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2004/08/02のBlog
[ 15:38 ]
[ 哲学・思想 ]
今月は、仕事のことについて書いていこうかなと思ったが、「ささやかな質問6」の皆様のレスを読んで感じたことがあったので、ちょっとまとめてみたい。
私のことを書けば、国語は高校生までは「普通」でした。5段階の3です。
一応漢字検定も持ってます。
しかし、授業でやるような作文は全然苦手でしたし、かつあまり好きでもありませんでした。読書感想文なんて、あらすじのパレードです。
全体的に「国語」の授業は嫌いでした。なぜか知らないけれども、国語の教師はたちの悪いのが多い、ような気がします。あくまで偏見です。良い先生もおられます(フォロー汗)
あるいは国語の教師というスタイルが、その教師をいろいろ悪い感じにしているのかもしれません。
たとえば、数学ならば、問題が出てそれを論理的にといていって、正解なら正解、間違いなら間違いというのははっきりしています。
教師が間違っていたらそれを指摘することもできますし、教師もそれを受け入れるでしょう。(高校の数学の教師はよく、式の展開を間違えていた)
これと同じことが国語にもできるか。もちろん漢字だとか、単語の意味だとかはもちろんできるでしょう。しかし文章の読解においては「唯一の正解」なんてありません。
論理的な構成でできている文章ならばともかく、小説なんて人の受け取り方しだいです。
というか、私の中でよい文章というのは、7~8割作者の言いたいことがあって、残りの部分は読者が補うことのできる文章です。小説というのは映像喚起力があるほうが魅力的だと私は思います。
だから、テキストを読んで、『この時の明子の気持ちは?』なんて聞かれても、はぁ?という感じです。ひねくれものの私は、答えを押し付けられると、どんどん反発しちゃいます。ツーわけで国語の教師でよい思い出を持てる人は一人しかいませんでした。
割合で言うとかなり少ないですね。
しかし、授業での国語があまり好きでなくても、「国語」というのは大変好きです。
本もかなり読むほうです。
こうやって文章を書くのも好きですし、虚構を創造するのも大好きです。
私が読書の虫への道を歩みだしたのは、国語の授業の影響ではなく、友人が「おもしろそう」な本を読んでいたからです。
国語の授業のテキストを読んで、「国語」にはまることもあるでしょうし、あるいは全然興味がもてないかもしれない。その辺は千差万別、個人差です。
結局のところ、よく言われていることですが、日本の教育制度はあまりに画一的過ぎるし、教師の質もあまりよくない。ということが私が痛烈に感じたことです。
本格的に英語を勉強するまでは、日本語の良さということについては全然意識しませんでした。そういうのを行うのが国語の教師の役目なんではないでしょうか?違うのかもしれません。有名な塾などに言ったことがないので、その現場でどのような「国語の授業」が行われているのかしれませんが、おそらくそういうところでも日本語への興味の発達ということは行われていないでしょう。まあそれはそれでOKなんですが、小中学校で、そういった日本語の魅力について教えられたほうが、子供は幸せなんではないでしょうか?
私は(元)理系の人間がゆえ、やや国語に肩入れしすぎているのかもしれません。
しかし、もうちょっと何とかなるだろうという気はします。確かに。
私のことを書けば、国語は高校生までは「普通」でした。5段階の3です。
一応漢字検定も持ってます。
しかし、授業でやるような作文は全然苦手でしたし、かつあまり好きでもありませんでした。読書感想文なんて、あらすじのパレードです。
全体的に「国語」の授業は嫌いでした。なぜか知らないけれども、国語の教師はたちの悪いのが多い、ような気がします。あくまで偏見です。良い先生もおられます(フォロー汗)
あるいは国語の教師というスタイルが、その教師をいろいろ悪い感じにしているのかもしれません。
たとえば、数学ならば、問題が出てそれを論理的にといていって、正解なら正解、間違いなら間違いというのははっきりしています。
教師が間違っていたらそれを指摘することもできますし、教師もそれを受け入れるでしょう。(高校の数学の教師はよく、式の展開を間違えていた)
これと同じことが国語にもできるか。もちろん漢字だとか、単語の意味だとかはもちろんできるでしょう。しかし文章の読解においては「唯一の正解」なんてありません。
論理的な構成でできている文章ならばともかく、小説なんて人の受け取り方しだいです。
というか、私の中でよい文章というのは、7~8割作者の言いたいことがあって、残りの部分は読者が補うことのできる文章です。小説というのは映像喚起力があるほうが魅力的だと私は思います。
だから、テキストを読んで、『この時の明子の気持ちは?』なんて聞かれても、はぁ?という感じです。ひねくれものの私は、答えを押し付けられると、どんどん反発しちゃいます。ツーわけで国語の教師でよい思い出を持てる人は一人しかいませんでした。
割合で言うとかなり少ないですね。
しかし、授業での国語があまり好きでなくても、「国語」というのは大変好きです。
本もかなり読むほうです。
こうやって文章を書くのも好きですし、虚構を創造するのも大好きです。
私が読書の虫への道を歩みだしたのは、国語の授業の影響ではなく、友人が「おもしろそう」な本を読んでいたからです。
国語の授業のテキストを読んで、「国語」にはまることもあるでしょうし、あるいは全然興味がもてないかもしれない。その辺は千差万別、個人差です。
結局のところ、よく言われていることですが、日本の教育制度はあまりに画一的過ぎるし、教師の質もあまりよくない。ということが私が痛烈に感じたことです。
本格的に英語を勉強するまでは、日本語の良さということについては全然意識しませんでした。そういうのを行うのが国語の教師の役目なんではないでしょうか?違うのかもしれません。有名な塾などに言ったことがないので、その現場でどのような「国語の授業」が行われているのかしれませんが、おそらくそういうところでも日本語への興味の発達ということは行われていないでしょう。まあそれはそれでOKなんですが、小中学校で、そういった日本語の魅力について教えられたほうが、子供は幸せなんではないでしょうか?
私は(元)理系の人間がゆえ、やや国語に肩入れしすぎているのかもしれません。
しかし、もうちょっと何とかなるだろうという気はします。確かに。
2004/08/01のBlog
[ 23:12 ]
ようこそ、いらっしゃいまし。
ブログの内容とはあんまりカンケーないコメントはこちらにどうぞ。
(勝手に八月後半戦に突入しました。右の画像もチェンジしました。)
「ささやかな質問」シリーズは2週間に一度Upされる予定です。
ささやかな質問1 「自分と他人」
ささやかな質問2 「仕事の理由」
ささやかな質問3 「戦争は必要悪?」
ささやかな質問4 「優しさの反対」
ささやかな質問5 「小泉総理って、どう?」
ささやかな質問6 「国語の成績」
ささやかな質問7 「仕事の選択」
ささやかな質問8 「幸福と良い国」NEW
ささやかな質問(番外編) 「Do you know Majon?」
ささやかな質問(番外編2)「What years old do you get married?」
~今月のTOPICS~
●序盤「仕事・遊び」
●後半「BLOG」
「BLOGといふものを考える会」発足中
今月は、イロイロと忙しいので毎日の更新はできないかもしれません。
ブログの内容とはあんまりカンケーないコメントはこちらにどうぞ。
(勝手に八月後半戦に突入しました。右の画像もチェンジしました。)
「ささやかな質問」シリーズは2週間に一度Upされる予定です。
ささやかな質問1 「自分と他人」
ささやかな質問2 「仕事の理由」
ささやかな質問3 「戦争は必要悪?」
ささやかな質問4 「優しさの反対」
ささやかな質問5 「小泉総理って、どう?」
ささやかな質問6 「国語の成績」
ささやかな質問7 「仕事の選択」
ささやかな質問8 「幸福と良い国」NEW
ささやかな質問(番外編) 「Do you know Majon?」
ささやかな質問(番外編2)「What years old do you get married?」
~今月のTOPICS~
●序盤「仕事・遊び」
●後半「BLOG」
「BLOGといふものを考える会」発足中
今月は、イロイロと忙しいので毎日の更新はできないかもしれません。
[ 17:00 ]
日本ではやりだしてからまだそんなに時間がたっていないBLOGですが、公開者の数はどんどんと増えてきています。
さまざまな人がいて、さまざまなブログを公開しているのが面白さの一つでもあるわけですが、あんまり定まった暗黙のルールが成熟しないまま、どんどんと人が増えてきているので時には困ったことや、いろいろな問題もあると思います。
「私」からの視点でそのような困ったことや(軽い)ルールが欲しいような物について考えていこうという会です。
自分もこういうルールがあったほうがよい、とか、こういうの困るなぁ~とか意見をお持ちの方は、この記事にトラックバックをいただければ(力の及ぶ限り)紹介して行きたいと思います。
さまざまな人がいて、さまざまなブログを公開しているのが面白さの一つでもあるわけですが、あんまり定まった暗黙のルールが成熟しないまま、どんどんと人が増えてきているので時には困ったことや、いろいろな問題もあると思います。
「私」からの視点でそのような困ったことや(軽い)ルールが欲しいような物について考えていこうという会です。
自分もこういうルールがあったほうがよい、とか、こういうの困るなぁ~とか意見をお持ちの方は、この記事にトラックバックをいただければ(力の及ぶ限り)紹介して行きたいと思います。
2004/07/31のBlog
[ 13:00 ]
[ ささやかな質問 ]
[ 12:42 ]
[ ささやかな質問 ]
ささやかな質問でございます。よろしかったら、お答えください。
自分のブログをお持ちの方への質問です。
「学生時代、国語の成績は良かったですか?悪かったですか?
作文は得意でしたか?苦手でしたか?」
自分のブログをお持ちの方への質問です。
「学生時代、国語の成績は良かったですか?悪かったですか?
作文は得意でしたか?苦手でしたか?」
2004/07/29のBlog
[ 15:58 ]
[ 哲学・思想 ]
[関連したBlog]
showさんの指摘のように、現在改革が進まないのは、本当にそれを必要としている人々が無関心に近い状態で、逆に力を持つ人間は自分の所有する利益(既得権益)を手放そうとしないから、という二重の構造を持っていることが原因でしょう。
まあ私は裕福な知識層なんてとてもいえませんが、海外で生活していけるような自身はあります。すくなくとも英語圏内なら。
でも、この国がどうなっても良いとはとても考えられません。
良くも悪くも、あるいはどこまでっても、私達は「日本人」であることか逃れることはできない、と思います。
既得権益を有する人間がそれを守るという心理はある意味仕方がないことかもしれません。そういう人間は大抵高齢だし、50年先の日本のことなんて心配しなくても大丈夫ですから。
しかし、本当の意味で改革を必要とする人々が、動き出さないということは、どこからしらおかしい感じがする。
貧困にあえぐ国では、本当によくストライキやテロが起こる。
それらの是非はおいておくとしても、きちんと自分の意見を発しているし、「明日の自分」の姿というものが見えにくくなる中で、想像力がきちんと働いているのだろう。
しかしながら、この日本ではそのような想像力が上手く働かないような気がする。
たとえば、昨日と同じような日々がこの先もずっと続いていくような、不思議な感覚を受けることがある。
どのような事件が起こっても、それがメディアで流されるたびに少しずつ過去のものになってゆく。これはもう情報操作の一種ではないだろうか、という気さえしてくる。
フィクションやノンフィクションを含めて、薄い情報がたくさん溢れている空気の中にいると、だんだんと想像力が衰退してくるのではないだろうか。自分の頭で考えなくても、誰かが「結論」を出してくれる。それで世の中が回っているならそれでいいじゃないか、ということで悪循環が始まる。その循環の中にいる人間には、どうなっているのかまったくわからない。
単純に世の中を見てみよう。裕福な家庭では、子供を塾にやり有名私立にやり、学力と学歴をつけさえ、ある程度就職上有利な立場に立たせることができる。
もちろん、あまり裕福でない家庭の子供と比べても、生涯賃金はかわってくるだろう。
(多くの例外は存在する)
そうすると、その子供にも同じようなことが繰り返されてゆく。
これは、つい最近始まったことではない。
ある程度昔から続けられていた事なのだ。官僚の息子は官僚や政治家になりやすいし、医者の息子も医者になりやすい。
これは、階級の再生産と呼んでも差し支えないだろう。
ただ、今までは、どの層の人間でもある程度の生活レベルを維持することができた。
それほど日本という国に力があったのだ。
いまは、そうではなくなっている。上と下がはっきりと認識される。
下から見れば、上のほうはとんでもなく良い生活をしているように見える。実際そうなのであろう。
これが、想像力の不足だけで起こったことではない。が、ある程度高度経済成長が終わった時点で、このような社会が到来することを予測できない人間が、この国を動かしていたことは確かである。また、そんな人間を政治の世界に送り出していた国民もいた。
とりあえず、この国で生活する限り、そのような人々のツケを払い続けなければいけない、というのは決して悲観的な見方ではない。もう動かしがたい事実なのだ。
そういう状況だからこそ、想像力を発揮しなければならない。
今の自分達が行動を起こさなければ、自分の子供達に、もっと厳しい社会を与えなければいけないのだ。
一番つらいのは、このままずるずると現状を維持しながら日本が衰退していくことだ。
世界不況のような、ショックな出来事が起こればいやでも国民は動き出すだろう。
しかし、少しずつ少しずつ蝕まれていくその現状に気付くことができるだろうか。
たとえば、知らない間にだんだんと外資系が日本の中に進出してきて、よくよく見えれば、外国人の社長を儲けさせるために、日本人が低賃金で働かされているような状況が起こることもありえる。ほとんど植民地だ、そんなのは。
そのような時には、もう立ち上がるような気力すら残っていないかもしれない。
人間というものは良心を持ち合わせているかもしれない。が
経済はかなり残酷である。経済的合理性だけで、大抵のことが進んでいく。
日本人気質というものは、あまりそういう場面には通用しない。
今から10年後の自分を想像してみる。
今から10年後の日本を想像してみる。
どちらが希望をもてる存在か。自分はどういう行動がとれるか。
問題は山済みだが、絶望に陥らないですむ間はまだ何とかなる、と私は思う。
showさんの指摘のように、現在改革が進まないのは、本当にそれを必要としている人々が無関心に近い状態で、逆に力を持つ人間は自分の所有する利益(既得権益)を手放そうとしないから、という二重の構造を持っていることが原因でしょう。
まあ私は裕福な知識層なんてとてもいえませんが、海外で生活していけるような自身はあります。すくなくとも英語圏内なら。
でも、この国がどうなっても良いとはとても考えられません。
良くも悪くも、あるいはどこまでっても、私達は「日本人」であることか逃れることはできない、と思います。
既得権益を有する人間がそれを守るという心理はある意味仕方がないことかもしれません。そういう人間は大抵高齢だし、50年先の日本のことなんて心配しなくても大丈夫ですから。
しかし、本当の意味で改革を必要とする人々が、動き出さないということは、どこからしらおかしい感じがする。
貧困にあえぐ国では、本当によくストライキやテロが起こる。
それらの是非はおいておくとしても、きちんと自分の意見を発しているし、「明日の自分」の姿というものが見えにくくなる中で、想像力がきちんと働いているのだろう。
しかしながら、この日本ではそのような想像力が上手く働かないような気がする。
たとえば、昨日と同じような日々がこの先もずっと続いていくような、不思議な感覚を受けることがある。
どのような事件が起こっても、それがメディアで流されるたびに少しずつ過去のものになってゆく。これはもう情報操作の一種ではないだろうか、という気さえしてくる。
フィクションやノンフィクションを含めて、薄い情報がたくさん溢れている空気の中にいると、だんだんと想像力が衰退してくるのではないだろうか。自分の頭で考えなくても、誰かが「結論」を出してくれる。それで世の中が回っているならそれでいいじゃないか、ということで悪循環が始まる。その循環の中にいる人間には、どうなっているのかまったくわからない。
単純に世の中を見てみよう。裕福な家庭では、子供を塾にやり有名私立にやり、学力と学歴をつけさえ、ある程度就職上有利な立場に立たせることができる。
もちろん、あまり裕福でない家庭の子供と比べても、生涯賃金はかわってくるだろう。
(多くの例外は存在する)
そうすると、その子供にも同じようなことが繰り返されてゆく。
これは、つい最近始まったことではない。
ある程度昔から続けられていた事なのだ。官僚の息子は官僚や政治家になりやすいし、医者の息子も医者になりやすい。
これは、階級の再生産と呼んでも差し支えないだろう。
ただ、今までは、どの層の人間でもある程度の生活レベルを維持することができた。
それほど日本という国に力があったのだ。
いまは、そうではなくなっている。上と下がはっきりと認識される。
下から見れば、上のほうはとんでもなく良い生活をしているように見える。実際そうなのであろう。
これが、想像力の不足だけで起こったことではない。が、ある程度高度経済成長が終わった時点で、このような社会が到来することを予測できない人間が、この国を動かしていたことは確かである。また、そんな人間を政治の世界に送り出していた国民もいた。
とりあえず、この国で生活する限り、そのような人々のツケを払い続けなければいけない、というのは決して悲観的な見方ではない。もう動かしがたい事実なのだ。
そういう状況だからこそ、想像力を発揮しなければならない。
今の自分達が行動を起こさなければ、自分の子供達に、もっと厳しい社会を与えなければいけないのだ。
一番つらいのは、このままずるずると現状を維持しながら日本が衰退していくことだ。
世界不況のような、ショックな出来事が起こればいやでも国民は動き出すだろう。
しかし、少しずつ少しずつ蝕まれていくその現状に気付くことができるだろうか。
たとえば、知らない間にだんだんと外資系が日本の中に進出してきて、よくよく見えれば、外国人の社長を儲けさせるために、日本人が低賃金で働かされているような状況が起こることもありえる。ほとんど植民地だ、そんなのは。
そのような時には、もう立ち上がるような気力すら残っていないかもしれない。
人間というものは良心を持ち合わせているかもしれない。が
経済はかなり残酷である。経済的合理性だけで、大抵のことが進んでいく。
日本人気質というものは、あまりそういう場面には通用しない。
今から10年後の自分を想像してみる。
今から10年後の日本を想像してみる。
どちらが希望をもてる存在か。自分はどういう行動がとれるか。
問題は山済みだが、絶望に陥らないですむ間はまだ何とかなる、と私は思う。
2004/07/27のBlog
[ 08:07 ]
[ 政治・社会 ]
いろいろ書く内容を考えていたのだが、結局のところ、タイトルの通りではないかと思う。
小さな規模の改革から国家の本質的な改革まで、共通して言える事は「人」を変えなければ変化は訪れないということだ。
社会を見渡してみて改めて気がつくことだが、ありとあらゆる物事に人間がかかわっている。
情報を発信する人間、それを受け取る人間、機器をコントロールする人間、物や人を運ぶ人間、、物を販売する人間、教育を行う人間、犯罪を取り締まる人間、犯罪を行う人間・・・。
職業という名前でくくれるものもあれば、そうでないものもある。しかしこの社会が人間を基礎にして存在しているということは確かだ。そしてこの状況は今後、技術的な進歩が見られたとしても変わらないであろう。
システムの改革とは、たとえば法律を変えることだ。法律を変えるためには、官僚と政治家を動かさなければいけない。憲法にいたっては、国民の大きな動きも必要になってくる。
改革というものは、今まで動いていたシステムを別の軌道に乗せるということだ、そのシステムの中にいた人間の賛同を得るということは相当の力が要る。
時に、権力、時に暴力、時に、金を使うときもあるだろう。
もし、それらを行使せずに改革を行おうとすれば、初期の段階での人間が持つ価値観というものを変えていかなければいけないと私は思う。
それが知識の伝達というもの以外の教育の一つの目的ではないだろうか。
あなたが現状のシステムに不満を感じていたとする。あなたは積極的にそれを変えるように行動することもできる。あるいは、あなたが持つ不満をそしてそれを解決するための方法を誰かに伝えることもできる。
ある職人がいるとする。
彼は、非常に卓越した技術を持って物を作り出す。
彼が弟子を取ったとき、彼がその弟子に何を伝えるか?もちろん技術だ。
そして、単純な言葉では説明できないような、こだわりなんかも同時に伝えられていくのではないだろうか。
教育。教え、育てること。
そういったことをごちゃごちゃ考えてみると、やはり子供達を育てるということを、もっと真剣に見つめ直さなければいけないのではないだろうか。
良いも悪いもなく、一部の大人、子供は、この社会を生きていかなければいけない。
だが、その次の世代、次の次の世代の事を考えるならば、早急に教育の改革というものを実行しなければいけない。
これをこう変えたから、すぐに良くなりました、なんていう方法は存在しないし、仮にあったとしたらかなり「怪しい」。単純に嘘偽りの方法か、あるいは科学が立ち入ってはいけない領域まで立ち入ってしまった、という方法かもしれない。
教育は時間がかかる。それは教えられるのが子供であるということではなく、知識を伝達するだけではないということがそのおもな理由である。
単純に知識を与えるだけならば、教師に人間を使う必要はないし、また脳科学(医学を含めて)が発達すれば、記憶力を上げるという事も可能かもしれない。
が、それで目的が達成できるか、というとやはりできないと思う。
「正しい教育」について語るのは難しい。が、少なくとも現状行われているのが「正しい教育方法」でないことは確かだ。
「正しい教育」というのは理念に裏打ちされるものなので、また別の機会に考えたいが、とりあえず、教育方法についてだけ考えてみたい。
現状の何が問題かというと、少しずつ「改革」は行われているようだが、結局のところ昔からの教育制度を引っ張ってきているところだと思う。
実は教師の問題を含めて、まったく新たな制度を作り出さないことにはどうしようもないところまで来ていると思う。
しかし、ビルの奥のほうで大きい椅子に座っている人たちにはそれが見えていないのかもしれない。あるいはただ変えるのが面倒なだけなのかもしれない。
ということで、結局小手先の「改革」しか行われていない。
そのツケは教師に回り、教師の手に余る部分は、生徒に回る。
まず、第一義に議論されなければいけないことは、日本の学校教育はどのような方向性をとるべきかということだ。
戦後復興後のように、全国民にある一定基準までの知識を与えることを目指すのか、それとも個人差を踏まえてそれぞれの知識水準を目指すのか、ということである。
今までは前者の方法でやってきてある程度うまくいっていた。が、現状でいろいろな問題が持ち上がっているので、変えていきましょうということになっている。
どうかえるのか?が政府からはイマイチ伝わってこない。
もし、後者のような方式を取るならば、よく言われる貧富の差というのはどんどん広がっていくだろう、しかしその反面個人の満足感というものは深まっていくのではないかと思う。
じゃあ、そのどちらを選ぶのか、というようなコンセンサスがまったく内容に思える。
というか、そういうことはとりあえずおいといて、見たいな感じを受けてしまう。
それは結局のところ改革と呼べるものにはならない。
私が理想とする社会は、やはり大人が個人の選択で行動することが当たり前の社会だ。しかもその個人は、個人的利益だけでなく、社会的、国家的利益を考えて行動を選択する人間だ。
そのような人間が圧倒多数になれば、今は機能していない民主主義も新しい動きをみせるだろう。そこから何かが変わっていくような希望が持てる。
では、現状は。
ということは、あまり書きたくないのでやめておく。
同世代の友人に「なんか面白いことないの?最近」と聞かれると、ぞっとしてくる。
他人にそんなことを聞かなければいけない人生は楽しいのだろうか、ていうか楽しくないから聞いてるんだろうけどね・・・。
小さな規模の改革から国家の本質的な改革まで、共通して言える事は「人」を変えなければ変化は訪れないということだ。
社会を見渡してみて改めて気がつくことだが、ありとあらゆる物事に人間がかかわっている。
情報を発信する人間、それを受け取る人間、機器をコントロールする人間、物や人を運ぶ人間、、物を販売する人間、教育を行う人間、犯罪を取り締まる人間、犯罪を行う人間・・・。
職業という名前でくくれるものもあれば、そうでないものもある。しかしこの社会が人間を基礎にして存在しているということは確かだ。そしてこの状況は今後、技術的な進歩が見られたとしても変わらないであろう。
システムの改革とは、たとえば法律を変えることだ。法律を変えるためには、官僚と政治家を動かさなければいけない。憲法にいたっては、国民の大きな動きも必要になってくる。
改革というものは、今まで動いていたシステムを別の軌道に乗せるということだ、そのシステムの中にいた人間の賛同を得るということは相当の力が要る。
時に、権力、時に暴力、時に、金を使うときもあるだろう。
もし、それらを行使せずに改革を行おうとすれば、初期の段階での人間が持つ価値観というものを変えていかなければいけないと私は思う。
それが知識の伝達というもの以外の教育の一つの目的ではないだろうか。
あなたが現状のシステムに不満を感じていたとする。あなたは積極的にそれを変えるように行動することもできる。あるいは、あなたが持つ不満をそしてそれを解決するための方法を誰かに伝えることもできる。
ある職人がいるとする。
彼は、非常に卓越した技術を持って物を作り出す。
彼が弟子を取ったとき、彼がその弟子に何を伝えるか?もちろん技術だ。
そして、単純な言葉では説明できないような、こだわりなんかも同時に伝えられていくのではないだろうか。
教育。教え、育てること。
そういったことをごちゃごちゃ考えてみると、やはり子供達を育てるということを、もっと真剣に見つめ直さなければいけないのではないだろうか。
良いも悪いもなく、一部の大人、子供は、この社会を生きていかなければいけない。
だが、その次の世代、次の次の世代の事を考えるならば、早急に教育の改革というものを実行しなければいけない。
これをこう変えたから、すぐに良くなりました、なんていう方法は存在しないし、仮にあったとしたらかなり「怪しい」。単純に嘘偽りの方法か、あるいは科学が立ち入ってはいけない領域まで立ち入ってしまった、という方法かもしれない。
教育は時間がかかる。それは教えられるのが子供であるということではなく、知識を伝達するだけではないということがそのおもな理由である。
単純に知識を与えるだけならば、教師に人間を使う必要はないし、また脳科学(医学を含めて)が発達すれば、記憶力を上げるという事も可能かもしれない。
が、それで目的が達成できるか、というとやはりできないと思う。
「正しい教育」について語るのは難しい。が、少なくとも現状行われているのが「正しい教育方法」でないことは確かだ。
「正しい教育」というのは理念に裏打ちされるものなので、また別の機会に考えたいが、とりあえず、教育方法についてだけ考えてみたい。
現状の何が問題かというと、少しずつ「改革」は行われているようだが、結局のところ昔からの教育制度を引っ張ってきているところだと思う。
実は教師の問題を含めて、まったく新たな制度を作り出さないことにはどうしようもないところまで来ていると思う。
しかし、ビルの奥のほうで大きい椅子に座っている人たちにはそれが見えていないのかもしれない。あるいはただ変えるのが面倒なだけなのかもしれない。
ということで、結局小手先の「改革」しか行われていない。
そのツケは教師に回り、教師の手に余る部分は、生徒に回る。
まず、第一義に議論されなければいけないことは、日本の学校教育はどのような方向性をとるべきかということだ。
戦後復興後のように、全国民にある一定基準までの知識を与えることを目指すのか、それとも個人差を踏まえてそれぞれの知識水準を目指すのか、ということである。
今までは前者の方法でやってきてある程度うまくいっていた。が、現状でいろいろな問題が持ち上がっているので、変えていきましょうということになっている。
どうかえるのか?が政府からはイマイチ伝わってこない。
もし、後者のような方式を取るならば、よく言われる貧富の差というのはどんどん広がっていくだろう、しかしその反面個人の満足感というものは深まっていくのではないかと思う。
じゃあ、そのどちらを選ぶのか、というようなコンセンサスがまったく内容に思える。
というか、そういうことはとりあえずおいといて、見たいな感じを受けてしまう。
それは結局のところ改革と呼べるものにはならない。
私が理想とする社会は、やはり大人が個人の選択で行動することが当たり前の社会だ。しかもその個人は、個人的利益だけでなく、社会的、国家的利益を考えて行動を選択する人間だ。
そのような人間が圧倒多数になれば、今は機能していない民主主義も新しい動きをみせるだろう。そこから何かが変わっていくような希望が持てる。
では、現状は。
ということは、あまり書きたくないのでやめておく。
同世代の友人に「なんか面白いことないの?最近」と聞かれると、ぞっとしてくる。
他人にそんなことを聞かなければいけない人生は楽しいのだろうか、ていうか楽しくないから聞いてるんだろうけどね・・・。
2004/07/25のBlog
[ 13:38 ]
[ 政治・社会 ]
[関連したBlog]
教えてプロフィールの質問に「もし3億円を手に入れたら何に使いますか?
」というのがあった。もし、本当に3億円を手にした時に、この記事と同じようにぽんっと困っている人に手渡すことができるだろうか?
純粋にその行為だけみても、私は「かっこいいな~」と思った。
かっこいいというのが憧れの感情である。自分でもそれをやってみたいと思う気持ちが私にもあるということだ。
そいういう気持ちは、誰も少しは持っているじゃないかな、と思う。
実際に2億というお金を渡したことも凄いが、それよりもこの人が福井や新潟で起こった災害を「現実」のものとして捉えられたことが凄いと思う。
人は、ニュースなどを見て、あぁかわいそうだな~と思うことはできる。それは簡単なことだ。しかし、現実の事柄として受け取るというのはなかなか難しい。
TVなどの映像で紹介された瞬間に、ある種現実から切り離されてしまう。
日本のメディアのあり方は、どうしてもそういうスタイルが多い。
天秤があったとする。
右にはあなたが二億円を手にして得られるものがのっている。
左にはその二億円を送ることによって救われる人々がのっている。
こういった状況では天秤はやはり左に傾くのではないか。すくなくとも現在ものすごく丘に困っていない人ならば、左に傾く人は多いと思う。
しかし、大半の人々はその左側には何も乗っていない。世界中で起こっている不幸な出来事や、同じ日本国内の出来事も、所詮は「他人事」である。
実際に2億というお金を手にした時にどういう行動に出るかは、その個人の自由である。だが、大抵は天秤は右側しか物は乗っていない。その右側の天秤の上にはまた別の小さな天秤が乗っていて、それがいろいろ動くことはあるだろう。
そういうことが人間としてダメだと強く言い切ることはできない。
2億円なら自己犠牲で、1000円なら自己満足(あるいは偽善)というような考えもあるかもしれない。しかし、それは間違っていると思う。
金額の大小ではなく、自分の現実の延長線上にいろいろな物事を考えることができるかどうか、ということが重要なのだと思う。
しかし、確かに広い視野を持った人間も存在するし、そのような人間の行動は、なんというかかっこいいように思える。すくなくとも私には。
なんだか、まとまらなかった。
教えてプロフィールの質問に「もし3億円を手に入れたら何に使いますか?
」というのがあった。もし、本当に3億円を手にした時に、この記事と同じようにぽんっと困っている人に手渡すことができるだろうか?
純粋にその行為だけみても、私は「かっこいいな~」と思った。
かっこいいというのが憧れの感情である。自分でもそれをやってみたいと思う気持ちが私にもあるということだ。
そいういう気持ちは、誰も少しは持っているじゃないかな、と思う。
実際に2億というお金を渡したことも凄いが、それよりもこの人が福井や新潟で起こった災害を「現実」のものとして捉えられたことが凄いと思う。
人は、ニュースなどを見て、あぁかわいそうだな~と思うことはできる。それは簡単なことだ。しかし、現実の事柄として受け取るというのはなかなか難しい。
TVなどの映像で紹介された瞬間に、ある種現実から切り離されてしまう。
日本のメディアのあり方は、どうしてもそういうスタイルが多い。
天秤があったとする。
右にはあなたが二億円を手にして得られるものがのっている。
左にはその二億円を送ることによって救われる人々がのっている。
こういった状況では天秤はやはり左に傾くのではないか。すくなくとも現在ものすごく丘に困っていない人ならば、左に傾く人は多いと思う。
しかし、大半の人々はその左側には何も乗っていない。世界中で起こっている不幸な出来事や、同じ日本国内の出来事も、所詮は「他人事」である。
実際に2億というお金を手にした時にどういう行動に出るかは、その個人の自由である。だが、大抵は天秤は右側しか物は乗っていない。その右側の天秤の上にはまた別の小さな天秤が乗っていて、それがいろいろ動くことはあるだろう。
そういうことが人間としてダメだと強く言い切ることはできない。
2億円なら自己犠牲で、1000円なら自己満足(あるいは偽善)というような考えもあるかもしれない。しかし、それは間違っていると思う。
金額の大小ではなく、自分の現実の延長線上にいろいろな物事を考えることができるかどうか、ということが重要なのだと思う。
しかし、確かに広い視野を持った人間も存在するし、そのような人間の行動は、なんというかかっこいいように思える。すくなくとも私には。
なんだか、まとまらなかった。