[ 17:18 ]
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私も、20~21歳までは、おんなじ考えでした。
どの党を見ても、誰一人良い人物がいないのに、何で投票に行かなきゃならないんだ、
いっそこのまま、投票率が3割をきったら、いよいよ政治家も真剣に仕事に当たるんじゃないかなんて考えて、投票には行ってませんでした。
それは、それで一つの意思表示ではあると思います。
しかしながら、二つ問題がある。
そんなことをしていても、いつまでたってもこの国は変わらないということ。
なぜなら、一定量の投票李は絶対にキープされるから。
そして、もう一つ。
現在の選挙制度、党体制の中では、投票しないことがイコール自民党を容認しているという風に解釈されてしまうということ。
私も小泉総理は一年目までは、これは自民党を変えてくれる人物だと思って期待していましたが、結局のところ、それは期待のしすぎであることがわかってしまいました。
そんななか、はやくこいつやめねーかなと国会中継などを見ているときに、「国民は自民党を支持してるんだ」などと彼がのたまわると、激しい違和感を感じずにはいられなくなってしまいます。お前投票率知ってるのか?なんて突っ込みは一切通用しません。
投票に行かないこと、つまり自民党を支持し、かつ、いまの政治体制も容認するということになってしまうのだ。
私は、別に民主党が政権をになうだけの党であるとは思っていない。しかしながら、年金法案は、政府与党案に比べればはるかにましである。
なによりも、民主党が政権をとることにより、大きな政治・政党再編のうねりを期待しているのだ。
自民党は、自らが選挙に勝てる自身から、大きな間違いをいくつも犯している。
自分達の立場がもう、全然安定じゃないということを知るべきなのだ。
だから、私は、一度民主党が政権をとるまでは、民主党に投票してみようと思っている。もし、それでもこの国の政治というものが変化しないなら、いよいよこの国からの脱出ということを真剣に考えなければいけないところである。
もし、特に党にこだわりがなく、今の政治体制に不満を感じているならば、民主党に票を投じてみても、そんなに悪くはないと、私は思うのだが、いかがなものでしょう。
私も、20~21歳までは、おんなじ考えでした。
どの党を見ても、誰一人良い人物がいないのに、何で投票に行かなきゃならないんだ、
いっそこのまま、投票率が3割をきったら、いよいよ政治家も真剣に仕事に当たるんじゃないかなんて考えて、投票には行ってませんでした。
それは、それで一つの意思表示ではあると思います。
しかしながら、二つ問題がある。
そんなことをしていても、いつまでたってもこの国は変わらないということ。
なぜなら、一定量の投票李は絶対にキープされるから。
そして、もう一つ。
現在の選挙制度、党体制の中では、投票しないことがイコール自民党を容認しているという風に解釈されてしまうということ。
私も小泉総理は一年目までは、これは自民党を変えてくれる人物だと思って期待していましたが、結局のところ、それは期待のしすぎであることがわかってしまいました。
そんななか、はやくこいつやめねーかなと国会中継などを見ているときに、「国民は自民党を支持してるんだ」などと彼がのたまわると、激しい違和感を感じずにはいられなくなってしまいます。お前投票率知ってるのか?なんて突っ込みは一切通用しません。
投票に行かないこと、つまり自民党を支持し、かつ、いまの政治体制も容認するということになってしまうのだ。
私は、別に民主党が政権をになうだけの党であるとは思っていない。しかしながら、年金法案は、政府与党案に比べればはるかにましである。
なによりも、民主党が政権をとることにより、大きな政治・政党再編のうねりを期待しているのだ。
自民党は、自らが選挙に勝てる自身から、大きな間違いをいくつも犯している。
自分達の立場がもう、全然安定じゃないということを知るべきなのだ。
だから、私は、一度民主党が政権をとるまでは、民主党に投票してみようと思っている。もし、それでもこの国の政治というものが変化しないなら、いよいよこの国からの脱出ということを真剣に考えなければいけないところである。
もし、特に党にこだわりがなく、今の政治体制に不満を感じているならば、民主党に票を投じてみても、そんなに悪くはないと、私は思うのだが、いかがなものでしょう。